六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

名もなく消されてゆくものたちに「名前をつける」

2016-02-27 11:49:08 | 映画評論
 「犬に名前をつける日」といういささか変わったタイトルは、無数の名もない犬、無数の名もない猫を生み出す人間たちと、そこから犬や猫を救い上げ、名を与えようとする人たちのある種バトルともいえる物語である。

       
 
 名もない犬や猫を生み出す人たちとは、犬や猫を捨てる人たちである。彼らは一旦は犬猫を飼おうとするのだが、結局はそれを捨てる。捨てられた犬猫は「動物保護センター」に捕獲保管され、一定日数を越えたものは薬殺処分にされる。
 その数、年間およそ12万匹。

           

 そればかりではない。フクイチの原発事故で生み出された20キロ範囲内でのペットや飼育動物(牛、馬、山羊などなど)約50万頭の殺害が国家によって決定された(2011年5月)。

 さらには、ブリーダーと呼ばれるペットの繁殖業者たちによる無節操な「商品」としての繁殖が拍車をかける。それらが利益を生まないとなるとあっさりと撤退し、何十、何百のそれらを放棄し、餓死させたりする悪徳業者の利益追求のみによる犬猫の生産方式がそれである。
 山中での集団での犬の死体発見というミステリーはこうして生まれる。
 売れ筋の「商品」を生み出すため、近親相姦の繰り返しで、メスの子宮はずたずたにされ、そして放置される。

 これにより、名前のない犬猫が溢れ、そして「保護」の名でセンターに保管され薬殺される。ナチスのユダヤ人収容所のペット版である。

           

 そこから動物たちを救い上げ、再び名のあるものにしようと闘う人たちがいる。
 彼や彼女たちの活動(女性のほうが多い!)は感動的である。
 地方自治体の「動物保護センター」に出かけ、薬殺処分寸前のペットに待ったをかけ、自分たちで引き取り、新たな里親を探したりする。
 しかし、それだけでは動物たちを救いきれない。
 広島市の中年カップルは、「動物保護センター」に持ち込まれたすべての犬猫を自分たちで建てた保護地域に引き取る。その数は千に近くなる。おかげで、2014年の広島市の薬殺処分数は0になったという。

           

 その活動を全国のNPOや有志たちがカンパや餌の提供、自分たちの労力の提供で支える。
 彼らは、フクイチ20キロ圏内で飢えかかっているペットをも救出する。
 それらを収容する保護施設を栃木県内に設置する。
 そこで収容し、元の飼い主がわかっている仮設住宅ぐらしの人々(ほとんどが老人でペットの飼育が禁止されたいる)に対し、月一回の面会で仮設を訪問する。放置されてから何年も経つのに、元の飼い主を覚えていて甘える犬にはこちらの涙腺も緩む。

 映画はこうした情景を、飼い犬に死なれてペットロスに陥った小林聡美が扮するTVディレクターの取材内容として写しだしてゆく。その取材内容そのものが上に述べた内容である。
 したがって映画の80%はドキュメンタリーで、残りの部分がフィクションといえる。その境界は極めて曖昧で、それがこの映画をリアルなものにしている。

           

 観ていると、小林聡美自身が監督のように思えてくるが、監督・脚本は別にいて、山田あかねさんという女性である。
 ドキュメンタリー8、ドラマ2というこうした映画の作り方に賛否はあるようだが、事態の感傷的な部分をドラマとして表現し、現実を真っ直ぐ見つめる部分をドキュメンタリーとしたこの映画は、やはり成功していると思う。
 ドラマと現実の境界にいる小林聡美のその存在感が、総じてこの映画のリアリティを保証しているように思った。

 最後に、安易にペットを求める人々と、それへの「商品」としての供給を生業とするブリーダー(増殖業者)の相互のもたれ合いによるペットブームそのものに、名のある存在であった犬猫が名もなき「モノ」として薬殺処分対象になる要因が潜んでいることをこの映画は余すことなく描き出している。
 
 いうならば、「資本主義」に踊る商品生産者のブリーダーと、それに踊らされペットを飼ったものの、「諸般の」事情によりそれを放棄する無責任な消費者の共演こそが、ここに描き出されているものなのである。
 そして、もうひとつ「大枠の資本主義」として、地域格差につけ込んで強要される原発、そこで一旦事故が起きれば生活圏を奪われて散り散りに仮設へ閉じ込められる住民たち、そして、放置され避難すらままならないため、あえなく生命が奪われる何十万の動物たち・・・その過程も見逃せない。

               
            この階段を登った先にきれいな映画館がある

 これを観たのは、名古屋今池のキノシタホールという二番館。私のように「映画は劇場で」派にとってはありがたい存在だ。封切り時に見逃したものを改めて観せてくれるからだ。
 とても綺麗な劇場で雰囲気もいい。なのに・・・、私が観た回(15:00~)の観客は、ああ、私一人だった。次の回を待っていたのも女性一人きりだったから、後で駆けつた人がいなければ連続一人のための上映だ。
 キノシタ、頑張れ!ここで上映する映画なそんなにハズレはない。映画好きなひとはキノシタをマークして、封切り時見逃したものを是非観てほしい。
 

 
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桜並木の下の通院・・・そして、三線ライブ

2016-02-25 14:03:30 | 日記
 骨折手術をしてからちょうど一ヶ月、まだ不自由はしているが、傷も次第に癒え、あとは日にち薬だろう。とはいえ、当分の通院は続くし、まだまだ無理は禁物だ。
 病院への道をもう何回通っただろう。
 
 はじめ、やっとほころび始めていた梅が、今や満開となり、木によっては終わり始めたものもある。
 代わって、桜の蕾がそれとわかるほどになってきた。この辺りの開花予想は、3月の25日ぐらいというからあと一ヶ月もすればこれらがほころぶこととなる。
 そうそう、梅の花ばかり強調してきたが、実際には川沿いの桜並木の下を通院しているのだ。

  

 医師の指示は、この間あまり使っていない左腕の筋肉などが硬化している可能性があるので、無理をしない程度に積極的に動かすようにとのこと。確かに、つい庇って恐る恐るだった動きのなかでは、筋肉も萎縮しているだろう。
 上方や前方に左腕を精一杯伸ばしてみる。何となく、メリメリメリッと筋肉がほぐれていく感がある。

 病院を出て、岐阜の中心部、柳ケ瀬に至る。
 ここで名古屋からくる若い旧友と落ちあい、最近彼がハマっているという三線のライブにゆくのだ。
 骨折直前に約束したのだが、その後の事態で一度はキャンセルも考えたものの、まあなんとかなるだろうと思っていたら、それに出るぐらいの条件は満たされることとなった。
 ただし、ライブなのに拍手ができない。右手で膝を叩いて済ますことにする。

 待たされて、おまけに携帯が通じないというアクシデントもあったが、なんとか落ち合って会場へ。会場はライブハウスではなくフレンチのレストラン。
 フレンチと三線、沖縄音楽とはその取り合わせが面白い。ここのオーナーと今日の出演者・大城節子さんとが懇意で実現したコラボだ。

           

 大城さんは名古屋や岐阜を股にかけて活躍している沖縄出身の女性で、名古屋は栄の「沖縄居酒屋 ゆいゆい」のオーナーであるかたわら、カルチャー・センターで三線を教えたり、この地区のライブハウスへ数多く出演している。

 さてライブだが、50席ほどの店内が満席。沖縄出身の人や彼女と縁があるひとが多いのだろうか、始まる前からあちこちで交歓の輪が。
 まずは「安里屋ユンタ」から。彼女の澄み切った声が店内に広がると、そこはもう南国の気配が漂う。それを皮切りに沖縄各地の歌が次々と。
 私の同行者はそれらをよく知っているようだが、私には聞いたことがあるものとはじめてのものとが代わる代わる聞こえるといった具合。

           

 でもいたって心地よい。泡盛といきたいところだが、強すぎるしここはフレンチの店。赤ワインをちびりちびりと飲みながら、沖縄独特の音階にひたるのもいいものだ。
 ライブの後半は参加者有志の琉球風衣装をまとった人たちを中心とした舞いとアンコール。これがいい。ようするに舞台の上から聴かせる音楽とはまた違った、視聴者参加型の音楽シーンだ。
 ついでながら、アンコールではじめて「オリオンビール」を聴いた。植木等のような軽いノリで、南国ムードいっぱいの歌だった。

 ライブ終了後、出口で客を送り出す彼女に、「よおっ、沖縄のマリア・カラス」と声をかけたら、はにかんだような表情で握手をしてくれた。
 岐阜駅までの帰途、同行者と沖縄の話、基地の話、辺野古の話などを論じながら歩いた。そして、機会があったら、大城さんの店「ゆいゆい」に一緒に行こうといって別れた。

 以下に、彼女の自分の店でのミニ・ライブの模様と、ちょっと改まった舞台でのライブの模様(名古屋今池TOKUZOか?)を貼り付けておく。

 https://www.youtube.com/watch?v=-M4_8MYButM

 https://www.youtube.com/watch?v=3HgIbw6JL_M
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どうでもいいような近況など

2016-02-22 14:18:05 | よしなしごと
 左腕骨折から一ヶ月、手術後退院しての療養(通院は継続)ですが、次第に諸機能を回復しつつあります。指先はすっかり大丈夫で、ボタンをはめたり、キーボードが打てるようになりました。
 ただしまだ、手術痕に引きつった感じが強く、左手全体が腫れぼったく微熱をもっています。
 きっと、T字型の金具が侵入してきたので、それと私の生来の肉体とがコミュニケーションの道を懸命に探っているのでしょう。

 まだ、自転車にも車にも乗れませんが、明日の通院日には今後の見通しももう少しはっきりするし、また、いろいろ聞き出してきたいと思います。

 先週、負傷以来はじめて名古屋へ出ました。
 同人誌の編集会議です。

 負傷以来のさまざまな制約により、行動範囲が狭められていた私は、この機会にとばかり、会議後に、おりから開かれていたピカソ展を観、余勢をかって、中国映画「最愛の子」を観ました。
 後者に関しては日記やブログに書きました。
 そして、久々の外食で、日本酒を少し飲んで、まだバスの時間に間に合ううちに帰りました。

  
     夜のプラットホーム 轟音を立てて通過する貨物列車はどこか淋しげだ

 この土日は、地域の文化祭でした。
 いろいろ習い事をしている人や、表現活動をしている人たちがその成果を発表する年一回のチャンスです。
 私は写真の部に参加しました。

  

 展示ボード手前、左上のものが私の作品です。
 これは昨年末、12月20日に行われた、豊川市愛知御津地区の奇祭「どんき」を見にいった折のもので、白狐や天狗に追いかけられ顔に紅殻を塗られた子を撮したものです。
 なお、これは、児童虐待ではなく塗られた子は無病息災で過ごせるのだそうです。
 今回出品した写真は、以下のページの最後のものです。

  http://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20151230

 なお、日曜日にはこの展示を見たのをきっかけに、合わせて4箇所での買い物をこなしました。
 不自由な左手をかばってのそれは大変でしたが、キャリーバッグが大活躍しました。
 田舎の田圃道を、分不相応なキャリーバックを引っ張って往来する老人を見かけたら、それは私です。
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『最愛の子』(原題「親愛的 Dearest」)を観る

2016-02-20 01:09:33 | 映画評論
 中国では誘拐が多いとは聞いていた。しかも日本でたまに起きる身代金目当てのえいる誘拐とは違って、子どもそのものの売買、ないしは自分の子として育てるというものだとということも知っていた。 
 しかし、それが年間20万人(人民放送が公式に認めたもので、それも控えめな数字だという)にも及ぶことは知らなかった。そして、それが社会現象になっているがゆえに、「誘拐被害者を励ます会」のような組織が、日本での「犯罪被害者の会」や航空機の大規模事故の「被害者の会」のように組織されていることは知らなかった。

              

 しかもその組織のあり方も面白い。まるで「断酒会」のように、被害者家族が各自の体験談や現在の心境を語り、相互に励まし合う。励ますための手拍子もあるし、歌もある。一般の協力を求めるための街頭活動などもともに行う。

 なぜこれほどまでに誘拐が多いのかは、中国で続いた「一人っ子政策」などの背景があるのだろうが、ここではそれについては深入りしない。

            

 舞台は深圳。離婚した夫妻の一人息子(親権は父親、今は別の男性と結婚している元妻は時々逢いに来る)が誘拐された。
 男は懸命に息子を探す。元妻もそれに協力する。前半はその執念あふれる物語だ。13億分の1を見つけるという気が遠くなるような話だ。それが、「励ます会」やネットなどあらゆる情報網を使って展開される。

 その過程には、ガセネタで金をせしめようとする奴や、力ずくで金を奪おうとするような怪しげな連中との壮絶なやりとりや闘いがある。
 そして、3年の努力が実り、ついにその子が見つかるのだ!
 3歳で誘拐された子はすでにして6歳になっていた。
 ここまでで、もうじゅうぶん壮大な話の集積でゆうに一篇の物語をなす。
 しかし、これはこの映画にとっては単に前編をなすにすぎない。

            

 後半は、誘拐されてきた子とうすうす知りながらわが子として育ててきた母親の方に焦点が移る(ヴィッキー・チャオ=趙薇が熱演)。誘拐してきた彼女の夫は一年前に他界している。

 男の子はもちろん、元の親のところへ連れ去られるのだが、彼女はさらにもう一人、幼い女の子を育てていた。しかし、この子も誘拐されてきたものとみなされ、遠い都会(深圳)の施設へ収容されてしまう。
 彼女は一挙に二人の子供を失うのだ。

            
 
 そこから彼女の闘いが始まる。
 下の女の子が「誘拐された」のではなく「捨て子」を拾ったのだということを立証し、改めて養子として引き取ろうという闘いである。まさに体を張ったこの壮絶な戦いに、大手弁護士事務所に辞表を叩きつけた人権派の若い弁護士が援助の手を差し伸べる。

 この過程は二転三転するが、私達観客がこれならと思えるような解決点が見え隠れし、そこへと着地しそうになるのだが、それがまさに意外ともいえる、しかし観客にとっては「なるほどあれが」と思われる事情によって、すべてが覆ってしまう。
 ここはまさに謎解きのクライマックスのような箇所だから敢えて書かないでおこう。しかしこの結末は、とても残酷で切なく、気が滅入るものであるかもしれない。

 しかし、私があえていうならば、彼女を絶望の淵に落としたものが、彼女にとっての新しい希望の萌芽たりうる可能性も残されてはいる。

 この映画は、中国で実際に起こった事件をなぞったものであるという。そのディティールがどこまで再現されているかは分からないが、とてもリアルな人間模様を映像として表現しえていると思う。

  
  

 私事ではあるが、私はこの種の映画には結構弱い。
 それは私自身、実父・実母から離れて、養父・養母のもとで成長しているからだ。断っておくが、別に誘拐されたわけではない。

 人類というのは、おそらく、子が自立できるまでの期間がもっとも長い生物だ。その間、子どもたちは、遺伝子を介在した本能の伝授よりも、親からの訓育、教育に依拠しながら自己形成をしてゆく。
 この過程は親→子という一方向のみならず、子→親という方向にも作用し、子が親を慕うと同時に、親が子を生きがいとする過程が生まれる。

 親子関係にはさまざまな外部の影響もあって、激しく変動しているが、家庭という単位が存続する限り、親子の葛藤と依存関係は続くだろう。
 そして、それ自身がある種の哀しさを内包しているともいえる。


 

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骨折余話 梅と中学校と搬送口

2016-02-17 16:44:04 | よしなしごと
 左腕骨折から約25日、昨日は退院以来2回目の通院日。
 病院までの1キロ余を歩く。
 風は冷たいが、陽射しには春の気配もある。
 田起こしが済んだ向こうに、大福餅のような雲が浮かんでいる。

           

 入院する際、まだ蕾だった梅がほぼ満開に咲き誇っている。
 最初、救急車で運ばれる時はもちろん見ていない(道も違う)が、入院準備を整えて通ったとき、一週間後の退院時に通ったとき、この前の通院時、そして今回と、その都度違う表情を見せてくれて、気持をなごませてくれる。

           
              

 病院のすぐ近くに、私が三年間通った中学校がある。もう、60数年前だ。
 当時は木造2階建てだった。そこでいろいろあったが、あまり覚えてはいない。
 校門近くの貸本屋で、「真田十勇士」などを読みふけった。
 社会の教師に、「真・善・美」について話を聞いたことがある。
 この三位が、カントの「三批判」に相当することを知ったのは後年だ。
 私にそれを説いた教師も数年前、90歳を越えたところで他界した。

           

 病院に着いたがまだ時間があったので裏口へまわり、私が最初、救急車で搬入された場所を改めて見る。このスロープを搬送担架車に乗せられたまま、左手のドアから担ぎ込まれたのだが、詳細な記憶はない。不安と、どうにでもなれという気持が渾然としていたように思う。

           
                
 今回で、治療は一気に進んだ。
 三角巾や包帯がとれ、添えられていたギブスもとれ、抜糸も済んだ。
 しかし、もちろん、完治ではない。
 体重をかけてはダメ、重いものを持ってはダメ、捻ったり捩じったりはダメ、もちろん、車の運転も自転車もまだダメ、それに転倒は厳禁とダメダメづくしだ。

           
               これは骨折当時 手術前

 それと、一挙に保護していたギブスがとれたのもかえって不安だ。
 まるで、主人から自由になった奴隷がかえってどうしていいかわからないような変な具合だ。
 まあ、この状況に慣れて、できることを拡大してゆくしかない。

           
                  昨日の治療後

 もちろんいい点もある。上のダメ以外のことは恐る恐るながらできるということだ。
 風呂にも負傷以来はじめて両手を入れてもよいことになった。
 それまでは片手バンザイをして入っていたのだ。

 老人の負傷は油断ならない。それがきっかけで、体全体が不自由になり、行動範囲が失われ、それが精神的にも崩壊を招きかねないからだ。
 今回の件でかなり骨身にしみたが、しばらくしたら、またポカをするんだろうな。
 でも、気をつけてゆきたい。




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【わが読書】 禁断の書?『わが闘争』読み始め

2016-02-15 02:31:46 | 書評
 今月初め、左腕骨折治療のための手術で一週間の入院を余儀なくされた。その折持ち込んだ書は2種類であった。
 そのうちの一つは、前々から少しずつ読み進んでいたドストエフスキーの『悪霊』で、岩波文庫4分冊の4冊目の後半を読み、ダラダラとした読書にピリオドを打った(それについての感想文は2月7日の日記に掲載した)。
 
 その後、やはり病院で読み始めたのが、ヒトラーの『わが闘争』(角川文庫版)であった。文庫本とはいえ、細かい活字で改行の少ない文章がびっしり、上下合わせて約1,000ページというなかなかの大著である。
 まだ読み終えたわけではない。上巻の半分、全体の4分の1ぐらいであろうか。複数の書を並行して読む私の読書法ではまだまだこの先、掛かりそうだ。
 全部読了した段階でまたなにか書くつもりだが、ここまでで書いておきたいことがある。

        

 ひとつは私のこの読み始めが極めてタイムリーであったということである。『悪霊』のあとの『わが闘争』という意味ではない。
 実はこの書、本国ドイツでは、その版権をもっていたバイエルン州とドイツ連邦共和国がその再版を許可しなかったため、事実上の禁書となっていたのであった。
 それが、ヒトラー死去70年を迎え、著作権切れのため、戦後はじめて、ドイツで出版されたのがこの1月末なのであった。したがって私は、それと足並みを揃えるようにこの書にとりかかったことになる。

 ドイツにおける再版は、遠慮がちに4,000部であったがたちまち売り切れ、ネットではその10倍位以上で取引されているという。もちろん直ちに増版が企画されている。

             

 この出版にあたっては、ドイツ系ユダヤ人を始め、少なからぬ人びとの反対があった。その影響力を恐れてのことである。
 それに対し出版社は、従来のものと違って、あからさまな虚偽や事実との相違には適切な「注」をつけてそれをただしているとする。例えば、ユダヤ人のすべてが資産家だというくだりや、ヨーロッパの宗教革命はユダヤ人の陰謀によって起こったとするような史的事実と異なる事柄についてである。
 事実、映像で見る限り、それらの「注」は本文を凌駕するほどだ。しかし、反対側は納得しない。そんな「注」などすっ飛ばして読まれるだろうと言うのだ。
 たしかに私なども、すべての「注」を参照したりはしない。

 一方ではこれを「負の遺産」として学校教育の中に取り組み、教師の「適切な」解説付きで教材化しようという動きもあるようだ。しかし、その教師がネオナチの支持者だったりしたらややこしい関係になることもあるだろう。

 時期もまた、確かに微妙である。
 中東からの難民をめぐってヨーロッパは揺れている。アメリカ共和党の大統領候補者・トランプは、イスラム教徒の排斥を訴えていて、かなりの支持を得ている。ヨーロッパ諸国でも難民排斥運動が勢いを増しつつある。

             
 
 また、トルコでの同書の発刊については、瞬く間にベストセラーになったという情報もある。これは、イスラム世界にある反イスラエルの感情が、反ユダヤ人という人種問題に転化しかねない危険性をはらんでいる。

 わが国についてもヤバイ問題を共有している。
 ヒトラーは、政党の腐敗、議会の腐敗、多数決原理が時の権力者の独裁を招いているのではないかと指摘し、民主主義を否定し、そうではない独裁を対置するに至るのだが、その意味では、この国の現状も、民主主義は寡頭制支配のシステムに堕しているのではないかという見解は十分説得力を持つ。
 私も実は、この国の「民主主義」は単に寡頭制支配の道具に堕しているのではないかと思っている。ここまではヒトラーと同じだ。

             

 だがそれを超えるには、他者の到来、民主主義から遠ざけられていた者たちの公への参加だと私が思うのに反し、ヒトラーは民主主義を投げ捨て、新たな独裁を希求する。この辺は、政治思想の機微に関し、極めて危うく、しかも困難な地点でもある。
 新たな独裁は、何がしか期待をもたせるかもしれない。しかしそれは、その独裁原理への単一的な支配への服従を強いるものであり、ここで失われるものは、端的にいって人びとの複数性・多様性である。私たち個々の単独性の喪失でもある。

 おっと、読む前から深入りしそうになってしまった。これらは読了した後に改めて述べることにしよう。
 ただし、そのころには、私自身、すっかりヒトラーの虜になって、「ハイル!」と敬礼しているかもしれない。
 さあ、私とヒトラーの真剣勝負だ。




 
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「ふるあめりか・・・・・・・・」での玉三郎

2016-02-10 16:47:19 | よしなしごと
 私用のTVの録画リストを整理し、不要なものを削除し、未見のものを観るようにしている。どういうわけか、3年ほど前に頻繁に録画し、観ていないままのものがかなりある。そのなかから、有吉佐和子作「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台公演を、坂東玉三郎主演のもので観る。
 歌舞伎の世話物仕立ての演出だが、それが時代にマッチしていてなかなかいい。
 劇そのものもだが、玉三郎がすごい。変わり身というか場面々々での適応力がすごい。まわりが呑まれてしまう求心力をもった役者さんだと今更のごとく感心する。

                
 
 ストーリーは、状況に規定されながらも、それ自身極めて私的な物語というかエピソードが、逆に時代にフィードバックされて、天下国家の物語にされてしまう話だ。
 それを、その私的な細やかな部分にも立ち会ったハマの芸者お園(玉三郎)が、後半では天下国家の話に祀り上げられたその誇大妄想的な物語の語り部として現れる。
 
 しかし、こうした状況はよくあることともいえる。
 1932年の上海事件での爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、どうやら単なる事故で、命がけの突撃ではなかったようなのだが、格好の軍国美談としてもちあげられ、映画、歌謡曲はもちろん、演劇や小唄、琵琶から都々逸にまで歌われ、ついには、1941年以降、文部省国民学校の国語と音楽の教科書に載る騒ぎとなった。

                  
 
 こうした動きは、別に幕末や戦時中に限ったものではない。例えば、各種ハラスメントや差別、公害などで具体的な被害が生じている場合など、そこで具体的に解決すべきことを「体制」のせいにして、それらを「根本から」解決するために「わが党への一票」などに還元してしまうのは、主として「左翼」に見られる姿勢でもある。これらが単に解決の棚上げであることはいうまでもない。「抑圧されたらその場で闘う」ことが原則なのだ。

 随分横道に逸れたが、この芝居は、細やかな情感に満ちた私的な物語が、大状況への関わりとして喧伝されるとき、そこで生きられた具体的な物語は疎外され、怪物的なものとして消費の対象になるという過程を余すところなく表現している。

               

 その細やかな物語の端緒をもっとも知り尽くした芸者・お園が、その遊女・亀遊の物語を「攘夷のヒロイン」として語るハメになる過程が面白いし、お園自身が語り部としてさらに脚色の度合いを強めてゆくスパイラルのような様相も面白い。
 そして、繰り返しになるが、それを一身で表現する玉三郎の演技はすごい。
 芝居の後半は、まるで一人芝居を観ているかのようであった。

 行動する作家有吉佐和子の40歳少し手前の作品であり、演劇に詳しかった著者自身による脚本である。



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梅の香に送られ、梅の香に迎えられた六文銭の入院日記

2016-02-08 01:08:52 | よしなしごと
入院初日
 入院する病院までは約1.5キロ、別に足が悪いわけではないので、必要なものをつめこんだキャリーバックをゴロゴロ引っ張って徒歩で行く。
 もう2ヶ月もしたら満開になる川沿いの桜並木を行く。
 途中、梅の群落があり、白梅は蕾が膨らみ、もうポツポツ開いているものもある。中に1本、薄紅色のものがあって、これは花が早く、もう二分咲きぐらいか。
 退院の頃にはかなり美しくなったいることだろう。
 その際、ここを通りかかるのが楽しみだ。

 午後に入院。
 明日の施術のための検査や確認が主体だからとくに治療はない。
 早速、手首に認識票をつけられる。これでこの牧場の子羊になった気分。

 二の腕から手首にかけてのギブスを回転式カッターでパッさりと切り取る。このカッターよく出来ていて、固いものは切るが柔らかいものは切らないとのこと。それでも万一肌に触れたらと少し不安。
 看護師さんが二人がかりでかなり苦労していたが、やがてぱっかりと上下に割れる。
 ほぼ10日ぶりに自分の左腕を見る。腫れぼったくて色も冴えない。
 シャワーで流し、洗浄する。

 これでギブスが取れたわけではない。上下二つにわかれたものの間に再び腕を収めて包帯で巻いてゆく。
 ただし明日の術後は、もっとコンパクトなものに変わるそうだ。

           
         病院の北側は加納城址 子供の頃ここでよく遊んだ

二日目
 いよいよ手術だ。
 6時半に目が覚めた。どこかへ出かける用件がない限りこの時間にはあまり起きない。
 別に興奮しているからではない。昨夜は9時半消灯、疲れていたせいかすぐ眠りに入れた。しかし、2時間半も寝たところで例の途中覚醒、ここで持参した睡眠剤を飲むつもりだったが、それが見当たらぬ。あまりごそごそしては同室者の迷惑になるので諦めて横になったがやはり1時間ほど悶々としても寝付けない。
 意を決して、当直の看護師さんに依頼し、睡眠剤をもらう。しばらくして寝付くことができた。

 立会人の息子が春日井から駆けつけてくれる。
 いよいよ手術室へ。執刀の外科医と一言二言。
 まずは麻酔薬の注射。首すじから左腕のみに効くように打つという。
 「意識は」と尋ねたら「あります」とのこと。
 二の腕から手首、指先へとしびれが進み、左手全体のの感覚が無くなる。
 それでもなお、しばらく様子を見てオペ開始。
 メスが入る瞬間も何もさっぱ分からない。
 ただ、途中、ずれた骨を元へ戻す段階、それを金具で固定する段階はかなりの痛みを伴って知覚できる。
 それが過ぎた段階で、意識が朦朧とし、眠ってしまった。
 目覚めたのは医師たちが何やら雑談をしているとき。
 「終わったのですか」「はい終わりました。何か違和感は?」「とくにありません」

           
           病院の東側 私の病室から一番近い窓
 

 病室に戻る。
 左手には完全麻痺、まるで丸太ん棒を吊り下げているようなのだ。
 これと似た経験をしたことがある。今から十数年前、脳梗塞を発病した折だ。あのときも左腕だった。
 もう一つ不思議なことがある。左腕の在り処を思い浮かべると、その位置は実際の在り処とは違うことだ。メルロー・ポンティが、「知覚の現象学」かなんかで、戦争や事故で手足を失った人たちが、実際にはないその手足の指先などの痛みや痒みを感じると述べていたのを思い出した。いまの私は、それに似た擬似経験をしているのだ。
 この左手の感覚は、今日いっぱい続くようだ。
 それが去ったら、痛みが襲ってくるのだろうか。

           
          上記とおなじ窓、同じアングルでの日の出

三日目
 術後の痛みは夜間にやってきた。9時過ぎぐらいから指先の感覚が戻ると同時に、じんじんと痛みが。しかし、激痛ではないし、これくらいは想定内。問題は、こうした間断ない刺激を抱えたまま睡眠が可能かどうかだ。
 
 9時半、睡眠薬を飲んで就寝。やはり1時間眠って2時間目が冴えたままの繰り返し。
 手洗いにたって、東の空を見たら山際に真っ赤な朝焼けが。元気な時ならカメラを構えるのだがそんな気にはなれない。ベッドに戻って横になる。やっと少しまどろんだかと思ったら、まわりの朝の気配に目が覚める。
 結局昨夜は、よくて3時間の就眠だ。頭がどんよりと重い。
 しかし、特にしなければならないこともないし、この辺が病院ぐらしのいい点だ。

 なお、寝付かれず悶々としている間に、小論文と小説の構想をひとつずつ考えついたのだが、こうしたものは得てしてものにならないものだ。
 しかし、メモだけはしておこう。
   ・「権力の空間・空間の権力」 書評
   ・ 小説 「テレパ金属同盟」
 
 ここまで書いて、少しまどろむことにする。
 やがて、抗生物質の点滴にくるはずだ。

 夕刻、高校時代の同級生の訃報が舞い込む。持病があるのは聞いていたが、それによるのではなく、心臓近くの損傷による突然死のようだ。
 同クラスで、とりわけ親しくしていたわけではないが、かつては時折集まる数人のうちに入っていた。それらのうち、私はゴルフをしないので、ここんところやや疎遠であった。それでもかねての付き合い、通夜や葬儀には行けないが、香典や花輪が必要なら一口乗る旨告げたが、「入院中のやつからはなぁ」と電話してきた友人。退院してから連絡することにして、ひとまずは保留。

 ところで、昨夜眠れぬままに考えていた「権力の空間・空間の権力」の書評、なんとか短文にまとめることができた。

           

 昨夜同様、睡眠薬を飲んで就寝したのが9時半、0時に目覚めたまま寝つかれないのでこれを書いている。昨夜は、都合3錠の睡眠薬を飲み、午前中ぼんやりしていたので、今夜は疲れるまで起きていて、もう1錠だけ睡眠薬を飲んで寝る作戦。

四日目
 入院も四日目になるとあまり変化もなく書くことも少なくなる。

 手術以来、続いていた主に抗生物質の点滴が今日で終了。
 その代わり、リハビリが本格化。
 骨折以来、動かしていない左手の指や肩、肘などが硬化しないためのもので、これらは部分的に術後すぐに行われていたのだが、今日からはそれに加えて、その他体全体を対象としたものになる。ひとつは、歩行や階段の上下、バランス感覚などの全身運動だが、もうひとつは体の揉みほぐしである。
 毎日食べてはじっとしている生活に、ちょうどいい運動の機会だ。

           

 大部屋でいいといったのだが、空いていなくて二人部屋にいる。
 もう一人は92歳の男性で、内科系統での入院らしい。面会に来た家族や、リハビリで訪れる若い療法士との会話などで、どうやら88歳の連れ合いとの二人暮らしで、むしろ、彼のほうが老妻を介護し面倒を見る立場らしい。老々介護の局地だ。
 そんな彼が、軍隊に行った経験があるというのを小耳に挟んだので、これまで会釈程度だったのを、思い切って話しかけてみる。

 彼によれば、入隊が終戦近かったため、外地へやられる前に敗戦になり、したがって実際の戦闘経験はないとのこと。ただし、彼より少し前に入営した者はどんどん南方にやられ、多くの戦死者を出したという。ちなみに、彼の同級生40名のうち、戦死者は10名にのぼるという。実に25%の20歳前後の若者が、その年齢で命を絶たれているのだ。

 夜眠れない反動で、昼間のうたた寝が多い。それがまた、夜の不眠を誘う。
 しかし、昼間仕事をしているのではないから、トータルで睡眠時間が満たされればと居直ることとする。

           

 実は、一年間かかって読んできたドストエフスキーの『悪霊』(岩波文庫で4分冊)を入院初日に読了し、忘れないうちに感想文をと思って着手。かなりのボリュームになってしまった。ブログに乗せても誰も読まないだろうなと思う。

五日目
 この五日間、敢えて新聞、TV、ネットなどの情報に触れないようにしてきた。
 だから、世の中で何が起こっているのかはさっぱりわからない。
 一つだけ例外的に触れたニュースがある。足慣らしで歩いているとき、休憩室でTVを観ている人がいて、その後ろを通りかかったとき、何やら識者たちがしかめっ面で覚醒剤云々といっている。いまさら何をと思ったが、テロップに清原がパクられたとあったのでヘエと納得がいった。まあ、これを大騒ぎしているようでは並べて世間は平和なのだろう。

 明日、午前に執刀医の診察があるとのこと。その結果次第で退院が決まるが、その後、かなりの間、リハビリが続きそうだ。難儀なことだ。
 ただし、早くネットの繋がる環境に復帰したい。同人誌関連で為すべきことが山積している。

           

六日目
 起床しても眠い。昨夜も実質三時間ぐらいしか眠れなかった。
 さて、今日退院できるものかどうか。すべて午前の執刀医の判断にかかっている。
 PCの中に取り込んである音楽から、モーツァルトのモテット「エクスルターテ・イウビラーテ」(K165)を聴きながらこれを書いている。
 それらがあることをもっと早く気付けばよかった。
 一応、情報からは自分を遮断したが、音楽から遠ざける必要はなかったのだ。

 今日も天候は良さそうだ。
 もし退院出来たら、帰りには来る途中で見た梅の群落をぜひ見なければ。
 あれからどれくらい花開いたかが楽しみだ。

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 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 そして退院することができた。
 花開いた梅を見ることができた。

           
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悪霊とはなんだろうか ドストエフスキー『悪霊』を読む

2016-02-07 01:42:07 | 書評
以下は長文で退屈ですから読む必要はありません。

 それほどの大著ではないが一年をかけて読んだ小説である。
 ドストエフスキーの『悪霊』(米川正夫:訳)、岩波文庫で四分冊のボリュームがあるからといって、決して読むのに一年かかるほどのものではない。
 
 複数の本を同時に併読する癖がある私は、この書に関しては、文庫本という手軽さもあって、外出時に読むことに限定していた。
 具体的には、名古屋ヘ行く折の往復の列車内、人との待ち合わせの待ち時間、クリニックの待合室などなど、ようするに家では一切読まないということだ。
 ところで、この岩波文庫、一昨年、書棚を整理していて見つけたもので、奥付を見たら昭和45(1970)年とある。実に45年ほど前に購入し未読のままに放置してあったのだ。すごい「積ん読」だ。
 当時の文庫本のハトロン紙のカバーもそのままだし、小口からヤケが内部まで進んでいるが、やはり読んだ形跡は全く無い。

 最後、どこで読み終えたかというと、左腕の骨折で入院した病院の病室においてであった。読みはじめのコンセプト通り、終始「わが家の外」で読んだということである。
 したがって、この文章も入院先の病室で書いている。

■どんな小説なのか
 
 で、内容についてであるが、大著であるがゆえにかいつまんで語ることは容易ではない。舞台は帝政ロシア末期の地方都市、さまざまな登場人物が織りなす群像劇風である。地方都市ゆえのいびつさや滑稽さのようなものもあるが、考えてみれば、それらは当時のロシアそのものの縮図であるのかもしれない。
 そしてこの群像劇は、4分冊目に入り、県知事夫人肝いりの舞踏会を皮切りに一挙に終盤のカタストロフィに突入する。

 変動期である。何かが起ころうとしている。しかし、それが何かがわからないまま人々が右往左往している。この状況は、チェーホフが横断面として静謐とその破綻としえがいたものだが、この小説ではもう少しダイナミックにことが進む。
 一握りのグループが、その変動を自分たちの意のままにしようとし、また、なしうるとして暗躍する。しかしそれとて、漠然としていて彼らの大半は、その「活動」が偉大なる「共同の事業」のためと了解しているのみでその詳細を知るところはなく、一定の混乱を引き起こすものの各メンバー自体がそれがどう「彼らの」大義と結びついているのかもわからないまま最終的には自滅の形で瓦解する。
 この辺りは、かの連合赤軍事件を髣髴とさせる。

■「悪霊」とは何? 誰? 

 それでは、悪霊とは何であり、もし人物に模することができるとすれば誰だろうか。
 いささかロートルで、もはや時代とはずれてしまっているような田舎の「インテリゲンチャ」スチェバン氏(ピョートルの父)と、この地の地主ヴァルヴァーラ夫人(スタヴローギンの母)との関係は、20年来の後者による前者の庇護関係にあるが、同時に両者の間にはいささか屈折した愛情関係がある。
 スチェバンは、いまでも何がしかの影響力を保持したがっているが、もはや状況から置いて行かれた田舎文士にすぎない。

 当初、放浪の旅から故郷へ帰ったスタヴローギン自体が「悪霊的な」様相をもって登場する。その言動は常軌でもってしては測りがたい。しかし読み進むうちに、彼はいわば「求道的な」実存主義者であるように思えてくる。カミユの『異邦人』のムルソーが、太陽のもとでの実存主義者であるとすれば、スタヴローギンは北国の実存主義者であるといえる。そして求道的というのは、彼は他の求道者との面談などを通じて「浮動する実存」の着地点の模索を図るからだ。

 前半のヴァルヴァーラ夫人に代わって、後半は県知事夫人・ユリヤが狂言回しを務めるが、軽薄な新しがり屋で諸潮流への浅薄な理解に基づいて行為する夫人は、それが故にピョートルに内懐にまで飛び込まれ、さんざん愚弄され利用される。
 夫人ほどの覇気もなく、ひたすら愚鈍な県知事は、ピョートルに用心はするものの、その跳梁を止めるだけの力はない。彼らは、ひたすら道化役者としての道を進むに過ぎない。

■陰謀者・ピョートル

 残る主要人物はスチェバン氏の息子、ピョートルである。
 当初彼は、スタヴローギンの腰巾着にして取り巻きで、しかも道化師のように登場するが、しかしやがて、彼自身が周到な陰謀家にして策士であり、スタヴローギンそのものをその陰謀に巻き込み利用しようとしていることが見えてくる。
 彼の張り巡らした罠は後半に至ってほぼ目論見通りに実現する。たとえ、その後その真相が見破られるとはいえ、それは彼のせいではない。他のメンバーが脆弱だったからだ。
 彼は、他のメンバーの動揺や日和見にもかかわらず、一貫して冷徹である。そして、この騒動の外へと逃れ去る。

 では彼が悪霊なのだろうか。たしかに彼は悪魔的ではある。目的のためには手段を選ばず、まゆ一つ動かさず人を殺める冷徹さを持つ。しかも、自分が暴力的であるばかりではなく、ひとを操り、籠絡し、自分の手をくださずしてことを為す。
 しかし、それを悪霊とはいわない気がする。敢えていえば、そうした営為自身が悪霊にとり憑かれたものとはいえよう。
 ならば、彼にとり憑いたものとは何か。この大ロシアを根底から覆す「偉大なる共同の事業」か。そうしたものにとり憑かれ、イデオロギーとテロルで他者を蹂躙するありようを「悪霊」と表現するのは、スターリニズムやナチズムの全体主義を批判するには好都合で、あながち的外れでもあるまい。

 しかしそう言い切って済ますには、なおかつ、悪霊の悪霊たるもの正体はつかめないままに残るのではあるまいか。

■集団ヒステリー的事態の推進 
 
 この小説の中で、ドストエフスキーはある主観や欲望にに基づいて行動する人たちがそれに裏切られ思いがけない地点に至るさまや、かれらが、自分の欲望とは違う言動へと誘導されるさまを諧謔を込めて描写する。そして、それが喜劇であるとともに最後のカタストロフィともいうべき悲劇の連鎖へと至る。
 それは、著者の目や、それとともに事態の推移を鳥瞰する読者には、そうした虚実の織りなす諸エピソードの集積が、曼荼羅図のように見て取れるのだが、登場人物はそうした鳥瞰図を持たないまま、それぞれを突き動かす衝動に従い、闇雲に行動するしかない。
 そしてその背後には、噴火間近な火山の蠕動のような予兆不能な時代の痙攣がある。

 で、ひとつの仮説だが、そうした蠕動に呼応して人びとを闇雲に突き動かし、悲喜劇模様の騒擾のうちに登場人物の誰しもが予想し得なかったカタストロフィヘと至るような、そうした死への本能(タナトス)にも似たエネルギーこそが「悪霊」なのかもしれないということだ。
 だから、すべての人が、この悪霊にとり憑かれている。
 一見、自らの企てに一度は成功したかのようなピョートルにしても同様だ。彼は、なにはともあれ、騒乱こそがロシアの覚醒にとって必要なのだとただそれのみをこの地で実現し、そして去る。しかし、そうした単なる騒乱からは、どのような理性も立ち上がることはない。ただ、騒乱の犠牲者が横たわるのみだ。彼にもし、何らかの達成感があるとしたら、それこそまさに悪霊の成果でしかない。

■登場人物についての補遺
 
 以下、登場人物について関心を引く2、3について述べておきたい。
 スタヴローギンについては既に述べた。ピョートルは彼の腰巾着のようなふりをしながら、それを利用し騒乱の要因に仕立てあげるのだが、形而上的な存在であるスタヴローギンにとって、そうした利用し利用される関係はあずかり知らぬ俗界の出来事にすぎない。ピョートルは、彼のまわりを跳ねまわるゲスにしか過ぎない。彼の女性遍歴にしてもその根底には欲望もあるのだろうが、それに「流されてみる」という趣がある。

 その相手になり、ピョートルの企む騒乱の一要素にもなり、自らの命をも落とすリザヴェータ(リーザ)は、聡明で誇り高き女性である。彼女はその存在においてスタヴローギンに対応する。
 彼女のスタヴローギンへの愛は、ピョートルの陰謀に利用されることになるのだが、利用されたその結果をわが目で見届けるという潔癖さを併せもっている。そしてそれが、彼女の命取りになるのだが……。

 ドストエフスキーが、ほとんど諧謔を交えず描いている一群の人たちがいる。
 自らの運命に逆らうすべをもたない純真なダーリアは、一時はヴァルヴァーラ夫人のねじれた愛情の犠牲になり、父親ほど離れたスチェバンの妻にされそうになった。そんな彼女とスタヴローギンは最後にともに過ごすことを望むのだが、そのスタヴローギン自身がそれがありえない夢であることを一番良く知っていたし、それは実現することなく最後の悲劇へと至る。
 先にみたリザヴェータも諧謔の対象たることを免れている。
 また、スタヴローギンの正妻である気の触れた女性マリアもまた、著者のシニカルな描写から免れている。
 思うにこの人たちは、自らが抱く主観と客観の乖離がさほど著しくない人たちといえる。

■ロシアのニーチェ 

 自殺願望者のキリーロフは、スタヴローギンと並ぶもう一人の形而上家であり、ロシアのニーチェである。
 彼は瞬間、永久調和を直感する。それは、恐怖に満ちているとともに大いなる喜びにも満ちている。この辺りの叙述は、ニーチェが永劫回帰を感得する瞬間と相似形である。
 さらに彼は、別のところで、「神は死んだ」についても語っている。
 「もし神があるとすれば神の意志がすべてだ」、しかし、神がないとすれば、すべては自分の意志に還元される。彼はそれを「我意」と呼ぶ。我意こそが神に代ってすべてを決定し、その結果を引き受けなければならない。
 このくだりは、ニーチェの「力への意志」にパラレルである。ニーチェの「ツァラトゥストラ」は、永劫回帰を巡るこうした啓示に「イエス!」といって立ち向かうのだが、実際のニーチェはといえば、それに耐えかねたように狂気へと陥る。
 そしてキリーロフは、そのように生きることの不可能性を予め自覚し、自死を選ぶこととなる。

■「私」とは誰か

 別に哲学的な主体論争としての私を問題にしようとしているのではない。
 この小説で語り手として「私」が登場するが、その彼についてである。
 すべての局面で彼が語り手であるわけではない。彼がまさに臨場する場面、あるいは伝聞としての情報を再現する場面で、その他、彼のあずかり知らぬところで生じる事態に関しては語り手抜きに物語は進行する。
 ところで、この「私」であるが、スチェバン氏の若い友人であることはわかるが、その他は不詳である。大抵の場合、ニュートラルな存在に徹しているが、県知事夫人主催の講演会とダンスパーティ(これが最終のカタストロフィへ雪崩れ込む幕開けなのだが)では、運営委員の一員として、はじめてポジティヴな役回りで登場する。
 おそらく、そうした委員のうちもっとも冷静である「私」は、危険な徴候を察知してその回避へと務めるのだが、「私」にとってももはや事態は制御不可能である。「私」の抑制を促す声にもかかわらず、自己を見失った県知事夫人やスチェバン氏の行為は滑稽にも負のスパイラルとして働き、ピョートル一派の思う壺へと転落する一方である。
 それらを必死で押しとどめていた「私」ではあるが、周辺の頑迷な自滅的動きについには業を煮やし、委員の腕章を投げ捨てて辞任してしまう。もっとも、彼がその位置にとどまっていたからといって事態の転落を押しとどめることは不可能だったろう。
 ようするに、この「私」は、スチェバン氏のようになおかつ自分が何者かであるかのような悪あがきはせず、冷静ではあるが、やはり無力なインテリゲンチャの一端を為すというところか。だからこそ、著者によって語り手に指名されたのだろう。そしてその任に関しては臨場感に溢れた語り手ではある。

■再び「悪霊」について

 私は、この小説読解の主観的仮設として、「悪霊」を、「人びとを闇雲に突き動かし、悲喜劇模様の騒擾のうちに登場人物の誰しもが予想し得なかったカタストロフィを生み出す、その死への本能(タナトス)にも似たエネルギー」としてみた。
 これが的を射ているかどうかはともかく、この小説は、ロシアの一地方都市の限られた期間に起きた破局劇を描写しているとはいえ、やがてそれが、ロシア全土を襲うであろうことも当然その視野に入れた小説といえる。

 こうした人びとの憑かれたような破局への陥落を私たちも過去の歴史のなかでみてきた。
 関東大震災を契機にした朝鮮人や社会運動家の虐殺、その後の無謀な戦争への突入、これらは、広範な人びとをまさに憑かれたように巻き込んだ不可逆の事態として、破局の泥沼へと事態を誘導したのであった。
 私たちはそうした「悪霊」から今なお、決して自由ではない。
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