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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

青春をかすめた名古屋テレビ塔私話 完結編

2018-12-29 18:00:41 | 想い出を掘り起こす
 2018年、最後に名古屋を訪れた際、来年1月から2年弱の休業をするという名古屋テレビ塔へ登った話は前回にした。まだその塔が建設中の頃、私が中学生だった頃からの思い出も含めて。その続きを書こう。

 登ったのは午後4時といういくぶん中途半端な時間だった。
 私の算段は、まだ明るいうちにそこからの展望を楽しみ、この時期ならもう5時になれば暗くなるから、夜景を楽しんでから降りてくるというものだった。暗くなるまでの間、いくぶん間が持てないかもしれないという思いも多少あったが、展望台の隅にあった喫茶コーナーででも時間を潰せばと思っていた。

            
 ところがである、そんなコーナーなどはなかった。何十年か前に登った時にはあったのか、それともはじめからそんなものはなかったのかはさっぱりわからない。
 ただし、今回登って気づいたのだが、私が思い描いていたよりは展望台は狭かった。これでは喫茶コーナーなどはなっからなかったのかもしれない。

 四方の景観を一通り見て、10メートル上の野外展望台に登る。ここは、金網によって外界と隔てられているのみだから、この時期は寒い。とくに、西や北の面では、寒風が容赦なく吹き付ける。
 早々と退散して、もとの展望台に戻る。さいわいにして休憩用のソファが空いていたので、そこへ身を落ち着ける。

 この塔と私をつないだ時期をしばし回想する。
 こんな上に登って思い出すのも何だが、私の一番濃い思い出は、この塔の下にあった。1958年から60年に至る学生時代の拭い去ることができない思い出は、しばしばこの塔の下と結びついていた。

 50年代末からいわゆる60年安保の頃の学生運動は、正統左翼を名乗る政党の一元支配から脱したあとで、背後には党派性のようなものがあったものの、まだ、民主的ルールが保たれた大衆運動であった。
 ストライキやデモも、各単位自治会の学生大会で否決されればそれに従った。これら単位自治会の連合として愛知県学生自治会連合(県学連)があり、それの全国的な組織が全国学生自治会連合(全学連)であった。
 ただし、私が学生でなくなる頃には、学生運動は党派の乱立によって四分五裂の状態となり、複数の全学連がお互いに自己の正当性を訴えながら併存する事態となった。

            
 県学連の呼びかけにより、各自治会でデモなどが承認決議されると、各自治会の参加者たちは名古屋市の中心部に集まり、そこからデモ行進を始めるのだった。もちろん、ヘルメットやゲバ棒などその存在も知られていない頃で、まさに「腰に手拭いぶらさげて~」の普段着のままの参加であった。

 その折に、もっともよく使われた場所がこのテレビ塔下だった。そこには野外ライブなどにも使われるステージ状のものがあり、演壇として使うには好都合だった。
 
 その頃、関わり合った問題としては警察官職務執行法改正に対する反対、教員に対する勤務評定の実施に対する反対などがある。
 ともに、敗戦とともに押しやられたはずの戦前体制への復帰が懸念される案件であった。当時の言葉で言えば、戦前復帰を思わせる「逆コース」政策だった。前者は、「オイコラ警察」といわれた旧体制下の警察への恐怖を思わせるものだったし、後者は、教育内容の統制のために教員をまずもって縛り付ける危険性を孕んでいた。

 

 それらにも増して、59年から60年にかけての日米安全保障条約改定、それに伴う日米地位協定に対する運動は盛り上がりを見せた。私たちは、戦争を知る世代であり、いざ戦争という事態になったら真っ先に戦場へ駆り出される年齢であった。
 これらは今日まで続く軍事同盟であり、また地位協定は米軍基地並びにそこに所属する軍人軍属の犯罪行為をも日本側は捜査したり裁いたりできないという条項を含む不平等なもので、それらは今日まで継続され、とりわけ、沖縄の現状を固定化するものとして作用し続けている。

 この、60年安保当時、どういうわけか田舎のぽっと出の私は、県学連の役職につき、所定のデモなどの当日、各自治会の参加者が集まるテレビ塔下の広場で、それを待ち受ける立場になっていた。

 今日はどのくらいの人たちがと緊張して待ち受けているのだが、安保闘争のデモの参加者は尻上がりに増えていった。その後半には、名古屋のみで実数3,000人を越える日が続いた。
 まだ県学連に加入していない女子大学へ勧誘(オルグといった)に行ったことがあった。自治会室がないということで茶室に通され、自治会顧問の中年の女性の先生が立ち会う中、私は、この安保と地位協定の危険性を、そしてそれを阻止する必要性を懸命に訴えた。
 茶室のこと、全員正座で、男性は私一人ということで大変な緊張だった。顧問の先生はメガネを光らせて私を凝視していたし・・・・。

        
 しかし、次のデモの際、手作りの小さな旗だったが、学校名を鮮明に書いたものを先頭に、数十名の女子学生が参加してくれたのは身震いするほど嬉しかった。できれば壇上から駆け下りて、一人ひとりを抱きしめたい気分だった(オイ、コラッ)。

 国会南門前で圧殺された樺美智子さんの追悼デモと集会をもったのもこのテレビ塔下だった。私が追悼演説をぶち、今もなお、お付き合いがあるYさん(当時はSさん)が自作の追悼の詩を朗読した。

 またまた、長くなってしまった。
 そうそう、せっかく登ったのだからその印象も書くべきだろう。
 予想はしていたが、西方にそびえる名古屋駅前の高層ビル群は圧巻であった。考えてみれば、あれらのビル群は、この展望台よりも高いのだった。
 東南の眼下いわゆるオアシス21、それにNHK名古屋放送局と隣の愛知県芸術美術センターの景観も見ものだった。
 思えば最初に登った頃は、ところどころにあるビルのほかは、瓦葺きの家が圧倒的に多かった。いまは、それを探すことは困難である。

 その存在感が著しく減退したのが名古屋城である。かつてはこの展望台の北方に、否が応でも目に入る位置でそびえていた。しかし、今は、林立する建造物の間を、懸命に探してやっと見つかるような有様だ。

            
 これら景観の変化は、即、歴史の変化であり、私たちの暮らし向きの変化である。それらに私はどう関わり合ってきたのか、あるいはこなかったのか、私にはよくわからない。
 程よく暗くなってきたので、光の泡立ちと化した四方の景観をもう一度見回して下へ降り、わが感傷のテレビ塔と別れを告げた。

 写真は宵闇迫る景観を中心に・・・・。
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青春をかすめた名古屋テレビ塔私話 今生の別れか?

2018-12-28 02:13:22 | 日記
 今年最後に名古屋へ出た過日、少し時間があったのでテレビ塔へ何十年ぶりかに登った。
 ここは、名古屋の中心部、久屋大通公園に建つ日本で最初に完成した集約電波塔である。その高さは180m、展望台は90m、その上階の野外展望台は100mの高さにある。

         
 なぜ、取り憑かれたようにここへ登る気になったかは、ここの営業が来春1月6日に一旦終了し、メンテナンスや改装のため20年夏以降まで閉鎖されると聞いたからである。
 二年近く先、傘寿を越えた私が永らえている保証はない。たとえ命はあったとしても、ここまで来てこの塔とまた対面できる健康状態にあるかどうかはまったく不確かだ。

         
 もちろんそれだけではなく、このテレビ塔に関しては、その誕生以来、私の青春をかすめるような思い出がかなりあるからである。
 最初にこの塔を見たのはまだそれが完成していない時期であった。 
 1953年、岐阜住まいの中学生だった私は、中日新聞の名古屋本社の見学に訪れた。その本社屋はいまのそれよりももっと中心部に近く、小さなビルだった。とはいっても、当時の岐阜の山猿から見たらけっこうな社屋ではあった。

            
 ここが社会部、これが新聞を印刷する輪転機といろいろ案内されたが、詳細はさっぱり覚えていない。
 鮮明に覚えているのは、屋上に伝書鳩の鳩舎があり、それ専用の担当者がいて、その説明を聞いたことだ。そうなのだ、まだ伝書鳩が記事運搬の一翼を担っていた時代なのだ。

 いまのように携帯もなく、メールもない時代にあって、僻地からの記事の送信は、記者が携帯した伝書鳩の帰巣本能に頼っていたのである。
 貴重な特ダネを託した鳩が、鷹に襲われてだめになったという話はその折に聞いたのか後でのものだったかは今となってはわからない。

            
 この新聞社見学の後、市の中心部に向かっていた私の目に飛び込んできたのが建設中のテレビ塔だった。何ができるのかはよくわからなかったが、当時の景観からしてそれは異様であり、とんでもないものができることを予感させた。
 この塔は、翌54年の6月に竣工しているが、岐阜にいた私にはその前後の記憶はない。

 次にお目にかかったのは55年、私が高校2年生の折だが、そのときは至近距離からではない。岐阜から名古屋で中央線に乗り換え、長野県に至る行程で、東海道線の枇杷島あたりから中央線の大曽根あたりまで、テレビ塔はずーっと左手にそびえていた。この区間は、鉄道の経路そのものがテレビ塔を中心に弓弧に描くように走っていたからである。当時はまだ高い建物はあまりなかったから、その区間ではず~っと見えていた。

         
 遠目からの眺めだったが、ああ、あの時の鉄骨がこんなふうにそびえているのだとある種の感慨にふけった。その頃、ひとつ年上の文学少女だった人との三度目ぐらいの初恋に悩んでいたので、当時の列車の切ないようなリズムともども、その記憶は苦くしょっぱい味を伴っている。

 その次にお目にかかったのは1956年末か57年初頭、名古屋の大学に入学試験の申込み願書を提出に行った折である。進学校ではなかった私の高校では、教務がそれらを手配してくれることはなく、自分ですべてを行わねばならなかった。
 その帰途、私は出来上がったそれと至近距離で対面した。途上のそれは、なんともつかない中途半端で無骨な様子だったが、出来上がったそれは、収まるべきものが収まるところに至ったという感じで、異様は威容へと変じていた。
 しかし、その折には、それから3年ほど先に、その塔の足下の広場にあれほどお世話になるとはまったく思っていなかった。

         
 1957年春、私は運良くその大学に潜り込むことができた。
 かくして、名古屋が日常の場である私にとって、テレビ塔は遠い都市のシンボルから一層身近なものになったというわけである。

 本題にゆきつく前にじゅうぶん長くなってしまった。私の悪い癖だ。ここらで一旦中断し、続きは明日か明後日に載せようと思う。  (続く)

 
 写真は建設途上のTV塔(これはネットからの借用)と、同塔展望台からの陽が上がっている間の映像。次回は、陽が落ちてからのものになる予定。
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怪しいいオジイサンの「イナイイナイバア」

2018-12-23 01:48:58 | よしなしごと
 ちょっと違ったコースでの散歩と洒落込んだら、あたりまえだが、ちょっと違ったものに出会った。
 だがここで書くのはまったく違った話。

           
 過日、名古屋へ出かけ、プラットフォームで地下鉄を待っていた折のことだ。私の前にはベビーカーに連れ添った若い夫妻が。その二人の間から見えていたベビーカーの主、1歳になるかならぬかの子どもと視線が合った。待ち時間が退屈なのだろう、ややむずかり気味だった。
 そこで私が、カッと目を見開いたらその子の視線が私の顔へ。ウンウンとうなずく素振りをしたら、じっと視線を外さない。
 声に出さないで、「コンニチハ」と口元だけで言ったらとたんに相好が緩み、笑顔になった。

             
 そこで今度は、両親の影に顔を隠し、しばらくして顔を出した。いわゆるイナイイナイバアである。その子は満面の笑みで応えてくれた。
 二、三度繰り返したらついにケタケタと声に出して笑った。
 この時点で夫妻は「異変」に気づき、サッと振り返った。その折にはすでに私はすました顔をしていたのだが、子供の視線の先を見れば、そこに私がいるのは明らかだった。

           
 夫妻は、なにか得体のしれぬ汚らわしいものを見るかのように私を見つめ、わが子を保護するべく、私の視線を遮るようにサッと身体をくっつけた。親の警戒心がビンビンと伝わってくる瞬間であった。
 間もなく電車が到着したが、私は彼らが進んだ方向とは逆の方に進み視線も合わせないようにした。降りるのは私のほうが先だったので、やはり視線を合わせないままに降りた。

        
 これだけのことである。
 若い夫妻を非難しようとは思わないが、ちょっと可愛そうな気もする。彼らは、経験則からして、世間には悪意が満ちており、したがってそれとわが子とをシャットすることに専心しているのだろう。

           
 子育てもむつかしい時代になったといえる。
 かつては、子どもは社会全体の共有財産のようなもので、近所のおばさんやおっさんが、わが子同様に子どもたちを甘えさせたり、ときには叱り飛ばしたりもした。いまではそれは「要らざる」干渉とされる。

           
 いまでは子育ても自己責任の時代である。
 家族以外は基本的にその子に干渉しないし、家族も他者の干渉を拒否する。だから、私のような怪しいオジイサンとの関わりは、即、シャットされる。
 悲しい現実だが、仕方がないのかもしれない。

           
 ところで、万国共通、子どもがイナイイナイバアで喜ぶ事態を、精神分析学者のフロイトはこう説いている。
 それは、自分の親しい者(フロイトはそれを「母」とする)の喪失と再現のドラマだというのだ。「イナイイナイ」で失われた母が、「バア」でまた戻ってくる、だから子どもはそれを喜ぶ、というわけだ。

           
 「イナイイナイ」で去った者が、「バア」で戻ってくるのは、おそらく子どもの遊戯のみに許された世界なのだろう。
 私の歳になると「イナイイナイ」で去った者たちは、もうそのまま戻ってはこない。
 それどころか、自分がもう「イナイイナイ」に限りなく接近しているのである。


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松尾葉子さん&岐阜県交響楽団の音楽とマドレーヌ寺院の想い出

2018-12-18 00:41:46 | 音楽を聴く
 いわゆる名演奏とはいえないかもしれないが、その場を感動に満たす演奏会がある。それがライブのお面白さなのだと思う。たとえていうならば演奏技術などのみでは測れないような臨場感を伴う感動がそれである。

 そんな演奏会に出会った。しかも始めてのホールでのことだ。
 場所は私の住む岐阜市の南に隣接する羽島市の文化センターにあるスカイホール。車で30分弱である。
 キャパは1,300ほどで汎用性のあるホールである。座席の傾斜も適度で、後方からはオケの打楽器部門もよく見える。

       
           羽島文化センター スカイホール

 訪れたのは12月16日(日)。プログラムは以下。
 序曲「ローマの謝肉祭」 ベルリオーズ
 ピアノ協奏曲イ短調作品54 シューマン
   ー休憩ー
 交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付き」 サン=サーンス

          
 指揮は松尾葉子さん
 オケは岐阜県交響楽団
 ソリストは小見山純一(ピアノ)
      吉田 文(オルガン)

       
       開演前のロビーコンサート 金管のクインテット(逆光)
 
 岐阜県交響楽団はアマチュアのオケだが、地元のよしみでこれまでの数回は聴いている。だいたいは指揮も地元の人が振る場合が多いが、今回は90回の記念コンサートということで、松尾さんを招いたものと思われる。

 ベルリオーズの序曲は、同じ題名をもつレスピーギのそれに比べると、短い曲ながら多彩な表現が次々と展開されて、まさにカーニバルの華やぎが伝わる楽しい曲だ。

 シューマンの協奏曲は、はじめの出足以降、濃厚なシューマン節が流れ、シューマンの実存をかけた音楽に興味のある私には心地よい緊張を伴う時間だった。
 ソリストの小見山氏も、余計な抑揚を削ぎ落として端正に弾ききっていたと思う。

       
 いちばん感動したのは、サン=サーンスのオルガン付きであった。松尾さんの指揮は、オケの水準をまったく感じさせない力演で、この曲の魅力を余すところなく表現していたと思う。冒頭に述べたまさにライブならではの感動を呼ぶ演奏であった。

       
              ロビー 東郷青児の壁画

 指揮者の松尾さんは、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで女性初、日本人としては小澤征爾氏以来二人目の優勝者となった方である。
 彼女は、音楽家の留学先としてはドイツ語圏が多い中、フランスへ留学している。それはまた、この日のプログラム、ベルリオーズとサン=サーンスにもよく現れていた。

       
            マドレーヌ寺院 2018/8/7
 
 ところで、サン=サーンスが「オルガン付き」を作曲した経緯には、彼がパリのマドレーヌ寺院のオルガニストであったという事実がある。松尾さんはいまもパリを訪れる機会が多いのだが、その都度、マドレーヌ寺院へ足を運ぶという。
 そんな背景もあって、松尾さんのサン=サーンスは渾身のタクトであり、それに導かれた岐響のメンバーも力量以上の音を紡ぎ出したのであろう。とてもいい演奏だったと思う。

 繰り返すが、私にはとても感動的だった。そしてそれにはもう一つ理由がある。
 今夏、ひょんな経緯で訪れたパリで、初日、サンラザール駅前のホテルに着いたのはもう夕刻だった。中途半端な時間なので、まずは歩くことのできる範囲での散策を決め込んで、オペラ座の周辺を周回し、次に辿りついたのがマドレーヌ寺院だった。
 古代ローマの神殿を模したコリント様式のこの寺院の存在は圧倒的で、周辺の広場や空き地では、スポーツをする人、戯れる恋人たち、子どもを遊ばせる母親と、日没が遅いこの地ならではの賑わいだった。

       
          マドレーヌ寺院周辺の風景 2018/8/7

 このマドレーヌ寺院こそ、かつてサン=サーンスがオルガン奏者を努め、松尾さんがしばしば訪れるところだったのだ。
 
 演奏会に戻ろう。松尾さんのやや短めの白いタクトによって紡ぎ出されるサンサーンスの楽の音に酔いしれながら、私はあの夕景の中に佇むマドレーヌ寺院とその周辺の景観をまざまざと思い浮かべていた。
 寺院を包む夏の空の青みが少しずつ増し、藍色から深い暗紅色に至るまでの間、私はそこにいたのだが、その折の私といまのこの私を繋ぐ音楽がまさに鳴っていたのだった。

       
        マドレーヌ寺院を起点にした並木道 2018/8/7
 
 オルガンの重厚な音色が、私の感傷を包み込むようにしながら鳴り響き、私はその振幅のままに身を委ねて、もはや此処でもなく、かつ、今でもない時空を超えた境地をさまよっていた。


なお、写真でご覧のように、羽島文化センターのスカイホールは、マドレーヌ寺院同様、古代ギリシャのコリント様式の神殿を模している。



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きらめく冬野菜 そして「大きなカブ」のお話

2018-12-16 10:25:54 | 写真とおしゃべり
 野菜というとなんだか春先のイメージが強いかも知れませんが、私は冬の野菜が美味しくて好きです。

          
 私の近くでは水田の埋め立てと宅地化がどんどん進んでいることはたびたび述べていますが、どういうわけか、畑の方はあまり変わりがないのです。おそらく、出荷用というより自家消費用の小規模路地裏生産なので、農家の敷地周りに残されたままなのだと思います。

          
 ですから、好きな冬野菜がまさに畑で栽培されているのを目のあたりにすることができます。
 スーパーの野菜売り場にきれいに並べられたものも美しいのですが、畑に生えたままというのもまたワイルドな美しさがあります。これは街中に住んでいる人にはわからない野趣あふれる美しさですね。

          
         サラダ用の野菜がまとめて植えられています。
 
 ところで、童話で、大きなカブを抜くことができない時、いろんな人や動物までもが協力し、やっとそれを抜くことができるという話がありますね。もともとはロシアの童話で、ソ連時代に世界中に広まったようなのです。
 あの話に、前々から違和感を覚えていました。子供の頃、田舎で育ったせいもあって、カブがどのように生えているか知っていたからです。

          
 写真を見てください。カブはこのように生えています。もう少し土をかぶっているものもあるかも知れませんが基本的にはこれです。ですから、その大小にかかわらず、それを抜くのにそれほど力が要るとは思えないのです。

       
 にもかかわらずこの童話が広く伝わったのはなぜかについて、多少うがった見方かもしれませんが、それは社会主義の祖国・ソ連という思い込みと関連していたかもしれないと思うのです。ようするに、ひとつの目的に向かって全体が動員される、そしてそれによって成果を得ることができるという政治的(イデオロギー的?)教訓です。

          
 これを「自主的な協力」と読めばうるわしい和の力になります。逆に、「動員された力」と読むと全体主義的な匂いもあることになります。
 まあ、一般的には、何かをなすには人々の協力が必要だと受け取っておくべきでしょうが、私のようなへそ曲がりは、この話の別の側面をつい考えてしまうのです。

          
     小松菜の仲間だがこの辺では正月菜とか餅菜と呼ばれお雑煮に入れる

          
          大根の葉だが大根葉として葉を食用にする
 
 甚だしく脱線しました。
 いいたかったことは冬野菜の生きた美しさ、そのワイルドな姿が秘める瑞々しい美味しさです。冬の陽光を浴びて光る露地物の野菜は、工場生産にも似たハウス栽培(それらを全面的に否定はしません)とはまた違った様相を見せています。

       
 冬野菜は美味しい、その一点がいいたかったのです。
 
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名残りの紅葉を近くの鎮守様に訪ねる

2018-12-13 00:02:23 | 写真とおしゃべり
 先週末から急に冷え込んできた。
 暑いのは40度ぐらいあっても平気だが、寒いのは苦手だ。前にも書いたが、私を拷問するのは簡単だ。0度ぐらいの寒い部屋に入れられたら、ものの5分ぐらいであることないことみんな喋ってしまう。

 この間の冷え込みが、紅葉の最後を後押ししたようだ。
 例によって、手紙を出しに行ったついでに、近くの鎮守様へと寄り道した。紅葉はもう完全に終わっていると思ったが、そうでもなかった。
 以下は名残りの紅葉、そしてプラスアルファである。


 欅はすっかり葉が落ちて、梢付近にのみ紅葉が残っている。


 ドウダンツツジはあくまでも赤く、あまり赤いので写真に撮りにくい。

<
 境内のイチョウは半分以上が散っていた。


 その散った結果の地上の絨毯。




 とはいえ、枝に残った葉はまだまだ美しい。


 モミジも盛りは過ぎたものの、樹によってはまだ美しい枝を残している。





 以下は神社の参道付近で見つけたもの。


 アジサイはうまく立ち枯れ、紅葉していた。


 一つだけ、ぽつんと残ったカラスウリ。


 これはエビヅルの実か。宝石のように美しい玉が群れている。

 何度も書いているが、私の住んでいるところは、かつての田園地帯が急速に市街化され、無機的な風景が増えている。
 しかし、こまめに探せば、こんな風景がまだまだ残っている。

 私の生命も、あと数年以内だろう。
 その間は、これらを楽しめるかもしれない。





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12月8日 冬の海風をうけて遠州灘を往く

2018-12-09 16:10:09 | 写真とおしゃべり
 私より少し年長の人たちにとっては、12月8日は忘れ難い日であろう。
 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」と、ラジオは風雲急なることを告げた。
 これは77年前、この国がそれ以前からの対中戦争の継続のはて、ついに抜き差しならぬ泥沼のような戦争末期の悲惨へとなだれ込んだ一瞬であった。
 だが当時の私はまだ三歳、その歴史的瞬間を知る由もなかった。

        
            
        

 12月8日に何かを書こうとするとやはりこれを枕にするわけだが、今回は申し訳ないほどまったく関係がない話だ。

        
            
        

 寒冷前線が南下して今日から本格的寒さがというまさにその日、私は静岡県西部の新居町、弁天島などの遠州灘を歩いていた。防寒対策は万全だったが、それでも陽が翳ったり風が強くなると寒さが身に沁みた。

        
        
        


 こんな寒さの中、サーファーがいるのも驚きだった。遠州灘を渡る冬の波は、私にはじゅうぶん猛々しかったが、サーファーたちには物足りぬのか、TVで見るような豪快な滑りはついに見ることがなかった。

        
            

 海無し県に育った私には、海は珍しく、あこがれの対象であるとともに恐怖の対象でもある。カントは、その『判断力批判』のなかで、度を超した自然、ないし自然現象は、美を遥かに超越して崇高であるとしている。わたしはこれに激しく同意する。

        
        
        
        

 けっこうな量の写真を撮ってきたが、まだ十分整理できていないまま、アトランダムに載せておこう。
 なおこの日、私の歩数計によれば、23,220歩、距離にして13.1kmを歩いたことになる。80歳を越えたにしてはよく歩いたものだ。最後の方は流石に足腰にこたえたが、一夜明けた今日はなんとうことはない。
 きっと昨夜の酒が細胞の疲れを洗い流してくれたのだろう。

        
        
        

 今まで旅に関しては意外と禁欲的で、あまりあちこちへ行っていない。いま、体が動くうちにもっといろいろなところ旅してみたいとふつふつと思っている。

 

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ものぐさ者の散歩道から 

2018-12-02 15:09:42 | 写真とおしゃべり
 最近はあまり歩いていない。
 歩くといえばウォーキングなのだろうが、歩くために歩くということはしたことがない。散歩も好きなのだが、散歩のための散歩ということもしたことがない。

     *1

 近所へちょっとした買い物にでかけたり、郵便物を出しに行く際に、時間がある折にはちょっと遠回りしてそこいらを歩き回る。これをかってに散歩と称している。

         *2

 だから、コースもその折に出向いた先の延長だからまちまちである。ただし、ある種の傾向はある。いうならば、今やこの近辺から失われようとしている風物をこのマナコに焼き付けておきたいといったことになるかもしれない。

     *3

 半世紀以上前、この辺は田畑をベースとした地域に人工の構築物が点在するという感じであった。今やそれが逆転し、すっかり市街地化したなかにかつての田園風景が点在することとなってしまった。
 私の散歩コースは、今や希少化しつつあるその田園の名残りを探索することである。

     *4

 よく誤解されるが、田園はまったき自然ではない。山地から流れ出た水を田にひき、それを潤した水を川に返して海に至るという日本の農耕文化が産み出した伝統的な人造風景なのである。
 それは、荒ぶる水の力を矯め、豊かな稔りをもたらす循環を産み出し、大地とともに生きるこの国の民たちの原風景にまでなった。

     *5

 したがって、その風景が消えるということはこの国の産業構造が変遷してきたことの指標だともいえる。

     *6 

 おっと・・・・どんどん脱線してきた。
 ここに掲げた写真は、過日、はがきを出しに行った折に遠回りをして帰った=私の概念では散歩をした際に撮ったものである。
 以下にそのキャプションを載せておく。


*1 ユンボの置かれた空き地。これは住宅が建ってしまって、わが家から見えなくなってしまった田んぼのオーナーの所有物。数年前まではこれが動くのを見ていたが最近は見ていない。いまでも動くのだろうか。

*2 こんなところにという紅葉風景。昔ながらの農家の裏に広がる空き地。

*3 美しい葉をもつ竹。「業平竹」というのだそうだ。その名も優雅。

*4 紅葉やススキは逆光がきれいなようだ。

*5 柑橘類の小物、キンカン。ここ何年もおせちに入れているが、今度も手に入るだろうか。

*6 こちらは、ひとつひとつが私の顔ほどもある巨大な柑橘類。ひょっとしたらザボンかな。
   鬼柚子ではない。 


 
 
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