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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

キッチュ化されない宿場跡・大平(おおだいら)宿跡

2013-06-17 03:07:29 | よしなしごと
 地域のサークルの人達と一緒に、旧中仙道の宿場町、妻籠と馬籠へとゆく機会があった。
 島崎藤村が、「木曽路は山の中にある」といったまさに木曽路の西の起点にあたる宿場町である。
 観光地としては全国区で、大型バスが駐車場に入り、日本各地からはむろん、中国語や韓国語も飛び交う。

 

 こうした観光地へ行った時、公式のガイドさんたちの話も参考になるのだが、一方、実際にその街で暮らす人達と話してみると意外と普通ではわからないことが聞き出せたりする。
 今回私は、妻籠宿の町外れの青果商(&雑貨屋さん)のおじさんと話をする機会があった。

 

 「なかなか賑やかですね」
 「まあ、今日は週末だからね。普通の日はひどいよ。そのへんで、さも宿場時代から商売をしているような店でも、実際にはほとんど通いだから、今日は暇だなと思ったら三時、四時でも店を閉めて帰ってしまう。まあ、サラリーマンと一緒だからしょうがないよな。だからここがよけい寂しくなるんだ」
 「じゃあ、おじさんは?」
 「わしはここで生まれ、ここにちゃんと住んでいるから、帰らないで店も開けているよ」

 

 この話を聞いて、一〇年ほど前に訪れたハンガリーの中世の趣を残している村落を思い出した。そこでも話を聞いてみると、大半はそこで暮らしているのではなく、新市街で近代的生活を送りながら、そこへ「出勤」してくるのだといっていた。
 そのせいか、民族衣装を着て踊るハンガリー娘は全員、私とほぼ同年代の、かなり年季が入った「娘」さんたちだった。

 

 私は、洋の東西を問わず、こうした古びた観光地がそうしたシステムによって成り立っていることを責めようとしているのではない。そのハンガリーの集落の人や、日本の宿場町の人が、中世や江戸時代の居住環境のなかで日常を送ることは現実的にいって不可能なのだ。
 だから彼らは、職業として中世や江戸を装い続けなければならない。そしてまた、そのことによって残されるものも多いのだから、端から文句をいう筋合いはない。
 まあ、しかし、それらが実はキッチュな模像にすぎないことぐらいは知っておいてもいいだろう。

 

 それはそれとして、今回訪れたうちでもっとも印象深かったのは、妻籠と馬籠ののようにいまなお昔日の面影、ないしはそのイメージを保全している宿場町ではなく、中山道と三州街道(伊那街道)を結ぶ大平街道のほぼ中間地点、標高1150mの大平高原と呼ばれる山中のかつての宿場町・大平(おおだいら)宿の様子であった。
 ここはかつて、大平村と称し、小学校はむろん、郵便局や電話の交換所もあった独立した村落であったが、急速な過疎化の進行の中で、1970(昭和45)年、住民の総意による集団移住により、それ以降廃村になったところである。

 

 その後、別荘地としての開発なども計画されたがそれもうまくゆかず、現在では飯田市に併合され、自然環境保全地区に指定されるとともに、体験学習などの一環として、かつての宿場へ宿泊泊できるなどの措置がとられている。もちろん、食糧などは持ち込みの自炊である。

 

 こうして、廃村になったになったにもかからず、かつての宿場を支えた家々は、半ば廃墟でありながら、かろうじて全滅を免れている。
 この宿場の廃墟は、妻籠や馬籠のように昔ながらのように装われたものではない。
 狭い街道の小さなせせらぎ沿いの家々はすでに倒壊してしまったもの、半壊のものなどもあって歯抜け状態で熊笹が生い茂っている箇所もあるが、そしてまた、40年前までは人が住んでいたということで、障子の代わりにガラス窓などになっているところもあるが、その建物自体は、江戸中期、末期、明治初期などのものが多くある。

 

 全くの廃墟ではないのでそんなことをいっては失礼だが、私のような廃墟フェチにとってはたまらない風情が漂っていて魅力十分である。
 訪れたのがたまたま土曜日だったので、古民家体験宿泊の人が数名いて、言葉を交わしたが、その人たちが今宵泊まる場所はすぐ分かった。旧街道沿いの小さは流れには、酒やビール、胡瓜やトマトなどが冷やされていて、その下流には岩魚の稚魚が泳いでいた。
 「アルコールは欠かせません」と笑うそのメンバーの一人は、実はここの出身だという。そして、ここには何々がありあそこには何々があったと懇切に説明してくれるのだが、それらのほとんどは自然の侵食にあってその形態を止めてはいない。

 

 彼との別れ際、自分自身が今やビジターであるにもかかわらず、私たちにまた来て下さいといっていたのが印象的だった。
 今や倒壊すべきものは倒壊し、熊笹や白樺に覆われたこの山中のちょっとした広がりにあった宿場ではあるが、険しい山道を登り、ここへと至り、さらに峠越えをひかえた旅人たちが、ここで旅装を解き草鞋を脱いだありさまが、それらしく整備された宿場町のレプリカよりも、一層身に沁むような宿場跡であった。
 






コメント (2)
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