六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

テキヤ・猫・別れと転院

2008-08-30 17:36:47 | よしなしごと
 入院中の母が転院いたしました。
 現在の医療システムでは、同じ病院に3ヶ月以上置いてはもらえないのです。

 本当は、母の場合、「胃ろう」といって胃に穴を空け、そこから栄養を摂取させるのに成功したら医療施設から介護施設へたらい回しするという現在の末期医療並びに末期介護のレールを歩んでいたのですが、「胃ろう」がうまく働かず、カテーテルからの栄養補給のままですので、他の病院送りになったのです。

 
            これは今までいた病院

 左手を残して全身麻痺し、意識自体ももうろうとしている母に、もう従前へと戻る道は絶たれています。しかしまだ、医療や介護にとっての商品としての価値があるのでしょう。
 はっきりいって、ここには死にゆく者をも稼ぎの対象にするシステムがあります。
 
 しかし、その一命にかすかな望みを託し、かつ、帰れないにしても末期を少しでも快適にしてやりたいという家族にとっては、そうしたシステムに頼る以外ないのです。

 
    よく顔を合わせるのですっかり仲良くなったテキヤのおじさん
        ほとんど毎日病院の前に陣取っていた


 のっけから暗い話で申し訳ありません。
 転院するために会えなくなるものがあります。
 病院の前に陣取っているテキ屋のおじさんとも会えません。
 「つばくろう」の方は、飛び立ってからもう一週間にはなるでしょうか。

 
 
 そうそう、もうひとつ忘れていました。
 この駐車場に住みついている猫です。
 こやつとは、私の車の下で寝そべっていたときに知り合いました。
 
 母の転院の日、彼(彼女?)は、たまたま近くにいたどこかのおばさんの足元で甘えていました。
 「え?どうしたの?なんかほしいの?おうちは?」
 と、おばさんが聞いても猫はただ甘えるのみです。

    

 私がカメラをむけても、
 「あ、この間のおっさんか」
 と、いった感じで少しも動じません。
 私は、「さよなら」とつぶやいてシャッターを押しました。

 
             これが新しい病院

 転院先は新しい病院で、設備は悪くなさそうです。
 まあ、なんやかやいいながら、私たちはそれに頼るしかないのです。
 母に、「新しい病院だよ」といったら、私の顔をまじまじと見つめて、「ううう」と声を発しましたが、分かってはいないと思います。


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モデル・デビュー続報 「おまつり王子」

2008-08-29 00:37:59 | 催しへのお誘い
 先般、モデルとしてデビューするという訳の分からない記事を載せてひんしゅくを買ったのですが

    http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080810
 
 以下はその続報です。
 もっと早くお知らせしたかったのですが、私をモデルとしたポスターがまだ企画制作の段階にあったため、遠慮をしていました。
 しかし、それが完成し、もう展示されましたので、そのポスター共々、詳細をお知らせします。

    
        
 不本意ながら可愛い目元はぼかしました。街中でサインなどねだられないためです。 
 それでもアイドル並みのかわいらしさがお分かりだと思います。
 そう、ひと呼んで「おまつり王子」とは私のことなのです。

 このポスターは、名古屋市の今池祭りの宣伝用として作られたものなのです。
 街中に、祭りの到来(来る9月20、21日)を告げる50枚の一点もののポスターが貼られました。
 その一枚に私が選ばれたのです。
 
 なぜ私が選ばれたかというと、今池で一番いい男だからと思われがちですが、そう考えるのは当たらずといえども遠くて近きは男女の仲、そこが素人の赤坂見附で、実は、今年で20回目を迎えるこの祭りの、第一回目の実行委員長を私が務めたからなのです(着ているのはその折のスタッフ用トレーナー)。
 それを、現役の人たちが覚えていてくれて、ポスターにしてくれました。

 率直に言って嬉しいです。
 葬式の写真にも使えそうです。

 しかし、私にとってさらに嬉しいのは、20年前、街が雑然としていると指摘されて、「雑然がなぜ悪い」を合い言葉に、その雑然の中味をパンドラの箱よろしくぶちまけてやろうではないかと始めたこの祭りのコンセプトが、今なお生きていることです。

 同時多発的、かつゲリラ的パフォーマンスが、街の至る所で、これでもかこれでもかと展開されます。そしてそれを取り巻く闇市さながらの大バザール。
 それらがすべて、街の人たちや街に出入りする今池大好き人間たちの手作りによって生み出されるのです。
 この「一点ものポスター作戦」もそうした試みの一環といってよいでしょう。

 そのポスターに花を添えてくれたのは、昨年紅白に出場し、今般、新曲「イマイケサンバ」をリリースした「nobody knows+」の面々です。
 奇しくも、私の写真撮影の後、彼らの写真が撮られたのは、先般の記事に書いた通りです。
 以下のものがそれです。

     

 なお、今年のプログラムは以下にありますので覗いてみてください。
 
 http://plaza24.mbn.or.jp/~clubnext/hozaki/imaikematuri08pc.htm


 

 


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夏から秋への川柳もどき

2008-08-27 23:22:00 | ポエムのようなもの
 「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。」(「枕草子」より)

 などというのが本意でしょうが、この時代、都市近郊に住んでいてはとてもこの風情とは縁遠いようです。そこで単に黄昏時の写真を集めてみました。
  
    
     「烏の、寝どころへ行くとて」ならぬ夕方の飛行機雲

  薄物をまとえば亡母(はは)の歳になる
  絽には絽の紗には紗の透け方がある

 
        岐阜駅から市街地を見る 左の山が金華山

  月天心 宇宙の歴史嗅いでみる
  出てほしくない星もある地平線

 
           ホームの灯りも輝きを増して
 
  私にはない海を持つひとがいる
  真っ直ぐに射貫いてみたい雲の峰

    
                夕月

  遅れ蝉背に弔問の名を記す
  あらあらと同級生もいる葬儀

 
        こちらは名古屋の夕景 名古屋駅付近

  われとわが名を呼び暗い鳥となる
  行き止まりと私に告げる怪電波

 
         名古屋 栄 オアシス21からの夕日


  夏が往く 向日葵がうなだれている
  ハジキかなもう花火でもあるまいに
 

 

 
 


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永久?グルメ すいとん=水団編

2008-08-27 01:13:46 | 想い出を掘り起こす
  
 
 みなさん 先般のサツマイモの茎に関する記事へのコメントありがとうございました。
 他の所でも思わぬ反響を呼んだりいたしました。

 確かに、芋の茎、今食べても決して不味くはないのです。
 ただし、ある方がお書きになっているように、戦中戦後には、ろくな調味料もなく、いわば調理とは言えないものを食していました。
 例えば、この芋の茎にしても、塩で湯がくぐらいが関の山でした。

 私が先般作ったものは、塩の他に、油、ごま油、砂糖、醤油、胡椒、味醂、酒、唐辛子などを用いていますが、そのどれもが、当時の一般家庭では入手困難であり、貴重なものでした。
 ですから、食材そのものもそうですが、併せて、その調理自体がとても困難だったのです。

 私が飲食店をやっている頃、8月の中頃には、「すいとん=水団」を特別メニューとして出していました。
 これが戦中戦後の代用食だよというと、若い人たちは一様に、「こんなおいしいものを食べていたの?」という顔をします。

 それもそのはず、当時のものは、まず、その粉にしても、小麦を挽く際に出る皮のカス(フスマ=現在は粉から分離し、家畜の飼料にする)も混じったままだったので、団子自体がパサパサ、ザラザラした食感でした。、
 そこへもってきて調味料は前述のようで、塩のみか、あるいはきわめて薄~い醤油、または味噌味でした。
 付け合わせも、大根のしっぽだろうが何だろうが、ただあり合わせのものを放り込むのみでした。

 それに対し、今風のものは、板場がちゃんと出汁を取ったものに醤油や酒、味醂で味を調え、そこに喉ごしのよい極上の粉を使った団子(それにも若干の下味)を入れ、付け合わせには、エビのむき身、かしわの他、季節の野菜やミョウガ、三つ葉などをあしらうのですから、うまいはずなのです。

 まあ、なにがしかのお金をいただくためにはいたしかたないのと、それにまた、往時のフスマの入った粉などはもう手に入らないのです。結果として、いちいち、本当はこんなにうまくなかったんですよと説明をしながら出すという始末でした。

 「こんなうまいものが食えるのなら戦争も悪くはないな」と思われても困りますものね。


   
   写真は記事とは関係ありません。
    サフランモドキ(rain lily)というのだそうです。
    でも何の名前でもそうですが「○○モドキ」というのは可哀想ですね。
    別に「本物」を真似たり、その「擬き」ではないのですから。

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A級or永久グルメ 簡単レシピつき

2008-08-25 01:08:46 | 想い出を掘り起こす
 
          左側のくしゃくしゃはむいた皮

 これは何でしょう?
 そうです、蕗ですね、といいたいところですが違います。
 サツマイモの茎、正確には葉柄にあたる部分です。

 農協の野菜売り場にありました。
 ひと束100円で、二束あったので、そのうちのひとつを買おうと思ったら、もうこれでお仕舞いだからと残りのひと束もサ-ビスしてくれました。
 この前も、ぬき菜を同じ様にサービスしてもらいました。
 だから対面販売って好きなんだなぁ。

 で、このサツマイモの茎、実は戦中戦後の食糧難の中で、よく食べられたものでした。サツマイモそのものが貴重品でしたが、その茎も食べたのです。

 
       この皮、意外と簡単にむけます。コツは末尾に

 とにかく食べるものがありませんでしたから、口に入るものは何でも食べました。
 動物には、食用になるものとそうでないものが本能的に分かるようですが、人間はそうではありません。試行錯誤の連続でした。

 スギナ(ツクシの本体、細い葉の植物です)をヒジキの代用にといって食べたこともありましたが、パサパサして不味かったのを覚えています。
 私は食べませんでしたが、毒性があるといわれる彼岸花の球根を、水にさらせば食べられるといって食べた人たちもいたようです。

 そうした、普段、食用にしないものを食用にするのを代用食といいました。
 このサツマイモの茎も、そうした代用食の一種でした。
 しかし、数ある代用食の中でも、私にとっては不味かった印象はなく、むしろ好感が持てるものでした。
 ですから、今でも、こうして機会に恵まれると求めて調理します。
 今回は二束もあったので、二通りに分けて食しました。

 まず皮をむき、3~4センチに切りそろえたあと、少し塩を入れサッと湯がきアクを取りました。ほとんどアクはありませんが、後述するように、炒める場合には湯がいておいた方がいいと思います。

 
 
 上の左側は、それをキャラブキ風に煮しめたものです。
 そして右側は、薄い塩こしょうでさっと油で炒め、仕上げに鍋肌に醤油と少量のごま油でコクを出したものです。
 
 結論としてはそれぞれおいしくいただけました。
 面白いのは、炒めたものより煮しめたものの方が、サツマイモの味がするのです。初めての人に食べさせたら、炒めた方の素材はまず分からないでしょうが、煮たものの方は味覚と勘の鋭い人には分かるかも知れません。

 この地方では今が芋掘りの最中のようです。かといってスーパーには出ませんから、やはり農協などの販売所にしかないかも知れません。
 もし見かけたら、一度チャレンジしてみてください。
 代用食ではなく、堂々たる一品になりますよ。

 かつて、空襲におびえたり、戦後の混乱や不安の中で食した代用食を、グルメとして味わえるこの時代をも噛みしめながらいただきました。
 かくしてこの味は、少し大げさに言えば、六十数年間にわたって私が胸中に抱き続けてきたものなのです。

皮むきのコツ
 一見面倒そうですが、根元の方からではなく先端の細い方から、爪を少し大胆に食い込ませ、す~っと引いてくると、一度でむいてしまうことができます。
 二、三本やってみると、コツがつかめるはずです。

 

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仁義なき撤退 池下のこと

2008-08-22 17:49:47 | よしなしごと
 名古屋の千種区に池下という街があります。
 私が長年親しんだ今池という街から地下鉄で一駅、東にあたる街です。
 この街は、ここ何年来、都市開発が進み、私の根城、今池を脅かす存在でした。
 私が今池の街興しに取り組んだ折りも、この池下がライバルともいえました。
 しかし、池下の没落を望んだわけではありません。
 池下が没落しても今池が隆盛する保証などどこにもなく、第一、この二つの街のコンセプトは全く違ったものだからです。

 

 しかし、今、この池下の街に異変が起こりつつあります。
 しかもそれは、まさに社会保険庁ずさんなありようと関連するものなのです。

 池下の街の存在感は、千種区役所の所在とその周りに出来たマンション群、それらをカバーするためのショッピングモールの存在にあります。
 そうしたスマートな町並みは、泥臭さを残した今池を上回るだろうと思います。

 

 しかし、池下にはもうひとつの集客装置があったのです。
 それが社会保険庁が展開した厚生年金会館でした。
 これらの類似の施設は全国に散在していますが、地域ごとのその構成は幾分異なるようです。池下の場合は、宿泊施設、会議場、結婚式場、それに1,660席の中型ホールから構成されています。
 とくにこのホールは、中型ホールの少ない名古屋にあっては、クラシックにはやや音響面で合わなかったようですが、健在な頃の美空ひばりを始めとする各エンターティメントの公演を始め、ジャズやシャンソンその他各種イベントのメッカとして、結構賑わっていました。

 

 ところがです、社保庁の天下りによる連中の経営感覚では、全国各地の同様の施設も含めて、この会館を維持できなかったのです。そこで彼らが選んだ方策は、この厚生年金会館全体の今秋の閉鎖でした。
 おそらくここで挙げられたはずの収益は、彼ら天下りの餌食となって霧散したのでしょう。
 社保庁の官僚どもが、一度退職金を手にしながら、ここへの勤務で再び不労所得を手にし、再度退職金を取るという詐欺まがいなことがなくなるのはいいことかもしれません。

    

 ただし、問題はこの商店街のほうです。
 厚生年金会館が、ヘタレ官僚の詐欺のような収入の場であったことはさておき、商店街はそこへの人の出入りを計算し、出資をしたり店の営業方針を定めてきたのでした。
 ところが、突然の閉鎖です。
 商店街にとっては青天の霹靂といった事態です。

 

 今更防衛策だの方針転換など出来ようはずがありません。
 確実に人の往来が減るという事実のみがのしかかってくるのです。
 この商店街のあちこちに張られている「なくさないで!」という張り紙は悲痛な叫びに聞こえます。

 

 近隣の商店街も人ごとではありません。
 池下へ来たついでに今池のなじみの店へ顔を出そうかという人や、覚王山を覗こうという人もいるはずです。

 どこかがこの施設を買い取って営業を再開してくれないでしょうか。
 さんざん稼いでいるトヨタが、メセナとしてこれを運用してはくれないでしょうか。
 「トヨタ」の看板が仰々しく掲げられるのも我慢します。

 ただでさえ商店街の維持運営が難しい時期ですが、私の第二の故郷の今池、その隣街の池下がこれに凹むことなく頑張ってくれたらいいと切に思っているのです。







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さようなら にほんのみなさん

2008-08-20 18:14:16 | よしなしごと
 

 ぼく つばくろう、つばめのこです。
 え? おまえなんかしらないって? やだなぁ、もう。
 ちゃんとこのまえのところをよんでよ、そのつづきなんだから

 で、けつろんをいうと、ぼくはもういません。
 いませんといっても、ふこうなめにあったのではないですよ。
 ちゃんととびたったのです。
 きょうだいもいっしょです。
 ほら、ふたつとも、すはからっぽでしょう。

 

 じつは、ぼくをしょうかいしてくれた六というおじさん、ぼくがまえに、すからおっこちたことをしっていたので、おおきくなっても、はねをいためていたりしたらとべないのではないかと、ないしん、しんぱいしていたんだって。

 で、ぼくがすにいないもんだから、すこしさみしいおもいをしながらも、「ああ、よかった」ってむねをなでおろしていたようです。
 
 ぼくはいま、おとなたちとおなじようにじょうずにとべるよう、また、じぶんでたべものがつかまえられるよう、ちかくの「きそがわ」あたりでとっくんのまっさいちゅです。
 そして、もうすこしあつさがやわらいだころ、みなみじゅうじせいがかがやくほうへとたびだちます。
 きけば、そっちのほうで、六のおじさんのおとうさんがせんしをしたのだそうです。

 ぼくは、ぶじ、みなみへついたら、それらしいジャングルのうえをとびまわり、そこでなくなったひとたちに、にほんのことをはなしてやります。
 ぼくにおうちをつくってくれたにんげんのこと、ぼくをしょうかいしてくれた六のおじさんのこと、そしてそれをよんでぼくをおうえんしてくれたたくさんのひとのこと。

 
    前の記事の「くろあしまる」さんのコメントにもありましたが
    それにしても、人間が作ってくれた僕のお家何から出来ているのだろう


 みなさん ありがとう。
 ぼく つばくろうは、みなさんのことをわすれません。
 そしてまた、きっともどってきます。

 らいねんのはる、あのあたりにおとなのつばめがいたら、ぶじせいちょうしたぼくだとおもってください。
 さようなら、そしてありがとう。




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つばくろうの素敵なお家

2008-08-18 17:43:41 | よしなしごと
 

 ぼく つばくろう、つばめのこです。
 あ、これはぼくではありません。
 これはぼくのおかあさんで、このときぼくは、まだおかあさんのおなかのしたで、たまごからでることができるひをまっていたのです。

    

 あ、これもぼくではありません。
 でも、おかあさんでもありません。
 よくみると、まだくちばしがきいろいでしょう。
 もちろん、まだとぶこともできません。
 これはぼくのきょうだいなのです。

 

 で、これがぼくです。
 ぼくもまだとべないし、くちばしもきいろです。
 でも、ぼくのこのおうちってすこしかわっているとおもいませんか。

 

 もうすこし、ひいてみましょうか。
 ほら、こんなになっているのです。
 これは、にんげんというどうぶつが、ぼくのためにつくってくれたのです。
 もともとぼくは、おかあさんやきょうだいとおなじところにいたのですが、あるひそこからおっこちてしまったのです。
 ぼくはがんばって、まだとべないはねをせいいっぱいひろげたりしたので、さいわいけがをしないでちゃくりくすることができました。

 それをにんげんがみつけてくれたのです。
 にんげんはかんがえたようです。
 すがせまいのだろうか、きょうだいがいじわるをするのだろうか。
 そこでにんげんは、ぼくのためにとくべつのおうちをつくってくれたのです。

 

 ですからぼくときょうだいは、いまこんなふうにむかいあっています。
 はじめは、おかあさんがぼくのところへも、ちゃんとたべものをもってきてくれるのだろうかとしんぱいでした。
 でも、きょうだいにまけないように、くちをせいいっぱいあけて、ピーチャカ パーチャカとさけんだおかげで、ぼくもたべものをもらうことができました。
 やはりおかあさんは、きょうだいとおなじように、ぼくもたいせつにしてくれるのだとおもいました。

 そして、ぼくにこんなにすてきなおうちをプレゼントしてくれたにんげんにかんしゃしなくっちゃぁとおもっています。
 きけばにんげんというどうぶつは、おたがいにころしあったり、いっぺんになんにんもころしてしまうおそろしいどうぐをつかったころしあいもするそうです。
 でも、ぼくにすてきはおうちをつくってくれて、ぼくのいのちをすくってくれたのもにんげんです。
 にんげんってふしぎなどうぶつですね。

    

 みてください、おかげでかおつきもすこしおとなびてきたでしょう。
 ほら、はねなんかもすこししっかりしてきたとおもいませんか。
 もうすぐ、ぼくはとびたちます。
 すこしあきらしくなったあおぞらにむかって。
 じゆうがぼくをよんでいるのです。

 そのとき、ぼくはすなおに、にんげんにありがとうというつもりです。
 ぼく つばくろうは、きょうもげんきです。


この燕たちの様子は、ほとんど毎日通っている病院の近くでみつけたものです。
 残念ながら、燕を救ったのは私ではありません。

 







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ピンクのぶら下がりの正体は?

2008-08-16 16:58:10 | よしなしごと
 久々に図書館へ行きました。
 館内の一室にハイビジョンのでかい画面があって、大勢の人がオリンピックを観ています。
 何もこんなところにまで来てと思いましたが、そういえばいつかの夏、やはり画面が大きいと迫力があるなぁと思って高校野球を観ていたことを思い出しました。

 館内は、宿題消化の学生たちがいっぱいで、「ここは自習のためのスペースはありません」のアナウンスも何のその、ほとんどのテーブルや椅子が彼らによって占拠されています。
 それもあってか、いつもの落ち着いた雰囲気はなく、なんかむんむんしています。

 
            この実 なんの実 きになる実

 しかるべき本を数冊探し当てて、早々と館を出ました。
 少し曇ってはいましたが、相変わらずむしっとして暑いのです。
 思い起こせば、昨年のこの日、同じ県の多治見市では40.9℃というとてつもない暑さを記録し、その日、自転車でうろつき回っていた私は完全にグロッキーで、なるほど、熱中症とはこのようなものであるかと思い知ったのでありました。
 さいわい軽い方だったのですが、それでも夕方から翌朝まで、バタンキューを余儀なくされました。

 

 そんなことを思い出してよく通る並木にさしかかると、樹間になにやらピンク色をしたものがぶら下がっているではありませんか。
 花にしては奇態なと近づいてみると、形状からしてあきらかに実なのです。
 しかもこの樹は、この春その花をちゃんとカメラに収めたものであり、その実がこのピンクのものなのです。

 で、その花はどんなものかというと次のようなものなのです。
 
 
              今年3月撮す
 
 そうです、モクレンです。この白いモクレンの花の実こそ、ピンクのぶら下がりの正体なのです。
 うかつにも、ここはよく通るのに、また名古屋の東区などでモクレンの街路樹は見かけるのに、その実がこんな風にぶら下がっているのに気づきませんでした。

 遠雷が鳴り、ぱらぱらと来たので、車に避難し、早速家に帰りました。
 一雨ザ~ッと来るのを期待したのですが、いっこうに来ません。
 ちょっとご挨拶をしただけで、そのままどっかへ行ってしまったようです。

 庭の水撒きが一回手抜きできると目論んだのに駄目でした。
 さあ、これを書き終えたら水撒きです。
 また蚊に刺されそうだなぁ。

 
        おまけ 図書館構内の浅瀬で遊ぶ親子
 
 今日の成果
 1)9月に行う、高校時代の同窓生たちとの勉強会用資料をまとめられたこと
 2)モクレンの実がピンク色でぶら下がっているのを見つけたこと
 3)昨年のように熱中症にならなかったこと






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【玉砕・2】 死してなお残るもの?

2008-08-15 02:23:45 | 現代思想
 前回、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という「玉砕」の思想により、すぐる戦争の死者が増加した事実を述べてきましました。そしてそれが、ポツダム宣言受諾に反対する東条英機らにより、本土決戦、一億総玉砕にまで拡張されて主張されていたことを述べました。
 実際のところ、その主張が実現していたら、今日の私たちはなかったわけです。

 そうした主張の根拠は、「国体」を護持するためとのことだったのですが、一億総玉砕をも辞せず「国体」を護持すべきだというこの東条英機の思想はいったいなんでしょう。すべてが死に果てた末に、なおかつ護持されるべき国体とはいったいなんでしょう?

 
          飛び立ちてキチキチバッタ自己主張
 
 ここには、ある種、超越的とも言える狂気があります。
 というのは、一般的に言って戦争とは、政治や経済の延長といわれ、その国家や民族の主張や権益が犯されるという危機に直面してそれへの対応を力でもってなそうとしたり、あるいはその主張や権益の拡大を力でもってなそうとするところに起こります。
 とりわけ、近代における戦争はそうしたエコノミーの延長に他なりません。

 しかし、東条英機の戦争は、こうしたエコノミーの論理を超越してしまっているのです。どうしてかといえば、その主張や権益の基盤である国や民族をなげうち、最後にはその消滅をも意志してしまうのですから。
 その戦争を決断した当初の目的意識すらもはるかに越えて、戦争そのものをある種のカタルシスへと、あるいはナルシスティックな領域へと至らしめているからです。曰く「聖戦」。

 
           秋や立つ路上に仰臥セミコロン

 この聖戦とは何でしょうか。エコノミーの論理を越えること(越えたと幻想すること)によって、ある種のロマン派的要素への通路が開けているようです。
 それは、戦前の日本の文学者や哲学者が西欧の論理に対抗して打ち出した「近代の超克」とも通じるものでした。また、三島由紀夫をして、「遅れてきた青年」と言わしめたものでもありました。エコノミーの論理を超えた領域での聖なる生と戦い!

 確かに、ヨーロッパ近代が推し進めてきた近代合理主義=エコノミーの論理には、いわば銭もうけのいやらしさのようなものが付きまといます。
 しかし、それを超えると公言する考え方にも常に「いびつなもの」、あるいは狂気にも似たあるパッションが混入してしまうのです。
 上に見た日本の当時の言説もそうですが、同様にそれを越えると明言したソ連でのスターリニズム、ドイツでのナチズムにおいても、それらのいびつなパッションが混入し、結果としてより大きな悲惨を生み出してきたのは歴史の教えるところです。

 
          詐欺師ではないアオサギの目の配り

 しかしながら、ここでひとつの疑いを差し挟む余地があります。
 ナチズムやスターリニズム、そして日本の近代の超克派を含めてですが、それらは本当に西洋の近代合理主義に抵抗する思想だったのでしょうか。
 逆に、それら「いびつなもの」こそ、西洋合理主義をある方向へと極限にまで推し進めたところに発生したものものではないかという疑念すらあるのです。

 その疑いの根拠は次の点にあります。
 要するに、世界には私たちが目にしたり経験したりすること(現象)を越えた真実があり、それこそが「真理」であり、それをこそ重んずべきだという思想の存在です。現に私たちがあるあり方は間違いなのであり、それを越えた真理へと至るべきだというのです。
 現象を越えた真理が存在し、それに殉ずべきだという思想は、いささか単純化していえば、プラトンを嚆矢として、延々、西洋の理念を形作ってきた核心にあったものではないでしょうか(これはキリスト教とも関連するのですが、煩雑を避けるためそれには触れません)。

 この考え方のある極限こそが、ナチズムやスターリニズム、そして日本の近代の超克派を規定していたのではないかと思われるのです。唯一の真理、唯一の正義、それに裏打ちされた共同体への憧憬。

 ナチズムもスターリニズムも、そして日本の軍国主義も、真理や正義はわが方にあることを信じて疑いませんでした。そして、そのためには、相手を殺しても、自分が死んでもかまわないとしたのです。
 だからこそ、一億総玉砕という信じられない方針が出てくるのです。要するに、一億の民が死のうが真理や正義は残るということです。
 現象(具体的にこうであること)を越えた真理や正義が残るというのです。
 しかし、人が死に絶えても残る真理や正義とは何でしょうか?

    
            わが庵は栄枯を映す城の堀

 私たちは、そのカリカチュア(戯画化)をいろいろなところで見出します。
 例えば、ある意味でちょっと心痛むのですが、連合赤軍の事件もそうでした。そのもっと戯画化したものとしてオウム真理教事件を挙げてもいいでしょう。
 一見、西洋合理主義を批判したと称するものが、その実、その拡大再生産か、あるいはカリカチュアライズでしかないことは肝に銘じておくべきでしょう。

 そういえば、最近の無差別殺人の背景にある、自分の「本当の」居場所が見いだせない、従って、そうした状況を作り出している周辺や世の中に復讐し、それによって自分が死刑などの刑に処せられても致し方ない、という考え方も、一億総玉砕の思考に似ているかも知れません。

 そうしたいびつさが、西洋合理主義の必然的に行き着く先だとはいいませんが、少なくともその反対物ではなく、むしろその鬼子であるように思われるのです。
 そうだとすれば、その正嫡子は、今日のレッセフェール(自由放任=やりたいようにおやりなさい。ただし自己責任でね)に基づく新自由主義の世界なのでしょうか。しかし、それが格差社会という新たな閉塞を生み出すものであることは今日つとに語られているところです。
 
 一億総玉砕という閉塞、あるいは一見、寛容な包摂のなかにあるかにみえながら、その実、厳しい排除が見え隠れする格差社会という閉塞、これらのみが、私たちに与えられた自然なありようなのでしょうか?

 
         なんじゃいと言われひねもす立ちつくす
 
 私はもちろん、それに答える術を持ち合わせてはいまません。 
 また、むやみやたらの希望も持ちませんが、絶望もしません。

 何はともあれ、一億総玉砕という六三年前の危機を脱して生き延びてきたのですから、この命を正義や真理の犠牲になど供することなく、周りを見続け、考え続けてゆきたいと思うのです。

 もう一度いいます。
 もし、六三年前のあの一億総玉砕の東条英機の上奏が採用され、戦争が継続されていたならば、ちょうどその年の今日(8月15日)辺りから、原爆をはじめとする重火器による本土焦土化作戦は一段と激しさを増し、日本中を焼き尽くすまで継続されたことでしょう。

 その場合には、私はもちろん永らえることはなかったでしょうし、そして、何をじじいが寝ぼけたことを書いているかと思いながらこれを読んでいるあなた、あなたもこの世に存在してはいないはずなのですよ。









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