六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

欲張り八目ラーメン

2022-09-29 16:24:40 | グルメ
 国葬なんて終わってみると屁みたいなもんだったことがわかる。ただし、その屁に16億余(実際にはその二倍以上という試算もある)かけたのだから、決して笑って済ませるわけには行かない。
 このツケは、それを無理強いした連中に払わせねばならない。
 
 オット、食べ物の話をしようとしているのに、いきなり屁でもあるまい。われながら品の悪さに反省しきり。
 
 
 「あんかけ五目野菜ラーメン」を作るつもりだったが、冷蔵庫のそれらしいものを全部ぶち込んだら「八目」に。・ニンジン・キャベツ・チンゲンツァイ・モヤシ・シメジ・ワカメ・豚コマ少々・ネギ小口切りがそれら。
 
 スープは別途作らず、硬い野菜から順にいれ、出た出汁に味醂、塩、ゴマ油少々のシンプル味。
 ゴマ油少々で中華風になる。入れすぎるとくどくなるので、ほんのひとたらし。
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国葬折り込み都々逸 7・7・7・5 (付)川柳一句

2022-09-27 14:21:35 | よしなしごと
 の国葬儀
 るしいかぎり
 の功績も
 そばかり
 

 くみんねんきん
 るたびへって
 のうちくらしは
 んのつき
 

 れからどうして
 らしてゆくか
 れはなりゆき
 んしだい

 


【付録】川柳一句

    国葬にわれ関せずととろろ飯

 

 *これは本当に今日の昼餉です。麺ではなくご飯です。薬味にネギ、ミョウガ、ゴマ、刻み海苔。

 

 
 
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久々の昼麺レポート 長月篇

2022-09-26 15:52:42 | グルメ
 前回までと異なるのは、冷麺づくしだったのが、温かいつゆのものに変わったということである。
 麺に乗せる具材が前日の夕餉の残り物である点は変わらない。
 理由は簡単、一人だけの夕餉ではどうしても残り物が出るということだ。

鶏団子入りの蕎麦
 鶏胸肉のミンチに、大葉、ミョウガを細かくし、おろしショウガ、砂糖、塩少々、味醂ひとたらし、カタクリなどを練り込み、それを薄味の汁に落として固めた鶏団子をを作った。
 その残りを具にした鶏団子蕎麦である。
 ネギの細切りとミョウガを加えたが、この時期のネギはやや硬いので、ネギのみは火を通した。
           

 写真ではわからないのがいささか残念だが、この蕎麦の出汁がうまかった。それもそのはず、そのベースは鶏団子を加熱して作った際の出汁で、トリの味がしっかりしている。
 蕎麦といえばカツオや昆布の出汁が一般的なのだろうが、トリも捨てたものではない。とくに、胸肉だから余分な油がなく、さっぱりしているところが良い。

かき揚げとワカサギの天ぷらうどん
 これももちろん前日の天ぷらの残りもの。
 天ぷらはどううまく保管しても、揚げたてのカリット感は失われ、ヘタってしまう。しかし、幸い私は、天ぷらの衣に出汁が染み込んで柔らかくなったのがけっこう好きなので、天ぷらをした翌日は蕎麦かウドンの具にするようにしている。以前、ラーメンの具にしたこともあるが、これはいささか微妙だった。
           

 天ぷらばかりだとべっとりと平板になるので、生わかめをあしらってみた。彩りとしてのネギも少々。
 ウドン一杯なのに、満腹感がいっぱい。

 

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私が撮した「名古屋の富士山すべり台」

2022-09-23 14:25:45 | よしなしごと

            
 過日、名古屋市南区のとある公園に出かけた際、いわゆる「富士山滑り台」を見かけたので、スマホで撮してきた。

            
 ご覧のように、たまたま遊んでいた少女二人、とても絵になる風情があって、本格的なカメラを持ってこなかったのが悔やまれた。なお、この子らのプライバシーもあって、顔などがはっきりしたものは載せていない。

            
 ところで、この富士山滑り台、名古屋が発祥の地で、したがって、名古屋を中心に東海地方での設置が多いようだ。

            
 名古屋市内には92基、東海地方全体では150基が作られていて、そのうち125基が現存しているという。

          
 ご覧のように、全体が斜面であるため、落下をするような開いた空間がなく、その意味では普通の滑り台より安全といわれる。
 作られたのはおおよそ1960年代後半から70年代にかけてのようだ。

           
 なお、詳しく知りたい方にお勧めなのは、『名古屋の富士山すべり台』牛田吉幸(風媒社)。
 著者は、それらをすべて制覇していて、その写真も入っていて面白そうだ。

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「プラハの春」からチェコ初代大統領になった劇作家の作品を読む

2022-09-20 14:51:48 | 書評

 世の中三連休、その初日はあるパフォーマンスに参加。
 二日目からは台風の中で読書。そして読んだのがこれ。
 
 『通達/謁見』 ヴァーツラフ・ハヴェル(松籟社)

 著者は劇作家にしてエッセイストで、「プラハの春」の立役者の一人でもある。プラハの春は1968年、当時、社会主義圏の一員であったチェコスロバキアにおいて起こったスターリニスト官僚体制に対する民主化運動であったが、ワルシャワ条約機構(ソ連を中心とした東欧圏の軍事条約体制)の軍事介入によって弾圧され、終息を余儀なくされたもので、そのリーダー格であったハヴェルは「危険人物」として監視や抑圧の対象となったばかりか、逮捕されることもあり、一度は5年の刑で収監されたりした(健康上の理由で刑は短縮されたが)。

 そうした条件下でも彼はおのれを曲げることなく劇作活動を続けるのだが、それらの作品はいずれも舞台にかけることを許されず、日の目を見なかった。ただし一部作品は海外で劇化され、その映像が闇ルートでチェコスロバキアに逆輸入され、多くの人々がそれに接したともいわれる。

           

 この書は彼の書いた十二場の劇「通達」と一幕劇「謁見」の二つ脚本からなるが、これら二つの脚本に共通するのは、いわゆる不条理劇であるということだ。そして同時に、その内容は官僚制やそれによって損なわれるヒューマニティへの批判的洞察といえる。逆にいうと、官僚制の不透明さはそのまま不条理劇に通じると言っていいほどだ(読んでいてフランツ・カフカの「審判」などを連想した)。

 不条理劇においては、まさに不条理な事象の続出で、事態は一向に進展せず、それと対応する主人公も、そしてそれを読んでいる(観ている)私たちも苛立ち、焦燥のなかに立たされる。

 最初の作品、「通達」の主人公グロスはある役所の局長であるが、ある時、本局から重要と思われる通達が届くがそれは今まで見たことも聞いたこともない言語で書かれていて、その内容はさっぱりわからない。
 それでいろいろ調べた結果、それが日常言語では事態を正確に表現できないとして新しく開発された人工言語プティデペであり、それが彼の知らない間に流通しつつあることを知る。そして彼の役所においてもその学習会などが行われていて、それを知らないのは局長であるグロスだけなのだ。

 そうした状況を画策したのは局長代理のバラーシュで、それが成功し、彼は新言語の普及に不熱心であるとしてグロスを退け、自分が局長になる。しかし、新言語は正確を期すあまり、冗長で入り組んでいて、かえって効率を損なっているとのクレームが出始める。
 やがてそれが公になり、新言語は姿を消し、それと同時にグロスは局長に返り咲き、バラーシュは局長代理に戻る。

 しかしだ、グロスはやがて、やはり彼の知らないところで、ホルコルなる新しい言語が鎌首をもたげ、やはり局長代理のバラーシュがそれを取り仕切っていることを知る。
 こう書いてくると、少しも不条理ではなく筋が通っているではないかといわれそうだが、実際にこれらは、数々の小さな不条理の積み重ねのであるこの作品から、敢えて私が抽出した筋書きであって、この文字通りのこの「あらすじ」の周りには山ほどの不条理がまとわりついているのだ。

                           

 もうひとつの作品、「謁見」は、あるビール醸造所の責任者、醸造長と、その醸造所で樽転がしとして働くヴァニェクとの会話劇である。このヴァニェクはどうやら政治犯としてこの醸造所に送り込まれた劇作家であり、醸造長は彼を監視し、その報告書を提出する義務を負っている。このヴァニェクとは、作者のハヴェルその人であるとみて構わないだろう。

 醸造長はヴァニェクを呼び出して話しだすのだが、話はなかなか進行せず、同じ会話の堂々巡りに終始する。しかし、やがてその意図が見え始める。醸造長は、ヴァニェクに関する監視結果、ようするにヴァニェクをチクる文章を上部に提出しなければならないのだが、何を書いていいかがわからない。
 そこで思いついたのは、もともと文章家であるヴァニェク本人にそれを書かせようということだった。

 そして、それを知ったヴァニェクがとった行動とは・・・・。

 この対話劇は実に面白い。同じような会話の堂々巡りのような繰り返しのなかで少しずつ差異が生まれ、やがて思わぬ事態が・・・・という展開の仕方が面白い。

 なお、醸造所だけにビールを飲みながらの会話で、しばらくすると演者が舞台裾へ引っ込み、やがてズボンのチャックを上げながら登場するというシーンが繰り返される。

 さてその作品の一部を紹介してきたが、ソ連の東欧支配が終わった際、脱スターリニズムの担い手として周囲から推され、1989年から最後のチェコスロバキアの大統領を務めたのはこのヴァーツラフ・ハヴェルであった。
 そして、1993年、チェコとスロバキアがそれぞれ分離独立した後、チェコ共和国初代大統領を努めたのも彼であった。その後、約10年間、2003年までその職を努めた。

 惜しむらくは、彼が監視から脱し、自由にものが書け、その作品が上演可能になった時、まさに激務というべき職のなかにあり、それらが不可能になるという「不条理」を迎えねばならなくなったことである。
 それでも、大統領を退いた03年から死去する11年までの間に、2、3の作品は残したようだ。

 1936年から2011年までの75年間の波乱の生涯であった。 
 

不条理な展開がいっぱい詰まった作品だが、別に難解ではなく、読んでいて面白い。官僚制へのシニックなジャブ攻撃が随所に見いだされ、その落とし所もなるほどと思わせる。

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「影」と「実体」の物語

2022-09-19 00:17:37 | 写真とおしゃべり
 影というのはあくまでも実体に付随するもので、それ自身は空無であるかのようにいわれる。たしかにそうかも知れない。
 しかし一方、光を当てても影ができないものは実体ではないといわれる。早い話が、生きてる人間のようにみえながらも影がないのは幽霊だとも言われる。

       

 だとするならば、影こそが実体を実体であると証すものではないだろうか。
 それを示すのがドイツ後期ロマン派の作家、アーデルベルト・フォン・シャミッソーの『影をなくした男』という小説だ。

 これは貧しい若者、シュレミールが、裕福になって自分の欲望を叶えたいと悪魔と取引をし自分の影を売る話だが、しかし、影のない男はどこでもまともに相手にされず、物欲はともかく、社会的存在としては孤立を強要されることとなる。

       
 
 それを見透かしたように悪魔は第二の取引を持ちかけ、魂を売るよう迫るが、シュレミールはそれを拒み、もとの貧しい若者に戻り、影がないままではあるが、なけなしの金で買った靴が、一歩で七里進む靴であったことから、世界中をめぐるという新たな生き方を見出すという物語だ。

 この話、影といい、魂といい、それらを悪魔が買い取るという意味では、あらゆるものが商品になるという資本主義の原理を言い当てているのかもしれない。
    

 ところで、影を買った悪魔はそれをどうしようとしたのだろうか。ようするに、実体から分離した影がここに登場することとなる。 
 この実体のない影だけというのはいったい何を表象しうるのだろうか。

 

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満蒙開拓団の末裔たち 籠原あき『あなたはどこにいるのか』(春秋社)を読む

2022-09-15 16:15:58 | フォトエッセイ

 切り詰めていってしまえば、岐阜県出身の満蒙開拓団にルーツをもつ末裔たちの物語であり、小説である。 著者自身も岐阜県人で、幼少時にその一員として当時の満州に渡ったことがあるようだ。

 満蒙開拓団は1931年以降始まり、昭和恐慌で疲弊した日本の農村部を満州を中心とした地方へ移民させる計画で、日本、満州、中国、朝鮮、蒙古の五族協和の精神に基づく事業とされた。
 その一部は屯田兵(武装開拓団)として国境警備にもあたったという。

           

 全国からおおよそ三〇万人が参加し、県別に見ると長野県が第一位、続いて山形、熊本、福島、新潟などが続き、岐阜は第六位に相当する。
 結論めくが、これら開拓団は、1945年、ソ連の参戦、日本の敗戦、といったなかで極めて悲惨な終焉を迎えねばならなかった。そのひとつは、彼らを庇護するはずの関東軍が一部の守備隊を残し、いち早く撤退してしまったこと、なだれ込んだソ連兵の収奪強姦などの残虐行為が続いたこと、五族協和のはずの現地人から壮絶な報復攻撃があったことなどである。
 この最後のものは、開拓といいながら、実際には武力で現地民の土地を押収し、開拓民に下げ渡したものが多く、その怨嗟は著しく、日本の敗戦と同時に報復が広まったからである。
 むろんこれは、開拓団員の罪ではない。これを企画した連中が他民族を抑圧してきたことへの報復であった。

 そうした混乱による彼らの被害状況がどのようなものであったかは、この小説に出てくる岐阜県の四つの開拓団のみをみても、郡上村開拓団841人中382名、奥美濃開拓団690人中210人、和良村開拓団302人中118人、朝日村開拓団662人中337人の犠牲者をみるに至っている。そして先に見た全国30万の開拓団のうち、おおよそ40%が還らぬ人となったのである。

 先にみたように、この小説はそうした背景をもったその末裔、4代にわたる話である。そして彼ら、彼女らが遭遇するエピソードも多彩である。そうした多様な物語を経た彼らが、その終章では現代の日中友好の活動に加わることとなる。
 ようするに、4分の3世紀前、満蒙の地の悲劇に端を発した物語は、ささやかながら、そうした悲劇を再生産しないための活動へと収斂されるのである。

 とても真面目な小説である。ただ、私のような粗雑な頭脳の持ち主にとっては、エピソードの順が必ずしも年代通りではなく、舞台も変わるため、この4代にわたる末裔たちの人間関係がわかりにくい点があった。

 巻末に、往時の満蒙地方の地図が付されているが、ついでに、登場人物の相関図も付けていただいたらわかりやすかったのではとも思った。
 これは極めて私的な注文であり、この書を読む価値は十分にあることを前提にしたものだ。

 混沌のなかに投げ出された人々が、それを原罪とするかのようにその後の事態を受け止め、そこで生き、そしてまた、かつての混沌を解消するかのような灯りを目指す道を見出す・・・・。
 それは、「創世記」から引かれたらしいこの書のタイトルにふさわしいものでもあるだろう。
 そしてまた、クオ‐バディス(Quo Vadis)・・・・「あなたはどこへゆくのか」の問いと呼応し合うものでもあろう。

 



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いざ、日本一のバンジー・ジャンプ場へ!跳ぶぞっ!

2022-09-11 16:18:00 | 写真とおしゃべり
 岐阜県の八百津町郊外の国道418号線の新旅足橋は、旅足川渓谷を挟む山と山に架かる全長462メートル、その高さもふくめて国内最大級の山岳橋といえる。
 
 その雄大な大自然の中、遥か眼下に流れる旅足川に向かってスリル満点大ジャンプを敢行できるのが「岐阜バンジー」。その高さたるや215メートル、まさに日本一のバンジー場なのだ。

 年齢制限は下限の15歳のみ、上はない。体重制限は100キロまで。八十路すぎで、体重は50キロ代後半の私にもじゅうぶん資格はある。

 さあ、挑戦!215メートル落下のスリルを全身で味わおうではないか! 
 ん?しかし、ここで絶対的な制限が。
 なんと、一回あたりの料金が28,000円なのだ。

 月当たりの年金が80,000円の身、ここで一回跳んだら10日間、飲まず食わずで過ごさねばならない。
 涙をのんで諦めた。

 なお、駐車場にあった車のナンバーは、関東、関西、北陸など遠隔地がズラリ。さすが日本一のバンジー場だと感心。同時にこんなもの見に遠隔地から来る暇人が多いのに感心。自分も早起きして見に来た暇人であることも忘れて。

          
      

          
               橋から見下ろす旅足渓谷
             
          
             スタート地点へのスタンバイ

         
                 跳んだっ!

          
           
          
          
          
          
          
                 落下終了

      
                引き上げ回収へ

          
               まもなく引き上げられる

                          https://www.youtube.com/shorts/pWN_Iro-rp0
              iPhoneで撮った引き上げ作業

 

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エリザベス女王の健康不全で思うこと

2022-09-09 02:34:47 | よしなしごと
 英エリザベス女王の健康状態が悪化して親族が集結しつつあるという。
 私は共和主義者(米共和党支持者ではありませんぞ)なので、英国王室にも日本の皇室にもほとんど関心はない。
 
 しかし、エリザベス女王に関しては、中学2年生の折、戴冠式の記事を     読んだのをよく覚えている(1952年)。今世紀に入ってからも、彼女の名前がでた折など、改むてググってみると間違いなくあのときの彼女だ。
 
 一番最近、彼女の動向に接したのは、ジョンソン首相の後任に決まったトラスの任命式でのもの。このトラス、サッチャー2世と言われ、それを自認もしているようだ。まさか、その毒気に最初に当てられたのがエリザベス女王というわけでもあるまいが。
 
 王室や皇室は、文化遺産のようなものだと思っているが、日本の裕仁はその範囲を超えた戦争犯罪者だといまも思っている。
 裕仁は戦後もなお、「象徴」にとどまることなく、戦後日本の保守的回復に尽力し続けた。そして、それを許したことそのものが「戦後民主主義」や「平和主義」といわれているものを空洞化してきた要因だと思っている。
 
 その結末が、史上最低の宰相だった安倍の国葬だ。
 
これを書いた途端、その死を知った。女王としてではなく、波乱の歴史を生きた一女性として、弔意を表したい。
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現実より詩的なパラレルワールド 『ピラネージ』スザンナ・クラーク を読む

2022-09-07 16:07:05 | 書評

 以下は、図書館の新着図書の中から拾い上げてきた一冊についてのメモである。

 ちょっと変わったある種のパラレルワールドを扱ったファンタジックな小説。
 この別のワールド、ちょっと変わった儀式のようなものに通じた限られた人間にしか行けないようだ。
 そこはまた、何百という部屋を持ついまは崩壊しつつある宮殿風の大伽藍で、各部屋には神話を題材としたかのような石の像が半壊した姿でとどめられている。ときおり潮が満ちてくるのだが、その海がどこにあるかは書かれてはいない。


          

 読みすすめるうちにわかるのだが、この別のワールド、そこに長時間留まると前のワールド、つまり私たちがいるこの世界での記憶をなくしてしまうらしい。
 だから、そのアナザーワールドに通うことができる限られた人たちも、長時間そこに滞在しようとはしない。

 ところで小説は、何らかの理由でそこに長時間滞在したために以前の記憶をなくし、その別世界の原住民であるかのように純真な存在になってしまった若い男の独白として書かれる。彼の叙述によれば、この宮殿世界には彼と「もうひとりの人」と13人分の遺骨と見られる痕跡、つまり合わせて15人の住人しかいないことになる。


       

 話が進展し始めるのは、16人目の影がちらつき始めることによる。「もうひとりの人」は、主人公に16人目との接触を厳禁する。しかし、それはその影を次第に鮮明にし、主人公自体も携えていた過去の日記を参照することにより、この崩壊した大伽藍の他の世界が姿を表し始め、それとの接触の開口部が明らかになり始める。

 主人公がこの崩壊した大伽藍の世界から抜け出す過程は、同時に失われた自己のアイディンティティを取り戻す過程である。
 しかし、かつての自己、つまり現実のこの世界の自己へと収斂し、アナザーワールドでの経験をファンタジーとして退けてしまうのはちょっともったいないではないか。

        

 作者、スザンナ・クラーク(英国の女性作家。ファンタジー小説の世界では著名な人らしい)もそう思ったのだろうか、ラストシーンでの主人公はやはり崩壊した宮殿の大伽藍を想起している。私自身、読んでいて、その空間の描写は幻想的で素晴らしく、またそこでの主人公の感受性そのものが詩的であったと思っている。

 現実にとらわれ、それに流されないためには、常にそれを相対化してみることができる地点、すなわち私たちの中にあるアナザーワールドを起動する必要があるのではなかろうか。

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