六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【六の仔バト日記・2】8月28日の続き

2013-08-31 15:47:42 | ラブレター
 雨にも負けず、風にも負けず、二羽ともに順調にに育っています。
 産毛に変わって、キジバト特有のうろこ状の模様の羽が生えてきました。
 親があまり姿を見せないので、どうやって給餌しているのだろうと心配していましたが、今日、直に親が餌を運んできて、仔バトたちがそれをねだっているのを目撃しました。
 ツバメなどですと給餌の瞬間、ヒナが騒ぐのでよく分かるのですが、キジバトのヒナは全く鳴きません。おねだりの動作はただ羽ばたくのみです。
 その羽ばたきの瞬間、おう、もうこんなに立派な羽がと思いました。
 巣立ちは9月10日ぐらいと踏んでいますが、ひょっとしたらそれより早いかもしれません。
 嬉しくも寂しい瞬間ですね。

 とりあえずは、それまでの間、激しい風雨などなく、またカラスに襲われたりしないことを祈っています。
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【蒟蒻問答】捜し物は何ですか?

2013-08-31 15:27:46 | よしなしごと
■ところで、どこかへ行きたいとは思いませんか?
◎どこかって?
■ここでないところ・・・。
◎ここ以外はどこだって「ここではないところ」なのではないでしょうか?
■う~ん、それはそうなんだけど、そこへ行ってもここと同じではつまらないでしょう?
◎じゃぁ、う~んと違うところだったら。
■そのう~んと違うところってだんだん少なくなってるのではないでしょうか?
◎均一化ってこと?例えばグローバリゼーションのような?
■う~ん、それもあるけど、その場所のせいだけでなくてこちらの問題かもね。
◎っていうと?

         

■僕らにはあまりにも多くの情報が前もって刷り込まれてしまっていて、どこへ行っても、その刷り込まれたものを再確認するだけなような・・・。
◎つまり感動がないってこと?
■そうね、感動というか驚きというか・・・。
◎でも、とてつもなくでかかったり、異様な風景に接したり、あるいは私たちとは全く違う風物、習慣に出会ったら、やはり驚いたり感動するのではないでしょうか。

             

■でもそれらは、どこかで観たもの、読んだもので、それらと同じであることを再確認することになりはしないでしょうか?例えば観光地へ行って、その風景を見て、絵はがきやグラビアと同じであることに満足して帰ってくるような・・・。
◎もしそうだとするともうどこへも行けなくなりますね。にもかかわらず人びとは何かを求めてあちらこちらへ出かけますよね。それはどうしてでしょう?
■う~ん、それはここではないところがどこかにあると思うからではないでしょうか。

           

◎ということは、本当はここではないところなんてどこにもありはしないってことですか?  
■さぁ、どうなんでしょうね・・・・。こんな言葉がありますが、どう思いますか?
 「自分の故郷が一番だと思うのは愚か者である。どこへいってもそこが故郷だと思うものはよりましなものである。どこへいってもそこが故郷ではないと思うものこそ優れたものである。」  
◎ということはその場所と自分との取り合わせのようなものではなく、その場所へと向き合うこちら側の構えのようなものでしょうか?たとえば、どこにも安住することなく、どこをも異化し続ける遊牧民やノマドのように。

             

■そうかもしれませんね。しかし、この言葉って納得できます?
◎そうですね。率直にいうと、あるときはやはり故郷が一番だなと思うし、あるときにはどこへいってもそこが故郷だと思ってしまうし、またあるときには、どこへいっても馴染めないし、一概に優劣をつけがたいと思うのですが・・・。 

■で、結局、どこかへ行きたいとは思いませんか?
◎そうですね、今日は湿度が高くてむしむしするから、どっかカラッと涼しいところがいいですね。

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まるで新しい恋でもはじめたかのように・・・

2013-08-28 18:02:26 | インポート
 とにかく気になってしかたがないのです。集中しなければならないことをしていても、それが頭に浮かぶともうダメです。それが一日に何度もなのです。そしてその都度、確認せざるをえないのです。
 家にいるときにもそうですから、外出中などは余計です。留守の間に何かが起こらなければと祈るような気になってしまうのです。

 問題は私の家の柾の枝にかけたキジバトの巣なのです。
 縄張り宣言とおぼしき雄の鳴き声が早朝から聞こえたのはどれほど前だったでしょうか。
 気付いたら私の二階の部屋の窓の下に新しい巣をかけていました。
 よく注意しないと、上からも下からもわかりにくいところです。
 巣は出来上がったのですが肝心のキジバトが来ません。
 今年は空振りかなと半ば諦めていました。

         

 それがです、真夏日が続くようになったこの8月の初めから、どうも抱卵が始まったようなのです。40℃近くになろうとする暑さのなか、身じろぎもせず巣にこもり続けています。
 卵を温めるというより、暑い日差しから守っているといったほうがいいかもしれません。
 ちょっと巣から離れた間に、木の葉越しに覗きこむようにしてみたら、白い卵が2個、ちゃんと鎮座していました。
 それが私の懸想の始まりでした。
 この炎天下、卵は無事に孵るでしょうか。

 そしてこの地区の猛暑日が十数日間続いた頃です。
 親鳥の下でなにやら動くものを見かけました。
 親鳥の姿勢も、前のようにベッタリと座り込むというのとは違うようです。
 どうやらヒナが誕生したようですがまだ詳細はわかりません。
 親鳥が立ち上がった時です。
 その動く小さなものが二つであることが確認できました。
 卵は二つとも無事孵化したのです。

         
                 苦労して捉えたヒナの写真

 孵化して2、3日後、ヒナたちの動きも次第にはっきりしてきたのですが、その日、岐阜には竜巻警報が出て、激しい雷雨も必至という状況になってきました。
 もう居ても立ってもいられません。
 「日照り続きで一雨ぐらいこないと植物が大変だよなぁ」といってたくせに、今度は、降るな、いや降ってもいいから激しくは降るなと祈るような、というよりまさに祈っていたのでした。

 実際のところ、竜巻警報は当たっていたようで、私のところから20キロほどのところで、幼稚園の屋根がひっぺがされるなど突風が吹き荒れ、数軒の家屋に甚大な被害をもたらしていたのでした。そして夜間、私のところでは雷鳴とともに結構激しい雨が振りました。
 神様、仏様、キリスト様に孔子様、アラーの神にシヴァの神です。
 親鳥よ、これに耐えて子らを守れよ。

 で夜が明けて雨も上がりました。
 無事でした。しかも雨に耐えて一回り逞しくなったのか、私の人差し指ぐらいしかない小さな頭が二つ、ピョコピョコ活発に動いているではありませんか。
 親鳥も含めて、お前たちよく頑張ったなと思わずねぎらいの言葉が口をついたのでした。

 ヒナが少し大きくなったせいか親鳥が巣を離れる時間が多くなりました。
 その間は、小さなぬいぐるみのようなヒナが寄り添うようにして眠っていたり、急に頭をもたげてあたりを見回したりする様子が木の葉越しに見えて可愛いのですが、今度はそれが心配なのです。
 このすぐ裏の田圃にはカラスがよく来ますし、それに、けっこう獰猛なヒヨドリもここへはやってくるのです。カラスの鳴き声を聞いたりするとすぐベランダに出ます。いざとなればカラスと一戦を交える覚悟です。
 70年前の幼少時、戦場に出て天皇のために一命を捧げると誓ったこの身、何でカラスごときが怖かろう、「来てみろニミッツ、マッカーサー」です。
 やがて親鳥が帰ってくるとホッとします。

         
           これは何年か前 ナンキンハゼをついばむキジバト

 昨日などは、昼ぐらいからずーっと親鳥が姿を見せません。
 けっこう陽射しが強いなか、ヒナたちは大丈夫でしょうか。
 カラスやヒヨドリが襲ってはこないでしょうか。
 この日が締め切りという仕事をしながらも、どうしても落ち着けません。
 とうとう、近くに親鳥が居ないか探しに出かけました。
 結局は見つからなかったのですが、もし見つかったとしても私は鳩語を解さないのですから、「ヒナたちが心配だからそろそろ巣へ戻ったらどうだ」と話すこともできません。
 たとえ、それを伝えることができても、相手から「私たちは自然の摂理に従って行動しているのです。ここには、あなたが干渉する余地はありません」といわれたら、返す言葉もないのです。

 結局、私ができたことは、ヒナたちがいる巣の下辺りに水を撒いてあまり暑くならないようにしてやることだけでした。
 親鳥が帰ってきたのは夕方の5時過ぎでした。
 ヒナたちは随分安心したようですが、もっと安心したのはこの私でした。
 というのは、これはひょっとしたら親鳥の育児放棄ではないかと疑っていたからです。
 疑ってごめん、だけどもうあんまり心配させるなよ。
 そして、ちゃんとヒナたちの巣立ちをともに見届けようぜ。
 (「あんたに、そんなこといわれる筋合いはない」キジバトの親)

 といった次第で私はもうメロメロなのです。
 過去、明らかにヒヨドリに突つかれて穴の空いてしまった卵、風雨で巣から落ち、弱り切っているのを見つけ慌てて巣に戻してやったけれど結局は育たず巣のなかでミイラになってしまったヒナ、それらを見ているだけに、今回はなんとかしてちゃんと巣立たせてやりたいのです。
 ネットで調べたところではヒナの巣立ちは孵化してから3週間ぐらいだそうですから、うちのヒナたちは9月10日前後には自分の翼で飛び立つはずなのです。
 それまで、私の気苦労は続きます。


  
     世の中にたえて仔鳩のなかりせば六の心はのどけからまし    在腹六平

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ワーグナー『パルジファル』の演奏会と「奇蹟」について

2013-08-26 22:55:08 | 音楽を聴く
 8月25日、リヒャルト・ワーグナーの舞台神聖祝祭劇『パルジファル』のコンサートスタイルの演奏を聴きました。実際の劇として展開される場面はどんなだろうと空想しながら聴いてきたわけです。
 ドイツ語による演奏ですが、幸い、日本語の字幕が付きますので、今どんなことが起こっているのかはよくわかります。
 もちろんある程度の予習はして全体の展開は掴んだ上で出かけました。

           

 これがまた長いのです。
  開場 3:00
  開演 3:30 第一幕  120分
         休憩   30分
         第二幕  70分
         休憩   30分
         第三幕  80分
  終演 9:00
 という訳で6時間を要する演奏会なのです。

 なおこれは現在行われている「あいちトリエンナーレ2013」のパートナーシップ事業の一環だそうです。

 これだけ長大なものですから、そのお話や出演者などを紹介していたらきりがありません。
 そこでかいつまんでこの演奏会の特色のみをのべてみましょう。

 まずは、オケと歌い手たち、それに合唱団を率いるのが総合指揮者の三澤洋史さんなのですが、その三澤氏がパンフの冒頭に、「奇蹟」と題した一文を載せています。
 氏はまず、ワーグナーの音楽は、「聴く」というよりその場で「体験する」ものだと述べた後、自分がバイロイト音楽祭の練習風景を見学して震撼したという経験を述べ、その全曲を今自分が演奏するという「奇蹟」を語ります。
 もちろんこの「奇蹟」という言葉自体が、この楽劇の内容とオーバーラップするものであることはいうまでもありません。

                       
            会場の愛知芸術文化センターの吹き抜け

 今回の演奏を「奇蹟」というのはいくぶん大げさだとお思いかもしれませんが、ワーグナーの最後の作品だというこの『パルジファル』の日本での上演の歴史は今回を含めて10度しかないのです。
 初演は1967年でもう半世紀近い前ですから数年に1度ということになります。
 しかも、名古屋地区においては初演なのです。
 また、そのうち日本人の指揮者は、若杉弘、飯守泰次郎の両氏についで、三澤氏が三人目になるのです。

 この演奏回数の少なさは、その作品の規模からして、スタッフ、キャスト、オケ、合唱団とそのための準備は多岐にわたり、それらをまとめあげてゆくことがいかに大変かを示しています。
 事実、今回のソロを歌うキャストはそれぞれ手練れの歌い手でしたが、合唱は名古屋の地元の「モーツアルト200合唱団」でした。
 
 さらに特筆すべきは、このオケには「ワーグナープロジェクト名古屋管弦楽団」という立派な名前が付いているのですが、実はそんな楽団などというものは実在しないのです。このオケは、アマチュアの人たちによってこの演奏のために結成されたオケなのです。
 おそらく、アマチュアのオケによるこの曲の完全全曲演奏というのは世界初ではないでしょうか。

               

 それらが重なりあってこの壮大な舞台が実現したわけですから、まさに「奇蹟」というべきでしょう。しかもそれは大成功であったと思います。

 こんなに長いライブですから、途中で居眠りをするのではないかなと心配していたのですが、それは杞憂で、まさにワーグナーという体験のなかに心地よく身を浸すことが出来ました。
 もうひとつの「奇蹟」について書くべきでしょう。この壮大にして長時間の体験を可能にした演奏会のチケット代が、わずかの「3,000円」だったということです。オケがアマチュアだからといって決して遜色があるものではありませんでした。それをこの価格で聴かせるとは、なんだかもったいないような気がしました。

 もうひとつ、オマケに私的な「奇蹟」がありました。
 このコンサートに前後して、何年か前、袖すり合うかのようにして知り合っただけの方から、はからずもお電話を頂き、新たな交流の機会が芽生えたということです。

 
 

 
 
 

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藤圭子さんのこと

2013-08-23 15:15:39 | 想い出を掘り起こす
             

 藤圭子さんの突然死で、TVは色めき立って何やかやと騒々しい。
 しばらくはこれで稼ぐつもりだろう。

 デビュー時、これまでの演歌とはいくぶん違うなと思った。
 早速、五木寛之などが「怨歌」などという造語を用い、小説などに書いた。
 彼女の歌はルサンチマンそのものだというのだ。
 あまり意味ありげに持ちあげるのもなんだかなぁと思った。

 ただし、ルサンチマンという意味では案外あたっていて、彼女本人のそれや、演歌に含まれる喪失した恋への追憶などと同時に、ある意味、時代の風潮をも併せ持っていてのかもしれない。したがって、それまでの演歌ファンであった中高年層以外の、割合若い層からも支持を受けたのかもしれないと思っていた。

 これは勝手な憶測だが、彼女の活動した時期は、68年の全共闘の反乱を経て、70年安保にいたり、かつ、三島由紀夫の自決やさらには連赤事件にひとつの終止点を見出すなど、戦後をひとつの動機とした諸々の連鎖が一応絶たれ、容易に出口が見いだせない混迷の時期であった。
 その意味では、そうしたことども全てがある種のルサンチマンを呼ぶ要素をもっていたのであり、彼女の「怨歌」はそれらと共鳴したのかもしれない。

 そうした彼女が第一線から消えた頃、この国は根の浅い無邪気な自信を伴って陽気に再生したかに見えた。曰く、「ジャパン・アズ・ナンバーワン!」。
 それらが新たな危機への入り口であることには気づかず、人びとはひたすら浮かれはしゃいでいた。もはや時代は彼女のものではなかった。

                

 そんな藤圭子さんに一度だけ面と向かって会ったことがある。
 もうその活動の頂点を経過した70年代の後半だったろうか、私がやっていた店の前がかつての力士が経営していたちゃんこ料理店で、そのせいか、スポーツ選手や芸能人たちがよく出入りしていた。
 そんなある日、何げなしに私が店から出ると、前の店からも女性が一人出てきて、それが藤圭子さんであった。タニマチに取り囲まれての宴席に疲れてひと息入れに出たといった風情であった。
 それに気付いた私は「こんにちは」か「こんばんは」かの挨拶をした。
 彼女も、微笑みながら挨拶を返した。
 もちろん、彼女にとっては路傍の石に等しい居酒屋の亭主に、特別な意識など持ちようがなかったに違いない。
 TVなどの画面で見るよりはずいぶん小さい人だなぁというのがその折の印象だった。

 何があったのかそんなことは知らないし特に知りたくもない。
 ただ、ああ、あの折の女性が自死を選んだのかという感慨は残る。
 合掌あるのみだ。

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自然と人為という区分の無効とナツツバキの運命は?

2013-08-23 03:02:17 | 花便り&花をめぐって
 私の住む岐阜市は昨22日で連続16日間の猛暑日(気温35℃以上)を記録し続けている。当然、夜は熱帯夜である。睡眠薬をしっかり飲んで、タイマー付きの首振り扇風機で就寝する。
 それでも起きてしまうと、また扇風機のタイマーをセットしなおしてやっと眠りにつく。
 
 世の中にはエアコンというものがあってクーラーという機能も付いていることは知っている。私の部屋にも一応は設置してある。しかし、このクーラーが苦手なのだ。はじめはひんやりと気持ちがいいのだが、そのうちにゾクゾクしてきて胃のあたりがキリキリしてくる。
 だから、映画が好きなくせにこの時期の映画館は苦手だ。
 始まって15分も経つともうダメだ。だから、映画館や冷房の効いた場所での会合などはサマー・ジャンバーが必携品である。

           

 しかし、私が打ち震えている映画館で、タンクトップ姿で平気な若者たちがいる。まるで、私とは人種が違うようだ。思うに彼らは、生まれた時からエアコンの効いた環境で育ってきて、それに対応しているのだろう。
 それに引き換え、私は子供時代から成人するまで、夏は暑く冬は寒いという自然条件のなか、エアコンなどというものとはほとんど無縁に育ってきので、かえって現代風の環境に適合していないのかもしれない。

 もうひとつ困っているのは、この間まとまった雨が降らないことだ。
 すぐおとなりの名古屋で、地下街に水が入るとかいわれたゲリラ豪雨の際も、ここでは、なんだか南のほうでチカチカ光ってるなというぐらいで、ここんところ適度なお湿りすらずーっとない。
 おかげで、野菜、とくに葉物は高騰気味で困っている。
 サニー・グリーン・リーフという青菜のお化けのような大きな株を98円でゲットしてきたので、当分、生野菜はこれに頼ろうと思う。

         

 これは本当は書きたくないのだが、やはり書かざるをえないのだろう。
 県立図書館へ行ったのだが、この際、図書館のことはどうでもいい。
 実は、ここへ行くと、その中庭や、隣の県美術館の庭園を散歩するのが楽しみなので、昨日も必要な本を借りだしてからその辺を散策した。 

 この炎天下で植物はどれも元気がない。
 そこで私は衝撃的な事実を目にしたのだ。
 ことはさかのぼり、この7月11日に行った際のことだ。
 この中庭にあるナツツバキ(別名・沙羅双樹)の蕾が例年よりも多くついていて、これが咲きそろったらさぞかし壮観だろうと楽しみにしていた。

 で、それを確認しにいった。
 ところがどうであろう、そこに見たのは実に無残なものであった。
 7月には活き活きとしてその開花を待っていたつぼみたちのほとんどが、褐色になって枯れてしまっているのだ。それどころか、その木そのものが弱り果てている様子なのだ。
 あまりにも無残なので詳しくも見ず、写真も撮らなかったが、悲しいではないか。
 植物は、自分でよりよい環境に移動することができない。
 ひとの適切な手助けがない場合、自然の過酷さに自分の運命を託す他はない。

 
          7月11日に撮した元気だったナツツバキの蕾たち

 私には、冷房がどうのこうのと文句をたれながらも、それに対応する手段がある。しかし、世の中には、このナツツバキもそうだが、それにとどまらず、人間様でもその状況の変化に対応できない場合がある。
 自然もそうだが、社会的状況の中でもそれらは増えていて深刻なのだ。

 私の不適応は今さらいうまい。
 でも、自然の条件に適応できない動植物たち、社会的諸条件に適応できない人びと、とりわけ若い人たちには心が痛む。
 これは単に、同情でいっているのではない。
 今日、自然の条件も、社会的条件も、人間の干渉なくしてはありえない。

         

 科学技術をはじめ人間の自然への干渉が想像以上に大きい時代に私たちは生きている。それは多分、もはや自然と人為という区別が意味を成さない段階であるかもしれない。
 そしてその象徴がフクシマなのだと思う。
 何億ベクレルという汚染水が渦巻く現状は、自然に加えた人為の爪痕そのものなのだ。
 しかも人類は、それらを容易に拭い去ることもできない錯綜のままに、なおかつ自然への干渉を強化するという、つまり科学技術という新興宗教にも似た迷妄にすがりながら、ひたすら破局や悲惨へと突き進んでいる。

 あのナツツバキが、一輪でも花開くことを願っている。
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【なつのひのぼうけん】すうぱあへのみち

2013-08-20 15:37:48 | インポート
わたしはいまのところいきています
そればかりか もうすこしいきようとたくらんでいます
らくごの「じゅげむ」にしたがえば いきてゆくためには「くうねるところすむところ」がひつようです

いちおう「ところ」はかくほしていますが くうためにはくうものをてにいれなければなりません
じきゅうじそくはしていませんのでかいものにでかけます

むかしはさかなやさん やおやさん おとうふやさんなどなどがあったのですがもうそれらはみあたりません
ですから すうぱあという なんでもごちゃごちゃそろえているところへでかけます

         
              うちからまだ50めーとるほど

すこしあるかなければならないのですが うんどうをかねて えんてんかでもとほででかけます

あたまにはすうねんまえ ねっとでしりあったじょせいにあんないしてもらった「ありまつしぼりまつり」でかった しろとこんのありまつしぼりのぼうしをかぶります

ちゃんとしゃつをきて めんぱんをはきます
あしまわりは くつしたをはいてくつなどということはしません
これもすうねんまえにかった「せった」をすあしではきます
これがすずしくていいのです

        
            いぜん すうぱあだったところ

つっかけというてもあるのですが どうも あるていどのきょりのがいしゅつにつっかけはというこだわりがあるのです
それじゃぁせったならいいのかということですが そのほうがふぁっしょんせいがあるようにおもうのです

きょねんでしたか すれちがったおうべいけいのひとたちが「?」というひょうじょうをしていましたので 「じす いず じゃぱにーずさんだる」とせいとうな「きんぐだむいんぐりっしゅ」でおしえてやりました

        
             これではんぶんぐらいきたかな

さてみちのりですが いえをでると かたがわはじゅうたく かたがわはたんぼですこしいってうせつすると こんどはりょうがわがたんぼです
なつのひざしで むせかえるようなあおたのなかをゆきます
ひだりてに いぜんあったすうぱあのたてものがあるのですが これはいまは「すぽーつじむ」につかわれているようです
あたらしいすうぱあはそのばいのきょりがあります

とちゅうにちんじゅのもりがあってすずしそうなのですが たちよっているひまはありません
そこをすぎるとさいごのなんかんがあります
かなりこうつうりょうのはげしい ひろいとおりがあるのです
しかも しんごうもおうだんほどうもありません
それらはずいぶんとおくにしかないのです
ですからすきをみてわたらねばなりません
そのためになんぷんもまつこともあります
けっしていのちがけのぼうけんはしません

        
             とちゅうのちんじゅさま 

そしてやっとすうぱあにつきます
いつもまわるこーすはきまっています
やさいは 「のうきょうのやさいうりば」でげっとをしていますので ここではおもにどうぶつせいたんぱくしつなどをもとめます
さかなるいはあまりいいものがおいてありません
このへんのひとはあまりいいおさかなをたべないのでしょうか

おいてもうれない うれないからおかない という「まいなすのすぱいらる」がはたらいているようにおもいます
かえりは にしびにむかうことになります
にもつがありますからあしどりもおもくなります
そんなとき しょうがくせいなどとすれちがって「こんにちわ」とあいさつなどされると こころなしかあしどりがかるくなるのです

「ああしたてんきにな~れ」です
ただし あつさにはそろそろぴりおどをうってほしいものです




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戦場に散った球児たち 「中央公論」か「改造」を送ってくれ。

2013-08-18 03:39:14 | 歴史を考える
 お盆が過ぎ、夏の甲子園も佳境に至ると、さすがの猛暑にも幾分の和らぎが見られ、青田の上を飛ぶアキアカネもまだじゅうぶん色づいてはいないとはいえ、季節の移ろいを予感させます。ましてや夜半、不意に足元から虫の音などを聞くに及び、夏の挽歌を聞く思いがします。

 さて、それはさておき、昨17日の夕刻、CBCTVでは、戦前、甲子園の名門といわれた私の母校県立岐阜商業のエースだった松井栄造氏に焦点を合わせて、彼が戦場に散るまでの経緯を、彼の当時を知っていた(当然高齢者ばかりです)人たちのインタビューを混じえて番組を構成していました。

 さて、ここで、当時の私の母校がいかに強かったかを記してみましょう。
 夏の大会では1936年(昭11)に全国制覇、38年(昭13)には準優勝。? 選抜に至っては、1933、35、40(昭8、10、15)年に優勝し、その間、39(昭14)年には準優勝をはたしています。

         

 その中心にいたのが、彼のドロップは三尺(90センチ)落ちるといわれた松井栄造氏でした。彼は卒業後早稲田に進んで神宮でも抜群の活躍をするのですが、卒業後兵役にとられ、中支で戦死しています(1943年=昭和18年5月28日、中国湖北省の宜昌県桃家坊で頭部貫通銃創で戦死。享年24)。

 なお、当時の、岐阜商業野球部後援会長の遠藤健三氏の妻道子氏は、自分の子供がいなかったせいもあって松井栄造を我が子のように可愛がり、彼に関してこんな歌を残しています。
  
  よろこびの言葉かくればうつむきて涙ぐみをり少年松井は(1933)
  炎天下の球を追ふ子のユニフオームにお守袋しかと縫ひつく(1936)
 
 そしてこの道子氏は、松井氏の戦死に際し、彼の実家に弔問に行ったきり行方不明になっているのです。これについては今尚、明確に書かれたものはありません。

         
                 献花1 芙蓉

 彼を含めて、当時の優勝メンバーのうち5人が戦病死をしています。
 ・加藤義男 ラングーン郊外の車両事故で即死  42・12・13
 ・加藤三郎 神風特別攻撃隊第一正統隊員として出撃し戦死。 45・4・6
 ・近藤清 神風特別攻撃隊第三草薙隊員として出撃し戦死。  45・4・28
 ・長良治雄 沖縄へ弾薬を輸送中、米軍機の攻撃を受けて戦死。45・5・25

 なお、松井栄造氏に関し、その遺書めいた書を彼の筆跡で見たことはあるのですが、今回、家族にあてたはがきの存在を初めて知りました。それによれば彼は、「中央公論」か「改造」、あるいは「文藝春秋」を送ってくれと依頼しているのですが、それらはついに届かななったようです。最後の彼のはがきは、いくぶんイライラした様子で、これまで出したはがきへの返事がないのはなぜかと、詰問調のものです。

 家族は、実際には彼の要請に応じてそれらを送ったのかもしれません。
 しかし、これらの雑誌、とくに前二誌は当局の激しい弾圧と検閲により、かろうじて発刊されていたものの、海外への流出は不可能だったと思われます。
 事実、松井氏が要請した1942年には、「改造」は掲載されたものが共産主義的であるとして弾圧を受けています(横浜事件の発端)。そして、1944年には両誌ともに廃刊処分となっているのです。
 私は松井氏が、それらを所望した知的ポジションに改めて関心を掻き立てられるのでした。
 私が在校中、よく聞かされた「文武両道」という言葉が、実際に生きていたのかもしれません。

         
                 献花2 昼顔

 番組に戻るのですが、ここに出てくる松井氏と関連がある方々はおしなべて、「だから戦争は決してすべきではない」とコメントするのですが、その間に差し挟まれる若い人たちのコメントは曖昧な点が多く、お国のために戦場に出かけることを肯定するかのようなものもありました。

 私の若いころ、まだまだ戦前の価値観をもつ人たちが多く、私は不遜にも、この人たちがいなくなったら本当に平和で民主的な時代が来るかもしれないと思ったものでした。しかし、そうではありませんでした。むしろ現今の若い人たちの方にはるかに好戦的で近隣諸国への敵対的なコメントが目立つのです。
 私も某所で、お前のような老人が早くくたばらないと、日本は本当に強い国にはなれないんだといわれました。
 ですから、もう少し頑張って生き続けたいと思います。
 そして、松井先輩の無念を私なりに引き受けたいと思っています。


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ヒトラー・ユーゲントの来日と還ってこなかった少年兵たち  

2013-08-17 02:01:24 | 歴史を考える
 いつの間にか有耶無耶になってしまいましたが、「ナチスに学べ」と語った副総理がいました。そして8月15日には3名の閣僚を含む100人以上の国会議員が靖国神社に参拝しました。日本の国会議員の総数は700人余ですから、7人に1人はオカルティストということになるわけですが、ここではそれを改めていい立てようとするわけではありません。

 ナチス-----靖国の関連で、いつか読んだヒトラー・ユーゲントの訪日と靖国参拝の話を思い出したのでした。それで調べてみたら、何とヒトラー・ユーゲントの来日がこの8月16日だったのです。
 え?そんなことは知らない?そりゃそうでしょうね。彼らの来日はちょうど75年前の1938年のことなのですから。なぜ私がそれを知ったかというと、この1938年こそ、私がこの世に生を受けた年であり、この年にどんな出来事があったかを調べたことがあったからなのです。

               
                 ヒトラー・ユーゲントの旗

 ところで、このヒトラー・ユーゲントについても概説すべきでしょうね。日本語にすれば「ヒトラー青少年団」ということになりますが、文字通り、ヒトラーの周辺に組織された私的な青少年団だったのですが、1933年にナチスが政権に就くや、その他の青少年団体をも吸収し、ついに36年には「ヒトラー・ユーゲント法」が制定され、10歳から18歳までの青少年全員の加入が義務付けられるに至りました。もちろんその他の団体は禁止されましたから、選択の余地がない総動員体制だったわけです。

 その代表が来日したのが75年前の8月16日でした。
 すでに、1936年には、日独防共協定が締結されていましたから、同盟国の青年たちとして国を挙げての大歓迎だったようです。なお、この際、「万歳ヒトラー・ユーゲント」という歌も作られ、その作詞は北原白秋でした(作曲は高階哲夫)。

 http://www.youtube.com/watch?v=SV-xjvJuE0Y

 そしてその年の10月、彼らは靖国に参拝したのでした。

         
              ヒトラー・ユーゲントの靖国参拝

 さて、このヒトラー・ユーゲントがその辺の青年団やボーイスカウトのようなものなら当たり障りがないのですが、同時に彼らはヒトラーの意志を実現する組織としてユダヤ人の迫害など様々な活動を行ってきたばかりか、戦争末期に於いては少年兵として戦場に駆り出され、その多くが戦場の露と消えたのでした。

 しかし、少年兵の投入はナチス・ドイツのみの所業とは限りませんでした。
 この国、日本でも戦争末期、多くの少年兵が戦場で命を落としています。
 まず地上戦が行われた沖縄では、多くの中学生や女学生が前線へと送り込まれました。中学生に関してはその動因数は約900人でそのうち約400人は還ることはありませんでした。

 最も多くの少年兵が犠牲になったのは硫黄島でした。ここには約21,000の日本兵がいたのですが、何とそのうち、3,800人は少年兵でした。彼らは昼はアメリカ軍の猛攻に耐えて洞窟などに潜んでいたのですが、夕刻その攻撃が止むと、北の方角、故郷に向かって、「故郷の廃家」という歌を合唱したのだそうです。私はその事実を、おおよそ5年前、このブログに涙しながら書き記しました。

  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080313

 結果としてこの島では、「降伏をするくらいなら全員玉砕しろ」という野蛮極まりない戦闘の結果、約20,000人が無為に死を強要され、生存者は5%に満たない有様でした。少年兵たちもまた、そのほとんどがこの島に骨を埋めることになったのでした。

           
                  日本の少年航空兵たち

 私がことさら胸を痛めるのは、この少年たちが遠い昔の人たちではないということです。その折、私は6歳でしたから、わずか10歳上の人達が、ひょっとしたら私がどこかですれ違ったかも知れない人たちが、その犠牲になったということなのです。

 長くなりましたが、もう一つだけ書き加えます。
 少年たちが戦場に駆り出されるという事実は終わってはいないのです。
 現在の世界の5分の1は戦場であり、潜在的には3分の1が戦場たりうるといわれています。そして、それらのなかで武器を手にする少年兵の存在も決して珍しくはないのです。少年たちに主体的な判断を期待することは困難です。そのほとんどが周辺の大人たちの刷り込みによるものです。

 少年たちが武器を持たなければならない世界、それがあたかも英雄的な行為であるかのように讃える世界を私は嫌悪します。
 これは、1945年、アメリカ軍が上陸し、本土決戦になったら、竹槍で一人一殺を実践しようとしていた軍国幼年の、68年後の述懐です。

 
 

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なぜもっと早く・・・・敗戦記念日に思う口惜しいこと

2013-08-15 01:20:37 | 歴史を考える
 写真は過ぐる戦争で亡くなった人たちへの献花です。
  (コスモス、ソバ、キキョウ、ユリ)


 
 日本が敗戦を迎え、第二次世界大戦が集結してから68年、この戦争で亡くなったすべての民族、すべての国家に属する人びと、兵士や民間人を問わぬすべての人びと、その総数は幾千万に達するのですが、それらすべての人々に改めて哀悼の意を表したいと思います。

          

 国民学校の一年生で、生まれてこの方戦争しか知らなかった私は、大きくなったら立派な兵隊さんになって天皇陛下のためにこの命を捧げるのだと叩きこまれ、かつそうなるべく覚悟を決めていたのですが、68年前のこの日、疎開先の農家の母屋に正座させられて、玉音放送によるご聖断なるものを聞かされました。

 それが降伏を意味することはにわかには信じられませんでした。
 日本にジリジリと敵国が迫ってくるのも、本土決戦に誘い込んで一挙に彼らを殲滅する作戦なのだと教えこまれていたからです。それに、神国、日本を象徴する神風が吹くはずでした。

             

 やがてそれらが、大本営による根拠のない法螺話であることがわかってくるのですが、なにはともあれ、連日、空襲警報で逃げ惑うことからは解放されたのでした。

 長じて、この戦争の、とりわけ日本が関わりあった局面について考えるとき、やはり断腸の思いでいいたいことがあります。それは、その前年の1944年、太平洋上での日本軍の戦略拠点のほとんどを、米軍を始めとする連合国側に奪われ、逆に日本本土攻撃の拠点となるに及び、客観的に見ても敗戦必至という状態に及びながら、なぜその段階で「ご聖断」がなかったかということです。

          

 戦史を紐解くまでもなく、それ以降の日本はもはや制海権も制空権もなく、一方的な攻撃にさらされたのでした。
 もし、そこで白旗を掲げる叡智があったなら、その後の各地での玉砕(全滅)も、沖縄の地上戦も、ヒロシマもナガサキも、そして東京を始めとする各都市への無差別爆撃もすべては回避できたのです。
 おそらくそれらでの死者の総計は100万に及ぶでしょう。

 その意味では、1945年8月15日は、まったくもって遅すぎた敗戦記念日なのです。ですから毎年、私はこの日を複雑な気持ちで迎えるのです。

 今この国は、「戦前の」「強い日本」を志向する政権によって担われています。その憲法改正案は明治の欽定憲法同様、国家が国民を縛ろうとするものであり、それへの移行は「ナチを手本とする」といわれています。

          

 私はすでに述べたように、天皇や国家のために命を捨てろと教育され、68年前にその呪縛から開放されました。しかし、もう死語になった言葉ですが、いまなお「逆コース」という言葉が生きていて、再び国家という抽象物のために個人が消費される気配を感じざるをえません。
 願わくば、若い人々がその迷妄から抜け出て、人びとが得体のしれぬ名目(それらはしばしば正義や真理の看板を背負って現れます)のためにその生命を失うことのない世界を志向してくれることを願ってやみません。

 そしてそれが、過ぐる大戦で無念の死を遂げた幾千万の人びとの霊を慰め、そしてこれからの人類の生存ために参加することだと思うのです。

 

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