六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

キス!キス!キッス!

2024-05-30 17:01:51 | グルメ
 スーパーに入っている魚屋の店頭、10センチ前後のキスが15尾で200円と格安。ただし「そのままのお持ち帰りですよ」とのこと。ようするに、鱗を取って腹出しなど自分でしなさいということ。

      
 
 そんなものお安い御用と早速ゲット。調理は唐揚げにすることに。塩コショウと手持ちの香辛料などを降って、片栗をサッとまぶし、まずは低温でじっくりもっくり、骨が柔らかくなるよう時間をかける。仕上げは高温にし表面がカラッとなるように。
 だいたい、思ったように仕上がり、頭からボリボリ食べることが出来る。

      

 それにチクワと胡瓜の射込みとキハダ(300円)の山かけ、水菜のおひたし、これが夕餉。合わせるのはやはり冷の日本酒でしょ。

      

 キス15本のうち6本は残す。これは翌日、わかめと一緒にうどんに乗せた。天ぷらうどんならぬ唐揚げうどん。出汁が淡白なキスに沁みて結構美味しい。

 でもこういう魚の売り方って最近少ないんだよなあ。

 

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「廃」の「あはれ」と硫黄島の少年兵たち

2024-05-29 15:42:16 | 歴史を考える
 先般、私のうちの近くの廃屋やもはや使われないままに打ち捨てられた農機具などについて書いた。こうした廃屋や廃車など「廃された」ものへの哀れ(古語でいえば「あはれ」。ただし、「枕草子」などでみるように、古語のほうが「しみじみとした」情感一般を指していて、その用途が広いようだ)の感情はなぜ起こるのだろうか。
 
 さんざん利用された後に打ち捨てられたその「もの」に対する感情だろうか。それとも、それを利用した人たちへの「来し方行く末」を思う気持ちからだろうか。

      

 ここに載せた廃車は、やはりわが家の近くにあるもので、最初に気づいてからもう10年は経っていると思う。かつての田んぼを埋め立て、埋め立てた山土を均し固めたのみの駐車場の一番端に鎮座しているのだが、廃車を物置として使っているケースともやや異なる。

      

 物置として使用の場合は普通、ナンバープレートは外してあるが、これにはれっきとしてそれが付いたままであるし、ものを出し入れした形跡もない。
 ルーフキャリアには作業用はしごを乗せ、中にもやや小さい脚立とホースやコード類がびっしり詰め込まれているので、何かの工事屋の車と思われる。
 それがなぜ、長年にわたってここにあるのかは謎だが、今度近くの人に会ったら訊いてみよう。

      

 廃屋、廃車、廃線などに「あはれ」を感じはするが、廃フェチというほどではない。ただ、これらの「廃」を貫いて思い起こすのは「故郷の廃家」という古い文部省唱歌だ。この歌は、最近ではほとんど聞かれないが、私の子供の頃には時折耳にする事があった。

 しかし、私が特に感慨深く思うのは、1945年、硫黄島において歌われたそれだ。
 この年の2月から3月にかけて、硫黄島に配属された約2万1千名の日本軍は、アメリカ軍に包囲され、連日の艦砲射撃に穴蔵生活で耐え続けた。そしてその中には、およそ数百人の15、6歳の少年兵たちがいた。
 彼らは夕刻、米艦の砲撃が止むと穴蔵から出て、北の方角・故郷を見つめながらこの歌を合唱したというのだ。
 https://www.youtube.com/watch?v=DQAstpXLkmE
 https://www.youtube.com/watch?v=zu2rS1-gV0g

 この歌の作詞は犬童球渓であり、彼は「ふけゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む・・・・」の「旅愁」の作詞者でもあるが、「故郷の廃屋」もこの「旅愁」も、曲の方はアメリカ人であり、特に後者は当時存命中のアメリカ人作曲家であった。普通なら敵性音楽として公の場所では歌ったりできないものであったが、文部省選定の「中等教育唱歌集」に収められたものであったせいで生き延びたのであろうか。
 なお、硫黄島の少年兵たちがこれを歌ったのも彼らの年齢層が接していた、まさに「中等教育唱歌集」の歌だったからだろう。
 
      
      

 その硫黄島であるが、3月に入り、圧倒的な火力の米軍が上陸作戦を強行し、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」の東條英機の「戦陣訓」に従い、絶望的な玉砕・バンザイ攻撃の中でその9割が戦死した。その割合は、少年兵も同じであったろう。

 私は、このくだりをできるだけ淡々と書いてきたが、実際にはこみ上げる寸前の思いをたぎらせて書いている。明日をも知れぬなか、歌い続ける少年兵たち、そんな彼らを微塵の情けもなく消し去ってゆく圧倒的な戦火・・・・。
 私は彼らを殺した者たち、戦争をした大人たち、少年兵をそこへと送り込んだ者たち、そのくせ、戦後はのうのうと生き延びてなおかつ人の上に立ち続けた者を憎み続けてきた。

 「廃」からの繋がりが広がりすぎた感があるが、しかしこれはこじつけではなく、私の中ではごく自然に行き着く流れなのである。
 「廃」は哀れ(古語では「あはれ」)を呼ぶと冒頭で述べた。だとすれば、硫黄島での少年兵たちの合唱「故郷の廃家」はまさにその全幅の意味を込めてその対象というべきであろう。

全く偶然の発見だが、上の記事に引用したボニー・ジャックスの方の「故郷の廃家」の2番の冒頭に出てくる写真、2008年に私が近所で写し、2015年のブログに載せたものの引用です。廃屋の雰囲気をよく出しているとして引用してくれたのでしょうから歓迎です。
 なおいまはその地にはこざっぱりとしたアパートが建っていて、かつてこのような情景があったことを覚えている人はもうほとんどいないでしょう。 
 その写真は以下です。
     
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廃屋、そして廃棄された農機具と夢幻の田園風景

2024-05-25 01:33:32 | フォトエッセイ
 私の周辺の市街化の勢いはすごく、ここ何年か前の田んぼの中に住居などが散見できるというかつての風景は完全に逆転し、もはやわが家からは田んぼも見えず、逆に市街化された地域を通り抜けてやっと田んぼが見えるといった感じになってしまった。
 
 この間の経緯は何度も書いたので、またかと思われるかもしれない。しかし、その変貌はここ2、3年、本当に早いのだ。新しく建つ家屋も、機能本位の無国籍風が多く、その間を縫って歩く気も起こらない。最近、この近辺をうろつく機会もめっきり減ってしまった。

      
         

 しかし、これでは足腰の衰えに対抗できないと、数日前、昔からあった集落の中を歩いてみた。結論をいうなら、ここでもがっかりさせれれることが多かった。
 昔の農家の常として、槇の生け垣などに囲まれた屋敷内に、住居のほか、そこそこの畑をもっていて、そこでは自家消費用の様々な作物が小分けされた面積で栽培されていて、それを覗き込むのが楽しみだったのだが、いつの間には生け垣はなくなり、かつての畑にはコンクリートが敷き詰められ、貸駐車場になっていたりする。
 また、どっしりした伝統的な日本家屋風の母屋が取り壊され、コンクリートの四角い塊りの家屋に化けていたりする。

      
         

 そして、こうした昔からの集落の中や周辺に、廃屋化した建物が交じるのだ。
 ここに載せるのは、二軒ほどだが、荒れ放題の生け垣の中で写真に撮れなかったところなどを含めると、この日、一つの集落の中のみで、数件のそれが確認された。
 集落のはずれの、つい先ごろまで田んぼであったところに林立する住宅の新市街とは対象的な光景である。

 次に載せているのは、私の家の二階から数十年にわたってウオッチングしてきた二反の田んぼの耕し手の屋敷内で、彼は数年前に急逝したため、今はもう使われなくなった農機具などがアトランダムに置かれている。
 ここは私の家から離れてはいるが、ここから彼はそれらの農機具を運転したり、トラックに乗せて運んだりして私の家のすぐ近くの田へやってきていたのだった。

 そしてその田は、今や埋め立てられて、コンビニとコインランドリーが華やかに営業していることは以前書いた。

      
         
      
         
      

 彼の屋敷内に散在している農機具は、こうしてみてもいかにも古臭い。それは彼の死後、もう何年も経っているからではない。彼が生前使用していた折に、それはすでに古びていて、知り合いの農機具メーカーの人も、もうこんな機械使っている人は日本中探してもめったにいないと太鼓判を押していたほどなのだ。
 そうしたエピソードも含めて、ひとり黙々と作業を進めてきた彼の人柄のようなものが偲ばれる光景である。

 最後に、彼が健在で自分の田で作業をし、それを私が2階からウオッチングしていた頃の写真を載せておく。
 
      

 1枚は夏の終わり、風になびく田のまさに穂波の様子。あとの2枚は刈り入れの様子。いずれも2010年代なかばのもの。

      
       

 いまは24時間営業で終日灯りが絶えないコンビニやコインランドリーの箇所に、ほんの何年か前までこうしたのどかな田んぼが広がっていたことを知る人は少ない。
 私のようにそれを知ってる者でも、かつての田園風景は記憶の底に押しやられがちで、それ自体が夢幻のように思えてしまうのだ。
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水戸岡鋭治氏デザインの岐阜無人バス(GIFU HEART BUS)

2024-05-22 18:09:31 | よしなしごと

 昨秋より、岐阜市で始まった中心部での無人バス(GIFU HEART BUS)の運行。

 この写真はJR 岐阜駅バスターミナルでのもの。なんか簡単な手続きで乗れるそうだが、私はまだ乗ったことはない。別に怖いからではなく、その機会がないからだ。

      
      
                 

 運行して半年ほどの先月、初めての事故があり、なんとその相手が路線バスだった。そのせいでしばらく運行を中断していた。事故の原因などどう決着がついたのかは知らないが、今月3日からまた運行を再開している。

 なおこの車両のデザインは、鉄道ファンにはおなじみの水戸岡鋭治氏とのこと。

いざ出発
        

こちらへ来るように見えるが、前後が同じなので、これは向こうへ去ってゆくところ
      
 
これを書いたあと調べてわかったのだが、事故の原因、路線バスの方が停留所へ止まる際、自動バスが停まるはずだという判断で、かなり無理をして被せるようにしたためだとのこと。
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山車のからくり人形が私のために文字を書いてくれた@大垣祭

2024-05-15 16:03:01 | 写真とおしゃべり
 5月12日、校下の人たちと大垣祭りに出かける。
 この祭りは私にとって思い出深いものがある。5歳の折、大垣郊外へ疎開した私にとって、その集落の鎮守の森のお祭りなど、細やかなとはいえ温かみのある祭りは経験していたものの、より規模の大きな、近郷近在から人が集まるような祭りは、この大垣祭りが初めてだったからだ。しかもそこで初めて山車(だし)というものを見た。

 敗戦後、少し落ち着いてだから1946年か47年だったろう。まだ、父はシベリアへ抑留されたまま、その生死すらわからない頃で、母と二人で出かけた。駅前通りに勢揃いした山車は、それぞれのからくりや芸などを披露していた。
 私の印象に残ったのは、瓢箪鯰という出し物のそれで、瓢箪で鯰を捕らえようとするのだが、鯰はのらりくらりと逃げ回るというものだ。だいたい、あの小さな瓢箪の口に鯰が入るわけがない。にも関わらずそれでもって鯰を執拗に追いかけるというそのシュールな滑稽さにすっかり心惹かれた。

          


 この瓢箪鯰、後年、改めて調べたら、その「捕らえようのなさ」から「要領を得ない者」を指すとして、大津絵などでは猿が瓢箪で鯰を抑えるという絵柄で風刺画の題材にされ、浮世絵などでも描かれたという。ここに載せたのは歌川国貞によるものである。

     
      
        
         
     

 肝心の大垣祭りだが、12日は不幸にして天候に恵まれず、雨自体は強くはなかったのだが、横殴りの風を伴うもので、本来なら各町内から巡行で引き回された13基の山車が所定の歩行者天国で勢揃いするはずだったが、その巡行自体が中止になってしまった。
 ただし、各町内の山車蔵での屋内公開はしているという。
 
      
       
      この上下合わせて13基の山車が勢揃いする予定だったが・・・・

 そこで、中心街に近い数カ所の山車蔵を観て歩いた。京都や飛騨高山のそれらに比べると、その絢爛豪華さではかなわないが、そのそれぞれが、戦火などの歴史の苦難を乗り越えて存続してきたという伝統の重みを持っている。
 それら一つ一つを説明していると長くなるので、私自身が面白い体験をしたもの一つを紹介しよう。

     
     
                  

 それは菅原山車、別名天神山車といわれるもので、名前からして菅原道真にちなんだ山車で、この学問の神様にちなんだ山車のからくりは、手に筆を持った人形が、相手が掲げるA4ほどの大きさの額の白紙に、文字を書くというものだが、その文字が決まったものではなく、第三者のリクエストに応えてどんな文字でも、また短い熟語でも書くことができるというのがみそである。

     
         
      下の二人が書き手と受け手として頭上の人形を操作している
 
 ここまで来ると、歯車やゼンマイを用いた自動人形では不可能で、その人形の所作を操作する人の業がものをいう。しかも、直接人形の腕を持ってするのではなく、人形の下の段(普段は覆いに隠されている)からの紐や棒を使ったリモート操作だから、大変な熟練を要する。
 この山車蔵では、山車に積むその部分を特に降ろして、その操作の過程を公開していた。しかも、その書く文字を観衆からのリクエストに応じるという。私の前の人が、「和」という文字をリクエストしたのに対し、私は意地悪く、画数の多い「愛」を依頼した。

 お囃子のテープをバックにそれらが書かれてゆく。対面する白紙の額を掲げた人形に対面する操作手が、慎重な操作で文字を書く。やがて「和」の文字が墨色鮮やかに書かれる。ただ書かれたというだけではなく、偏と旁のバランスもよく、書かれた文字に味がある。
 続いて、私の「愛」の文字。見守る観衆の中で、私がいちばん緊張し、固唾をのんでそれを見ていたと思う。操作手の慎重で繊細な動きのうちに、人形の持つ筆が意志ある人のそれのように動き、白紙に文字が浮かび上がって来る。

      
          

 何分ぐらいかかったろうか。「愛」の文字がくっきりと浮かび上がったとき、私の肩に入っていた力がフッと薄れた。書かれた文字が、額からツッと離れてひらひら舞う。実はこれは、額を持っている人の方の操作で、この人は文字の書かれる間、額をホールドするとともに、書き終わった際、それを取り外す操作をしているのだ。
 で、そのヒラヒラ舞って落下した「愛」の書かれた紙であるが、それはリクエストした者に与えられるというので、ありがたく頂いてきた。感謝の印に近くの賽銭箱にジャランと硬貨を投げ入れるのを忘れはしなかった。

 写真のように、文字の均整がちゃんととれているところへもってきて、その線が均一ではなく凹凸があることに、操り人形を介して書かれたというなんともいえない味がある。
 たまたまもっていた他の紙に挟み、丸めて皺にならないように持って帰った。色のついた紙をバックにして、部屋に飾ろうと思っている。
 幼かった私が、戦中戦後の苦難の時代を過ごした大垣の祭りのモニュメントとして部屋に掲げておこうと思う。

     

 山車蔵巡りをしているうちに午後になり、風雨がやや激しくなってきた。同行してきた人たちとはかり、帰途につくことにした。
 しかしこのとき、主要部分をビニールで覆った一基の山車が、果敢にも遊歩道へと引き出されてきた。その山車は伝馬町の松竹山車。この山車は見ものが二層に分かれ、上部では弁財天のからくり人形が舞い、変身するという所作を行うのだが、下部の舞台では、着飾った子どもたちの舞踊が披露されるという唯一多用性をもった山車である。

      
     
                   
                   

 早速駆けつけて写真に納める。舞台では着飾った子どもたちが舞踊こそしないものの、ちゃんと乗っている。せっかくこの日を迎えた子どもたちのためにも、無理をして山車を出動させたのだろうか。
 しかし皮肉なことに、その頃から風雨は一層強まった。松竹山車は、後ろを跳ね上げるような独特の仕方で辻を曲がり帰っていった。
 
        

 大垣の街は、天候に恵まれた日に、もう一度訪れたい。最初に祭りの概要を掴むために入った大垣郷土館で買った諸施設の通しの入場券はまだ生きていて、「大垣城」や「奥の細道結びの地記念館」、そして「守屋多々志美術館」への入場が可能なのだ。

 
【おまけ】考えてみたら大垣は 、私の人生経験の早い段階でのエポックメイキングな時を過ごした土地である。戦中の国民学校への入学、襲い来る空襲、 敗戦の玉音放送、その後の混乱、父の消息不明のままの母子家庭、遅いくる貧困と食の問題などなど。
 ただし、正確には飢えはなかった。田舎暮らしで母屋は安定した農家で手伝いの報酬がもらえ、周辺の山野には食用になる野草やきのこ、藪の脇に生える筍、時としては松茸山の柵の外でとれた極上の松茸などもあった。
 川や池で捕れる魚介類も貴重なタンパク源であった。ときには、純天然のうなぎまで口にすることがあった。農薬など使っていない時期、どこで何をとって口に運んでも安全であった。思い出は尽きない。
 
 
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後輩の命日の参拝を兼ねた古刹での森林浴

2024-05-12 01:45:09 | フォトエッセイ
 以下は、昨年の5月10日、あるSMSに載せた記事である。
 ===============================
 今日、葬儀に行ってきたのは高校(県立岐阜商業)の演劇部一年後輩の女性。 この写真は  当時の公演後のもので、着物にエプロン姿がその彼女。着物姿で髭をつけているのが私で、夫婦役であった。
 学生服姿のものは後ろ左が彼女、前列左から二番目が私。
 70年前のセピア色の青春。嗚呼!
      

 ===============================
 そして今年、その人の命日がこの8日だった。五月晴れの快適な日、思い立って、その菩提寺に参拝しようと思った。
 というのは、同じ岐阜市でもほとんど南の外れに近いところに住んでいる私に対し、その寺院は、逆に岐阜市の北端にあり、濃尾平野の突き当りのような、もう山地に差し掛かるようなところにある風光明媚な古刹なのである。

 岩井山延算寺がその古刹であるが、別にその近くに住んでいた訳ではなく、入る墓がなかったので、その広大な寺院の一隅にある永代供養納骨霊廟(納骨堂)をあらかじめ買っておいたようなのだ。

 車を走らすこと約40分、その納骨堂の知覚に到着。大きな観音様の石像を中心に、納骨者たちの墓標が林立している。私の目指すものがどれか探しにかかったがとても埒が明かない。そこで控えてあった寺の電話番号を回し、出てきた女性に俗名を述べ、だいたいの位置を教えてほしいと乞う。すると女性は、今そちらへ行きますから少々お待ちくださいという。
     
         
 街なかの寺と違って、庫裏からひょいと顔を出すのと違い、かなり離れた場所から来てくれるのだ。やがて、その物腰から住職の奥方と思しき女性がやってきて、丁重な挨拶とともにその位置を教えてくれる。
 礼を述べてその墓標の前にぬかづき参拝をする。持参した花は、共同の献花場所に納める。静かな山中の参拝はまた格別である。不幸な一面も背負った人だったが、その明るかった面のみが心に浮かぶ。それがいい。

          
      

 改めて周辺を見回す。山の斜面に周囲の緑を活かして設えられたなかなかの風情である。桜の季節はとうに去ったが、周りの山地には品のいい薄紫の花を付けたヤマツツジが三々五々、咲き誇っている。
     
 
 命日の参拝は終わったが、いろいろな伝承や文化財に恵まれた本堂付近をスルーして変える手はない。斜面を少し登り、近道の裏門から入ったのだが、そのせいで、まずはその庭園を見ることとなった。
 さほど広くはないが、よく手入れをされている。透明な池には色とりどりの鯉が遊泳し、その池と続く湿地には、あざやかで明るいカキツバタの紫が目を射る。その横の艶のある厚手の葉陰から覗いている黄色い花はコウボネだ。
 もみじの花の赤もまた艶やかである。
     
     
         


 この庭の一隅には、大正三美人(この言い方は今どきはルッキズムとして批判されるだろ)の一人といわれる柳原白蓮の歌碑がある。
 この白蓮、2014年の朝ドラ『花子とアン』の主人公である村岡花子(「赤毛のアン」などの翻訳者)をモデルとした主人公花子(演じたのは今の大河ドラマで紫式部を演じている吉高由里子)の年上の友人蓮子(演じたのは仲間由紀恵)のモデルとなった人で、朝ドラの中にあった、炭鉱王の妻でありながら年下の文学青年と駆け落ちするというのもほぼ事実のようだ。
 
             

  この白蓮さん、この岩井山がお気に入りで三度ほど訪れ逗留もしているが、この歌碑にある歌は、かなり後年の1952年の折、詠まれた歌で、そのせいもあって、現代仮名遣いで詠まれている。
 「やまかげの清水にとえばいにしえの女のおもいかたりいずらく」
 これは文字通り、山の清水に訊けば昔の女性の秘めた思いを語ってくれることだろうという意味だが、この歌にはさらに下敷きがあって、この「昔の女」というのが小野小町のことなのである。
 
          

 なぜここに小野小町が登場するかというと、小野小町は疱瘡にかかった折、この岩井山延算寺に逗留し、境内の清水で患部を洗ったところ、それが治癒したという言い伝えが残っているからである。今も「小町滝」と名付けられた箇所がある。
 なお、この歌が評価されるとしたら、皮膚病を治したいという望みにとどまらず、小野小町という女性の全実存そのものが伝わってくるようだということではなかろうか。それに重ねた自分自身の境遇も・・・・。
 
     
     

 庭園に長居しすぎた。本堂や鐘楼の方へ行ってみる。やはり古刹ならではの風格がある。それが周りの山林を借景として、程よく収まっている。本堂には重文などの仏像があり、一般公開はしてるものの撮影は禁止で写真はない。

     

 しばらく境内のアウラを味わった後、今度は正門から出て駐車場への山道を歩く。樹間から山里の風景が郷愁をそそる。
 駐車場横の立派な孟宗の竹林中から、野鳥の囀る声がするので目を凝らすが何も見えない。私のほか誰もいない山中の空き地、急に寂寞感が襲ってくる。小野小町、白蓮さん、そしてこの地を自分の青山として選んだあの人のことなどがごっちゃになって山の霊気を生み出しているという幻想がよぎる。
     

 しかし、次の瞬間、安全運転を心がける私の車は、つづら折れの山道を静かに下ってゆくのだった。

【おまけ】帰途、長良川付近で車中から撮した金華山麓のツブラジイの群落。その花の艶やかさから「金華山」と命名されたというのもむべなるかなだ。
 
     
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八十八夜の新茶と姉の思い出

2024-05-07 23:31:33 | フォトエッセイ
 今年の八十八夜の新茶が届いた。贈り主は私の姉の娘、つまり姪である。
 この時期、新茶を贈ってくれるのは、三年前の今頃亡くなった姉の毎年の好意だったが、それを姪が引き継でいてくれているのだ。

      

 この亡くなった姉と私の関係は特殊であった。私たちの実母は、私が生まれて一週間ほど後、いわゆる産後の肥立ちが良くなくて亡くなってしまった(その意味では私は母殺しの鬼子だ)。実父は女姉妹ばかりの家へ婿養子で入っていたのだが、「家を守る」という昔風の流儀で、実母の妹と再婚することになった。しかしその折、その妹は女学校を出たばかりの19歳、乳飲み子の私やその2歳上の姉をとても面倒見きれないとうことで、姉と私は親戚中をたらい回しにされた結果、別々のところへ里子に出されてしまったのだ。

 以後、私が40歳を過ぎるまで、再会することはまったくなかった。ようするに、お互い80年以上を生きたのだが、その半分は消息すら知らないままだったのだ。
 私は、そうした生き別れの姉がいることは知っていたが、良くしてくれた養父や養母に悪いと思い、私の旧家や姉のことを所詮は縁のなかった仲だと諦めて、探そうとはしなかった。しかし、姉の方は、いろいろな伝手を辿って私を探し当ててくれた。

 それ以後の付き合いであるから、子供の頃も、それ以後も喧嘩などはしたこともなく、再開後も、旧家が「家」をリセットするためにお互い締め出された境遇ということもあって仲良くしてきた。多少の遠慮を含みながらの仲ということでそれも特殊であったかもしれない。

          
 せっかくの新茶をマグカップで・・・・とお思いかもしれないが、これが私の流儀だ。湯のみ茶碗のセットはいくつもあるが、それでチマチマと飲むのではなく、これで最初は香りを楽しみながらすするように飲み、最後の方はゴクリと飲み干す。

 その姉が、住まいが静岡県ということで毎年、この時期に贈ってくれたのが八十八夜の新茶であった。それを今、姪が継承してくれているわけである。姉との繋がりが今も続いているという思いがして嬉しい限りである。
 その喜びを率直に書いたお礼の手紙を書いた。

 子供の頃、童謡の「花かげ」を聴くと、なぜか生き別れの姉のことを想い、胸キュンになったことを、いま懐かしく思い出している。
 https://www.youtube.com/watch?v=N3HEyJDTAWY

 

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デジャヴで不快な体験 ある勧誘の話

2024-05-04 15:51:13 | よしなしごと

 過日の不快な体験である。インターフォンが鳴る音で玄関へ。
 「どちら様ですか?」と私。
 「ちょっと新聞についての調査です」と若い男の声。
 最近の新聞の衰退には関心もあるので、出てみた。
 男はまず「これは調査に協力していただく謝礼です」とティッシュの包を2つほど渡す。会社や組織名はなく白い包装のままのティッシュ。
 
 「今現在、新聞はお取りですか?」との質問に、「ハイ、とっています」と応えると、「偉いですね、私ども新聞業界にとっては全くありがたい方です。これもどうぞ」とまたラップの箱を渡す。「で、どこの新聞を?」との問いに「A紙です」と答えると、「ああ、やはり全国紙ですね。ますます感心するなぁ」とおだてあげる調子。
 おそらく、C紙や県紙ともいえるG紙を指しての発言だろうが、私はそれらを軽んじているわけではない。A紙とG紙をともにとっていた時期もあるのだ。あえてそれは言わない。

           
 この辺で私は相手の正体に気づいていたからだ。昨年か一昨年にもほとんど同じやり取りを経験していた既視感があった。
 「お父さんすごいですね」といつの間にかいっそう砕けた調子。「こんなヘラヘラした男の父親になったおぼえはない」というのは私の心の声。
 
 「新聞ってやはり全国紙ですよね。この辺の人は新聞とっていなかったり、地方紙が多いんですよ。感心だなぁ。さ、さ、これも受け取ってください」と今度は洗剤の容器やラップの包みを私の腕に押し付けてくる。私の両腕のなかは、それらのグッズでいっぱいになる。
 「いや、こんなもの要りませんから」と私。
 
 「実はですね、私この春、Y新聞に入社して記者志望なんですが、最初は現場を回って一定数の読者をとらねばならないんですよ。いえ、お父さんにA紙をやめてうちに移れというんじゃありません。そのままで結構ですから、一応うちをとるという印だけ頂いて、すぐにやめていただけば結構ですから。ほらこれはそこでもらった契約ですが、ここに『すぐやめる』となっているでしょう。これで結構なんですよ。それで私が記者に出世できたら、いい記事を書いて、今度は正面からお父さんにお願いに来ますから。今回は『すぐやめる』という条件付きで一応契約にサインだけしてくださいよ」

 と、立て板に水でかなり強引にサインを迫ってくる。こんなのに長々と付き合ってる暇もないので、「いいや、そんな契約はしません。お帰りください」と私。
 それでも、2,3回、「そうおっしゃらずに、お父さん」と粘ったが、「なんとおっしゃられても要らぬものは要りませんから」と私。

 「あ、そうですか」と、今まで見せなかったふてぶてしい態度で踵を返して立ち去ったのだが、その帰り際が鮮やかで、私の腕いっぱいに押し付けたティッシュ何袋かと洗剤やラップなど、何一つ残さず、あっという間に取り上げて行ったのだ。別にほしいとは思わなかったがその豹変ぶりとグッズ回収のスピードたるや見事であった。

 契約を一定数とったら記者にというのは作り話だろう。いくらY紙でも、あれを記者にはしないだろう。多分、勧誘専門のプロだと思う。
 しかし、「調査」だといい、抱えきれない景品を勝手に押し付け、「すぐやめる」条件付きの契約を迫るなんて、なんかオレオレや還付金詐欺と似たりよったりだとも思った。

これを書いたあと、ネットで調べたら、「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」とあった。ヤクザが売るといっても新聞販売店のことではない。「新聞拡張員」という別途の職業集団があって、その人たちが顧客を勧誘し、まとまった契約を販売店に買ってもらうのだという。
 しかし、その勧誘の仕方の評判はあまりよくない。それら勧誘のパターンを四つに分類している元勧誘員の述懐によれば以下のようになる。

 1)喝勧 これは文字通り恐喝を含むもので、「これだけ頼んでもだめですか?こっちにも覚悟がありますよ。あなたの名前も住まいもわかっているんですから」と凄んだりする。もちろんこれ自身が犯罪行為である。
 2)置き勧 これは安物のラップや洗剤などを無理やり置いてきて、申込書にはコンビニで買った三文判を押して契約とするもの。新聞が配達されはじめて気づくが、そのときには置いていったものに手を付けていて、諦めたりする場合もあるという。もちろんこれも契約ではない。
 3)泣き勧 自分の身の上や家族の病気、障害などを訴え、同情を誘うもの。
 4)引っかけ勧 自分の身分などを誤魔化し、「新聞店の経営者だが、この度、〇〇新聞があまりにもひどいので、✕✕新聞に変わったのでよろしく」などと虚偽の情報で契約させるもの。

 私のところへ来たのは、玄関を開けさせるのに4)を用い、やたらものをくれるのに3)を用い、さらに「自分が正社員になるために」と2)及び4)を用いている。あからさまな1)はなかったといってよい。

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重信房子の自伝的著書『はたちの時代 60年代と私』を読む

2024-05-03 02:30:20 | 書評

 県図書案の新着の棚にあったので手に取ったのがこの重信房子の『はたちの時代 60年代と私』(2023 太田出版)だ。
 著者は60年代の後半から共産主義者同盟赤軍派の幹部で、パレスチナへ出国し、その地でパレスチナ解放の闘争を進めていたが、密かに日本に帰国していたところを逮捕され、20年の刑を受けて22年に出所している。

          

 その彼女が、まさにタイトル通り20歳ほどで社会的な実践活動に参加し始め、それがどんどん進行し、ついには共産主義者同盟赤軍派として、現在イスラエルによる虐殺行為で問題になっているパレスチナにおもむき、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)との連携のもと、さまざまな活動を展開するのだが、この書ではパレスチナでの闘争に行き着くところまでが書かれている。

 なお赤軍派というと、あのあさま山荘事件や山岳アジトでの仲間殺しの連合赤軍を思い起こすが、彼女はこの連赤派ができる前に出国しており、また連赤の責任者であった森恒夫に対して一貫して批判的であったことからして関係はなかったとしていいだろう。本書の中でもそれは述べられている。

 私はこの書を読むまでは、彼女が展開したその後の激烈な諸闘争からして、若くして革命についての諸文献に接触し、先鋭な理論や実践の方式を身につけたのだと思っていたのだが、それはとんでもない間違いであった。
 商業高校を卒業し(ここは私と同じ)、キッコーマンに就職した彼女の20歳の頃の婚約者は、地域の自民党の実力者の息子だったのであり、当時、それについて彼女自身はなんの抵抗も感じることなく、ごく自然に受け止めていたとうことである。

              

         上のこの書の表紙のイラストのもととなった20歳の頃の写真

 そんな彼女が変貌をみせ始めるのは、教師になるため入学した明治大学の第二部(夜間)でのことであった。入学早々の彼女を襲ったのは、当時、各私大で吹き荒れていた授業料値上げに反対する闘争であった。彼女は一般学生として授業料値上げには反対し、自分が参加していた文系サークルの人たちや反対闘争での仲間との連帯感などなどで一気にいわゆる「左傾化」してゆくことになる。そして、ここからの彼女は、パレスチナ戦線への加入まで、ほぼ一直線にみえてしまう。

 ここで私は、彼女より7歳年長で1950年代後半からいわゆる六〇年安保闘争、そしてその終焉後までを過ごしたほぼ無名の活動家であった私の軌跡との比較検討をしてしまう。彼女に比べ、私はその党派の選択から闘争スタイルや戦術に関し、大いに迷い、つまずき続けた。そんななか、党派闘争がいわゆる「内ゲバ」になり、殺し合いになる寸前でいたたまれなくなり挫折したのだった。

 こうした過程を、彼女はスルッと経過している。おそらくそれは、7年という時差がもたらしたニューレフト内での「常識」の変化によるものだろう。私の頃には素手の押し合いへし合いに過ぎなかった機動隊や敵対党派との攻防戦が、ゲバ棒をはじめとする武器による闘いへと発展し、対権力、対他党派との闘いは生死を賭けたものであることが常識化していたのであろう。

 党派の選択やその戦略戦術を巡って彼女が悩んだ痕跡はほとんどみられない。彼女の変遷は、その周辺の人間関係、その折々の情勢の変化などにより、彼女内部の葛藤がほとんどないままに進んでいるのだ。
 だからこれを読んでいると、情勢の変化や自分の立ち位置について、いちいち内面での葛藤を経由してきた自分がやはり旧型の教養人気質なのだなぁなどと思ってしまうのだ。

              

            中東ベイルートへ渡航する頃の写真

 しかし、おそらくそれらは時代のせいなのだろうと思う。ニューレフトが突出した存在ではなくなり、また行動様式もゲバルト(物理的力の行使)が日常的になっていたからだろう。
 それにしても、いわゆるゲバルトから銃や爆薬を用いての軍事作戦への転換に際しては、どのような理論的・思想的経過を経て自分をそこへと投入できたのか、その経過は知りたいと思った。

 そうした軍事作戦を展開した赤軍派の実際の行動で印象に残るの出来事は三つある。
 ひとつは、当時の北朝鮮を「オルグして」反スタ戦線に取り込むと豪語したよど号のハイジャック組である。彼らの後日談は、オルグするどころか北側の監視下に置かれ、金王朝の手先としていいように利用されたに尽きるようだ。

 もう一つは、京浜安保共闘革命左派と提携し、いわゆる連合赤軍の名のもと、国内での軍事訓練や銃撃戦を挙行した森恒夫らの行動である。
彼らは、例のあさま山荘銃撃事件で軍事的にも終焉を迎えたのだが、その過程での山岳アジトで、12人の仲間を「総括」と称するリンチで殺害に及んでいたことが判明した。そしてこの殺された者のなかには、明治大学に入学以来の重信の親友、遠山美枝子が含まれていた。

 その最後が、重信たちのアラブへ飛んだグループである。彼女らはそこで、先に見たようにパレスチナ解放人民戦線(PFLP)との連携のもと、さまざまな闘争を展開する。その是非の判断もあろうが、今日のイスラエルのパレスチナへの虐殺行為をみるにつけ、パレスチナとの連携は大きな意味があったと思う。
 その点で、森恒夫などときっぱり手を切った(これについても具体的な経過、理論的、思想的際などが具体的の述べられていないのは残念だが)のは正解だったとはいえる。

           
                 現在の彼女
 
 今日の状況にも観られるように、当時、パレスチナへ着目したことには大きな意味がある。パレスチナの事態こそ、長年のキリスト教徒によるユダヤ人差別(その頂点がナチによる絶滅作戦)への贖罪を、自らの犠牲を払うことなく、パレスチナの土地を差し出すことによって逃れた西欧中心主義のもたらした大きな罪過であり、今日の世界の暗部を生み出したものなのだ。

 なお、ハマスのテロルを口実にイスラエル支援を云々する西欧は、自らの犯した歴史的大罪を恥じるべきである。政治・経済・文化などあらゆる面で迫害され、その生きるすべさえあやういパレスチナの民にとってどんな「西欧民主主義的」対応があったというのだ。

 また、西欧の尻馬に乗って、かつて自分たちがナチスによって行われた虐殺行為を、今度は加害者としてパレスチナで行っているイスラエルのシオニストたちには、もはやナチスを批判する資格はない。彼らはナチスを師として、民族殲滅の方法を学んだのである。

 私はこの書を読んで、重信が自らの立場を築くにあたっての思想的・理論的葛藤が述べられていないという不満をもってしまった。
 それについて彼女の娘・重信メイ(PFLPの闘士との間に生まれた子。パレスチナ時代は、その両親の経歴から、イスラエルの機関に襲撃される可能性があるとして極秘裏に育てられたが、現在は日本でジャーナリストとして生活している)によると、房子の生き様は「自分だけにではなく万人、特に虐げられている人たちに対して向けた愛と献身」であり、「最終的には、イデオロギーの枠組みにとらわれた闘争には限界があり、家族、愛、仲間意識、連帯感が革命にとって闘い同様に重要な要素であることを見極めていた」としている。

 なお、重信房子は、この書のあと、本年三月に『パレスチナ解放闘争史 1916-2024』(作品社)を上梓している。

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