六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「黄金のアデーレ」は何を見てきたのだろうか?

2016-03-31 15:35:22 | 映画評論
 過日、遅ればせながら二番館で『黄金のアデーレ 名画の帰還』(監督:サイモン・カーティス 2015)を観た。
 映画としてもとても良く出来ている。
 無駄なカットがなくテンポよく進むなかで、テオ・アンゲロプロスばりの時空を超えた異次元映像への滑り込みが挿入され、名画返還活動の現在と、それが奪われたナチス時代のウィーンとが往還する。

               

 後半は映画からはいささか離れるが、これを手がかりに考えたこともあるのでそれを書いてみたい。
 
 映画はクリムトの名画、「黄金のアデーレ」のモデル、アデーレの姪・マリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)がナチスに奪われ、今やオーストリアの美術館にあるその絵画の返還運動の過程を描いているが、その依頼を受け、最初は副次的に関わる若き熱血弁護士・ランドル・シェーンベルグ(ライアン・レイノルズ)が次第にのめり込みを見せ、終盤に至ってはもはや諦めの境地にあるマリアを逆に牽引することともなる。

             

 なお、マリアがナチスの迫害を逃れてアメリカへ亡命した折の冒険譚もちゃんと挿入されているし、またコンビを組む弁護士のランドルは、やはりナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命した無調音楽や十二音階の始祖ともいわれるアルノルト(アーノルド)・シェーンベルグの孫なのである。
 ちなみにA・シェーンベルグは、ユダヤ人であること、加えてナチスのいう退廃芸術に相当する作曲家だとして二重に迫害された。

              

 なおクリムトはユダヤ人ではなかったが、その絵画に漂う官能的なエロティシズムから退廃芸術扱いを受けそうになったが、その具象性と絵そのものの美しさなどにより焼却などを免れたと思われる。ただし、彼のパトロンであった多くのユダヤ人たちが迫害を受け、財産を没収されたり、命を落としたりした。この映画もそうした事情をバックにしている。

              

 ここに出てきた名前、クリムト、シェーンベルグ、さらにセリフとして登場するフロイト博士(精神分析の祖)、の他に、絵画ではエゴン・シーレ、音楽ではグスタフ・マーラーなどを数え上げると、二〇世紀に多大な影響を与えたいわゆる「世紀末ウィーン」の芸術や学問の概要が見えてくる。

 返還訴訟の相手はオーストリア政府なのだが、彼らもなかなかそれを認めない。「『アデーレ』はオーストリアにとって『モナリザ』なのだ」という映画の中でのセリフがそれを示している。

             
 
 ここで、ナチス時代のオーストリーについて見てみよう。
 現在オーストリアは独立した国家として、「ドイツではなかった」「ナチスではなかった」と口をつぐんでいるが、1938年のドイツによる併合は、それ以前のオーストリア国内でのナチスの暗躍とドイツ語を話す勢力の統一という大ドイツ主義のもと、無血の明け渡しで、しかも映画でも見られるように、各地で群衆の大歓迎を受けての併合であった。
 この意味では軍事的敗北の結果として作られたフランスのヴィシー政権などとも性格を異にする。
 オーストリアそのもののナチス化は、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の後半が、迫り来るオーストリア・ナチスとの闘争であったことからも明らかである。

              

 だいたい、ヒトラーそのものがオーストリアのリンツ郊外で生れ、リンツの工科学校へ入学している(哲学者のヴィトゲンシュタインと同級生でいっしょに写っている写真もある)。ドイツへ出て政治家になった後も、大ドイツ主義に基づくオーストリア併合は彼のまず手始めの夢だったのだ。
 このくだりは、彼の著『わが闘争』の書き出しが大ドイツ主義への宣言であることからも確かめられる。

              

 したがってこの絵画返還の運動は、反面、オーストリアのナチズムがなんであったのかへの問であり、オーストリア自身がしてきたユダヤ人への迫害、抹殺への協力に関する告発でもある。
 それは、ナチスが奪ったものを、国のものとして手放さない行為の中に象徴されている。オーストリアが、今日、ドイツ以上にネオ・ナチが跳梁し、「自由党」と称する極右政党が国会のなかでもジリジリと勢力を拡大しつつあることとの関連もあろうと思われる。

              

 とはいえ、オーストリアは私の好きな国である。ザルツブルグやインスブルッグの旧市街の佇まい、私の好きなトラムカーが縦横に走るグラーツ、そしてオーストリー・ハンガリー帝国の栄光を、そしてモーツァルトを含む音楽家たちの栄光を今日に伝える首都ウィーン・・・。
 私の数少ない海外旅行のうちで、ウィーンは唯一、二度訪れた都市である。
 映画を観ていても、見慣れた風景、見慣れた建造物が登場し、ただただ懐かしかった。
 この都市たちが、そしてこの国が、かつてのあの醜さを再び身に纏わないことを祈るほかない。

 例によって映画からは大きく逸れたが、いずれもこの映画に触発されたものではある。歴史は、二〇世紀後半以来、大きな変動を迎え、その着地点も見えてはいない。この不確定な中、私たちの参照すべきは過去の歴史的事実であり、その背後にある思想的立場のようなものである。
 この間、他者の抹殺や迫害を辞さない偏狭な立場が世界にも、そしてこの国にも満ちている。
 それらを形にしたり、勢力にしてはならない。
 歴史はそれが地獄への道であることを教えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の桜 「マイお花見ロード」と加納城址にて

2016-03-31 02:31:41 | 日記
 きれいに咲き誇っているのに、あまり見に来る人もなく、ましてやお花見などはない川沿いの桜並木を勝手に「マイお花見ロード」と名づけて毎年花を愛でている。

  
     

 ここは同時に、1月末に骨折した左手の治療のために、病院へと通う道でもある。
 その途中、2月は梅の花とその香にずいぶん癒やされたことはすでに書いた。
 今や季節は代わり、花も代わった。

             
                  梅はもうすっかり散ってしまった

 かつてはこの近くにスーパーがあったので、買い物帰りの人などでもう少し人通りがあったが、それが少し離れたところへ移転してしまったので、一層人通りは少なくなった。

  
  

 花の下を通って病院に着く。ここはかなり混むので、いつも早めに来て診察券だけ受付へ出し、待合室で本でも読んでいるのだが、この日は、道路を挟んで向かい側にある加納城址ヘ行ってみる。
 
  

 ここの桜は、土地柄のせいか、マイお花見ロードのそれよりもみんな背が高くのびやかに見える。
 そして人出もまあまあある。学校が休みということもあって、子どもたちが駆け回っているし、2、3家族合同と思われる和やかな花見のグループもいる。

  

 私も小学校の高学年から中学生の途中まで、この近くに住んでいたので、ここでよく遊んだものだ。そのもう少し前には、ここには進駐軍の米兵たちがいて、夏の夜など、当時としては珍しく音のでかい爆竹かなんかを鳴らすので、まだ、戦争後遺症から抜け切らない住民たちはおっかない思いをしたものだ。

  

 一周りして病院へ戻る。確かに手術痕は薄くなり、機能もずいぶん回復したのだが、やはり手首に金具が入っている違和感は拭えない。時折は痛みを感じることもあり、本調子とはいい難いが、まあ、自分の不注意でしでかしたこと、これを自戒として徐々に慣れるしかあるまいと思う。

   

 帰りもお花見ロードを通って帰った。つがいのカルガモがいて、それと花とのコラボで写真をと思ったがうまくゆかなかった。TVなどで見るカルガモは、人を恐れず近くを通ったりするが、この辺のは人を見るとサッ、サッと避けて視角外へと逃げるので、望遠のないガラケーではまずうまくは撮れない。

 まあ、こんなところが今年のお花見だ。
 あと、何回見ることができるだろうか。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう最後かもしれない今年の土筆

2016-03-18 02:26:14 | よしなしごと
 今年は早いと聞いていたのだが、やはりそうだった。
 やっと時間ができたので採りに行ったらもう頭の部分が開ききったものもある。
 土筆採りの話である。

            

 他ではもうすっかり採り尽くされているかもしれないが、私のマル秘スポットへは誰も採りには来ない。大きな建物の北側で、日当たりが悪く、こんな所に土筆が出るなんてまずは考えられないからだ。しかも、私の家からは徒歩30秒・・・。
 私だって、ほんの偶然、ある時に見つけたのだ。だからここはマイ・スポットで、ここ何年か土筆に不自由したことはない。
 今年もあるわあるわの林立状態、一度手を伸ばしただけで3本採れるなんてこともある。

            

 やや遅きに失したとはいえ、土筆の旨みは頭部のほろ苦さと同時に茎のシャキッとした食感にもある。だから採った、採った。例年より多く採った。
 それには訳がある。数日前から、私のうちの前で大々的な工事が始まった。既存の駐車場や田んぼを数枚埋め立てて、中部地区に本拠を置くドラッグストアが進出してくるというのだ。
 そうなるともう来年は採れないかもしれない。

            

 わざわざ遠くへ採りに行く元気ももうないから、これが今生の食い納めかもと、欲張ってたくさん採ったのだ。
 しかしだ、土筆採りをしたことのある方はおわかりだが、採るのはある所へ行けばいとも簡単に採れる。問題はその掃除だ。
 袴を取って綺麗にするには並大抵ではない。
 今回も、15分ほどで採ったものを綺麗にするのに2時間はたっぷり要した。

            

 それらを流し台のシンクで洗って、冷蔵庫へ収納した。
 夕食時には、その三分の一ほどを使って定番の卵とじに。
 半熟卵で仕上げるつもりが、ちょっと目を離していて煮えすぎてしまった。
 画竜点睛を欠くだ。
 でも、春の味が口中に広がって、その味を満喫できた。

            

 ここに住んで半世紀、はじめは私のうちの100メートル以内には人家はなく田んぼに囲まれていた。田の間を流れる小川は、今のようにU字溝ではなく、一年中水が流れ、メダカやフナ、ドジョウがわんさかいた。
 今のU字溝は必要なときだけ水を流すから、水生生物は皆無だ。
 あの強固な、ジャンボタニシすら姿を見なくなっている。

             

 そして巨大ドラッグストアの出現。
 これから先、この辺りはどうなるのだろう。
 土筆はどうなるのだろう。
 そう、スーパーへ行けば袴を取った綺麗なものがパックにして売られている。
 しかし、子供の頃から土筆は自分の手で採って食べてきた私には、スーパーのそれはなんだか違うものに思えてしまうのだ。
 歳をとるということは保守的で頑固になるということだろうと思うが、この世界との関係においては柔軟で自由でありたい。






コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寂しい桜 終わりの始まり

2016-03-15 00:23:30 | 花便り&花をめぐって
 うちの桜がもう満開なのです。毎年、3月10日頃には開花しはじめますが今年は早く、もうこの雨で散る花もあります。桜ん坊がなる木で、ソメイヨシノより20日ほど早いのです。

            

 でも、この2、3年、花が咲いてもとても寂しいのです。
 以前は小ぶりながら木全体にパアッと花がつき、その一帯が明るくなるほどだったのですが、それがもう木それ自体の寿命なのか、どんどん枝が枯れていって、今や花がつくのは最盛期の10分の1足らずなのです。
 それを見ると、なんだかとても寂しいのです。

 この木同様、その生命の終わりの始まりを迎えようとしている私自分と重ね合わせるからでしょうか、やたら寂しい思いがするのです。
 それでも残された花は懸命に咲いています。ですから今年も一応写真に収めました。
 一番最後の写真は、全盛期の頃のものです。これから見ても、花の勢いが違うのがお分かりいただけると思います。

            

 当然のこととして、桜ん坊の収穫もかつての10分の1以下です。花が減ったところへもってきて、実がつく花が減ったのです。
 かつては、ちょっとしたザルに、毎日一杯ずつ、数回以上にわたって収穫しました。それらのほとんどは、娘の勤める学童保育のおやつになりました。
 子どもたちは目を輝かせて食べてくれたそうです。
 昨年は、かろうじて一回だけ持ってゆくことができました。
 今年はどうでしょう。
 とても心もとない気が致します。

            

 桜が咲くのを眺めてこんなに寂しい気分になるなんて、まさに「わが身世にふるながめせしまに」ですね。
 もっとも、小野小町は花が散りゆくさまを詠んだのですが、私のそれは木それ自体がその生命を終えようとしているのを目の当たりにしているのですから、翌年に期待をつなぐこともできないのです。
 寂しいです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5年前の日記から 事態は変わっていない!

2016-03-13 23:51:46 | 想い出を掘り起こす
 あの大震災と原発事故から5年目とあってメディアはその特集をこれでもかとぶつけている。復興はある程度進みつつあるが、原発事故に関しては今なお帰還不能地区があり、復興どころの騒ぎではない。
 人の住めない街ではイノシシの群れが我が物顔に闊歩し、それがまた汚染を運搬するのではとも懸念される。
 「除染」という名の「移染」はさしたる効果も挙げず、何十万トンという汚染物質が行き場もないままに放置され、それがまた復興の足を引っ張る。周辺のことを考えなければ、東電の本社、幹部の自宅、原発推進の政治家の自宅へ送りつけたいところだ。
 この実情があり、しかもその原因が明確になっていないにもかかわらず、他の原発の再稼働なんて天をないがしろにする所業だと思う。

 5年前の3月13日から21日まで、私は毎日日記を掲載した。そのうち、18.19日分は引用元がすでに消されているのでそれらは除き、他を再掲する。 

 原発!  2011・3・13

 私は、諸テクノロジーの発展に否定的に対応するのはある種の反動だと思っています。しかし、原子力だけは例外です。
 今回の東北地方の地震で、それはアクセルだけが付きブレーキが利かない欠陥車であることが実証されました。 ようするに原子力に関しては、大量殺戮のために開発されたそれが今なお人類によって馴致されたとは思えないのです。
 したがって、それが100%の安全性が確証されるまで、封印さるべきテクノロジーだと思います。

 当然のこととして、新たな設置など全面的に凍結すべきです。そして、国内の既設のものすべてを廃炉にすべきだと思います。

 ちなみに日本は原子力発電大国で世界第三位です。
 その基数は、アメリカの半分、ロシアの2倍です。

 末尾になりましたが、今回の災害で罹災された方々へのお見舞い、とりわけ亡くなられた方々への合掌と鎮魂の意を表明いたします。

 原発崩壊!   2011・3・14 

 私が前の記事を書いた折には3号炉のトラブルについては全く知りませんでした。
 1号炉についてのみ問題が起こっていると思っていました。
 東電など原発に関わっている人以外のすべての人はそう思っていたと思います。
 ところが、3号炉も同様の事態、それが公表されたのはその事態が発生してから三日目。これは事実が隠蔽されていたとしか思えません。

 なぜでしょうか?
 考えて見れば1号炉の事態も、外壁が吹っ飛んだという紛れもない映像があってしぶしぶ公表されたのでした。
 3号炉についてはそうした外見がなかったので三日目まで隠蔽されたということでしょう。

 なぜかくも隠そうとするのでしょうか?
 それはおそらく、公表すると人々がパニックを起こすのではないかという公の「政治的判断」と原発推進者の「政治経済的判断」が一致したからでしょう。
 ということは逆に言うとこの技術は、とても公にできない危険を内包していることを認めたことになります。
 ようするに、人が制御できない技術、その事実を公表すれば人々がパニックに陥る技術、したがってその詳細な情報を隠し通さなければならないのが事実だということになります。

 補足として、新しい技術が伴うリスクについて述べたいとおもいます。
 
 ひとつは、それによりしばしば不都合が生じるが、それらの不都合はは軽微であり深刻な影響を伴わないもの、例えば、電力そのものは感電をするとか台風などで断線するとかいうリスクを背負っていますが、それを理由にそれを否定する人はいないでしょう。

 もうひとつのリスクは、めったに不都合は生じないがそれが生じた場合には壊滅的な打撃をもたらすものです。原子力発電はこれに属します。 しかも、どうやら「めったに生じない」のではなく、しばしばヒヤリとする不都合が生じている模様なのです。
 
 これに関する問題は、今回の事態もそうであるように、それらの不都合がつぶさに公表されていないということです。
 今回の件も、何も分かっていない段階で20キロ以外への住民の避難が一方的に命令され、それからずいぶん経ってから「実はこんなことが起こっています」と知らされたのです。
 しかもその公表内容も極めて不十分で、各TVの解説者や各紙の解説者が、まるで暗闇を覗き込むように微妙に違った解説と見通しを述べています。
 
 1号炉の外壁が吹っ飛んだという映像を見せられてから、それがどんな事態かを知らされるのに半日を要し、なおかつそれも不十分でした。 3号炉でも同様な事態が生じていることも隠し続けられ、三日目にしてやっと公表されたのです。

 その基本姿勢は、「臭いものに蓋」でしかありません。
 なぜ事実をひた隠しにするのか?それはこの技術が今なお人の制御になじまないという危険性をもち、壊滅的なリスクを背負っていることを人々に知らせないためといわざるを得ません。
 
 原発崩壊と隠蔽体質と石原知事  2011・3・15

 一号炉、三号炉に続いて二号炉でも同じ問題が起こっていることが明らかになった。
 しかも二号炉はメルトダウン(炉心崩壊)寸前まで行ったようだ。
 現場の担当者や下請業者の作業員などが懸命に回復に努力をしていることは疑う余
地はないし、その不眠不休の活動に期待したいと思う。

 問題は、東京で全く恣意的な情報のみ流し続ける東電の幹部連中だ。
 だいたい最初は、ほとんど問題はないと言っていたのに、一号炉の外壁が吹っ飛ぶ
に及んでやっと問題が生じていることを認め、一挙に周辺住民の避難にまで至った。

 そしてその時点ですでに三号炉や二号炉にも問題が生じていたにもかかわらずそれ
には頬かむりを続けた。

 三号路の爆発はそれ自身凄まじいもので、よく数名の負傷者で済んだともいえる。
 二号炉は外壁は無事だが内部では最も深刻な事態が起こっているようだ。
 冷却水が入らず、燃料棒が露出したままで、放射能の漏出はすでにかなり進んでい
るものと思われる。
 最悪の事態も想定されるが、それだけはなんとか防いでほしい。

 そして東電の幹部は、自分たちの「政治的判断」のみで恣意的に情報を操作するの
ではなく、すべてを明らかにすべきである。

 ついでだが、今回の事態は「天罰」であると公言してはばからない高邁な都知事を
いただく東京で、食料や生活物資の凄まじい買い占めが起こっているという。
 停電などが予測される中で気持ちはわからぬではないが、彼らが買い占めている物
資は実は最も被災地で必要とされるものなのである。
 都知事がいう「我欲への天罰」ということなら、次の津波は東京を襲うことになる
がそれでいいのか。

 もちろん私はそれを望むわけではない。

 原発事故は原発に反対した人々の責任???   2011・3・16

 私が見たツイートで複数の人たちがおおよそこんなことをいっています。
 「今回の原発事故は原発反対派の責任だ」というのです。
 その論理は、東電は原発反対派の抵抗にあって、新しい原発を設置し得ず、古い原発を使い続けた結果今回の事故に至ったのだそうです。
 私たちはどんなテクノロジーであれ、それが危険をはらむものであればNOというべきです。
 その設備が新しかろうが古かろうが、それを安全として使い続けた東電にこそすべての責任があります。

 上の論理は、強盗殺人にあって殺されたのは彼が抵抗したからであってその犯人には全く責任がないという言い分です。

 ようするにお上や権威の言う事を聞かないお前たちが悪いというわけです。

 センセーショナルな言動の問題  2011・3・17 

 東京で凄まじい買い占めが行われていることが報じられ、TVはことさらに空の食品棚を写します。
 私もてっきりそうした状況が一般的なのかと思っていました。
 
 しかし、東京の友人によれば、必ずしも東京全域でそうした状況にあるわけではなく、少ないとはいえ食品が売られているところもあるのだそうです。
 彼によれば、むしろメディアのそうした報道が買い占めを扇動する結果となり、それが広がっているのではないかと言っています。

 名前の知られた人の幾分不用意なツイートも見られます。
  http://htn.to/8Ga2JN
 それによれば以下のようです。
 
 ”元科学技術庁長官が、今回の原発事故について「東電と政府の情報を絶対に信じてはいけない。信じたら大変なことになる」と個人的に打ち明けた。ご参考までに。なお、それをどう解釈するかは、皆さんの問題。”

 「科学技術庁長官」というのは政治的なポストで特に科学技術に詳しいわけではありません。たしかに私も東電や政府の情報開示はきわめて不十分だと思いますが、「絶対に信じてはいけない」とは思っていません。もしそうだとしたらどの情報を手がかりにしたらいいのでしょう。
 元科学技術庁長官や宮台氏が正しい情報を与えてくれるのでしょうか。

 上の氏の言動は、自分は「権威ある人」から「個人的に打ち明けられる関係」にあるという自己顕示以外のどんな内容も持っていません。むしろ、現実の背後で庶民が知らないことが進行しつつあるという陰謀論のようなもので、結果として人々にいたずらに必要以上の行動を煽る結果になると思います。

 危機管理についての点検や責任論は後から論じればいいと思います。
 とりあえずは、現場で不眠不休で被曝や負傷の危険性をも顧みず事態の鎮静に努力している作業員の皆さんの尽力が、その成果を見ることを願い、また彼らの無事を祈りたいと思います。

 こうした事態での過剰報道や陰謀論的発言が、関東大震災に際しての朝鮮半島の人々への虐殺に繋がったという歴史的経験を噛み締めるべきです。

 東浩紀氏の民族派への転向??? 2011・3・20 

 以下は、NYタイムズへの東浩紀氏の寄稿です。
 いってることは至極まっとうですが、やはり、国家や民族の問題でのナイーヴさ、底の浅さが露呈しているのではないでしょうか。

  http://blog.livedoor.jp/magnolia1977/archives/52018307.html

 私もこの状況の中で人々が助け合い、忍耐をしている状況を大いに評価しますが、それを日本民族や日本国家の固有性に還元するのはいかかがなものかと思います。とりわけ次のようにいわれてしまうとやはり引いてしまうところがあるのです。

 「有害なシニシズムの中で麻痺していた、自分の中の公共精神や愛国的な自分を発見した経験は色褪せることは無いだろう。」

 公共精神はいざ知らず、愛国的な自分の発見とはいささか危ういのではないだろうかと思ってしまうのです。
 私はゆえあって氏の書いたものをざっと観たことがありますが、いささかの危惧を感じたのがいまわかるような気がします。1980年代以降のポストモダン世代は、国家や共同体との相克を経験してはいないのです。

 だからそれへの違和感をもった経歴を単なる「シニシズム」で片付けて、何かの契機で日本人万歳、日本国万歳に容易に「転向」しうるのです。

 繰り返しますが、私はこの事態への人々の冷静な対応を敬意をもってみています。もちろんそこには、買い占めといった不協和音などもあるのですが、全体としては感服せざるをえない状況にあると思います。

 ただしこれを、日本国家、日本民族の固有性のようなものに還元する氏の論調には危ういものを感じざるを得ないのです。ましてやそれが、「愛国的な自分を発見した経験は色褪せることは無いだろう。」などといわれてしまうとなおさらです。
 こうした「転回」を遂げた氏の論調が今後どのようなものになるかを見守りたいと思います。
 (デリダ読みがどしてああなるかなぁ?単なるコンストラクションではないの?)

 写真掲載とコンサートの話 2011・3・21

 時節柄、写真の掲載をしてきませんでしたが、少しずつ再開いたします。
 「琵琶湖落日」の写真です。

                        
               陽が山の端に近づいて・・・

 また先般、前々からチケットを購入してあった大阪フィルの第三十四回岐阜定期公演へいった来ました。
 演奏の全プログラムに先立ち、「G線上のアリア」が粛々と演奏されました。

                   
                落日寸前と釣りをする人

 演奏が終わっても、拍手をしていいものがどうかみんなが迷いました。
 最初はパラパラと、やがて一斉に盛大な拍手が沸き起こりました。
 それは演奏者を称えるというより、被災地への激励の拍手でした。

                    
                     落日直後

 プログラムの中に、ベートーヴェンんの「第六」があったのですが、嵐の場面でつい東北の状況を想起してしまいました。

 指揮は延原武春氏。
 







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残念ながら拍手ができなかったコンサート

2016-03-07 13:44:40 | 音楽を聴く
 拍手ができなかったコンサートについての話である。

 この時期、岐阜に春を告げるコンサートがある。
 大阪フィルの岐阜定期演奏会で、毎年三月の初旬にやってくる。
 そして今年は39回目となる。
 かつては朝比奈隆もやってきたし、佐渡裕も客演指揮者としてやってきたことがある。
 現在は井上道義氏が首席指揮者で、昨年は彼が率いてやってきた。

               

 今年はガラリと趣向を変えて、女性を指揮者やソリストに登用したオール・フランス音楽のプログラムで、ポスターやチラシの色合いも、先ごろ終わったひな祭りを思わせるピンクをバックに指揮者・三ツ橋敬子さん、ピアノ・菊池洋子さん、オルガン・徳岡めぐみさんの写真を配した華やかなものだ。

 小手調べの小曲、ラヴェルの「古風なメヌエット」から。
 小曲にしては大掛かりな構成のオケを前に、決して大柄ではない三ツ橋さんがちょこなんと登場する。
 しかし、いったん指揮に入るや、彼女の指揮振りは極めて大胆で、堂々たるものであった。
 とりわけ、その指揮ぶりはとても明快で、オケの音を救い上げるようにあますところなく鳴らしていた。

              

 続いては菊池洋子さんのソロによるラヴェルのピアノ協奏曲。
 この、ピアノを歌わせるというより、打楽器的に打ち鳴らす曲を、細身でスリムな菊池さんが全身で弾ききった。ゴジラの出現を髣髴とさせる辺りは極めて歯切れよくピアノを鳴らしていた。
 それにしても、ラヴェルの音の使い方は多彩で華やかだ。予想を越えた場所で音が挿入され展開し、それが不自然ではなく響き渡る。
 ガーシュインが、そのオーケストレーションを学びたいと申し出たのもうなずける。
 もっともその際、ラヴェルは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」といって断ったというからこの辺のエピソードは味がある。

 休憩を挟んで、今度はサン=サーンスの交響曲第3番オルガン付き。先ほどのラベルの明快な歯切れの良さに対して、こちらはややゆったりとして荘厳さが漂う曲である。その荘厳さにオルガンが大きく関わる。

               
 
 サラマンカホールのオルガンは、日本のオルガン製作者としては世界的に名を馳せた、故・辻宏さんの手になるもので、そのソロの演奏は聴いたことがあるが、このサン=サーンスの曲をライブで聞くのは初めてだ。
 席の関係(バルコニー席)か、オルガンの音がやや聞き取りにくかったように思うが、それでも要所要所ではその荘厳な響きが体を震わせてくれた。
 オルガン奏者の徳岡めぐみさんの他に、助手のような人がいて、演奏中もちょこまかとオルガンまわりを調整していたが、どこのオルガンでもこの曲の場合にはそうした操作が必要なのだろうか。いくぶん視覚的にマイナスのような気がした。

 これでドビュッシーでもあればまさにフランス音楽を満喫できるところであった。

 こういった次第で、十分満足した春宵のコンサートではあったが、残念ながら拍手はできなかった。
 それが禁止されていたからだ。
 左手の骨折手術以来、一ヶ月半ほど経過したのだが、まだ重いものを持ったり、左手で体を支えたり、左手に衝撃を与えることは禁止されている。したがって、両の手を強く打ち付けることはできない。

 とはいえ、せっかくの演奏をただポカンとしているだけというのもはばかられたので、右手の方で膝を打ち、口のなかではパチパチパチと叫んでいた。
 おかげで、前半の菊池さんのアンコール、終幕のオケ全体のアンコールを聴くことができた。

 コンサートを終えて、会場から出ると、程よい暖かさの風がほてった頬をなでてくれて、「春宵一刻値千金」の感があった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結局は「生きてるうちが花」なんだろうか?

2016-03-05 15:00:34 | ひとを弔う
  必要があって25年ほど前に編まれた全集を読んでいる。
 全集といっても一人の書き手のものではなく、複数の書き手からなるアンソロジーのようなものだ。それらが何冊も続く。
 
 懐かしい書き手、ここしばらくお目にかかれない書き手、その当時も今もあまり良く知らない書き手が出てきたりする。
 そんな場合、この人は今どうしているだろう、この人は一体どんな人だろうと検索してみる。

           

 今なお健在な人を見出すとホッとするが、鬼籍に入っている人の場合など、だから最近見かけないんだと寂しい思いにとらわれる。それが、当時すでに大御所だった人の場合は多少は落ち着くのだが、中には私とぼぼ同時代で、その時代の空気をともに吸ってきた人もいたりする。
 そればかりか、私よりも若い人たちで、すでに向こうへ行ってしまった人たちもいる。

 そうした若い人の一人が、死について語っていたりする。当時は50歳になっていない人だから、「私もいずれ死を迎えるのだろうが」などという一節が入ってはいても、決してそれを実感として感じてはいなくて、その文章での「死」も対象化されたものでしかない。もっとも、誰も死を死んだことなどないのだからやむを得ないのだろうが。

 彼は実際に自分が死に臨んだ際、かつて、自分がそれについて書いた文章を思い出したろうか。あちこちへいろいろ書いていた人だから、とくにそれを思い出したりはしなかったろう。
 そしてそれでいいのだろうと思う。できれば、自分の人生で楽しかったことどもなどを思い浮かべながら、唇に微笑みを浮かべて亡くなってほしいものだ。

           

 こんなことを書いていると、私自身の死後、あいつは「死」についてこんなことを書いていたがといわれそうだ。良き思い出を抱いて、あるいは少し譲って、成就しなかった恋についてのビターな思い出でもいいから、それらを抱いて笑みを浮かべながらなどというならば、私の単なる夢想、ないしは願望といわれそうだ。

 罪深い生を送ってきた私には、七転八倒の苦痛以外の何ものでもない死がふさわしいのかもしれない。でも、その際でも、自分の生に対して後悔やルサンチマンは覚えたくないし、そのように生きてゆきたいものだ。
 ま、これも含めて「死を死んだことがない者」の単なる妄想とも思われるのは間違いないところだろう。

           
 
 こんなことを考えていると、自分の死の間際が実際にはどうであるのかいくぶん楽しみになってきた。ただしこれすら、自分の死を、少し離れた場所で見続ける自分を必要とするので、そんなものは本当の死とはいわないのだろう。

 「人間はすべて死ぬ。しかし、死ぬために生まれてくるのではない」といって、人の生誕が常に世界への新たなものの贈与であることを語ったのはハンナ・アーレントであった。
 それに対し、その師、ハイデガーは、死を先取りすることに依拠して人間の生を(というより「存在」というものを)考えた。

              

 自分の死を例示しながらも、決してそれを実感していなかったあの若きアンソロジーの書き手にしても、そしてこれを書いているこの私にしても、決して死そのものを実感しながら死ぬことはできない。
 単純な事実だが、死はそうした実感の主体そのものを消去する作用だからだ。

 こうして死のまわりを徘徊しながら、私のような凡人は、「生きてるうちが花なのよ」と通俗的な趣味の世界に走ることとなる。

              

 今宵はこれからコンサートへ。
 「大阪フィル 第39回岐阜定期演奏会」で、指揮者も女性(三ツ橋敬子さん)ピアノとオルガンのソリストもそれぞれ女性(菊池洋子さん 徳岡めぐみさん)という顔合わせ。
 メインはラヴェルのピアノ協奏曲とサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」。
 楽しみだ。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする