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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

岐阜県下の名桜と「散る美学」についての補遺

2013-03-31 15:09:10 | 歴史を考える
写真はJR岐阜駅前のバスロータリー内に集められた岐阜県下の名桜の子孫です。
 これはもう10日前ぐらいに写したものですから、ほとんど散ってしまっているかもしれませんが、「淡墨桜」や「荘川桜」の親木はもっと北部の山地にあるため、開花はまだまだこれからです。



 前回書きましたが、特攻隊員の死は無駄に消費された死だと思います。
 前にもそんなことを書いたら、それでは彼らがあまりにもかわいそうではないかといった反論がありました。でも、それは事実なのです。

      

 こういったからといって決して彼らの死を卑しめたりしているわけではありません。私の一世代上の人たちですし、彼らが突っ込む同時代を生きてきた身としては、それが並大抵のことではなかったことはひとしお分かっているつもりです。
 それだけに、彼らを無為な死に追いやった時代、そして、その時代を支配していた人たちを許せないのです。

 私を批判する人たちは、彼らの悲壮な死への対峙、そして覚悟の形成などをその手記や遺書に見て、それでもなおかつ彼らの死を無為だとするのかと迫ります。
 しかし、私はあえてそれを無為だったとします。

   
 
 これは彼らにたいする非情や無関心ではありません。
 私は素直に彼らの死に至る述懐に涙します。と同時に、こんなことがどのような意味においても、ましてや、とってつけたような美意識(散る美学)の名において肯定されてはならないと思うのです。ですから、涙しながらも「それは無為だったのだ」と叫び続けなければならないのです。

 彼らの手記や遺書は、その結論のみをみると潔く美しいものにみえるかもしれません。
 しかし、それへと至る彼らの逡巡や忌避への気持ちは書かれてはいません。
 それを書くことは、あえて当時のことばでいえば、「女々しい」として非難されたからです。

   
 
 彼らとしては、外部から強要される理不尽な死(死はいつだって理不尽なものです)を、あたかも自らが望んだものであるかのように内面化しなければならなかったのです。
 そのために彼らは、これはと思われる宗教や思想、哲学、そして文学や詩歌などあらゆるものを利用しました。

   
 
 彼らが、その置かれた状況の外部へと逃亡する道を精神的にも物理的にも絶たれたところで、その死を自ら選んだものとして内面化しようとすればするほどその軌跡は美しくみえるかもしれません。
 しかし、それを肯定してはならないのです。
 なぜなら、すでにみたように、彼らの描いたその軌跡がどんなに美しくみえようが、その前提には理不尽な死への強要が絶対的なものとして既に立てられてしまっているからです。

 それらをキッチュな無常感や、薄っぺらな美意識で肯定してしまうことは、街宣右翼の大音響軍歌の垂れ流しの悲壮感とさほどの距離はないのです。

   

 だから私は、逆説的といわれようが、非情といわれようが、(ここからは二人称として語りかけます)「あなたたちの死は無為であった」と叫び続け、その分、あなたたちに死を強要し、あまつさえそれをあなたたちの内面からであるかのような偽装工作すらをあなたたちに強要した連中を許せなのです。

 あなたたちがどんなに美しいセリフや仕草でそれを語ろうが、その脚本をほんとうに作ったのはあなたたちではないのです。
 ですから、あなたたちの死を無為だといい切る私は、あなたたちがそこへと動員されなかったら可能であったかもしれないもう一つのドラマ、もうひとつのセリフ、もうひとつの表情、つまり、生き続ける自然体というドラマの観客でいたかったと思うのです。





 
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「マイ・お花見ロード」と「散る美学」について

2013-03-29 23:20:31 | 花便り&花をめぐって
 例年書いていますが、わが家から徒歩数分の「マイ・お花見ロード」が今年も満開を迎えました。
 川を挟んだ桜並木がかなりの距離続くのですが、今日の例では、それを愛でているのは私の他には対岸を並行して歩いている同年配の女性の二人連れのみ。「マイ・お花見ロード」と称する所以です。

    

 桜のいいところはその絢爛豪華さとパッと咲いてパッと散るところにあるといわれています。
 そしてそれは、ある種のポピュラーな無常感と結びついて一般化しているようです。

 

 しかし、私のような年代になると、その散り際の良さというものを手放しに称賛できない思いもあるのです。なぜなら、その「潔く散る」というコンセプトを強要されて、無為に死に追いやられた若者たちの歴史をリアルタイムで知っているからです。

    

 たとえば、「同期の桜」という軍歌の一番はこうです。

   貴様と俺とは同期の桜
   同じ兵学校の庭に咲く
   咲いた花なら散るのは覚悟
   見事散りましょ国のため


 

 こうした「散る美学」のなかでいわゆる特攻攻撃(特攻隊)に駆り出された若者の死者は4,000人を超えます。
 この、片道の燃料しか与えられず、あえて死にに行くという行為は、いくら戦時とはいえ、通常の戦略戦術を越えた、まさに生身の人間を銃弾同様の消耗品とみなす非人間的な方針によるもので、「生きて虜囚の辱を受けず」(捕虜となるくらいなら死ぬべきだ)という戦陣訓第八と並んで、多くの無駄な死者を生み出したものです。

 

 私が関与しているミニコミ誌には、この「散る」という話題に関し、以下のようなコメントが寄せられています。

 そのひとつは、往時の海軍の老兵であった人で、自分の朋輩が虚しく散っていったのを知っているだけに花の散るのを素直に愛でるわけにはゆかないというものでした。

 そして今一つは、自分の兄が予科練で特攻機に乗ることになっていたが、敗戦によって出撃せずに済んだため、今も元気で暮らしているというものでした。

 さらには、バンザイ、バンザイと送り出した同年輩の若者たちが還らぬまま散ってしまったことを悔悟をこめて語る女性の言葉もありました。

    

 いずれの人たちも、花が散る風情を無邪気には楽しめないのです。
 花が散るという自然現象が、人間の命を無為に奪い去るという比喩にもはや使われなくなるとき、またそんな状況が再びこないと確信できるとき、はじめてそこに素直な美しさを見てとることができるのでしょう。

 

 最後に亡き母の好きだった歌を。

   ひさかたの 光のどけき 春の日に
       静心(しづごころ)なく 花の散るらむ


        紀友則(百人一首33番) 『古今集』春下・84






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携帯とバッテリー そして削除や廃棄されたものの行方

2013-03-27 17:21:55 | よしなしごと
 人並みに携帯をもっています。
 しかし、この歳になるとあまり電話をする用件もありませんし、メールもほとんどやりとりはしません。
 ただし、このメールの件は、携帯ではということで、PCの方ではかなり頻繁に、添付などをつけたものをやり取りしています。携帯での、チャット風のちょこまかしたやりとりが嫌いなのです。
 SNSなどへの接続もすべてPCで行なっています。

 ならば、携帯など持たなくともといわれそうですが、多少ではありますが必要不可欠な電話も入るのです。
 その他に写真をよく撮ります。今の携帯は4台目ぐらいですが、それを選ぶとき、もっともカメラ機能が優れたものという条件を付けました。
 結果として写真のように「携帯にカメラが付いた」というより「カメラに携帯が付いた」ものになりました。

 このカメラ機能をよく使うのです。ここに載せる写真もほとんどはこれによります。ただし、この携帯の写真はそうではありません。いくら優れたカメラ機能が付いていても、自分で自分を撮すことはできないからです。

        

 外出した折など、これを駆使してかなりの写真を撮ります。花鳥風月を始め、ちょっと面白いなと思ったもの、あるいはメモ代わりのもの、なんでも撮します。
 そんなことで機嫌良くこれを使っていたのですが、最近異変が起きるようになりました。

 これまでのようにバシャバシャと写真を撮っていると、思いがけないところで不快な警告音が鳴って、「バッテリー切れのためこれ以上の写真機能は停止します」という警告が出るのです。しかもそれがしばしばなのです。時折それが、今まさにこれを撮りたいという時に出てくるものですから実に忌々しいのです。

 そこでクレーマー爺さんの本領を発揮して、ソフトバンクの孫さんのところへ電話したのです。出てきたのは孫さんではなくオペレーターのお姉さんでしたが、まあ、彼もいろいろ忙しいのであろうと思ってそのオペレーターの女性に訴えました。
 「最近、バッテリーがすぐ駄目になるのだがこれは故障ではないだろうか」
 「ちゃんと充電していらっしゃいますか」
 「もちろん、こまめに100%になるまでしているけど、それでもすぐなくなるのです」
 「そうですか、それはおかしいですね。ちなみにそのバッテリーはどれぐらい使っていらっしゃいますか」
 「まだ、三年ほどですが」
 「え?もう三年もですか」
 
 そうなんです。この「まだ」と「もう」の隔たりのなかに彼我の判断の相違が凝縮されているのです。
 彼女は続けます。
 「お客様、カメラ主体で三年以上お使いになればそうなるのは当然なんです。よくそこまでお使いいただけましたね」
 「でも、ちゃんと充電していますよ。これってリチウムバッテリーでしょう。航空機のB787となにか共通の欠陥があるのでは」
 「いいえ、そうではなくて寿命なのです。どうか、弊社のショップへお出かけいただいてバッテリーそのものを交換して下さい」
 「で、そのバッテリーはいくらぐらいするのですか」
 「3,000円です」
 う、3,000円といえば野口英世様がお三人お揃いであちらへゆかれるわけです。
 「わ、わかりました。それでは近日中に参ります」

        

 ということで、それからもだましだまし使っていたが、その日もまたバッテリー切れの表示が出たところで近くのショップへいってこれまでの経緯を話しました。
 ちょっとお待ちください、といってなにやらPCをこちょこちょ叩いている。そして曰く、
 「申し訳ございません。只今在庫がありませんので、後ほどご自宅の方へ送らせて頂きます」
 「でも、今もうなくて、しかもこれから名古屋へゆかねばならないのだけれど」
 というと、
 「お客様、お出かけはお急ぎですか」
 と、いわれて時計をみると約束の時間まではかなりあります。

 「いや多少は余裕があるけど」というと、
 「それではしばらくお待ちいただく間にここで充電させて頂きます」
 とのこと。
 「それではお願いします」
 と素直に従ったのにはわけがあります。
 それはそのお兄ちゃんが、PCをごちゃごちゃやっていた結果として、
 「お客様は契約時に保険に入っていらっしゃいますので、バッテリー一個分は無料です」
 とのたもうたからです。
 懐から飛び出しそうだった英世様が三人お揃いで、きびすを返してお戻りになるのが目に浮かんだわけです。

 居心地のいいソファで、ちょうど早く読まなければと思って持ち歩いていた本を読む時間
ができました。
 
 時間が経過し、「それではもう行きますから」と渡してもらった携帯の充電量は、約六〇%ほどでした。
 それでも、バシャバシャ写真を撮ったらすぐなくなることはわかっていましたから、その日ちょっと惹かれたものがあっても、こんなものはとは我慢しました。

        

 それから三日目、無事電池は届きました。
 さあ、これでまたバシャバシャ撮るぞと張り切っている次第です。
 でも、この間の少ないバッテリーでのやりくりのなかで、あまりくだらないものは撮らない、撮るときにはアングルや距離など考えて最良のものを撮るとうことをあらためて意識しました。

 だいたいデジカメは何枚撮っても気に入らぬものは消去できるし、PCに取り込んでトリミングやら、色調やらコントラストなども編集できるということもあって、無造作にシャッターを押しがちです。
 私はマニュアルカメラもいじるのですが、こちらはフィルムというものに対象が刻まれるのですから疎かにはできません。野球でいう「一球入魂」の境地が求められます。

 それからもう一つ、PCを使い始めてからの一貫した疑問なんですが、誤って消去した文章、あるいは不注意で飛んでいってしまった文章、そして画像たち、それらはいったいどこへゆくのでしょう。

 私にはそれらが一度起こってしまったこととして完全に消えてしまうことはありえないような気がするのです。たとえば、どこかの宇宙空間にそれらが堆積している場所があって、そこでは、消されてしまった文章や画像、音源などがひしめき合い、自分たちの不遇を嘆いているのではないでしょうか。
 それらはまさに、次々とめまぐるしくグレードアップされてゆく機器とソフトに代表されるIT文明の墓場でもあります。
 いずれにしても、不本意に短命に終わったものたちがそこでひしめき、嘆き合いながらそのルサンチマンという負のエネルギーを蓄積させ、ついにはその便利さに踊らされている私達の頭上に落下してくるのではないかなどと夢想するのです。

   ホラ、また一行削除した。
   ああ、削除したものが闇の空間に吸い込まれてゆく。
   その先には、私やあなたが削除し、消去したさまざまな残骸たちが、
   その墓標もないまま折り重なり堆積され、
   膨大な負のエネルギーを蓄えつつある。
   そして、そう、真理はいつもこうした廃棄物の中にある。
   原子力発電所が吐き出すものたちのように。

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サクラ偵察隊が見つけた鳥の巣

2013-03-25 15:33:41 | よしなしごと
 私の家から数分の距離に、さして知られてはいないが、その樹齢などからいって花がびっしりつく桜並木、「マイ・お花見ロード」があることは毎年書いています。
 花がびっしりつくかどうかは樹齢によります。若い樹や老齢のそれはさほどびっしりとは花をつけません。いわば熟年の樹が枝もたわわな花をつけるのです。

 例年より早い開花宣言を受けて、どんなものかなあと思い、手紙を出すついでに見にゆきました。
 その近くへ差し掛かると、近くの駐車場に車を止めた女性が、見るからに活発な様子で私に先行し、桜並木を偵察し始めました。
 年齢は40歳前後でしょうか、立ち居振る舞いなどにくたびれた生活感がなく、さわやかな風情を漂わせています。

        
            よく咲いているところでこのくらい

 彼女が立ち止まっているところへ、やがて追いつきました。
 「やはりまだ早いようですね」
 と、私が声をかけました。
 振り向いた彼女は、別に驚きもせず自然に、
 「そうですね、樹によっては少し咲いているものもあるようですが」
 と応答してくれました。
 確かに、同じソメイヨシノでしょうが一本だけ比較的よく咲いている樹がありました。

 「ああ、あれですね。でもあれは若い樹で、花のつきもまばらでしょう。このへんの熟年の樹が花をつけたら本当にびっしりですよ」
 と、私。
 「このへんでカワセミを見ることができると聞いたのですが」
 と、彼女。
 「ええ、私もかなり何度も見ていますがもう少し上流です。しかもここは川幅が狭く、彼らはすばしっこいので、あ、いたと思ったときには川沿いにスイ~ッと遠ざかってよくみえないんですよ」

        
                水辺のサクラなのです
 
 「水はけっこう綺麗ですね」
 と、彼女。
 「ひところは随分汚れていたのですが、最近は少し良くなりましたね。ほら、小魚が群れているでしょう」
 「あ、ほんとですね。さっきからなにか動いてると思っていたのですが」
 「昔はもっと水量が豊富で、いろいろな魚たちがいたのですがねぇ」

           
                 群れている小魚たち
 
 自然のなかにホワッと溶け込んでいるような雰囲気のある彼女との会話は楽しかったのですが、向こうがどう思っているかはわかりません。
 変なおっさんにつかまっちゃったなぁと思っているかもしれません。
 「あ、ごめんなさい、おじゃまをして。私もう少し上流を見てきますから。もう何日かしたらまたいらっしゃい。驚くほどびっしり花が付いていますよ」
 と、彼女と別れました。

 そのまま上流へ向かい、振り向くと、彼女は車の方へ戻るところでした。
 もう少し私が若くて大胆だったら、メルアドなど聞き出すところですが、初対面でそこまでは図々しくなれないところが私の年代。

 上流へゆくと、小学生とその父親が釣りをしていました。
 もっとも釣りはもっぱら子供のほうで、父親の方はスマホかなんかにかかりっきりの現代風パパです。
 挨拶を交わして、しばらく見ていました。
 やがて小学生は、小ぶりですが一尾を釣り上げました。先ほど群れていたハヤの仲間のようです。
 「やったネ」と軽い拍手をしてその場を辞しました。

        
           桜の蕾の間に見つけたかなり大きい鳥の巣
 
 帰途、まだ蕾ばかりの桜の枝に、直径30~40センチもあろうかという鳥の巣をみつけました。なにの巣かまったく見当がつきません。しばらく見上げていましたが、鳥がやって来る気配はありません。
 水辺とあって、この辺りではサギの仲間をよく見かけるのですが、彼らは集団営巣するはずですからどうもそうではないようです。

        
           わが家のキジバトの巣 二回りほど小さい
 

 いずれにしてもかなり大型の鳥ではないかと思います。
 私のうちにもほぼ毎年、キジバトが巣をかけているのですが、せいぜい直径が20センチぐらいなのです。
 水辺の桜並木に単独で営巣する大型の鳥、なんだか分かる人がいたら教えて下さい。
 


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六も歩けば春うらら

2013-03-23 04:22:24 | 写真とおしゃべり
 「歩くために歩く」のは苦手ですからとくにウォーキングなどということはいたしません。
 その代わり、時間が許せば多少の距離は歩きます。

    
          大根の斬首刑?           私にゴッホの才能があれば
 
 どんなポンコツであろうが、所定の年数には車検というものを受けねばなりません。
 21日、いつもの工場にそれを入れました。
 代車などというものは借りません。

 
        岐阜駅方面遠望               あぜ道での歓談

 車検は一日で済みますから、その間乗らなければいいのです。
 その日はそこへ車を入れてから、近くのバス停から市立の図書館へ行きました。
 帰りもバスでした。

 翌日、車をとりに行くために歩きました。
 私の家から東へ歩き、突き当たった川沿いに上流方向(北)に向かって歩きます。

 
          孤独               丸々と太った鯉体長は70cmほど

 昭和30年代の高度成長期には、工場排水や家庭排水が垂れ流しでヘドロが溜まり、メタンガスのあぶくが見られたような川でしたが、今は見たところ落ち着き、魚たちも戻って来ました。

 
                   ヒドリガモたち

 それとともに、水鳥たちも姿を見せ始めました。
 カワセミや垂直ダイビングのコアジサシも時折見かけます。
 今はカモの仲間たちです。

 この日はかなり広い範囲にヒドリガモが遊んでいました。
 彼らはとても利口で、私が近づくとツツツツーと対岸の方へと距離をとり、測ったように一定の距離まで離れます。なかなかアップでは撮らせてくれません。

    

 ところで、この道は懐かしいのです。
 最近はめったに来ませんが、かつては、飼っていた「寿限無」という犬をよく散歩に連れてきたことがあるからです。

 あれよあれよと右肩上がりで進んだ高度成長がバブルのはじけでストップし、その後もリーマン・ショックで投資や開発が進まないなか、このあたりはこの2,30年というものあまり変わっていません。

 
                それぞれ、八重の椿と梅

 鳥を見て、鯉を見て、花を見ているうちに工場へ着きました。
 車を受け取り、うちまではほんの数分です。
 たしかに便利なのですが道草ができません。
 あたりをきょろきょろ見回すこともできません。

 

 うちへ帰ったら、昨日まで黄色いものがポツポツ見えていただけのレンギョウがいっせいに花開いていました。

 ほんとうはいろいろ宿題があってそれほどのんびりはできないのです。
 でもやはりノホホンとする時間がないとやりきれません。
 などと自分に言い訳をするのですが、ともすればノホホンばかりが続いて、つまるところ所定の期限が迫って追い詰められてジタバタするというのがいつものパターンなのです。

    
          大木の貫禄        こういう雑然としたのって好きだなぁ

 この分でゆくと、死期が迫ってもやり残したことばかりでとても往生はできませんね。
 もっとも、所詮は悟りや往生とは無縁な衆生と居直っていますから、さほど気にしてはいませんが。

 それでも親鸞さんは、そんな凡夫の私でもお念仏さえ唱えればといってくれていますがそれもしていませんね。心のなかでということでおまけしてはもらえないものでしょうか。
 
 アレ、なんの話だっけ。
 


 

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ツクシ誰の子 スギナの子

2013-03-20 17:46:27 | 写真とおしゃべり
 つくし採ってきたのはいいよ。でもこんなにたくさん採ってきてどうするの。
 誰がいったい袴を取って掃除をするの。

         
 
 そりゃ、うちから一分のところにひとが知らない穴場があって、そこで採ったってのはわかるよ。あの田んぼの畦道には、前にもつくしが生えていたんだけど、その南側ギリギリに家が何軒も建ってしまったので、もう出ないだろうとみんなが思っていたのを見事にその裏をかいてこんなにたくさんとったのは認めるよ。

         
 
 でもそれに気づくの2、3日遅かったんじゃあないかい。ほら、もう開き切ってるのもあるだろう。え?茎も美味しいのだから問題ないって?まあ、そりゃそうかもしれないけれど。

         

 いずれにしても責任をもって袴をとることだな。
 え?こんなにたくさんとっていたら徹夜になるって?
 それでいいんだよ。「つくしてつや」って人いたろう。

         
 
 あ、天国の筑紫哲也さん、変なところに名前を出してゴメンナサイ。
 以上は、六の独り言でした。
 さあ、頑張って袴をとらなくっちゃ。

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リンツ・リンツ・リンツ

2013-03-19 01:42:58 | よしなしごと
 リンツという都市がオーストリアにあることを知ったのはいつ頃のことだったろうか。いずれにしても最初にそれを知ったのは地理的にではなくというか、ようするに、地図でいったらどのあたりかということではまったくなかった。
 おそらくはモーツアルトの交響曲第36番が「リンツ」と題されていたこと、あるいは、かのアドルフ・ヒトラーがこのリンツの郊外で生まれ、リンツの高等実科学校へ入学し、その折には哲学者のヴィトゲンシュタインとほぼ同級であったというエピソードをどこかで読んだからだろう。

           
 
 ちなみにリンツとは関係ないが、このヒトラーとヴィトゲンシュタイン、それに哲学者のマルティン・ハイデガーは1889年生まれの同い年である。そして1930年代に至って、ヒトラーはユダヤ人を迫害し、ヴィトゲンシュタインはユダヤ人としてそれを逃れ、ハイデガーは一時的とはいえナチスを支持したというそれぞれの後年の物語は、同年生まれの三人の運命の軌跡を示していて感慨深いものがある。

         
     右上はヒトラーだが、左下はヴィトゲンシュタインではないとする説もある

 すでに述べたように、そうした周辺の知識からリンツを知ったのみで、それがどこにあるのかはまったく知らなかったのだが、はからずもそれを知る機会が訪れた。
 ちょうど今から22年前の1991年、その年はモーツアルト(1756~91年)没後200年のいわゆるモーツアルト・イアーだったのだが、思い立ってザルツブルグヘ旅したのだった。今から考えると随分思い切ったものだと思うし、旅費もかなり割高だったのだが、記念音楽祭のコンサート3回、オペラ2回のチケット付きだったからやむをえないだろう。

 旅程は日本からチューリッヒ、インスブルック(この途中、37人乗りのプロペラ機からみたヨーロッパアルプスの夕映えは息を呑む美しさだった)、そしてウィーンへといずれも空の旅だったが、ウイーンからザルツブルグは列車の旅で、その途中にリンツはあった。
 あ、ここだと降り立ちたい気分になったが、ヨーロッパの列車は発車ベルなどなくいきなり発車するので怖くて降りることができなかった。そのかわり、窓にへばりつくようにして写真を撮ったのだが、デジカメなどない時代、古いアルバムをひっくり返さないとそれがどこにあるかは確かめようもない。

         

 その後、今から10年ほど前、もう一度、リンツをやはり鉄道で通ったことがある。その折はひょんな事で、牛に引かれて善光寺参りでハンガリーへ行ったのだが、その帰途、スロベニア経由でオーストリアのグラーツへ入り、ウィーンからフランクフルトまでの列車でリンツを通った。最初ほどの感慨はなかったが、それでもなぜか懐かしい気持ちに襲われた。

 オーストリアの都市は、どこか人懐っこい感じがする。それはおそらく、日本の京浜、中京、阪神地方のようにメガロポリス化されていなくて、各都市が広がる田園などに隔絶されて独自性を保っているからだろう。と同時に、その規模の手頃さにもある。首都ウィーンの人口は175万人だが、第二の都市グラーツは25万人、リンツは第三の都市で19万人の人口である。ちなみにザルツブルグは15万人だが、その旧市街地については一週間滞在したせいで、今でもひとを案内できそうである。

         

 さて、またまたリンツに戻ろう。
 ヒトラーはリンツを愛し、オーストリア併合もそのせいではないかといわれるくらいだが、第三帝国が安定した折にはリンツにその首都を移すべく、大規模な都市計画をつくらせ、その模型を連合国の攻撃を避ける地下壕のなかでも時折眺めて悦に入っていたという。

 ヒトラーの人類への犯罪的行為はさておき、そうした少年の日の夢をむさぼっていた彼には何がしか心緩むものがある。彼は歴史を悲惨な色彩に塗ってしまったのだが、同時に歴史そのものが彼にそうした衝動を与えてしまった面もあるのだろうと思う。

 モーツアルトの交響曲36番「リンツ」は27歳の折の作品で、リンツ滞在時につくられたのでそう呼ばれているのだそうだ。三十数分のこの小洒落たシンフォニーを、彼は4日で書き上げたという。
 万一、ヒトラーの第三帝国が少なくともヨーロッパを制覇し、リンツがその首都となったあかつきには、このモーツアルトの曲から国歌がとられたかもしれないなどと思う。
 そうならなくてよかった。




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私が日頃書かないこと 孫と猫について

2013-03-15 03:34:26 | 想い出を掘り起こす
 いろいろなことを無節操に書き散らす私ですが、あまりというかほどんど触れない話題があります。それが孫と猫の話題です。

 前者については、孫が可愛いということを今さらいいたてたりするのは私には似つかわしくないというある種のダンディズムによります。
 しかし、これはそれを素直に述べる人たちを批判したり排除したりするものではありません。あくまでも私のようなへそ曲がりは、そのようには語れないというまでです。

 後者についても、猫ニャンニャンというのは私の美学に反するのであえて語らないのですが、もちろん猫が可愛くないわけではありません。
 ただし、猫については積年の思いがあります。

        

 今から40年ほど前、いまの一戸建てに住み始めた頃、それ以前のアパート住まいでは飼えなかった猫を飼い始めました。ほとんど同時に、家族団らんの居間にと、いわゆる応接セットを購入しました。
 当時の安っぽいレザーのものではなくて、革のものがいいだろうというので、共稼ぎでもとても現金では買えない本革のものをローンを組んでゲットしました。
 一戸建てで居間には応接セットがあって、猫までいて、まさに典型的な中流志向のアイテムが揃った感がありました。

 それらの道具立てが揃ったある日、家族揃って外出をしました。まだ若い猫はお留守番です。どこでどのくらいの時間を過ごしたのか今となっては思い出せないのですが、帰宅した私たちは見るも無残な光景を目撃したのです。

 まだ頭金しか払っていない応接セットのソファ類はすべて、無残な傷跡で埋め尽くされていました。それはあたかも、私どもに恨みを抱く者が故意に傷つけたとしか思えない惨状でした。
 しかし、善良この上ない私どもがかくも人様の恨みをかう理由は何一つ思い浮かびません。

            

 犯人は猫でした。ひとり置いてきぼりを食った腹いせに、ではないですね、淋しさに、おそらく狂乱状態になったのでしょう。それが、爪を研ぐという猫の習性とあいまって、かくも悲惨な状態を生み出したのです。
 さすがに頭に血が登りました。尻尾を持って地面に叩きつけてやろうかとも思いました。しかし、そうはしませんでした。罪を憎んで猫を憎まずです。それに、罪あるものこそ赦されるべきだとキリストも親鸞もいっているではありませんか。

 傷ついたセットには急遽カバーをしましたが、やはりその居間でこの猫と仲良くやってゆくのには抵抗がありました。かといって一度飼うと決めたものを捨てることなどはできません。さいわい、義妹が引き取ってもいいといってくれました。

 その後、義妹のところへ行った折など、当然その猫に逢ったりしたのですが、いくぶん複雑な思いはどうしても禁じえませんでした。猫の方はそんなことはニャンとも思わないようで、旧知の人間が現れたとばかりに私の足元に身をすり寄せて来るのですから一層思いは錯綜します。

        

 そんなこともあって、私は猫と孫(え?いっしょにするなって?どっちがいってるの?)の話題は避けているのです。
 しかし、さほど頑なではないですよ。私の親しい人のなかには、明らかに猫を指すハンドルネームを使っている人が複数いるからです。

 ここに載せた猫たちの写真は、先般、日間賀島で撮ってきたものです。漁港の近くには猫が沢山います。みんなまるまる太っていてしかも物怖じしません。すぐ近くへよっての撮影が可能なのです。
 
 私がなぜ猫の話をしないかをお分かりいただくために、猫の話をした次第です。




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ヘルペス・梅・ぺんぺん草に犬ふぐり

2013-03-13 15:09:16 | よしなしごと
 どこというわけではないのですが体調が良くないのです。
 いわゆる年齢からくるガタだから、クリニックへいって必死に訴えても不定愁訴扱いにされるに決まっています。
 ただし、薬を貰いに行った折、ひとつだけ訴えました。
 もう1月ぐらいから気づいていたのですが、上唇になんかカサカサしたものができ、ときとしてこわばった感じがして多少の痛みもあるのです。これでは惚れたひとがいてもキスさえままなりません。

 口を開けてくださいといわれました。こんなこともあろうかと出掛けに歯を磨いてきてよかったですね。口臭がしては失礼でしょう。ましてや相手は女医さんです。唇の異常が治ったあかつきには、なんかの拍子にこの女医さんとキスを交わすことになるかもしれないのです。

 

 私の唇をしげしげと見つめていた彼女、「あ、これは口唇ヘルペスですね」との診断。
 心あたりがない訳ではありません。私は子供の頃、水疱瘡を患っていて、その後遺症で、今も腰のあたりに年数回の頻度で帯状ヘルペスが発症するのです。
 しかしそれが、私の花のカンバセにまで登場するとは・・・。

 水疱瘡が完治しても体内の神経節にはウイルスが潜んでいて、そのウイルスが体力が落ちた時に、神経に沿って移動し繁殖し、こうした症状が出るのだそうです。
 しかも、このウイルスを体内から無くす事は、現在の医療技術では不可能だとあって、原罪のように一生このウイルスと付き合っていかなければならないわけです。しかも、その症状が治っても傷跡のシミ跡は一生消えないといいますし、現実に私の腰のあたりにはその痕跡が残っています。
 これではAVの男性出演者にもなれません。

 

 さいわい、ひとに伝染することはないというので安心ですが、こんなものを抱えたまま生きてゆくのは嫌ですね。

 これを読んでいるみなさん、「六は罰当たりだからそんな目に合うのだ。その点私は・・・」と思っていませんか。でも、まだわかりませんよ。
 私が水疱瘡にかかったのは、3、4歳の頃です。自分では記憶していない頃なのですが、父母に、「お前はひどい水疱瘡にかかってねぇ」と聞いていたからそうかなと思っていたのみです。
 それでですよ、はじめて私がヘルペスを発症したのはなんと五〇代の後半なのです。半世紀も潜伏していて機会を待っているなんてすごいウィルスですね。
 しかもその後、年々、何度も出没し、ついには私の唇を奪うなんて、やれやれですね。

 

 もっとも人間様の世の中でも、日章旗や旭日旗を林立させてデモ行進をするという、敗戦と同時にとっくに滅びたはずの軍国調がまたぞろ湧いてきていますから、思想というものにもウィルス同様に潜伏期があるのでしょうか。
 「もはや戦後ではない」といわれてかなりになりましたが、なんだか戦前ムードすら漂っているようですね。

 あ、話が逸れました。もし、子供の頃など水疱瘡を患ったことがある人は、思いがけない折に発症する可能性がありますよ。できた時は、下着と擦れ合っても痛いのですが、軟膏状の薬を塗ると、2、3日で治ります。しかし、それが完治ではないことはすでに述べたとおりです。

 

 まあ、陰気な話はそれぐらいにして、クリニックの帰りに遠回りの散歩としゃれこんで、近くの梅畑(この間、頭をぶっつけたのとは違う処)へ寄ってみました。まさに満開でした。
 何枚かの写真を撮り、帰途、ふと気づくと、イヌフグリやペンペン草も「あたしたちも咲いてるよ」って訴えていました。梅や桜ばかりが花ではありませんからこれも撮りました。
 イヌフグリという名が、この可愛い花には不当だとずっと言い続けてきましたが、今年は言いますまい。どう名付けられようとも花はなぜなしにに咲くのですから。

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鎮魂 そして新たな決意のために

2013-03-11 17:59:28 | 社会評論
写真はわが家で今咲いているものですが、震災で亡くなった方々への献花といたしたいと思います。 

 大震災からまる2年、その前からメディアは騒いでいるので、肝心のこの日の影がかえって薄いくらいだ。
 あらためて2万人余の犠牲者に方々に哀悼の意を表するのは当然として、いまなお、住処を失い、仮設住宅や遠隔地への避難者が31万人余もいる現実を忘れてはならない。
 そしてその約半数の16万人弱が、原発事故によって土地を追われた人たちで、かつての生活の場所に戻ることが出来る目処はまったく立っていないという。これは、事故による損害への保証などという次元を越えた大きな問題だ。尖閣や竹島をあわせたよりもはるかに広い領土が、失われているのだから。

 

 政権交代以来、政権当事者たちにも、メディアにも、そして、それに踊らされた人たちにも、原発再稼動はもはや規定の事実、時間の問題であるかのような雰囲気が漂いはじめている。安倍首相は、つい最前までの国民的合意であった「2030年までの原発全廃」を、国会の場でいともあっさりと否定してみせた。
 喉元すぎればなんとやらで、こんなにあっさり再稼動を既定の路線であるかのようにしてしまっていいのかという思いが募り、やりきれないものをおぼえたひとも多かろう。
 
 最近のメディアの動向を見ていても、株価や円価格など、やっぱり経済だということが主流で週刊誌は株価三万円台を煽る。またぞろ、素人投資家が扇動されて、バブルがはじけた時のように貯蓄を巻き上げられるのではと密かに危ぶんだりもしている。
 ただし、経済が活性化することは、それが雇用につながり、中小零細企業が立ちゆくようになるならば悪いことではない。しかし、そのために、現在生きている人々や、将来の人たちの安全がまったく保証されていない原発が再稼働したりすることは問題外だ。
 そうした危険を排除しながら、生産や流通を確保してゆくところにこそ人の叡智があるはずである。

 

 そうした危険性をとことん隠蔽し続け、不安を札束で黙らせるという原発という技術は、廃棄物を処理できないという垂れ流しの状況と相まって、やはり「悪魔の技術」といわざるをえない。
 福島原発の事故は収拾しつつあるという。果たしてそうか。
 冷却に用いた大量の冷却水はいま、行きどころもないままにただただ増え続けるのみだ。つい最近、発電所沖の魚から検出された51万ベクレルの放射能(基準値の5000倍!)は、近辺の海の死滅を告げるものであり、復活への期待を抱いている漁民たちに絶望感を突きつけるものであった。

 しかし、そうした暗澹とした思いに対し、ここ2,3日の経験はいくぶん明るさをもたらすものであった。首都圏を始めとする反原発の意思表示は久々に盛り上がったし、日本の電力会社や原子力村の統制が効かない台湾では9日、なんと10万人の反原発デモが起こったというのだ。台湾の人口は2千万強であるから、この規模は日本での50万人のデモに相当するのだ。
 ヨーロッパからは、フランス、ドイツでのやはり日本の3・11に呼応した大規模デモが伝えられる。

 

 世界は、この日を忘れてはいなかった。
 ひとり日本のみが惰眠を貪ったり、「経済のために」という狭小な理由で悪魔の技術に魂を売るわけにはゆかない。
 ヒロシマ・ナガサキと被爆国であることのみを強調してきたこの国は、いつの間にかこの悪魔の技術を用いて国民を被曝させ、あまつさえ、その技術を輸出しようとさえしている。

 あらゆるモラルを投げ捨てた狭義の経済は、その発展を大義名分にし、隠すべき情報は徹底して隠し、限られた地域に札束の雨を降らすことによって再稼動を勝ち取ろうとするだろう。
 しかし、それらは阻止しなければならない。
 それは、今ここで生きている私たちのためのみならず、将来の人間たちのためであり、3・11を新たに原発廃棄の運動のスタートとして立ち上がっている世界の人々への責任でもあるのだ。

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