六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

故郷喪失・最後の少年兵・文学 大牧冨士夫句集『庭の朝』を読む

2018-11-30 00:45:06 | 書評
 私の先達で、昨秋に終刊号を出した同人誌『遊民』などでずっとご一緒だった大牧冨士夫さんが句集を上梓された。
 実際に詠まれた期間は短いようだが、90歳に至った大牧さんの人生がギュッと詰まったような句集である。

 季語ありの定型句であるが、四季折々の風物を詠みながらも、自ずと大牧さんの人生が浮かび上がってくる。
 いまは全村がダム湖に沈んだ旧徳山村に生まれたその故郷への思い、さらには先の大戦で最後の少年兵として戦役に服した思い出、中野重治や小林多喜二の研究家としてそのゆかりの地へと足を運んだ記録、などなどがじんわりと見えてくる。

        

 望郷を感じさせる句はあちこちにあるようだが、ふと目に留まったものは以下のようだ。

  秋西日はるか故郷の山に居る
  まなうらに母が掬む手や岩清水
  冬飢饉慶応三年村文書
(漢字ばかりの句)
 
 そして句集の最後もいまはなき故郷に言及した句で結ばれている。

  夜咄や滅びし民の山語り
  夜咄や誰か故郷を思わざる


        
        旧徳山村を舞台にした映画のポスター

 なお、その旧徳山村ヘは、まだ村が存続している頃から私自身は何度も行っている。そのうち、六年ほど前に行った折のブログを貼り付けておこう。
 このブログに登場する「冠山」さんこそ、まさにこの句集の作家、大牧さんなのである。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/e/00e804498d8c01464ab782ba6c0e6a5b

 大牧さんの一つの過去は先の大戦の最後の少年兵だったことにもある。だからこその句もある。

  脚絆巻きし日風化などさせぬ
  十二月八日庭木と話しをり
  空耳の起床喇叭や敗戦忌
  われらみな兵士であった敗戦忌
  「故陸軍ーー」碑のある畑の梅白し


 中野重治や小林多喜二の研究家としての側面は以下のような句のうちにみてとれる。

  蕎麦食うて残暑のなかのくちなし忌
    (くちなし忌は中野重治の命日)
  詩碑涼し鈴子のいつか棲みし跡
    (鈴子は中野重治の妹で詩人)
  重治の碑のあるところ早稲実る
  多喜二忌や草焼く火色あかあかと
  多喜二忌や句稿に入れる朱のあかさ


      
           大牧さんのふるさとの山 冠山

 こう書いてくると、なんか暗い句が多そうな誤解を招きかねないが、けっしてそうではない。諧謔に満ちた句も多い。

  春めくや鯉はしずかに動きけり
  わがために春日縁先ぬくめをり
  花を見て人見て堤暮にけり
  旨しかな雛にかづけて昼の酒
  戯れてゐもりの腹をかへしみる


 みどり児に未来を託すような句もある。

  乳匂う子の足ずりや青葉風
  ふくふくと笑うみどり子五月かな


      

 なお句集のタイトル「庭の朝」は、以下の句からとられたものだろう。

  颱風のほしいままなる庭の朝

 齢を重ねた大牧さんの実感がこもった句だと思う。まさに颱風にほしいままにされた面もあるだろう。しかし、この「庭の朝」はまさに今ここに厳然として存在しているのであり、そこにまさに自分の実存を見つめて生きて行こうとする決意が感じられるいさぎよい句だと思う。
 「ほしいままなる颱風」があったればこそのある種の爽やかさ、それが大牧さんの俳人としての境地なのだろうと思った。

 ■『大牧冨士夫句集 庭の朝』 風媒社:刊 1,400円+税

  
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美しく、楽しい。 映画『日々是好日』を観る

2018-11-27 01:35:00 | 映画評論
 樹木希林、黒木華、それぞれ味があって好きな女優さんである。
 でもって映画、『日々是好日』(大森立嗣:監督)を観に行った。

          
 
 面白かった。まずは映像がいい。
 ほとんどが茶室という限られた空間で、しかも圧倒的に女性が多い。
 そのなかで、庭、掛け軸、花、菓子などなどディティールにわたる季節の変動が鮮やかで美しい。
 雪や雨の風情も単なる背景ではなく、映画そのもののアクセントとしてきちんと撮し込まれている。

        
 
 まず形から入って、心や深みは後からついてくるということ、一見、単純な繰り返しのなかにある微妙な差異、したがって、同じことの繰り返しではないという「一期一会」。
 日々是好日の「好」は、倫理や論理の「良否、可否」ではなく、それぞれの日がもつ現実の様相そのものであること・・・・。

        

 などと書くと、理屈っぽい私の癖が満開だが、それを季節ごとの、あるいは年々の映像の積み重ねでじゅうぶんに見せてくれる。
 樹木のお師匠さんはたぶん原作のイメージとはちがうのだろうがそこを達者にこなしていた。黒木華は、今までTVなどのドラマでは観たことのない役柄をうまく表現していて、やはり巧い女優さんだと思った。

        

 余談だが、それに比べると大河ドラマの西郷の妻役での彼女はほとんど生きてはいない。それは彼女の責任ではなく、演出とキャスティングのせいだとは思うが、あれでは彼女の魅力が閉じ込められたままだ。

        

 ついでのようで申し訳ないが、多部未華子もいままでの優等生タイプとは違った味を出していたように思う。

        

 原作(森下典子)は小説ではなくエッセイで、したがって起承転結は少なく、映画化しにくいだろうともいわれていたが、それなりに山も谷もあり、飽きるところはなかった。

            

 時代劇を除いて、久々に和服姿の女性がわんさか出てくる映画で、着付けや着こなしの良し悪しなどは私にはわからないものの、お師匠さんや主人公の着物の季節ごとの色合いや模様がくっきりしていて、見る人が見たら、もっと味わいが深いはずだと思った。
 何よりもまずは観ていて楽しい映画だった。

        

【おまけ】冒頭近くに出てくるフクサの扱い方は、茶道に暗い私にとってはまるでマジックのようで、眼をまあるくして観ていた。
【もう一つのおまけ】冒頭から、フェデリコ・フェリーニの名作『道』に触れるシーがあり、映画の途中にも出てきて、ひとつの伏線をなしているが、それを観ていなくとも、楽しめると思った。かくいう私は、『道』は過去2回以上観ているのだが、歳のせいもありすっかりその詳しい内容は忘れている。しかし、この映画を観る上での必須ではないと思った。





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「私の」ナンキンハゼと「故郷喪失」と「文字渦」

2018-11-22 16:48:24 | 写真とおしゃべり
 借りるというより読みたいものがあって岐阜県図書館へ。この時期、陽が落ちるのが早い。4時ちょっと過ぎなのにもう夕焼けが見える。

        

 到着。
 ふと見やると夕日に映えて真っ赤に紅葉した樹が。
 ああ、私のナンキンハゼだ。場所は、県図書館の正門の前、県美術館の裏門にあたる。

        

 「私の」というのは、ここ20年近く、四季を通じて私がウオッチングをしてきた樹だからだ。この樹を何枚写真に収めたことか。
 樹下で撮っていいると、通りかかったひとから「なんかいますか」と訊かれたことも二度三度。
 そういえば、キジバトとのコラボを撮ったこともあったっけ。
 そうそう、私が参加していた同人誌の表紙を飾ったこともあった。

        

 ウオッチングといっても、図書館か美術館へ行った折のみだから、すべての瞬間を把握しているわけではない。しかし図書館は月一度以上は必ず行くから、年にして二〇回ぐらい、その20年分だから400回近くは会っていることとなる。

        

 しかし、今年は訪れるタイミングが良かったからか、それとも特有の気候のせいか、こんなに赤く染まっているのははじめてだ。
 この前来たのは、10日でそれから2週間も経っていない。もちろんその折もちゃんと挨拶を交わしたが、まだほとんど紅葉の兆しはなかった。それがもうこんなになるなんて。

        

 近寄ると、赤一色ではない。様々な色合いが混じりあって全体として赤く見えているようだ。
 暗紅色の葉があるが、これがナンキンハゼの紅葉の特徴であり、それが紅葉全体の陰影をより深くしている。
 白くポチポチ見えるのは実だ。始めは緑の果皮に包まれているが、やがてそれが褐色になり、その果皮もまた落ちると、このような白い実となる。
 やがて落葉が始まり、葉が全てなくなってもこの白い実は残って、まるで、樹いっぱいに真珠を散りばめたようになる。

           

 図書館では、『文學界』12月号所載の小林敏明氏の評論「故郷喪失の時代 第三回」を読む。
 小林氏は、岐阜県出身で現在ライプツィヒ大学の教授職にある。実は先月も、尊父のご不幸で帰省され、ドイツへの出発前、親しい友人たちが集まって一席を設けたばかりだ(その前日が私の傘寿の誕生日だったので、思いがけず花束などを頂いた)。

 今回の文章は、日本人の故郷との関わりを通時的に述べたもので、文学作品のそれや、盆暮れにみられる帰省という風俗、冠婚葬祭との関わり、方言のありようなどなどが多方面のジャンルを横断して論じられていて面白かった。

 毎回思うのだが、生まれてすぐに両親に別れ、親戚をたらい回しにされ、幼い頃から成人するまで小刻みな移動を繰り返してきた私はなにをもって故郷と同定しているのだろうか。またそのかすかなイメージとどう向き合ってきたのだろうか。
 この連載と共に考えてゆきたい。

           

 せっかく図書館に来たのに何も借りないで帰るのもと思い(実際には今のところ5冊を借りているのだが)、円城塔の『文字渦』を借りた。この書は文字通り「文字」について述べたもので、私なんぞは、朝起きて新聞に目を通すのを始め、一日中文字のお世話になっている。そのくせ、文字そのものについてはそこに記されている文章の意味合いを運ぶツールだぐらいにしか考えていない。

           
 
 かつて、そのイメージから少し反省させられたのは中島敦の『文字禍』(似ているが、円城のものは「渦」である。もちろん円城は中島のそれをじゅうぶん意識している)という短編を読んだ際であった。
 この「唯言語論」「唯文字論」を含む小説は、文字にこだわる主人公が文字の霊と対決するという話で、私が文字を介して得るものとその間にある文字という実体そのものを取り上げていて面白かった。
 青空文庫にあるので、興味のある方はどうぞ。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/622_14497.html
 Kindle版はアマゾンで無料

 例によってじゅうぶん長くなった。
 削ろうと思えば可能かもしれないが、そこで削った文字たちの霊がさまよって私に襲いかか・・・・・・・・。ブルルッ。


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スウパアへの道

2018-11-17 17:40:32 | 日記
 ここ2、3日、なんだか食欲がない。これぐらいはと思って作ったた食事を残してしまう。
 これではだめだと思い、なにかうまいものを見つけようとスウパアへ買い物に出かける。

     

 従前の天気予報では今日は雨ということだったが、抜けるような晴天に恵まれた。
 ここしばらくで、田んぼはうんと減ってしまったが、ここは道の両側に残っている。のり面もコンクリートやアスファルトで固められていないから、つくしが出るし、スミレが咲く。ノビルの群生もある。

          

 刈り取られた田んぼに怪しげな影が・・・・。

 柿の木がまだ実をつけたまま紅葉していて、逆光で撮ると美しい。

     

 しばらく見ないなぁと思っていたトンビが数羽集まっていた。カラスも一羽、二羽。写真を撮ってからしばらく観ていたら、飛び立った彼らが上昇気流に乗って弧を描くようにどんどん上に登って行く。
 これを鷹がすると、鷹柱といって珍重されるのだが、トンビでは誰も相手にしない。

     

 スウパアへ着いて売り場を回ったが、食欲のない身にはどれにも文字通り食指が動かない。ありきたりのものを買って帰る。

 明日は、ある会食の機会があるから、そこで食欲の回復を図ることとしよう。
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植物の営み(2) 菊の花粉がこぼれる

2018-11-15 17:12:22 | 花便り&花をめぐって
        

 わが家の菊がいまをを盛りと咲いている。
 買った覚えもないし、自分で植えた覚えもない。
 気がつくとぽつんと咲いていて、それからン十年、今やわがもの顔に庭の一角を占領している。

        

 黄色一色で何の変哲もない直径3~4センチの小菊だが、毎年、律儀に花をつけるさまはやはりかわいい。

     

 いろいろ写真に収めてみたが、やや望遠気味にして花芯に焦点を合わせて撮ったら、何やら橙色の欠片が花芯の周りに。菊の花の構造を調べたら、この欠片は花粉らしい。
 花粉までこんなふうに撮ったことはないので、いくぶん感動している。

     
 
 ひとつひとつの花を、シニアグラスをかけて丹念に観たが、こんなふうに花粉がこぼれているのは、開ききって花が終わりに近づいているもので、当たり前だが、若い花ではまだしっかりと雄しべの先っぽに付いている。

    

 花の構造や受精の仕組みを観ていたら、やはり生物、その仕組みは動物のそれとさほど変わらないことに気づいた。
 この歳になって、中学生ぐらいの知識をやっと飲み込んでいるのだからなんとも致し方ない。
 まあ、でも知らないより知ってたほうがいいだろう。

 
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その時より、野とともにあった人 稲垣喜代志遺稿集

2018-11-14 00:17:02 | 書評
 昨秋、急逝された名古屋の地方出版社、風媒社の創業者、稲垣喜代志さんの遺稿集が出版された。題して、『その時より、野とともにあり』(風媒社)。

          

 まことに適切なタイトルだと思う。まさに稲垣さんは「野とともに」あった人だ。
 東京の「読書新聞」に数年勤めた稲垣さんは、あるとき、そこで取り上げられる書やその書き手などがすべて東京への一極集中であることに気づく。
 たしかに東京は文化の中心かもしれないし、それらをとらえて飯のタネにしてゆくには、営業面での効率などからしても東京が有利に決まっている。
 しかし、そこからは「野」ありよう、「野」の志などは除外されているのではないか。少なくとも軽んじられていたり、あるいは、掬い上げらてはいないのではないか。

 そう気づいた稲垣さんは、郷里刈谷に近い名古屋に出版社を構え、「すでに世に出ている著名な人やアカデミズムの内側の人には書いてもらわない。野にあって人知れず見事に生きている人びとの軌跡を記録として残したり…(略)…そして徹底して弱者の立場にたち、社会の歪みや不正に対して怒りを持ちつづけること」などををコンセプトとした出版を始める。

       
         「遊民」同人と 正面が稲垣さん 16年4月

 まさに「野とともに」である。
 実際のところ稲垣さんは、農家の生まれ育ちであり、農作業をしながら農業高校へ通った野の人であった。

 以後、55年、そのコンセプトは裏切られることなく続いてきた。稲垣さんの業績については改めて語るまい。ただ、私との関連で痛恨の思いが残ることを記しておこう。

 この遺稿集の三分の一ほどは、稲垣さんのライフワークとなるべき、「怪人・加藤唐九郎伝説」で占められている。この文章に私はず~っと伴走してきたといっていい。
 というのは、これは私も参加していた同人誌「遊民」に連載されてきたものだからである。とりわけその後半については、編集責任を担っていた I さんの急逝により、多少PCがいじれる私が取りまとめ役になったこともあって、書き手としての稲垣さんと直に向き合うことが多かった。

       
        「遊民」同人と 後列赤シャツが稲垣さん 17年5月

 その頃の稲垣さんは、体調の不良や家庭の事情などもあって筆が進まず、締切りまでに原稿が上がってこないことがほとんどだった。
 それをなだめたりすかしたり、時には脅したり(恐喝ではないですよ)、そしてあるときには一時間にわたる言い訳の電話を聞いたりしながら、私なりに粘ったりもした。
 それが稲垣さんのライフワークだという意識が私にもあったから、なんとか少しでも進めたいと思ったからだ。

 しかし、力及ばず、欠稿のまま見切り発車を余儀なくされたり、写真を多用した短いものにとどまったりした号もあった。
 結果として、昨秋の「遊民」の終刊号には掲載はあったもののついに完結には至らず、未完のままで終わった。ただし稲垣さんもそれを意識していて、文末では、わざわざゴチックを用いて未完と記している(この単行本所収では普通に明朝体で「未完」となっている)。

 その終刊号を発刊して幾ばくもしない間に亡くなられたのだが、その前にお目にかかった折には、別途書き足してでもなんとか完結をみたいとおっしゃっていた。

 悔やまれるのは、先輩・後輩などにお構いなしに、私がもっと粘ったりきつく出ていたら、さらに筆が進み、完結には至らずとも、稲垣さんが抱えていた唐九郎への思いをもっと文章として明るみにし得たのではないかということである。

            
             「遊民」終刊号 トップが稲垣さんの記事

 唐九郎と稲垣さんは特別の仲であった。余人にはわからない面やエピソードを数多く知っていたのが稲垣さんだった。それがいま、稲垣さん共々闇の彼方へ行ってしまったことをとても残念に思う。
 今となっては、自分の力不足をただ嘆くばかりだ。

 稲垣さんが初志である在野の精神を貫き、野に生きる人びととつねに共にあったことはいくら強調してもし足りない。
 この先達と共に過ごした日々を回想しながら、私もまた、「野の語り部」でありたいと切に思っている。

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植物の営み その生命力 (1)

2018-11-13 01:40:23 | 日記
 JR岐阜駅のバスターミナルに囲まれた一角はちょっとした庭園になっている。ここのウリは、県内の名桜の子孫が集められていて、いながらにしてそれらを楽しむことができるということである。淡墨の桜、臥龍桜、荘川桜などなどであるが、これらはみな、ソメイヨシノがつくられるよりも古い時代のエドヒガンザクラである。

 岐阜県下のこれら名桜は、それぞれ山間地にあり、開花時はそのロケーションによるが、岐阜駅前という平野に集められたその子孫は、本家より先に、しかもほとんど同時に開花し、それを愛でる者の眼を楽しませてくれる。

         

 しかし今回は、季外れの桜を語ろうとするのではない。
 それらの中に混じっている合歓(ネム)の木についてである。はじめての人は合歓と書いてネムとは読めないだろう。ではなぜこの字があてられたのか。やはりそれは中国にルーツをもつ。

 合歓(ごうかん)とは歓楽を共にすること、愛し合うものが共寝し、喜びを分かち合うことである。夜になると葉をぴったし閉じるこの植物の特徴から名付けられたものである。 
 毎夜毎夜では疲れるだろうという向きは合歓を即物的に捉え過ぎである(笑)。

         

 岐阜駅を利用する折、バスを降りるとエスカレーターでデッキのような通路を通って駅構内に入る。その横手にあるのが合歓の木である。だから、四季折々、それを観る。
 いまは実の季節である。最初、黄緑のモロッコインゲンのような実がぶら下がる。それらが熟し切ると、その鞘が褐色になる。

         

 そしてやがて、その実が弾け、次世代を担った種子が地上にばらまかれる。ただし、こうした人工的な庭園では、それらの繁殖はほとんど許容されないであろう。
 それでも必死に花や実をつける植物は、愛おしいではないか。

 植物は、基本的には動けない。だから、与えられたロケーションで自らの営みを展開するほかはない。変わらぬ植物の営為を左右するのはまたしても人間である。

         

 近代以降の人間は、環境世界と共存するというより、それらを対象や資源とし、支配し、取り込み、配列し直し、ときには排除し、絶滅に追い込む権限を謳歌している。
 こうした環境世界の支配が人間を豊かにしているともいわれる。効率の世界ではそうかもしれない。
 しかし、世界のもつアウラのようなものから超越したと自認している現今の人類は、かつての人類より本当に豊かになっているのだろうか。

 おっと、合歓の木の話からの脱線が激しすぎる。
 失われつつあるかも知れない「合歓」という言葉に引きずられて、いろいろ考えが膨らむのはいたし方ないだろう。


 上記の合歓の話、どこか既視感があると思ったら、2年ほど前、お友だちのブログで似たような話があり、私もコメントを付けています。
  参考までにその方のブロブを貼り付けておきます。

     http://blog.livedoor.jp/shography/archives/1060664946.html
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逝ってしまった先達二人に再会した日 稲垣喜代志&若松孝二

2018-11-05 14:38:18 | ひとを弔う
 4日日曜日、同人誌などでご一緒した先達の一周忌を受けて、それを偲ぶイベント、「反骨の編集者稲垣喜代志の眼差し」展へでかけた。会場は「文化のみち二葉館」(名古屋市東区 日本初の女優といわれる川上貞奴と、 電力王と称された福沢桃介が大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元した洋館)で、この日は、その展示会の特別企画のトークイベント「出版人・稲垣喜代志の”志”」が行われた。

             
          
 
 稲垣さんは、1963年、それまで勤めていた「日本読書新聞」を退職し、名古屋の地に「風媒社」という出版社を起こし、文芸出版、評論、ルポルタージュ、などなどの良書を半世紀以上にわたって世に送り出してきた。
 とりわけ、公害問題やハンセン病問題、原発問題などについては、それらが一般に問題視される前に、率先して取り上げ、警鐘を鳴らし続けてきた。

 なかでも、原発問題については、フクシマ原発事故に先立つ16年前の1995年に『原発事故…その時、あなたは!』を世に問い、「もし日本の原発で重大事故が起きたらどうなるか?近隣住民の被爆による死者数、大都市への放射能の影響」などをシュミレートし、「原発安全神話」を真っ向から切り崩す衝撃的な書を出した。
 そのあまりにも的確な予言に、実際の事故が起こったあと、初版後十数年を経過した書が版を重ねるという珍しい現象を引き起こした。

          
          

 風媒社の概要や出版物については、以下を参照されたい。
    http://www.fubaisha.com/index.html

 私との関係についてはほぼ40年ほどになるが、最初は私がやっていた居酒屋の客として、それから、いろいろ話をしたり情報を交わす仲になり、さらに10年ほど前からは同じ同人誌の先達として、毎月一回以上会う間柄だった。
 
 トークイベントのパネリストは、風媒社の初期の頃の社員でいまは独立した事業をなさっている方お二人と、私の友人の作家、山下智恵子さんとの三人(司会は劉編集長)で、それぞれが、私が知らない側面での稲垣さん像を語るなど、いまは亡き先達をいま一度彷彿とさせるものであった。

              
     稲垣さんの遺品 ステッキやメガネ、腕時計などどれもいつも見ていたものだ
 
 この催しに参加したあと、いま一人出会ったのは、これもいまは亡き映画監督の若松孝二氏で、出会ったのはいまも存続する若松プロダクションの映画、『止められるか、俺たちを』(監督:白石和彌)という作品の中でのことである。
 若松監督が名古屋に開設した映画館、シネマスコーレにおいてであった。

 映画は、1969年から71年の三年間の若松プロダクションに集う人々、その周辺の人々を描いている。そのストーリーとしては、若松孝二の助監督となった吉積めぐみ(演じるのは門脇麦)を巡るものだが、その状況の中心にはいつも若松孝二(演じるのは井浦新)がいる。
 その意味ではこの映画は、若くして世を去った吉積めぐみへのメモリーズであるとともに、いまは亡き若松孝二へのオマージュでもある。

             

 そこには映画作りに情熱を燃やすハチャメチャなエネルギーが存在した。
 なんとしてでもなにかを生み出し、フィルムに焼き付けようとする情熱。
 そのためには、既存のものを超え、あえて常軌を逸することを目指す、そんな映画製作者たちの姿が、これでもかこれでもかと展開される。

          

 さて、私と若松監督の関係だが、35年前、自分の上映館、シネマスコーレを名古屋にもった監督は名古屋を頻繁に訪れ、若い映画人たちとの交流を持つに至った。そんな折などに、やはり私が営んでいた居酒屋に来ていただいたのが最初だった。その後、しばしば大勢の若者たちを引き連れて来店の折には、常にその中央には若松監督がいた。
 時折、少人数や一人での来店の際には、カウンター越しにいろいろ話を交わすことができた。私の店の若い常連の映画好き(年間200本の映画を観ていた)が、縁あって監督の類縁に繋がることになったこともあり、その来店も何度かにわたった(その類縁関係は不幸な結果になるのだがそれはこの際、言わないでおく)。

          

 監督が客として私の店を訪れた頃には、上記の映画で見たようなむき出しの荒々しい情熱は影を潜め、むしろ若い人たちに囲まれて好々爺然とした笑顔を見せることもあった。むろん情熱を失ったわけではなく、それらは静かに作品の中に沈殿していったようだ。

          

 こうしてこの日、私は逝ってしまった二人の先達に再会したのであった。
 そのひとり、出版人として反骨を貫いた稲垣さんとは、その人となりが語られたトークイベントの中で、もうひとりの、映画というキャンバスに溢れる思いをつねに叩きつけてきた若松監督とは、その後衛たちが作り上げた映画の中で。

          

 二人に共通するもの、それは閉塞した状況に圧倒されることなく、マジョリティのもつ抑圧的な価値観にマイノリティの立場から抗い続けることでなにかを生み出し続けるという反骨の精神、そしてそれを新たな創造へのバネとしたチャレンジ活動を手放さなかったことだろう。

 時代の閉塞感は、こんにち、一層募ってると思うのだが、現今の大勢をみるや、それに順応することが「うまく生きること」であるとする向きが多い。そしてそのことが、閉塞の重みをますます増加させ、さらにそれに順応するという悪しきスパイラルが自らの牢獄の壁をますます厚くしているかにみえる。

 「時代はもう、稲垣さんや若松監督のものではないんだよ」とささやく声が聞こえる。「彼らを、《かつて》の記念碑として安らかに葬ることが必要なのだ」とその声は続く。
 しかし、彼らが目指した世界の流動性のようなものを失った世の中は、流れを失った水が腐敗するように、次第次第に「生きた人間」を窒息死させてゆくことになるだろう。
 そうした状況に警鐘を鳴らし続けてき彼ら二人の声に、いま一度、耳を傾けてもいいのではないか。彼らの背中をみて生きてきた私は、能う限りそのように生きたいと改めて思った。



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【読書ノート】末裔たちが語る「もう一つの足尾銅山鉱毒事件」

2018-11-03 16:21:16 | 歴史を考える
 古河鉱業の銅山開発が引き起こした足尾銅山鉱毒事件は、この国の公害闘争の原点のようなものとして教科書にも取り上げられていて、これを知る人は多い。
 とりわけ、この闘争に一身を捧げ、明治天皇への直訴をピークにその死に至るまでこの闘争をリードし続けた田中正造は今では偉人としての評価を得ている。

          
 
 この鉱毒事件はけっして過去の話ではなく、その影響がが100年以上たった今でもさまざまに残留していて、なおその対策が必要な問題であることはあまり知られてはいない。

          

 しかし、ここで触れようとする「もう一つの」はそれについてではなく、田中正造が活躍したその同時代に、主要な舞台となった谷中村の村長であり、田中の右腕とまでいわれた茂呂近助の動静に関する物語なのである。
 題して『谷中村村長 茂呂近助 末裔たちの足尾鉱毒事件』がそれである。
 茂呂近助のその後があまり知られてこなかったのは、谷中村の存続を巡って情勢が揺れるなか、田中をして、「泥棒を捕らえてみればわが身内」と言わしめた田中と茂呂の亀裂のせいもあるかもしれない。 

             

 具体的にいうならば、闘争継続を主張する「正義派」と、補償金をもらって離村しようとする「売村派」とのあいだの対立で、茂呂近助は売村派の頭目とみなされ、ようするに闘争中心の正史からは裏切り者とみなされたのだった。

          

 ここに取り上げた書は、その茂呂近助の孫、ひ孫の世代が「谷中村と茂呂近助を語る会」に集まり、相互に持ち寄った情報、新たに調べ上げた事実などをもとに編纂されたもう一つの足尾銅山鉱毒事件の軌跡ともいうべきものである。
 具体的には闘争時の茂呂近助、そして離村を決意して後の茂呂近助の足跡や人となりを可能な限り追ったものとなっている。

 書き手は、彼の人となりをうっすら覚えている人1人を含む近助の孫の世代2人、さらにはそのひ孫世代の5人の計7名で、彼らは親の世代から伝え聞いたことども、あるいは、自ら近助の足跡を調べたりしたことなどをこもごも書き綴っている。

          

 それらによると、離村派のリーダーだった茂呂は、代替え地として与えられた北海道はサロマの開拓地へと新天地を切り開くべく村民を導いてゆくのだが、しかし、その地は、予め説明されていたように南に向かって開けた土地ではなく、逆に北に向かったそれであり、冬期にはマイナス20度を超える厳寒の地であったという。
 ようするに、救済とは名ばかりの棄民に等しい措置だった。

 当時の人力主体の開墾は困難を極め、耐えきれずにそこを去る者たちもあった。近助は谷中村離村の、そしてサロマ開拓の責任者として、その困難に立ち向かうべく、行政的な処置を求めたり、親類縁者やすでに独立していた自分の息子のところへも押しかけ、金策をしたりした。ようするに一方的な金の無心だから、近助の来訪は疫病神の到来のようだったとも伝えられている。

          

 しかし、その労あって、栃木村と名付けられたその土地は、かつてそんな艱難辛苦があったことを感じさせないほどに開けているという。なお、現在は佐呂間町栃木地区で別掲の航空写真の赤い線で囲まれた部分に相当する。

 私が感動したのは、この書の後半、この書を書いた「近助を語る会」のメンバーなど、近助の末裔10人余が栃木村を訪れるシーンである。見開きの横長のパノラマ風の写真には、近助たちが開拓した農園を望む地点に至った一行の後ろ姿を中心に、農園とその背後の集落、そしてさらに背後の緩やかに広がる丘陵地が写されていて、彼らが父祖の地を見てはっと佇む息づかいが聞こえてくるようである。

 具体的な諸事実は同書によっていただくほかはないが、ここに書かれた足尾銅山鉱毒事件の裏面史ともいえる事柄には、100年前のできごととは思えないような現在に通底するアクチュアルな問題が潜んでいることが散見できる。
 たとえば、執筆者の一人は、成田空港反対闘争の折には、ある航空会社の成田支店長の職にあって、反対派から罵声を浴びせられる立場にあったという。

          
 
 また近助を裏切り者の方へ押しやった闘争継続と補償を得ての離村という二分のパターンは、その後、ダムなどの大型公共事業のたびに繰り返された問題でもある。「正義派」を貫くことの困難、貫いた場合にどうなるかの見極めなどなども問題であろうと思う。

 最後に、サロマへの入植は棄民に等しい措置であったといえる反面、そこに発生した新たな被害者への目配りもちゃんとなされている。
 新たな被害者とは、なんの補償もなく、ただただ一方的に新参者たちに先祖代々からの住まいと生活の場である土地を取り上げられるアイヌの人たちのことである。
 これは満蒙開拓団などの各種棄民政策で、必ず現地での新たな被害者を産み出してきたことと共通する問題である。

  『谷中村村長 茂呂近助 末裔たちの足尾鉱毒事件』
        谷中村と茂呂近助を語る会:編 随想舎 1,800円+税


なお、田中正造と茂呂近助のあいだの亀裂であるが、晩年には再び交流が再開されたことを書いておくべきだろう。私自身、それを知ってホッとした感を覚えている。




コメント (2)
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