六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

小澤征爾とN響

2024-02-17 01:17:56 | 音楽を聴く

小澤征爾が亡くなった。ライブでは1991年、ザルツブルグのモーツァルト没後200年の記念音楽祭で、ボストンを率いていたのを聴いたことがあり、最前列だった私の掛け声に確かに反応してくれて視線が合ったことがある。
20年ほど前、岐阜のサラマンカホールへ来るというので、売り出し日の9時からというのを9時20分ぐらいに窓口へいったら、もう完売だった。私の後にも続々と人がやってきていた。 
彼の死後、NHKを中心に、TVやFMラジオで回顧番組をいろいろやっている。
しかし、1961年、彼がN響を指揮した折、N響側がリハーサルに誰も出てこないという陰湿なイジメで彼をボイコットし、海外へ追いやった話は一切出てこず、頬っ被りのままだ。
もっともそのお陰で、彼はボストンに定着し、世界のマエストロといわれるようになったのだから、N響のイジメは一定の意味をもつわけだ。
小澤とN響の協演が実現したのはその32年後となる。

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岐阜に春を呼ぶ「二重協奏曲」と「第五」 大阪フィル定期演奏会 

2022-03-23 00:19:00 | 音楽を聴く

 毎年、春を告げるのは花だよりが一番多いだろう。それらを受容し、ときにに私自身がそれを発信する。
 しかし、この視覚を刺激する春の訪れとともに、聴覚を訪れる春もある。小鳥たちのさえずりもそうかも知れない。 だが私にとってもう一つ耳からやってくる春は、毎年三月に行われる大阪フィルハーモニー交響楽団の岐阜定期演奏会である。ここ2 、3年はコロナの影響などもあって少しごちゃごちゃしているが、今回は第45回を迎える。
 
 このうち、おそらく私は20回ほどは聴いているのではないかと思う。というのは二〇年ほど前に経営していた居酒屋を閉め、コンサートへ行く時間的余裕ができたころ、岐阜サラマンカホールでふと出会ったのがこの大阪フィルの岐阜定期演奏会であった。その折の重厚な音がすっかり気に入って、以来、毎年三月の岐阜定期演奏会にはほとんど欠かさず行っている。

          
                 開演三〇分前のサラマンカホール

 なお、大阪フィルとサラマンカホールは縁が深く、これらは後で知ったのだが、このホールのこけら落としは大阪フィルであったし、同フィルが「第〇〇回定期演奏会」を名乗るのは地元大阪のほかは、東京とこの岐阜のみなのである。

 今回の指揮者は地元名古屋(東海中・東海高ー東京芸大)出身の角田鋼亮氏。まだ40代前半のフレッシュな指揮者だがその活躍の場は国内外にけっこう広い。その演奏は若さとパワーが漲る歯切れのいいもののように思った。

 目玉はヴァイオリンの辻彩奈さんと、チェロの堤剛氏の共演。前者は1997年生まれで後者は1942年生まれ、その年齢差55歳。
 辻さんは地元岐阜県大垣市出身で、11歳にして名古屋フィルと共演するなどの才能の持ち主。2016年、モントリオールの国際コンクールで第一位を獲得以来、まさに国際的に活躍している。
 堤氏は言わずとしれたチェロの大御所で、1960年、当時の日本放送交響楽団(今のN響)が世界一周公演を挙行した際、若干18歳のソリストとしてそれに帯同している(なお、当時まだ16歳だった故・中村紘子さんも同行)というから、現役60年以上という息の長い演奏者である。

 小手調べのモーツァルト「魔笛」序曲のあとは、ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102」。

 曲は何かを問いかけるようなフレーズの繰り返しで始まる。その直後にソロ楽器(VnとVc)の掛け合うような演奏が始まる。とくに第一楽章にはカディンツアではないが、ソロ楽器のみの強調された掛け合いが随所にあってとても楽しませてくれる。
 そして、聴き終わってみると、やはりブラームスだなぁと彼の術中に嵌った自分を見出す思い。

          
         左から指揮者角田氏、辻彩奈さん、堤剛氏(角田氏のTwitterから引用)
         それにしても、三人のなにか厚みを示すような指のポーズが意味するものは?


 休憩の後はベートーヴェンの第五「運命」。
 世界中にはいろんな音がある。高低、長短、音色の違いなどなど…。音楽はそれらを組み合わせて表現へと構成する。しかし、この第五ほど隙きなく緻密に構成された音楽はあるだろうか。毎回、その事実に感嘆する。しかもそれは、その構成のために情感を犠牲にすることはない。
 様々な思いを漂わせて、それらをすべてまとめ上げるようにして音楽は終わる。
 そして、その終焉には決然とした爽やかさが残る。

 もっともこれは、ヨーロッパ近代合理主義的な、ある種形而上学的な整合性への憧憬であり、一方での、モーツァルトのスキゾフレーニーともいえる破格への志向も捨てがたいといい添えておこう。

 会場を出ると、あちこちから花だよりがという時期ではあるが、ブルブルッと身震いするような夜気がそこそこの寒さを伴って攻め寄せてきた。

           
独奏者アンコールは、二人によるピチカートのみによるシベリウスの「水滴」
 オケのアンコールは、どこかで聴いた曲だとは思ったがわからなかった。出口の掲示を見たら、ベートーヴェンのピアノソナタ第八番「悲愴」の第二楽章をオーケストラ用に編曲したものだった(編曲者・野本洋介)。


【角田鋼亮氏の翌日のTwitterから】昨晩は大阪フィルと岐阜定期演奏会でした。公開ゲネプロにも沢山のお客様にお越し頂きました。堤さんと辻さんの音楽そのものと化した様な存在に導かれ、会場全体が共振していたような気がしました。大阪フィルと三回目のベートーヴェンの第五番も、内的燃焼度の高い演奏で楽しかったです。

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「夜のプラットホーム」今昔物語と服部良一

2021-12-07 16:18:03 | 音楽を聴く

 ここに載せた写真は、過日豊橋へでかけた折の帰途、名鉄豊橋駅のホームで撮ったものです。ただし、最後の一枚は名鉄岐阜駅へ着いたときのものです。

 夜のプラットホームは寂しいものです。ましてや初冬の折から、ひとりぽつねんと佇んでいるとなおさらです。

          

 動画は名鉄豊橋駅のプラットホームからのものです。まず過ぎゆくのはJR東海道線の在来線です。その後、ひとが列をなしているのは新幹線の豊橋駅ホームです。意外と多くの客が降りてきますが、週末金曜日の午後7時過ぎ、東京方面から帰ってきた人たちでしょう。
 https://www.youtube.com/watch?v=Ces6MKDxk-I

 「夜のプラットホーム」といえば、私のような年配の者が思い出す歌があります。同名の歌謡曲(作詞:奥野椰子夫/作曲:服部良一)で、戦後(1947年)、二葉あき子が歌って大ヒットしたのですが、実はこの曲、すでに戦時中の1939年、淡谷のり子の歌でリリースされていたのでした。
 しかし、その折、全体に歌調が暗く、出征兵士を見送る機会が多い折からふさわしくない、とりわけその歌詞に「きみいつ帰る」とあるが、戦場に出かける際は「帰る」は禁句で、出征兵士は「行く」のではなく「逝く」のだという覚悟が必要として、発禁処分になったのでした。
 ですから戦後のそれは、戦前のもののリバイバルだったわけです。

 https://www.youtube.com/watch?v=Eep_VL8kXGE

 しかし、この発禁処分には面白いエピソードがあって、作曲者の服部良一はこれに屈することなく、次のような抵抗を試みたというのです。それをWikiから引いておきます。
 =========================
 その2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ち侘びて」)というタイトルの洋盤が発売された。作曲と編曲はR.Hatter(レオ・ハッター、=服部良一)という名前の人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。そして、レオ・ハッターとは服部良一が自身の名をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていた、ドイツ系のハーフの男性の変名であった。
 =========================

 どうやら検閲官は英語に暗く、これが発禁にしたものと同じものだとは気づかなかったようで、無事パスしたのでした。しかし、同年の末に真珠湾奇襲があり、日米開戦に至って、英語の歌は敵性言語によるとして事実上歌われませんでしたから、日の目を見た期間は短かったわけです。

           

 なお、この服部良一、1926年に大阪フィルに入り、そこでロシア革命絡みで亡命してきたウクライナ人の音楽家エマニエル・メッテルに師事し、音楽理論、作曲、指揮などの指導を受けたといいますから、もともとはクラシック畑のひとです。その折の同期には、長年大阪フィルを率いた朝比奈隆もいました。

              

 そうした経歴をバックに、歌謡曲の歴史において、演歌調のものが古賀政男に代表されるとすれば、ポップス調のものは服部良一に負うところが多いのです。
 この「夜のプラットホーム」はタンゴですが、他に、ジャズ、ルンバ、ブギ、ブルースからシャンソン風のものまでその作曲はとても多彩でした。

           

 なお、良一に続く子孫も音楽家揃いで、息子の克久(故人)、孫の隆之はそれぞれ作曲や指揮など広範囲に活躍しています。また、隆之の娘(=良一のひ孫)服部百音は若手バイオリニストとしてただいま人気上昇中です。
 ワックスマン作曲「カルメン幻想曲」の演奏を貼り付けておきましょう。

 https://www.youtube.com/watch?v=4fxi8UiczDY

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久々の名古屋でのコンサート サン=サーンスとパリのことなど

2021-10-04 14:40:38 | 音楽を聴く

 10月1日のことだが、7月以来久々に名古屋へ出た。
 名古屋の友人から、チケットが一枚浮いたから来ないかというコンサートへのお誘い。「行きま~す」ということで急遽実現。

                 
              

 このコンサートはちょっと変わっていて、9月3日、那覇をスタートして北上し、12月25日の札幌をもって終了という、13都市、19会場でのリレー公演で、題して、「クラシック・キャラバン2021 クラシック音楽が世界をつなぐ」。

                             

 実は、名古屋での公演は既に9月14日の行われたものに次ぐ2回目なのだが、今回のものは、公演の形式も出演者もまったく違う内容であった。
 今回のそれは、第一部は、それぞれの演奏者や歌手が、小品を2曲ほど演奏するもので、例えば、ピアニストの中野翔太は、ショパンの「幻想曲op49」と「練習曲 革命」を弾き、「ピアノの詩人」の部分というより「咆哮するショパン」を表現していた。

                           

 同じく第一部にはカウンターテナーの藤木大地が「からたちの花」と「落葉松」の二曲を繊細に歌い上げた。ファルセットなどを駆使してソプラノ並みの澄んだ歌声を響かせるカウンターテナーは、ラジオなどの媒体を通じては何度も聞いていたが、ライブでははじめてで、なるほど、こんなふうに表現するのかと納得した次第。
 1990年代に観た映画「カストラート」を思い起こしたが、もちろん、カストラートとカウンターテナーとは根本的に違うし、表現の内容も異なる。

                          

 第二部は、サン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」で、もちろんポピュラーな曲である。しかし、一般によく聴くのはオーケストラ版のそれだが、今回はサン=サーンスが作曲直後、親しい仲間を集めて演奏したとされる楽器の種類や数に即した形式の演奏ということで、なるほど、彼はこんなイメージでこの曲を書き演奏していたのかと思わせるものがあった。

                          

 なお、彼は、こうした内輪での演奏後、自分の死後までこの曲全体の演奏を禁じたという。この曲が含む諧謔や風刺がもたらすある種の反発を恐れたのだろうか。
 ただし、その禁忌から、「白鳥」のパートは除外された。したがって白鳥は「動物の謝肉祭」という組曲のパートとしてではなく、独立した小品として演奏される機会がもっとも多い。

                          

 サン=サーンスについての個人的な想い出は(といっても私が生まれる17年前にこの世を去っている彼に逢ったことなどないのだが)、2018年の夏、パリはサン=ラザール駅前のホテルに逗留した際、オペラ座界隈や、各種パサージュなどを散策し、夕方にたどり着いたのがマドレーヌ寺院であった。その周辺のちょっとモダンなデザインのベンチに腰を下ろして、まどろみゆく寺院周辺を眺めることとした。

                      

 なぜそれがサン=サーンスと関連するかというと、このマドレーヌ寺院こそかつてオルガニストの最高峰といわれる奏者を抱えていて、わがサン=サーンスはなんとここで1857年から77年までの20年間、その奏者の地位にあったのだった。
 彼の交響曲第三番が、「オルガン付き」として親しまれているのはむべなるかなである。

                         
 
 マドレーヌ寺院は、パルテノン宮殿に壁を付けたようないわゆるコリント様式の教会で、ゴシックやロマネスクに比べるとその形状も装飾性も地味である。
 しかし、どっしり安定したその佇まいは、どこか心落ち着かせるものがある。そういえば、同年、三日ほど滞在したロンドンのユーストン駅近くのセント・パンクラスニューチャーチもこのコリント様式で、滞在中、朝夕、この教会の鐘の音を耳にしたものだ。

                        

 マドレーヌに戻ろう。夕刻とはいえ、ヨーロッパの日暮れは遅い。ゆったりとした寺院の敷地の周りにはさまざまな人達がたむろしていた。子連れの女性がその子と戯れながら追っかけっこをしたり、ジョギングで寺院の周りを回る人、もっと本格的なランニングで汗を飛び散らして駆け抜ける人。おしゃべりな若人たちが戯言に笑いを交わしながらにぎやかに通り過ぎてゆく。

                         

 そして、私と同じように、それらをくつろいで観ている人・・・・。おっと、目の前のカップル(フランスだからAbekというべきか)がキスを始める。
 そろそろ潮時と、腰を上げてホテルへの帰路につく。やがて夕闇が深みを増し始め、寺院周辺のカフェの灯りが色濃くなる。
 ホテル近く、マドレーヌとは打って変わったプランタンデパートのロココ風の装飾が華やいでいる。

                  

               
 サン=ラザール駅のさまざまな時計をよじるように塔に設えたオブジェがライトアップで光っている。

 あれあれ、脱線が著しいではないか。先般のコンサートと、三年前の夏の思い出が渾然となってしまった。

写真、はじめの三点は先般名古屋伏見付近で撮した都市の夕焼け。
 その他は、18年夏、パリで撮したもの。

                          

【付録 今日の昼餉】
 おそらく今期最後の冷やし中華…というより冷やしラーメン。
 

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連想からするスメタナと田中希代子のはなし

2021-01-23 18:35:13 | 音楽を聴く

 スメタナの弦楽四重奏曲第一番「我が生涯より」は悲痛な調子で始まり、それは一貫していて第四楽章に至ってピークを迎える。
 それはそうだろう。彼は五〇歳にして突如聴力を失ってしまうのだから。彼は「この作品は私の人生の思い出と、完全な失聴というカタストロフィーを描いたもの」と友人への手紙に書いている。
 この作品は、1878年にまず試演が行われ、その際には、ドボルザークがヴィオラを受けもった。一般的な初演はその翌年という。

         

 なぜ、急にこの曲が聴きたくなったかというと、ちょうど読んでいた書にあった悲劇的なシーンが、といっても、それは聴覚に関するものとはまったく関係ないのだが、ふとこの曲を連想させたからだった。

         

               お話の舞台 ナンガ・パルバット山
 
 それはヒマラヤの高峰を目指すある登山隊で、高山病のせいで不眠に陥った「彼」が、激しい嵐のなかキャンプを抜け出しそのまま行方不明になるといった話なのだが、語り手の「私」は、その折彼が見ていたものは、ホワイトアウトの吹雪ではなく、月の光を浴びて輝く頂きであり、それを目指し「彼はゆっくりと、とてもゆっくりと、裸になった峰の苦痛と悲しみと絶望の中へと歩いてゆく」のだったと想像する。「彼」は五感の失墜のなかで、まったく別の風景を見出しそこへと自分を昇華させてしまうのだ。

            

 それとスメタナがどうつながったのか、自分でもわからない。たぶん、スメタナは現実の音を失ったのだが、それに変わる心象風景を記号としての音符に載せて曲を書き続けたのではなかろうか。
 登山家の彼は五感の失墜が希望とも絶望ともつかぬままに消えてゆくのだが、スメタナは聴覚を失いながら表現すべきものをイメージとして保ち続けることが出来、それが逆境での希望として作用したのだろうと思う。

 それにしても、「彼」とスメタナを連結させてしまったのはやはり不可解である。その間にある自分にとっても不明な媒介項のようなものがきっとあるのだろう。

         

【おまけ】その後、田中希代子のピアノでベートヴェンのピアノ協奏曲第五番と第一番(岩城宏之指揮 NHK交響楽団)を聴いた。このひと、ジュネーヴ国際音楽コンクール(第14回1952年)、ロン=ティボー国際コンクール(第5回1953年)、ショパン国際ピアノコンクール(第5回1955年)の3つの国際コンクールの日本人初入賞者なのだが、30代後半に難病にかかり引退したため、活躍した期間は短い。
 このCDには個人的な思い出があるのだが、それは墓場へもってゆくとしよう。

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現代「まっくろけ節」考

2020-12-24 01:32:41 | 音楽を聴く

        

 大正時代に流行った「まっくろけ節」、調べてみたら以下のような歌詞がありました。

 https://www.youtube.com/watch?v=ubBqGXp9erQ

森友が 安く叩いた 国有地 妻も私も 知らぬこと 一皮剥いたら まっくろけのけ オヤオヤまっくろけのけ

加計には 便宜図った その口で 私しゃ関わり ないという 裏に回れば  まっくろけのけ オヤオヤまっくろけのけ

税金を 使った桜 観る会に さらに金だす 前夜祭 すべて秘書がと まっくろけのけ オヤオヤまっくろけのけ

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沖縄の友人が歌手デビュー 『祈り 命どぅ宝』

2020-06-28 02:09:27 | 音楽を聴く

 沖縄での私の親友が、6月23日の沖縄慰霊の日に照準を合わせ、それにふさわしい歌を引っさげて歌手デビューした。
 歌は『祈り 命どぅ宝』。歌手は彼女「おりざ」さん。
 歌詞は、俳句、詩、エッセイの各部門でおきなわ文学賞の県知事賞受賞歴のあるおりざさん自身。曲は熊木敏郎氏。

       

 さて、おりざさんの歌唱力であるが、昨年度の「第20回全国縦断歌謡フェスティバル」でグランドチャンピオンとなった実力者だ。

 歌詞並びにその歌は、幾度も歴史の重圧に踏みにじられ、いまもなお「琉球処分」に似た差別の重圧にある沖縄の民の、その芯にある静かな祈り、しかしながらうつむくのではなく、未来への希望へ向かって面を挙げてその祈りを放つような心に染みるものとなっている。

           
             右側、バンダナ姿がおりざさん

 その思いは、このCDをリリースするにあたって彼女の以下のような言葉にみてとれる。
「『命どぅ宝』という思いは
 言葉では語りつくすことができない陰影をもっています
 だからこそ私はこの言葉をタイトルにし
 リフレインにして祈るしかありませんでした」

       

 さて、私との出会いであるが、SNSで出会ってからもう10年にはなるだろう。岐阜と沖縄という離れた距離にありながら、彼女とはリアルに二度出会っている。

 一度目はもう数年以上前遡るが、彼女が友人のところを訪れた帰途、伊吹山のイヌワシを見たいというので私がアッシー君の役目を仰せつかったのだ。その折は、残念ながら天候の悪化で彼女の願いは叶えられなかったが、長浜を散策し、荒れ模様の琵琶湖を見るなど、親交を温めることができた。

       

 二度目の出会いは昨秋、沖縄へ招かれた折だった。三重県在住のS夫妻ともども、三日間の沖縄の旅だったが、その間、ずーっとおりざさんが案内をかってでてくれた。
 ヤンバルの森、珊瑚礁の海、破壊されようとしている辺野古の海、沖縄戦の凄惨を今に留めるチビチリガマなどの戦跡、そして祈りの地・平和祈念公園などなどの訪問は、沖縄訪問を物見遊山で終わらせたくないという私のわがままをきいてくれたおりざさんの行き届いた配慮だった。

       

 最後の夜、那覇でのカラオケで、おりざさんの生歌を聴くことができた。流石にグランドチャンピオン、その歌唱力は圧倒的であった。文句なしにうまいのだ。

       
           右側小さく写っているのがおりざさん

 しかし、今回、CDになったものをじっくり聴いて、その時とは印象が変わり、じつにしんみり聴かせる歌だと思っている。
 カラオケの場合は、ひとのもち歌で、いわゆるバエル歌が選曲されていたからだろうが、このCDは違う。いうならば、祈りの言葉を内側から丁寧になぞるようにして彼女自身の情感で表現しているのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=wwjb8wChELA

 添付したYouTubeは、沖縄のFM局にゲスト出演した折のおりざさんをとらえているが、収録風景を収録するということで、残念ながら歌の部分は不鮮明である。

 この歌、本人も書いているが、縁あって玉城デニー知事の手元へも届いているようだ。沖縄の祈りを洗練された表現で歌い上げたこの歌が、来年の沖縄慰霊祭を飾るような歌として聴かれ、歌われ、広げられることを願わずにはいられない。
 
 お求め、お問い合わせは ☎ 070ー3803ー8529 OFFICEおりざまで。
 価格は1,000円&送料などです。

  写真は昨秋、おりざさんの案内で沖縄を散策した折のもの

 

 

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音楽の年越しそば・第九 & 長良川慕情 

2019-12-24 00:34:10 | 音楽を聴く

 岐阜県には、公益法人の岐阜県交響楽団があり、学校めぐり他、定期公演などでクラシックの普及に努めている。

 そしてその他に、県下唯一のプロのオーケストラとして、ウィーン岐阜管弦楽団がある(1991年創立)。経済的にも文化的にも、名古屋の衛星都市化している岐阜の地で、プロのオケを維持してゆく大変さは想像に余りあるものがある。
 このオケの姉妹組織にウィーン岐阜合唱団がある(1998年創立)。こちらはアマチュアの合唱団で、老若男女メンバーはいろいろである。

         

 この2つの組織を統括しているのは、作曲家にして指揮者の平光 保氏で、サンクトペテルブルクで国立エルミタージュ管弦楽団を指揮したり、ブタペストのバルトークホールでスタンディングオベーションで迎えられた経歴をもつが、なんといっても氏の功績はこの岐阜の地にクラシックを根付かせるような活動を長年続けてきたことだと思う。

 そんなこともあって、彼の指揮するコンサートをこれまで10回近く聴いているが、いちばんの思い出は、十数年前、岐阜交響楽団を率いてベートーヴェンの7番を演奏し、第4楽章のクライマックスにさしかかった折、その飛んだり跳ねたりの指揮ぶりの結果、脚に痙攣を起こし、最後はびっこを引いて演奏を続けたことだろう。
 彼のこうした音楽魂に、満場の客からは感嘆の拍手が寄せられたのであった。

          

 その彼が、ウィーン岐阜管弦楽団と、ウィーン岐阜合唱団による第九を振るというので、それを今年のコンサートじまいとすることにした。
 この取り合わせによる第九は、合唱団員をを飛騨地方や福井県からの参加者も含めて膨らませ、一週間前に「高山千人の第九」を成功させたばかりである。

 岐阜での会場は、長良川国際会議場の大ホール「さらさ~ら」で、キャパは1,600人と岐阜県下最大のホールである。
 ほぼ満席であった。楽団や合唱団のメンバーが、その縁故をも最大限に利用して集客に涙ぐましい努力をした成果であろう。地方楽団の存続にはそうした努力が欠かせない。そしてまたそれが、クラシックファンの裾野を広めることにもつながる。

          

 プログラムの詳細は述べないが、前半はチャイコフスキーの幻想的序曲「ロメオとジュリエット」に始まり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第一楽章のみ(ピアノ:山口湖苗美)。
 後半は、混声合唱が入って、歌劇「ナブッコ」(ヴェルディ)より「行けわが思いを、金色の翼にのって」、佐藤眞「大地讃頌」、そして第九(第四楽章のみ)。

 こうした楽章をちょん切ったようなプログラムは、その曲に込めた作曲家の表現全体をじっくり聴こうとする向きにとっては邪道と思われるかもしれない。
 しかし、こうした聴き方、聴かせ方にも一理はあるのだ。
 ひとつは、地方楽団のコンサートとして、この年末にこそ、そのもてるレパートリーの幅や表現力をすべて羅列した集大成にしたいということはよく分かる。
 さらにいうなら、こうしてちょん切られた楽章は、それのみでも十分に鑑賞に耐えられる、あるいは、ちょん切ってでも聴きたい、聴かせたいと力をもっているともいえる。

              

 果たせるかな、ラフマニノフも第九も、前半、後半を締めくくるにふさわしい力演であった。
 特筆すべきは、アマチュアからなる合唱団が素晴らしかったことだ。それに参加している人たちの情熱、それを豊かな表現にまとめ上げる平光氏の総括者としての力量を讃えるべきだろう。
 演奏後にはブラボーの声が飛び交う熱演ぶりであった。

              

 会場の熱気に火照ったまま外に出る。千数百の聴衆がバス停に殺到するのだから混むのは必定と、そこは諦めて別の路線のバスに乗るべく、長良川河畔に沿って数百mを歩く。


 折からの冬至、まさに暮れなぞむ長良橋周辺は鵜飼シーズンの夏とはうって変わって静謐な佇まい。
 川面へ映り込む金華山と岐阜城、その水面を滑るかのように静かに下る川船が一艘、そしてシーズン中に活躍した遊覧船などが静かに憩う船溜まり。それらが、第九の最終楽章のアップテンポな部分の合唱とオーバーラップして、遠い日のデジャヴをなぞるような少しばかりの感傷をはらんだ懐かしい気分に満たされる。

              

 そして、心のどこかで思う。これは死ぬ瞬間に思い浮かべてもいい風景だなと。

    

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記念ガラ・コンサートは赤ワイン付きで・・・・@岐阜サラマンカホール

2019-11-17 15:25:30 | 音楽を聴く

 岐阜サラマンカホール会館25周年記念 ガラ・コンサートにいってきた。
 25年前というと、まだ居酒屋稼業に追われていて、コンサートもままならなかったが、リタイヤーして即、サラマンカメイトに入ってから20年近くになる。そして、私が最も多くのライブ・コンサートを聴いたホールでもある。

   
 

 そのお祝いのようなコンサート、これは是が非でも行かずばなるまいということで、この日、重複した名古屋での、やはりクラシック関連の例会を欠席して、でかけた。
 そうした祝祭気分もあってか、通常のコンサートよりも晴れ着姿の聴衆が多かった。私はいつものドブネズミスタイルのまま。

           
 

 岐阜に工房を構えていたパイプオルガンの世界的な製作者・辻宏氏が、スペイン最古の大学都市、サラマンカにある大聖堂の、もう何年も演奏不可能だったオルガン「天使の歌声」の修復に尽力したことから生まれたサラマンカと岐阜との関係、それがサラマンカホールの由来だ。
 このホールのホワイエを飾るレリーフは、そのサラマンカ大聖堂のもののレプリカである。

           

           
 

 だから、このホールも立派なパイプオルガンをもっている。このオルガン、表面からはそれとわからないが、2,997本の大小のパイプからなっている。ちょっと中途半端な数のようにも思えるが、オルガンの上部を飾る三人の天使が吹いてる笛を加えて3,000本のパイプになるという。

 出演者や演奏曲目は下に載せるが、長年ウィンフィルのコンマスを努めたライナー・キュッヒルを始め、フルートの工藤重典、ピアノの仲道郁代、ギターの荘村清志を含めたソリスト9名に加えて、この地で活躍する若い音楽家で構成された12名による「サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ(弦楽オケ)」による演奏は、どれも奏者の蓄積した技巧を最大限に発揮したもので、ただただ楽しい演奏会というほかはなかった。

 最後の「天国と地獄・序曲」は、上に挙げた全員の参加によるものだが、そのどこかで、それぞれのソリストをクローズアップするように編曲されたもので、ジャズのコンサートなら、リーダーが演奏者の名前を改めてコールするような雰囲気であった。
 曲の終盤には、「ラデツキー」のように、客席から手拍子が起き、演奏終了後はスタンディング・オベーションと歓声が起こっていた。

              

 祝祭気分に華を添えたのは、演奏前や休憩中に振る舞われたスペインはサラマンカ近くのワイナリーで醸された赤ワイン(飲めない人にはジュースなど)だった。
 何を隠そうこの私、それ目当てに、いつもは車で出かけるのを、公共交通機関にしたのだった。
 ワインは、サラマンカ近郷特有のぶどう種・ルフェテとスペイン赤ワインの普遍的な品種・テンプラニーリョのブレンドで、スッキリしたフルーティな味わいの後に、豊かな残響が口腔に残るといった感の美味しさだった。

 こうした振る舞いワインの他に、一本3,000円で販売していて、けっこう売れているようだった。ちょっと食指が動いたが、考えてみたら、酒量が落ちた今、月極めでとっているテーブルワイン(ボルドーが主)が、飲みきれないまま、ワインセラーの中に眠っているではないか。ということで諦めた。

               
 なお、サラマンカホールでは、この25周年を契機に名古屋の篤志家から寄贈された40挺の弦楽器(ヴァイオリン22、ヴィオラ10、チェロ8)の名器を、「清流コレクション」と名付け、音楽を学ぶ若者たちに無償で貸与する事業を始めたという。名付けてSTROAN(ぎふ弦楽器貸与プロジェクト)。
 これらの楽器の大半は、イタリアのパルマ、クレモナ、プレシア、マントヴァなどで製造されたもので、弦楽器の名器を世に送り出した地区のものである。

           

 これはとてこ良いプロジェクトだと思う。無名のうちに音楽を学び続ける若者にとって、然るべき楽器を手にすることはさらにそのリスクを高めるであろう。それを側面からこうした形で支援することは、次世代の音楽家を育てるためにとても有効だろうと思う。

 それやこれやで、コンサートの残響と、口腔に残るワインの残り香を反芻しながら心地よく家路についたのだった。終演時間を30分オーバーする熱のこもったコンサートであった。
 

【演奏曲目と演奏者は以下の通り】

*R.ジャゾット:アルビノーニのアダージョ
  フルート/工藤重典 オルガン/石丸由佳
*クララ.シューマン:3つのロマンス 作品22
  ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル ピアノ/仲道郁代
*ベートーヴェン:モーツァルト「魔笛」の主題による12の変奏曲 作品66
  チェロ/へーデンボルク直樹 ピアノ/仲道郁代
*L.ボッケリーニ/J.ブリーム:序奏とファンダンゴ
  ギター/荘村清志 チェンバロ/曽根麻矢子
*ヴィヴァルディ:チェロ・ソナタ 第5番 ホ短調
  チェロ/新倉瞳 チェンバロ/曽根麻矢子
*ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53 「英雄」
  ピアノ/仲道郁代
*ボルヌ:カルメン幻想曲
  フルート/工藤重典 ギター/荘村清志
*J.シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」
  ピアノ・トリオ形式 ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル チェロ/へーデンボルク直樹 ピアノ/へーデンボルク洋

  休憩
 
*J.ウィリアムズ:スター・ウォーズ・メドレー
  オルガン/石丸由佳
*A.ヴィヴァルディ:「四季」 作品8-3 ヘ長調 "秋" RV.293
  ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル チェンバロ/曽根麻矢子
  弦楽合奏/サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*A.ヴィヴァルディ:2つのチェロのための協奏曲 ト短調 RV.531
  チェロ/へーデンボルク直樹 新倉瞳 チェンバロ/曽根麻矢子
  弦楽合奏/サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*F.ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 第2楽章「ロマンス」
  室内楽版 ピアノ/仲道郁代 サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*J.オッフェンバック/倉知竜也編曲:喜歌劇「天国と地獄」序曲
  全員合奏

  《アンコール》エルガー 威風堂々 全員合奏

 なお、岐阜つながりでいえば、荘村清志は岐阜出身 へーデンボルク兄弟は大垣藩10万石の城主、戸田家の末裔、その4代前の戸田家夫人は、ブラームスに所望されて、その眼前で琴を奏でたことがあるという。

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肉体で聴く音楽シーン@名古屋今池祭り

2019-09-18 14:42:32 | 音楽を聴く
今年も名古屋の今池祭りに行ってきた。
 懐かしい知己に会うことが出来た。

         
            
         
 今回はその音楽シーンについて書くことにしよう。
 正直いって、ともに、いつも聞くジャンルではないのだが、これらについては今池つながりということでジャンルもへったくれもなく、身内の音楽のようなものだ。
 
 今池に寄り添い、今池とともにあるようなバンドが三つある。
 そのひとつは、生粋の今池生まれ、「バレーボールズ」だ。ブルースっぽいものが主体だがその幅は広い。リーダーの森田裕氏は、私から数えて6代目の今池祭りの実行委員長だ。

https://www.youtube.com/watch?v=JpvSYiBaAoY

 もうひとつは、今池では絶対の人気を誇るロックバンド、「原爆オナニーズ」だ。
 彼らの舞台はハードだが、同時に開放的でもある。興にのった聴衆は誰でも舞台に駆け上る。そしてそれぞれのパフォーマンスを披露した後、客席に向かってダイブすることとなっている。女性もしている。
 私もしようかと思ったが、それで寝たきりになってはと思い、自重した。

https://www.youtube.com/watch?v=gCe7oOWxXv8
 
 もうひとつは、何年か前、紅白にも出た「nobodyknows+ 」である。ラップのバンドだがそのハーモニーはなかなかのものだ。
 今回は残念ながら、時間の都合で聴けなかった。

            
         

 代わりにやはり、今池祭りの常連で、練り歩きの演奏なども披露する、「ホットハニーバニーストンバーズ」を紹介しよう。とてもファミリーなバンドである。
 一見、デキシーランド風だがそれとも違う。私の感想では、「アンダーグラウンド」や「ライフ・イズ・ミラクル」の映画監督、エミール・クストリッツァが用いるバンドに似ているように思う。もっともあそこでは、チューバが音の厚みを出していたが、このバンドにもかつてはチューバがあったように思う。

https://www.youtube.com/watch?v=zXN9yXz36Ig

 最後に今一度、「バレーボールズ」を載っけておこう。
 正直いって、ラジオなどの媒体から聞こえてきても、あまり反応しない私だが、やはりなまで聴くと、肉体が反応する。

https://www.youtube.com/watch?v=82syLHoVNe0
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