六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

85歳の一人旅 ベルリン・ライプチッヒ・ワルシャワ

2024-07-07 01:04:10 | 旅行

 突然ですが、この8日から18日の間、ベルリン、ライプチヒ、ワルシャワへと旅に出ます。

 ドイツ語で知っているのは、「ダンケ」と「ビッテ」と「ハイル・ヒトラー」ぐらいですがなんとかなるでしょう。

 ポーランド語は、「アンジェ・ワイダ」「ワレサ」「フレデリック・ショパン」という固有名詞しか知りません。

 でもまあ、地球は丸いから、変な飛行物体に乗らない限りその外へ出てしまうことはないでしょう。

 野垂れ死にの可能性はありますが望むところ。曰く、「人間(じんかん)到る処青山有り」です。

          

 などと粋がっていますが、内心は不安で一杯です。なにせこの歳で言葉もわからないま初めてのところへ行くのですから。
 ただし、ドイツ国内については安心しています。なぜなら、今回の旅の一つの目的は、ライプチッヒ在住の旧友に逢いにゆく旅だからです。

 もちろん、彼とはあらかじめ連絡が取れていて、LINEでの通話も可能ですから心強い限りです。もちろん頼りっきりではなく、自分でも努力をしていますよ。旅行社がとってくれたホテルを地図で確認し、周りの様子も確認し、迷子にならないようにしています。

 例えば、ベルリンのホテルの近くの飲食店もチェックしました。市の中心部ではないのですが、驚いたのはホテルから徒歩で行ける範囲に寿司屋が2軒もあります。そのうち、一軒は高級、一軒は手頃とありますが、いずれにしてもドイツへ行ってわざわざ寿司はないでしょう。

 その他はトルコ料理一軒、イタメシ屋一軒、ドイツ料理一軒でいずれもお手頃とあります。やはり郷に入ればでドイツ料理でしょうが、それが駄目だったらイタメシ屋でワインとパスタで済ますつもりです。

 さっぱりわからないのがワルシャワ。ホテルは中央駅近くの一等地ですが、周りの状況がよくわかりません。でもいいのです。ここは旧市街近く、トラムか地下鉄で出かけてこの目で確かめて入店すればいいのです。

 ホテルの近くである必要は全くありません。なんと、ポーランドは、列車も地下鉄もトラムもすべて七〇歳以上は無料なのです。外国人でもパスポートさえ見せればOKです。あ

 ですから、ワルシャワは行きあたりばったりを楽しんできます。絵葉書で見たような景色を確かめに行っても面白くないでしょう。交通費無料はとてもいいのです。間違えてとんでもないところへ行っても、そこの景色を楽しんでまた帰ってくればいいだけなのですから。

 ということで行ってまいります。私の技量で現地からレポートできれば致します。

 
 

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木曽川渡し場遊歩道(かぐや姫の散歩道)へ行く

2023-01-25 01:47:19 | 旅行

 もう二週間ほど前になる雨の日、近所のサークルの人たちと一緒に岐阜県は可児市の木曽川沿いにある「木曽川渡し場遊歩道」、別名、「かぐや姫の散歩道」へ行った。
 渡し場遊歩道というのは、かつて、この近くに木曽川の両岸を結ぶ渡し船の発着場があったからだ。別名のかぐや姫云々は、鬱蒼としていた竹林を地元の人たちが整備し、快適な遊歩道にしたことによる。

 あいにくの雨とあって、私たちの他には歩く人はいなかったが、600メートル続く竹林と、そこを行き交う小路は、川霧に煙る木曽川と相まって、なかなかの風情を醸し出していた。

 なお、途中の一群の竹に、120年に一回といわれる、竹の花を見かけた。ただしこの様子からみるに、昨年咲いたものの残滓と思われる。
 竹の花は、最後から4枚めと3枚め。最後の2枚は、遊歩道近くで見かけた宿り木。

 なお、このあと、国宝犬山城とその城下町へ行くのだが、それはまた次の機会に。
 もっと詳しくいろいろ述べたいのだが、まだ忙しいのが続いているので、写真を羅列するに留める。いろいろ想像しながらご覧いただきたい。

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不定愁訴からの脱出 篠島一人旅 終章

2022-06-18 00:18:06 | 旅行
 前回は、篠島をそぞろ歩きし、島を貫く山脈の尾根を越えて港へ戻ろうとして、その急峻な坂と階段の連続に、行く手を危ぶみ、逡巡するところまでを書いた。
 今回はその続きだが、その前に前回、書き忘れたことを書いておこう。

 河和から船に乗り、ひたすら知多半島に沿って南下して島々へ至るのだが、ふと「知○半島をめぐる船での事故」を思い出してしまった。そう、あれは知床半島、今も行方がわからない人たちがいる。こちらは知多半島、どんよりと重い雲だが波は穏やかだった。

 さて、急峻な登りで逡巡する私に戻ろう。
 人は迷った時どうするのだろう。慎重な人は立ち止まってじっくり考えたり、分岐点に戻って判断をし直したりするのだろう。あいにく、慎重さを欠いた私にその能力はない。エイヤッと自分の判断を貫くのみだ。会社を辞めるときも、居酒屋を閉店するときもそうだった。おかげで、惜しまれながら去るという余録にあずかることができた。
 死ぬときもそうであれば御の字だが、まあ、そうは行くまい。野垂れ死には覚悟の上だ。

 あれあれ、へんに脱線しちゃった。
 この急峻な坂や階段の連続を前にしての私の決断は、「行くしかないっしょ」だった。亀のようなスピードで、階段を登る。道は真っ直ぐではない。しばらく登って突き当り付近で尾根に出られるかなぁと思ったりするが、事実はそれほど甘くはない。登りは左右にコースを変えながら続く。

 ゆっくり歩くから、出会いも多い。生後間もない仔猫にも出会った。これ、意外と近くで撮っている。いくぶん怯え、すぐ逃げられる体勢をとりながらも、私がシャッターを押すまではじっとしていてくれた。近くにもう一匹いたが、これは草のなかに隠れるようにしていた。

      
 
      

 さらに登って振り返ると、オオッ、眺望が開けて海が見えるではないか。尾根は近いのか。しかし、事態はそれほど甘くはない。それからしばらく登って、やっと尾根を走る道に出る。とはいえ、その尾根の道は決して平坦ではなく、今までほど急ではないとはいえ、それでも登りなのだ。

          
         

 しばらく行くと、やっと登りが終わる。今度は港の方へ降りる道を探しながらの行程だ。せっかちな私は、これかなと下ってゆくと個人の住まいで突き当たりだったり、神社仏閣の施設であったりする。
 無駄な体力の消耗つづき。しばらく行くと、尾根道の脇の小さな畑で、ペットボトルから水やり作業をしている女性を見かける。浜から登りはじめて以来、仔猫以外ではじめて出会う生き物だ(失礼)。

 港方面へ下る道を尋ねる。「あ、それならすぐそこ」と指さされたのはなんとこの畑の筋向かい、確かに下へ降りる道がついている。しばらく行くと緩やかな階段になり、降りるのもとても楽だ。ただしもう疲れきっているので、軽快な足運びとはいかぬ。 階段が終わり緩やかな下り坂となる。これは楽だ。
 
           
 空き地に、2メートルを遥かに超えるようなシシウドが生えていた。斜面に沿って吹き上がる海風に、頭をゆらゆらさせている。


 しばらく行くと、眼下に緑色の屋根葺の立派な寺院が現れる。おそらく知多八十八箇所聖地巡りの寺のうちのひとつではなかろうか。赤い幟がそんな風情だ。

      

 そして、船溜まりの一角が見えてきた。道はついに平地へ。曲がりくねって天にまで達するようなあの急な階段を前にして、しばし、怯え、佇んだのが随分前のように思える。

      

 船溜まり脇の道を進む。
 荒れた空き地の一角に立派なユリの群落が。
 ランドセルを背負った子が通りかかる。今日はウィークディなのを改めて知る。
 擦れ合うぐらいで通りかかった窓から吊るされた布袋のなか、ぬいぐるみが入ってるとばかり思いカメラを鼻先まで近づけたら、ウ~と小さく唸られた。生きてる!ちゃんと写真は撮らせてくれた。

      

      

      

 さてこれで、島を約半周巡り、南側ビーチで地元の女性たちと触れ合い、昔ながらの漁師道を辿り、山の尾根の道にいたり、港の方へ降りるという当初から思い描いていたコースを踏破したいま、目指すは唯一つ、海なし県・岐阜では絶対に味わえない地の魚を味わうこと。

 浜で二人組から教えてもらった二軒のお店を疲れた足を引きずり、探しに歩く。
 その途中で、山頭火の句碑を見かける。8句が刻まれている。句に描かれた情景からしてどうやら春にこの島を訪れたようだ。

      

 一軒目、閉まっている。現在3時半頃。あの女性たちが、あそこはラストオーダーが早いからと言っていたのを思い出す。もう一軒については、「あそこは遅くまでやっているから」と言っていたので、それを頼りにそこへ。

 やっていた!
 女性が顔を出し、「4時閉店ですがいいですか?」
 ウ、ウ、もう30分もない。「なにかお造りはできますか?」
 女性は引っ込み、「刺し身ってできる?」と板場に訊いている。
 「すみません。お刺し身はもうできません」
 もうひと粘りする。
 「どこかこのへんで、お宅と同じように魚料理を出されるところはありませんか」
 「さあ、この時間はみんな閉まってますよ。うちが一番遅いくらいですから。あ、そうそう、船着き場の中の売店ならまだなにかできるかも・・・・」 

 ガ~ン。「絶望!」と書かれた垂れ幕が目の前にドサッと落ちてくる。
 船着き場の食堂って、着いたときにウドンを食べたセルフサービスの店じゃん。

      

 トボトボと港へたどり着く。その過程で、スマホで当たってみたことがある。船が着く河和港の近く、名鉄の河和駅周辺の飲食店だ。
 ヒット!駅のすぐ近くにお寿司屋がある。しかも結構しっかりした店のようだ。よし、ここに賭けよう!
 
 帰途の船を待つ。この時間夕刻とあってか船の便はかなりあるのだが、師崎行きなどが多く、河和行きは40分ほどまたねばならない。
 その間、師崎と行き来しているフェリーボートの車の乗降作業などを観て過ごす。走っているのを見かけた郵便車なども本土の方から来て夕刻には帰ってゆくのだ。歩いてきた尾根へ出る道のとくに階段部分は、郵便車もバイクも入れないから、やはり徒歩での集配作業なのだろうなとその労苦を偲ぶ。

      

      

 やっと河和行きの船が来た。終わりよければ全てよしの逆だったから、島を懐かしく振り返る元気もない。曇り空の太陽が、船のマストと並行して落ち始めてる。

      

 河和港着、無料送迎バスで河和駅まで。
 チェックしておいた寿司屋を目で追いかける。あった!駅の真ん前。ここなら安心して飲食ができそうだ。やった~!

 ん?しかし気になる点が・・・・。もう5時を回っているのに看板に灯が入っていない?ん?ん? 店頭まで来てみる。何やら張り紙が・・・・。
 「本日、都合により臨時休業といたします」
 が~ん、が~ん、が~ンの30乗だ! 何タルチア、惨タルチア!
 定休日なら致し方ないと諦めもつく。しかし、よりによって「臨時休業」とは・・・・。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」

 疲れ切った足を引きずって河和の街を飲食店探しに徘徊する元気はもうない。
 岐阜へ帰るしかない。

      

 鵜沼行急行に。神宮前で岐阜行特急に乗り換え、一路帰途へ。神宮前付近から名古屋までは名鉄とJRが並走している。
 上は私が乗る岐阜行特急と左はJR岐阜方面行。
 下は、岐阜に着いた電車。折返し豊橋行特急になる。

        

           

 岐阜へ着く。駅近くの安い寿司屋で、造り二品ほど、白魚の磯辺揚げなどを酒二本のアテとして食らう。篠島のことは思い出さないことにしよう。
 結局、篠島で使ったお金はウドン代の500円のみ。私に魚を食わせてくれたら、島ももっと潤ったのに・・・・って引かれ者の小唄か。嗚呼!

      
       浜辺で拾ったヒトデと貝殻(ウチムラサキ=大アサリのもの)

 歩数計は2万歩を指していた。しかもあの急峻な登りを含んだ2万歩だ。ただし、思ったほどの疲れはない。ただ、そこはかとない悔しさが残った旅だった。
 これはもはや不定愁訴ではない。ちゃんと対象をもった愁訴だ。
 「旨い魚で一杯やりたかった~~~~~~~~」 

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【遊ぶために遊ぶ】六〇年前の「のんほい」をなぞる旅

2021-11-30 17:49:42 | 旅行
 ひょんなことから名鉄電車の切符を二枚手に入れた。名鉄沿線ならどこへでも行き、帰ってこられるということだ。
 当初、名鉄沿線に住む友人二人に連絡をとり、久しぶりに一献どうだろうかと提案した。二人ともそれを受け入れて実現のための条件を探ってくれたが、諸般の事情でそれが不可能となった。ならば一人でどこかを目指すほかはない。
 こうなったら、ひとと逢うとか何かを行うとかは決めないで遊ぶために遊んでみよう。

              
          

 生まれついての貧乏性、ただとはいえ、近くへ行くのはもったいない。岐阜からできるだけ遠くへ行きたい。となると知多半島では中部国際空港、内海、河和などが候補となる。あとは東三河で蒲郡、豊川、豊橋といったところになる。
 予定としたら、昼過ぎに現地に着いて、どこかのんびり時間を過ごせるところを散策し、旨い酒と肴でいささか早い夕餉を済ませ、そんなに遅くならない時間に岐阜へ戻りたいということで、やはり自分の歳も考え、ある程度土地勘があり、帰途も安全単純なところということで、豊橋に落ち着いた。

              

 豊橋は、1960年前後の学生運動関連で2,3度行ったのを始め、サラリーマン時代の特約店訪問などなどで結構通い慣れている。居酒屋時代の30年間はご無沙汰していたが、その後、美術館訪問や、誘われた集会での報告者として訪問したこともある。

 学生時代の訪問は、虚実をとり混ぜて短編小説にしたことのあるが、いちばん強烈に覚えているのは主に愛知大学の活動家を対象にした真剣な討議の後の二次会の模様である。自分の家の小型トラックを持ち出してきたひとがいて、これで海辺へ行こうという。豊橋は、南に走ると太平洋の大波が直接押し寄せる遠州灘である。そこでの夜の酒盛りだ。
 メンバーの一人が酒屋の娘さんで、家からトリスウイスキー数本と、日本酒数本を持ち出してきた。つまみは駄菓子屋で買ったあられやせんべい。総勢一〇人弱がトラックの荷台に乗って繰り出したのが、その遠州灘海岸。

          
          

 海岸を叩きつける波は夜目にも白々と、しかも想像以上に高い。私たちは車座になって酒を酌み交わし、論議し、語り、歌い、踊った。しかし、それらの喧騒も、波の音によってほとんどかき消されてゆくのだが、得もいわれぬ快感があった。私が選んだ道は、当時、閉塞感に満ちていた。しかしどうだ、私はこうして生きているではないか。生きているということは、こうして大自然のなか、ひとと交わり、自分の言動を開示してゆくことではないか、それが実感された時間であった。
 明け方、日の出を迎えるまでそこにいたと思うが、どのようにして帰ったかは記憶にない。運転手を含め、全員が深い酩酊のなかにあった。

              

 二度めの節目のような豊橋経験は、いろいろあった後、就職してはじめに受け取った電話であった。一応、電話での応答の仕方は教わっていたが、その電話は予想外だった。目の前のベルが鳴り、私が受ける羽目になった。「もしもし、こちら〇〇株式会社の営業部**です」との滑り出しは良かった。問題は相手の方だった。「あののんほい」が第一声、「はあ?」と私。「あののんほい」と再び相手、「はあ?」と私。それが三度ほど繰り返された後、私は「少々お待ち下さい」と電話を上司に代わってもらった。「あの~、なんか変な電話がかかってきているのですが・・・・」
 その上司は、私と代わって相手とスムーズに話を交わしている。電話が終わった後、上司は、「あれは豊橋の大切な特約店さんだ。失礼があってはならない」と私に軽い叱責をくれたのであった。

           
           

 「あの」はともかくとして、「のんほい」というのが「ねえねえ」とか「ですね」とか肯定の意を含む三河地方の方言であることをはじめて知った。
 ただし、これはいまや古い言葉で、三河地方でもほとんど死語になっているようである。しかし、私のなかでは、豊橋といえば「のんほい」というイメージが生きている。

 そんなわけで今回の豊橋行きは、豊橋でJR東海道線に乗り換え、一つ先の二川まで行き、そこにある「のんほいパーク」を散策することにした。
 ここは数年前に訪れ、二回目なのだが、広い園内には動物園や植物園、それに遊園地が併設されている。無理して全部回らなくとも、自分の見たいところを重点にのんびりマイペースで過ごすこととした。

           

 この前訪れた折には、アジアゾウのお母さんが臨月で大きなお腹をしていた。その一週間後、無事出産とのニュースに接し、なんだかほっこりした気になっていたのだが、どれほど経ってからだろうか、その仔象が発育不全かなんかで亡くなったと聞いて、がっかりしたことがあった。

           
           
           

 まず動物エリアから見て、時間があれば植物エリアをと歩を進める。数年前の経験で大体の土地勘はあるはずとの思いがあったが、これが大間違い。自分の記憶力がいかに劣化して曖昧になっているかを嫌というほど知らされた。

 でも象の居場所を見つけた辺りからなんとなく記憶が戻りはじめた。象の飼育スペースは、名古屋の東山動物園などより広々していて、数頭のうち二頭がいろいろなスペースを移動し、目を楽しませてくれた。ただし、今回は臨月に近いそれは見当たらなかった。

           
           
           

 こちょこちょ動き回る猿たち、逆にのったりしてしまって動いてくれないカンガルーたち、どちらも写真には撮りにくい。
 その点、シロクマとペンギンは陸上でも水中でもよく動いてくれておもしろかった。もっとも、平日とあって、それを喜んで見ているのは、八十路すぎの私めと、そのひ孫に相当する就学前の児童たちだからその落差は面白い。

 やはり、植物園を見ている時間はなくなった。閉園時間になったということではなく、私自身ができるだけ岐阜へ早く帰れるよう、その夕餉を豊橋駅近くの夕方四時からやっているお店に設定していからだ。

           
           
 豊橋に戻る。予めネットで目星をつけておいた四時からの営業で近海物の海産物があり、日本酒の在庫が豊富で価格がまあまあリーゾナブルな店ということで、「路地裏かきち」という店を選んだ。
 酒は、最近流行りの試しのみセット三種で、リストの中から三つを選んで少量のグラスにいぱいずつ。それほど舌に自信がない私でも、こうして三種類を飲み比べてみるとその違いがわかる。これが済んだあとは、父の故郷、福井の酒、黒龍を選んだ。
 お造りは近海物中心に三種で盛ってもらった。どれも鮮度はマアマアだった。メヒカリの唐揚げというのがけっこううまかった。自分でも作ってみたいが、岐阜あたりの、しかもスーパーの魚売り場には出てこないだろう。

           
           

 四時から営業といっても、その時間から客がどっと来るわけでもないので、カウンターで人当たりのいい店長=板長とゆっくり話しながら飲むことができた。コロナ禍での営業はやはり大変らしい。ただし、今日は予約が二組ほど入っているということで、その準備をしつつの私との対話であった。

           

 もう少し飲んでゆっくりしたかったが、まだこれからおよそ150kmを帰らねばならない身、カウンターから身を引き剥がすようにして店を出た。
 まだ早い時間なのだが、行き交う人もまばらで、霜月後半の夕刻はとっくに夜半の様相を呈していた。まだ、バスが運行している時間帯(わが家方面は早くなくなるのだ)に岐阜へ達することができた。

 かくして私の「のんほい」な一日は終わった。

 

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養老鉄道・揖斐線利用の小旅行(半端鉄チャンの話付き)

2021-11-25 23:45:31 | 旅行
 養老鉄道はかつての近鉄の揖斐線と養老線を近鉄から引き継いだいわゆる三セク鉄道で、JR大垣駅を起点としている。以前に紹介した樽見鉄道(この前身は国鉄=JR)もこの大垣を起点としているから、大垣では二つの三セクに接することができる。



 養老鉄道に戻ろう。この鉄道は養老線と揖斐線の二つからなるが、起点の大垣ではそれぞれが一つのホームから出発する。一番線は養老方面の三重県の桑名行、二番線が同じ岐阜県内の揖斐行である。
 この電車たち、ここですれ違うのではなく、それぞれ同じ西方面へ1kmほど並走し、そこで桑名方面は南へ、揖斐方面は北へ進路を取るべく分離する。
 


 そこでどういう現象が起きるかというと、もし、同時刻に大垣を発車した二方向行きの電車があったとしたら、そしてそれを分岐点で目撃できたら、同じ方向から並走してきた電車が左右に分かれてゆく珍しい光景を目にできるということだ。


 
 では、大垣を同時刻に発車する電車があるかというと、それがあるのだ。私が現行の時刻表で調べた限りでは、17時7分発、21時9分発、21時53分発の3本だ。これは発車時間だから、分岐点へはその一分後ぐらいに差し掛かることとなる。
 残念ながらこの時期、全てが日が落ちてからの時刻で、夜汽車になってしまうが、日の長い時期なら17時7分発なら昼間の写真となるだろう。



 ただし、これを写真に収めたものを例の鉄道写真家中井精也氏のもので見たことがあるが、説明がないと、上下の列車がすれ違っただけに見えてしまうので、動画のほうが迫力があるかもしれない。

 半端な鉄チャンなので、つい余分な話をしてしまったが、本題に戻ろう。
 近所のサークルの人たちとともに、この養老鉄道の揖斐線の旅をしたのだ。ちょうど土曜日だったので、土日限定1,000円で乗り放題を利用しての旅だ。
 この沿線、観光地や見どころがないわけではないのだが、そのほとんどが駅から歩くにはちょっと距離があり、結果としてそれぞれ降車した駅付近の風景を観るにとどまった。
 
 まず降り立ったのは東赤坂。ここは旧中山道赤坂宿の文字通り東なのだが、そこまでは遠く、駅近くの神社や近くの集落を回ったのみだった。















 続いて降り立ったのは池野駅。ここは池田町の中心で、かつては中山道から分岐し、西国三三ヶ所巡りの納札所の谷汲山華厳寺に至る谷汲街道の要所としてして栄えたところである。街中の旧街道沿いを歩くと、なんとなくその名残りは感じられるが、残念ながら幾分さびれた街並みというほかはない。
 西方にそびえる池田山、そこから飛び立ち浮遊しているハングライダーの数々が時代の変遷を物語る。私のカメラではそれらのハングライダーをはっきり捉えることはできない。







  中央上部の白いのは飛んでいるハングライダー
 




 終点、揖斐へと至る。
 この頃から、腰痛が激しくなる。一行はさらに歩き続けるが、私は駅から一〇分ぐらいの粕川(揖斐川の支流)辺りでダウン。
 この粕川、かつてはアマゴやイワナ釣りによく訪れた川だ。とても懐かしい。ただし、竿を落としたのはこの辺ではない。さらに上流(西方)へどんどん進み、もう滋賀県に近い源流域まで行ったものだ。
 はじめの頃はよく釣れたが、情報誌に書かれるに及んで釣り人が殺到し、釣果は期待できなくなった。





 そんな想い出を反芻しながら揖斐駅へと戻る。そこで一行の帰りを待ち、大垣経由で岐阜へ帰った。
 後半の腰痛によるダウンは口惜しいが、それがいまの私の現状だから致し方あるまい。それでも歩行数は1万5千を超えていた。

 どこかへ行って歩き回る、それが可能な時期をできる限り引き伸ばしたいと真剣に考えているが、83歳の老人にはもう手遅れなのだろうか。

 

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長良川鉄道(越美南線)の旅と転車台のある終着駅

2020-09-14 16:15:10 | 旅行

 久しぶりにスッキリと晴れた土曜日、地域のサークルの人たちと長良川鉄道に乗る小旅行にでかけた。
 まずは車で関駅に集合し、その駐車場に車を置いて、一日乗り放題のフリー切符(2,700円)を買う。これで、美濃太田から北濃まで、72.2キロの間、どこまで行っても、何度乗り降りしても自由。

   

 まずは一挙に北上して北農まで行き、途中下車しながら散策する予定だったが、時刻表の都合上、すぐ近くの美濃市行きに乗り、その駅の周辺で時間を潰し、次の美濃白鳥行きを待つことに。
 美濃市駅は、美濃市の中心街、あの卯建のある街並みからもけっこう離れた寂しいところにある。


  チャギントン・ラッピング車両 車内もきれいだが乗らなかったので写真はなし

 少し待って、美濃白鳥行きに乗る。土地の人でないと、これを「しらとり」と読んでしまうが、正解は「しろとり」である。
 ついでに長良川鉄道の38の駅名で、ほかに難読に属するものは二つあり、それが並んでいる。「母野=はんの」、「木尾=こんの」がそれだ。

 

                    左は長良川水系もっとも上流の酒蔵「元文」 美濃白鳥にて

 白鳥では、街なかを少し歩き、奥美濃大橋を渡って長良河畔の西側へ至る。ここで国道158号線沿いにある道の駅「清流の里しろとり」内の「そば工房 源助さん」でやや早い昼食。
 ザル蕎麦と鮎ご飯のセットメニュー(1,100円)をいただく。蕎麦も鮎ご飯も美味しかった。がっついていたので、写真を撮るのを忘れた。

                        白鳥付近にて 秋の陽光に長良川の川面がキラキラ輝いてた

 その後、川沿いの道を北上し、川の風情やそこに溶け込むように鮎釣りをする人たちを眺めながら、今度は上流の白鳥橋で東岸に戻り、白鳥駅に戻る。
 そこからいよいよ終点の北濃を目指す。

                              単線のため待ち合わせ 向こう側は全国初の乗客と宅急便の混載車両

 ここは実は、終点であって終点ではない。というのは、この長良川鉄道、かつては国鉄の越美南線といって、高山線の美濃太田を起点としこの北濃に至っていたが、それが最終的な終点ではなく、ここを経由して福井県側へ至り、福井市の越前花堂駅を起点として南下し九頭竜湖駅に至っている越美北線と連結し、全線で越美線として、岐阜県側と福井県側を結ぶ大動脈となる予定だったのだ。

                                   

 それが、戦争の激化などと重なり、1934年、未通区間20キロほどを残して中断され、戦後、落ち着いて工事再開が可能な頃には、モータリゼーションの到来で鉄道需要は減退し、工事中止が決定されたという次第。
 その後、越美南線として美濃太田‐北濃間で運用されていたが、国鉄の路線合理化の過程で廃線候補になるなか、1986年、三セクの長良川鉄道に移管が決定し、現在に至っている。


 社内風景 左は鯉のぼりは吉田川を利用した郡上本染をシートにデザインしたもの

 なお、このローカルな路線、国鉄の蒸気機関車が走っていた時代に、何度も利用したことがあるだけに懐かしい。というのは、父の故郷が、美濃白鳥からは油坂峠、北農からは桧峠を越えて福井県側へ行った山あいの集落にあり、そこへ行くためだった。

 最初に行ったのは小学校3年の夏で、やっとシベリアから復員した父の帰郷のためだった。1947年当時、この旅は長く過酷なものだった。その経路はこうだ。
 まず当時住んでいた大垣の郊外から、美濃赤坂線で荒尾駅から大垣駅へ、そこで東海道線に乗り換え岐阜へ、岐阜から高山線で美濃太田へ、そこで越美南線に乗り換え美濃白鳥へ、そこからは国鉄バスで油坂峠経由で今の九頭竜湖駅近くの朝日へ、そこから父の集落へは石徹白川沿いに数キロ行かねばならないが、公の交通機関はなかったので歩きはじめる。幸い、トラックが通りかかったので、家族一同、その荷台へ乗せてもらう。当時この辺りの、公共交通機関がない道路では、トラックなどは歩行者の要請に応じて乗せてやることが不文律だったようだ。

 
      北濃駅前の長良川 水量が少なくなってきてる

 そして、ようやく父の生家に着いたのはさしもの長い夏の日が、とっぷり暮れる頃だった。大垣を発ったのが早朝だったから、12時間以上を要したことになる。今なら、車で2時間ほどで行けるのにである。
 電話をして迎えに来てもらえばいいじゃないかと考えるのは現代人。当時は、携帯はおろか電話がない家庭もいっぱいあり、自家用車などはよほどのお金持ちしか持ってはいなかった。
 父の生家のある集落には、まだ電気も来ておらず、ランプによる生活だった。

 話が大きくそれた。
 そんなわけで、北濃は正真正銘終着駅である。車止めがあり、それから先へ鉄路は見えるものの、もはや自然に任せるままになっている。
 見ものは、転車台が残っていることで、蒸気機関車の場合、これで機関車の方向を180度変えたのだ。
 私どもの他にも、何人かの鉄ちゃんたちが、それぞれカメラを構えていた。

    

 北農からUターンで南下し、途中郡上八幡で下車し、自由行動だったので私は好きな河畔を散策し、長良川と吉田川の合流点付近まで歩いた。
 よく歩いたので、足が痙攣する。これでは帰途の車の運転に差し支えるので、早めに駅まで引き返し、ひたすら足のマッサージ。
 衰えたものだ。

   

上左は吉田川鉄橋を渡る長良川鉄道 右は長良川(奥から)と吉田川(右から)の出会い
       下はその出会いの下手の長良川の風貌

 

 


 

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木曽義仲と巴御前の墓所 芭蕉はなぜここに?

2020-04-12 01:05:21 | 旅行

 前回は、義仲寺について書こうとして、木曽義仲に関することのみで終わってしまった。
 今回はグッと時代を引き寄せ、この特色がある寺について書こう。

 大津のメインストリートともいえる湖岸通りが、なぎさ通りと大津草津線に分岐する地点から一本南に入った乗用車がやっとすれ違えるような狭い通りに面してこの寺はある。しかし、この狭い通り、実は旧東海道なのである。

        
 普通、寺院といえば、かつての幾多の建造物群をもった大伽藍は別格としても、正方形に近く、そこそこの面積をもったものだと考えがちだ。しかしここは違う。間口は二〇メートルにも満たず、それがそのまま数十メートル奥へ続くという、うなぎの寝床のような敷地なのだ。しかし驚くべきは、この狭い空間の中に時代を重ねた様々な要素が、その密度も濃く凝縮されているということだ。
 石山寺や三井寺の広い敷地を歩いた後とあっては、まるで嘘のように様々な要素がギュッと詰め込まれている感がある。

        
 まずはその名称通り、ここには、この近くの粟津の戦いで、ぬかるにその騎馬が足を取られて討ちとられたという木曽義仲の墓がある。なお、この墓所の傍らに庵を建て、供養を日々欠かさなかったみめうるわしい(とパンフにあった)尼僧がいて、彼女こそ義仲の死の直前、涙の別れを演じたかの巴御前だったという。
 その庵は「無名庵」といわれ、いまもその末裔が同じ名前で境内に存在する。そしてこの寺は当初、巴寺といわれ、それが転じて義仲寺といわれるようになったという。
 義仲の公墓、木曽塚の隣に巴塚が建立されているのもむべなるかなだ。

        

           
              上:義仲公墓  下:巴塚 
 
 そして、その巴塚の反対側、木曽塚と並んで立つのが芭蕉の墓である。
 この墓、全国に散財する句碑などのモニュメントではなく、正真正銘の彼の墓なのである。
 芭蕉が亡くなったのは、一六九四(元禄七)年十月一二日であるが、彼の遺言に従い、その翌日には去来、其角など門人十人とともに川船で淀川を上り、伏見経由でその日の午後には義仲寺に入り、翌一四日の葬儀の後、木曽塚の向かって右側に埋葬されたという。

        
             芭蕉の墓 この下に埋葬されている
 
 ところで、なぜ芭蕉がこれほどまでに義仲に入れ込んでいたのかについての芭蕉自身の言及はほとんどないようだ。義仲を詠んだと思われる句には以下のようなものがある。
   義仲の寝覚めの山か月かなし
   木曾の情雪や生えぬく春の草
 ただし、芭蕉は、義仲を討った義経に対しても同じようなシンパシーをもっていたのではないだろうか。
 
 「奥の細道」の旅は、平泉で育った義経が何度も往復したといわれている奥州路をなぞる。そして、「夏草や兵どもが夢の跡」も、藤原三代の栄華を偲ぶとともに、義経主従の最期に思いを寄せた句であろう。
 また、この旅の後半、北陸路を経て大垣へ至る道は、義経が落ち延びた経路の逆行でもある。
 したがって、この旅自体が義経の足跡をなぞった面をもつ。

 芭蕉が、義経にも義仲にも感慨をもって接していたことは事実であるが、前回も述べたように、彼らがそれなりの功績を遂げながらも、儚く散らざるを得なかった無常観のようなもの、またそれ故に、俗世のリアリズムから少なからず異なるイメージを残したことなどによるものではなかろうか。

        
 そのなかで、とくに義仲を指名したのは、生前、義仲寺の無名庵に度々滞在し、この地の弟子たちと句会を催し、親しく交わったことによるのだろう。
 彼の、遺言をよく読むと、この地の利便性のようなものを評価したプラグマティックな意図が読みとれる。
 「骸(から)は木曽塚に送るべし。ここは東西のちまた、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐かしき友達のたづねよらんも、便りわづらはしからじ」

 この遺言にもある通り、この寺は今でこそ街なかのいささかごちゃごちゃしたところにあるが、元禄の当時は埋め立てなどはなく、東海道の向こうは琵琶湖の眺望が楽しめる場所だったのだろう。
 同時に、交通の要所であったこの場所で、彼は後世の人たちとも交わり続けることを夢見ていたのかもしれない。

  行く春を近江の人と惜しみける

 これは、義仲寺の無名庵に滞在中、四キロほど離れた唐崎で詠まれた句のようだが、芭蕉の近江の人々との交流の様子をよく伝えている。

 義仲寺には、まだまだ見落とせない事物が凝縮しているのだが、芭蕉に関する件のみで長くなってしまった。
 また回を改めたい

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「奥の細道」翌年の芭蕉のわび住まい 幻住庵

2020-04-04 13:58:24 | 旅行

 もう先月のことになるが、都知事の会見があり、コロナ禍が新たな段階に差し掛かるほんの前、琵琶湖南部の大津から、湖西、湖北へ赴く機会があった。
 石山寺、三井寺、竹生島などは何年ぶりかの再訪であった。このうち、竹生島は三回目であったが、七〇年近く前の中学生の頃、半世紀以上前のサラリーマン時代といったことで、やはりこれだけ間があくと、思い描いていたイメージとはかなり違ったものがあった。

       

 その差異を述べていたらきりがないので、今回ははじめて行った箇所を書いておくことにする。
 そのひとつは石山の裏手にある幻住庵で、ここは芭蕉が一六九〇年に四ヶ月ほど過ごした山荘である。
 その概要をWikiから引用しておこう。

 「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄3年(1690年)3月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水の奨めで同年4月6日から7月23日の約4ヶ月間隠棲した小庵。ここで「奥の細道」に次いで著名で、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる「幻住庵記」を著した。

 ちなみに、この山荘に来る前、芭蕉は次回に述べる義仲寺の中の無名庵で過ごしている。
 山荘に話を戻そう。ナビを頼りに目指すのだが、山の麓とおぼしきその周辺に近づいても、どこに車を止めてどう行けばいいのかがよくわからない。駐車場らしきところで掃き掃除をしている男性に尋ねると、まさにそこがそうで、掃除の手を止めて、案内しましょうといってくれた。

       

 次第に鬱蒼とする山のなか、どこへ向かってよいのかわからない折から、ありがたい案内の申し出である。
 まあ、土地の人だから、しばらくついて行けばひょいと幻住庵に着けると思ったのが甘い考えだった。なんと、写真のような階段が延々と続くのだ。
 この角を曲がったらという期待を何度も裏切って、なおかつ階段は続く。

 案内の男性は、ここへ来た以上、それは覚悟の上でしょうとばかりにスタスタ歩を進める。こんなはずじゃなかったよ、と顎が上がりそうなところで男性は足を止める。
 そして、「これがとくとくの清水です」とのこと。芭蕉の幻住庵記にある、「たまたま心まめなるときは、谷の清水を汲みてみずから炊ぐ」という清水がこれだ。

       

 「とくとく」とはまたまんまの命名と思いつつ、ならば山荘はすぐ近くと思うのだがそれらしい姿は見当たらぬ。昔の人は、こまめに離れた場所まで水汲みに出かけたのだということを思い知らされる。
 さらにしばし登ったところでやっと山荘のこじんまりとした門が見えてきた。けっこう、鬱蒼とした山林を登ってきたのだが、ここはやや高台で眺望も開けている。

         

       

 方角からして琵琶湖は見えないが、瀬田川の両岸に広がる町並みが見渡せる。到着となると、これまでの苦行が快感に変わるのはエベレスト登山と同じだなどと勝手に思ってもみるが、多分違うのだろう。

       

       

 庵は、パンフによれば比較的近年に再建されたものだというが、それを感じさせないほどひなびた風情をもっている。庵の横手の竹矢来も、ちょこなんとした門構えもなかなか似つかわしい。
 床の間には、江戸を旅立ち、曽良とともに陸奥へ向かう芭蕉の旅姿の掛け軸、添えられた讃は「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」で始まる「奥の細道」の序文の一節。脇に活けられたヤブツバキがまた一興。

       

 なにも人里離れたこんな不便で上り下りも大変なところに住まなくってもとも思うが、そこはワビサビの世界、芭蕉、四〇代なかばの足腰にとってもなんでもないことだったのだろう。
  まず頼む椎の木もあり夏木立
 というのは、ここで読まれた句らしい。

 ここで感心するのは、この庵は大津市の管轄になっているものの、その管理運営は麓の自治会(といっても六軒だけだが)によるものだということだ。案内してくれた男性もそのうちの一人で、六日に一回の当番日にここへ詰めているのだという。

       

 一口に管理運営といっても、麓の駐車場から何百段かの階段、そして庵そのもののケアーは大変だと思う。ほとんど雑草を見ることもなく、きれいに整備されている。
 こうした地元の人が地域に残された文化財を管理維持するといういうのは、昨秋訪れた湖東地方の古刹でもみたところであり、歴史的文化財をいまに生き延びさせる草の根の運動のようなものである。

 帰りは、当番の男性がこっそり教えてくれた階段を使わず、足腰へのダメージが少ない山道を降りた。
 だったら始めっから、という思いもあるが、やはり庵への道は、当時、芭蕉が通った経路をたどるというのが正解であったろう。

 ここでの芭蕉体験は、次の義仲寺へと続くことになる。

 

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初めての沖縄拾遺集 残された写真から

2019-11-28 02:13:50 | 旅行

 過日の初めての沖縄への旅、何回かにわたってレポートしてきましたが、その文章との関連などで載せきれなかった多くの写真があります。
 それらを以下に載せます。

 沖縄を車で案内していただいて、まず気づいたのが私が住まいする地方との植生の違いです。まずは、空港前の道路で見かけた並木が南国風で、ナンやらというヤシの一種だそうです。小さな実をつけていて、熟したものは赤く色づいていました。ヤシと聞くと食べられそうな気がするのですが、これがどうなのかはわかりません。
          

 以下は、那覇で見かけた花をつけた街路樹です。その花の拡大は下のようです。名前はわかりません。
              

          

 これはご存知ガジュマルで、あちこちで見かけました。無数の気根に取り巻かれた様相は、なんだか王者の貫禄すら感じました。
          

 下はどこかで見かけた、たぶん蘭の一種だと思います。  

          

 この幹が膨らんだバウワバブのような木もあちこちで見かけました。徳利木綿というきれいな花をつける木の幹もこんな感じでした。
              

 ブーゲンビリアンは至るところで見かけましたが、これはそれを生垣風にしつらえた家で、ひときわ目立ちました。
          

 下は辺野古漁港の近くで群生していた木の花でしょうか。潮風に強い植物なのでしょう。 

          

 平和祈念公園の庭園のリュウキュウマツの若木たちです。右からの浜風にやや傾斜しながら、どこか清々しく伸びていました。
          

 以下は街の風景です。
 那覇は、2日目の夜に泊まったのみで、あまり街を散策することもなかったのですが、想像以上に立派な街でした。ただしその郊外は、本土と同じ、大型のチェーン店やフランチャイズが並び、そこだけだと、沖縄らしさはあまり感じられませんでした。

 ただし、街なかの色彩感、街路樹、ハーレー(沖縄国時のボートレース)に使う船のオブジェ、などなどはまさに沖縄ならではのものでした。 

          

          

              

 下もやはり都市部で、沖縄市(かつてのゴザを中心とした都市)の商店街です。沖縄県第二の都市ですが、その中心部の繁華街は、やはりシャッター通り化してやや寂しいものがありました。
              

 これは初日に泊まった安田(あだ)の集落で、朝方の散歩の途中に、私たちを案内してくれたOさんの友人で、この集落に住む女性がわざわざ届けてくれた自家製のサーターアンダギーです。芭蕉の葉で作ったバッタ(巧いなぁ!)とメッセージが添えられていました。そのメッセージは以下です。
 「ありがとうございました。
  ウチナーヘマタン(?)
  イ(?)メンソーレ
  沖縄へまた次もいらっしゃいネ」
 何という粋なことをする人でしょう。

              

 そのサーターアンダギー、那覇での夜、全国歌謡コンクールで一位をとったというOさんの歌声をカラオケルームで聴きながら、泡盛やオリオンビールとともに頂きました。品の良い程よい甘さのそれは、私のような辛党の口にもピッタシ合って、美味しかったです。

          
 

 初めて食べた本場のソーキそば。スペアリブと三枚肉の両方が付き、手前は沖縄独特のやや硬めの豆腐。これが肉類と調和してとても美味しかったのです。

          
 

 空港へ向かう最後の食事もソーキそば。加えてジューシーという沖縄独自の混ぜご飯。私が作るような混ぜご飯とどこか違うのだが、それがなぜなのかはわからずじまいです。

 

           

 オリオンビールには終始お世話になりました。もちろん、こちらでも飲んだことがありますが、やはり彼の地で飲むのは味わいまで違うようです。土地と歴史が育んだアウラが加味されるからでしょう。

          
 

 最後にまた辛口の写真です。これは海の特攻隊、人間魚雷の残骸。爆弾付きのこれに乗って、相手の戦艦に体当たりですから、もちろん操縦者は生きて帰ることはできません。日本軍が、兵士を消耗品としてしか考えていなかった事実のひとつがここにあります。

          

 もう一度、辺野古の美ら海を。この向こうが埋め立てられようとしているのです。

              

 辺野古の漁港付近の岸壁に、祈るかのように並べられていた白い貝殻です。

          

 

 沖縄シリーズの私のレポートはこれで終わりです。
 長々としたものをお読みいただいた方々に感謝します。
 また改めてご案内頂いたOさん、ご同行の皿塩組に感謝いたします。
 Oさんの素敵な歌声、いまも耳に残っています。
 ニフェーデービタン!

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なんやかんやで初めての沖縄(7) 嘉手納で基地を眺望 ああ、この広大さ!

2019-11-23 01:28:35 | 旅行

 沖縄を車でゆくと、当然ながらここは基地、そこは基地といった具合に米軍基地に行き当たる。日本全国の米軍基地の70%がここにあるからで、その面積比は、沖縄本島の15%に至るという。
 東京都全体を沖縄県とすると、その23区のうち13区が米軍基地という割合になる。 

          
 

 しかし、これら広大な基地も、長ったらしいフェンスで仕切られているのみで、その向こうの様子はなかなか窺えない。
 そこで、嘉手納(かでな)基地を一望に収める箇所があるというのでそこへ案内してもらう。

 嘉手納は野國總管という人が1605年に甘藷を中国から沖縄に持ち帰って広げたとのことで「おいものふるさと」と言われている。青木昆陽が日本にサツマイモを普及させたという史実を100年以上遡る。

              
 

 「道の駅かでな」で愛嬌のある看板の写真を撮ったが、この右上にかすかに見えるフェンスの向こうはもう米軍の基地である。そして、基地が一望できる箇所というのは、この道の駅の屋上テラスのことであった。

 そこへ登る。広い、とにかく広い。それはそうだろう、小さな市町村ならすっぽりと収まってしまう広さなのだから。
 Wikiによれば、以下のようである。

 「総面積は、約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、約100機の軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。また、在日空軍最大の基地である。滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになる。面積においても、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。」

          

          

 テラスから写真を撮ろうとして、2,3回シャッターを押したが、とてもその広さを実感できる映像は撮れない。そこで急遽、慣れない動画に切り替えて撮ってみる。その広さが伝わるだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=MgTUYb1Ofa0
 

 しかし、これはこの基地の飛行場の部分に過ぎない。この映像の下側の道路左手の両側には、諸管理部門、兵舎、居住エリア、学校、教会などなどがさらに広がり、ゆうに一つの街を形成している。

 道の駅を出て県道74号線を走ったが、両側がアメリカの基地であり、陸橋、地下道などが頻繁に両側を結び、その間の道路を走る私たちが、基地の中を肩をすぼめて通らせてもらっている情けない気分になる。

 これだけ見ても、沖縄が過重な基地負担を強いられていることがよくわかる。それを無視し、その上にさらに負担を強いるのが辺野古であることもよくわかる。

 沖縄は基地のおかげで成り立っているという俗説を信じている人たちに言いたい。それは事後的にそうさせられたのであって、先に見たように、東京都の15%が米軍基地であったとしたら、東京都民は誰一人それと関わりなく生きてゆくのだろうか。いや、ゆけるのだろうか。よく胸に手を当てて考えてほしい。

 

 

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