六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【なぞなぞ】これを言ったのは誰でしょう?

2013-05-31 11:05:52 | インポート
 あるところでこんな記録を見つけました。
 さて、これを言った人はだれでしょう?


         

 「近代の生んだ毒......。それはすなわち『国民国家』であり、『自民族中心主義』という意味に規定される『ナショナリズム』でした。この2つは、地図に黒々と、太い国境を引く思想でした。また時として、その国境を 外へ外へ、無理やりにでも広げていくのをよしとする考えでした。(中略) 他人(ひと)のことは言いますまい。日本人は一度、国民国家とナショナリズムという、強い酒をしたたかにあおった経験があります。皆さんこれからのアジア は、国民国家の枠、ナショナリズムの罠に絡め取られるようではいけません」


【回答】
 2006年5月26日、アジア各国の政府首脳や経済界リーダーを招いた国際交流会議「アジアの未来」に於いての現副総理兼財務大臣・A太郎さんの言葉です。
 評論は特にありません。

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一円玉の快楽 本は買ってみるもんだ!

2013-05-29 00:39:04 | よしなしごと
 ものの価値というものは、とりわけ商品などのそれは市場での相互の関係によって決められるといわれる。
 ようするに関係性の表象のようなもので、例えば、ある種の紙っ切れ(場合によっては電子化されていてそれすらもない)はその価値を主張しながら絶え間なくその価格を変動させ、ときに、1,000円、500円の乱高下を繰り返し、人びと(とりわけ大衆投資家といわれる人たち)をキリキリ舞いさせる。バブルの崩壊やリーマン・ショックも喉元を過ぎたのか、週刊誌は3万円台までと扇動し、アベノミクスという役者が得意満面で舞台の中央で大見得を切っている。
 
 しかし、その実体を欠いた机上の経済やマネー・ゲームはいつかきっと崩落する。それを割りきった上で、博打だと思って株や投資に手を染めるのならいいだろう。最後は「丁・半」の運任せである。
 いくら科学的と称するデータや確率計算を積み重ねても、人びとの思惑からスルリと逃げ去ってゆくものをあらかじめ予測できるものではない。

          

 まあ、いってみれば紙幣そのものも中央銀行が私たちに債務を保証して発行している紙っ切れにすぎず、その後ろ盾がなくなればなんの価値もない紙くずに堕するのだから「市販の」証券も同様に脆弱な基盤しかもたないのはむべなるかなだろう。
 かつて、買わねば非国民といわれて、そのへんの長屋住まいの庶民までが背負わされた戦時国債は、敗戦とともに一夜にして紙くずに化し、追い打ちをかけるように激しいインフレの嵐が人びとのもつ貨幣の価値を極端に無化していったのだった。

 しかし、そんな話をしようとするわけではない。
 本の話だ。

 Amazonである検索をしていたら、ついでに引っかかってきた本に平凡社のコロナ・ブックスシリーズ(B5変型判)で『唐九郎のやきもの』という本があり、その執筆者に私の先達に当たる人も加わり、またその監修は先般亡くなられた唐九郎の後継者、加藤重高氏だというのでこれは買いかなと思った。
 定価は1,524円だが、絶版とみえて中古品しかない。
 
 その中古の価格がまた千差万別で最高は3,733円から131円までの差がある。
 その差額30倍近くなので、よほど状態が違うのだろうなと思ってその「コンディション」の欄を見たら、3,733円のものも131円のものも、ともに「良い」とある。
 同じ「良い」ならやはり131円の方だろう。騙されたとしても大した額ではない。そこで注文した。送料、250円込みで総額381円である。

       
 
 で、来るのを楽しみにしていたら、そろそろ着きそうだという頃、Amazonからメールがやってきて、それには「当該商品はさほど良品ではないので、キャンセルにするか、あるいは1円に値引きするから送料ともで総額251円で購入するか、どちらかを選択してくれ」とある。
 1円?いいじゃないの、ここまで来たらもう引けないでしょう、買ってみようじゃないの、というわけで251円で購入と返事をした。

 それが届いた。
 そんな経緯があっただけに、結構スリリングな開封だった。
 そして、驚いた。
 確かに経年によるかすかなヤケはあるものの、ほとんど気になる程でもなく、おまけに発売時の読者宛のアンケートハガキまで入っている。
 ようするに、古本というより、いわゆる新古本に近い状態なのだ。

 125ページに及ぶ総グラビアで、唐九郎の名品の数々を中心としたいい写真がバンバン載っているのだ。
 これが1円?どうして?
 やはり最初に述べた、市場における関係性の問題なのだろう。

 私が若いころ、岩波文庫の1つ星が30円から40円だった。弘文堂のアテネ文庫も同程度の価格だった。
 これらが私が買った一番安い書物の記憶である。
 それを今回は大幅に更新した。
 これ以上はもうタダか、あるいは本を買うとお金がもらえることになるのだろう。
 子供の頃、本屋さんになったら好きな本がいくらでもタダで読めると夢想したことを久々に思い出した。

       

 ひと通り目を通したが、この本は当分手の届くところに置くつもりだ。
 ちょっと疲れた折など、アト・ランダムに開いて彼の作品を観る。
 志野も織部も黄瀬戸もみんないい。
 そして、それらを生み出した唐九郎という人物もまたやたら面白い。
 1円でこんな贅沢ができるなんて・・・・。
 
 奥付を見たら「1997年8月27日 初版第一刷」とありました。

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桐島、部活やめちゃってどうしたんだろう?

2013-05-27 01:45:15 | 映画評論
 これって無茶苦茶なタイトルだが、これしか思い浮かばなかったのだから許してほしい。もちろん、小説や映画の好きな方なら「ああ、あれか」と思われるだろう。ようするに、『何者』で直木賞をとった朝井リョウのデビュー作『桐島、部活やめるってよ』を映画化したものを観たという話である。
 言い訳になるが、別に朝井リョウが直木賞をとったからとか、この映画が昨年の日本アカデミー賞をとったから観たというわけではない。

       

 昨年の公開時に、見るべき映画のリストにしっかり入れておいたにもかかわらず、急な予定が入ってそれが果たせなかったもので、その折にはもちろん、これが日本アカデミー賞をとるなんて全く思っていなかったし(賞そのものにもさほど関心もない)、原作者が朝井リョウであったことも、その彼が直木賞をとるなんてことも全く知るよしもなかった。

 ただただ、この映画の紹介記事や様々な人たちの評価などからして一度観ておきたいと思ったのに果たせなかったのだった。
 だから、私の愛する名古屋の二番館、「キノシタホール」で上映中であることを知って、リベンジとばかりに観に行ったという次第である。

 高校生の群像劇である。
 それを同じ時間帯のそれぞれの登場人物が絡むシーンをオーバーラップさせてゆくような演出(同じ出来事を違うアングルから別テイクとして映し出す)のなかで、相互の関係性が明らかになり最後の大団円へと進行する。
 なかなかうまい演出で、そうした双方向というか複数の視点からのシーンが随所で活用されている。

             

 原作もそうらしいが、タイトルにまでなっている「桐島」が登場しないことが味噌だといってよい。この不在の存在をめぐって人々の織りなす関係が左右されるし、最後のシーンもその不在を核心としてすべての登場人物がそこへと求心的に動員される。そして、その各登場人物の関係性は、むしろ彼が登場しないことによって際立つのである。

 ちょうどこの映画を見る前の集まりで、最近諸高校での文系クラブ(文芸、演劇、新聞、歴研、社研、などなど)の著しい衰退ぶりについての話が出たところだったので、この映画での映画部の大奮闘には拍手を送りたいくらいであった。
 この辺りにはやはり映画人としての吉田大八監督の思い入れも投影されていることだろう。
 なおこの監督の作品では『?腑抜けども、悲しみの愛を見せろ?』(2007)を観ていて、その折も面白い映画を作る人だなあと思ったことがある。

              

 映画に戻ろう。
 ようするに、私の孫ぐらいの年齢の人たちをめぐる話であるが、本質的には私の若いころとさして変わってはいない。ただ、好きだとか、付き合うとか付き合わぬとかが、私たちの頃よりはるかに安易にストレートに公認されている昨今の事情を背景にしているのだが、率直にいって若干の羨ましさはあるものの、そうした状況が果たして豊かといえるのかどうかについては、つい疑問に思ってしまう。

 青春の欲望のはけ口が見いだせないまま、同じ所をめぐって逡巡し、それらの欲望の昇華(?)として、婉曲な表現や創作、想像につなげていったのが私たちの世代だとしたら、現今の文系部活の衰退の要因はもはやそうした遠回りが必要なくなった短絡現象なのかもしれないと思ったりもする。
 あるいはそうした遠回りの手段がはるかに多様化したからかもしれない。

 この辺りは、「動物化するポストモダン」などというイメージと微妙に重なるのだが、まあ、半世紀以上前の自分の青春と昨今のそれとを対応させて考えるのもかなりの無理があるといったところだろう。

 登場する俳優さんの一人、橋本愛という女性、どっかで観た人だと思ったら、朝ドラでおんなじような顔しておんなじような制服姿で出ている人だった。

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反復と出来事

2013-05-25 23:25:46 | よしなしごと
 以下は、かつて繰り返し、反復の中に微少な差異を湛えたようなポスト・カードを送り続けてくれた人宛に出した返信なのですが、先に載せた時間についての雑文にも関わるかもしれませんので、多少の加筆変更をした上で、ここに載せてみます。
 
       

 世界は反復に満ちています。
 朝昼晩は反復します。
 たとえば日本では春夏秋冬も反復します。

 そこにはさしたる変化もないように思えます。
 しかし、それらの反復のそれぞれが差異を含み、ある時それらが、もはや反復のうちでは抱え込めないものを生み出します。
 それをとりあえず、出来事といってみてもいいでしょう。

    

 私たちの紡ぎ出す言葉も、反復にしか過ぎません。つまり、誰かがどこかで使ったものでしかありません。
 なぜなら、誰も使ったことのない言葉は、言葉として流通することができないからです。

 だから、私たちは既存の言葉の反復の中で言葉を使います。むしろ、反復する言葉たちに使われているといっても良いのかも知れません。言葉が私をしゃべっているという意味でです。

    

 しかし、そうした反復する事象や言葉がはらむ差異が、ある時、何かを生み出したりします。それを、出来事一般、あるいは詩という出来事、文学という出来事といってもいいかも知れません。

 もちろん、それらは言葉の問題にに先行してまずもって自然や世界の反復を打ち破る出来事として出来します。
 しかしながら、反復に屈する人たちはそれがはらむ差異は統計上のぶれだとし、出来事を出来事として見ようとはしません。起こりうることは全て「想定内」で、もしそれから外れた事柄があるとしたら、まだ究明されたり処理されたりしていないからに過ぎないのだとします。本質的に新しいこと=出来事は既に起こってしまっていて、それ以降のことは反復に過ぎないとするのです。

 

 こうした反復の立場は、また制御の姿勢でもあります。これまでの反復をこのように制御してきたのだから、今後もそれが可能だとします。いわゆる安全神話がその最たるもので、反復が示す多少の差異は想定内の措置を講じる事によってことごとく封じることが出来るとします。

 反復のなかに差異を見ようとする人たちは、その差異が来たるべき出来事を懐胎していると思っています。新しいもの、全き他者、不可能といわれたもの、つまり、出来事が到来することを疑いませんし、それへと開かれてありたいと思っています。

  
 反復の中の差異、そして出来事を見続ける人たちは、反復するものたちやそれを言い表す言葉のまっただ中にあって、それを繰り返し記述し、そして再記述しながら、それらが醸し出す微少とも思える差異のなかから出来事が到来するのを嗅ぎとります。

 あなたのメッセージと、送ってくれるまさに反復と差異を表象するような何枚かのポスト・カードを観ながら、私が考えたことどもです。
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「は~い、時間ですよ」 時間を観るという話

2013-05-22 16:56:27 | よしなしごと
      

          哲学者は時間を思索する。
          物理学者は時間を計測する。
          音楽家は時間を奏でる。
          文学者は時間を綴る。
          歴史家は時間を整理する。

そして私は時間を無為に過ごす。
それどころか「小人閑居をして不善をなす」の類だ。

そんな私にも時間を観ることは出来る。
といっても大したことではない。時間とはあるものがなくなり、なかったものがあるようになることだから。

たしかに、かつて私とともにあった父母は幾ばくかの時間とともにいなくなった。
そして、かつては未来社会の想像の産物であったようなものがいまは眼前にある。
例えばPCなどがそれである。

 
            私が部屋の窓から見た時間 左は5月1日 右は21日 

時間とともに運動があるという。
これはたぶん、ここにあったものがなくなり、あそこになかったものがあるようになるということだろう。

時間とともに変化があるという。
しかしこれも、あるものに備わっていたあるものがなくなり、逆にあるものが加わったということだろう。

だから時間とは、あるものがなくなり、なかったものがあるようになることだろう。

ところで私はあるものである。したがって時間とともになくなる。
そして、これまでなかった新しいものがあるようになることだろう。
その新しいものがなになのか、残念ながらなくなってしまう私には知りようがない。

ついでながら、私の遺言を披露しておこう。
「ちょうど時間となりました。それでは皆様、サ・ヨ・ウ・ナ・ラ」
 (どこかの演芸館で聞いたような台詞だなぁ)

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雲は?犯人は? 多和田葉子さん『雲をつかむ話』を読む

2013-05-21 01:57:36 | 書評
       

 多和田葉子さんは前にも触れたがドイツ在住で、日本語とドイツ語の双方でその著作を発表している人であり、そしてこの標題作は、昨年発表された作者最新の長編小説である。

 「雲をつかむ話」というより「犯人」に関する話なのだが、かといって「雲をつかむ話」はこの小説全体を表すと同時に、ラストのハッと虚を突かれるようなオチ絶妙に呼応している。だから「雲」はこの小説の通奏低音のような位置にある。
 しかし、一貫しているのはやはり犯人の話なのだ。
 小説はこんなふうにして始まる。

 「人は一生のうち何度くらい犯人と出会うのだろう。犯罪人と言えば、罪という字が入ってしまうが、わたしの言うのは、ある事件の犯人だと決まった人間のことで、本当に罪があるのかそれともないのかは最終的にわたしには分からないわけだからそれは保留ということにしておく。
 後に犯人として逮捕された人と、それと知らずに言葉を交わしたことがこれまで何度かあった。どれも「互い違い」という言葉の似合う出逢いだった。朝、白いリボンのように空を横切る一筋の雲を見ているうちの、そんな出逢いの一つを思い出した。」


 これだけでもう私はドキリとする。私もまた、はからずも6人の殺人犯を知っていて、そのほとんどと親しくことばを交わしたことがあったからであり、今となっては忘却の彼方にあったそれらの思い出が、この書き出しに触れてまざまざと蘇ってきたからである。
 これは一般市民としてはかなり特殊な経験なので、たとえメモでもいいからいつか記しておきたいと思っている。
 しかし、多和田さんの小説はそうしたこととは直接関係はない。ただ、その冒頭に接して私の側が一方的に衝撃を受け、忘れていた記憶が一挙に広がったというまでのことだ。

 さて小説のほうだが、例によって時空の垣を縦横にこえて話は進むのだが、やはりキーワードは犯人である。作者本人と二重写しにされるような主人公は、行く先ざきでさまざまな犯人と遭遇する。なかには、犯人とその被害者とが相互媒介的でその境界すら不分明な話も登場する。

 そういえば、「マボロシ」さんという人物も登場する。一体誰なんだろうと読み進むうちにアッと気づいた。知る人ぞ知る花柳幻舟さんのことなのだ。そういえば彼女も犯人になったことがあったのだった。

 かくして多様な犯人が登場するのだが、やはり焦点は冒頭とラストで鮮やかに姿を現すフライムートという男であろう。彼と逢う、逢わない、逢わない、逢うという振り子のように揺れる主人公の思いが、ムソグルスキーの『展覧会の絵』での間奏曲「プロムナード」のようにこの小説の各エピソードをつないでいる。
 そして、飛行機に搭乗する部分から話は一挙に結末に至るのだが・・・。

 多和田さんの文章はいたるところでその想像の多様さによって特有の伸縮や振幅を見せる。しかしそれらは決して饒舌に堕することなく、小説のいわば縦糸ともいえる部分を膨らませ豊かな色彩で彩る。
 そうした部分を読んでいるととても心地よく、ああ、自分もこんなふうに書いてみたいなと思うのだが、もちろん無理であろう。それらは、単なるテクニックではなく、言葉と向かい合う彼女の基本的な姿勢に根ざすものだからだ。

 搭乗した飛行機のなかでのパスポート提示の際、「成田」のスタンプがあったばかりに別室で放射性物質の検査をされる話は、この小説が紛れもなく3・11後のものであることを物語っている。あまり話全体とは関係ないけれど・・・。


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【18歳未満は読まないでください】エロくてヤバイ話

2013-05-19 01:19:10 | よしなしごと
 ある公共の場所のベンチで、陽気に誘われるまま本を読んでいたら、少し離れた場所から、「ネ、ネ、これってヤバくない?」「ワ~、チョウヤバイ」という会話が聞こえた。数人の女子高生たちのスマートフォンか何かの画像を見ながらの会話である。
 「こんなん、私も欲しいなぁ」「どこで手に入るの?」などなどの話が続くところを聞くまでもなく、この「ヤバイ」が私などが若年の頃から知っていたある種のスラングと同等の用法ではないことはわかる。

         
                 紅梅の鉢植えに実がなった

 もともとのこの言葉は、盗賊やテキ屋などが隠語として用いてきたもので、「危ない」とか「要注意」だとかの意味であった。語源としては、古語の「弥危ない=ヤアブナイ」を早口で言った場合のものといわれる(他に諸説あるが、これが合理的なように思われる)。
 従ってこれは、明らかに否定的な状況に使われたものであるが、上の会話に見られるように、若者たちの今日的使用ではそのほとんどが肯定的で称賛ですらあり、一見、もともとの語義はすっかり失われてしまったかのようである。

         
                   エゴの木越しの青空

 どこでこんな転換が起こったのかは定かではないが、しかし、本当にこの言葉が持っていた否定的な要素はなくなってしまったのだろうか。
 ここからが私の思索というよりこじつけなのだが、自分ではそんなに間違っていないような気がする。

 ようするに、危険を意味する言葉が、なぜ称賛の言葉に転じたかなのであるが、この間に共通するものは、「予想外のことが起こりそうだ」、あるいは「起こってしまった」ということではないだろうか。
 称賛というのは予想外の事態を称える言葉である。もっと軽く考えるにしても「ネ、ネ、これって普通よりは変わっていて面白いね」といった意味合いだろう。

            
                   前のクマンバチとは違う子
 
 しかし、私流にもっと勘ぐって考えると、「それにどうしようもなく惹き込まれる」という意味合いもあると思われる。このどうしようもなく惹きこまれてしまうことを、少し小難しくいうと忘我の境地に惹き込まれ自分が規制できなくなるかもしれないということ、自己同一性の喪失というかアイディンティティ・クライシスに陥りそうということになろうかと思われる。
 従ってそれは「ヤバイ」、つまり危険なのである。

         
                   国産のハナミズキ(ヤマボウシ)

 なぜこんな連想(妄想?)に及んだかというと、嘘かホントか知らないが、つい最近、若い人たちはその性行為での絶頂近くの忘我の境地において、この「ヤバイ」という言葉を連発するというのを読んだからである。
 かつて、そのての小説などでは「行く(=逝く)」とか「死ぬ」とか表現されたもので、それらの言葉は自己同一性の喪失というかアイディンティティ・クライシスの危惧を告げるものであることはいうまでもない。

 従って、現今の若者流の「ヤバイ」のなかにも、かつての「危険だ」、「予想外のことが起きそうだ」という「原義?」がちゃんと生きているというのが私の推測なのである。

         
               葉はカラスノエンドウだが花が違う

 それが事実であるかどうか、若い人とそうした状況になって確かめてみたいのだが、私の年齢を考えると、そうした言葉を用いる若い女性が相手をしてくれるのはかなり難しいと思われる。

 いや、誤解しないでほしい。これは私の欲望のためにではなく、あくまでも「日本語の使用におけるその変遷」という「学術的」で崇高な問題にいかにしてアプローチするかという私自身の文字通り体を張ったストイックなまでの使命感に端を発するものなのだから。


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ダラダラッとした日記 5月16日の映画と音楽

2013-05-17 03:52:01 | 映画評論
 久々に名古屋へ出る。
 まず映画館へ足を運ぶ。
 ほんとうは、ケン・ローチの『天使の分け前』を観たかったのだが、それを観ていると夕方からのコンサートに間に合わないので、『カルテット!人生のオペラハウス』にする。
 映像は美しく、全編に音楽が流れているのは嬉しい限りだが、予告編で予想したとおりの展開で、やや予定調和的であるように思った。

         
                  熱田神宮 西門

 しかし、ここに登場する老人たちのさまざまな有り様は私の年代に共通するものがあり、その状況に思わず自分を投影してしまって、喜劇的な場面でもいくぶんシニカルな笑いにならざるをえなかった。
 ダスティ・ホフマンの第一回目の監督作品であるというのも売りの一つだが、この映画からだけでは彼の監督としての力量は判断できないように思う。
 最後の肝心のカルテットは歌われず、いきなりカーテンコールでそれを示唆するのはいくぶん残念だったが、あの老優たちに歌わせるには、口パクにしても無理で嘘っぽいものがあるから仕方がないだろう。
 エンドロールにオーバーラップして、映画に登場している実在の老音楽家たちの映像と、若き日のそれとが対比する形で出てくるのは面白い。

         
                  鬱蒼とした熱田の森
 
 その後、喫茶店で粘って読書。
 頃合いを見てコンサート会場の熱田文化小劇場へ。
 地下鉄の神宮西駅で降り、かなり遠回りになるが西門から入り、熱田の森を横切る経路で名鉄の神宮前駅の近くに出て、神宮前商店街沿いに熱田区役所と併設されている会場に向かう。
 もう半世紀も前、この付近で家庭教師のバイトをしていたことがあったが、その頃は随分賑わっていた神宮前商店街の現状は惨憺たるもので、名鉄からJRの駅に至る間で生きている商店は2割に満たないだろう。残っているそれも、なんとなく行きがかり上で残っているにすぎない感がする。

 児玉麻里 ピアノ・リサイタル。
 曲目は以下のとおり。

 モーツァルト:自動オルガンのための幻想曲 ヘ短調 K.608
 モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第9番ニ長調 K.311

 J.S.バッハ:イギリス組曲 第2番イ短調 BWV807
 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第14番嬰ハ短調 op.27(月光)

 アンコール  ベートーヴェン:エリーゼのために WoO59

          
                  神宮前商店街にて

 私としては、最初のモーツアルトの曲とバッハのものがよかったように思った。
 最初のものはケッヘル番号からいっても、最晩年も最晩年、亡くなる年の作品であり、一応、CDももっているのだが、いままでは聞き流していたようで、改めて曲の良さを知った。
 モーツァルト自身はそんな機械のためなんてイヤだといって渋々作ったらしいのだが、それにしては対位法をしっかり身につけてからの曲で、聴いていてもうんと奥行きがある。また、そのせいか、ところどころにバッハを思わせる部分もある。

         
                  神宮前商店街の裏側


 バッハの曲の面白さは言わずもがなであるが、今回、奏者の指の動きがよく見える位置にいたせいもあって、ピアノを弾くの「弾」は、同時に鍵盤の上で指が弾んだり弾けるという意味もあるように思った。それだからこそ、弦楽器と違って不連続な音の打楽器であるにも関わらず、ひとつひとつの音を明快にしながらもその音色に連続を醸しだすという「不連続の連続」ともいっていい音楽が生まれるのだろう。

         
                  JR熱田駅構内を望む

 最後の月光は、ベートーヴェンの全曲録音を手がけているだけあって自家薬籠中のものといえるが、気のせいか出だしはなんとなくやや淀んだ感があった。しかし、曲が進み第三楽章に差し掛かる頃には、舞台上のピアノ全体が咆哮するかのように迫るものがあって、心地よく曲は終わった。
 この曲の通称である「月光」はベートヴェンのあずかり知らぬところで事後的に付けられたのだそうだが、それが相当するのは第一楽章のみで全体としては「熱情」に劣らないほどパッショネイトな曲だと改めて思った。

 昼間の暖かさに比べて夜は冷え込んで、帰途の岐阜駅からの自転車はやや寒いほどであった。
 あちこちウロウロしたせいで、携帯の歩数計はもう少しで1万歩という数字を示していた。 




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人間という生物(3) 生きているという剥き出しの生をめぐって

2013-05-15 03:30:56 | 現代思想
 人間が生まれるということ、そして死ぬということの自然主義的な自明性がドンドン崩れ、そのことによって生死が明確になるどころか逆に曖昧模糊としたものになっていることは前回、前々回で述べました。

 しかし、生死とともにその中間で生きている過程に関しても、全面的な管理や監視が試みられます。それらを総称して「生権力」とか「生政治」とかいったりする向きがありますが、そうした小難しいことはおいといて、近未来に実現されそうなことを述べてみましょう。

         

 産み落とされた以降の話なのですが、例えば、ナノ・テクノロジーを利用した超小型の検出器を諸個人に装着させたり、あるいは体内に埋め込んだりし、中央監視局でキャッチしたそのデータをもとに、医療措置や投薬の指示なども行おうという未来像があります。
 ただしこれらは、あなた任せでなんとかしてくれることを意味はしません。
 逆に、これだけしてやっているのだから、自己の健康管理はそれぞれの責任において行うべしという自己責任論がついて回ります。

         

 ではこうした管理体制の増進によって人の病は減るのでしょうか。
 近年、医療は格段の進歩を遂げ、それに依って治療可能な分野が開けていることは事実です。しかしながら、人の疾患は減ってはいません。治療技術が進み、その分野が細分化されたり、あるいは新薬の開発により治療可能な症状が明らかになるにつれ、それに対応した疾患=病気そのものが増えているのです。
 例えば、かつては神経症と分裂症ぐらいの大雑把な区分けであった精神性の疾患は、今では〇〇症候群といったかたちで無数に分類され、それぞれ異なる治療と薬品が対応するのです。

 これらとはまた別の要因ですが、新しいウィルスがこれでもかこれでもかと次々に登場しています。

         

 薬の細分化について述べましたが、最近取り締まられるようになったいわゆるデザイナー・ドラッグは、もともとは従来の違法薬品の分子構造を少し変えてその規制を逃れようとするものでした。もう、「麻薬取締法」と「大麻取締法」では対応できない段階ともいえます。

 そうそう、前回述べた胎児の管理と関連するのですが、受精卵の段階で遺伝子操作を行なうことによって、親が望む外見や体力・知力等を持たせた子供のことをデザイナー・ベビーというのだそうです。親がその子供の特徴をまるでデザインするかのようだからですね。

         

 人間が人間という種を管理しデザインする段階にいたっているのがお分かりいただけると思いますが、これってやはり優生学の実践であることは間違いありません。
 これがいいことなのかどうかについてはあえてニュートラルに述べて来ましたが、これらが究極の生命管理、「誰が(どのように)生きていいのか悪いのか」に関することはいうまでもありません。

         

 これまで述べてきたことから、いわゆる「管理社会」の一段の発展をイメージされるかもしれませんが、実はそれとは次元の違う問題なのです。
 これまで語られてきた管理社会は、人の生活態度や習慣、思想や行動などを一定の規範で統制しようとしたもので、そこでの対象は人間の社会的な生き方であるビオスに結びつくものでした。
 しかし、ここ三回にわたってみてきた人間の生への管理は、社会的な人間のありようについてではなく(それはそれとして別途あるのですが)、それ以前の生物としての人間、いわば「剥き出しの生」としてのゾーエーに関するものなのです。

 普通は、もっと遅く生まれればよかったと思うものなのですが、こうした予測を考慮に入れると、早く生まれてよかったというべきかもしれません。
 もっと後ですと、私のような悲しい遺伝子の持ち主は、「不適格」と判定されたり、もしそれをかいくぐることができたとしても、在特会のデモ隊に試験官ごと踏み潰される可能性があるからです。


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人間という生物(2) その誕生と選別をめぐって

2013-05-13 03:29:49 | よしなしごと
 さて、前回は人間のみがその他の生物の品種に手を加え、そうした生物学やそれと関連する医学の発展の結果、人間という自らの種の改良や管理に手を染め始めたことを述べました。

 その最も忌まわしく野蛮なかたちが、全世紀の前半に行われたナチスの俗流優生学に毒されたユダヤ人殲滅の悪夢でした。
 こうした蛮行は一応、1945年のナチス・ドイツの敗戦によって終わったことになってはいるのですが、しかし、思想としてのそれらは決して終わったわけではなく、人種差別やそれによる排外主義はしぶとく生き残り、この国においても「在特会」(在日特権を許さない市民の会)などによる異常デモが、東京・新大久保や大阪・鶴橋などでは常態化し、そこでは「朝鮮人?首吊レ?毒飲メ?飛ビ降リロ」「よい韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「ハヤククビツレ?チョウセンジン」(新大久保)「鶴橋大 虐殺」(鶴橋)などが主張され、「殺せ?殺せ?朝鮮人」といったシュプレヒコールが繰り返されています。そしてそこには、つねに日の丸の旗が林立しているのです。

         

 実に恥ずかしいですよね。これが一部の愚か者の所業であってくれればいいのですが、こうした行為が、政府や与党幹部から公然・非公然に語られ始めた歴史修正主義的な認識と軌を一にしているとあっては、安倍総理の「あれはゆき過ぎだと思う」との発言にもかかわらず、その根っこのところでしっかり結びついている疑いも十分にあるのです。

 さて、そうしたあからさまなかたちではないものの、優生学的な発想による生命の管理はますます盛んになっています。
 妊娠時の胎児の男女の判定やそれによる産み分けに驚いたのは少し前のことなのですが、最近では、そうした胎児の染色体検査などによってその先天的な病気の発生要因なども指摘されるようになり、排除と選別が行われるようになっているようなのです。

         

 それどころか、妊娠以前の、着床前遺伝子診断により、その遺伝子を与えられる子どもたちがどのような健康上の運命に遭遇するかがその遺伝子チップによって読み取れてしまうというのです。
 現在でも、病気として発症する以前の予防医学というものがありますが、将来のそれは、いわゆる遺伝子アナリストによって担われることになるかもしれません。
 なんか、明日はどこそこで火事があるというので、あらかじめ消防車が先回りしている感がありますね。

 そして、それらは、どの子を産んでいいのか、どの子は産んではいけないのかを事前に選択排除できることを意味します。かつて、ハンナ・アーレントは、「不遜にも、誰が生き、誰が死すべきかを選別した」といってナチのホロコーストを非難しましたが、今や、「誰が生まれるべきで、誰が生まれるべきでないのか」の判断は、ナチのような大掛かりな収容所など必要とはせず、試験管のなかで行われるのです。

         

 このことの是非はとりあえずはいいますまい。しかし、この事前管理の徹底は、種の選別以外の何物でもないことは確かです。先に見た「在特会」が、そうした管理機関に日の丸を林立させてやってきて、「〇〇は産むな~」「〇〇は事前に抹殺せよ~」とデモをかけるのは考えすぎの悪夢でしょうか。

 こうした出生時の選別に対するカウンター・パンチとして、私たちはある痛烈な皮肉を込めた小説をもっています。それはいうまでもなく、自分がいつ、どこで、誰を親として生まれてくるのかこないのかを自ら判断する胎児の話を描いた芥川龍之介の『河童』です。

 これに関連した話まだ続きます(たぶん)。
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