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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「残像」とはなんだろうか アンジェ・ワイダの遺作を観る

2017-06-30 14:40:37 | 映画評論
 少年から青年期に至った頃だろうか、映画をそのストーリーや展開に重点を置いて、監督などにはあまり注意を払わなかった私に、その監督の名を強烈にアピールしたのはアンジェ・ワイダであった。
 映画は『灰とダイアモンド』。はじめて観たポーランド映画であった。
 当時のポーランドといえばもちろん、ソ連支配下の社会主義国、したがって、映画そのものも社会主義的色彩の強いものという先入観があったが、その期待は裏切られた。どうみてもそれは、ポーランド共産党側というより、その幹部の命を狙う反共産党側のテロリスト青年マチェクに視線が向くように作られていたのだった(原作は必ずしもそうではないらしい)。
 それが新鮮であった。
 左翼にシンパシーをもちながら、1956年のハンガリーでの労働者・人民の蜂起に接し、ソ連型社会主義に疑問をもちはじめ、正統派左翼とは袂を分かちつつあった私にとっては、1959年に日本で公開されたこの映画はとりわけ刺激の強いものであった。

             

 それから約60年、ロシア革命から100年、ソ連圏崩壊から4分の1世紀、ワイダがこの映画を作ったということはどういうことだろうか。

          
 
 例によってネタバレは避けるが、映画の内容を大まかにいえば、ポーランドが社会主義圏に組み込まれた後、ステロタイプ化した社会主義リアリズムに従わなかったがゆえに迫害され、表現の場を奪われ、ついには病と貧困に追い込まれてゆく前衛芸術家の物語だ。
 この物語の主人公は、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893~1952)という実在した画家で、映画は1949年から52年に至るその晩年の4年間を描いている。
 映画の前半はまだいい。迫害されながらも若い支持者たちに囲まれ、彼は自分の芸術論を述べ、その出版をも試みているようだ。彼は学生たちにいう。「芸術は、《残像》として自分に焼き付いたものの表出だ」と。
 一見、これがこの映画のタイトルに直結するようだが、私は必ずしもそうだとは思わない。

          
 
 詳しいことは書かないが、後半は悲惨ともいうべき状況のなか、モノクロに近い映像が続いて終幕を迎えるのだが、そのエンドロールでの鮮やかな原色の配置は思わずはっとさせられる。彼に禁止されていたのは、こうした豊かな色彩であり造形であったことが改めて強調されかのように感じた。

          

 ラストシーンには彼の娘が一人で登場する。芸術家でも何でもない女学生なのだが、その年代から計算するにほぼ私と同年輩である。悲惨な物語の最後に若い人が登場する映画は、だいたいにおいて次世代に希望を託すという場合が多いのだが、私と同世代のこの少女は、果たしてどのような生涯を送ったのだろうか。
 さて、アンジェ・ワイダがこの映画に付した『残像』というタイトルを巡ってだが、先にみたように彼の絵画論のみを指すのではないと思うことはすでに述べた。この残像は、主人公もだが、むしろ、ワイダが生きた20世紀そのものの「残像」にほかならないのではないか。私はいま、この映画の主人公や、ワイダ自身が経験し、私もまたその末端を垣間見つつ過ごしてきた20世紀の全体主義を中心とした問題について考え、それについての文章を書こうとしている。

          

 そうした立場から思うのだが、ワイダが、そして私が、晩年に至ってまぶたに焼き付いた「残像」に思いを致すとき、それらは果たして、過ぎ去ったことどもの「残」像で片付けられるのだろうかと思わずにはいられない。
 もちろん、歴史が単純に繰り返すなどといっているのではない。ただ、その歴史に対し、それ自身をきちんと総括をし引導を渡していないものに関しては、何らかの形で回帰する可能性が残されているのではないだろうか。世界の情勢、日本の著しく劣化した政治状況は、その可能性を垣間見させる。

          
 
 そしてそれが、ワイダがソビエト革命100年、ソ連圏崩壊4分の1世紀後に、そのフィルムにこうした「残像」を刻みつけたことの意味ではないかと考える。
 考えてみれば、映画そのものが残像によって可能となった芸術であった。とすれば、『残像』というタイトルは様々な思惑を孕んだ多重なものとして置かれているというべきだろう。

この映画を観ると、ハンナ・アーレントのいった「全体主義はイデオロギーとテロルによってなる体制である」という言葉がまさにそのとおりであることが如実にわかる。









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「満州」という記号 「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」を観る

2017-06-25 01:10:18 | 日記
 名古屋市美術館で開催していた「異郷のモダニズム-満洲写真全史-」を、終了間際にやっと観ることができた。

             

 満州は、子供の頃からある種の興味の対象であった。就学前にみた絵本などではまさに「異郷」の地として描かれていたし、何よりも、ほかならぬ私の父が敗戦一年前から一兵卒としてその地に従軍していたからである。敗戦時はハルビン郊外に蛸壺を掘って、小銃一丁でソ連軍の戦車部隊と対峙するという絶体絶命の窮地に立たされたが、あわやとと思われた瞬間、日本の敗戦が確定し、かろうじて一命は助かった。
 
 もっとも命拾いはしたものの、そのままシベリアへ連行され、強制労働に従事させられ、帰国したのは三年ほど経ってからだった。
 生前それら話をよくしてたし、また「ハルビンはとてもモダンできれいな街だった」とも聞いていた。

 さて個人的な思い入れはこれぐらいにして、写真展に戻ろう。
 正直いうと、期待値とややずれていた。ハルビンや大連などの往年の「モダニズム」の側面がもっと前面に出ると思っていたからだ。しかし、むしろ、満蒙の土着的な写真が多かったように思う。その意味ではタイトルの前半、「異郷」にウエイトが置かれていたのかもしれない。あるいは「モダニズム」は対象のそれではなく、それを表現した側の視点、つまり写真家たちの対応を指すのかもしれない。

          
 
 それはともかく、写真そのものとしてはとても面白かった。前半の櫻井一郎の写真は隅々までとてもクリアーで、フィルム写真のギリギリの限界まで表現していて、高い技術性とアングルや構図などにも配慮が行き届いた優れた写真群だと唸るほどのものだった。
 
 その後の「絵画主義」のコーナーはまさにその通り、クリアーさでは櫻井一郎のものに一歩も二歩も譲るものの、その対象の切り取り方、画面にみなぎる空気感は、バルビゾン派の絵画を思わせるものがあった。「種まき」や「落穂ひろい」など共通の題材が多いところからみても、やはり、バルビゾン派そのものをかなり意識していたのではないかと思わせるフシもある。
 
 最初に書いた「期待値とのズレ」は、「モダン」な側面や「戦争」の側面がやや少なかったことなのだが、それらをさておいても、二〇世紀初頭から中葉にかけて、日本や亡命ロシア人との関連など、独自の空間を形づくっていた満蒙の地のとても貴重な映像をまとめて観ることができたのは僥倖というべきだろう。

             

 ただし、くどいようだが、私ぐらいの年令になると、満州、ないしは満蒙の地は戦争と切り離しては考えることはできない。傀儡満州国の設立が日本の国連脱退の誘因となり、さらにはそれが真珠湾攻撃につながってゆくのは歴史の示すところだが、それらと並行した事業が満蒙開拓団の募集と送り込みで、1930年代はじめから敗戦(45年)までの間に、おおよそ32万人が満蒙の地に送り込まれた。

 送り込まれた人びとは、日本では生活がままならないような人びとが多く、このあたりでは、長野県や岐阜県からが多かったという。岐阜公園の一隅には「満蒙開拓団慰霊の碑」が建っている。
 新天地に希望を求めて出かけた人たちだったが、敗戦によるその末路は悲惨を極めた。彼らを守護するはずの関東軍(中国の関東州を中心に配備された日本軍)は、その幹部たちがサッサと逃げ帰り、残された人たちは一切の財産を奪われ、略奪や陵辱に見舞われ、多くの死者を出すなか、かろうじて引き上げることができた人たちは僥倖ともいわれた。*

 *このくだりは、日方ヒロコさんの自伝的小説、『やどり木』(れんが書房新社 2014年)に詳しい。

 もちろん、これらの事実をもって、被害者としての面を強調するのは片手落ちだろう。それに先行して、日本の一方的な侵略行為があったことは事実だからだ。

          

 写真展から大きくはずれたようだが、こうした歴史的背景を下敷きにその写真たちを見ると、当然、その意味合いが変わって見えてくる。写真を単に美術作品として見る場合、それらは邪道といわれそうだが、もとより写真が「真を写す」という記録性、時代に即した撮し手の主観がその背景にあるという時代性、さらには何らかの主張を支えるプロパガンダ性をもつとしたら、その表現がもつ多重性に即したさまざまな見方があってもいいのだと思う。
 私にとっては、とりわけ「満州」という地名がもつ重みがある限り、それらの写真がもつ記号としての多重性や錯綜を捨象して、ナイーヴに観ることはできなかったのである。

 満州については、ほかにも語りたいことがさまざまにある。
 若い友人から聞いたその叔父上の悲劇、その晩年に友人となった故・トーマスさんの少年時代の思い出、などなど・・・・。
 それらが、一挙に押し寄せるような写真展であった。
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天気予報とスーパーのチラシ

2017-06-19 14:58:25 | よしなしごと
 独り身になり、いわゆる家庭というものの管理のほぼ一切を行うようになってから、これまでの生活習慣とはいささか変わったことがでてきた。
 すこし大げさにいえば、情報獲得の範囲を広げたというのもそのひとつだが、なんのことはない、これまではさほど注視しなかったものに目を向けるようになったというだけのことである。

          
          


 そのひとつは天気予報である。これまでだって天気予報をチェックしなかったわけではない。しかし、これまでの見方というのは、毎日のそれを漏らさず見るということではなかった。
 というのは、もはや勤め人ではない私にとって、必要なのは外出予定のある日についての天候だけで、そのほかの日は雨が降ろうが槍が降ろうが「あっしには関わりようのないことでござんす」で済ませてきたからだ。

          

 そんな私が毎日つぶさに、その前後の日も含めて天気予報をみるに至ったのは家事労働のひとつ、そう、洗濯に関係する。
 これまで、洗濯は連れ合いの領分であったが、その亡き後は私がしなければならない。とすれば天候を気にするのは避けられない。わが家の洗濯機にも乾燥機能はついている。しかし、モーターとして使うより熱源として使うほうが電気代がかなりかさむことを経験的に知っているし、さらには何よりも、天日干しのあの日向に晒された洗濯物の肌合いがとても気持ちいいのだ。
 それに洗濯をしてから外出する場合の天候の変化も計算に入れておかねばならないが、これは時間単位の天候予測が必要になる。
 といった具合で、その日の天候はむろん、時間ごとのそれ、週間ぐらいのそれをチェックすることはいまでは必須になっている。

 
 いまひとつ、これまで無視してきたのに、最近、気に留めるのは新聞折込のチラシである。これまではそれを、自分にとってまったく不必要な情報源としてあっさり切り捨ててきた。しかし、最近はそうでもない。
 注意しているのはスーパーのチラシ、とりわけ食品のそれである。もちろんこれも、主夫としてのチェック項目であることはいうまでもないが、その主旨は、どのようなレシピを構想するかと同時に、同じものを買うにしてもどれだけ家計の負担を軽減するかにある。

          

 いつ買い物に行くかも重要である。毎日は行かないから、3、4日に一度ぐらいの割合になる。スーパーのチラシはたいていその日の分のみではなく、翌日も含めた2日分の掲載が多いから、そのうちのどちらにするかを特売している商品とこちらの需要との関係を勘案して検討する。
 もうひとつは、どこへ買いに行くかである。常用しているスーパーが2店あり、ほかに野菜を買う農協のフレッシュマート、業務店専用の食品店、さらには車を使えば10分前後でもう3店ほどのスーパーがカバーできる。

          
 
 価格もそうだが全体の品揃え、鮮魚類がいい店、野菜類がいい店、加工食品が充実している店などなどそれぞれの特色にも注意する。
 それらを総合的に判断した上で、「いま何が値打ちに入手できるか」の最新情報がチラシでの検討ということになる。ときには、チラシの情報によって改めて旬の食品を思い起こしたりするなど、こちらのレシピそのものの構想も変化する。

 ほかに、5%引きの日などのチェックするが、まだポイント◯倍の日までは手が回っていない。どこかで、そこまでしなくともという声もある。
 たしかに、チラシを情報源として利用し始めたが、しかしながらそれを主体に自分の食生活を組み立てることはしないでおこうと思っている。こちらの食のコンセプトを丸投げにしてまでチラシに依存することは戒めたいものだとの思いがあるからだ。

 といったことで、私の情報のインデックスがここへ来て増えたという話なのだが、こんなチマチマッとした話、世の中が広くなったのか狭くなってのか分かりゃしないと苦笑している次第。

 空梅雨のおかげで今日も洗濯物がよく乾いた。
 買い物? 次は水曜日の予定。


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新城付近はご難続き?奥三河散策と電車のコンセント?

2017-06-11 00:47:55 | 写真とおしゃべり
 6月10日のことである。地域のクラブの人たちとともに、豊橋経由で飯田線沿いの奥三河を訪ねた。
 単線各駅停車、すれ違い列車待ちののんびりした旅が心地良い。
 まずは本長篠駅まで乗り、そこから長篠城址までひと駅分を散策しながら戻る。
 写真はその過程で撮ったほとんど未編集のもの。

          
                 
                                              
                          
                    
                       
          
          
          
          

 ここまでかなり時間を要し、疲労も激しかったので、長篠城址の全体は臨めず、ほんの入口付近だけを観る。
 長篠城址駅から再び飯田線に乗って新城へ。
 ここで遅い昼食を摂り、あまり駅から離れない範囲を散策し、帰路につくべく新城駅に戻る。以下はその折の写真。

          
          
          
          

 新城駅ではちょうど、折り返して豊橋行になる列車があったのでそれに乗り込む。
 15時11分の発車までの時間を待っていると、急に車内の灯りが消える。へ~、JRも発車までの時間、節電のために消灯するのだと思っていたら、どうも様子がおかしい。
 消えた電灯が瞬くように点滅したかと思うとまた消えてしまう。しばしその繰り返し。
 発車時間はどんどん迫る。
 一体どうなっているのかと思ったら車掌のアナウンスが。
 「ただいま、当列車の電気系統が異常をきたし停電をいたしております。原因究明と修復の間しばらくお待ちください」
 
 二両編成の列車のことで、スタッフの動きがよく分かるのだが、運転手や車掌が慌ただしく行き交い、話し合い、電話をかけたりしている。
 しかし、症状は続く。私のプリンターなら、調子の悪いときはコンセントを抜いて、しばらくしてから接続すれば治るので、それを教えてやろうとしたが、よく考えてみたら、電車のコンセントがどこにあるのかがよくわからない。パンタグラフだろうか。 
 発車時間はとっくに過ぎたが、事態は回復しない。

 そのうちに次のようなアナウンスが。
 「たいへん申し訳ありませんが、この列車の電気系統不全が回復いたしませんので、運休とさせていただきます。列車からお降りいただいて、次に参ります列車にお乗り下さい」
 戦中戦後の時期、物資不足や粗悪部品の損傷などのせいで、列車の運行中止などはしばしばあったが、そしてまた、戦時中の空襲警報や現在の気象条件、事故などによるものなど外的要因のものはあるとしても、こうした列車そのものの内的要因による運行中止はいまどき珍しいのではないだろうか。
 でも考えてみると、まだ発車前でよかったのかもしれない。これが駅ではなく途中で停車して動けなくなったら、単線運転のこと、上下線ともすべて運転中止となり、山の中の線路上にぽつんと取り残され、この日のうちに帰宅できなかったかもしれない。
 以下は、運転不能になった列車の写真。列車の前方では、私たちが反対側のホームに移ってからも、運転手と車掌の会話が続いていた。

          

 これは帰宅してから知ったのだが、東名高速で空中ジャンプをした乗用車が、対向車線のバスに突っ込むという信じられないような事故があったとのこと。この場所がというと、やはり新城市の郊外だそうだ。時間は朝の7時半。ということは私たちが岐阜駅から列車に乗り込んだ時間だ。
 この日の新城界隈の乗り物は、ご難が重なったことになる。
 もっとも、私たちの被害は30分ほどの日程遅延と極めて軽微で、楽しいはずの桜ん坊狩りの旅が修羅場と化した人たちの被害とは比すべくもないのだが・・・・。

【帰宅してから】この日の歩行数は約12,000歩。この歳になってこれだけ歩くと、もう歩かなくてもいいと気を抜いた途端に両足に痙攣が。この夜半になってやっと収まった。



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亡き友の枕辺で飲んだ酒を求めて

2017-06-02 11:34:47 | ひとを弔う
 もう先月になる。高校時代からの友人を亡くしたことはすでに書いた。彼を含む5人組が当時のその高校の文系サークル(新聞部・文芸部・演劇部・歴史研究会・うたごえ運動支部など)を横断的に牛耳っていたことも書いた。

 その通夜のことだ。基本的には家族葬だが、私たち4人が招かれた。うち一人、岡崎在住の友は、自身体調が悪くて欠席。残るは3人だが、そのもとに遺族の子息(私たちとは顔見知り)から申し入れがあった。最寄りの駅まで送迎するから、決して車で来ないでほしいというのがそれだった。

 ようするに酒を飲むということだが、それが故人の遺言だというのだ。亡くなった彼の枕辺で、私たちが語らいながらおおいに飲んでほしいということだった。
 それに従った。

             

 通夜の儀式が終わったあと、彼の棺を祭壇から控室に移し、私たちはその枕辺に陣取って飲んだ。
 私たちと息子二人、それに彼に先立った連れ合い(俳句を嗜むなどなかなかいい女性だった)の弟さんという人とで彼の思い出をこもごも語らいつつ飲んだ。

 そのとき、用意されていたのが上の写真の缶入りの酒であった。「ふなぐち 菊水 一番搾り」とある。
 「ふなぐち」とは、蔵元の説明によれば以下のようだ。

 【もろみを搾る「ふね」から流れ出る搾りたての原酒を当社では「ふなぐち」と呼び、酒蔵を見学に来られた方だけに振る舞われる「蔵の酒」として大変な評判を博していました。 火を一切あてない、調合もしない酒本来の姿そのままの「ふなぐち」。 もろみを搾る「ふね」から流れ出る搾りたての原酒を当社では「ふなぐち」と呼び・・・・(略)・・・・ 火を一切あてない、調合もしない酒本来の姿そのままの「ふなぐち」】

 そんな次第で、たかが「缶入り」などとみくびるなかれ、けっこう旨い。「どうしてこの酒を?」という問いに、息子たちは「親父はこれを愛飲していたのです」とのこと。
 長い付き合いで、数え切れないほど盃を重ねてきたが、うかつにもそれは知らなかった。

 彼の遺言に忠実に、あるいはそれ以上に、私たちはしこたまそれを飲んだ。そして語った。はじめは遺族の手前、彼の美点を述べていたはずが、いつの間にか悪口に変わっていた。悔しかったら、起き上がって一緒に飲めといわんばかりに話が弾んだ。
 それが彼との私たちの別れであった。

             

 それから10日も経っていない昨日、酒専門店の前を通りかかり、通夜の酒を思い出した。車を駐車場に入れ、広い店内を探したがそれらしい缶入りの酒はない。
 よく探したら、同じ酒蔵の純米酒のの一升瓶があったので迷わずそれをゲット。彼と最後に外出した折、私がアッシーを努めた礼だといって麦焼酎を買ってくれた彼の行為を思い出し、少し胸を突くものがあった。

 入手したこの酒、むかしのようにグビリグビリと飲むことはできないが、しんみりした晩など、彼を忍びながらチビリチビリとたしなみたい。
 高校、大学と私のいささかワイルドな目覚めの時期があった。そのなにがしかを彼と共有した。そしてそれ以降の付かず離れずの付き合い、そして晩年は穏やかな語らいの機会を何度ももった。
 それらを反芻しながら飲むにはいい酒だと思う。


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