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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

音楽と身体と今池の街

2013-06-24 02:45:15 | 音楽を聴く
  写真はそれぞれ同日、今池にて。

 五月に一段落したことがあり、六月は三回のコンサートを予定に入れ、23日がその最終日であった。
 聴いたのは Schaffen Trio(シャッフェン・トリオ)というピアノトリオで、メンバーはピアノ:天野浩子、ヴァイオリン:冨沢由美、チェロ:西山健一という顔ぶれ。
 このトリオ、結成10周年を迎え、今回はそのアニヴァーサリー・コンサートということで、名古屋と東京での公演である(東京は7月7日)。

 名古屋での会場は千種駅近くの5/R Hall&Gallery。この会場はもともと室内楽用で、舞台と客席はフラットでその間に仕切りもなく、18世紀や19世紀の貴族やブルジョワが室内楽を楽しんだような空間に近いと思われる。私はここは三回目になる。

        

 私の席は前から2番目だったが、その三メートルほど先にヴァイオリニストがそしてそのすぐ後ろがピアニスト、すぐ横がチェリストといった具合であった。
 この距離からだと、チェロのピチカートの折にその弦が震えるのが見えるし、ヴァイオリンの弓の毛が一本切れて演奏につれて白く流れる線となって漂うのもよく見える。そして、ピアノの譜面のオタマジャクシの配置などもある程度判る。

 とりわけその音が、隔たった空間を感じさせないダイレクトな響きでもって迫ってくる。例えばチェロの低音部では、こちらの身体もそれにつれて共鳴するようだし、ピアノのフォルテシモの強打では、こちらの身体も飛び上がらんばかりに感じる。至近距離のヴァイオリンの高音は、私の肉体を貫いてさらに後ろへと広がってゆく。
 音楽の快楽は決して耳や頭脳での受容ではなく、肉体それ自身を包む共鳴の全体であると思う瞬間である。

        

 曲目は以下の二曲。

 1)ベートヴェン:ピアノ三重奏曲第五番 ニ長調 op70-1 《幽霊》
   
 三楽章からなるこの曲では第二楽章の冒頭とその終わりに幽霊が出る。
 もちろんその命名はベートヴェンによるものではなく、その響きがそれらしく聞こえるところから事後的に付けられたものである。こうした音の感じからすると、洋の東西を問わず、幽霊に託すメージはわりと近いのかもしれない。
 聴いていて、この第二楽章を映画音楽に使うと面白そうだと思ったのだが、それを使った例はあるのだろうか。別に幽霊が出るシーンのことをいっているわけではない。もっと普遍性がある場面で使える音楽だと思う。
 この曲は何度も聴いているし、確か以前、ライブで聴いたこともある。
 しかし次の曲はライブでは初めてだった。

 2)チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲第五番 イ短調 op50
     《ある偉大な芸術家の思い出のために》
 
 この「偉大な芸術家」というのはチャイコフスキーの先輩格で彼のよき理解者であったニコライ・ルビンシテイン(ピアニスト/指揮者/音楽教育家 1835~81)のことで、彼の死を悼み、その一周忌に演奏されたものという。
 演奏時間が50分という室内楽としては長いこの曲は、2つの楽章からなり、その第二楽章は11の変奏曲からなる。全曲を通じて葬送行進曲風な雰囲気を含みながらも、その終章へ向けて盛り上がりは圧倒的で、ピアノの楽譜は2ページあまりにわたって、遠目には富士山がいくつも描かれているようであった。つまり低音から上り詰めた音がまた低音へと還ってゆく激しい上昇と下降のリフレインで満たされていて、それらの音とともに私もまた激しく揺さぶられ続けるのだった。
 
        

 かくして、50分はあっという間に過ぎた。
 チャイコフスキーという人は、ロマン派以降、「内面」のようなものを強調する向きがあるなかで、どちらかというとサービス精神がとても旺盛な人で、これでもか、これでもかと聴かせどころを繰り出してくる。それゆえに、いくぶん通俗的であると評する向きもあるが、しかし、内面といったところで主観が摂取した外面にしか過ぎず、いずれにしてもそれらを対象化するのが芸術だとすれば、その間にさしたる区別などはない。
 ようするに、精神といった抽象化された次元ではなく、もっと肉体的、かつ直接的にそれらを受容してもいいのではないかと思う。

 これは私の持論というのではなく、まさにすぐ身近で音の渦巻きに巻き込まれて音楽を聴いたという経験による感想である(ロックなどはまさにそれであろう)。
 また、それを感じさせるような熱演でもあった。

        

 高揚した火照りを抱いたまま、今池の街を散策した。
 30年間ここで働いてきた街、あとから分かったのだが、私自身が実はここで生まれた街、昔日の面影は次第に薄くなってゆくが、なんとなく街の匂いのようなものがあって、その波長は私に合っているのかもしれない。それとも、長年吸い込んだこの街の空気の澱のようなものが私の体の中に沈殿していて、それがいまなお呼応しているのかもしれない。
 旧知の人たち数人に出会った。

 家に帰って、都議会選挙の結果を見たら、予想を絵に描いたような形だった。民主党が共産党にまで抜かれたのは彼らが政権交代の機会を何ら生かさなかったばかりか、政権を交代することの意義すら国民から奪い取ったことの報いという他はない。
   

 

 

コメント (2)
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