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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「オール電化にしませんか」ですって

2012-07-31 04:17:06 | 社会評論
  間の悪い時に間の悪い電話をしてくる奴がいるものだ。
 先般のことだ、体調がいささか優れぬところへもってきて、期限付きで書かねばならないものが書けないでイライラしている時にその電話はかかって来た。
 旧財閥系の名前を頭にして、あとは横文字というややっこしい会社からだった。

             
 
 「あのう、本日はオール電化のお話ですが・・・」という切り出しに、いつもなら「間に合っています」とか「あ、ちょうど息子がその関連の仕事をしていまして」とかいって切ってしまうのだが、冒頭に書いたようにその時は虫の居所が悪かった。

 「あなたねえ、節電だの何だのいわれている折にオール電化はないでしょう」
 という私の問に、彼は得たりや応と答えた。たぶんそこまではマニュアルに書いてあったのだろう。
 「それがですね、当社の機器は省エネの最先端でして、現在の要求にぴったりなのですよ」

           


 「なるほど、それはいいですね。ところで政府は原発を再稼働しない限り、計画停電もあるといっていますね。おたくのオール電化は停電中でも動くのですか」
 「いや、それはですね、原発も再稼働して電力ももう足りていることですから」
 「ほおう、じゃあ、おたくのシステムを採用するということは今後共原発に依存しその再稼働に賛成し続けなければならないわけですね」
 そのへんまで来るともうマニュアルには書いてないらしくてしどろもどろだ。
 「いやあ、そこまでは申し上げていません」
 「でもそうなるでしょう。原発再稼働に賛成しないと計画停電だぞって政府がいってるんですよ。ところで、私は再稼働に反対です。したがっておたくのシステムを採用するわけにはまいりません」
 と、そこで電話を切った。

 相手は単なる雇われのオペレーター、そんなにいじめても大人気ないと少し反省はした。でもあっけらかんと、「もう電力は大丈夫ですよ原発がありますから」と明るい声で言われると「なんとおっしゃるウサギさん」といいたくなろうものである。

              

 実はもう三年ほど前、出入りの業者からオール電化を勧められたことがある。
 老化が進む私にとって、ガスの消し忘れなどはないだろうかと確かに不安はあった。しかしその折は調理用のコンロにIH方式を採用したのみで、鍋用のテーブルコンロ、風呂などにはガスを残した。

 今回の原発事故で、それが正解であったと安堵している。
 原発を再稼働しない限り、電力の供給はおぼつかないというのは多分に原子力ムラの恐喝ではある。しかし、それに屈しないためにも、止めるものなら止めてみろという構えは持っている必要があるだろう。

           

 彼らの最も卑劣な恐喝は、例えば医療機関などでも電気が止まり、人命が失われるぞるぞというものである。しかし、考えてみればいい。多くの不必要な電力を制限すれば人命に関する停電などまったく不必要であるにもかかわらず、もし、それをすることなく本当に停電を強行するならば、殺人者はまさに原子力ムラの仕業という他はないのだ。

 私のうちへ電話をかけてきたオール電化の勧誘会社は、頭に「◯菱」とつく会社で、考えてみれば、その頭目は原子力発電所の設備全般を請負い、原子力ムラの財界部門の代表的な企業であり、電話をかけてきたのはそれを筆頭とする一門の末端の会社なのだろう。

 

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「お宝鑑定団」もびっくり 中国の「弁当壺?」

2012-07-29 13:35:41 | よしなしごと
            

司会者
「中縞先生、この壺はいかがですか?」
中縞正之介
「いや~あ、いい仕事してますね。これはですね、清朝の頃から中国の山西省などで農民が使っていた弁当用の壺なんですね。弁当といっても、あちらでは朝からもって出るということではなく、野良仕事をしている人に届けるようなんです。温かい主食や副食を届けるためにこんな壺を使うのですねぇ。
 この色合がいいですねぇ。日本の志野などに見られる深い緑、それに気取りやてらいがない高台の素朴さ。これはですね、高台をもって釉薬にサッと付ける、そうした単純な作業によるものなんですねぇ。それは壺の内側を見てもわかりますね。
 それからこの素朴な紐、これもいいですね。これが工芸品やおみやげになると籐やアケビの蔓で編んだ紐をつけたりするのですが、そうではなくて単に麻の紐で結んである、これこそが日用品の証なんですね。人びとが日常的に使ってきたもののみが持つこの素朴さの中にある味わい、これがいいですねぇ。
 お金では決して買えないものです。大切になすってください」


            

            

 たびたび、私の日記やブログに出てきて、昨秋、中国山西省の山の村を訪問した折、案内など一切の世話をしてくれたNさんが今般、日本に帰ってきた際に私にくれたおみやげです。こんな重いものをと感謝、感激です。
 この壺は、上で「鑑定団」の中縞正之介氏が述べているとおりで、その素朴さがなんともいえない味わいです。
 机の上において、筆立てや小物入れとして使うつもりです。

            

 なお、壺の大きさは、一緒に撮した金魚模様のはがきと比較してください。横にある赤い実は、Nさんがこの壺に入れて一緒に持ってきてくれたあの山の村の特産、ナツメの乾燥したものです。
 昨秋目にした、あの耕して天に至るような山西省の山の村々を思い出しながら、水割りのつまみなどにするつもりです。

 Nさん、ありがとう。

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田園、まさに荒れなんとす。

2012-07-27 03:44:42 | よしなしごと
 地方都市郊外の田畑や田んぼと住宅街がせめぎ合っているようなところに住んでいます。ここに住みだしてから40年余、おりからの高度成長期とあって瞬く間に市街化するのではと思ったのですが、その後の拡張の鈍化とともに私の住まい辺りが田舎と街の接合点になっています。

 ようするに、かつてからの集落があり、田んぼを一反(約9.9174㎡)埋めて作ったアパートなどがあり、その間に従来の畑や田圃が生きているというまだら模様のところなのです。

 最初の写真を見てください。私のうちから徒歩3分ぐらいのところですが、まばらに生えているのは草ではありません。稲なのです。
 他の田では整然と植わっているのに、なぜこんなにまばらなのかというと、ちゃんと田起こしや田均しがされ、田植えがされた田圃ではないからです。

       
 
 結論をいえば、今年から休耕田になった田圃なのです。そして生えているのは、去年の切り株から出た稲の葉なのです。人はもう、稲を作るまいと決心したのに、田は長年の稲づくりを覚えていて、このように葉を出したのです。
 それはまるで、田が「稲を作りたいよ」と叫んでいるかのようなのです。

 この田は、今年の5月、ほかの田が田植えん準備に入ったにもかかわらず、一向にその気配がなく、私をやきもきさせた田なのです。私はこの田のことを5月25日付の日記に以下のように述べています。写真も当時のものです。

 「夕方、近くを散策。去年までちゃんと耕作されてきた田んぼが、今年は田おこしもされず放置されている。三方を住宅に囲まれ(とくに南側は高い建物)、一方はバス通りという離れ小島のような田んぼなので、もう米作りを諦めたのだろうか。それとも、この農家に何か変事があったのだろうか。
 野次馬根性がむくむくもたげて気になることしきりだ。いろいろ事情はあろうが、田んぼが減ってゆくことは少なからず寂しい。」

            

 それが結局、今年から休耕田になってしまったのです。
 しかし、その休耕にとりわけ寂しさを覚えるのは私がここに住んで40年以上、ここには常に青々とした田が広がっていたからです。

 一昨年の9月13日には、私はこの田のヘリに座り込んで、稲穂を数える老婦人を目撃し、とそれに関する記事と写真を載せています。

 「たぶん、この年代の人ですと、一本一本の苗をまさに手植えをして、さらに炎天下で田の草取りをし、収穫時にはひと株づつ鎌で刈り取った経験があることでしょう。
 その背中からは、重労働であったとはいえ、稲という植物と日常的に向き合って生活してきた往時を懐かしむような感じも伝わってきました。

 そういえば、豪雨などによる増水の折、田圃の見回りに行った老人が流されて死亡するという報道によく接します。自然の脅威の前には、わざわざ見に行っても何ともしようがないように思うのですが、それでも稲を見捨てることはできないのでしょうね。
 私はそれらの報道に接すると、殉職・殉死を思います。

 この女性の背中からも似たようなものが伝わってきます。
 何か神々しいものなどというといささかオーバーでしょうか。
 彼女個人がというより、その背中を通じて何千年間かの農耕民族のたたずまいのようなものが伝わってくるのです。

 しばらく行ってから振り返ると、この老婦人、田圃へと降り立ち、わさわさと中へ分け入って行きました。
 きっと、雑草が生えているのでも見つけたのでしょう。」

       

 しかし今、私はその田がまさに死滅する瞬間に立ち会っています。取り立てていろいろなことは言いますまい。
 ただふたつだけ言います。
 ひとつは、私に背を向けて懸命に一つの穂についた稲の実を数えていた老婦人は健在でしょうか、それが気になります。
 もうひとつ、難しいことはわかりませんが、食料自給率の低下が取り沙汰されてされているなかで、こうしてどんどん休耕田が増えてゆくということは、どこか日本の農業政策に欠陥があるのではないかということです。

 自然の美しさということがいわれますが、日本の自然は徹頭徹尾、人びとの歴史的な営みによるものです。
 山林の美しさも、山の民がその生活のなかで必要な手を加えたものです。平野の美しさは、米作る民が織りなした水の経路に即した営みの痕跡です。

 今それが荒れ果てようとしているようです。
 昨年聞いた山の民の話では、山林に入ることがいまや意味を失い、山は荒れ放題で、崩れた林道ももはや修理されないとのことでした。
 田園でもまたまた同様のことが静かに進行しつつあるようです。
 自然が私たちの営みと不可分であるとしたら、そうした荒廃は自然が戻ってくることではなく、失われてゆくことではないかと思うのです。

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戦争とガラクタ(4) 戦争の決着と馬小屋の・・・・

2012-07-25 01:31:55 | 想い出を掘り起こす
 新しい写真などを用意する余裕がありませんでしたので、すでに掲載したことのあるイラストなどの手抜きでごまかしました。

(承前)前回まででOさんが行方をくらましたいきさつはお話しました。
 しかし、そんなことで国税局との戦争に決着がつくのか、あるいはまた、Oさん一家はその後どうなったのかという問題が残っていますね。

 結論を先にいますと、Oさんはやがて姿を表し、国税当局に「自首」しました。もちろん、ホームレス(当時はそんな言葉はありませんでした。しばらく後に「蒸発」という言葉が生まれ、それが今日のホームレスの系譜につながるのでしょうが)にでもならない限り逃げきれるものではありませんし、子供を抱えていてはそれもままならなかったことでしょう。その兄などの説得にあたったものと思われます。

 国税当局の措置は厳しいものでした。追徴課税の中でももっとも重い、意図的な脱税に課せられる重加算税が適応されたようなのです。具体的にいくらとられたのかは知りませんが、この局面ではOさんの敗北は誰の眼にも明らかでした。

            

 しかし、Oさんは本当に全面的に敗北したのでしょうか?
 私はそうではない方に賭けます。

 税務当局は推定される利益に対して課税します。最高40%という高率の重加算税でも、その根拠はOさんはこれぐらいの利益を上げていただろうという数字に基づきます。
 簿記や会計をされた方はご存知のように、利益の計算は仕入れと売上、並びに期首と期末の在庫によって計算されます。
 税務当局は、いろいろ調べて知り得た数字をもとにして税額を計算したに違いありません。

 しかしです、焼け跡から拾ってきた焼けマシンは仕入帳に載っていたでしょうか?それをろくすっぽ領収書も出さない現金売りで処理したものは売上に計上されていたでしょうか?期首や期末の棚卸にそのガラクタは在庫として計上されていたでしょうか?
 Oさんと一緒に消えたガラクタ(と私はいっていますが、もちろん価値あるものもたくさん含まれていました)はついに税務当局には発見できなかったというか、それを隠匿した事実すらも掴んでいなかったのではないかと思います。
 第一回で述べましたように、それを知っていたのはたまたまそれを目撃した私だけなのです。Oさんが「見なかったことにしてくれ」と頼み、その奥さんが拝むようにしていたのがそのガラクタの搬出だったのです。

            

 私のその折の目撃の記憶から言っても、私どものようなメーカーから仕入れた新品のものはその隠匿品には含まれてはいませんでした。したがって税務当局は、メーカーからOさん、Oさんからエンド・ユーザーという商品の流れを追いかけて、そこで上がったはずの利益を想定し、それに課税をしたにとどまっていたのではないでしょうか。

 Oさんが税務当局にいくらとられたのかはともかく、それはおそらくOさんの「想定内」だったと思うのです。姿を消している間に、Oさんのメモにのみあったガラクタの収集(仕入れ?)と売上の記録は完全に消去され、物的証拠のガラクタは行方知れずというか、それがあったことすら税務当局は掌握していなかったのです。
 ですから、無謀とも言えるOさんのトンズラ作戦は証拠隠滅を完成させるための時間稼ぎという点で大いに意味があったのです。
 さらにはOさんのことですから、逃亡中も無為に過ごしたはずはなく、手なずけておいた所轄の署員などから情報を収集し、その着地点やタイミングを見計らった上で「自首」した可能性が大なのです。

            

 Oさんとその家族は岐阜の三階建てのビルに戻って来ました。ただし、看板は変わって、その兄が名古屋でやっている会社の岐阜支店になっていました。Oさんは取締役岐阜支店長です。
 私はその後もそこへ行っていましたが、ことのいきさつはあまり詮索しませんでした。
 しかし、ある時、二人だけになった時に訊きました。
 「支社長、ところであのガラクタはどこへやったの?」
 「バカ、あれはガラクタではなくて未だに宝の山だ」
 という答えが帰って来ました。
 どうやら、それが必要な顧客がいると、こっそり取り出してきて、会社の商売とは別に自分の売上にしてポッポに入れているようなのです。

 そしてOさんはそのありかも教えてくれました。それによると、岐阜郊外にある彼の実家の馬小屋にわらにまみれて保管されているというのです。彼の実家は農家で、しばらく前までは耕作用の馬を飼っていたのですが今はもう馬はいないのです。
 馬小屋のキリストならぬ馬小屋のガラクタです。
 「誰にもいうなよ」といたずらっぽくいうOさんの表情は少年のようでした。
 おそらくそれがOさんとの最後の会話でした。
 というのも、事情があってそのすぐ後、私は会社を辞めたからです。

            

 私の長いお話はこれで終りです。
 エピローグとして、先日、その前を通りかかった折のことを書きましょう。
 その三階建ての建物はその場にありましたが、もう看板もなく、平日にもかかわらずシャッターが下りていました。しかし、二階には明かりが灯り、何か仕事場のような雰囲気がありました。
 そしてその二階こそ、Oさんのあの麻雀ルームだったのです。

 その頃の土曜日の夕方(週休2日ではない時代です)、所要で訪れると番頭さんが社長はもう二階だよとのことで、階段を上がってゆきました。すでに二卓ほどに同業者や取引先の面々が取り付いています。しかし始まったばかりで和気あいあいとした雰囲気でした。
 用件を済ませて帰ろうとすると、「どうだ、六君もやってゆかないか」とのお誘いです。しかし、私にはもう一軒行かねばならないところがありましたのでそれを告げて辞退いたしました。

 次の週の月曜日です。やはりOさんのところへ行く急な用件ができ、出社する前にそこへ直行しました。もう出勤していた番頭さんが二階を指差すので上がってゆきました。
 なんと、土曜日の夕方見たメンバーとほとんど変わらない人たちがまだ卓を囲んでいるのです。そして土曜日の夕方とは雰囲気がガラリと変わり、煙草の煙がもうもうとたち込め、すえた臭いがするなか、男たちが血走った眼で牌をやり取りしていたのです。
 そんな中、Oさんのみが悠然としていました。おそらく自分の家の特権を生かして、しかるべく休養はとったのでしょう。
 それにしても通算40時間のロングラン、本当に信じられない光景でした。

            

 もうひとつ、これは内緒ですが、点棒を数えるのが面倒だというので現金の麻雀を見たことがあります。全ては百円札(今の千円の価値)です。リーチも百円札が卓上に投げられ、一翻が百円、万貫や役満になれば千円前後が直接行き来します。私の給与が数万円あったかどうかの時代ですよ。
 勝った人は無造作にそれを座っている座布団の下に突っ込みます。勝ちが重なると座布団が不安定になって座っている人の体が傾くのです。

 そんなことを思いだしながら、その家の前を通り過ぎました。
 時は第一次高度成長時代、岐阜は繊維二次加工(布地を服にする)の街として、駅前の繊維問屋街を中心にたいそう賑わっていました。
 繊維機械業もそれに付随してとても元気だった時代です。

 その後、繊維製品のように単価が安く、しかも労働集約型の産業はどんどん工賃の安い諸外国に仕事を取られ、今や問屋街も閑散としています。
 Oさんのガラクタ商法ももはや付け入る隙はありません。
 可能性があるとしたらネットオークションでしょうか。
 もっともOさんは大正元年生まれですから、健在ならば100歳ですね。

 長い間お読みいただき、ありがとうございました。




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ガラクタと戦争(3) Oさんの退却戦

2012-07-23 14:36:31 | 想い出を掘り起こす
  写真は私の近所の雨後の散歩道で撮ったもので、本文に関係はありません。

 (承前)さて、Oさんが一家をあげて姿をくらました理由ですが、それは国家権力との壮絶な戦いの一環だったのです。
 というと、密かにテロルを準備してきた革命戦士かなんかが、それを摘発されそうになって地下に潜ったかのようですが、Oさんが革命などという一銭もお金にならないことに加担することはありえませんでした。
 むしろ、伝統的なものに価値を見出す「善良な」市民だったのです。
 ただし、「摘発されそうになって」の部分は当たらずといえども遠からずなのです。

             

 失踪が明らかになったさらにその翌日になって、名古屋市内で同業を営なんでいたOさんの兄によって、私たちは真相を知ることになるのです。そしてそれは、自慢ではないですが(ちょっぴり自慢かな)私の想像していたものとぴったり符合するものでした。
 もっとも私も、そこまでやるとは思っていませんでしたので、その決断というか蛮勇というか、大胆不敵な、あるいは無謀とも思える行動に多少の驚きは禁じえなかったのですが。

 Oさんは、すでに述べましたように、商才もあり、博才もあり、肩で風切る勢いで怖いものなどないように見受けられましたが、実は心底、恐れていたものがあったのです。「饅頭怖い」ではないですよ。
 
             

 それは税務署でした。
 Oさんの論理では、「俺が汗水たらして稼いだものを、なんで碌でもないお上に取り上げられられねばならないんだ」でした。したがって、しこたま稼いだものをひたすら隠匿していたわけですが、それは節税の範囲をはるかに越え、誰が考えても脱税の域に達していました。

 しかし、Oさんも税務当局の攻勢に無防備でいたわけではありません。
 彼は所轄の署に対してはちゃんとした対策を施していました。ようするに、署の特定の人たちをちゃんと自分の影響下に置いていたのです。
 私もそれらしき人が、Oさんの麻雀室でしかるべく勝って(勝たせてもらって)、しかも、おみやげ付きで上機嫌で帰ったりしたのを目撃しています。
 ただし、断定はしません。あくまでも「それらしき人」です。

               

 ですから、問題が所轄の範囲内でしたらOさんは安泰だったのです。
 しかしそれが、国税当局の査察とあっては話は別です。もはや麻雀室での接待では対応しきれないのです。ライバルの妬みか、あるいは正義感に萌えた人かは知りませんが、どうやらタレコミがあったようなのです。
 いいえ、私がたれこんだのではありませんよ。

 にもかかわらず、Oさんの所轄への懐柔策は決して無駄ではありませんでした。なぜかというと、◯月◯日に査察が入るという情報はちゃんと届いていて、それがOさん一家の退却戦に繋がったのですから。
 それにしても、一夜にして城を捨てて落ちのびるとはまことにもって大胆不敵な作戦というべきですね。

               

 Oさんの兄がもたらした情報に戻りましょう。
 それによれば、Oさんは決して債権者には迷惑をかけない、振り出した手形はちゃんと落とす、ただし、暫くの間、所在は明らかにできないし連絡もしない、しかるべき期間が経った後どうなるかは今のところ未定、その折にはまたちゃんと連絡するというものでした。

 その言葉通り、月々の手形は落ちました。その当時、私のいた業界では90日の手形が一般的でしたが、それらは全て落ちました。むしろ、Oさんが顧客に売ったものの回収の方ができなかったのではないかと思います。
 
 これが、Oさん蒸発の真相です。
 私は個人的にその兄に尋ねました。
 「一家は皆さん元気でちゃんと暮らしているのですか」と。
 兄は、Oさん一家がしかるべきところでちゃんと居を構えて生活していること、子どもたちも転校手続きをして新しい学校に通うことになっていること、などを教えてくれました。

             

 私が前回、Oさんがさんざん稼いだにもかからず、小金持ちにはなっても、資本家にはなれなかったといったことがお分かりでしょう。
 納税をしなかったり、あるいは所轄よりももっと大きなところに政治的なルートを持たなかったりする限り、稼いだ金を資本として投下することはできないのです。不動産の購入なども出来ません。

 Oさんの失踪に関するこの物語は、これでもってほぼ終了しました。
 え?その後のOさんがどうなったかですか?
 それを語るにはもう十分長くなりました。
 その後日譚はまた次回に。

 
 

 

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ガラクタと戦争(2) なぜ消えたのだろうか?

2012-07-22 02:26:50 | インポート
 前回は、変に気をもたせる終わり方で申し訳ありませんでした。別に「ガマの油売り」のように気を引いておいて何かを売りつけるような魂胆はありませんからあしからず。

 話は私がサラリーマン時代(半世紀前です)、休日に私が担当していた代理店の前を通りかかったら、そこの社長夫妻が、在庫(私のいわゆるガラクタ)をトラックに積み上げているのを目撃したというところまででした。

 翌日、普通に私は出社しました。私の住まいもその代理店も岐阜でしたが、勤務先は名古屋でした(本社は東京)。
 午前の勤務が終わろうとする頃、岐阜の別の代理店から私宛に電話がありました。
 「六君、いま用事があってOさんのところへ行ったら《都合により臨時休業します》という紙が貼ってあったが、君、なんか知ってるか」
 とのことです。
 Oさんというのは昨日述べた、トラックに荷物を積み込んでいたあの代理店です。電話をかけてきたのは、Oさんちの週末麻雀会の主要メンバーのひとりです。

          

 「ん~、そうなのか」という思いもありましたが、そこはひとまず、
 「そんな、あなたがご存じないものを私が知ってるはずはないでしょう」
 と電話を切りました。
 そして午後、一番にOさんのところへ駆けつけました。

 ここまで読まれた方は当然、倒産、夜逃げを連想されますよね。しかし私は、それだけは絶対にないと信じていました。
 私は彼の経営の内情を熟知していたのです。あるときなど、預金通帳の残高迄見せてくれました。私の家計の四桁か五桁は上でした。

          

 利益分を何かに投資をして損失を被ったなどということも考えられません。なにせ彼は、現金以外は小切手すらも透かしてみなけれが信用しないという古典的な守銭奴だったからです。それに当時は、稼いだ金を簡単に信用投資するような時代でもありませんでした。

 博打で擦るとということも決してありえません。前回述べたように車で来たやつを歩いて返すようなことはあっても、彼が大負けをしたという話は聞いたことがなかったからです。
 でも負けが込むこともあるのは事実でしょうが、「そういう時は、疲れたといって寝るのだよ」というのが、Oさんが私に語ってくれた大負けしない秘訣です。
 
 そのためにこそ、Oさんは茶果や酒肴まで用意して自宅を賭場に開放していたのです。自宅でなければ勝手に引っ込んで寝たりできませんものね。もっとも切り上げ時を計れるというのも、Oさんの博才のうちだったとはいえます。

          

 Oさんの店に着くとやはり張り紙があります。勝手知ったる他人の家で、裏口から声をかけてみましたがまったく反応がありません。それのみか、ある種の生活反応すらないのが気がかりです。
 こんな時に頼りになるのは隣のおばさんです。それに多少の顔見知りでもあったのです。というのはその頃は路上駐車は当たり前で、Oさんのところへ来た折はやはり路駐でしかも混み合っている折には隣家にまではみ出し、「おばさん、ごめんね」と声をかけていたからです。

 おばさんもまったくの不審顔です。
 「いえね、朝からまったく人の気配がないのよ。それに番頭さんたちも出てこないし」
 番頭さんというのは幹部社員で、ほかに2、3人の従業員さんもいました。
 「でも娘さんたち、学校があるでしょう」
 と私。
 そうなんです。このOさんには当時中学生と小学生高学年の女の子がいて、子煩悩なOさんにとっては可愛くて仕方がない娘たちだったのです。

          

 よく出入りしていた私も、当然その子たちと仲良くなり、他社の担当者に比べ若かったこともあり、親しく口を利く間柄でした。
 そんなある時、上の娘がポロリと、「今度、◯日が誕生日なの」いったのでした。私は当日、彼女に可愛い花柄の万年筆(当時は中学生も万年筆を使っていたのです)と、その妹には同じく花柄のボールペンをプレゼントしました。

 当然、娘たちは喜んでくれましたが、それ以上に喜んでくれたのがOさんです。とりわけ彼は、妹への配慮を忘れなかった私をいたく評価してくれました。Oさんが預金残高を見せるほどに、また、自分が麻雀で負けない秘訣などをも教えてくれるほどに信頼してくれたのはこんなことがあったからでしょう。

 そんなわけで、私の心配はその担当者たる私の立場を離れて、その一家の命運に関するものでした。ついでながら、幾分バタ臭い顔をした奥さんも私をとても可愛がってくれていました。
 
 すでに見てきたように、古典的な守銭奴で、しっかり者のOさんでしたが、そこにこそまさに、彼が稼いだカネを資本に転用し得ない限界、そしてある日、突然姿をくらまさねばならない原因があったのです。

          

 あ、またしても長くなりすぎました。
 Oさんが、倒産でもなく、行方をくらました経緯については次回また述べます。
 え?「ガマの油売り」の手法に似てきたって?
 そんなつもりはありません。
 (といいながら、次回には振込口座が添えられていたりして)
 

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ガラクタと戦争 戦争が身近だった頃

2012-07-20 17:20:34 | 想い出を掘り起こす
 昨日のことです。二つの用件があり暑いさなかに久々に車で外出しました。
 しばらく前まで体調が優れず、行きつけのクリニックでは「血圧が高いですよ」と指摘されていましたから、短時間の買い物などは別として、半日単位の外出は久々です。

 まず一つ目の用件。相手に会い、さてこれから話をという段階で先方に急用の発生、先方の「すみません、すみません」の言葉を背後にそうそうに辞去しました。
 さて困りました。二つ目の約束までにはまだまだ時間があります。
 自宅へ戻っても、ちょっと休んですぐ出かけなければなりません。

 車を転がしているうちに、とんでもない事が頭に浮かびました。
 ちょうど半世紀前、仕事でよく行ったところがどうなっているか見たくなったのです。


            

 当時私は繊維機械(繊維二次加工用品・工業用ミシンなど)の会社の営業マンでした。
 で、思い出してみたくなったというのは、当時私が担当していた代理店で、大正生まれの頑固なワンマン経営者が君臨し、けっこう経営には辣腕(えげつなことも含めて)を振るい、当初、木造平屋の店舗を鉄筋三階建にしたようなその業界では儲け頭でした。
 1960年から70年(=昭和30年代の後半から40年代)にかけてのことです。

 一度言い出したら聞かない人で、どこの社の営業マンも応対に苦労していたようですが、何故か当時一番若かった私をかわいがってくれました。
 そのかわり、徹夜の麻雀などにも付き合わされました。
 その麻雀たるやとてもレートの高いもので、車で出かけた人が(当時の車は高かったのですよ)帰りには歩いて帰ったという実話もあったほどなのです。
 そんなのにまともに付き合っていたら給料の何ヶ月分も飛んでしまうので、最初のレートの安い時間帯だけ付き合い、同業者たちの眼が血走るような段階ではもっぱら見学と、灰皿の取り替えなど裏方のサービスに務めるのでした。もちろん残業手当は付きません。

 あるとき所要で訪れると倉庫の整理をしているので見に来いといいます。裏の倉庫に入ったのはその時はじめてですが驚きました。
 実に多くの、私にはガラクタとしか思えない中古のマシン、中には、戦後焼け跡から拾ってきたのに違いないようなものが山と積まれていたのです。

 目を丸くしている私の機先を制するように彼はいいました。
 「君にはな、これらがガラクタに思えるだろう。だがな、一旦戦争が起きたらこれは金の山になるのだ」

            

 戦争というもの、今の想像力を動員してもどこか遠くのことに思われるでしょうね。でもまだ、そのころには身近な問題としてあったのです。
 1945(昭20)年の敗戦は、まだついしばらく前のことでした。
 それに次ぐ朝鮮戦争1950(昭25)年は、下手をすれば日本にも及ぶのではといわれながら、実際には米軍の後方物資の供給地として未曾有の好況を生み出し、それが戦後日本資本主義のテイクオフに大きな作用をしたのでした。

 いわゆる60年安保をめぐる闘争を70年のそれと分かつ最大のものは、前者には日本の外交やその理念に対するものというより、若者たちに、またあの戦火に自分たちがさらされるのではないかという現実的な不安が多分にあったということではないかと思います。

 ついでながら当時は、戦争に対する忌避の念も強かった反面、それへの期待論もおおっぴらに語られました。ちょっと景気が悪くなると、「ここで戦争でも一発起こればなぁ」といった具合です。
 今でこそそれをおおっぴらに言う人はいませんが、原発賛成論のひとの中には潜在的にそれがあります。「国際競争力」こそが錦の御旗なのです。さらに彼らは、戦争は経済の延長であることをよく心得ていて、原発の運用の中に「安全保障上の」問題、つまり、核武装への布石を忍び込ませたりします。

            

 話がそれました。彼の倉庫の話でしたね。
 彼は戦後、いわゆる焼けマシンを二束三文で買い集め、それを再生してしこたま儲けたのでした。そして、朝鮮戦争でも彼の鉄くずがものを言いました。
 ですから彼の確信は、鉄くずであろうがなんだろうがものさえあれば、そして、それに加えて、戦争が起こればというものでした。
 しかし、世は次第にものから資本へと移り行きつつある頃でした。
 加えて急速な技術革新の時代にあっては、彼の持っているような鉄くずは、本当に鉄くずになりつつあったのです。

 ある休日のことです。私は子どもたちを、彼の店の近くにある公園に遊びに連れてゆきました。そこへ行くには彼の店の前を通ることになります。
 休日だからシャッターが閉まっていて誰も居ないだろうと思ってその前を通りかかったら、どうもそうでもありません。

            

 店の前にはトラックがでんと構え、社長や奥さんが懸命に例の「ガラクタ」を積み込んでいるのです。休日とはいえ、無視して通り過ぎるわけにはゆきません。
 一応車を降り、「休日なのにお精が出ますね」と声をかけました。
 その時です、社長の顔色がさっと変わったのです。
 しばらくの間私の顔を睨みつけるように凝視していました。
 やがてそれは懇願するような表情に変わりました。
 「六君、頼むから今日ここで見たことは忘れてくれ。決してあんたの迷惑になるようなことにはしないから」
 というのです。
 奥さんの顔を見たら、やはり手を合わさんばかりにしています。

            

 狐に化かされたような気持ちで、とにかくは子どもたちを公園に連れて行って遊ばせました。どれくらい経ったでしょうか、子どもたちが遊び疲れるのを待って帰途につきました。
 もうその社長の店の前は通るまいとしたのですが、交差点を横切るとき、そちらがチラッと見えました。まだトラックは止まっていましたが、先程より荷物は少なく、どうやら、一度どこかへ運んでもう一度取りに来たかのようでした。

 それっきりそれは忘れて休日の夜を過ごしたのでした。
 しかし、それがとんでもない事態の幕開けだとはまったく知る由もなかったのです。

            

 話が長くなりますのでこの続きは次回とします。
 写真は、その折り子どもたちを連れて行った公園の半世紀後の姿です。
 いわゆる岐阜公園が、長良川の近くの金華山麓あって表玄関のような公園だとしたら、こちらはその裏山筋に当たるところの公園です。
 ご覧のような猛暑日の午後、ほとんど人影はありません。

 こんなところで写真を撮っていると、まるで熱中症の予行演習のようですね。



 
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価格破壊とロベルト・シューマン

2012-07-18 02:10:54 | 音楽を聴く
 最近、シューマンをよく聴いているのですが、ちょっと系統的に聴いてみようと思い立ってネットでいろいろ検索していたら、「シューマン ピアノ全曲集」という、13枚組のCDセットがありました。
 「全曲集」と銘打つだけのことはあって、作品番号を打たれているものはかなりマニアックな曲も含めすべて網羅されています。それどころか、作品番号がないもの、後日発見されたか、意識的に削除されたかもしれないものまで収録されています。

 欲しいなぁと思ったのですが、年金暮らしの身、いくらなんでも一挙に21,980円(送料込み)はちょっとした散財です。う~ンと考え込んだのですが、その時、妙なことに気づきました。
 はじめは目の錯覚か先方の誤記ではないかとも思いました。
 2,198円と読めるのです。

 何度も目を凝らして見ましたが間違いありません。「商品の合計金額(13枚組)\1,830 配送料:\368 合計:2,198円」とあるのです。
 これなら、演奏が悪かろうが(演奏者は後述)、録音が悪かろうが、資料としてだけでも価値があります。
 騙されてもともとのつもりでさっそく注文しました。5月14日のことです。
 折り返し、注文確認と、5月末の出荷になる旨メールが来ました。

          
               このジャケット、シューマン若き日のものですね

 ところがです、その5月末、海外からの入荷そのものの遅れで出荷が一ヶ月ほど遅れるというメールが来たのです。
 「やっぱりなぁ」という感じがどこかでありました。
 これが20,000円超の商品ですと多少やきもきするところですが、2,000円前後、それに特に急ぐわけでもなしと、それ以来、ほとんど忘れていたのですが、それがついにやってきたのです。

 間違いなく、13枚揃っています。一枚一枚のパッケージが簡易なのと、日本語表記がなかったり、ライナーノートがなかったりするのですが、そんなものはこの価格からしたら当然です。
 もちろん、注文前に確認していたのですが、演奏者は、バドゥラ=スコダやフリードリヒ・グルダと並んでウィーン三羽烏とといわれたイエルク・デムス(Jörg Demus)で、バッハやシューマンを得意とするピアニストです。

 さっそく聴いてみました。演奏時間による組み合わせの都合上、作品ナンバー(op)順ではないのですが、最初はop6の「ダヴィッド同盟舞曲集」です。
 ちゃんと音が出ます(当たり前だ!)。
 デムスの演奏も確かですし、録音も決して悪くありません。

 13枚で送料込み2,198円というあまりの安さゆえに、どこかで抱えていた不安が一挙に吹っ飛びました。そして、とてもいい買い物をしたという喜びが溢れてきました。
 価格はともかく、私の宝物がまた一つ増えた思いです。

 それにしてもどうしてこんなにお値打ちなのでしょう。
 送料を含めても一枚あたり170円以下なのですよ!
 クラシックのCDといえば、一枚3,000円以上というのが当たり前の時代を知っている身にとっては嬉しい価格破壊です。
 まだ、No.6までしか聴いていませんが、時間をかけてゆっくり聴くつもりです。

 で、これでやめておけばいいのに、続いてピアノ曲以外のものを6枚注文し、そのうちの5枚がやって来ました(こちらは全部で5,000円ほど)。
 主に後期の器楽曲を収録したものです。

          
           右はアンネ=ゾフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ)の
                 「女の愛と生涯」などの歌曲集

 
 昨今、シューマンは幾分演奏機会などが増えたとはいえ、そのほとんどがピアノ曲です。もっとも初期のシューマンがピアノに集中し、そのop23まではすべてピアノ独奏曲だというので致し方ないのでしょうが、実は後半の作品にまさにシューマンならではの曲がたくさんあるのです。

 例えばそのヴァイオリン協奏曲は今なおその作品番号をもたない曲で、この曲の隠蔽と再発掘の経緯だけでゆうに一冊の本が書けるほどなのです。
 他にも、「F・A・Eソナタ」(これも、これをもとに作られた「ヴァイオリン・ソナタ第三番」ともども作品番号なし)など、面白いエピソードをもった曲がたくさんあります。

 これで、シューマンのCDはこれまで持っていたものも含めて一挙に三十枚を越えました。もはや媒体として廃れてしまったカセット、とりわけFM放送からエアー・チェックした自家版カセットを加えるとシューマン全集ができそうです(それほどでもないか)。

 いずれにしてもしばらくは、この特異な作曲家の音楽を堪能したいと思います。

購入したのはローソン系の「エルパカ」というネット・ショップです。
 別にここの宣伝をするわけではありませんが、別のところで同じでデムスの「シューマン ピアノ全曲集」(まったく同じものです)を検索したら、私の買った値段の数倍で売られていました。
 それでも一枚あたり1,000円を切りますから売れるのでしょうね。
 でも、同じものにこの価格差、やはりいろいろ調べてよかったと思います。

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虫たちの訪問帳 

2012-07-14 23:55:27 | よしなしごと
 眼下(私は二階に追いやられた住人)にムクゲが咲き出してから、梅雨の晴れ間を狙うかのように、いろいろな虫たちが訪れるようになりました。

 つい先般まで、桑の実がついていたときは、スズメ、ムクドリ、それにあのけたたましいヒヨドリがわがもの顔に実をついばみにきていたものです。
 一度など、私が桑の実を採りにでたら、「ギャギャギャ~ッ」とムクドリに怒鳴りつけられました。
 なんという図々しさでしょう。鳥たちが食べるのを妨害しようとは決して思いませんし、それどころか、私自身は自分の手の届く範囲のみでおとなしく採っているのです。
 いったい、これだけの実がなるまで、丹誠込めて育てたのは誰だと思っているのでしょうね。
 まあ、いまさらムクドリとの喧嘩を蒸し返しても仕方がありません。それにもう、その季節は終わったのですから。

 あ、そうそう、虫たちのことでしたね。
 窓に面した机に座っていると、なにか目の前をチラチラするものがあるのです。ちょっと集中していたことがあったので、しばらくしてから眼を上げると、珍しく大振りなクロアゲハが舞っていました。
 慌ててカメラを用意してまず一枚を撮し、さあ、これからという時にふと飛び立ってそのまま視界から消えてしまったのです。

            

 私がカメラを向けたのに驚いたのか、あるいはもうこの辺ではさんざん蜜を吸ったから去っていったのか、どちらかは分かりませんが、ちょっと残念なことをしました。そんなわけで、その勇姿は一枚しか捉えることができませんでした。

 なお、このアゲハ、「カラスアゲハかな」とも思ったのですが、とった写真をネットの図鑑と比べてクロアゲハだと判断しました。カラスアゲハの方は、翅に青や紫などのグラデーションがかかっているのです。

            

 続いてやってきたのはムギワラトンボでです。7月10日に羽化したばかりと思われるものを写真に収め、ここでも紹介したのですが、たぶん、それと同じのだと思います。もっとも、トンボの個体を識別する方法などは知りませんから、確信は持てませんが、カメラを構えたとき、ギロリとこちらを見た目付きが、「やあ、おっさん、またきたぜ」といっているように思えたのです。
 後ろに、小さなシジミチョウかなんかの仲間を引き連れているのもご愛嬌ですね。

                    

 しかし、なんといっても今日の主賓はクマンバチですね。
 リムスキー=コルサコフの軽快なリズムをBGMとしてずーっと遊んでゆきました。一つの花にちょっと首を突っ込んだかと思うとまた次の花へと、なかなか落ち着かないのですが、その飛行にはほぼ一定の航路があるようで、私の前を楕円形に時計回りで飛んでいるようなのです。
 そのうち、二度ほどは私の顔のすぐ前、30~40センチほどでホバリングをしながら、「お前は誰じゃい」といった感じで値踏みをしていったのですが、三度目からはもう完全に虫、ではなかった無視です。私のことを人畜無害(?)と判断したのでしょう。

            

 しかし、じつに旺盛な活動力ですね。体や足の辺りにはムクゲの花粉が金粉をまぶしたように光って、その奮闘ぶりが伺えます。しばらくその金粉ショーを観ていましたが、とにかく動きがめまぐるしくて疲れます。
 やりかけの仕事もありましたので、「ゆっくり遊んでおゆき」と言い残してその場を去りました。

            

 日頃から、身辺の小動物が減ったのではないかと危惧しているのですが、今日のようにこれだけ訪問者があると、なんだかホッとします。
 それにしてもあのクロアゲハ、もっとじっくり観て、いい写真を撮りたかったなぁ。


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誰がいじめているのか?

2012-07-14 00:47:45 | 社会評論

            

 あるSNSに皇子山中学のコミュがあって覗いてみたら、いじめたとされる側の子の本名からその家族や親族の名前や職業まで晒しものになっている。その批判や罵倒は次第にエスカレートし、結局は、在日と被差別、それにサヨクが絡んだ事件というのがほぼ幅を利かせるに至っている。

            

 ところが、そこから辿っていった2chには「勝手に死んだ奴より加害者とされる前途ある中学生を守れ」というスレもあり、それによれば今度は、被害を言い立てる一家の側が在日で被差別でサヨク絡みだということなのだ。まるで合わせ鏡のように瓜二つの論理展開というべきだろう。

            

 ここから言えることは、いずれにせよこの人達、いじめをどう無くすかなどはまじめに考えたこともなく、ただただ、それを自分が思いつく諸悪の根源と短絡的に結びつけてウップンを晴らしているに過ぎないこということである。しかし、この事実以上に、ここにはさらに重要な問題がある。

            

 それは、彼らのように憎悪や揶揄の対象を見出しそれを叩き続けるということ自体が「いじめ」の論理そのものであるということである。そしてさらに不幸でかつ喜劇的なのは、彼らが自分たちの論理がいじめと相似形であることにまったく気づいていないことにある。

 真に怖いのは正義という名の退廃なのだ。


 

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