六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

聞くも哀しい命名・・・・オオキンケイギクのことをこんな風に

2024-06-21 13:57:06 | ひとを弔う
       
 オオキンケイギクは今花期を迎えているキバナコスモスに似たきれいな花だが、セイタカアワダチソウと同様、特定在来植物の代表的なものといわれる。持ち込まれたのは1880年代というからけっこう古いが、急速に増えたのが先の戦後である。
 
 やはりセイタカアワダチソウ同様とても繁殖力が強く、敗戦後、日本に着陸する米軍機の車輪にくっついて、飛行場を中心に繁殖したといわれる。
 これは私の記憶をたどってもそう思われる。岐阜近辺の繁殖は、各務ヶ原飛行場を中心に国道21号線沿いに広がっていった。ひところは、今頃の木曽川の河川敷はこのオオキンケイギクの群生地として黄金色の花に埋め尽くされたものだ。
 
 この、飛行場を中心に・・・・というのはやはり全国での様子で、今朝の「朝日」、声欄のトップはかつて鹿児島県に住んでいた80代の女性からのもので、それによれば、あの戦争末期、片道の燃料と爆弾を抱えた特攻機が飛び立った鹿屋や知覧の飛行場あとに、戦後しばらくしてこのオオキンケイギクが咲き始め、人々はこの花を「特攻花」と呼んだのだそうだ。
 
 南海の海に沈んだ若者たちの魂が、黄金の花として還ってきたと見立てたのだろう。
 なんとなく、グッと来るものがあるではないか。


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亡くなっていた旧友の遺作写真作品を観る。

2024-04-17 15:54:45 | ひとを弔う

 ネットの黎明期、90年代の中頃に「パソコン通信」というものがあった。今のSNSの走りのようなもので、私はそのうちの「東海フォーラム」に参加し、いろいろな人と知り合い、情報の交換などをした。
 時折、ネットを通じないオフ会という飲み会などもあって、当時まだ居酒屋をやっていた私の店がその会場になるなど、営業上の恩恵を受けたこともある。

 その折の会員の交流はけっこう濃密で、パソコン通信がなくなり、MIXIやFB、Xの時代になってからも交流が続いている人がいまなお数名以上いる。ほぼ30年のつながりだ。

      

 そのうちの一人に、大垣市在住のTさんがいた。元国鉄の機関士で組合は国労(国鉄労働組合)に所属していた。国鉄が民営化しJRになる折、JR当局は国労から離脱し、より穏健なJRの労組へ鞍替えすることを求めた。組合の骨抜きを警戒し、それに応じない人たちもいた。そうした人たちにJRは露骨に差別待遇を行い、JRへの移行に際し、役職やこれまでの職場を取り上げたりした。

 Tさんもその一人で、かつて関西線の機関士として並走する近鉄特急とスピードを競い合ったという彼は、キオスク勤務という命を受けた。
 私が居酒屋を辞めて以後も、名古屋でのオフ会の帰りなど、大垣の彼と岐阜の私は岐路をともにし、よく話をしたものだった。
 その後、新たなSNSの時代では、そこでは合わなかったものの、彼の勤務地が岐阜駅ということで、そこで顔を合わせ、よく近況を語り合ったりした。

 彼が退職してからはそうした機会もなくなったが、つい先日、当時からの共通の友人から大垣でのある写真展の案内が送られてきて、それにはTさんの名もあったので、その写真を観ながら、うまくゆけば彼と久々の出会いを楽しめるかもと思い出かけた。

 車で出かけた。市内以外へと出るのは久しぶりだ。大垣は近い。駅まで出てJRで行き、そこからバスなどを探していいる間に着いてしまう。久々の郊外だから安全運転には心がけたが、道路も広く、ほぼ一本道で混雑もなく、あっという間に着いた。

 スイトピアセンターにある展示会場を見つけ、まず入口にいた会員とおぼしき人に、「今日は高木さんはいらっしゃいますか」と尋ねた。途端に三人いた人たちの顔に、驚きと暗い表情が走った。

       

 「ご存じなかったですか?」と逆に問い直される。「は?なにをですか?」と私。「先月、16日にお亡くなりになりました。今回のご出品はそのご遺作です」とのこと。
 驚いてその事実を確認し、私自身の自己紹介をし、個人との関係を話す。そのうえで、心を鎮め、写真を鑑賞する。もう35回の展示会を重ねるところからかなり伝統ある写真クラブだと思われる。それぞれのレベルも高そうだ。

 写真の対象やジャンルなどには統一した方向性はなさそうだから、作風については会員個人の自由な選択に任されているようだ。中にはPCでの処理を最大限に活用した抽象画風のものもある一方、あくまでもリアルな対象を明瞭に表現しようとするものもある。

 目指すTさんの作品は猛禽類を中心とした動物写真だった(他にもう一人、同様の作品を寄せている人も)。タイトルは「イヌワシ」、「琵琶湖のオオワシ」、「ハヤブサの空中餌渡し」、「ツキノワグマ母さんの授乳中」、「イヌワシ幼鳥」、「草原の貴公子ハイイロチュウヒ」の6点で、これら対象はどこにでもいるものではなく、その生態や居住区域、季節ごとの行動など、あらかじめのリサーチとそれに基づく粘り強い追跡行が必要なことはいうまでもない。加えて相手は動くもの、それを確実に、しかも鮮明にキャッチする技能が伴わないと作品として対象化しうるものではない。

 生前のTさんの、とことん対象に粘り強くこだわる性格が見て取れるようであった。とりわけ、「ハヤブサの空中餌渡し」や「ツキノワグマ母さんの授乳中」などは、珍しい瞬間をキャッチしたものとして、撮影者、つまりTさんの「やったぜ!」という表情がみえるようであった。
 見終わってから残っていた会員の方と再び多少の言葉をかわし、会場をあとにした。

          

 ところで、このスイトピアセンター、なかなか大きな施設で、他にも展示会などがありそうなのでついでにそれも観てきた。
 まずは同じ階でかなり広い空間を使って行われていた「清雅会書展」という書道展。この会は1950年代後半に発足したとあるから西濃一体を地盤とした大きな団体らしい。書は全くのド素人だから作品の評価などは出来ないが、どれも堂々としたものが多かった。むろん書体はいろいろ。
 
 特別な催しとして、太い竹に書いた文字の部分をくり抜き、中からライトを照らす書行灯のコーナーがあり、竹の内側に好みの色の紙を巡らすと、光の文字の色が浮き出すという優雅な試みだ。

 一階下では二つの絵画展をやっていて、それぞれ、絵画教室の発表会のようであった。同じモデルや同じ風景を対象とした作品もあって、作品の良し悪しというより、その習熟度が見られるということだろう。なかには、やや面白い表現というか個性的な筆使いをしている人もいる。

 それらを駆け足程度に見て回り、Tさんの訃報とその遺作のイメージを抱いたまま大垣の地を離れた。
 来月、5月の11・12日は大垣祭りでからくりの山車も出る。近所のサークルで行くことになっている。1944年に大垣に疎開して以来6年間住み続け、そのうち何回かは大垣祭りを観ている。山車では「瓢箪鯰」をよく覚えている。今回実に久々だが、その瓢箪鯰に逢えるだろうか。Tさんも何度か見ているはずだ。

 最後に改めて、Tさんの御冥福を祈りたい。Tさん、あなたの写真、観たよ。素晴らしかったよ。

 写真はいずれも大垣スイトピアセンターの庭で。

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水田洋さん逝く・・・・103歳までご苦労さま

2023-02-07 00:04:50 | ひとを弔う
 この三日、アダム・スミスやホッブズさらには社会思想史などの研究家にして市民運動家でもあった水田洋さんが103歳で 亡くなられた。いろいろな筋から、この日が遠くないことを告げられていたので、覚悟はしていた。
 水田さんとは、特に師弟関係ということもなく、個人的に深い交わりがあったわけでもないが、私の20歳前後からいわば付かず離れずのお付き合いがあり、お元気な折の最晩年までお付き合いがあった。

       

 水田さんと私とは、ちょうど20歳位の年齢差がある。
 最初の出会いは、私が学生自治会の役員などをしていた1950年代の晩年、教職員勤務評定かあるいは警察官職務執行法改定かのどちらかへの反対闘争(それらはあの60年安保闘争の前哨戦とも位置づけられるものであった) を展開している折であった。私たち学生は教育、ないしは警察権の重要な変更の節目に当たって、 これらは先の敗戦の結果としてもたらされた戦後民主主義を後退させる脅威であるとして、反対の意思を固めていた。そしてその意思表示の形として、ストライキで もって闘うことも辞せずとしていた。

 そうした私たちの動きに対して、それを説得すべく学校側が派遣したのが水田洋さんであった。当時水田さんは、新進気鋭の左翼経済学者として、私たち学生の間にも広くその名を知られていた。思うに学校側は、 学生にウケが良いその水田さんを派遣することにより、私たちの闘争をより穏便に収めることを図ったのであろう。
 水田さんは語った。
「私もこの法案に反対である。 しかし、闘い方にはいろいろな方法がある。今諸君が選択しようとしているストライキは、いわば伝家の宝刀である。それを安易に抜くことは 許されない」と。

           

 「ナンセンス!」の声が飛んだ。 私たちストライキ派は、その声に励まされるように水田さんに反論をした。「伝家の宝刀、宝刀といっても、いつまでもそれを抜かなければそれは錆つき、単なるなまくらに堕してしまう。 必要な時に抜いてこそ伝家の宝刀であり、そしてそれは今なのだ」と。

 その折の、学生大会の結果がどうなったのかは覚えていない。当時の学生自治会運営は、後の学生たちからポッダム自治会 と揶揄されるほど民主的になされており、行動方針等は、一党一派の思惑を超えて多数決によって決定されていた。これが60年安保を経過して、多数の新左翼各派が それぞれの全学連=自治会を名乗ることにより、それが党派による複数の学生組織になってしまったのも周知の通りである。

           

 学生組織の話はともかく、これが水田さんとの最初の出会いであった。その後は学部の違いなどもあって交流する事はなかったが、極めて私的な話では、 私の義理の弟が水田ゼミに入り、その彼のさまざまな事情につき、その適性をめぐって水田さんと話し合ったことがあった。

 さらに 水田さんとの関係が深まったのは、いろいろあって私が名古屋は今池の地で居酒屋を開店した折であった。水田さんに最初会ったのは彼がまだ助教授(今の準教)の時代であったが、 それから何十年も経過したその頃には、名誉教授の称号を持ち、同時に各種市民運動の顔として広く名を知られていた。
 まさにその時代、今度は居酒屋の亭主である私と、そのいわば常連客のような形での 水田洋さんとの付き合いが始まったのであった。 個人的にもよく話を交わしたのはその時代であった。

 30年間にわたる居酒屋生活を終えて、岐阜の地に引っ込んだ私は、水田さんと会う機会もほとんどなくなったが、水田さんからは彼が主宰する同人誌「象」 が送られてきたし、私もまた自分が参加ししている同人誌を送ると言う関係が継続した。
 そんなこともあって、かつての 水田ゼミのメンバーが中心になって行われる勉強会=読書会に招かれることとなり、そこで再び三度、水田さんとお目にかかることになった。 水田さんが100歳になった頃であった。

           

 その会での水田さんはとても元気で、全体の討議に注意深く耳を傾け、しかるべき見解を述べるなど、今なお 現役を思わせるものがあった。その後の二次会にも、ご自分の足で数百メートルの距離を歩き、元気に飲み、そして歓談するのだった。
 私が参加するようになって以降、そんな機会が2度ほど訪れたが、残念なのはコロナ禍によってその会が中断されてしまったことである。 そしてその間に、水田さんは体調を崩されたようで、それがこの訃報になってしまったわけである。

 私は水田さんの業績をつまびらかに知るものではないし、また、その運動や思想の全てにわたって意見を共にしたわけでもないので、その業績を讃えたり、 顕彰したりする文章を書くことはできない。ただしほぼ60年間にわたり、付かず離れずのお付き合いの中で、これほど元気にその折々の課題に 取り組んできた人を知らないし、その意味では稀有な人であったと思う。

 もう少し、その晩年から見た水田さん自身の回想のようなものを聞きたかった。それは私が招かれたあの勉強会の二次会で可能だったかもしれないと思っているのだが、それが、コロナ禍で中断されたのは、かえすがえすも残念だった。

 なにはともあれ、水田さんの一世紀以上の生命を思い、その霊の安からんことを祈る次第だ。
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私に出来ることはなかったのか?今年四っ目の訃報に際し。

2023-01-17 17:54:09 | ひとを弔う

 今年四っ目の訃報、私の二周りほど下の六〇になったばかりの女性・・・・しかもどうやら・・・・。
 ネット上のみの知り合い女性、だが、付き合いは二〇年以上で、その私生活もかなり知っていた仲だ。

 予兆はあった。昨年はとても危険な状況で、メッセや手紙で必死に説き伏せ、一時は回復した模様なので安心していたのだが、やはり、そうした事態にはド素人の私、その力の限界を知らされてとても打ちのめされている。

 なにか、私がすべきこと、出来ることがあったのだろうか?一人息子と連れ合いとの生活、その連れ合いも彼女の危機をよく知っていたはずで、しかも専門医にかかっているということで、私の出る幕ではないと思っていた。住まいも遠方なのでおいそれと逢うわけにもゆかなかった。

 なんか虚しい。
 ネット上のコミュニティでは、「モーツァルト」「鶴見俊輔」「ハンナ・アーレント」などが共通で、よく勉強していた人だった。
 私の方からの同人誌も送っていて、とても適切な感想などもくれた。
 それなのに・・・・。

 ネット上での書き込みなども、彼女自身が自らほとんど消していしまっているが、私と遣り取りをしたメッセが残っているので、差し障りのない範囲でそれを載せておく。
 いずれも昨年のもの。

    

彼女しばらく一か月以上も不明熱が出て、コロナでもなく風邪でもなく、毎日発熱していたので、雑誌をお送りくださったお礼が遅くなりました。ありがとうございました。〈略〉お身体ご自愛ください。

ご様子が良くないとのこと、お見舞い申し上げます。
 原因不明の発熱とか、別の病院のセカンドオピニオンもお聞きになり、適切な治療法が明らかになり、早く全快されることを祈ります。
 〈略〉
 〇〇さん あなたが息子さんをいかにいつくしんでお育てになったかの経過はよく存じています。一時的に離反しても、また何かの機会に復縁します。絶望することなどありません!
 
 (この間、どうも危険だと思って手紙や葉書を送っている)

彼女お葉書いただいて、感動しました。よく理解してくださっているので、気持ちが安定しました。薬50錠飲んでホテルをとって死ぬ予定だったのに、バカなことにまったく眠たく成らない薬で、福島に帰省していた夫が警察に捜索願を出したので、警察がホテルまで来て大騒ぎになりました。息子のことを考えるとまだ死にたくなるので、なるべく子離れしようとおもっていますが、大切に大切に育てた子ことをそんなにすぐに忘れられません。息子のことをなるべく考えないようにしています。衝動的に死のうとしたのは、鬱が重いからです。来週医者に行くので、相談してきます。本当にご親切にお気遣いいただいて、ありがとうございました。

ふーっ、驚きました。でも大禍なくてよかったです。
 いいですか、あなたは息子さんとの関係だけで生きているわけではありませんよ。あなたの周辺の様々な方との関係、お連れ合いやその他の縁者の方、友人、それらの方々はあなたを支えるとともにあなたに支えられてもいるのです。
 私についていえば、あなたは古き良き今池の思い出の共有者、私のお送りする同人誌の長年にわたる良き読者として私のなかに生きていらっしゃいます。
 SNSでも、いまはそれ自体が衰退傾向ですが、私の他のご友人が心配して書き込んでいらっしゃいました。
 あなたと息子さんとのご関係が、いまあまり良くない状態に陥ったという事実を無視するわけではありません。あなたの悲しみもある程度わかります。
 ただし、あなたが生きていらっしゃるのはそこだけではありません。時間的にも、空間的にも、もっとゆったりした視野でお考えになり、それはそれで限定された事態であり、あなたの全人生を決定するものではないことを肝に銘じてください。
 人の一生、見通すことなど不可能ですが、いつかそれらの事共が笑い話に転じることだってありうるのです。
 息子さんの件、強いて忘れる必要もないと思います。それを気遣いながらも、それを気遣っている自分が息子さんとは独立して存在していて、ご自分の固有の生活をお送りになるということでいいのではと思います。
 いずれにしても、来週、専門の医師とお会いになるとのこと、ご自分の状況をうまくお伝えになり、医師のアドヴァイスを引き出すようにしてください。もし、そのアドヴァイスと、私がここに書いたこととが矛盾するようでしたら、躊躇なく、私の方をお忘れください。
 私がして差し上げることができるのは、こうして言葉を交わすぐらいです。それでお慰みになるようでしたら、メールでもなんでもください。

(これについてはメールで返事が来たが、それはまあ、安心できるものだった)

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義弟が逝った!

2021-12-13 01:12:04 | ひとを弔う
 義弟が逝った。
 恩義がある人だった。
 家業の材木商を継がせるために養子に引き取られたはずの私が、ワガママでそれを放棄したあと、妹と一緒になって見事にその任をやりおおせてくれた。
 私が、なんやかや曲折がありながら、やりたい放題の人生を過ごせたのも彼のおかげである。

           
 父母の実家も、義弟の家も、そしてわが家も近かったため、正月はむろん、何かがあると集まり、喋り、よく飲んだ。父も彼も、そして私も結構飲むタイプだったので、正月などは、ビールの大瓶が1ケース空き、さらに一升瓶が2、3本転がる始末だった。

 父は、こと木材にかけては、どこからどう挽いたらどこにどんな節や木目が出るかがちゃんと分かる、その点ではどんな大学の偉い先生にも負けはしないと豪語していた。そうした目利きは、こと銘木店に関しては欠かせない能力である。
 義弟はそれをよく学び、父を凌駕するほどであった。事実、晩年の彼は、しばしば木材に関する講義の講師に招かれた程であった。

 よく喋り、よく飲んだ。ともに飲むといささかせわしなかった。というのは、彼は勧め上手で、私の盃が空くか空かないかに、「さ、お兄さんどうぞ」と注ぎはじめるのだ。
 なんやかや振り返ってみても、彼との想い出のなかに不快な事柄はない。

 そんな彼に思わぬ厄災が取り付いたのは10年ほど前だろうか。
 アルツハイマー型の認知症がやってきたのだ。
 最初は自身が混乱して苦しんだようだ。しかし、やがてそれが常態になり進行していゆくのだが、そうした頭脳の損傷は彼の健康を維持すべきバランスをも崩すものだった。
 
 背も高く、私より遥かに頑強な身体をもっていたのだが、次第に衰弱に侵されていった。
 栄養吸収能力も失われ、身体はやせ衰えた。そして力尽きるように、静かに息を引きとった。
 その日が近いことを知った妹の家族が、入院先から自宅へと引き取り、最後の10日近くを住み慣れた家で過ごせたのはよかった。

          

 しばらく逢えなくて、お棺に入ってからの再会であったが、やせ衰えてはいたが、どこか穏やかに落ち着いた顔つきで、ちゃんと着くべきところへ着いたといった自負のようなものを感じさせた。
 「長い間ご苦労さん」は自然に口をついて出た言葉だ。家族たちがお棺に花を入れる際、私はなによりも紙コップに移されてはいたが、吟醸酒を彼の口元近くに置いた。
 
 「さ、お兄さんどうぞ」と私に注いでくれたお返しだ。
 もうすぐ、私もそちらへ逝くから、その際また飲もう。それまでは先に逝っている親父とよろしく飲んでくれ。

 

 
 

 

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水無月はじめの絵日記

2021-06-05 17:50:20 | ひとを弔う

 六月は梅雨時で水に縁の深い月なのになぜ水無月なのか、それは「無」は「なし」ではなく「の」の意味で「水無月」=「水の月」だからだという。水無月を「水月」と表記することもあるようだ。
 以下は、その月始めの絵日記。

         

 午前中、返却日のため開館を待ちかねて岐阜県図書館へ。岐阜市の非常事態宣言に伴い、ご覧のように「臨時休館」。ただし、カウンター業務はやっていて、返却と予約をしたものの貸し出しのみはやっている。
 5冊を返し、3冊を借りる。

         

 慌てて帰宅し、かんたんな食事を済ませ、姉の通夜と葬儀のため着替えて出発。
 県外はおろか、市外へ出るのも今年3月以来。

         
            

 名古屋から新幹線で三島へ。名古屋の新幹線ホームは人の姿もまばら。果たせるかな、乗車した2号車自由席は私一人のみの貸切状態。
 途中でそれぞれ一人づつ乗ってきて、三島へ着いたときには三人。私が降りて二人っきりになったが、おそらく東京まで五人は乗らなかったのではないか。
 なお、好天ではあったが、富士山は、「頭を雲の上に出し」状態。

           

 三島からは伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り伊豆仁田へ。
 電車はアニメかなんかのラッピング車両だったが、それがなんだかはわからない。
 来年の大河ドラマはこの辺ゆかり北条一族、とりわけ北条政子に縁深いとあって、駅構内や沿線に幟や旗が賑々しい。

         
         
 
 駅には私の姪のそのまた子どもが迎えに来てくれた。姪の子といっても、もう立派な成人だ。

 姉の家を外部から一望し、通夜の行われた葬儀会場へ。あまり会ったことのない親戚たちと引き合わされる。
 別のところで書いたが、姉と私は、母の病死、父の戦死に伴い、幼くして別々のところへ養子に出され、それ以後、四〇歳を過ぎるまで相互に逢うことなく過ごしてきた。だから、お互い八〇余年の生涯で、交流があったのは後半の四〇年ほどにとどまる。

         

 四〇歳過ぎに、姉が私を探し出してくれての出会いはそこそこ感動的で、それを事後に聞いたTVのディレクターからその頃流行りの「再会番組」に出ないかと誘いがあったが、もう逢ってしまったのだからといって断った。
 彼は、「それでも初めてのフリで出ればまんざら嘘ではないのだから」といっていたが、それも断った。彼の言葉から察するに、この種の番組、そうしたヤラセや仕込みがやはりあったのではないだろうか。

         

 お互い、子供の頃を知らないから、姉弟喧嘩をしたことがない。もちろん、再会してからも。そして相互の青春時代も知らない。それらはホームドラマなどで想像するしかなかった。

         

 通夜のあと、飲める者たちで姉を偲んで献杯と歓談。姪のうちの一人の連れ合いは、岩手県宮古の出身で、一〇年前の津波で身内の三人を亡くしている。そのうち、彼の弟は車の修理業をしていて、高台に逃れる余裕はあったにもかかわらず、顧客から預かっている車を避難させねばと、とりに行って津波に飲まれたという。

 夜は、姉の家でまさに姉の寝ていたベッドで休んだ。
 
 翌日の葬儀もとどこおりなく終り、三島の郊外の焼き場で焼かれ、姉は真っ白な骨となった。

         
 
 伊豆半島の付け根あたりの、ぽっこりとした山々が印象的だった。

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その生涯の半分しか交流のなかった姉がみまかった!

2021-05-31 01:22:57 | ひとを弔う
 
 
 静岡県に住む姉が八十余年の命を閉じた。私より二歳上。
 お互い八〇年余の間、交流があったのはその半分の四〇年ほどでしかない。

 両親を病や戦争で亡くした私たち姉弟は、幼くして全く別々のところへ養子に出されたまま互いにその消息はわからなかったのだ。

 それを四〇歳過ぎに姉の方が私を探し出してくれ、以後、交流を持つこととなった。それだけに、お互い、その後の交流を大切にしてきた

 その最後の別れ、六月一日の通夜、二日の告別式には老骨にむち打ち、伊豆半島の付け根まで出かける予定。

 姉よ、安らかに眠れ! あなたのことは決して忘れない。

 

子供の頃、童謡の「花かげ」を聴くと、なぜか生き別れの姉のことを想い、胸キュンになったものだ。

1.十五夜お月さま ひとりぼち   
  さくら吹雪の 花かげに   
  花嫁姿の お姉さま   
  車にゆられて 行きました  

2.十五夜お月さま 見てたでしょう   
  さくら吹雪の 花かげに
  花嫁姿の 姉さまと   
  お別れおしんで 泣きました  

3.十五やお月さま ひとりぼち   
  さくら吹雪の 花かげに
  遠いお里の お姉さま   
  私はひとりに なりました

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コロナが奪った私の先達 大牧冨士夫さんのこと

2021-02-04 01:42:03 | ひとを弔う

コロナ禍をけっして対岸の火事だと思っていたわけではない。ただ、私やその周辺、知己のもとへはそう簡単に及ばないだろうと漠然と考えていた。
 しかしそれは突然、思いがけぬ結果を伴ってやってきた。
 私がリタイアーした後、参加させてもらった会や、そこから派生した同人誌で、同郷岐阜県の先達として親しくしていただいていた大牧冨士夫さん(1928-2021)に襲いかかり、その命を奪ってしまったのだ。

              
          在りし日の大牧さん 先に逝った同人のお別れの会で

 大牧さんとのお付き合いは20年弱とさほど長くはない。しかし、ある程度濃密な関係をもたせていただいた。
 最初の出会いは、名古屋での月一、最終木曜日の会合、「もくの会」であった。二人とも毎回の十数人の出席者の一員ではあったが、岐阜からの参加は大牧さんと私のみということで、その往復にご一緒することから接触の機会が多かった。

 その後、その会は解散したのだが、そのうちの有志で同人誌を発刊しようということになった。大牧さんも私のそのメンバーで、やはり月一の名古屋での編集会議に岐阜から参加した。
 当時、私は年間70本ほどの映画を観ていて、名古屋へ出た帰りはそのチャンスであった。大牧さんはよく、「今日はどんな映画を?」とお訊きになり、私の概説に興をもたれると一緒に行くとおっしゃったりした。

           

 そんな関係が、その同人誌が存続した8年間にわたって続いた。
 同人誌が最終刊を迎えたあとも、私のブログなどを通じてのお付き合いがつづき、何かとコメントを頂いたりした。

 最後の頃の接触は、なんかの拍子に、大牧さんからクラシック音楽についてのご質問があり、それにお答えしたりするうちに、その概論などをレクチャーせよということになり、広く浅い知識しかもち合わせてはいないものの、大牧さんのご要望ならと、ビッグネームの著名な作品や、私の好みのCDを持参して2,3度ご自宅を訪れたりした。

           

 昨年は、一度もお目にかかれなかった。コロナ禍のせいである。それが落ち着き、暖かくなったらまたCDを持参して・・・・などと考えていた矢先の訃報だった。
 手元に、大牧さんから頂いた年賀状がある。
 それには、大牧さんのご出身地であり、徳山ダムで水没するまでそこにお住まいがあった徳山村の懐かしい行事の模様を記録した写真が載っている。
 そして手書きで添えられているのは、「同人だったみな様はお元気なのでしょうか」とかつての同人仲間を気遣う文字が・・・・。

        
         大牧さんの故郷徳山村はこの湖底に眠っている

 大牧さんが語ったり、その自伝的三部作で知りえた ことどもを以下にまとめて、私自身の記憶にとどめようと思う。

           

■大牧さんは今では全村がダムの湖底という徳山村で生まれ育った。その模様は『ぼくの家には、むささびが棲んでいた―徳山村の記録』(編集グループSURE 以下の書も同じ)に生き生きと書かれている。
 今はなき山村の貴重な記録である。またそれを語る大牧さんの目の付け所、語り口も独特で面白い。この冊子は、大牧さんが1944年、16歳の折、最後の少年兵として村を出るところで終わっている。

           

■大牧さんは少年通信兵として新潟で敗戦を迎える。国内でしかも通信兵ということで前線からは無縁で安全だったかというとそうではない。
 戦争末期、軍は一人でも兵員を前線に送り出したかった。そのせいで、大牧さんの一期上の通信兵たちは総員300余名、フィリッピン戦線へと送られることになった。ところが、その途上、米軍の潜水艦により輸送船が撃沈され、100余名が虚しく散ることとなった。もう少し、戦争が長引けば、大牧さんの命も保証されなかったろう。
 この辺のくだりは、『あのころ、ぼくは革命を信じていた―敗戦と高度成長のあいだ』の前半に詳しい。

 敗戦後、大牧さんは通信兵の技術と関連する郵便局員となる。そこで出会ったのが労働運動である。郵便局員の組合は今はなき全逓(全逓信従業員組合)で、総評(日本労働組合総評議会)傘下でなかなか強い組合であった。
 若い大牧さんは、労働組合運動に留まるのみではなく、革命運動にまで突き進む。共産党に入党し、ソ連からの引揚者の出迎えなど戦後特有の活動に従事するうちに、なんと、1949年には郵便局を退職し、岐阜市の共産党組織の専従者になってしまうのだ。

            
      大牧さんが愛し、しばしば雅号に使っていた徳山村と福井県鏡の冠山

 しかし、現実は甘くはない。給与が出ないのだ。貯金も使い果たし、食うものも食わずの生活で健康を損なうこととなり、その年の終わりには故郷の徳山村へ帰ることとなった。
 事件はその後に起こった。岐阜市の党組織から岐阜県の党組織へ上納されるはずの金額が入金されていないことが発覚したのだ。当然、大牧さんが疑われた。
 やがて真相が明らかになった。大牧さんが毎月、その上納金を渡していた共産党の岐阜県委員会の県委員が、その金を自分のぽっぽに入れていて、ついにはまとまった金を持って失踪してしまったのだ。

 戦後しばらくの共産党は、そんな不祥事が絶えなかった。党費で芸者をあげて豪遊したなどということもあったようだ。戦後のどさくさ紛れに、「さあこれからは革命だ」と先物買い的で理念もなにもない山っ気のある連中が大きな顔をしていた。そんな奴ほど、「ソ連と言ってはならない。ソ同盟と言え」とか、「恐れ多くも『ソ同盟史』という書籍の上に何かを置くとは何ごとか」などと威張り散らし、天皇とスターリンを置き換えただけといった有様だった。

 そんななか、大牧さんは失われた学問の機会を取り戻すべく、大学への入学を果たし、さらには就職先にも恵まれ、文学運動に情熱を傾けることとなる。『岐阜文学』や『新日本文学』がその活動の舞台であった。自身の作品もあるが、後年には、中野重治とその妹・鈴子に関する研究の第一人者となる。
 なお、この頃の読書会に、当時の民社党系列の全繊同盟という反動的で会社の労務管理の下請けのような組合の監視の目をくぐり抜けて参加していた女性・フサエさんと結ばれることにより、二人は終生の連れ合いとなった。

            
               お連れ合い、フサエさんの著書

 そして1963年春、大牧夫妻はこれまでの活躍の場・岐阜を去って、教員不足に悩まされていた故郷徳山村の小学校教諭として帰郷することとなる。

■徳山村での暮らしは、もともとここで生まれ育った大牧さんにはともかく、都会育ちのフサエさんにはいろいろ大変だったようだ。しかし、二人が力を合わせてそれを乗り切る様子は、『ぼくは村の先生だった―村が徳山ダムに沈むまで』に詳しい。
 波乱の戦後を経て、故郷へ落ち着いた大牧さんだったが、その故郷は以前とは違う様相を見せ始めていた。
 戦後の高度成長から取り残された山の村は、次第に過疎化し始めていた。その衰弱を見透かすように、全村水没という例を見ないようなダム建設の話が急ピッチで進みはじめた。そして1985年、大牧夫妻の徳山での20年余の生活は、与えられた代替え地(岐阜県本巣郡北方町)への移転という形で終止符をうつことになる。

            

 私がお付き合いいただくようになったのはその後のことである。穏やかな大牧さんの風貌のもとに、波乱万丈の物語があったことを知ったのもお付き合いをはじめた後であった。大牧さんはそうした出来事をうまくご自身の栄養にされたと思う。
 一見、淡々と語るその口ぶりや文章のなかに、ハッと衝かれるものが散見できるのも、修羅場ともいえる場面をもふくめたその場数のせいであろう。
 今となっては、もっともっといろいろ聞いておけばよかったと悔やまれるが、晩年、フサエさんを交えてご自宅の縁側でクラシックに耳を傾けた記憶、それから、これはまだお互いが知り合う前だが、私もまた、水没前に数度にわたって徳山村に足を運び(渓流釣りのためだが)、大牧夫妻が見ていたであろう同じ風景を見たという自負とが大牧さんの記憶を親しいものにしている。
 ただし、悲しい思い出もある。
 ダムが完成し、貯水しはじめた折も2,3度行ったことがあるが、大牧さんの職場だった村の高台の小学校にその水が迫り、ついにはその姿を完全に覆ってしまったことである。

 徳山村は大牧さんが生涯抱き続けた原風景であり原点でもあった。その愛した故郷は今も湖の下で静かに眠っている。少々冷たいけれど、大牧さんはそこへと帰っていったのだろうか。
 そういえば、大牧さんのPCの大型ディスプレイの待ち受け画面は、在りし日の徳山村漆原(しつはら)の写真であった。大牧さんとフサエさんが、ここにはなになにがあり、この道をこちらへ行くと何があってと、二人で競い合うように、目を輝かせて説明してくれたのはつい一昨年のことだったのに・・・・。 
 
*Wiki による大牧さんの紹介は以下の通り。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A7%E5%86%A8%E5%A3%AB%E5%A4%AB

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あさきゆめみしゑひもせす

2021-01-31 18:00:49 | ひとを弔う

        

 またひとつ訃報を聞いたのだが、最近、亡くなってしまった私の相方や親しかった人びと、友人などが、そして父母などがしばしば夢に出てくる。
 夢の中では亡くなったという意識はなく、普通に話したりともに行動したりしているのだが、醒めてから、ああ、あの人はもういないんだと改めて気づき、しみじみと寂しくなることがある。

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【初冬の惜別】先達にして戦争の語り部「お髭の斎藤さん」を送る

2020-11-29 15:44:07 | ひとを弔う

 慶弔というが、この歳になると慶事にはめったにお目にかからない。慶事は孫の世代の出来事であり、自分の孫でもない限りその場に招かれることはない。

        
         初冬の落陽は早い 斎場への道は黄昏れつつあった

 それに反して、弔事は頻繁になってきた。年長の世代、同年輩、そしてやや年下の人の場合もある。ただし近年は、高齢で亡くなられた場合の通夜や葬儀はお身内でひっそり行われる場合が多いので、それに出る機会もあまりない。
 それでもその方が、特殊な分野で独自の活動をされていて、それらの分野で親しかった人々とのお別れの機会が設けられることもある。

             
 今回、亡くなられた齋藤孝さんはそんなひとで、多方面にわたって活躍された方である。現職時代は地方公務員(名古屋市職員)で、この市が革新市長をいただき、さまざまな福祉分野でその実をもたらした折、それを支えたメンバーのひとりでもあった。

 その傍ら、「時計台」という市職員の文芸サークルで活躍され、その文芸への関わりは生涯にわたるものとなった。
 私との関わりもその延長上で、既に亡くなられた斎藤さんの同僚・伊藤幹彦さんの呼びかけで同人誌「遊民」が発刊される折、私もその末席を汚す同人にお誘いいただいたのだが、斎藤さんもまたその中心メンバーであった。ちなみに「遊民」=「Homo-Ludens」という命名は斎藤さんの提唱によるものだった。
 その折がはじめてではなく、それ以前も月イチの会(もくの会)でお目にかかってはいたが、親しく言葉を交わすよになったのはその同人誌時代であった。月一回の編集会議では、編集に関わる話のみならず、斎藤さんの自由闊達な数々のお話を伺うことができた。

             
 ほかに、俳句のサークルを主宰され、宗匠なき句会と言われていたが、Sさんはその宗匠的な立場でいらっしゃったと聞いている。
 その他さまざまな分野で精力的に活動されたが、欠かせないのが、「戦争と平和の資料館・ピースあいち」での語り部としてのご活躍だ。その実体験と、戦時歌謡曲などサブカルへの見識を取り混ぜた斎藤さんの語りは、小学生から大人までを包摂する説得力のあるものだった。
 とくに子どもたちからは、「お髭の斎藤さん」として親しまれていたという。斎藤さんの話を聞いて、戦争や平和への関心をもった子どもたちや既に成人した人たちはかなりの数に至る。斎藤さんの遺志は、そうした若い芽の中に、厳然として生き続けている。

          
               同人誌仲間の岐阜への遠足から
 
 私はよく、ハンナ・アーレントの、「人は必ず死ぬ。ただし、死ぬために生まれてきたのではない」という言葉を引用するが、これは、人は既存の一定の世界へと生み出されるが、それを契機にその世界と有機的に関わり合い、その世界へ何がしかの痕跡を残して去ってゆきたいものだという願望をも含む。まさに、斎藤さんはその足跡をもって「生まれてきた」証を残して去って行かれたと思う。

 お別れの会に出席した私どもが頂いた品に添えられた冊子は、「戦争と平和を詠む」と題したもので、生前の斎藤さんの詠まれた句と短歌、そしてそれに添えられたエッセイ風の解説を掲載したものであった。

            フォト
 それらから、若干を引用して斎藤さんへのレクイエムとしたい。

  爆弾が落ちてこぬ空運動会
  赤蜻蛉飛ぶその先にオスプレイ
  秋光や無念を語る無言館
  敗戦日一人ひとりが背負うもの
  戦場や兵士徹宵冬銀河
  消えていく虹老兵も消えていく
  夏草や朽ちし墓石に「上等兵」
  遠花火はるかなる日の砲の音
  苦瓜や戦場の地にいまたわわ
  仰向けの墜死や蝉の敗戦日

  縄文の遺跡の丘に残るもの高射砲置く土台の金具
  またしても工事現場の不発弾立入禁止の街は静寂
  戦争の吾の話を聞きし子らハイタッチしてさよならをする
  広島をヒロシマと書くその日から平和を願う灯がある
  敬礼の肘が下がっているだけで往復びんた受けた遠い日

 なお、この冊子は以下のような言葉をその結びとしている。
 「20世紀は戦争の100年だった。21世紀こそは平和な歳月にしたいと誰しもが思ったであろうが、未だ戦火が絶えない。国同士の戦いはないにしても、内戦があり、自爆事件が絶えない。私の歌は私の命が続く限り、この地球から戦争が亡くならない限り、歌い続けることになるだろう

 斎藤さん亡き後、この歌い続ける行為は、遺された私たちに託されている。

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