六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

もって回った言い訳はするんじゃないよ!みっともないぜ!

2023-08-30 15:57:24 | よしなしごと

 列車などの駅といところは、駅舎や駅の構造に興味がある「駅鉄ちゃん」でもない限り、そこ自体へ行ってゆっくり過ごすところではない。時折、接続時間の関係で一定時間止められることもあるが、それは不本意な事態である。大抵は必要な箇所へ出かけるための通過点、中継点として通り過ぎる場合が多い。
 
 ましてや、その駅への到着と、そこからさらに行くべき目的地への集合時間が決まっている場合など、急いでその場を離れる必要がある。

          

 先般、名古屋へ出かけた折もそうであった。ただしその折には、万札しかもっていなかったので、その会費(正確には二次会費)の支払いで迷惑をかけないように両替をする必要があった。


            

 駅構内にあるATMでそれを行い、千円札は無事ゲットした。では、硬貨への両替はどうかと千円札を入れて試みたがダメだった。操作違いかなと思いもう一度試みたがやはりダメだった。


      

 そんなことをしているうちに、集合時間はドンドン迫ってる。硬貨は諦めてその場を去り会場へと急いだ。なんとか会には間に合い、三時間にわたる読書会を済ませ、二次会へと移った。
 話は弾み、宴たけなわであったが老齢の身、岐阜までの帰路も考え、途中で失礼した。そこまでの概算の支払いも、両替のせいで無事に済ますことができた。

 翌日の午前であった。行きつけの銀行の名古屋駅前支店からという電話があった。名古屋駅前支店?う~ん、行ったこともないところからだ。最近、この種の電話であからさまな詐欺があるので身構えながら聴いた。
 電話の主はいう。「昨日、名古屋駅構内のATMをご利用なさいませんでしたか?」「ハイ、利用しましたが・・・・」「その際お使いになったカードはお手元にありますか?」と電話は続く。

      

 えっえっえっ・・・・慌てて確認してみる。ないッ、ないのだ!
 「やはりございませんか。お客様のカードはそのATMに残されていました。お取引きの支店は岐阜の〇〇でしたね。そちらの方へお送りいたしますので、連絡があったらとりにお越しいただきたいのですが」
 お越しいただきたいも何も、すぐさま手にしない限り安心できない。
 「ハ、ハ、ハイッ」と応える。

 翌日、岐阜の〇〇支店から電話が。身分証明ができるものを持参し、とりにでかける。受領書を書くのみで返してくれる。
 「異常や損傷がないかATMで確認してください」とのこと。二つ返事で確認。正常に作動するし、なによりも安堵したのは残高にまったく異常がなかったことだ。
 窓口に引き返し、その旨を報告し、併せて、「これを拾得したり、届けてくれた方の連絡先はわかりませんか?お礼の意思表示をしたいのですが」と尋ねる。「いいえ、それはそのATMの管理者からなので特定の誰かはわかりません」とのこと。

 納得して帰途についたが、まったく冷や汗モノの一幕であった。虎の子の預金が無事であったのが何よりだ。
 言い訳けをするなら、万札から千円札への両替は何度もしていて、この場合はカードの箇所に警告灯がつき、カードを抜いた後に両替分のフタが空くようになっている。しかし、千円札を入れて硬貨へのそれを試みた際には、ただ拒否するようにフタが空いて元の千円札がそのままになっている。だから、そのまま千円札を回収してその場を去ったわけだ。

 とはいえ、カードを入れて暗証番号を打ち込んでそれを待ったのだから、カードのとり忘れは明らかにこちらのミス。どんな言い訳も通用しない。いまさら老いを嘆くような境界をもとっくに過ぎているので、改めてそれのせいにせず、ただおのれの不用心さを戒め、今後の教訓としたい。
         

 ただ、これを述べるためにわざわざ駅の機能などから説き始めるなんて、言い逃れをしたい不届きな心情が見え見えだなぁ。

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あんたイッタイなに撮ってるの?

2023-08-27 11:15:53 | 写真とおしゃべり
 この歳になると、10日も日記やブログを書かないと、「あいつもとうとう逝ったか」とか、「もう表現する能力もなくしたのだろう」と思われるのは致し方ない。
 この間、実は他の用件で多忙だったのでなにも書かなかったのだが一応、生きていることを立証するために、どうでもいいことを書いておこう。

 外出した折でも、あるいは自宅でも、これはという折には割とこまめにスマホの写真を撮る方である。ちょっときれいかなと思うものや、ある種の情報を含んだものは文章とともにSNSやブログの記事にする。
 もちろん、使われない写真も数多い。

 放おって置くとやたら写真が増えるので、時折整理をする。その時点で、自分で撮っておきながらなにを撮したのかよくわからないものもある。

 撮した日時やだいたいの場所は記録で特定できるので、それを頼りに想起する。なかにはできないものもある。
 徒然に、それらを書き出してみた。

           

 最初はこれ。なに撮したんだろうなァとよくみたら、川辺にいたお歯黒トンボだった。
 距離があったためこの大きさ。目を凝らさないとわからない。

     

 次はこれ、なんかグロテスクなドテッとした形。これはすぐわかる。子供の頃から田舎でよく見かけていたから。
 以下のようなお茶の実である。
 ところで、このお茶の実って、なにかに用いることができるのだろうか。
     


          

 これは見ての通り、コイル状の散水ホースのようだ。面白いと思って撮ったのだが、どこでだったかがもい出せない。多分かつての散歩の途中。

          

 単なる草むらを撮したもののようだが、よく見ると黒猫がいる。これも距離が遠い。動き出さないかと待ったが、全く動かず、こちらが根負けしてその場を離れた記憶がある。

          

 これはつい前日、自宅で撮ったものだ。狙って撮ったわけではなく、気がついたら写っていた。どうやら誤ってシャッターに触れたらしい。
 それにしてもなんなのかがわからない。そこでSNSに載せて「なんでしょう?」と尋ねたら、蛍光灯を包む紙の筒っぽではとの示唆が。
 うむ、そういえばその近くで物を探していたとき、近くにスマホを置いた。そのときにシャッターに触れたのだろう。
 指摘を受けて、改めてその場所を確認して収めたのが下の写真。
          


          

 最後も誤ったシャッター操作の結果だと思うが、なんのヒントもないし、さっぱりわからない。私の解釈では、太古の昔、宇宙創生のビッグバンに立ち会った折、その一隅を捉えたものだと思っている。

 

 
 
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【最近の不思議な日本語】「スピード感をもって・・・・」

2023-08-18 11:25:58 | よしなしごと
最近、よく政治家などが使うのに「スピード感をもって対処する」という言葉があり、とくに岸田内閣によって多用されているように思うが、これがよくわからない。
「スピード感」というのが「スピードを感じる能力」であるとしたら、それは大抵の人がもっていて、新幹線に乗れば早いと感じたりする。
また、それでもって自他の行為の速さや遅さを感じたりもする。例えば私は、自分の行動能力が日々遅くなるのを感じている。
「スピード感をもつ」というのは一般的にいってそういうことだと思うが、政治家たちがそれを使う場合には「急いで」を含意するかのようであり、それを聞かされる私たちは、「ああ、急いでそれを実行するのだな」と思い込んだりする。
           
しかしそうならば、「スピード感をもって」などともって回った言い方をしないで、「急いで行います」といえばいいのだが、にもかかわらず彼らは「スピード感をもって」を多用する。
なぜだろうかと考えるに、彼らはこの「スピード感をもって」と「急いで」との間にある差異を巧みに利用しているのだと思う。
どういうことかというと、国民にとって緊急な課題でも、「スピード感をもって」といっておけば、それが実行されなかった場合、「スピード感をもって」行ったができなかったという言い訳を差し挟む余地があるからであり、実際にそうなっている場合がとても多い。
「スピード感をもって」進められたマイナカードを巡る一連の失態はその典型であるが、ただし私はこの場合は「スピード感をもって」その失態を繰り返し、遅々として進まないどころかマイナカード並びにその制度そのものがポシャってなくなってしまえばいいと思っている。
家畜の耳にチップを取り付け、それでもってそれを管理するように、そのカードでもって国民の情報を一元的に管理することに、私は反対だからである。
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敗戦記念日と嵐と生活者の営み 〈付〉8・14の日記

2023-08-15 14:53:43 | よしなしごと
台風七号、岐阜地方は強風は免れたようだが朝から激しい雨が続き、午前九時には高齢者避難指示が出された。どうやら私も含むようだ。
しかし、やがて雨もその勢いを減じ、風が目立つようになった。それほど強風でもないのだが、乱気流風でどちらから吹いているのか見当がつかず、傘をさしてうっかりしてると、おちょこになりそうだ。
なぜそれがわかったかというと、近くにできたコインランドリーへ洗濯物の乾燥のみをするためでかけたからだ。避難指示の対象の老人がのこのこ出かけることもあるまいと思われるかもしれないが、洗濯物をちゃんと乾燥させるのは生活者に必要な行為なのだ。

78年前、国民学校一年生だった今日は日本が敗戦を認めた日だ。今日と違い、朝からカンカン照りであった。裸同然で遊び回っていたのを母が呼びに来て、これから天皇様のラジオ放送があるからと、ズボンと白いシャツを着せられた。
正午近く、疎開先の母屋や、ラジオのない近所の住民も含め、二〇人近くが床の間に鎮座せしめられたラジオの前に正座して待った。


初めて聞く現人神、天皇の声はキンキンしていてチューニングの悪いラジオでは聞き取りにくく、おまけにやたらもって回った漢語が多くて、近くのお宮さんの神主の祝詞に似ていると思って聴いた。
母屋の近くの木立では、せわしない蝉の声が響いていた。
  
     玉音にわれ関せずと蝉しぐれ  六

【付】8月14日の日記から
【新聞に思う】
今日は「朝日」の休刊日。今までだと、その分の記事をややボリュームのある夕刊が伝えてくれたが、五月以来、その夕刊もなし。
夕刊廃止にもやっと慣れたが(当初は「今日は遅いな」などと思ったりした)、廃止当時、これまでの記事は朝刊でカバーしますといっていたが、夕刊に多かった文化欄系統は朝刊からもほぼ消えた。   
        
一番困るのは映画情報で、これまで金曜日夕刊で、著名作品、ミニシアター系のものなど合わせて10本ぐらいの映画を紹介していたが、今や金曜日朝刊の映画欄は二作品ほどで、しかも内1つはスター中心の紹介で、全体として貧弱きわまりない。
これまであったマニアックな作品の紹介はまったくないから、ミニシアター系の上映館への影響は大きいと思う。
紙媒体の凋落は、それ自体にとどまらず、文学なども含め、けっこう周辺の文化を巻き込んでゆくのではないだろうか。


 

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村上春樹初体験 最新『街とその不確かな壁』を読む

2023-08-11 10:31:51 | 書評

 村上春樹の小説はほとんど読んだことはない。別に嫌いな訳ではない。好悪を語る以前の問題でとにかく読んでいないのである。
 なぜ読まないのか。それは単純で、あまり人様が騒ぎ立てるものには近寄るまいという反骨精神によるものである。それでも、騒ぎが収まった頃、そっと読んでみるということもあるのだが、彼の場合、ハルキストとかいう人たちが、かつてPCのニュータイプが発売されるや前日から並ぶという儀式まがいのものとほぼ同様の騒ぎを見せたり、ノーベル賞に際しては、まるでプロ野球のドラフト指名候補選手が待機するような集団行動が見られたりで、騒ぎが継続し、彼を読むことはその騒ぎに加担するかのような恥ずかしさを覚えざるを得なかったのだった。

 しかし、村上春樹も70歳を過ぎ、大谷翔平に人気を奪われたのか(んなわけないか)、それともハルキスト自体が老齢化し疲れが出たのか、そんな騒ぎも最近は少し収まったようなのだ。それが証拠に、私がいつもゆく図書館の新刊コーナーに彼の新作があったのである。これまでならそんなことはなかった。刊行と同時に予約が殺到し、それを考慮して図書館側も複数冊を用意して備えるのだが、ちょっと遅れて予約をしても何ヶ月待ちが通例であったという。
 それが、今年の春発刊のものが、図書館の手続きを終えて、借り手の予約もないままに新刊の棚に並んでいたのだ。でもって、それを借りてきた次第。

           

 『街とその不確かな壁』がそれ。著者のあとがきによれば、これは当初、1980年、「街と、その不確かな壁」というやや長い短編小説として雑誌「文學界」に載せたものだが、その際も、それ以降も納得できないまま、彼の書いたものでは唯一単行本化されないままでいたものを、40年を経た2020年からリライトをはじめ、650ページ超の長編に仕上げたものである。
 実際のところ、私自身の年齢もあって、これだけのボリュームのあるものを読むのにはかなり精力を消耗する。

 小説は、実体と影、リアルと夢幻、動と静寂、生と死などの二項対立を背景に、時としてはその対決、矛盾、和解、共存などを描写してゆく。第一部、第二部、第三部(これは短い)からなっていて、二項対立からいえば第二部が実体、リアル、動、生の世界で、第一、第三がその逆といえる。
 しかし、現実にはその相互は固定されておらず、第二部のリアルな世界にも、特定の人にしか交流不可能という幽霊がかなり重要な存在として出現する。

      

 そして、その相互の世界はある種の人たちにとっては行き来が可能なのであって、実際のところこの小説は主人公がふとしたはずみで幻影の世界へ赴き、そこで「夢を読む」図書館に通いながら(第一部)一定期間後そこから現実世界へと帰還し、今度はリアルな図書館(それ自身いくぶん怪しげな図書館ではあるが)に勤務するのだが(第二部)、そこで出会った不思議な少年の失踪と絡んで再び幻影の世界への姿を表し(第三部)そして・・・・というストーリーなのである。

 あ、肝心なことをいい忘れたが、タイトルの「不確かな壁」をもった「街」こそが、この第一部、第三部の舞台となる針を持たない時計台を持った静謐な夢幻といくぶん活力を欠いた静寂な「街」であり、「不確か」とはいえ、通常は乗り越え不可能な城郭都市のような「壁」に囲まれた「街」なのである。
 門はあるのだが、そこにはカフカの「掟の門前」よろしく、いかめしい門番がいて、その行き来を阻み、主人公は当初、その門番によって自分の影を引っ剥がされることによってやっとその街の住人になるのだ。

      

 結局、主人公は、不可能といわれたその街を脱出することによって第二部の「現実の」世界へ至るのだが、その方法は書くまい。実際のところ、第三部においても主人公はこの「街」から脱出を図るのだが、その方法はまた当初と異なっている。
 こうしたパラレルワールドともいえる二つの世界を、主人公は行き来するのだが、それは浄土宗のいう浄土と俗世との往相と還相のようでもある。ただし、どちらが往相でどちらが還相であるかは読者の判断に委ねられるだろう。

 たった一冊の読書で、村上春樹について云々することができるとは思わない。まあしかし、ワンダーランドへの導入とその展開は独特で、村上文学の片鱗に触れた思いがしたことは確かである。

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映画『ひろしま』 戦後の息吹が伝わる・・・・

2023-08-07 14:21:45 | 映画評論
 この時期、皆様に見ていただきたい映画『ひろしま』。1953年のものです。
 
 
 監督は関川秀雄。
 
 岡田英次、月丘夢路、山田五十鈴など往時のそうそうたる俳優が、汚れ役で登場します。
 音楽はこの翌年『ゴジラ』でやはり音楽担当をする伊福部昭。何となくその繋がりもわかります。
 
 
 ラストシーンをみると、CGのない頃、この膨大な民衆が熱気を込めて実際に参加していた事がよくわかります。
 
 投下後、8年、その凄まじさがまだ物語や歴史になってはいない頃の映画です。
 
コメント (6)
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