六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

貧乏な庭のポリシー、または居直り

2006-11-29 17:40:16 | よしなしごと
 手入れされた庭園を観ることは嫌いではない。
 しかしそれは自然ではない。
 自然に素材を借りたオブジェである。
 それが明確なのは西洋のシンメトリーな庭園である。
 誰もあれを観て、「ああ、自然だなぁ」とは思わないだろう。

 そこへゆくと日本庭園は、それ自身自然に素材を借りたオブジェであるに関わらず、自然そのものであるかのようにそれを装う。
 枯山水という技法、借景という技法などが、その庭園が自然に融和したものであることを強調する。
 
 しかし、それがオブジェであることには変わりない。それが証拠に、三年も手入れをしないでほおっておくと、もはや庭園の呈をなさないであろう。


    湖東三山、金剛輪寺の庭園。後ろの山が借景となっている。
 
 それが悪いといっているのではない。
 最初に述べたように、よく構成され、手入れの行き届いたそれを観ることは快感ですらある。

 しかし、自分の家の庭となるといささか事情を異にする。
 来るものは拒まずで、石や草木などあまり選択はしない。
 などというと格好いいが、はっきりいうと、金を出して買ったものが全くないということである。

 若干の石はある。しかし、これとて、ここを埋め立てる時に、山の土を使ったので、その中に含まれていた大きいものをそれなりに格好がつくように並べたに過ぎない。

 草木もそうである。貰ったもの、路傍に生えていたものの移植、小鳥がその実を運んだのか、あるいは風がもたらしたのかいつの間にか生えてきたもの、そんなものばかりだ。
 それでも桜ん坊がなる木があり、枇杷のなる木があって、毎年、娘が勤める学童保育の子供たちのおやつになったりしている。


   今年も咲いた枇杷の花。ひとつひとつの小さな花が梅に似ている。
 
 桜は貰ったもの、枇杷は行きつけの歯医者さんに立派な木があって、その下の石垣の間にど根性大根よろしく根付いていたものを、こんなところでは育つまいと引っこ抜いてきて、移植したものである。
 もう二十数年前のことだろうか。

 ちょっと困った木もある。これもいつの間にやら生えた桑の木であるが、ほおっておいたらドンドン伸びて、おまけに新芽だ出そろう頃には毛虫の大群が発生して、その駆除に数千円(「毛虫コロリ」三回分)もかかることである。
 しかし、その後、紫色の実を付け、それをサラダに入れたりすると、そこそこの味がするものだから、まあ、メンテナンスが高過ぎるが仕方ないかと思ったりする。

    
   黄色く色づき始めた桑。二階から写す。あと葉が枯れてがさがさ落ちる。
 
 もうひとつ困ったことは、そうした雑然とした庭(?)だから、通りかかりの庭師たちの格好の標的になることである。最近とみに多いのは、やはり不況で仕事が減ったからだろうか。
 「手入れをさせてくれ」という。むろん無償ではない。
 「見積もりを出す」という。

 しかし、それ以前の段階で断る。
 なかには、「そもそも庭というものは」とうんちくを垂れる人もいる。
 私はいう、「この雑然さは私のポリシーなのです」と。
 来るものは拒まず、去る者は止めず、なのだ。

 おそらくプロの職人さんに任せたら、見違えるようになるであろう。しかしそれは、いわゆる庭というもののポリシーに添って、不要なもは切って捨てられ、残ったものも人工的に整えられ、いかにも庭でございとなるに過ぎないであろう。れをしたくないのだ。

 繰り返すが、立派な庭は嫌いではない。しかし、自分がそれを持とうとは思わない。
 立派なものが観たい時はそこへ観に行けばいい。

 かくてわが庭は、雑然たる王国をなしている。
 どこからやってきたか分からぬ草木ども、お前たちがのほほんとしていられるのは、私がそのポリシーを頑固に守っているからなんだぞ。
 だから、真面目に花を付け、実を結べよ。

 こら!そこのお前!そう、多分、小鳥が運んできたであろうシャクナゲの木。お前、図体ばかり大きくなって、一、二度お義理のように少しばかりの花を付けたっきりじゃぁないか!
 切らないよ、切らないから真面目に咲けよ。
 家人から、「なに、この木、でっかいばかりで花も実もないじゃぁない」なんていわれると、私もつらいのだ。


   スズランの赤い実。もっと早く気付けば、沢山実が付いていたのに。 
 
 でも、いいこともある。
 先程述べた枇杷がひっそりと花を付けるのを観る時、そしてその小さな花のひとつひとつが、まるで梅の花のようであることを知る時、また、足元のスズランが小さなリンゴのような実を付けているのに気付く時などである。
 ただし、スズランに関しては、今年は気付くのが少し遅れた。本当はもっと実が付いていたはずなのに、その折り気付かなくてごめんよ。

 もうすぐ冬だ。
 沢山雪が降って、枝が折れそうになったら、夜中でも木を揺すってそれを防いでやるからな。
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黄色い晩秋と映画のはしご

2006-11-28 01:57:11 | よしなしごと
 日曜日、名古屋へ行く。
 いつもはJRだが、事情があって(などという大げさなものではなく、たまたま切符を貰ったから)名鉄(名古屋鉄道)で行く。

駅から、シネマテークに向かう道すがら、黄色い紅葉(?)を選んで撮ってみた。

      
 
 最初のものは、高牟神社の銀杏。
 
     

  続いて光正院のモミジ。
 
     

  これもそう。

 映画は、まず、観たい観たいと思って機会に恵まれなかったホウ・シャオシェン監督の『悲情城市』。

 日本敗戦の1945年を起点とした一連の出来事を、1989年に映画化したものだが、台湾というところには、まだ、そこに描かれているような状況が、基底に横たわっているように思えてならない。

 続いてキノシタホールへ。



 映画は、ウディ・アレン監督の『マッチポイント』。
 この映画は、私にとっては珍しく、女優さんを観にいった映画である。
 その女優の名は、スカーレット・ヨハンソン。
 先年、オランダの光の画家フェルメールを描いた『真珠の耳飾りの少女』を観てすっかりまいってしまった。

 今回の映画は、妻と恋人の間に立った男を巡るスリラー仕立てであるが、その最初の出番からして、彼女の魅力が一杯で、ドキドキしながら観たのであった。

 映画そのものは、ラストのある種の意外性は結構面白いが、まあ、それ以上に彼女の魅力を満喫できたので良しとすべきか。

      

 見終わってから、なじみのお寿司屋さんで軽く一杯。
 そこの女将も『マッチポイント』を観たとのことで、感想を聞いてみると、「そうね、映画としては面白かったけど、やはり女としては許せないわ」とのこと。
 ついでに、私をキッと睨むので、視線を落として、ハゼの刺身などつついたのであった。
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貧相だが可愛い菊と六の時事川柳 06.11.26

2006-11-26 02:26:32 | 川柳日記
 わが家の菊です。いつの間にか居着いたようなものです。
 気がついたら水をやるくらいでなんの手入れもしていません。
 ですから、ご覧のように貧弱なくらいです。
 でも毎年、ここに咲いたよと地味な黄色の花を付けるのが結構可愛いのです。

      
 
 あまりゴージャスで高貴な菊は苦手です。
 それに手をかける執念が透けて見えるのも何だか恐いのです。
 たとえば、私を愛せよ強要するような菊は恐いのです。



<今週の川柳もどき> 06.11.26

 復党は曲折があるかに見せる
  (本当は決まっているシナリオ

 談合がなかった工事見てみたい
  (有形文化財に指定)

 国会の論議もやらせ臭くなる
  (やらせ天国)

 赤字分みなで払えば恐くない
  (NTT電話使用者に赤字転化)

 税金で可愛い子には旅させる
  (お優しい都知事殿)

 純情がきらりとしない城下町
  (岡崎で連続殺傷)

 毒殺も最先端のテクニック
  (元ロシア諜報員放射性物質で)
 
 やけにまたわさびが効いた鉄火巻き
  (マグロ不足
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大野俊三…・得した同窓会

2006-11-24 05:22:38 | よしなしごと

 23日、高校の同窓会に出る。
 同窓会といってもクラスや学年単位ではなく、かつて卒業した者全部を対象とし、しかも学校創立が100年を越えているから半端な人数ではない。

 上は80歳以上から、下は卒業間もない私のような(?)人まで、おおよそ1,000人が集まる。

 第一部は総会ということで、会計報告や人事など。
 これはパス。

 第二部は、今年の全日本マーチングバンドで金賞を取った在校生のブラバン、100名を越えるメンバーによるステージドリルショー。
 演目は全九場のミュージカル仕立ての『ミス・サイゴン』。

 演奏はむろん、ダンスあり、背景の合唱ありでとても厚みのあるものであった。さすがに演奏のアンサンブルもいい。

 内容は、米兵とベトナム娘の恋と離別をベトナム戦争に絡ませた「ロミオとジュリエット」の、あるいは「蝶々夫人」のベトナム版。
 全体に迫力があり、ブラスの表現の幅が実感されて大いに満足。

      
 
 第三部は懇親会。
 要するに、学年ごとにテーブルを囲んで飲食をしながら歓談するのだが、ここで、事前に内容を知らなかった私にとってのサプライズが!

 な、なんと、アトラクションに世界のジャズトランペッター・大野俊三が、カルテットのライブを行うというのだ。
 迂闊にも知らなかったのだが、彼は、この高校の卒業生だという。

 そしてもうひとつのサプライズ、それは、そのピアノが、先般ラブリーでのライブで聴いたばかりの後藤浩二であったことだ。
 
 場所柄、あまり突っ込んだ演奏ではなかったが、それでも十分楽しめた。
 演奏に聴き入るのに懸命だったおかげで、円卓式の食い物にあまりありつけず、終わってから空腹を覚えたほどだ。

 それでもこのサプライズは、私をとても得した気分にしてくれた。
 私にとってこの一日は、思わぬ音楽漬けの日となったのであった。

*残念ながら、デジカメを持って行かなかったので、演奏シーンの映像はない。
*なお、同姓同名のサッカー選手がいるが、彼は私の後輩ではない。
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安倍政権の役割と教育基本法

2006-11-23 04:53:43 | 社会評論


  安倍政権は小泉後継を表看板にしながら、実際にはかなり異質というべきである。

 そこには、企業や銀行などの人事において、攻撃型の後には管理型、拡散型の後には収縮型という役割分担があるように、小泉氏と安倍氏の間にも、かなりの相違があり、しかもそれらは相和して補完関係にある。

 先ず、戦後史における小泉内閣の位置づけから見てみよう。

 彼の政策の目玉であった「郵政民営化」をはじめとする「民営化路線」は、グローバリズム時代の国際競争力に耐えうるための徹底した私有化とそれを基盤とした合理化の路線であった。

 これは、既に行われていた国鉄や電電公社の解体と民営化の路線を継承するものであったが、さらにそれをドラスティックに推し進めるものであった。
 それは、例えば、彼のもうひとつのスローガン、「護送船団方式の解体」に象徴されるように、みんなで一緒に進むことの拒否でもあった。
 ここにおいて、力あるものは他を切り捨ててでも進めという方式が確立された。

 これと比較されるのは、1960年代の池田内閣以来の高度成長政策との違いである。この時代に日本資本主義は飛躍的な発展を見るのであるが、それは同時に、全体の所得を底上げするものであり、一方では各地のいわゆる革新地方自治体による提言に触発されたとはいえ、社会福祉による弱者の救済が課題となり、現実に拡張した時代である。

 この所得の底上げと社会福祉の普及は、一方では階級対立型の労働運動の牙を抜き、そればかりか、どこの資本主義国でも一般的である階級意識を含まない、利益共同体としての組合をも解体するものであった。
 以後、組合は企業の成長を補助する「おこぼれ頂戴型」以外にはほとんどあり得ない状況である。

 この過程で、明確なおこぼれから外れた官公労の労働組合の抵抗があったことはあったのだが、それらもスト権法案などの諸法規制と、先に見た大手官公労の母胎の民営化の中でついえ去った。

 要するに、池田内閣以降の高度成長の中では、まだ、おこぼれや福祉の進展の余剰があり、全体的な底上げ感があったのである(だからといって全面的に肯定しているわけではないが)。

 それに対し、今般の景気回復は、「いざなぎ景気を越える」といわれる好況にもかかわらず、庶民の間にその実感は全くなく、従って個人消費は冷え込んだままという事態があり、それが今回の景気回復の特徴といわれる。

 これは明らかに、私有化の徹底による格差の裸の出現であり、勝ち組と負け組の分離における「自己責任」論の行き着くところといえる。
 要するに、かつては曲がりなりにでもあった公的配分の論理の崩壊であり、それを補う公共的援助の諸サービスそのものが既にして私的所有へと移行し、従ってそのサービスそのものが持てるものの「自己責任」でしか享受できなくなっていることを現している。

 かくて、福祉国家は「私的所有の原則」という超越的な目標の中で、その公共性を喪失しつつある。

 これは国民国家としては、一面、危機的でもある。
 自分たちの国家と思われていたものが、自己責任による分裂したものとして姿を現してしまうからである。私たちが支え、そのために働いてきた国家が、私たちにとっては実はよそよそしい疎遠なものであることが、赤裸々な区別と差別の場とし現れてしまうからである。

 ここにいたって国民国家のアイディンティティを、経済的な配分とは別の形で築く必要が出てくる。
 それが、抽象的な価値としての民族的な同一性である。その内容は、血縁としての生物学的同一性、領土の空間的持続と出来うるならばその拡大、さらには言語の共通性とそれに依拠した文化的歴史的同一性への依拠いえる。

 既にお分かりのように、そうした課題、要するに、小泉氏が経済的に解体した幻想の共同体を、精神的、観念的に補強し再構築する役割こそ安倍氏に託されたものなのである。

 その第一段が、教育基本法の改定であり、その目玉が「愛国心」の強調であることは象徴的である。
 この改訂の後には、それにより、教育内容を細かく縛る七つの法案が既に準備されている。
 そして、その行き着く先が憲法の変更であることは安倍氏自らが語っているところである。

 そうした愛国への偏重は、外敵の襲来を言い立てる言動に支えられている。内部の矛盾を外敵の問題にすり替えるのは、何も北朝鮮の特許ではない。わが国での世論のコントロールも、まさにそれと同一なのであり、奇妙な広がりを見せる嫌韓や嫌中の言説を背景に、閣僚や党幹部の核武装論、先制攻撃論が公然と語られる。幹事長時代と違って安倍氏自身は直接は口にしないが、かといってそれを諫める気配は全くない。

 要するに、安倍氏並びにその内閣の役割は、小泉氏が行った民営化という徹底した私有化による裸の資本主義によって生み出された格差の拡大、福祉国家の解体、自己責任という棄民化などによる分裂の危機を、仮想敵国を媒介とした国家意識の培養、愛国心を中心とした国民の再教育と再結集、現行憲法の破棄による軍事大国への転進などによって精神的、観念的に強行突破しようとするものに他ならない。

 そして、そのことによって私たちが失うものは、200万人の自国民の犠牲と、近隣諸国の2,000万とも3,000万ともいわれる犠牲を伴ったすぐる戦争の中から、私たちが歴史的に学びとってきた「不戦の誓い」であり、カントが世界平和論を著して以来、「始めて現実の国家に具現した平和をうたった憲法」なのである。


*現行の教育が抱える「いじめ」や「学級崩壊」、「基礎学力の低下」といった問題は、それ自身真剣に取り組むべき問題だが、それらは、今回の教育基本法の改定とは全く関係がない。
 それらはむしろ、文科省の紆余曲折した思いつきの教育方針の結果であり、その検証を抜きにしては語れない。
 さらにいうならば、この混迷した世相が子供たちに与える諸影響を、学校現場のみの責任で解消することなどは出来ない。
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落ち葉のラプソディ、あるいは帰還。

2006-11-21 17:48:40 | よしなしごと
      
 
 人々があげて紅葉を愛で、木々を見上げている折りに、足元から無粋な声を挙げるのもなんですが、私たちは、落ち葉です。それもほとんどが雨上がりの濡れ落ち葉。



 この時期、私たちは嫌われます。邪険に箒で掻き集められ、燃やされたりします。
 ところ構わず降り積もる私たちも悪いのでしょうが、本来、山野にあったなら、次代のための貴重な堆肥として降り積むに任せられるものなのです。



 でも、時折足元に舞う私たちに、半ば同情の眼差しを向け、それなりの美しさを見いだしてくれる人もいます。
 
 私たちを嫌うひと、それなりに季節の風情として認めてくれるひと、いろいろいらっしゃいますが、僅か半年ばかり前、眩しいような若葉だと思って私たちを見上げてくれたことはとっくに忘れていらっしゃるようです。



 人間様の社会では、老齢化だとか老人福祉だとかが問題にされているようですが、私たち濡れ落ち葉は、皆さんに踏みつけられ、吹き飛ばされ、あるいは捨てられ、燃やされ、いずれにしても自然の中に消滅し、還ってて行くのです。



 さようなら。
 間もなく私たちが一掃され、そして、冬がやってくるはずです。


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琵琶湖周遊と六の時事川柳 06.11.19

2006-11-19 16:06:49 | 川柳日記
 過日、雑誌の取材について行き琵琶湖に遊ぶ。
 湖北へ行くほど、のんびりと時間が流れているようだ。
 水のある風景が好きだ。
 水鳥がいて、水面下では魚たちの営みがあって・・。


 木之本からトンネルを抜けた近くのドライブインから。ポツンと見えるのは竹生島。

 
 琵琶湖西岸、マキノ浜付近から竹生島とその背後の伊吹山を臨む。


                  暮色の今津港付近。



<今週の川柳もどき> 06.11.19

 美しい日本なりふり構わない
  (教育基本法強行採決)

 議論するだけが広げる核の道
  (共謀罪では?)

 復党が小泉色を拭い去る
  (チルドレンは?)

 越後屋とつるむ代官尽きもせず
  (福島、和歌山、宮崎・・)

 ヒルズ族ネット投資に差した水
  (ネット経由の株取引減少)

 処分には馬耳東風のインパクト
  (僕のせいじゃあないもんね)

 野球より商売上手ライオンズ
  (松坂を60億で売る)

 Qちゃんが敗れ晩秋深くなる
  (私の高校の後輩に当たり、一昨年、骨折で再起が
   危ぶまれた折り、ある会合で会って激励の声をか
   けたことがあります。
    その後、昨年の東京国際で見事復活を遂げまし
   たので、さらなる進化への期待が膨らみました。
    しかし、今日の敗戦、やはりひとつの時代が終
   わったのかという寂寥感の中にいる私です。)
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【童話かな?】しろとシロと白

2006-11-17 16:44:23 | よしなしごと
 二匹の兄弟の犬がいました。
 二匹とも、頭から尾の先まで真っ白でした。
 (「尾も白い」などというつもりはありません)

 
 
 兄の方の名前は「しろ」でした。
 弟の方の名前は「シロ」でした。

 こうして字にすると違いが分かりますが、音では区別が付きません。ですから、時折、困ったことがおこります。

 「しろ!こっちへ来い」と人間が呼ぶので、シロがそちらへ行くと、「おまえじゃない!」といわれたりします。

 「僕のスニーカーをシロがくわえてっちゃった」という子供の訴えに、「コラッ!しろ!いたずらをするんじゃないっ!」と叱られたりします。


 
 そこで兄弟は相談しました。
 その結果、これからは、名前を「白」とすることにしました。
 今度は、字で書くと一緒ですが、音が違います。

 兄の方は、今までどおり「しろ」にしました。
 弟の方は、音読みにして「はく」にしました。
 
 兄弟は、関係する人間を集めて、それを宣言しました。
 人間たちは、「お前たちがそうしたければしそうしろ」といいました。

 

 兄は、「ああ、よかった」と胸をなで下ろしましたが、弟の方は、最後の人間の言葉、「そうしろ」が、「しろ」や「シロ」、そして「白」とは聞こえたのですが、決して「はく」とは聞こえなかったので、少し淋しい思いをしました。

 空を見上げると、白い雲がぽっかり浮かんでいました。
 弟はそっと思いました。
 「あれは、しらくもではなくはくうんというんだ」と。
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猫と老人とアクアシティ

2006-11-15 02:24:10 | よしなしごと
 名古屋は納屋橋付近の、いかにも下町っぽいところでのスナップ。
 猫がまるで対話に参加しているかのようで面白い。

「お婆さんが出かけるってんで付いてきたけど、またいつのもあのお爺さんとこか。もっとも二人とも、終戦直後ぐらいからの知り合いで、この街の主みたいなもんだからなニャア」



お婆さん「どうやな、調子のほうは?」

お爺さん「まあ、足腰がいうこと聞けへんもんで、こうやって杖付いとらんとそこらへ行けぇへんであかんわぁ」



お婆さん「わっちはまんだ杖はいらんけど、ほんでも、こっちの膝がもう、あんばよう曲がらへんで、早いこと歩けぇへんのだわ」

「やれやれ、また足や膝の話かいな。でも、お互い、それだけ大きい声で話せる間は元気といっていいのかもニャア」

 そうなのです。下町の人たちは声が大きいのです。それだけ、ひとにはばかることのない人生を歩んできたからでしょうか。

 でもそんな生活にもドンドン変化が・・。
 この場所から、20メートルほどのところに、納屋橋地区再開発事業の一環としての「アクアシティ納屋橋」が完成間近な偉容を現しています。

    
 
ここで再び猫君の登場。

「このお婆さんやお爺さんと、この巨大なビルとそれに伴う地域全体の変動は、どう調和して行けるんかニャア。
 これだけのもんが出来たら、この狭い生活道路も、車の行き交いが激しくなるし、足の悪いお爺さんや、膝が痛むお婆さんはおちおち出歩けなくなるのではないかニャア。
 ブルブルッ、人ごとではニャア。この俺様もペチャンコにならぬよう気を付けなくちゃあニャア」
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ブーニンが弾いたピアノと六の時事川柳 06.11.12

2006-11-12 02:57:51 | 川柳日記
 兼好法師は、よき友とは「ものくるるとも」と「くすし」、つまり、ものを呉れる奴と医者といっているが本当にそうだ。

 私の友人で、某TV局の偉いさんがいて、彼からスタニスラフ・ブーニンのリサイタルのチケットをもらった。
 それと同時に、主催者ならではの情報を聞くことが出来た。

 というのはブーニン氏、今月はじめの久留米でのリサイタルで、叔母の危篤情報に接し、心身共に動揺しているのでピアノが弾けないということで、10曲の予定のところ1曲のみでキャンセルしたというのだ。

 友人曰く、従って、この名古屋での演奏も巧く行くかどうかとても気にしているのだとのこと。

          

 
 演奏会は9日であった。
 果たせるかな、入り口には曲目変更の貼り紙が・・。
 そして、私が楽しみにしていたシューマンがばっさり切られていて、ショパンの小品に代えられてしまっていた。

 プログラムは、前半はバロック(ヘンデル、バッハ、スカルラッティ)、後半はロマン派(シューベルト、シューマン、ショパン、ただし、シューマンはカット)で、それぞれ最初の曲は変奏曲風のもので、これらは安定して聴けた。

 しかし、前半、後半ともに、途中から曲や楽章の間にハンカチ王子よろしく汗をぬぐうシーンが目立ち、事前の情報を聞いていただけに、間合いを十分にとっての演奏がつい気になってしまう。

 

  
 私の席は、写真でご覧になるとお分かりのように、舞台背後の演奏が見下ろせるところ(休憩時間にノーフラッシュで撮影)。
 ピアノリサイタルの好きな方、この席はお勧めですぞ。演奏者の指使いからペダル操作まで手に取るように見て取れる。
 おまけとして、最前席の着物の女性が、花束やおみやげなど手渡すタイミングを計っているのもはっきり見える。
 
 それと同時に、客席全体も見渡せるのだが、この日は約75%ぐらいの入り。どうやら、かつてのブーニン・シンドロームは伝説と化しつつあるようだ。
 後で、友人と一杯やりながら聞いたところでは、あれだとトントンぐらいかなということであった。

 実は、2年前にもブーニンを聴いたのだが、やはりその時の方がよかったように思う。今回は、本当に体調が悪いようだった。
 
 80年代前半にまさに彗星のように華々しくデビューしたかつての天才少年も、もう不惑なのだから身辺にいろいろあってもおかしくはないのだと妙なところで納得したのだが、それにしてもなんだか少し淋しい気がする。




<今週の川柳もどき> 06.11.12

 タウンミーティング上意下達の場
  (教基法、やらせで世論操作)

 受信料払う根拠をまた減らす
  (命令するところからとれば)

 核発言腹話術師がいるみたい
  (抑制しない総理。陰で同意?)

 アメリカにもあったトカゲの尻尾切り
  (選挙に負けて、ラムズフェルドを首に) 

 十五万ブッシュが生んだイラクの
  (根拠なき戦に米国民も批判)

 温暖化たしなめ風が渦を巻く
  (竜巻各地で)

 おらがいまはなのだこれ熊よ
  (平成の大合併で市内に出没)

 公の害を教えたひとが逝く
  (宇井 純さん逝く
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