六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

八重葎しげれる宿の寂しさに ひとこそみえね秋はきにけり

2020-08-31 15:13:22 | よしなしごと

 このお宅、その前には道を挟んでちょっとした流れがあり、その流れを挟んで桜並木が広がるという良いロケーションに恵まれている。
 さほど広くはないが、こざっぱりと植木などが刈り込まれ、住まうひとの雅なセンスが偲ばれ、花の下を歩く人にも好感を与えていた。

 異変が起こり始めたのは何年前からだろうか。さほど前からではない。2,3年前からか。人の手によって保たれていた自然のバランスは、その手が加わらなくなった途端に無政府的に原始の姿へと回帰し始める。

        

 この写真で見ても、かつては最下段のサツキ、その上のツゲの生け垣がきれいに剪定され、その上に、キンモクセイやマツが美しく整えられていた。
 その写真の少し左手の門扉の当たりも、かつての面影がまったくない。
 
 たぶん、もはや無人なのだと思うが、もし、住まっている人がいたとしたら、老齢か、あるいは病いのため、もはや手を加える余地がないのだろう。

        

 これ、じつは人ごとではないのだ。私のうちにも、家屋の周辺にささやかな庭のようなものがあり、それなりに手を入れてきたが、最近では、自分自身の加齢で、それも思うに任せぬ。
 手作業ではもはや限界と、最近、電動トリマーを買ったのだが、その途端のこの暑さ、熱中症を恐れてちょっとしたテストはしたものの、本格的な使用はしていない。

 だから、玄関先の部分はかろうじて見た目を保っているが、側面に回るとやはり八重葎状態である。
 このまま私が老いさらばえて、あちらへ逝ったりすれば、わが家もやはりお化け屋敷化することは間違いない。
 だから、荒廃した家屋は決して人ごとではないのだ。

        

 数年前、これと似たケースに遭遇している。やはり、さほど広くはないがきちんと手入れをしたお庭をもつお宅があって、狭い道路を挟んで、自家用の菜園があり、その傍らには立派なユズの樹があった。
 その辺りは緑が多いので好んで通ったが、ある時、その菜園の手入れをしている私より若い老婦人と挨拶を交わしたのをきっかけに、見かければ簡単な挨拶を交わす間柄になった。
 
 あるときなど、「立派なユズですね」と褒めた私の言葉の中にモノ欲しげな響きを聞き取ったのか、「少しおもちになりますか」とのことで、「じゃあ、お言葉に甘えて」ということになった。私のつもりでは、畑仕事のついでに、2、3個をもいでくれるものと思っていたのだが、「ちょっと待って下さい」と道路を挟んだ自宅へ行き、ハサミを持ってきて実を取り、袋に入れてかなりをいただくことになった。
 
 そういえば柚子の木には棘があり、ハサミでなければ容易にもげないのだった。思わぬ手数をかけてしまった。
 後日、私はお礼に絵葉書のようなものをその家のポストに入れておいた。

        
 
 異変に気づいたのはまず畑の方だった。きちんと畝が設えてあり、季節の野菜が整然と植えられていたその空間が荒れ始めていた。雑草が目立ち、せっかく実った野菜も収穫されないまま、雑草の中に埋もれはじめていた。

 道を挟んだお宅の庭園部分にも異変が見られた。
 それから、何度もそこを通りかかったが、荒廃は進む一方で、畑はまさに八重葎状態で、複雑に絡まった植物群に占拠され、傍らに立つユズの樹のみが、かつての面影を留めていた。お宅の方も同様に荒れてしまって・・・・。

        

 見るに忍びなので、あまりそこは通らなくなった。
 ホット一息ついた感じになったのは、今年の正月だった。近くの鎮守様に初詣の真似事をしたあと、久々にそこを通ってみたら、畑も、自宅の方も完全に取り壊され、更地にされ、売地になっていた。
 何かが終わったという寂寥感は拭えないが、あの見るに忍びない荒廃にピリオドが打たれたという意味ではやはりホッとするものがあった。

 実はこうしたケースは、しばしば起こっている。地域によっては、数軒に一軒がそうであったり、その候補であるという。
 新しい建築物が作られては捨てられる・・・・かつては住居は代々継承されるものだった。しかし、家を中心とした地域社会が崩壊して以来、住居そのものが消耗品となり、捨てられ、放置される対象となった。

 私はこの近くで、かつて、かなりの風格をもっていたであろう家が、そのまま廃屋になり、無数の植物群に覆われ、文字通り崩れ落ちる10年ぐらいの過程を見たことがある。

 八重葎と関連したもうひとつの光景を載せておこう。
 ここはかつて、整然とした家庭菜園であった。休日ともなれば、各区画ごとにそれぞれの家族が思い思いの青果類を育てていた。

        

 それが今はこの有様。それでも、別のアングルから見れば、まだ工作している区画が2,3はあるようだが、大半はご覧のように身の丈三メートルを越える草によって、まるで平地の中のこんもりした森の様な状況をなしている。
 思うに、各菜園が施した肥料がたっぷり残留していて、他にも増して種々植物の成長を促しているようだ。それらが鬱蒼としていて、まるでジャングルのようにひとの行く手を阻んでいる。

 私たちが見慣れた風景、田園のそれであったり、住宅街のそれは、それぞれ人の営みによって維持されているものであって、それらの一角が崩壊するや、これまで矯めれれていた野生の力を一段と発揮した原始への回帰の過程が始まる。
 それが今、地球上のあちこちで起こっているのではないか。
 例えば、未だ立ち入りもままならぬフクシマの地だとかで。


 

 

 

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君はホンモノの梅干しを知っているか! 私的梅干し論

2020-08-25 14:54:43 | よしなしごと

 私はほとんど梅干しを買ったことがない。食べないわけではない。いただきものなどはありがたく頂戴している。
 しかし、これぞ梅干しという私の記憶の琴線に触れるようなものにはなかなかお目にかかれない。

 スーパーのものがダメだといっているのではない。ただ私の抱く梅干しの「原」イメージとは離れているのだ。
 私にとっての梅干しの原点は、疎開していた折、岐阜は西濃地方の母方の祖母、カギさんの作ったそれだ。特別なノウハウがあるわけではない。伝統的なそれを頑なに守り、その折々のTPOに応じて、というか長年の経験に応じて、梅の成熟具合、乾す天候などに応じほんの僅かなバリエーションを加えてはいたのだろう。

        

 結果としてカギさんは、今年はやや酸っぱいかなとか、しょっぱいかななどと自己評価をしていたが、幼い私にはそんな微小な差異はわかるはずもなく、ただただうまかった。

 当時、私のように田舎で育った人間にとって、梅干しが食生活に占める割合は遥かに大きかった。いまほど副食材に恵まれていない折には、梅干しのみがおかずであったこともしばしばであった。「日の丸弁当」というのがまさにそれであった。
 
 梅干しは子どものおやつでもあった。私もまた、祖母の梅干しを、竹皮を三角にした中に入れ、それをチュウチュウ吸っておやつにしたことが何度もある。梅干しが出来上がった頃のこの夏のおやつは、塩分を補給して子どもたちを熱中症から守る役割を果たしていたのではあるまいか。

 その後は、祖母のスキルを受け継いだ母、シズさんの梅干しを食べ続けた。それらの味こそが、「梅干し」のそれであった。そのシズさんが作らなくなって以降、私は自分から求めて梅干しを口にしなくなった。

 ただし、その後も、いただきものの梅干しを何度も口にしたことはある。それらはブランドの梅を使用し、果皮はあくまでも薄くて自己主張などせず、果肉もまたとろけるように柔らかく、酸味や辛味は極限にまで抑えられているばかりか、ハニー味さえあって、そのままスイーツにでもなりそうなのだ。

 それらがダメだとか、まずいと言ってるのではない。ただ、それらは、私の味覚に残る「原梅干し」のイメージと大きく異なるものであり、いってみれば、梅を材料にした別の加工食品なのだ。

        

 前置きが長くなったが、久々に私のイメージに合った梅干しにお目にかかることができた。
 かつて、同人誌「遊民」でご一緒した先達の大牧冨士夫さんお連れ合い、フサエさんの手作りの梅干しを送って頂いたのだ。これぞ、私が思い描く梅干しそのものなのだ。
 
 果皮はあくまでもその存在を主張し、果肉はヘラヘラしないでちゃんとしっかりしている。問題はその味で、梅本来のそれを変な妥協で加工し、崩すのではなく、その酸味も、香りもちゃんと残しながら、梅と塩、梅酢と赤紫蘇の色合いと香り、天日に晒したその恵みなどがギュッと凝縮した味わいなのだ。
 もちろん、酸っぱすぎたり塩辛すぎたりもしない。

        

 フサエさんの梅干しが、その生粋の伝統によるものだというのにはわけがある。フサエさんが長年暮らしていたのは、いまはすべてがダム湖に飲み込まれ、全村、その姿を消した旧徳山村だったのだ。その山での暮らしの中で、この梅干しの伝統もフサエさんに伝えられたものであろう。

 日本一の貯水量を誇りながら、ほとんど無用の長物といわれ、「ムダなダム」と回文による陰口を叩かれるこのダムは、縄文以来の歴史、平家の落人伝説の歴史、などなど、すべてを飲み込んでしまった。まさに一つの歴史と文化の消滅であった。
 いくぶん大げさないい方をすれば、その中から救い出されたもののひとつがこのフサエさんの梅干しなのだ。

             

 私のこの言い方は決してオーバーではない。フサエさんは、梅干しにとどまらず、かつての徳山村の食生活を彷彿とさせる書の著者でもあるのだ。
 『フサヱさんのおいしい田舎料理 ー 岐阜・旧徳山村で作ってきたもの』(発行・発売 編集グループSURE 2014)がそれで、村では普通に食べていたものの紹介ということだが、やはりそこには山の民ならではの食文化の貴重な記録がある。

 私が今、目前にしているのはそういう伝統を引き継ぐ梅干しなのだ。それは同時に、私の祖母、カギさんのそれや母シズさんのそれと通じるものでもある。
 そして、その「口福」を味わうことができる私の舌もまた、カギさんやフサエさんが残してくれた伝統的な味覚に鍛えられた私独自の「味蕾」に支えられている。

 梅干しの中に潜む歴史と伝統、それをいま一度蘇らせてくれるフサエさんの手になるそれを、感謝を込めていただきたいと思う。
 フサエさん、ありがとう。
 冨士夫さん共々、いつまでもお元気で。

           
 
【お連れ合い・冨士夫さんのこと】最後の写真は、旧徳山村と福井県鏡にそびえる冠山である。これはまた、フサエさんのお連れ合い、冨士夫さんが俳号にしていらっしゃる山でもある。この一事にも、大牧さんの捨てがたい故郷・徳山への思いがみてとれる。

 なお、この冨士夫さんの方は、以下のような句集を出されている。
 『大牧冨士夫句集 庭の朝』(風媒社 1,400円+税 2018)

            
 
 私よりちょうど10歳上で、少年兵の経験もおもちの冨士夫さんの句には、俳句独特の言葉の軽妙な響きと同時に、生きてこられた時代の重みをどっしりと受け止められた言葉たちも散見できる。この時代の、この方にしかできない、句たちの趣がある

  颱風のほしいままなる庭の朝
  春めくや鯉はしずかに動きけり
  わがために春日縁先ぬくめをり
  花を見て人見て堤暮にけり
  旨しかな雛にかづけて昼の酒
  戯れてゐもりの腹をかへしみる

  脚絆巻きし日風化などさせぬ
  十二月八日庭木と話しをり
  「故陸軍ーー」碑のある畑の梅白し
  空耳の起床喇叭や敗戦忌
  われらみな兵士であった敗戦忌

 

 

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雪駄(せった)チャラチャラ、お買い物・・・・(自画像つき)

2020-08-18 11:05:45 | よしなしごと

 新型コロナと連日40度近くの暑さに挟撃され、どこへも出かけずもっぱら食っちゃ寝だからコロナ太りは必至。
 一念発起して近くのスーパーへ徒歩で買い物に出かけることに。
 午後5時になっても日差しは衰えを知らぬ。ただし、いくぶん風が出てきたのと、湿度が低いのとでベタつく暑さは避けられそうだ。

 近所のスーパーとはいえ、うちでの裸同然の姿のままでは出かけられないから、一応身だしなみを整えてチェック。
 シャツとズボンのコラボ、それに帽子とスリッパのコーディネイトもなかなかおしゃれではないか? 偶然だけど。
 これなら、さすがの明智くんも、私が怪人20面相であることに気づくまい。フッ、フッ、フッ、フッ。

               

 おでかけは、雪駄でチャラチャラと。
 何年か前、このスタイルで歩いていたら、欧米系のカップルがもの珍しそうに見ていたので、「ジス・イズ・ジャパニーズサンダル」なんてことをいってみたが通じたかどうか。写真を撮っていったから、どこかのSNSにでも載せたかもしれない。

             

 スーパーでも、たいして多くは買わない。魚、豚肉、鶏肉と3日分のメインディッシュと、練り物、豆腐、納豆に生ワカメなどを若干。野菜は先般農協で仕入れたばかりだ。

         
                 これは途中の風景

 帰途、日照り続きの田に水を送る井戸がフル稼働していた。私がこの地へ来た折は、この辺の田は、近くの荒田川からの分流による自然給水だったが、何十年か前に、こうして所々に掘られた強力な井戸による給水に取って代わられた。

 この動画の井戸は、半世紀近く前、わが家から100メートル以内に設えられたのだが、そのおかげで大損害を被った恨みの井戸である。というのは、わが家も井戸水を用いていたが、この井戸はその同じ水脈から水を汲み上げ始めたため、わが家の井戸はたちまち見事に枯渇し、蛇口をひねっても、プシュプシュとつぶやき、砂混じりの水滴を若干垂らすのみで、まったく用をなさなくなってしまった。

https://www.youtube.com/watch?v=YhlQINFRohE

 結局、ウン十万円を投じて、さらにその下の水脈から揚水することとなったが、何の保証もなく、ただただ泣き寝入りという結果。ただし、そのおかげで水質は一層良くなり、昨年の保健所の検査でも良好ということで、いまでもわが家は井戸水のみに頼っている。

 そんなことで、積年の恨みも薄れ、これらの水が潤す田のことを思うのだが、その田も、往時に比べれば10%ほどに減少している今、この井戸のランニングコストの負担などはどうなっているのかが気になる。要らぬおせっかいといわれそうだが。
 
                        ここは休耕田 ひび割れがここんところの暑さを示している

 うちに戻って装束を脱ぎ捨て、もとの裸同然に。クーラー嫌いの私にとって、この裸同然こそ夏の正装なのだなどとこじつけている。

 あっ、そうそう、書き忘れるところだった。写真には撮れなかったが、今年はじめてのアキアカネを見かけた。今月いっぱいは猛暑が続くと報じられているが、秋は密やかながら近づきつつある。

 

 

 

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柳ケ瀬慕情 暗渠とせせらぎ 奈良光枝さんのこと

2020-08-12 15:49:27 | よしなしごと

 産まれたのは名古屋は今池だが、縁あって物心がついて以来(とうことは1942,3年以来)、一時期を除いてこの街、岐阜に住んでいる。
 
 先般、所用もあって街の中心部へでかけた。
 かつての繁華街といわれた柳ヶ瀬は、衰退著しいところへもってきてこのコロナ禍、人影を求めても得られないほど閑散としていた。
 週末ともなれば、昼夜を通じて袖摺り合わねば通行できなかった日々、それは私の少年時代のことであるが、それを知るだけに、まさに昔日の感がある。

                    
                西柳ヶ瀬

 柳ヶ瀬は、東西に広がる街で、その真ん中を、戦前は「凱旋通り」、戦後ず~っとは「平和通り」、そして昨今は、長良川にかかる金華橋に通じているというのみの機能的な名称としての「金華橋通り」が貫いている。

 その通りの西側は、文字通りの西柳ヶ瀬で、かつてはグランドキャバレーが軒を連ねていた。その名残りかいまも風俗店が多い。
 美川憲一の歌う『柳ヶ瀬ブルース』の歌碑は東側の商店街の通りに埋め込まれているが、歌詞の内容からしてその舞台は西柳ヶ瀬のほうだろう。

                    
     弥生町界隈 かつて行きつけの店があったが閉店してもう久しい

 通りを挟んだ東側は、かつては10軒近い映画館と百貨店(丸物)を擁した娯楽と物品販売の街だった。
 今やその映画館は四つの画面を持つシネコンと、同系列で昭和のレトロな映画に絞って上映するちょっと特異な館を残すのみだ。
 私が祖父に連れられて観に行った奈良光枝の実演(1950年代前半)が開催された岐阜一番で、1000を超える入場人員のキャパを誇った岐阜劇場は、今や高島屋百貨店となっている。
 上に述べた丸物百貨店はとっくに撤退し、岐阜劇場跡の高島屋が岐阜唯一の百貨店だが、時折、その撤退の噂が流れたりもする。

 娯楽もだが、物品販売も苦戦している。県都ではあるが、大都市・名古屋に近すぎる。JRの快速でわずか18分、名古屋方面からの列車が岐阜に着くと、高島屋の袋を下げたセレブが降り立ったりする。岐阜にも高島屋があるにも関わらず、名古屋駅前の高島屋の方が品ぞろえが良いし、ほかに名鉄百貨店や大型のショッピングモールも数あるからだという。

 嘆いていても仕方あるまい。そうした時勢に適した生き方を模索する他はないからだ。しかし、その趨勢がもう長年続くなかで、それらしい方向性がどう意識されているのかはよく見えてこない。まあ、私の不勉強かもしれないが。

                
               アクアージュ柳ヶ瀬

 「アクアージュ柳ヶ瀬」という小路がある。石畳様の通路の下には、暗渠になった流れがある。この写真の少し先に、それが露呈している区間があって、鯉や鮒などの姿を見ることができる。
 実はこれが柳ヶ瀬の地名にもなったかつての川筋の痕跡である。そして岐阜市内には、長良川から引いた水路や、金華山を水源とした流れなど、結構多くの水路が走っているのだが、そのほとんどが暗渠になっていて、岐阜市民ですらその存在を知るものは少ない。
 それらをもとに戻したら、岐阜は市街地をせせらぎが走る街になるのだが、道路や駐車場などに「活用?」している効率本位の発想からは、おそらく無理であろう。

               

 久しぶりに、柳ケ瀬からJR岐阜駅まで、岐阜の二の宮・金(こがね)神社経由で散策気分で歩いた。夕刻で、日頃なら、若者や仕事帰りのひとで賑わう若宮町筋の飲食店街も、全く客の姿が見えない店がけっこう目立っていた。
 ちょっと落ち着いた感じで、友人たちと出逢うのにしばしば利用していた店は閉まっていた。一時休暇なのか、それとも閉店したのか気になるところだ。

              

         
 岐阜駅北広場には、子供の頃から見慣れた1912年(大正元年)製の名鉄510型電車がその余生を横たえていた。ただし、このケバイ色彩は、引退時のもので、私が長年見てきた色は深く暗い緑色の地味なものだった。
 正面の5枚の窓、乗降口横の楕円の窓が特色なのだが、後者はその角度からわかりにくくしか撮れなかった。

          
              
とりとめがなくて申し訳ないが、最後に、文中の奈良光枝の歌を載せておこう。いまも私は、奈良光枝のファンである。
https://www.youtube.com/watch?v=c7_X73Y-gFc

https://www.youtube.com/watch?v=--mRUmn8jbc

https://www.youtube.com/watch?v=MOGurjyZ0jg

https://www.youtube.com/watch?v=JWL1o8WVpy0&list=RD39HNOHBVXdw&index=2

なお、かつて私が書いた岐阜市内の暗渠となっている水路についての記事は、「岐阜市街暗渠水路図」でググると出てくる。それが以下。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20161110

 

 

 

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軽妙洒脱な会話バトルのコメディ 映画『お名前はアドルフ?』を観る

2020-08-09 11:38:02 | 映画評論

 先般、久々に劇場のスクリーンで映画を観たといった。しかも一日に二本も。
 そして、その内の一本、『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』については先般、このブログに感想を述べた。

 もう一本についても感想を書き記しておこう。
 映画は、『お名前はアドルフ?』、2018年、ドイツの作品である。監督はゼーンケ・ヴォルトマン。
 映画にもかかわらず、ほとんどが限られた室内での5人による会話劇。それもそのはず、もともとはフランスでの舞台劇。その折のタイトルは『名前』もしくは『名付け』。
 「アドルフ」からの連想で、欧米では尽きることがないナチ絡みのシリアスな映画だろうと思う向きもあろうが、それに尽きるものではない。

             

 多少のネタバレはご容赦で(肝心なところは書きません)内容について述べよう。
 ボン郊外の瀟洒な住宅で開かれたパーティ。出席者はこの家の夫妻、シュテファン・ベルガーとエリザベート・ベルガー=ベッチャー(この二人は幼馴染でもある)、それに、エリザベートの弟のトーマスベッチャー。彼は学歴はないが商才にたけていて、財を成している。それに、この3人と幼馴染のレネ・ケーニヒ。職業はオーケストラのクラリネット奏者。少し遅れてくるのが、弟のトーマスの恋人、アンナ。彼女は女優を目指して舞台のオーディションを受けている。

 話の大半は、この5人の会話によるのだが、もうひとり、エリザベートやトーマスの母親・ドロテア・ベッチャーの存在を欠かすわけにはいかない。
 彼女はこのパーティには参加せず、ただリモートで電話をしてくるだけだが、思いがけず重要な役割を背負うこととなる。

           

 さて、映画の邦題の『お名前はアドルフ?』についてであるが、それはトーマスが、恋人アンナとの間にまもなく生まれるだろう子供に、「アドルフ」と名付けると宣言したことによる。
 その前に、その名前を他のメンバーが当てようとする展開があるのだが、それに私は興味をもった。

 それは表音文字の欧米と、表意文字のこの国の名前のイメージに関する問題である。この国では、大半が漢字で名付けられるが、その際、発音もだが、どの文字を用いるかによって名前のイメージ、ないしはそれに込めた名付ける側の意図が表現される。これは、いわゆるキラキラネームを含めてそうであるといえる。

 欧米の表音文字の世界ではどうだろう。確かに、アルファベットから選ばれる文字の配列やその発音に多少の意味作用はあるにせよ、この国の、良子、勇太、和美、義博・・・・などのように直截的ではない。
 ならば、何を参照点としてその名前のイメージを導き出すのか。それはおそらく、同名の、もしくは類似の名前をもった先人の業績に負うところが多いのではあるまいか。

           

 映画の中で展開される名前当てクイズがまさにそれである。ここには西洋史に詳しくないとわからない要因があり、それがくすぐりになっている場面が多いが、私にもわかったのが、「じゃ、ドナルドは?」と誰かが言ったときの総員の反応だった。「は?ドナルド!ハハハハハッ」「ドナルドだって?ハハハハハッ」という嘲笑と哄笑がしばらく続くシーンだ。この映画ができた2018年、そう、あの人はもうアメリカの大統領だった!

 その後、「アドルフ」であることが明かされ、侃々諤々の論争に至るのだが、面白いのは、言い出しっぺのトーマスが決してネオ・ナチなどではなく、むしろ、アドルフという名に染み付いた悪いイメージを、その子を立派に育てることによって払拭するのだといっていることである。

           

 しかし、このアドルフ論争は、じつはこの映画の目指すところではないことがやがてわかるだろう。
 ただし、この論争の過程で、表面を取り繕う物言いがすっかり剥がれてしまった本音バトルは、次第にヒートアップして、意外な事実や告白が引きだされることとなる。
 
 それまで、ほとんど脇役風で、女性への志向を感じさせないところからゲイだと思われていたクラリネット吹きのレネの秘密が明かされ、その意外な恋人が露見して大騒動になるくだり、そしてそれまで、パーティの料理を担当し、居間と台所の間を忙しく行き来していた妻エリザベトが切れて、夫シュテファンを始めとする男性陣への長広舌の批判を展開するくだりなどなどは、ほとんど修羅場を呈するに至る。

           

 上記の不在の母ドロテアを含めて6人の「家族集団」は、この会話バトルの中で、これまでの上辺の均衡が解体され、明かされた事実に直面しなければならないだろう。
 もうこれまでと同じではいられないが、しかしそれを踏まえて新たな出発をする以外にない。

 それを象徴する場面がラストにやってくる。新たな結束は、そう、つねに新しくやってくるもの、新たに生まれくるものによって更新される。
 あわや、アドルフと名付けられようとした子供の生誕である。
 その祝いに、不在だった母も駆けつけ、家族全員が、むろん、新しい生も含めて7人が勢揃いすることになるだろう。
 そして、最後に父になったトーマスによって明かされる「ん?」な事実・・・・。彼は祝いに駆けつけた面々にいう。

           
 
 「いいニュースと悪いニュースがある。いいニュースは母子ともに健康だということだ」そして、少し溜めを作ってからいう。「悪い方のニュースは・・・・」、しかしその目が笑っていることから、決して本当に悪いニュースではないことがみてとれる。
 「悪い方のニュースは・・・・・・・・」と、トーマスは続ける。
 この映画の最後のフレーズとなる言葉、それは見事なオチになるのだが、それは言うまい。料金を払って映画を観たものの特権だ。
 しかし、この映画全体を貫くウィットや意外な展開、それを集約したようなフレーズが用意されていることだけは言っておこう。

           

 映画をよく観る割に俳優の名前などには疎い。
 この映画の出演者についてもよくしらないのだが、それぞれの演技が素晴らしく、単一の場面設定で多少の隙きができそうなものだが、それらが全くみられず、原語に疎い私にも、その会話部分が極めて充実した演技によって流暢に支えられていることがわかり、興味を逸らす箇所がまったくない。

 難しくいえば、破壊とそれによる再統合といったことかもしれないが、そんなことにお構いなく、このファミリィは、相変わらず侃々諤々な会話バトルを続けてゆきそうなのだ。またそうであってほしい。
 底抜けにおもしろかった。


【おまけのトリビア】レネ・ケーニヒ役のユストゥス・フォン・ドホナーニの父は、世界的指揮者・クリストフ・フォン・ドホナーニ。だから、彼にはオケのクラリネット吹きの役がふられたのか。

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自然と人間の輪廻 映画『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』を観る

2020-08-06 16:03:27 | 映画評論

 たぶん、今年はじめて劇場のスクリーンで映画を観た。しかも、途中で用件をひとつ挟んで二つの映画を観た。気温が36度で、しかも岐阜県には非常事態宣言が出ているのにである。

 まあしかし、密にはならない。それぞれの映画とも、観客数は一桁。女性デーでいつもならもっと多いはずなのだが。
 二つの内、観客が3人ほどだった映画について書いておこう。

              

 『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』(監督・撮影:百崎満晴)がそれであった。
 秩父山地の北の端にある限界集落と、そこに住む人たちを20年近くにわたってカメラに収めたNHKのドキュメンタリーシリーズ(その折のタイトルは「秩父山中 花のあとさき」)の総集編ともいえる映画である。
 なにか劇的なシーンがあるわけでもない。カメラは、山肌の急斜面にしがみつくような佇まいの集落と、そこに住む人たち、とりわけ、もう耕作できなくなったかつての畑や集落周辺に、花の樹々を植え続ける小林ムツさんを中心に、その日常を追ってゆく。

            

 かつては、炭焼と養蚕、杉の出荷などが盛んで、住人も100人を超えたという集落も撮影を始めた2001(平成13)年には5世帯、9人、平均年齢73歳だったという。それから、約20年後、人口が0人となるところまでの物語だ。

 多くの映画評がいうように、ここには素朴だが最も美しい人間と自然の共生があるという。それは間違いではない。
 しかし、ここにはただの共生では済まされない、その葛藤の歴史も含めた、もっと大きな意味での自然と人間の輪廻のようなもの、それを理屈としてではなく身体で引き受けて生きてきた人たちの物語があるように思う。

            

 ムツさん夫妻は、かつてはそれなりの需要があり、夫妻で耕せる能力があった斜面の段々畑を、もはや放棄せざるを得なくなる。その際に一念発起したのが、山から借りた土地を山に返すにあたって、そのままでは申し訳ないからとその畑のあとに花咲く樹々を植えてゆくことだっだ。その数、なんと1万本超!という。

 その活動は、自分の耕地にとどまらず、その集落周辺にまで及ぶ。レンギョウ、ユキヤナギ、ハナモモ、ツバキ、アジサイ、各種のサクラ、モミジと場所に応じてそれらを植え続ける。それらの開花は、何百年と自然と闘ってここを支配下に置いた人間が、もはやそれを維持できなくなって山を去ること、同時に自分たちがその生を終えること、それらの事実をその場所に刻印する儀式ともいえる。

            

 山を去り、自分の生を終えること、それは同時に何百年と続いたこの集落の歴史を閉じ、すべてを自然に返すということだが、ムツさんをはじめ、集落の人たちは皆、その思いをどこかに抱いて生きている。

 イノシシに自分の畑を荒らされたムツさんは、イノシシは可愛そうだという。それをいぶかった監督兼カメラマンの百崎の問いに、彼女は、ずーっと以前から人間はここで炭を焼いて広葉樹を絶やし、その跡に杉を植えてきた。しかし、広葉樹と違って杉はイノシシの食を満たすことはない、だからイノシシは人里に降りてくるのだと説明する。イノシシと自然の循環を断ったのは、自分たち人間だから、可愛そうなのはイノシシの方だというわけだ。

 ここには、自然を支配し続けた営みが、もう終わりに近づいているという悟りのようなものがある。だから、電流を流してイノシシを駆逐しようという発想はもはや微塵もない。

            

 先に見た、耕作地を山に返すための花の植樹といい、このイノシシのエピソードといい、ここには自然との共生という普通のスケールではなく、人間と自然の葛藤の歴史を踏まえ、その終焉を自らの営みとして引き受けようとするいわば大きな輪廻の実践者ともいうべき覚悟がある。
 もちろんそれは、私が勝手に読み取ったモノで、ここに登場する山の民はそれを言葉で語ることはない。

 映画は、ここに登場した人々がすべてこの世を去り、集落が廃村になったことを告げる。しかし、家々はコストをかけて取り壊すまでもないと残る。そして、急斜面を登るつづら折れの道、その道に沿った集落の家々を支えている立派な石垣などが残る。しかし、そこを行き来する住人はもはやいない。

            

 しかし、ムツさんが植えた樹々の花々は、季節を違えず咲き誇る。花に埋もれたかのような集落のドローンによる映像はじつに爽快で美しい。
 まさに、「ひとはいさ 心もしらずふるさとは・・・・」である。
 カメラは、けもの道のような斜面の道を登りつめる在りし日のムツさんの後ろ姿を追い、その姿が曲がって消えるところでフェイドアウトし、映画は終わる。

 

 

 

 

 

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半世紀以上前の山の記憶とBLM

2020-08-05 01:28:25 | よしなしごと

 梅雨が明けたらやたら暑い日が続いている。
 コロナは相変わらず猛威をふるい、政府は認めようとはしないが、いくつかの都道府県の首長は第二派の到来を公然と語り、独自の非常事態宣言を出している。わが岐阜県もそのひとつで、不要不急の外出、とりわけ名古屋を名指してそこへは近寄るなと言っている。
 私はといえば、住まいは岐阜だが、長年、名古屋を活動の場としてきたので、まるで翼をもがれた小鳥のように、ひたすら蟄居の毎日だ。
 だから、ブログに書くべきこともさしてない。超ローカルな、10m半径内の話題しか書くことはないのだ。

        

 わが家と、隣接する材木屋の敷地は、半世紀以上前、ここにあった田んぼ一反(300坪=990㎡)をどこかかからの山土で埋め立てたものである。
 その事実を記憶しているのはこの私ではない。私はそんなことはとっくに忘れているのに、この土地そのものがそれをしっかり記憶しているのだ。

 私がここに住み始めたのは20代の終わり頃で、最初は掘り起こしていまは庭石に使っているでかい岩も混じった山土の土壌で、これではぺんぺん草も生えないのではと思っていたが、やがて近くからやってきたであろういわゆる雑草のたぐいが生えてきた。
 私は私で、殺風景なままではと、もらってきた樹や、買ってきた樹々を植えたりした。

 やがて、それらの木に、蔓状の植物が絡まるようになった。山芋の蔓だ。近くにそんなものは生えてはいないので、明らかに山土の中に潜んでいたものの顕現であるとみた。
 面白がってそのままにしておいたら、どんどん伸びて、やがてムカゴが収穫できるほどになった。根っこの山芋は年々大きくなるときいたので、ある年の秋、苦労をして掘り出したら、けっこうなボリュームの芋で、粘りっ気の強いうまいトロロを堪能することができた。

 それで味をしめて放置したのがいけなかった。それらは、電話の引き込み線に絡んで上昇し、ついには本線に達しようとしたところで、電話局からこっぴどく叱られた。
 それで、山芋遊びは諦めて、いまでは見つけ次第除去しているのだが、それでもなお、毎年、敷地内のここかしこで見かけない年はない。

 もうひとつ、山芋ほど生命力が旺盛ではないが、やはり半世紀以上にわたって、その勢力を少しづつ広げているのは写真のワラビによく似たシダ類の植物だ。
 これは隣接する材木屋の敷地に生えているのだが、年々、そのエリアを拡大している。よその敷地なので、あまりよく見てこなかったが、もしこれがワラビなら、春先にその新芽のワラビを収穫できるかもしれない。
 さらには、その根っこを掘り返し、ワラビ粉をとり、正真正銘のワラビ餅を作ることができるかもしれない、などと、連想が膨らむ。

 しかし、それはよした方が良さそうだ。
 彼ら山の植物たちは、言ってみれば、アフリカ大陸から強制的にアメリカ大陸に連れてこられた黒人の人々のようなものだ。そこでの苦難の歴史を乗り越えて、やっとその土地に根付き、新たな生の営みをはじめた相手を、痛めつけることはあってはならないのだ。
 やはりここは、Black Lives Matterといったところか。

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