六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

徳山村の味・・・・その「食遺産」が届いた しかし今年は少し哀しい

2021-07-27 16:23:41 | よしなしごと

 同じようなことがあった。昨年夏のことであった。
 
私の晩年の20年間ほど、お付き合いがあり、その影響も受けた先達、大牧冨士夫さんのお連れ合いフサエさんの手になる梅干しとお惣菜をお送りいただいたのだった。
そして今年もまた・・・・。ありがたいことである。

         

 これを敢えて「徳山村の味」としたのは大牧さんご夫妻が、貯水量が全国最大と言われる(そしてその割にほとんど役立っていない)徳山ダムの底に眠る旧徳山村(全村水没)で過ごされ、その伝統を、とりわけフサエさんはその郷土料理を引き継いでいらっしゃるからだ。

 以下、引用した昨年の際の拙ブログにも述べているが、フサエさんの梅干しは、私にとってはこれぞまさに梅干しそのものという味なのだ 

        

 しかし、今年は決定的に違う点がある。フサエさんのお連れ合いの冨士夫さんがこの1月、なんとあの憎っくきコロナのために召されてしまったからだ。
 冨士夫さんからの年賀状が、まだ私の机上にあるのに、その訃報が届いたのだった。
だから、このフサエさんからのいただきものは、嬉しいとともに、新たに哀しみを誘う。

 最後の頃、冨士夫さんから「クラシックについてレクチャーしてくれ」とのことで幾度かの行き来があった。そしてそのお付き合いをさらにというときにコロナがやってきた。

 そんなことがなかったら、そのお礼にと去年も、今年もCDを抱え込んで参上し、私なりのうんちくを傾けるところなのだが、それももはや叶わぬ夢となってしまった。

 フサエさん ありがとうございました。フサエさんの味、大牧夫妻の味、そしていまはなき徳山の味を堪能させていただきます。

以下は昨年、やはり、お送りいただいた際のブログです。長くなりますが、そのまま掲載致します。繰り返しになりますが、冨士夫さんの不在がもっとも大きな違いです。

 

君はホンモノの梅干しを知っているか! 私的梅干し論

                                                                                  2020-08-25 14:54:43 | よしなしごと

 私はほとんど梅干しを買ったことがない。食べないわけではない。いただきものなどはありがたく頂戴している。
 しかし、これぞ梅干しという私の記憶の琴線に触れるようなものにはなかなかお目にかかれない。

 スーパーのものがダメだといっているのではない。ただ私の抱く梅干しの「原」イメージとは離れているのだ。
 私にとっての梅干しの原点は、疎開していた折、岐阜は西濃地方の母方の祖母、カギさんの作ったそれだ。特別なノウハウがあるわけではない。伝統的なそれを頑なに守り、その折々のTPOに応じて、というか長年の経験に応じて、梅の成熟具合、乾す天候などに応じほんの僅かなバリエーションを加えてはいたのだろう。

            

 結果としてカギさんは、今年はやや酸っぱいかなとか、しょっぱいかななどと自己評価をしていたが、幼い私にはそんな微小な差異はわかるはずもなく、ただただうまかった。

 当時、私のように田舎で育った人間にとって、梅干しが食生活に占める割合は遥かに大きかった。いまほど副食材に恵まれていない折には、梅干しのみがおかずであったこともしばしばであった。「日の丸弁当」というのがまさにそれであった。
 
 梅干しは子どものおやつでもあった。私もまた、祖母の梅干しを、竹皮を三角にした中に入れ、それをチュウチュウ吸っておやつにしたことが何度もある。梅干しが出来上がった頃のこの夏のおやつは、塩分を補給して子どもたちを熱中症から守る役割を果たしていたのではあるまいか。

 その後は、祖母のスキルを受け継いだ母、シズさんの梅干しを食べ続けた。それらの味こそが、「梅干し」のそれであった。そのシズさんが作らなくなって以降、私は自分から求めて梅干しを口にしなくなった。

 ただし、その後も、いただきものの梅干しを何度も口にしたことはある。それらはブランドの梅を使用し、果皮はあくまでも薄くて自己主張などせず、果肉もまたとろけるように柔らかく、酸味や辛味は極限にまで抑えられているばかりか、ハニー味さえあって、そのままスイーツにでもなりそうなのだ。

 それらがダメだとか、まずいと言ってるのではない。ただ、それらは、私の味覚に残る「原梅干し」のイメージと大きく異なるものであり、いってみれば、梅を材料にした別の加工食品なのだ。

 前置きが長くなったが、久々に私のイメージに合った梅干しにお目にかかることができた。かつて、同人誌「遊民」でご一緒した先達の大牧冨士夫さんお連れ合い、フサエさんの手作りの梅干しを送って頂いたのだ。これぞ、私が思い描く梅干しそのものなのだ。
 
 果皮はあくまでもその存在を主張し、果肉はヘラヘラしないでちゃんとしっかりしている。問題はその味で、梅本来のそれを変な妥協で加工し、崩すのではなく、その酸味も、香りもちゃんと残しながら、梅と塩、梅酢と赤紫蘇の色合いと香り、天日に晒したその恵みなどがギュッと凝縮した味わいなのだ。
 もちろん、酸っぱすぎたり塩辛すぎたりもしない。

 フサエさんの梅干しが、その生粋の伝統によるものだというのにはわけがある。フサエさんが長年暮らしていたのは、いまはすべてがダム湖に飲み込まれ、全村、その姿を消した旧徳山村だったのだ。その山での暮らしの中で、この梅干しの伝統もフサエさんに伝えられたものであろう。

 日本一の貯水量を誇りながら、ほとんど無用の長物といわれ、「ムダなダム」と回文による陰口を叩かれるこのダムは、縄文以来の歴史、平家の落人伝説の歴史、などなど、すべてを飲み込んでしまった。まさに一つの歴史と文化の消滅であった。
 いくぶん大げさないい方をすれば、その中から救い出されたもののひとつがこのフサエさんの梅干しなのだ。

          

              

 私のこの言い方は決してオーバーではない。フサエさんは、梅干しにとどまらず、かつての徳山村の食生活を彷彿とさせる書の著者でもあるのだ。
 『フサヱさんのおいしい田舎料理 ー 岐阜・旧徳山村で作ってきたもの』(発行・発売 編集グループSURE 2014)がそれで、村では普通に食べていたものの紹介ということだが、やはりそこには山の民ならではの食文化の貴重な記録がある。

 私が今、目前にしているのはそういう伝統を引き継ぐ梅干しなのだ。それは同時に、私の祖母、カギさんのそれや母シズさんのそれと通じるものでもある。
 そして、その「口福」を味わうことができる私の舌もまた、カギさんやフサエさんが残してくれた伝統的な味覚に鍛えられた私独自の「味蕾」に支えられている。梅干しの中に潜む歴史と伝統、それをいま一度蘇らせてくれるフサエさんの手になるそれを、感謝を込めていただきたいと思う。
 フサエさん、ありがとう。冨士夫さん共々、いつまでもお元気で。

                           

【お連れ合い・冨士夫さんのこと】最後の写真は、旧徳山村と福井県鏡にそびえる冠山である。これはまた、フサエさんのお連れ合い、冨士夫さんが俳号にしていらっしゃる山でもある。この一事にも、大牧さんの捨てがたい故郷・徳山への思いがみてとれる。

 なお、この冨士夫さんの方は、以下のような句集を出されている。
 『大牧冨士夫句集 庭の朝』(風媒社 1,400円+税 2018)

                      
 
 私よりちょうど10歳上で、少年兵の経験もおもちの冨士夫さんの句には、俳句独特の言葉の軽妙な響きと同時に、生きてこられた時代の重みをどっしりと受け止められた言葉たちも散見できる。この時代の、この方にしかできない、句たちの趣がある

  颱風のほしいままなる庭の朝
  春めくや鯉はしずかに動きけり
  わがために春日縁先ぬくめをり
  花を見て人見て堤暮にけり
  旨しかな雛にかづけて昼の酒
  戯れてゐもりの腹をかへしみる

  脚絆巻きし日風化などさせぬ
  十二月八日庭木と話しをり
  「故陸軍ーー」碑のある畑の梅白し
  空耳の起床喇叭や敗戦忌
  われらみな兵士であった敗戦忌

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【絵日記】私の7月20日

2021-07-21 16:19:27 | よしなしごと

 7月20日は海の日だと思っていたら、いまは7月の第三月曜だそうだ。そして今年は、カレンダーでは真っ黒な22日23日が連休だという。
 もう、何が祝日なんかはさっぱりわからないし、その理由もよくわからない。

 私が生まれた頃の、紀元節、天長節、明治節、新嘗祭などのほうがそのいわれも含めて遥かにスッキリしていた。もっともこれらは皆、天皇制を基軸とした祝日で、その方がいいと言ってるわけではないから誤解はしないでほしい。

         
          名古屋広小路通り西日を浴びたハイビスカス・1

 で今年の私の7月20日だが、7月二回目の名古屋訪問で、二人の人物と逢った。
 最初は、10代後半からだからもう60年以上の友人との話で、この間、必要最小限の会合などに出て「意見の交換」などはしたことがあるが、個人的なぶっちゃけ話からはかなり遠ざかっていたので、なんか澱がすっかり降りたような気持ちになることができた。
 どんなくだらない話でも、聞いてくれる友がいることはありがたいことだ。

         
             友人と話したコーヒー専門店の店内

 その後、今度は初対面の人との出会いであった。
 すでに、研究成果をまとめた著書も出されている名古屋大学の国際開発研究科の先生で、私のブログや同人誌の記事からみて、現今の氏の研究課題に何か参考になればとお目にかかることになったのだ。

 氏のこれまでの研究成果をまとめた写真のような書をいただいたが、今回お目にかかったのは、この件ではなく、新しく取り組んでいらっしゃる研究対象に関してであった。
 結論からいうと、その研究課題とされている出来事などが生じたころ、私はまだ成人に達しておらず、後刻、先達から聞きかじったほんの僅かのことしか申し上げることができなかったのは残念であった。

            

 しかし、氏との話し合いは私にとっては刺激になり、有意味なものであった。
 とりわけ氏は、かつて私が居酒屋をしていた折の顧客で、その後、やはり日本近代史研究分野の学者(和光大学教授)となった道場親信氏とも同分野でかなり交流があったとのことで、その思い出なども共通の話題になった。

            
           名古屋広小路通り西日を浴びたハイビスカス・2

 敢えて「思い出」というのは、この道場氏、戦後の各地のサークル運動などをオーラルヒストリーの手法で情報収集をしていた際、私も2,3箇所に立ち会ったこともあり、また、私も所属していて10年近く続いた同人誌「遊民」の熱烈な応援者でもあったのだが、5年前の2016年、わずか49歳で急逝してしまったからだ。
 したがって、彼についての話はつらい「思い出」になってしまうのだ。

            
           名古屋広小路通り西日を浴びたハイビスカス・3

 それぞれまったく違った人との面談ではあったが、基本的にはまだ蟄居に近い生活を強いられているなか、久々に人と顔を突き合わせて語り合う時間がもてたことは幸せだったし、意義あるものだった。

 むかしからの友人とは、これからもお互い可能なあいだは率直に話を交わす仲でありたいし、初対面の東村氏とも、今後何らかのつながりがもてそうな予感がする。

  https://www.youtube.com/watch?v=Qesc18EFjB0
   オアシス21広場で見かけた若者たちの群舞 コロナ退散のパフォーマンス

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原生林への回帰?

2021-07-20 01:45:19 | よしなしごと
 
 
 ここは私のうちの直ぐ近くの田圃。
 長年、田ならしから田植え、稲刈りなどをウオッチングしてきた田である。広さは二反=600坪≒2,000平米。
 三年半ほど前、耕作者が急逝し、引き継ぐ耕作者もいないまま今日まで放置されてきた。
 
 その後人の手は入らないまま、草は生え放題。それに混じって野生化した稲も若干残るのが哀れを誘う。
 
 草に混じって、樹木の類も何本か。このまま原生林化するのも見ものだが、その前にこちらがクタバルだろう。
 
 一応、角地のいいところなので、どこかの資本が買いに来ているとの噂も絶えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめの極地を肯定するオリパラってなに?

2021-07-19 01:19:33 | 社会評論
 以下は、あるSNSで友人が書いていた記事への私のコメントです。
 なお、その友人の弟はアスペルガーで子供の頃いじめられた後遺症をいまなお引きずっているようです。
 ==============================
  
 激しく同意致します。
 子供の頃、ついいじめに加担してしまった、あるいは見逃してしまった、いまはそれを後悔している、そんな人はいると思います。
 
 しかし、この小山田という男は、そうしたケースを遥かに超えています。
 ひとつは彼こそがそのいじめの主人公であったということであり、しかもそのいじめの内容の例を見ないほどの凄惨さです。これは、小説やドラマで誇張して描写されるものすらをも超えた、まさに人間の尊厳を根底から否定するものです。
 
 いまひとつ許せないのは、成人してから以後も、彼がそれを恥じたり、隠したりするのではなく、ほとんど自慢気にメディアに公表していることです。
 その彼が、オリパラの音楽を担当する?????
 
 オリパラの理念は単にたてまえ論で、現実にそれを進めているのは商業主義に毒された利権集団たちだというのはよく知られた事実です。だからこそ、そのたてまえ論からも逸脱した連中こそが中心になって進められています。
 森の「女性わきまえ論」、渡辺直美さんの蔑視起用論などなどはその産物です。小山田起用もその一環でしょう。
 
 パラが謳うところの人間の多様性の肯定のなかに、小山田の超人的サディズムもが肯定的な要素として援用され、採用されるとしたら、それこそまさにオリパラが内包するブラックユーモアの全面的開花というほかありません。
 
小山田という男がかつてしたいじめの内容は以下のとおりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【どうでもいい話】最近の昼餉から

2021-07-18 11:18:29 | グルメ
我流冷やし中華

         

 具はモヤシとチンゲンツァイ、キュウリ、それに動物性蛋白の在庫がなかったのでベーコンを薄切りにして使用。
 キュウリ以外は予め然るべき味付けで火を通しておいて、粗熱をとって冷凍庫で冷やす。
 キュウリは普通、千切り風にするが、麺との食感の相性で私の場合は予めスライスしたものを薄い塩もみに。

 麺は中華乾麺。温かいラーメンのときは伸びるのを計算して標準茹で時間よりやや早めに上げるが、冷やしの場合は喉ごしを考えて少し長めに湯がく。ただし、冷水にとって締め、腰を残すようにはする。

 出汁は顆粒のカツオだしに醤油、味醂、少量の砂糖、好みに応じた酢、ごま油、それに隠し味としてのチリソース。これらを濃い目に煮付けておいて、氷をぶち込んで冷やすという乱暴ぶり。

 これを、冷凍庫で冷やしておいたカラスの器に盛り付ける。ゴマを振りかけて完成。
 どういうわけか、錦糸卵は使わない。
 トマトを2,3切れあしらうこともある。        自己採点:85点


久々のもろこしご飯

         

 とんもろこしを、4等分ぐらいに輪切りにして、それぞれを桂剥き風にして実を切り離す。
 人参も適当に刻んだのを用意する。
 インゲンは細かく刻む。
 出汁は昆布を一枚。それに実を切り離したとうもろこしの芯も入れる。
 味付けは好みだが、味醂少々と醤油。
 これだけで結構うまい。とうもろこしのプチッとした歯ざわりと甘さがとてもいい。
 
 反省点は、インゲンは火の通りが早いため、出来上がりでは色も食感も飛んでしまったことだ。別途、色や硬さを残して調理しておき、炊きあがった段階で加えるのが正解だった。
                         自己採点:70点
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカザリガニの駆除? 排外主義的対応よりも共生可能な自然環境の保全こそが・・・・。

2021-07-16 11:39:06 | よしなしごと

 一週間ほど前だろうか、アメリカザリガニは有害外来種だから捕獲してもリリースするなという報道がなされた。
 えっ、いまさらなんのこと?と思った。
 というのは、私の近辺ではアメリカザリガニはとっくに「絶滅」しているからだ。

         

 半世紀ほど前、ここに居を構えた折は、四方八方田圃だったことがもあって、わが家の敷地から1メートルも離れないところに無数にそれらはいた。
 周囲の田への給水も、自然の水路、小川などで行われていたため、そこには、メダカやフナ、ドジョウ、モロコ、それにウナギやナマズなどもいた。ミジスマシ、アメンボ、ゲンゴロウ、タガメなどの水棲昆虫もいた。
 しかし、いまやそれらは見事に絶滅しつくした。
 
 なぜか?
 日本の田園地帯は、山からの流れが、小川や細かい水路を辿って田に給水され、さらにそれが河川へ集約されて海に至るという弥生以来の水との有機的関わりとして成り立っていた。
 しかし、それが大きく変わったのが前世紀後半の合理化時代だった。人は自然との辛抱強い共存共生を放棄し、力ずくでそれを従わせることにした。

 何を言おうとしているかというと、この辺の田に沿って流れていた小川のほとんどすべてがコンクリート製のU字溝に取って代わられ、そこを流れる水は、もはや上流からの自然な流れではなく、ところどころに設置された強力な揚水ポンプによる給水になってしまったのだ。

      https://www.youtube.com/watch?v=H2mgxoxpnQU
    これはわが家から100mぐらいの箇所にある揚水ポンプを私が撮したもの

 これは確かに便利かもしれない。水飢饉に関係なく、必要な折に給水することができるからだ。そして同時に、必要のない折には、その給水を止めることもできるのだ。
 稲は、田植え以来、ずーっと水に浸かっているわけではない。その生育の途中で水を断つこともあるし、稲刈りの秋や冬場には水は邪魔にさえなる。

 で、それはどうなるのか?ポンプによる揚水は停止される。するとU字溝はどうなるのか?そう、干上がるのだ。一年の大半は、まったく水のない、カリカリに干上がったコンクリートの河床が露出する。

         

 では、メダカやフナ、ドジョウ、モロコ、それにウナギやナマズ、さらにはミジスマシ、アメンボ、ゲンゴロウ、タガメなどの水棲昆虫たちはどうなるのか?
 そう、絶滅のほかはなかったである。
 カエルすらも減少し、うちの庭にまでやってきていたトノサマガエルなどはここんとこまったく見たこともない。
 田圃のカエルもうんと減り、前のようなオーケストラ編成の鳴き声は望むべくもなく、せいぜい弦楽四重奏止まりの室内楽程度でしかない。
 そういえば、夜陰を彩っていたあのウシガエルの声を聞かなくなってからもう何年経つのだろう。

 「アメリカザリガニを駆除しろ」と今さら言われて驚いた私の事情をおわかりいただけるであろうか。前世紀後半の田園合理化は、外来種はおろか、在来種をも一掃したのである。
 で、私は思うのだ。この辺りからアメリカザリガニがいなくなった現在よりも、それがいた頃のほうが在来種も豊かで、生態系にとっても遥かに健全だったのではなかろうか。

 これは極論かもしれないが、外来種はそんなに悪いのか?もともと、生物は外来種を完全に拒むことはできず、それらを混じえながら新たな生態系を構築してきたのではないか。
 とくに植物などは、現今の花屋の店先には外来のものが溢れ、それらの野生化したものが自然を彩るまでに至っている。

         
        時折井戸水が流される水はきれいだが、水棲動物の影は皆無

 もちろん、当初から従来の生態系を著しく破壊したり、大きな損害をもたらすものを故意に持ち込んでいいと言ってるわけではないが、外来種への異常な警戒心より、むしろ前半で述べた従来の在来種をも根こそぎ駆逐するような自然改造や環境破壊こそ問題にすべきではないか。

 もうひとつ、外来種への過敏は反応には何やらきな臭いものがあるようにも思う。ときおり、港湾などでセアカゴケグモやヒアリの外来種が発見されたと大きく報じられることがあるが、一部では、すでに棲みついているとも言われているし、その割にその被害についてはほとんど聞かない。
 ただただ、「外部から、得体の知れないものがやってきた」という恐怖感を煽るものになっているのではないか。

 そしてこの排外的なイメージは、海外からの労働者や難民、亡命者の排除の動きと連動していることが多いようにも思う。ようするに、尊皇攘夷的な排外主義一般の扇動にも通じているのではないかと思う。

 必要なのは、生物が共生できる環境こそが大切なのであって、それは人間社会でも同じである。
 入管の人権無視の外国人の取り扱い、病人の治療もせず殺してしまう扱い、それとと並行して、「アメリカザリガニは絶滅させましょう」が叫ばれているようにも思えるのだ。


なお、この動画に上げたのはわが家から100mほどのところにある揚水ポンプには個人的な恨みもある。
 これが掘られたおかげで、わが家の井戸が干上がったのだ。ようするに同じ水脈からの揚水のため、その力の強さでねじ伏せられたのだ。
 おかげで、もうひとつ下の水脈まで、ン十万円をかけて掘り直さねばならなくなった。まあ、水質は良くなったが・・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【アジテーション】怒れ!飲食店よ!

2021-07-15 01:26:23 | 社会評論

 あまりリアルな政権批判は血生臭くなるのでそんなにアップしてこなかったが、今回は腹に据えかねるので書く。

 ガースー政権は、今回の緊急事態宣言に伴い、飲食店に酒類を提供させないため、まずは金融機関から圧力をかけることを選択した。それが批判されるや今度は、酒類の卸問屋が酒の販売をチェックすることを求めた。それをも批判されると、渋々取り下げた。

 私は元飲食店の店主である。それだけに今回のこれらの措置にはハラワタの煮えくり返る思いで接している。
 これではまるで、飲食店こそがコロナ蔓延の真犯人であり、その排除こそが必要であり、これをあらゆる権力を用い、寄ってたかって取り締まることが問題の中心であるかのようではないか。果たしてそうなのか?そのエビデンスはあるのか?

 実際のところは、このコロナ禍のなか、もっとも痛めつけられてきた業種のひとつが飲食業であり、すでに、数え切れない店が倒産、廃業、閉店に追い込まれている。
 残っているところも、青息吐息であり、ギリギリの綱渡りでなんとか凌いでいるのが現状なのだ。ようするにこの業界は、加害者ではなく、まさに被害者なのだ。

 にもかかわらず、ガースー政権は、飲食業をスケープ・ゴートにし、自らの無策を糊塗し、乗り切ろうとしている。
 そして一方では、誰が考えても危険極まりないオリンピックを、ガースー政権の浮揚策、ようするに、一党一派の狭小なメリットのために強引に開催しようとしている。
 これは、おのれが浮上するためには、飲食業界は死ねというに等しい。

 飲食業界はすでにこれらの措置に怒っている。
 バイトを含め、その配下に2万人を擁するイタ飯チェーン店・サイゼリアの社長は、昨14日午後、それら2万人の人々へメッセージを送り、今回の措置を踏まえて、その怒りを次の選挙への投票行為に繋げようと訴えている。
 あからさまに、自公への投票拒否を訴えてはいないが、その趣旨はどう考えてもそうである。

 繰り返すが私は元飲食店の店主である。だからころ、現今、その経営に苦慮している店主やその業界で働いている人たちに訴えたい。
 あなたたちは、コロナ蔓延の加害者ではない。むしろこの事態での最大の被害者なのだ。したがって、政権の無策のしわ寄せによる金融や流通を通じての強権による抑圧に一切屈する必要なない。

 怒れ!飲食業界よ!
 そして、被害者としての補償を堂々と求め、しぶとく生き延びてくれ!

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【読書ノート】哲学者も老いる 『晩年のカント』を読む

2021-07-13 11:36:47 | 書評

 『晩年のカント』 中島義道(講談社現代新書)

  タイトル通り、カント学者の著者が晩年のカントに焦点を合わせて書いたエッセイ風の書であるが、二つの意味で面白い。ひとつは文字通り、晩年のカントのありようがその理論面、私生活の面で書かれているからである。
 もうひとつは、それを通じて、晩年を迎えた著者も含んだ哲学者一般ありようようなものがみえるからである。

              

 カントは当時のデカルトを嚆矢とする大陸合理論と、ロックなどのイギリス経験論を統合したとして知られている。
 私たちはその成果が、「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の三批判であり、彼の哲学を「批判哲学」総称することに慣らされている。確かにこの、「真であることはいかにして可能か」、「正しいということはいかにして可能か」、「美しいということはいかにして可能か」の三批判は、彼の主著であると受容しているから、批判哲学者とするのはまんざら間違いではあるまい。

 しかし、この書を読むと、それらはカントの目指したものの前段階、ないしは前提条件の構築にしか過ぎず、彼はそれに基づく新たな形而上学の体系を目論んでいたにもかかわらず、それを果たせず生を終えたことがあらためて分かる。
 だから、著者にいわせれば、「カントは、神が〈いる〉とも〈いない〉とも言わなかった。私が〈不死である〉とも〈不死でない〉とも言わなかった。両者のいずれにも飲み込まれない中間のところに、ずっと留まり続けよと提案した。この世界はまるごと〈現象〉であると言った。〈ある〉とも〈ない〉とも言わなかった」ということになる。

         
          著者中島氏 この人も結構変わっているようだ

 しかし、形而上学的体系を書き上げたとしたら、こんなことで済んだだろうか。むしろ、それを書き上げ得なかったことが彼の後半生のリアルな現実であり、それが故に彼の哲学はいまも参照点たりうるのではないだろうか。

 体系というのは当時の哲学者にとっては魔性の誘惑であったろう。
 著者によれば、カントの同時代やその後の哲学者たちは、自分の体系を構築することにかまけていて、同時代の他者の哲学をろくに読んでさえいなかったそうなのだ。それらの哲学者というのはフィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどである。
 
 その一つの例が、カントとフィヒテの関係で、フィヒテはすでに高名だったカントに泣きついて自分の著作の出版を依頼するのだが、頼まれたカントはそれを了承し、出版社を紹介し、それがフィヒテが世に出るきっかけになる。しかしその書は、カントの立場を真っ向から否定するものであった。ようするにカントはフィヒテの書いたものをろくに読んではいなかったのであり、また、フィヒテもカントのものをまともに読んでいなかった可能性がある。だからフィヒテはカントに依頼できたし、カントもまた了承したといえる。
 しかし、その相違が相互にわかった時点が、二人の決別のときであった。

         
                カント先生

 当時としてはカントは長生きをした哲学者である。1724~1804年と80歳まで生きた。
 それは同時に、ひとつのリスクを背負う生涯でもあった。明言はされていないが、カントの最後の数年は、いまでいうところの認知症の疑いがあるという。その症状は、幼児化であったと示唆されている。

 カントの哲学は講壇調でとっつきにくいかもしれないが、最晩年の1798年に書かれた『実用的見地における人間学』は、大学内の講義ではなく、いまでいうところの市民講座のように開かれた場所での語りの収録で、もちろん、時代の制約は免れないが、砕けていて実に面白い。
 彼はそこで、人間の風習、世間、女性論などを奔放に語っている。
 しかし一方、私たちは彼の生涯が謹厳実直そのもので、とりわけ女性については、生涯独身で、しかも女性との触れ合いがあった痕跡すらまったくないにもかかわらず、なぜそれを語ることができたのかはほんとうに謎である。

 散漫であったカントについての知識を少し整理できたかな。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が何を見たのか? 現代ロシアの長編小説『サハリン島』を読む

2021-07-11 00:53:21 | 書評

 昼食後、気だるく身体が重い。昨夜の途中覚醒が長かったのを思い起こし、少しだけ午睡でもと横たわる。目覚めたら1時間半ほど経過していた。衰えという言葉がよぎる。改めて否定してみても仕方あるまい。

 それはともかく、最近読んだ小説について書いておこう。
 行きあたりばったりの読書だった。というのは、県図書館はコロナ禍で閉館し、返却と予約図書の貸付というカウンター業務のみだったので、いま取り組んでいるテーマに関係したもの若干と、それだけでは芸がないからとなにか小説でもと、新着図書の情報のなかで見つけたものを予約した。
 私の読書は、同じものを読了まで継続して読み進むということは少なく、学校での授業のように、一日のうちに、違うジャンルのものを交互に併読してゆく場合が多い。これが自分の飽き性に対応しているのだ。

            

 で、見つけた小説というのが、エドゥアルド・ヴェルキンという作家の『サハリン島』(北川和美・毛利公美:訳 河出書房新社)だった。もちろんこの作家やこの小説についての予備知識はまったくない。ただ、ロシアの現代作家で、そこそこ売れているらしいというはかんたんな解説に書かれていた。
 カウンターで手にとって驚いた。予備調査が不十分だったのだが、なんと400ページ二段組の大長編小説ではないか。

 初めて出会う外国の小説の場合、冒頭で状況を掴むまではちょとスリリングだ。それがいつの時代で、どこで、主人公の年齢、男女、その素性のようなものが次第にわかってくるからだ。
 この小説の場合、ロシアの小説であること、タイトルなどからして、ロシアの中央部、モスクワとかサンクトペテルブルクからロシア人の男性の主人公がサハリン島に出かけるのか、あるいは、サハリン在住のロシア人の話かとあたりをつけて読み始めた。
 男性と特定したのは、祖父譲りのマッキンソッシュのコートを改造し、拳銃二丁を素早く操作できるポケとをつけるなどとあったからだ。

            

 しかし、これは大違いで、まずはロシア人ではなく日本人だったことだ。もっともロシア人の血が混じっていて瞳が美しいブルーであったのだが。それと、男性ではなく、若い女性であった。うかつにも、それに気づくためには数ページを要したのだ。
 名前はシレーニ、彼女は、未来学の権威オダ教授の命を受け、国の指令をも背負って、サハリン島の実態調査に出かけるのだった。サハリン島=樺太の北緯50度の南側が1945年までは日本の領土だったことを知る人はいまや少ないだろう。

 しかし、この書の描く状況はそれ以上に奇妙である。それも一挙に説明されることはないので、読み進めるうちに徐々に把握して行くほかはないが、どうやらアメリカ、北朝鮮(この小説ではコリアンとだけ書かれているが)を中心とした第三次世界大戦が勃発して、その激烈な核兵器の攻防の結果、安保条約を無視したのだろうか、鎖国的に生き残った日本のみが国家の体をなして存続していて、しかも、天皇制をいただく大日本帝国を国体としているのだ。ただしその軍隊は「自衛隊」と呼ばれ、その戦艦などに、「エラの・ゲイ」(広島へ原爆を投下したB29の改造機だ)とか「マッカーサー」とか名付けているのは笑える。

           

 アメリカを始め、他の国々はほとんど消え失せたようだ。アジアではコリアンや中国の生き残りはいるものの、人をゾンビ状態にする移動性恐水病(MOB この命名は、ハンナ・アーレントなどが説く全体主義を先取りするような暴虐性を秘めた群衆=モッブを意識しているのかもしれない)の蔓延で、人間が住む状況ではなくなっている。それでも、それらがサハリンに潜入し、患者が暴徒化する様子が描かれている。

 ようするにこの小説では、大日本帝国が序列の中心にあり、最下層には戦争を引き起こしたコリアン、それに加担したともとれる中国人がいる。それに黒人やしばしば白人のアメリカ人は、見世物的に檻に入れて吊るされ、投石などの虐待にさらされている。これらは極めて差別的に描かれていて、しばしば抵抗を覚えることもある。で、ロシア人はというと主人公がハーフであったり、サハリンでそれを警護する青年、アルチョームがロシア系であったりするなど、好意的ないしはニュートラルに扱われている。

 この二人を中心としたサハリンの南部をほぼ一周する紀行は奇妙な風習に満ちており、ガリバー旅行記を思わせる風刺も含まれる。しかし、この視察旅行、サハリン地区での大地震により、ここに集中していた刑務所や収容所が損壊し、収容者たちが暴徒化し、加えて、上述したMOBの感染が広がるなど、緊迫した後半へと至る。

 最終的に大日本帝国はサハリンを全面的に「浄化」することとし、12発の核弾頭を打ち込む。主人公、シレーニもこの巻き添えで命にも関わる重症を負うが、「皇室病院」の手厚い治療で回復へ向かい、オダ教授への報告は、学術報告書ではなく小説になるのだが、この小説自体がそれであるということにもなっている。しかし、それだけではない。このエピローグは丁寧に読まれねばならないだろう。

         
 
 本文ではほとんど述べられなかったシレーニとアルチョームとの死の別れに先立つ関係が明らかになり、その未来の結晶である記念すべき物体に彼の名が刻まれることになったことが述べられている。
 また、少女時代のシレーニに感動を与えたかつての詩人、彼はその後転落し、冷酷な殺人鬼としてサハリンに収容され、視察に訪れたシレーニと対決するはめになるのだが、そのシンカイという男性の述懐がラストに置かれている。そこには、シレーニとの再会が「エデンの園の門のそばで」と希望に満ちて語られているのも皮肉というほかはない。

 このように、この小説では、時折語り手が転換したりする。それはどうしてかというと、それはまた、ロシア人のエドゥアルド・ヴェルキンがなぜ日本を名指したような小説を書いたかに通じるのだが、彼が敬愛する日本の小説家が芥川龍之介であり、中でもその『藪の中』をもっとも評価していることからしても頷けるところである。

 総じていって、400ページを飽きることなく読み続けられる面白さをもっているし、映画的な描写もあってまさに映画にしたら一大スペクタクルになることは間違いないのだが、問題は、コリアン、中国人、黒人などがあからさまに人間以下の存在としてしか描かれていないことである。
 いかにSF的な設定で、自然条件的な背景として「そうなってしまったデストピア的状況」として語られていようとも、当のコリアンや中国人がこれをどう読むのだろうか。
 
 この辺がどうしても気になってしまって仕方がないのだ。
 著者に人種偏見的な先入観があるとは思いたくないのだが、もしそうならば、もっと抽象度を上げる表現があったのではとも思える。しかし一方、それでは現実のサハリンを取り巻くリアルな状況から逸れてしまうのだろうか。

 いろいろ、複雑な読後感が残る小説であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蟄居からの脱出はじめ 久々の熱田行きを中心に・・・・

2021-07-06 23:58:55 | よしなしごと

 ワクチン接種であるが、6月12日に第一回を、7月3日に第二回を済ませた。
 首都圏では再び感染者が増加し始めているようだが、わが岐阜県はここんところ一桁の感染者が続いていて小康状態といえる。

         
         名古屋熱田間はJRと名古屋鉄道(名鉄)が並走している
 
 そんなこともあって、私自身の行動もやや活気を見せてきはじめた。もっとも、そうした気の緩みがまたぶり返しを誘うということもあって油断は禁物だが、なんせこんな状況下で五輪を強行するというのだから、お上やその筋は庶民の行動を控えろなどとやかくいう資格はまったくあるまい。

         
          熱田駅で出を待つ名古屋始発、金沢行しらさぎの車両
         
              しらさぎと名鉄電車のコラボ

 26日には3月以来3ヶ月ぶりに名古屋へでて、写真を観て句や歌を詠むという会に出た。
 29にには名古屋熱田文化小劇場でのスタジオ・ルンデ40周年記念WEBコンサート(酒井 淳 チェロリサイタル:ピアノ 水村さおり)の後、やはり、最近熱田区へ引っ越したという友人宅を訪問し歓待された。

            
                 当日のプログラム

 なお、このチェロリサイタル、ギィ・ロパルツのソナタ第2番やドビュッシーのソナタを柱に、小品などが組み合わされていたが、面白かったのはアンリ・デュティユー(1916~2013)の「ザッハーの名による3つのストロフ」で、チェロという楽器の持つ可能性を最大限に引き出す曲だと思った。そしてそれを酒井 淳があらゆる技法を駆使して見事に表現してみせた。
 もともと、チェロという楽器は好きなのだが、そのイメージがかなり膨らんだ感じだ。

         
                 神宮前商店街の裏っ側

 3日は二回目の接種。もともと潔白意識が希薄で清濁合わせて順応性が高いので、異物が身体に入ることには何の痛痒もない。
 4日には、午前中から同人誌の集まり。今年、3月以来だが、各同人の発言がかなり刺激になった。同時に、自分の文章の問題点が自分でも薄々意識していた以上に明確になって、次号の原稿はかなりの覚悟で望まねばなるまいといささかおののいている。

         
           神宮前商店街 半分以上は休眠 右側が熱田神宮の森

 その間、図書館へ出かけたり、クリニックに出かけたりしたが、その都度周辺を散策したりした。
 その折の写真も溜まっているが、それはまた機会をあらためて。
 今回載せたものは、熱田行きを中心としたもの。

追記 熱田というところは、熱田神宮の所在地で有名だが、私にとっては人生初、自分で働いて収入を得た土地でもある。
 というのは60年以上前、この近くで家庭教師のバイトをしていて、バイトの日は、この熱田駅から当時の国鉄で岐阜まで帰宅していた。
 ちなみに当時のバイト代は、週2回ほどで月額3,000円だった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする