六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

神出鬼没のアングラーからいただく今日のトレトレ!

2023-09-27 17:56:57 | よしなしごと
 SNSでのお友達に、乗り鉄さんにしてアングラーの方がいる。ここしばらく、三陸鉄道の記事を楽しませていただき、昨夜もコメントまで書いた。

 その方からの電話で、「越前釣行の帰途だが、おすそ分けを」とのこと。え、え、三陸では?しばらくしてチャイムが。紛れもなくその方が。「三陸では?」とお尋ねすると、帰ってからとんぼ返りで越前の海へ}とのこと。なんという神出鬼没!

 ところで頂いたのは40センチ超えの真鯛と鯖。間違いなく今日獲れの文字通りの鮮魚。鯖なんか、死後硬直状態。

         

 さてどうするか?鯛半身は刺しであとの半身は巧いレシピを考えよう。鯖も半身は〆鯖でとその用意。まずは三枚におろしたっぷりの塩で塩じめ。出てきた水を捨て、さっと水洗いしてキッチンペーパーで拭き、そのままくるんで24時間の冷凍。

 これはアニサキスによる中毒防止対策。このアニサキス、近年とくに増え、昨年の日本での中毒は2万件という。

それにこれ、地球温暖化と関連があるといわれる。かつてはそんなこと気にせず、刺し身や〆料理を楽しめたのに、ヤナ世の中!

ぐちはともかく、お陰でわが家は、今夜は鯛刺しをメインとしたご馳走、そして明日は、白茶けていない赤身が残る〆鯖の大ごちそう!
 
 何はともあれ、神出鬼没のアングラーさんに感謝を!
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夏から秋へ 変わりゆく私の昼麺物語

2023-09-26 16:50:46 | よしなしごと

「暑さ・寒さも彼岸まで」の言葉通り、お彼岸をすぎて少なくとも朝夕は涼しくなった。
 私の昼麺体験もここへ来て変わり目を迎えつつある。

        
 
 まずは今季最後の「冷やし山かけ蕎麦」。最後のといっても、「山かけ蕎麦」自体は、私の数少ないレパートリーでもあり、好みでもあるから、まだまだ続くが、「冷製」のものはこれが最後だ。これ以後は、温かいつゆのものになるということだ。
 量的に物足りないと思って、チクワを添えてみた。

        
 
 ついでは、春の終わり以来の温かい麺類だ。「天ぷら入り五色うどん」と勝手に命名している。何のことはない、昨夕の余った天ぷら(椎茸と小海老)に、ありあわせのアゲとチクワ、それにネギを添えただけである。
 しかし、これだけ具が揃うと、食感にも差異があって食べるのが楽しい。

 もう冷たい麺はこれで終わりだと思っていたら、ヒヤムギがあと2回分ほど残っていた。昼の暑そうなときに食べなければ・・・・。もっとも、ソウメンのニュウメン風のように、ヒヤムギを温かい出汁で食べたっていいのだが。
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「詩的な生へ」と「キャンセルカルチャーの恐怖」ここしばらくに読んだ書二冊から

2023-09-24 14:33:18 | フォトエッセイ
 読書のスピード、読解力の衰えは否めないが、でも細々となにがしかは読んでいる。
 以下は最近読んだものから。

            


1)エドガール・モラン『知識・無知・ミステリー』 訳:杉村昌昭  法政大学出版

 著者は現在102歳の社会学者・思想家。この書はその95歳の折のもの。
 そこに書かれたいたものは実に総合的なもので、その基本的な視点の展開(古来よりの哲学者の思惟の発端である対象への驚き)から始まり、ビッグバンによる宇宙の始まりへの考察、地球の誕生からその変遷の過程で生命が誕生し、さらには人間の登場を論じ、精神を考察した後、人間以後、つまりポストヒューマンに触れて終わる。

 200ページほどの書だからこれらが厳密に論じられているわけではない。その考察の視点はディアロジック(対話的論理)と称するように一つの固定した視点からのみならず、複眼的に語られる。
 
 この膨大な宇宙の始原から人類の行く末までの考察の行きつくところを簡潔に述べておこう。それは、19世紀以降の人間がそうであるような、「科学/技術/経済」の三位一体への信仰の轍を脱しなければならず、そのためには「散文的な生」から「詩的な生」への主体性の変換が必要だということである。
 そういえば、この書の展開する対話的論理も、論理的な=散文的なものと詩的なシャーマニズムやエクスタシーとの対話としてなされている。

            


2)アベル・カンタン『エタンプの預言者』 訳:中村佳子  KADOKAWA
 
 これはフランスの小説家。弁護士と作家という二足のわらじを履きこなしているようだ。これは二作目だという。
 このタイトルはこの小説の主人公で著述家でもあるジャン・ロスコフが著した著作の題名でもある。その対象とした人物は、戦後のアメリカのジャズミュージシャンであり、共産党員であり、黒人でもあったロバート・ウィローで、彼は40年代後半から始まった赤狩りのマッカーシズムを逃れて、1950年代はじめフランスへ亡命する。フランスのパリで彼が落ち着いたところがエタンプという街でありタイトルの「エタンプの」というのはそこから来ている。

 このウィロー、フランスではサルトルなどの周辺に居つきながら、その晩年にはフランス語で二篇の詩集を書いている。しかし、60年のはじめ、車の運転中にその操舵を誤り、街路樹に激突してその生を終えている。
 このウィローを伝記的にまとめて世に問うたのがこの書の主人公、ジャン・ロスコフであった。

 実はこのロスコフ、それ以前に原爆開発に関わったアメリカのローゼンバーク夫妻がソ連のスパイとして囚えられ、死刑に処されたのを対象にし、それがマッカーシズムのでっち上げで無罪であったとする書を著している。しかし、その出版後の1989年、ローゼンバーク夫妻が実際にソ連のスパイであったことが立証され、面目を潰した経歴がある。
 それだけに今回の書については慎重に慎重を重ねて著したといってよい。

 にも関わらずである、この書についてあるクレームが付き、それがネットで拡散されることとなる。ロスコフが描いたウィロー像において、彼が黒人であったこと、そしてそれによる彼の立ち位置などについての関心がとても希薄だという書評がそれだった。ロスコフは、たしかにそのとおりだが、それよりも、彼がコミュニストであり、音楽や詩においての表現者であったことが重要な要素だとして、その書評を退けた。

 しかし、その後の大勢は、最初の書評の線に沿って進み、ネットへの書き込みは白人中心主義の黒人差別であり、「レイシスト」とレッテルを貼るものまで現れた。こうした刺激的な言葉がネットを熱くする。それらは日を負うに連れて燃え上がり、いわゆる炎上状態に至る。いわゆる「キャンセルカルチャー」の荒波に囚われてしまったのだ。
 
 彼の書を読みもしない連中もが尻馬に乗り、彼を罵り、ついには住居のドアを壊されるに至る。さらには、別途居を構える彼の娘が襲われたりもする。彼への支援がもっとも必要なときなのだが、逆に、これまで彼に好意的であった人たちも離れてゆく。類焼を恐れたためである。
 彼は、なすすべもなく立ち尽くす以外にないのだが、やがて、彼の動向とは無関係に非難の波は弱まってゆく。

 決して彼が容認されたわけではない。彼がもはや瀕死の状況であることを見極めた連中が、新しい攻撃目標を見出し、そちらへと移行していったからだ。悪夢は去ったかのようだった。

 そんなロスコフのところへ、彼が書いたウィローの甥という男が現れる。そして、ウィローについての真相を明かし始める。それによれば、彼が黒人であったかどうかを超えて隠されていたある事情が明らかになってくる。そしてその死の真相も・・・・。
 このどんでん返しの詳細は述べないが、ロスコフは、ローゼンバーク夫妻を擁護したときと同様のしっぺ返しをされていたのだ。キャンセルカルチャ-の連中すら知らなかった事実によって。
 時代の変遷は残酷である。真実と思われたものが、ある日まったく違った様相へと逆転する。

 20世紀のそれはヒトラーとスターリンに代表されるかもしれない。しかし、ヒトラーの方がやや単純であるのに、スターリニズムの闇は深い。ロスコフの描いたウィローも、そして、それを描いたロスコフそのものも、その闇を見間違えたと言えるであろう。
 それにしてもキャンセルカルチャー趨勢は当分続きそうである。

キャンセルカルチャー
 典型的には、芸能人や政治家といった著名人、また一般の個人を対象に、過去の犯罪や不祥事、不適切な言動とその記録を掘り起こし、大衆に拡散して炎上を誘って社会的地位を失わせる運動や、それを良しとする風潮を指す 。 2010年代中頃からアメリカ合衆国を中心に全世界に拡大した。(wiki による)

私もこの書に描かられたローゼンバーク事件とはまったくの無縁ではない。
 1957年、大学入学後の演劇部で、最初にとりあげたのがこの夫妻の往復書簡を戯曲にした「愛は死をこえて」だったからだ。いわゆる正統左翼=日本共産党にいろいろ疑問を持ってはいたが、このローゼンバーク事件はアメリカCIA のでっち上げ事件だと思っていた。
 1989年前後に、彼らが実際にソ連のスパイであったことがソ連当局の資料によって公表された時、一瞬、目眩に似た衝撃を覚えた。
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食二題 昼麺とお彼岸のお三時

2023-09-23 15:16:06 | よしなしごと

【今日の昼麺】 まだまだ暑い。そこで冷やしうどん。農協で、7個入りスダチを100円でゲットしてきたので、その一個を薄く切って乗せる。

 涼味と同時に、柑橘特有の香りが立つ。口に含むと程よい酸味がこれまたありがたい。麺も程よく茹で上がり、美味しくいただきました。

【お彼岸のお三時】
 農協の朝市で野菜を買ってきたついでに、草大福(4個入り250円)を買ってきた。甘いものを買うのはめづらしいが、桜の葉で包んだ桜餅と草餅は好きなのだ。
 
 桜の方は、子供の頃、亡父が外出帰りに土産で買ってきてくれた。
 草餅の方は、それより前、疎開先で餅米が手に入ると亡母が作ってくれた。
 この2つの餅は両親の思い出につながる。お彼岸のおやつにふさわい結果となった。
 
 製作者は私のところから二つほど離れた集落の、日比野六二さん(ムニさん?それともロクジさん?)
 いづれにしても、あんこの甘さ控えめで、おいしかったよ。
     
      
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名古屋、今池のお祭りに行ってきた!楽しかった。

2023-09-20 01:33:38 | 写真集

 毎年この時期に行われる名古屋今池の祭りは、1989年、私が第一回の実行委員長を努めた懐かしい祭りである。そのせいもあって、ほとんど毎年顔を出している。今年も2日目の18日に出かけた。

 この祭りは、当時、「今池は雑然としているからダメだ」と言われていたのを逆手に取って、「じゃぁ、その雑然を全部展開して見せようじゃないか」といことで始まっただけあって、街中に広がった多くの会場で、同時多発的に何かが行われえいるという面としての街全体が沸き立つような祭りである。
 メイン会場というのは一応あるが、そこだけ観てもこの祭りの良さはわからないだろう。

 そんなわけで、私の記載も、私がたまたま歩いた軌跡上で出会ったもので、とても全体像とはいい難いものである。

 まずは、恒例の今池プロレスとそのリング上で行われる結婚式。私が行った際には、式も後半で、新郎新婦を囲んでの乾杯シーンと、その後の大観衆に急き立てられてのキッスシーンしか観ることができなかった。

      
      

 続いて、私の古くからの友人、加代子さんが関わり、その息子さんがリーダーで、お孫さんも参加という「ドラゴンイウバーズ」というキッズバンドの演奏を聴く。この懸命に歌う子どもたちの表情が実にいいのだ。
 つい、たくさんの写真を撮ってしまったのでそれらを載せる。

      
      
      
      
      
      
      

 このバンドの録画も撮ったので、載せておく。歌詞をよく聞くと、自分たちが出会ったものすべてに「ありがとう全部」と言っているのが聴き取れる。たとえそれが困難なものであっても、そのおかげで分かってくるものがあるのだと言うわけだ。コロナでさえも。

 https://www.youtube.com/watch?v=9keMGjd2OOU

 こんな売店も。
      

 これは大道芸人のピエロのマジック。

          


 メイン会場の夕刻。地元のバレーボールズの演奏。リーダーは「ライブハウス得三」のオーナーにして今池祭り実行委員長の森田氏(黒いTシャツ)。サックスはゲスト出演者のうつみようこさん。

      
      
      
      

 続いては、この7月に閉店した書店、ちくさ正文館の店長だった古田一晴氏主宰の舞踏や映像などを総合したパフォーマンスから。

          
          
     

 最後に、ちょっとだけ覗いた小規模な各種ライブでの映像。みんな楽しそうな表情だ。
      
      
      
      
      
 
 楽しかったが、ずいぶん足腰に来て疲れた。もし生きていたら今後ともこの祭りに来ることができるよう、養生を欠かさないようにしなければと、改めて思った次第。



 
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先週末の夕焼け 同時刻東西焼け比べ

2023-09-18 11:56:35 | フォトエッセイ
夕焼けが西の空というのは思い込み。西へ沈む陽の赤らむ様は、東の雲をも彩り、程よく染め上げる。
これが、今夏の終わりを告げる夕焼けになってくれればいいが、今週もずっと暑い日が続くようだ。
今日は午後から、名古屋今池まつりに出かける。
 
      
                まずは東の空
      
      
                 西は・・・・
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奥美濃寒水(かんすい)白山神社の掛踊=ユネスコ無形文化遺産を観る

2023-09-12 17:29:41 | 催しへのお誘い

 九月九日「重陽の節句」、古来、菊を嗜む日とするがそれは旧暦のこと、新暦ではやや早いと地区のサークルの人たちとともに、奥美濃寒水(かんすい)白山神社の掛踊を観にでかけた。
 郡上八幡からさらに20km近く北東へ分け入った山間部におおよそ三百年前から伝わるというここの秋の祭礼への奉納踊りは、昨年、郡上踊りなどとともにユネスコ無形文化遺産に指定されたものである。近くの郡上踊りは従来より有名で、ここの掛踊りもそのバリエーションぐらいに誤解されるかもしれないが、まったく異なる。その違いは追って説明しよう。

       

 夕方までの踊り見物、ここは10年ほど前にも訪れているが、人家が散財する農山村で、飲食店やコンビニなどはまったく存在しない地域である。したがって昼食や飲み物は用意してゆかねばならない。そこで、その事前調達で、目的地に一番近い長良川支流の吉田川沿いに走る国道472号線沿いにある道の駅・明宝(別名、摺墨=するすみの里)でそれらを求める。

      

 この道の駅がなぜ「摺墨の里」と言われるかというと、『平家物語』にもでてくる「宇治川の先陣争い」で、梶原源太景季が騎乗したという名馬、摺墨の産駒地といわれるからである。この道の駅の中央には、この摺墨と騎乗する梶原景季の立派な銅像が鎮座している。
 なお、これは郡上踊りの踊り歌10曲のうち、「かわさき」と並んで人気がある「春駒」の中でも歌われている。余計なことだが、この「春駒」、日本民謡のうちでは珍しくアップテンポな曲といわれる。以下を参照されたい。

 https://www.youtube.com/watch?v=q1DHd7CyMHg
 目的地、寒水白山神社へ着いた。10年前に来た折には、ずいぶん近辺を歩き回り、祭り支度の模様や神社へ集まる集落の人々を撮したりしたが、今回は体力の衰えを考え、神社近辺の寒水川やその付近を見て回るにとどめた。その代わり、神社で写真を撮るに適した拝殿廻りのやや高い位置に居所を構えて待機した。 

      

     
   
       
           グッズ売り場で待機する巫女姿のJC
     
           同様に待機する報道陣の一角
     
              始まりを待つ一般の人

 さて、郡上踊りと寒水の掛踊りの違いであるが、後者はそれが、盆踊りではなく秋祭りに神社へ奉納されるという点あり、さらに大きな違いは、郡上踊りが近郷近在はむろん、遠来の観光客をも含め不特定多数が参加する踊りなのに対し、この掛踊りは露払い2名から踊幟持ち4名に至る総勢100~130人の、それぞれ定められた衣装と持ち物が決まった「役者」たちによって演じられるという点にある。もちろん、その踊りの進行順序も決まっている。

           
             いよいよ入場 赤鬼姿の露払い
           
               主役・折太鼓の一人
      
                  花笠
        
         田打ち 文字通り田を打ち均す動作を演じる
      
                  笛吹き

 神社境内に入場した各役者が大きな円陣を組んでそれぞれの役割に応じた振り付けの舞をするが、そのクライマックスには、長さ3.6mシナイと呼ばれる花飾りを背負い、胸に太鼓を抱えた4人の折大鼓という主演クラスの踊り手が、その他の役者たちが作る円陣の中央で、音頭取りの歌に合わせ、太鼓を打ち鳴らしながら激しい動きの舞いを披露する。
 その舞の激しさに、シナイに飾られた花が散乱するが、それが地面に落ちるや三枚目役の大黒舞たちが素早く駆け寄り、その花を奪い合ったりして賑わせ、円陣の外の一般観客に手渡す。その花は縁起物で、家へ持ち帰り、一年間飾っておくといいことに恵まれるという。
     

 踊りは休憩を挟んで2時間ほど続くが、その登場人物の多彩さ、役割の違い、衣装の華やかさ、踊りそのものの流麗さなどなど、飽きる暇がないままに終わる。
     

                  奴 

     

                  花笠

      

                折太鼓

      

                  奴

           
               露払い=赤鬼の舞

 ユネスコ文化遺産指定後初めて、コロナ後初の一般観衆参加の催し、さぞかし観衆も多いだろうと思ったが、それほどではなかった。むしろ、10年前のほうが多かったように思う(翌10日にも開催されたからそちらが多かったかもしれない)。
 しかし、いくら観衆が多くても、この辺の集落に金が落ちる受け皿はないから集落が潤うことはほとんどない。なぜこんな無粋なことを言い出したかというと、この行事に寄せるこの地区の負担を考えたからである。

      
             これも含めた3枚は奴
      
     
     
              抱かれた子も参加者
     
            いよいよクライマックスへ

 すでに述べたように、この掛踊り、役者だけでも最低100人を要する。さらに裏方のスタッフなどを考えると、150人ほどが必要人員となる。
 ただださえ過疎化が進むこの集落で、これだけの人数を動員し、これを維持してゆくことは並大抵ではないことは、実行委員会の責任者の挨拶に滲み出ていた。

 実際のところ、多くの山村や漁村などで、代々続いたきた伝統ある祭りや行事が、人知れずひっそりと消えていった例は多いし、いまもその趨勢は変わらない。
 そんな折からユネスコ文化遺産への指定、精神的な励みになるし、行政からの助成金も多少は出るであろう。しかし、それを支える人手の減少は金銭づくでも片付く問題ではない。

      
            以下、クライマックスのシーン
      
      
      
      


 その意味では、こんな大変なものに指定されてしまった以上、もはややめるにやめられない足かせをはめられたともいえる。ようするに、これを存続させるための地域の人たちの甚大な努力は続くとうことだ。

 しかし、実際に私の眼前に繰り広げられた趣深い踊りの展開、それに参加した老若男女の人々の屈託のない爽やかな笑顔には、そうした裏事情を乗り越えて、一致団結してなにごとかを成し遂げた人たち特有の晴れやかな表情が溢れていた。

      

                                                                  大黒など

      

               退場する花笠

 それらの人々に心からの拍手を送りながら、私の中での葛藤は続く。都会地とは異次元の過疎化の中で、アヒルの水かきのような水面下の努力でやっと保たれている伝統行事、それをいつまでも続けとただただ思うのは、一応都会地に住む私のエゴイズムにすぎないのではないかと。
 私にできることは、今のところこうしてそれを不特定多数の人々に知らせることでしかない。

 *踊りであるから動きをとクライマックス近くの動画を3本載せておく。似たようなシーンになってしまった。もっと前半から動画に撮っておくべきだったと悔やんでいる。

    https://www.youtube.com/watch?v=9Zvlq8WwuKI
    https://www.youtube.com/watch?v=-uwa-QjAN28
    https://www.youtube.com/watch?v=rhnbd7dzHKU




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ジャニーズ事務所と旧統一教会 その過程の類似

2023-09-08 14:51:37 | 社会評論
旧統一教会に過料を課し、場合によっては宗教法人の資格を取り消すという。
この進行の過程、ジャニーズ問題とまったく同じだと思う。
喜多川が生きてる間は見て見ぬふりのメディアが急に騒ぎ出す。
旧統一教会は岸−安倍の健在な間はやはり見て見ぬふり。そして今頃になってやっと腰を上げる。
 
      
 
両方とも、数十年間悪行が続き被害が出続けた点でも一致している。
今頃になって正義ヅラして、おのれの過去には頬っかむりのメディアのおめでたさを痛感。
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久々の我流昼麺物語 残り物の寄せ集め

2023-09-07 16:31:13 | グルメ

 タイトル通りです。
まずは冷やしラーメン三つ。冷やし中華ではなく、スープたっぷりの冷たいラーメンです。

     

     
 
     

冷やし山かけそばと冷やし山かけきしめん
 きしめんを使ったのは初めてだが、食感や喉越しがまたそばとは違って美味かった。

     

     

篠田系三つ 
 最初は山かけも兼ねていて、出汁少なめ。ついで冷やし篠田そば。そして、冷やし篠田うどん。

     
 
     
     

最後は我流冷やし中華。スープに豆板醤を効かせてピリ辛に。

 
     

 

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失われたしまった人々の暮らしがそこにあった! 堀江光洋展を観て

2023-09-05 14:10:43 | アート

 9月の声を聞いて、朝夕はやや涼しくなったものの、日中は相変わらずの猛暑が続く。そんななか、久々に美術館へ足を運んだ。

     

 名古屋在住の友人(女性)、I さんが送ってくれた資料にあった岐阜県立美術館の「没後20年 堀江光洋展〈飛騨を撮る〉」を観るためだ。高山に生まれた堀江光洋という写真家(1920~2003)は、写真館を営む傍ら、往年の飛騨地方の山の民を巡る風俗、習慣、労働、建造物などなどを撮り歩いた。
 ろくな交通手段もなく、僅かなバスの運行とあとは徒歩という時代、彼の撮影旅行は10日以上、ほとんど行方不明状態で続いたりして、その連れ合いをしてヤキモキさせたという。

     

 その甲斐あって、彼の撮した対象は、いまとなっては他に例のない貴重なものとなっている。今回展示されているものは50年代はじめから60年代にかけてのものがほとんどで、したがってモノクロに限定される(晩年、円空仏を撮した2,3点を除く)が、もはや二度と見られない光景ばかりである。

     

 冒頭に、白川村の合掌造り集落でのものが並ぶが、合掌造りというものが存在するということがうっすら知られていた程度で、観光の対象とされることもなく、ましてや世界遺産などは夢にも思いつかない頃の記録である。
 ここでは、いまではどんな田舎へいっても、もはや過去の遺産として郷土博物館の展示物になっている農具や運搬具が通常のものとして使われ、子どもたちは農山村特有の作業を手伝い、薪を運び、女の子はねんねこを背負って子守をするのが当たり前であった。

     

 これらが、日常の風景としてごく自然に活写されている。ここに登場する老若男女のてらいのない表情がいい。観光地慣れをした人のポーズなどは全くなく、カメラ目線の人たちの時折のハニカミの表情もいい。群衆の中の一人がたまたまカメラ目線で驚いた表情を見せているのも面白い。
 これらの貴重な記録が、ただそれを伝えるにとどまらず、構図やアングル、明暗、コントラストなど考え抜かれた作品として、高い質のもとに撮られていることももちろんいい添えるべきだろう。

     
 
 これらの写真を見ていてもうひとつ気づいたことは、モノクロの積極性というかモノクロのアグレッシヴな可能性についてである。
 どういうことかというと、自然界にはモノクロは稀で、光あるところ色彩に満ちている。したがってモノクロはそれらの欠如と考えられやすい。しかし、これらの写真を見る限り、決してそうではない。むしろ、対象にある余分な要素を削ぎ落とし、その核心に迫る攻撃性すら感じられるのだ。ここに描かれた風物や人物は、モノクロのなかでこそその精気を放ち続けている。

     

 いまTVなどでは、モノクロ時代の映像や動画をカラーを施したものにすることが流行っている。それはそれで技術の進歩を誇るものであり、否定するものではないが、しかし、こうした堀江光洋などの作品は、それにはなじまない。というより、それは作品の作品性を損なうものになるであろう。
 ここでは、白黒の二元性、その差異とグラデーション、そしてそれらの輝きや明暗を差配する光の存在、それが全てなのだ。
 まあしかし、こんなことは私がのろまだから今頃気づいたことで、土門拳などモノクロ時代の写真作家には共通している事実に過ぎない。

      

 ついでだが、70年代から80年代、私は堀江光洋が対象とした飛騨地方へよくでかけた。しかし、60年代の高度成長期と、70年代の列島改造論のもと、堀江が記録した風俗習慣や人々のたたずまいが急速に失われてしまった時期であった。
 

 もっともこちらの飛騨行きの動機も渓流釣りであったから、幾度も合掌造りの近辺を行き来しながら、さして気にもとめなかったのだから偉そうなことはいえないのだが

     

 しかしその後、さらに飛騨は大きく変わった。平成の大合併は飛騨地方の町や村落を高山市や飛騨市に吸収させ、それら集落ごとのの間の差異を不明確にしてしまった。その結果、高山市などは今や全国で最も面積が広い(東京都全体とほぼ同じ)市になったが、私にいわせれば人の数よりは獣の数のほうが遥かに多いのではと思われる。

     
 そうした合理化や効率化の波が押し寄せ、どの地方をも同一の色彩に染め上げてゆくなか、それから遡る2世代、3世代前のこの地方固有の人々の暮らしの記録は、戦前戦中の農村(母の実家)で疎開生活を送り、さらに戦後、まだ電気が来ていない父の実家、福井県の山村の暮らしを垣間見た私の胸を打つ懐かしいものがある。
 この現代を生きる私を、相対化して観るための良い機会であった。

       
           これは帰路の信号待ちで撮ったもの

写真は当日撮った岐阜県立美術館と隣接する県図書館のもの。堀江光洋のものを紹介したかったがその展示は撮影禁止のためかなわない。パリのルーブルもオルセーも、ロンドンの大英博物館も、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館もどこも撮影フリーであったのに、日本の美術館は閉鎖的だ。

 
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