六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

2日分のズボラな日記

2015-01-28 01:46:36 | 日記
 26日、呼吸器家の検査で市民病院へ。検査項目や問診によってあちこちへたらい回しにされ、それぞれの箇所で待たされる。本を持って行って正解だった。
 持って行ったのはニーチェの全詩集。若いころの詩は、私が高校生の頃に書いていたものとさして変わらないが(何たる思いあがり!)、彼の思想が熟成するに従い、独自の境地に至る。それがスゴい!

 

 写真は市民病院の2階で待たされている時に撮ったものだが、これらの配管、絶えざるメンテナンスによってちゃんと機能しているのだろうな。私の呼吸器もそうであるといいのだが。
 結局この日は結論が出ず、2月5日に引き続きの検査となった。一審での結論が曖昧なまま、二審へ送付された被告の心情。

 27日、市民病院を紹介してくれたクリニックへ報告方々いつももらっている薬の処方を依頼に行く。前回処方されたおままごとのような吸入器具を使った呼吸器への薬は、気のせいか効き目があるようで、息切れの回数が減ってきたように思う。

 
 
 調合薬局で薬を受け取った後、まあまあ暖かかったのと、曇り空だったのに急に陽射しがあって夕刻前の風景を彩りはじめたので、少し散歩。
 桜並木の川べりを歩く。
 桜の老木に、眩しいような斜光がきらめいている。

 冬の川べりは寂しいが所々で小魚たちの反転がキラリと光る。
 映り込みの桜が綺麗だ。花の時期に、ここで映りこみの桜が撮れたら面白いだろうと思うが、きっとその頃にはもう忘れてしまっているだろう。

 

 川から逸れて、菜園に差し掛かる。
 冬の野菜はさほど種類が豊富ではない。
 採り忘れた葉物がやたら大きくなっている。

 

 鎮守様を抜けて家路へと思ったら、境内で中坊が二人、上着を脱いで白いシャツのまま組み合っている。
 喧嘩ではない。
 「なんの稽古だ」と訊いたら、「柔道です」との答えが。
 部活だろうか、それとも武道の時間の復習だろうか。
 いずれにしても、若いってことはいいなあと、60年前へと回想は飛躍する。

 

 家路の方角に夕日が落ちようとしている。
 帰ったら、わずかばかりの雑用を済ませ、それから夕餉の支度に取り掛かろうと思う。
 

 
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多和田葉子『言葉と歩く日記』(岩波新書)を読む 

2015-01-24 14:57:18 | 書評
        

 図書館で何かの拍子に見つけて借りてきた。
 功成り名を遂げた人のエッセイ風の読み物だし、文字通りの日記で一つ一つの文章が短いから、硬いものを読んだ折や、書くという行為に疲れた折など、箸休めのように読めると思った。

 しかし、読み出したら面白くて止まらなくなった。
 作者は知る人ぞ知るマルチリンガルな小説家で、ドイツに住み、日本語とドイツ語で小説を書いている。それだけに言葉に敏感で、常に自分の使っている言葉をメタレベルから見ながらそれに自己干渉してゆくところがある。
 それがこの書のタイトル、「言葉と歩く」が示唆するものだ。

 私はかつて、日本語について勉強したとき、この人の評論やエッセイ、そして小説からも多くを学んだ。それは、いわゆる、原理的な言語論というよりもより実践的な、彼女自身が突き当たったところから言葉を考えてゆくというものであった。
 この書でも、日々の具体的な出来事を記すなかでそこで出会った言葉が考察されるのだが、それは論じるというより、驚きや発見に満ちたレポートとなっている。

 文字通りの日記で、2013年1月1日から4月15日までの105日間の記述である。
 例えば、1月1日のものでは、日本語の「良いお年を!」に当たるドイツ語は、「Guten Rutsch!」だそうで、これは直訳すれば「良い滑りを!」になるのだが、日本語での「滑る」は試験などの試みに失敗するというあまりいい意味をもった言葉ではないという対比から始まる。
 しかし、これは「うまく新年に滑りこんで下さい」を含意していて、また「 Rutsch」が「旅」をも意味するから、「いい旅を!=ボン・ボワイヤージュ」ともなるといわれると、なるほどと思ってしまう。

 しかし、この書の面白さと深さは、そうした彼我の表現の比較にはとどまらない。一連の文章は、比較言語的な考察にとどまらず、時として一篇の詩であり、時としてウイットの利いた掌編小説であり、また時としては鋭い文明批評でもある。
 そしてそこには、現代にしっかりと向かい合った表現者の思考の軌跡がある。

 それらを可能にしているのは、すでにみたように多言語、多文化から現実を相対化しうる視点を彼女が持ち合わせているということであるが、そればかりではない。その立場自身が日々更新されつつあるのだ。
 それを裏付けるのが、彼女の国境を越えた行き来を伴う諸交流(それは文学者にかぎらず、ミュージシャンやアクターなど実に多方面にわたる)の豊富さであり、さらにはそれを支える彼女自身の実に旺盛な行動力である。
 わずか、3ヶ月半のこの日記の中で、彼女の移動した距離はゆうに何万キロかに相当する。そしてこの移動そのものが日々の発見の内容ですらある。

 もうひとつ、ここで述べられている彼女自身のパフォーマンスについて触れねばならないだろう。それは彼女が、自作を様々な形で朗読しているということである。それらは、単に自作を説明したり、サンプルとして提示するためではない。
 彼女はそれを、例えばドイツ語しか解さない人々のなかであえて日本語で朗読したり、フランス語圏でドイツ語や日本語で朗読したりする。そしてそれに、ミュージシャンのインプロビゼーションやダンサーの身体を駆使したパフォーマンスがオーバーラップしたりする。

 それらはまるで、言葉を特定の「文字」から解き放ち、もっともプリミティヴな音声、もはや意味からも解放された音響、響き、メロディ、リズムに分解するかのようである。文字で書かれた文学を諸表現のなかに据え直し、逆照射してみせるような実験的措置ともいえそうだが、しかしながらそれらは、前衛芸術といった幾分の距離をもったものというより、楽しい催しとして上演されているようだ。会場もかしこまったシアターではなく、珈琲の香が沸き立つ喫茶店で、上機嫌な赤ん坊を乗せたベビーカーと若い母親のすぐ目の前で行われたりする。

 これまで述べたような中身の濃い情報が、一日、1ページ前後の短い文章の連なりのなかから鮮やかに立ち上ってくる。それが楽しくて、読み出したら止まらなかったわけだ。

 文章を書く人、読む人、諸表現に関心のある人、エッセイの真髄に触れたい人、などなどにお勧めの書である。
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「イスラム国」とはなんだろうか?

2015-01-22 02:32:33 | 社会評論
        

 イスラム国にはかねてより関心があったが、なんといっても8,500キロ彼方の話であった。それが一昨日以来、すぐ身近な、しかも時間的にも限定された判断が迫られる対象となった。
 
 安倍氏の中東訪問とそこでの「いいかっこし」が引き金となったという事実はあるものの、これはむしろ、イスラム国側がプールしていた人質をこのタイミングとばかりに表に引きずりだしたもので、オボッチャマンの安倍氏はそこまでは読めず、目を白黒といったところだろう。彼には、自分の言動に伴う当然のリスクを読むだけの知恵はない。

 その意味では、「安倍が悪い」という合唱も、暖簾に腕押し、糠に釘で、さして意味はないが、彼の対応が自身の言動の尻拭いとして適切であるかどうかは見守る必要はある。とりあえずは、二人の人命がかかっているのだから。

 ところでイスラム国であるが、いくら政教分離が不可能でジハードを認める教義のもとにあるとはいえ、拘束した無抵抗な人間を殺すというのはやはり残忍な気がする(今回を含め、過去のそれらは、スタジオ録画のヤラセであるという説もあるが、それ自身もよくわからない)。

 しかし、彼らの行動が過激であればあるほど、世界中のイスラム教徒の若者たちにインパクトを与え続け、西洋諸国を含めた国々から志願兵が絶えないといわれている。なぜだろうか。
 彼らの掲げる方針のひとつに「オスマン帝国の復活」がある。これはまるっきり歴史のネジを逆に巻くような話だが、かといって故なしとはできない話でもある。
 
 オスマン帝国が最盛期を迎えるのは17世紀だが、その後、西洋列強の帝国主義的植民地としての蚕食の対象となってどんどん衰退してゆく。そして、その滅亡を決定的にしたのは、第一次世界大戦中の1916年に締結された「サイクス・ピコ協定」といわれる密約であったといわれる。

 イギリス、フランス、ロシアが関わるこの密約は大戦終結とともに実施され、そこに住む民族や言語、伝統、文化などを全く無視して自分たちの勢力範囲を幾何学的に制定し、その領地を分けあったのだった。
 それが、中東や北アフリカに残る定規で線を引いたような直線の国境の由来である。今日の中東や北アフリカで、こうした国境の内外で民族や宗派の問題で紛争が起きるのは、この線引の不自然さに由来する。

 イスラム国は、こうして西洋列強による一方的な分割や収奪の「サイクス・ピコ体制」を打破することによるオスマン帝国の再興を掲げている。だから彼らは「国」を名乗り、通貨を発行し、独自の軍隊を持つ。今やその支配面積は、イギリス本土に匹敵するともいわれる。

 これらの運動は、イスラム教徒による「レコンキスタ=再征服運動」といっていいだろう。だから、それに共感したイスラムの若者たちが世界中から集まる。それを、20世紀中頃の欧米に起こったオリエンタル志向と同一に論じたものを読んだことがあるが、それは違うだろうと思う。彼らには現実逃避的な志向などはない。むしろ命がけの現実参加だといえる。その意味では、世界中からコミュニストやアナーキストが集まった1930年代のスペイン内戦が近いかもしれない。

 したがって、ここにもまた、今日の西洋が西洋たるために犯してきた暴力の痕跡があるのだが、西洋はそうと認識することなく、彼らを単なる暴力集団として軍事的に「片づけよう」としている。
 わが安倍氏ももちろんその立場であり、2億ドルの拠出は「民生的な援助」だとはいうものの、戦場においては武器弾薬のみで戦うのではないのだから、それが当事者の一方を利するものであることはイスラム国に指摘されるまでもなく当然のことである。

 しかし、実際のところ、西洋的な理性のもとで育ったきてしまった者としては、こうしたイスラム国との対応は具体的にはとても困難なものがあるように思われる。
 その困難の中核にあるものは、イスラム教徒が原則として政教一致の教義をもっていることである。ただし、その強度は、地域や宗派によってさまざまに異なり、イスラム教圏全体をグラディエーションのように染め分けている。

 そのなかで最強硬なのが、このイスラム国であり、アルカイダであり、ナイジェリアのボコ・ハラムであるが、私たちはこの全き他者であるかのような人たちと果たして対話が可能なのだろうか。率直いいって私にはわからない。

 今回の人質問題に関してもこうすべきだという妙案などはない。
 ただ、いえることは、彼らを軍事的に殲滅する対象でしかないという前提のもと、そのためには人命というリスクは避けられないとして、見殺しにするのか、それとも、彼らへのむき出しの敵対という立場を緩和し、人命尊重の立場から柔軟に対応するかのどちらかだろう。
 前者はひとつの決断ではあるが政治ではない。後者においてこそ、その政治的手腕が問われるのだろう。それらは安倍氏にどれだけの後知恵が働くかにかかっている。

 いずれにしても二人の無事を祈り続けたい。



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シャルリー・エブドの「風刺」画を検証する

2015-01-19 23:26:48 | 社会評論
        

 シャルリー・エブド事件の波紋はフランスの国家排外主義的なグロテスクな対応や各地でのイスラム排斥運動、そしてそれへのイスラム側からのカウンターの運動などとしていっそうの混迷を深めているようだ。これらが新たな悲惨を生まないように祈るばかりだが、それらの発端になったシャルリー・エブドの「風刺」画なるものについて冷静に考えてみたい。
 
 もちろんこれは、テロルによる表現者の殺戮を決して肯定するものではないが、一方では、「表現の自由」というスローガンそのものが西洋中心のある原理主義ではないか、ようするに「表現の自由」のもとあらゆることが許されるのかという設問がお膝元のフランスでも出始めていることも事実である。

 問題は、シャルリー・エブドの風刺なるものがどんな地点からどんな方向に向けて行われているかだろう。そう思ってその風刺画を見てゆくと、いくつかの疑問を抱かざるをえない。
 風刺のひとつの立脚点は、抑圧された者たちが、その抑圧対象である権威を笑うところにある。私たちはそれらの例として、スターリニズム時代の東欧圏で生み出されたおびただしい小話を知っている。また、この国において、江戸時代の幕藩政治を風刺した狂歌や落首の歴史を知っている。

 ところで、シャルリー・エブドは権威を笑うのだとして、例えばイスラム教やその教祖をズタズタにしてみせる。しかしである、シャルリー・エブドはイスラム教の教義によって被害を受けている被抑圧者なのであろうか。そうではない。彼らはむしろ、「愚鈍なる信者」に対する啓蒙のつもりで、「彼らの」権威を侮辱してみせるのだ。

 ようするに彼らは理性的なる者(あくまでの西洋の理性なのだが)として、「理性なき者たち」に対して説教を垂れているのだ。これは、被抑圧者が抑圧者にペンで立ち向かう風刺とはまるっきりベクトルが違って、上から目線の訓戒に他ならない。

 ようするに、西洋理性の代表者である優れた者が、非理性的で遅れた者たちをめった打ちにし、嘲笑し、愚弄しているに過ぎないのではないか。それでも彼らは、宗教的権威という非理性的なものと戦っていると強弁するかもしれない。しかしこれもまた違うのだ。

 周知のように、マルクスは、「宗教は人民のアヘンである」といった。しかしこれは宗教やそれを信じる人たちを否定したり愚弄したりしたわけではない。現世が、苦難に満ち、激しい痛みを伴わずにいられないとしたら、人民は宗教というアヘンにすがらざるをえないというその「事実」を指摘したのであって、それを非難したり単純に否定したわけではない。
 それへの解答は、現実から痛みを取り除くことであり、宗教やそれに帰依する人たちを嘲笑することなどでは決してないことを彼はその実践において示した。

 風刺が硬直し、単なる罵倒に堕した歴史を江戸古川柳の中に見出すことができる。観察とうがちと風刺に満ちたこの短詩型文学は、江戸末期に一時衰退したことがある。それは、類型化した対象を勝手にこしらえて、それを罵倒嘲笑する口汚い狂句が続出したからであり、類型化されたそれらは風刺の精神を全く欠いた、単なる悪口雑言に堕したからであった。

 例えば、「相模女」といえば尻軽で性的にだらしがないということの典型にされ、だれかれの区別もなく、句のなかに「相模」とあるだけでそれを意味するようになった。それと似たものとして「信州男」は大飯喰らいとされて蔑まれ、また、その羽織の裏地が浅葱色が多かったという理由で、「浅葱」は参勤交代で地方から江戸にやってきた田舎武士を侮蔑する言葉として氾濫した。

 それらの句や類句がこれでもかというぐらいおびただしく作られ、やがて、川柳は下品な文芸として衰退していった。
 ここにあったものはもはや風刺でもなんでもない。「粋」を自認する江戸っ子(の一部)が、その他の地方の者たちを侮蔑し貶める言葉にしかすぎなかった。そう、今でいう差別、そしてヘイトスピーチに他ならなかったのだ。

 シャルリー・エブドに戻ろう。はっきりいって彼らは西洋理性という錦の御旗を背負った権威者の側にいて、他者を侮蔑し嘲笑し、その表現でもって抑圧さえしてきたのではなかろうか。彼らは、「表現の自由」という西洋での普遍的な倫理に守られてはいたが、誰かに抑圧されていたわけではない。だから彼らの「風刺」は何かに対するアゲインストはない。むしろ、西洋合理主義という高みに立った自己顕示と自己満足の発露といえるだろう。

 しかし、それらを自分たちにつきつけられた武器として認識する者たちがいても何ら不思議ではない状況であった。グローバリゼーションのなかで、政治的にも経済的にも、そして諸文化においても、西洋にじわじわと追い詰められたイスラム社会においては、シャルリー・エブドの「風刺」は勝ち誇った西洋の側からする尊大な権威の誇示と見られても致し方ないだろう。

 もちろんこれらはテロルの背景ではあっても、それが現実に殺戮になっていいということはいささかも意味しない。ただし、「洗練された《風刺》という言説 vs 野蛮なテロ」という図式ではないように思う。「度を越した野卑なヘイト vs 怒りの短絡としてのテロル」というのが相当するのではあるまいか。

 権威に拝跪せよとはいわない。ただし、多くの人達が崇拝する対象をやたらに侮蔑するのが「正義」であったり「理性的」であるとはどうしても思えないのだ。

 私は川柳を嗜んだこともあり、風刺という婉曲な批判の方法には馴染んでいるつもりである。そうした私であるが、シャルリー・エブドのそれは「風刺」というにはあまりにも露骨で挑発的であるように思われる。
 したがって、私はその面でも「私はシャルリー」とは決していえないのである。
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床屋談義なき床屋でくつろぐの巻

2015-01-17 00:38:50 | 日記
             

 16日、穏やかで少し暖かかったので、待ってましたと散髪に出かける。
もっと早く行きたかったのだが、短く刈り上げるタイプなので寒い日には首筋がスウスウして病み上がりにはつらい。そんなこともあってズルズル延ばしていたのだ。
 
 もう2、3度書いてきたが、聾唖の若者が開いた店で、とても気に入ってそこばかりにしている。
 TVもBGMもなく、音といったら器具が発するものと彼の息遣いぐらいだ。瞑想にはもってこいの雰囲気だが、まじめに瞑想に耽るような素質もないので、くだらないことばかり考えているうちにすぐ寝入ってしまい、頭が傾く。

 すると彼が、その大きな手で頭を挟み込むよにしてグイと自分の仕事がし易いポジションに戻す。それがなんとなくおかしくて、クックッと笑いがこみ上げそうになる。もっともその前に、警策で打たれた座禅の僧のように、ハッと目を覚ますのだが。

 彼の技術は確かだし、仕事が丁寧だ。前に行っていた、3,800円のところに比べても何ら遜色がないばかりか若いだけに新しい技術もいろいろ習得しているようだ。サービスもいい。
 今回など、あとに待っているお客がいなかったせいで、アフターサービスの肩叩きやマッサージを実にみっちりやってくれた。これがまた気持ちがいい。これで1,700円(シルバー割引)では申し訳ないくらいだ。

 彼は音には恵まれていないが、その分視覚が優れているのかいい写真を撮る。店には、いつも引き伸ばした写真が数枚掲げられている。それもゆくたびに変わっていて、しかも広島やら、関空やら遠隔地のものがあるから、どうやら休みを利用してけっこう遠出をして撮ってくるようだ。

 今回は、赤い新幹線「スーパーこまち」や黄色い新幹線、ドクターイエローなどをいいアングルから綺麗に撮ったものか飾られていた。これだけ撮るには、ポジションどりやタイミングにかなり気を使ったであろうことは素人の私にもわかる。

 さっきもいったように、次の客がいなかったので、終わって勘定を払ってからゆっくり見せてもらった。手話ができないので、大きく口を動かすようにして感想をいう。「これがいい」というと、相好を崩して何度も頷いていた。きっと自分でも会心の作だと思っているのだろう。

 マッサージのせいか身も軽くなって扉を開けて外へ出たら、俗世間の音どもが、わっと一斉に襲いかかってきた。



写真は夕方、近くの家のTVアンテナに集まったふくらすずめたち。数えてみるとおよそ60羽ほどいる。携帯で望遠が効かず、しかも逆光なのが残念。
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散歩道で考えたことなど

2015-01-15 14:24:44 | 写真とおしゃべり
 今日は朝から冷たい雨が降りしきっている。町内の班長として、広報を配る役なのだが、昨夜のうちに配っておいてよかったと安堵している。
 以下は、比較的穏やかだった昨14日の話。


      =======================

 ここのところ、必要最低限の外出しかせず、閉じこもってひたすらデスクワークに集中している。おかげで、いくつかの文章をほとんど書き終えることができた。なかには、今まで関わったことのない伝記的なものもあって、その出来栄えの客観的な評価が気になるところだが、今は静かに寝かせながら、推敲と校正に励んでいる。



 そんなわけで、圧倒的に運動不足である。もっとも、激しい運動はしばらく控えなければならない事情もあるのだが、足腰は適度に動かさないと麻痺する可能性もある。

 学生時代の友人から、一献酌み交わそうではないかというありがたいお誘いの文が来た。待ってましたと飛びつきたいところだが、いろいろ関門があって、「待った」をすることにし、その旨をしたためた返事を出す。具体的には立春以降だろう。赤い鼻緒のジョジョ履いたみいちゃんのように、ひたすら春を待っている。



 その返事を投函しに近くのポストまで歩いたついでに、少し歩くことにする。といっても、ご近所を一回りといった程度である。何度も通り、見慣れた風景だが、季節や人のなせる技による変化は見られる。こちらの視線による新たな発見もある。それらを携帯についたカメラに収めてゆく。



 まだ、午後2時を回ったばかりなのに、人通りはない。かつては、このあたりを歩くと、所々で犬に吠えられたものだがそれもない。吠えられたのが縁で仲良くなった犬もいたがそれらももういない。もはや、雑種の中型犬を飼ううちはなくなってしまって、ちまちまとした室内犬しかいないようだ。



 いろいろ考えたりする。フランスの様相はどんどんグロテスクになってゆくようだ。13日、議会の本会議場では、「自然発生的に」起こった「ラ・マルセイエーズ」の合唱が、ほとんどの議員を巻き込んで、大合唱になったという。



 1945年、フランスの解放後、フランス共産党のモーリス・トレーズが亡命先のソ連から帰国した際、それを出迎えた労働者などが「インターナショナル」を歌い始めたところ、トレーズはそれを遮って、「同志諸君、今は『インターナショナル』を歌うときではない。『ラ・マルセイエーズ』を歌おう」といったエピソードを思い出した。
 この党は、1968年の五月革命の際、権力とともに労働者や学生を抑えこむ側に回った。

   

 フランスに、かつての輸出品目であった「現代思想」の知性が残っているとしたら、「私はシャルリー」と叫ぶ人たちの腑分けをきちんとすべきだろう。主要な流れは、愛国主義と排外主義に傾いているようにみえる。これは、ならず者の道だ。これはまた、新たに「表現の自由」を踏みにじる道にほかならない。
 果たせるかな、「私はシャルリー」を揶揄したとして、コメディアンが逮捕された。

 そんなことを考えながら歩いていたら、家の近くで、車から降りて田んぼで立ち小便をしているおっさんに出会った。なぜかわからないが、私のほうが目をそらし、それを見ないように家へと急ぐのだった。



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漂泊 譚(いわゆるひとつの詩のようなもの)

2015-01-13 16:10:11 | ポエムのようなもの
   

    「漂泊 譚」 

    しょせん漂泊する身であれば
    自分が何処にいるのかも定かではない
    四囲を見渡し
    山があれば山を巡り
    川があれがそれに従う
    しかしやがて道は失われ
    行方は暗く閉ざされる

    そして悟る
    それが漂白なのだと

    しょせん漂泊する身であれば
    いまがいつなのかもさだかではない
    天空を覗い
    星辰の運行を数え
    月齢の示すを読む
    しかし一陣の嵐が来たり
    時は不可視の彼方へ去る

    そして悟る
    それが漂白なのだと

    かくて漂白は大いなる空疎 
    あるいは絶対の自由
    この身を繋ぐ根拠ももたず
    点滅するいくつかの記憶を抱いて
    荒野の真っ只中をゆく

    われはエル・トポ 砂漠の土竜
    ツァラトゥストラの子にして
    デュオニソスの末裔

 
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冬の夕刻 @田舎道

2015-01-11 22:43:03 | 日記
    
 
 冬の夕刻、田舎道は寒くて寂しい。
 伊吹山は黒い雲の向こうに身を隠し、カラスすら飛んではいない。
 背を丸めて歩いているとどこへも帰れないのではという気がする。
 ぽつねんとひとりいることが深々と心細い。
 いつも見慣れた風景がどこか突き放すように空々しい。
 車のライトが、襲いかかるように身をよぎって曲がっていった。
 遠くでうつけたように犬が鳴いたが、すぐに鳴き止む。

    
 
 あと何歩歩いたらいいのだろうか。
 数え始める。
 三〇ほど数えただけで馬鹿々々しくなって止めてしまう。
 ブルブルっと身震いすると、あたりの灯がすべて揺れた。
 冬の夕刻、田舎道はひたすら寒くて寂しい。
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老人=私が嫌われるわけ (付)「生命」のソネット

2015-01-09 11:09:47 | よしなしごと
 老人といってもいろいろあるのだろうが、とりあえず私も含みこんだ一般論として述べよう。
 老人が嫌われる理由はいろいろあるが、そのひとつに話題のステレオタイプ化があげられる。要するに話題が狭くある定形へと偏っているのだ。

 それらのベスト・スリーを例示すると、1)孫の話 2)病気(あるいは健康法)の話 3)昔話・・・といってもお伽話ではない。「昔はなぁ、こんなもんじゃぁなかったぞ」と言いつつ、その間に自己顕示の自慢話を潜り込ませる・・・といったことになろうか。

 これはたぶん、かなり普遍性をもっているはずだ。
 というのは、しばらく前まで、この私自身が、「なんで老人はそんな話ばかりをするのだろう」と思っていたからだ。

 そこでこれらを自分に即して検証してみようと思うのだが、1)についてはとりあえずスルーする。なぜなら、私はほとんど孫の話を日記やブログでしたことはないし、これからもおそらくしないだろうと思うからだ。
 とはいえ、孫がいないわけでもないし、それを全く気遣っていないわけではない。

 3)についても改めて述べない。なぜなら、私の日記やブログ、またはネット上でのコメントのやりとりはほとんどこうした昔話であり、それを取り上げられたら私は書くべきほとんどのことを失ってしまうからだ。

                
            もう治ったが私の肺炎のありか(昨年末)

 問題は2)であるが、振り返ってみると一昨年の秋ぐらいからなんでもないような不定愁訴も加え、そうした話題がぐんと上昇している。とりわけ昨年末から今年にかけてはそれがメインであるかのような観を呈している。

 これにはきっかけがあって、一昨年の秋、41.5度の高熱で倒れて、救急車で病院へ運ばれ、そのまま10日ぐらいの入院を強いられたことによる(急性気管支炎)。
 病を得ての入院はこれが最初ではなく、60才前後に脳梗塞の発作で一週間ほどの入院を経験している。しかしその折は、症状が左手の麻痺というだけの比較的軽いものであったことや、まだまだ働き盛りで、これは一過性のものにすぎないと自認していただけに、衰えの自覚はまだなかった。

 しかし、一昨年の入院はやはり衰えの自覚を誘うものだった。年齢が74歳であったこともあるが、「何だこんなもの」という立ち向かってゆく気力があまりなく、受動的にそれを受け入れざるを得なかったという点に敗北感があった。
 以後、それの延長上にある。

 ところで、どうして病という本来プライベイトとな問題について語ってしまうのだろうか。
 そこには、同情を誘い、「私」への関心を持ち続けてほしいという甘えた自己顕示の姿がある。と同時に、私の言説や行為においての衰退を、病というハンディによるものとして許容してほしいという要請でもある。

 この後者は複雑で、甘え一般をも含むが、同時に、まだまだ現実にコミットメントしてゆきたいという能動的な願望をも含んでいる。しかし、衰えへの自覚は厳然としてあるため、そのコミットメントにこっそりハンディを忍び込ませそれを許容してもらおうという魂胆である。

          
              これで気管支が広がるらしい

 こうしていくぶん斜に構えながらも、基本的には軟弱な老人としての「私」の像がある。
 ここまでは反省的に遡行できるのだが、しかし、そうしたからといってこのポジションは変わらないだろうと思う。
 なぜなら、それが有限な「私」の実存であり、それをやみくもに否定したところで、事態は一向に変わらないと思うからだ。
 
 むしろこの有限なあり方のなかで、そして、それとちゃんと向かい合ってゆくことのなかで、私の自由は開ける。抗うのではなく、かといって従うのではなく、その都度の事象そのものに折々の自分を対峙させてゆくことのなかで。

   
   ソネット 時と生命

   若い日々 私の生命は
   誰かがカスタネットに手を触れようとしただけで
   もう裾をたくしてステップを踏み始めていた

   ミューズの吐息をそよとでも感じようものなら
   全身の血は沸き立ち 天蓋までも舞い上がり
   その所作のすべては音楽と詩であった

   しかしいま 私の生命は
   まるでメデューサに見つめられたかのように
   かたまり ちぢこまって のろまになってしまった

   しかし 泣くまい 嘆くまい 怒るまい
   たとえ時が アポロンの輝きを奪ったところで
   まだ バッカスの戯れるこころが残っている
   そして私の生命はそれに唱和する
   空虚な無限より有限のなかの自由を生きるのだと
 
 
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素敵な年賀状 from China

2015-01-06 15:20:38 | 日記
        

 中国の深玔に住むRさんからこんなに素敵なお年賀のお手紙をいただきました。もともとは北京生まれで北京育ちのようですが、今は仕事の都合で深玔のようです。深玔は香港のすぐ北にある都市です。彼女は、子供を育てながらこの都市で働いています。
 
 私が知り合ったのは、1990年代、彼女が日本へ留学中に、私の店でバイトをしていてくれたからです。とても良く働き、笑顔の絶えない明るい人でしたから、顧客からも愛されていました。
 私の店をやめてから、法学の学位を取り帰国したり、また、国際的な組織の日本の支店で仕事をしていたようでしたが、その後、私と出会うことはかないませんでした。
 
 しかし、昨年の夏、思わぬきっかけで連絡がつき、その後メールのやりとりなどを続けてきました。その経緯は以下です。

 http://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20140717

 その彼女からの年賀状ですから嬉しいですね。
 えんじの部分は、伊勢形紙にも見らるような鮮やか細工で中国風の文様が浮かび上がっています。

 そこに収められたやはりきれいな二つ折りの用紙には、彼女の直筆のメッセージが添えられていました。
 そして、その最後はこう結ばれていました。
 「また、世界平和、アジア友好を日々願っております。」

 ここには、中国と日本を笑顔で行き来した彼女の実感が込められています。
 私もまた、そう願わざるを得ません。

 両国の推移が平和のうちにありますように!
 また、Rさんのご一家にとっても、本年がいい年でありますように!

 



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