六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

集中治療室で聞いたそれは・・・・除夜の鐘あれこれ

2017-12-31 11:44:08 | 日記
 いよいよ大晦日。
 陰湿な雨が降っている。洗濯物が乾かない。乾燥機能を使う。この機能は電気代を食う。電気は熱にすると消費量が多いようだ。

 新聞を読んでいて、除夜の鐘に「うるさいっ」というクレームがあちこちでつくとあって、ご時世とはいえいささか白けた思いがした。
 
 いまから60年以上前、大晦日にも受験勉強をしていると、いまほど夜間は車も走らず静かなこともあって、あちこちの寺から除夜の鐘が聞こえたものだ。遠くからのもの、こんな近くに寺があったのかと思われるもの、たまたま重なり合ったり、あるいは追いかけるようにしてロンドのように響くものなどと、ちょっとした梵鐘のアンサンブルが聞こえたものだ。

           

 一番記憶に残るそれは、いまから二十数年前、父が重篤な病いで倒れ、集中治療室に入っていた際、私が志願して大晦日の付き添いをしていた折のことだ。夜中近くになると、除夜の鐘が聞こえた。しかも複数だ。
 病院の集中治療室という場所は、だいたいが奥まった場所で窓際ではない。いったいどこから聞こえるのだろうと見回したら、無機的な壁の上方に換気のための小さな窓があり、どうやらそこから聞こえるようであった。

 昏睡状態にあった父にこの音が聞こえているだろうかと思った。と同時に、血縁のない私を引き取って育ててくれた父とのさまざまなシーンが思い出されて、じんわりこみ上げるものがあった。
 父はそのまま逝ってしまったので、とりわけその夜のことは鮮明に思い出す。

 もうこの老体では、除夜の鐘を撞きに出かけることはないが、今夜はじっくりとその音を聞いてみたいと思う。
 そんな父の寿命に、私自身あと数年と迫った。あと何回除夜の鐘を聞くことができるだろうか。

                 

 正月前に、いくぶん辛気臭い話になったが、みなさんが良いお年を迎えられますよう祈っている。


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近頃流行りの「天皇待望論」について

2017-12-29 02:18:07 | 日記
 以下は、旧知の若い人があるSNSに書き込んでいらっしゃることについての私の意見ですが、この問題は、今年の言論界の中で、静かに進行しているように思われるので、看過できないのです。

          

 安倍や麻生があまりにもひどいからといって、近年、平成天皇を評価する向きがあります。それは、サヨクの論客と言われている内田樹や、高橋源一郎、柄谷行人にまで及んでいるようです。
 なかには天皇親政を期待する向きもあるようですが、それはとても危険な考え方だと思います。
 天皇の性格や思想(その詳細はわかりません)を評価するのは勝手ですが、それをもって天皇制の復活などを夢見るとしたらとんでもない話です。

 天皇を評価してしまう人たちはひとつの重要な点を見逃しています。それは、天皇はその立場上、リアルな政治課題から自由で、というか、それに触れることを禁止されているので、理念のみに基づく話ができるということです。
 ようするに、天皇は政治とは違う次元で語っているのだし、また政治という次元では語ることができないのです。

 ですから、それをもって安倍よりはマシと断定し、天皇に期待するのは筋が違うのです。
 このことは決して安倍を擁護することではありません。彼への批判は、天皇の権威とは別のところで、まったく違う次元で批判されるべきなのです。

 天皇制からの離脱は、第二次世界大戦においての日本人300万人の命と引き換えにもたらされたものです。いわゆる主権在民がそれです。それを再び天皇に帰すようなら、それこそ戦後70年の歴史をチャラにするようなアナクロニズムといわねばなりません。

 私の安倍への批判は、彼がまさにこの主権在民を、そしてその基本である人間の尊厳を踏みにじっていることにあります。
 彼の画策する憲法の改悪をその方面から見ても、9条のそれは、シビリアンコントロールからの離脱へと至ります。
 25条のそれは基本的な生存権、尊厳を持って生きる権利の制限剥奪を意味します。
 また、98条のそれは非常時の決定権を国民から奪い、時の為政者の恣意に委ねるものです。

 既にお気づきのように、これらは1945年までの天皇親政の時代には、すべて私たちの側にはなかった諸権利です。
 ここに安倍の「日本をとりもどす」があるとしたら、「安倍はだめだけれど天皇は良い」は奇しくも安倍の路線に合流してしまうのです。

 繰り返しますが、平成天皇の性格や思想はよくわかりませんが、それを良しとして評価するのは勝手です(ただし私が指摘したように、彼は現実政治からフリーなところで発言していることに留意して下さい)。
 しかし、それをもって天皇の統治を期待するのはまったくの誤りです。

 あなたもお書きになっていらっしゃるように「時代は後戻りはしない」のです。
 ですから、私たちは、この時代に即した新しい形態を模索する中で安倍政治を止揚する道を探し求めねばならないのです。

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【最近感動したこと】ピアニスト、マルタ・アルゲリッチの矜持 

2017-12-26 00:38:18 | 日記
 マルタ・アルゲリッチはデビュー以来半世紀を超える当代きってのピアニストです。日本との縁も深く、「別府アルゲリッチ音楽祭」を主宰したりもしています。

          

 そんな彼女ですから、世界中のこれというオーケストラとはさまざまな協奏曲で共演しています。
 しかしです、そんな彼女ですが、これまでウィーン・フィルとのみは協演したことがないのです。世界屈指のピアニストが、ベルリン・フィルと並んでオーケストラの最高峰といわれるウィーン・フィルとは一度も演奏したことがないというのはとても不思議な話です。

 しかし、それが、今年の11月末、ついに実現したのです。
 棒を振ったのは、ピアニストにして指揮者のダニエル・バレンボイム。彼は、アルゲリッチと同じアルゼンチン出身で年齢もほぼ同年で盟友ともいえる関係にある人です。

          

 曲目はリストのピアノ協奏曲第一番。リスト独特のきらびやかなピアノと重厚なオケが織りなすロマン派屈指のピアノ協奏曲です。

 もうひとつ、付け加えたい情報があります。それは、当日のウィーン・フィルのコンサート・マスターがアルベナ・ダナイローヴァさんというブルガリア出身の女性バイオリニストだったということです。
 そして、これがアルゲリッチとウィーン・フィル協演に繋がる鍵ともいえる事実なのです。

          
                アルベナ・ダナイローヴァ

 この協演が実現したその直後、「朝日新聞」のヨーロッパ総局長の石合 力は、楽屋にアルゲリッチを訪ね、本人から直接、これまで協演のなかった理由を聞き出しています。以下がその折のアルゲリッチの言葉です。

 「これまで演奏しなかったのは、女性が一人もいないオケだったからです」
 
 まさに明解ですね。ウィーン・フィルが女性の団員を忌避する以上、ソリストである自分も共演しないということだったのです。権威を嫌う彼女の基本的な姿勢、そして矜持がよく現れた言葉だと思います。あえて「矜持」というのは、やはりソリストである以上、ウィンフィルとの協演は一流であることの証になるはずなのに、そんなものに目もくれずに信念を貫いたその姿勢を評価するからです。

          

 確かにそうなのです。私は1991年夏、モーツァルトイヤーのザルツブルグで、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの両方を聴く機会がありましたが、前者には女性の団員がいましたがウィーン・フィルの方は男性ばかりでした。
 ウィーン・フィルが女性の団員に門戸を開いたのは、やっと前世紀の末で、いまでは十数名の女性が居るようです。
 そしてついには女性のコン・マスが登場し、そこにアルゲリッチが加わって世紀の協演が実現したのでした。

 今年は、世界中の各地で、女性が声を上げた年です。上のアルゲリッチをめぐる事実もその尊厳をめぐるエピソードだと思います。
 日本でも「女性の活用」などといわれていますが、どうも女性の尊厳とは無縁なところで、生産力向上のための労働力確保ぐらいにしか考えられていないようです。
 政治家や議員など、要職につく女性の割合が世界でももっとも少ない方だというのがこの国の現状なのです。

          
                 若き日のアルゲリッチ

 話は逸れましたが、改めてアルゲリッチに敬意を表し、今後もその演奏を楽しみたいと思います。
 当日の演奏は当然まだ聴いていませんが、アルゲリッチのソロ演奏をひとつ貼り付けておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8&list=RDuDuEviRTmOs&index=3
           J.S.バッハ - パルティータ 第2番 ハ短調 BWV.826  
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中国から来た嬉しいX'masカードと年賀状

2017-12-25 01:50:16 | 想い出を掘り起こす
              
        これは実際には動画で、文字が次第に集まるようになっていました。

 
 中国の女性からX'masカード兼年賀状をもらいました。
 それには以下のような文章が付されていました。

 =====================================

 ご無沙汰しております。
 マスターはお元気ですか?

 早くも2017年のクリスマスになります。2018年もすぐそこです。
月日が経つのは何と早いでしょう、と感心しながら、2018年の新年を迎えることになります。

 今年の春から錦天城(Allbright)弁護士事務所の深セン事務所に転職しました。
それから、あっという間に年末になったという日々の忙しい業務に没頭していました。
あとどれ位続けられるか、体力次第です。

 2018年はあまり変化のない、たまに息抜きができる、穏やかな一年になって欲しいですね。また、いつも通り、世界平和を願っております。

 マスターにもご家族の皆様にも2018年がお元気で穏やかにお過ごすように、お祈りいたします。
                              2017年 冬至

 =====================================

 彼女はいまから20年以上前、中国からの留学生で日本にやってきて、当時私が経営していた居酒屋でアルバイトをしてくれていた人です。
 私への便りが、「マスター」という呼びかけで始まるのは、当時、私が顧客や従業員さんからマスターと呼ばれていたからです。
 
 その頃彼女は20歳前後でしたが、とても利発で、日本語の習得も早く(上の文章をご覧になってもわかると思います)、その辺の言語能力の低い日本人より遥かにうまい日本語を駆使しました。
 酒場という場所柄、いまでいうセクハラ絡みの話題をふっかける客も時としてあったのですが、彼女は巧みな日本語でそれをうまくさばいていました。
 加えていうなら、とても気立てがよく、また気が利くので、顧客からも従業員仲間からも可愛がられていました。いってみれば私の店のアイドル的存在でした。

 法学部で、商法や民法畑を専攻していたのですが、その学業に専念するというので私の店を辞めました。その後も多少の連絡はあったのですが、いつの間にかそれも途絶えました。
 ただ、風のたよりで大学院まで進み、学位を取ったことは知っていました。
 その彼女と、どうして連絡が取れるようになったのかは長くなりますから、次回にでも述べます。

 その後彼女は、その学業の成果を活かし、商社の貿易部門や法律事務所で仕事をしていたのですが、結婚し、一児をもうけたのを機会にいったんは仕事を退きました。しかし、子育てが一段落をした数年前からまた働いています。
 北京の生まれ育ちなのですが、いまは深圳市(香港のすぐ北方 中国4大都市の一つで経済特区 中国のシリコンバレーと呼ばれている 人口1,500万人弱)で働いています。今年春までは日系の貿易商社にいたのですが、今は上の手紙にあるように、中国最大級の錦天城(Allbright)弁護士事務所に移ったようです。
 これをみてもキャリアウーマンとしての彼女の能力の高さが伺えます。

 しかし、余り忙しくなると、小説や映画が大好きな彼女の感性がその行き場所を失ったりしないかを心配しています。
 まあしかし、私のことを思い出してこうして連絡をくれる限り、案じることはないように思います。

 私の店で、かいがいしく働いていてくれた彼女の姿を瞼に浮かべると、つい微笑みが浮かぶのです。そして、次の瞬間、やがてその瞼に、ジーンっとするものを感じるのはやはり歳のせいでしょうね。

 
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門松代わりとあんときのあんちゃん

2017-12-22 15:21:40 | 日記
               

  毎年、門松代わりに玄関先に花など飾るが、今年は紅葉した南天にした。
 ひょろっとしているが樹齢30年を超えている。その頃の年末、地元のヤクザのあんちゃんが、「これ買ってくれ、2万円だ」といって寄せ植えの鉢を持ってきた。断ると、年が明けてからノルマが果たせなかった残務処理で、5千円にするからというので買ってやった。
 
 このあんちゃんは私のやっていた居酒屋の常連客で、変な言い方だがけっこう人の良い好青年だった。
 その後この組は、大手の組の進出にドンパチを混じえてしばらく抵抗していたが、やがて潰された。そのあんちゃんが抗争を生き延びたかどうかは知らない。どっかで気質になっていてくれたらと思う。
 
 この南天はその折の寄植えをばらして育てたもの。
 何にでも歴史はあるものだ。
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師走 都市の断章

2017-12-20 13:16:59 | フォトエッセイ
            

 都市は直線が多い。
 基本的にはいまもバウハウスの空間を直線で仕切るデザインが支配している。確かにこれは空間を余すところなく使う機能主義にとっては合理的なのであろう。
 しかし、無駄を排した空間の配置はやはり緊張感を強要されるようで疲れる。
 考えてみれば、近代合理主義そのものが人間を疲弊させるシステムなのだ。

            

 昭和の面影を残す路地裏に出会うとホッとしたりする。
 なぜだろうか。そのひとつの要因は、空間の仕切りが排除的になるのではなく、どこかで曖昧に融合しているからではないだろうか。
 上の写真では、路地に置かれた洗濯機などのもろもろのモノたち。これらは今ではそのほとんどが建造物の内部へと収納される。それによって人の営みは内面のものとなり、外部との境界は隔絶される。
 しかし、路地にはそれらが外部と融合し、他者との境界が曖昧になる面白さがある。

          
 
 映画を女性と二人きりで観た。
 別に相思相愛の相手ではない。たまたま入ったキャパシティ200ほどの映画館で、その映画を観たのは彼女と二人きりだったというわけだ。
 だから並んで観たわけではない。彼女は私より後方にいた。
 映画が終わってクレジットが出始めた頃、彼女が出てゆく気配がした。だから最後の何分かは私一人になった。

          

 この時期、各地でイルミネーションが盛んである。
 当初は、電力の無駄ではないかなどといわれた時期もあったが、LEDによりそうした声も聞かれなくなった。だから、これでもかといったものが夜を彩る。
 でも、私はわざわざ観に行ったりしない。理由は簡単だ。寒いからだ。その代償に、風邪でもひいたらたまったものではない。
 ただし、通りかかりのところにあるものは、そこそこに観る。
 そしてどこかでひっそりと、戦中戦後の、あの真っ暗な夜を思っている。







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角界というのは世にも奇っ怪なカルト集団なのか?

2017-12-17 01:27:38 | よしなしごと
 大相撲の今回の事件の成り行きにはさほど関心がなjが、以下に伝えられる貴乃花親方の支援者に送ったメールがほんとうだとしたら、なんかグロテスクなアナクロニズムのようで気味が悪い。
 前々からいささかやばいとは思っていたが、大相撲が「国体の維持や陛下の守護」のためとこれほど堂々といわれると、やはりいっそう引いてしまう。
 これって相撲界のどれ程に支持された見解なのだろうか。それに近い話は、協会関係者や相撲放送の解説者からまま聞くことがあるから、貴乃花親方の特殊な見解ともいえないと思う。

               

 以下は貴乃花親方が、その後援者の高野山別格本山清浄心院住職の池口恵観氏に送ったいわれるメール。

  ====================================
 
 “観るものを魅了する”大相撲の起源を取り戻すべく現世への生まれ変わりの私の天命があると心得ており、毘沙門天(炎)を心にしたため己に克つを実践しております。国家安泰を目指す角界でなくてはならず〝角道の精華〟陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります
 国家安泰を目指す角界でなくてはならず“角道の精華”陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります

 角道の精華とは、入門してから半年間相撲教習所で学びますが力士学徒の教室の上に掲げられております陛下からの賜りしの訓です、力と美しさそれに素手と素足と己と闘う術を錬磨し国士として力人として陛下の御守護をいたすこと力士そこに天命ありと心得ております

 今の状況、若い頃から慣れております報道とは民衆が報われる道を創るのが本分であると思いこれまで邁進してきております

 角道、報道、日本を取り戻すことのみ私の大義であり大道であります勧進相撲の始まりは全国の神社仏閣を建立するために角界が寄与するために寄進の精神で始まったものです

 陛下から命を授かり現在に至っておりますので“失われない未来”を創出し全国民の皆様及び観衆の皆様の本来の幸せを感動という繋ぐ心で思慮深く究明し心動かされる人の心を大切に真摯な姿勢を一貫してこの心の中に角道の精華として樹立させたいと思います。  敬白

  ====================================

 だから天皇が相撲を見に来るのかなぁ。でも、プロ野球も見に来るから、プロ野球も「国体の維持や陛下の守護のため」なのかなぁ。

           

 それはさておき、大相撲はスポーツなのか神事なのか、それともプロレスのような興行なのかはっきりさせないうちは、奇っ怪至極なカルト的なものにとどまるだろうな。
 まぁ、どっちにしろ私にゃぁ関わりのないことですが。
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『東京キッド』1950年の思い出 戦後モダニズムの正体

2017-12-14 15:24:55 | 歴史を考える
 美空ひばりといえば演歌の女王などと形容されることが多いが、同年輩(私のほうがひとつ下)の私にとって、その出会いは、むしろ戦後モダニズムの象徴といってよかった。
 母に連れられて行った大垣の市内の映画館、そこでみたエノケン(榎本健一)やシミキン(清水健一)の喜劇映画などと並んで、美空ひばりの『東京キッド』を観たりしたのが私にとっての映画開眼であった。

              
 
 『東京キッド』のストーリーは覚えていない。
 当時、巷にあふれていた戦災孤児が、周囲の温かい視線のなかで暮らしてゆく喜劇だったと思う。
 共演は、「地球の上にも朝が来る~、その裏側は夜だろう~」などの浪曲漫談で有名だった川田晴久。浪曲漫談といっても、ギターを弾きながらのグループ漫談(川田晴久とダイナブラザーズ)で、当時こうしたボーイズものはじゅうぶんモダンだった。
 
 この映画の主題歌である『東京キッド』の歌詞を見てほしい(歌詞はこの文末に引用)。敗戦後の焼け跡がまだ残るなかでの、この歌に散りばめられたカタカナ文字のなんとモダンであったことよ。

 東京「キッド」そのものがすでにしてモダンだ。ようするに東京の「ガキ」を言い換えただけなのに、「キッド」となると別物に響く。
 今でこそ当たり前かもしれないが、「チューイン・ガム」、「マン・ホール 」、「 チョコレート」、「スイング」、「ジャズ」などなどどれも田舎住まいにとっては、実際にお目にかかることがない異世界のしろ物だったのである。

          

 極めつけは「ジタバーク 」だが、これについては、その意味が分かる人はいまではかえって少ないだろう。でもこれは、ほぼ正確な発音で、むしろ、いま日本で流通している言い方のほうがおかしいのだ。
 これは英語で表記すればjitterbugで、ジタバグと発音する。その発音が、「ジラバ」に聞こえ、さらに「ジルバ」へと変化したもので、ようするに踊りのジルバのことなのだ。
 こんなもの、田舎の小学5年生で草履履きで畦道で遊んでいたガキにとってはまるっきり宇宙人の世界を意味していた。

 ところで気になるのは1番から3番まで、歌詞の最後を締めくくる「マン・ホール」。いくら主人公が戦災孤児だといっても、いちいちマンボールに潜るのはちょっと不自然だ。

 その答えは、ここに貼り付けたYouTubeによる「東京キッドの歌と映像」(2番めに出てくる)のなかにある。美空ひばりがタップを踏んで歌う背景にあるのがまさにマンホール。

https://www.youtube.com/watch?v=vf3k2iVaIzE&list=PLUQjLvzbqGEJqXmAi19i09x8cUg10zS4c

 ようするに、既に出来上がって、鉄の蓋がされたものではなく、当時、戦後復興でどこの工事現場でも見かけた横たえられたマンホール、ないしは土管、それらが家なき子たちの棲み家だったのだ。いや子どもたちだけではない。いまでいうところのホームレスの人たちも、こうした箇所をねぐらとしていた。
 ただし当時のホームレスの人たちは、爆撃で家を失った人たち、海外から引き揚げてきたが家族と再会できず仮住まいをする人たちが多く、その点がいまとちょっと違う。

          
          この写真はフイリピンの貧民層を撮ったものとのこと

 ちなみに、上のYouTubeの映像で、歌うひばりの横でそれを優しく見上げているのが共演の川田晴久である。

 既にみたように、この歌には横文字の単語が散りばめられていて、私のような田舎の少年からはモダニズムの極地のように思われたのだったが、その大半、つまり、ガムやチョコレートなどの菓子類、スイング、ジャズ、ビタバーグなどは進駐軍=占領軍経由のものであり、しかもマン・ホールがねぐらであったり、ましてやそれを歌う主人公が戦災孤児とあっては、実はそれらはそれぞれ紛れもなく、戦争の爪痕そのものを指し示していたのだった。
 そして、そのことを少年の私もどこかで知っていた。

 往年の名作詞家・藤浦洸はじゅうぶんそのへんのところは意識して作っただろうと思う。


以下は著作権法第32条1項に基づく引用です。

「東京キッド」藤浦洸:作詞 万城目正:作曲

   歌も楽しや 東京キッド
   いきでおしゃれで ほがらかで
   右のポッケにゃ 夢がある
   左のポッケにゃ チューイン・ガム
   空を見たけりゃ ビルの屋根
   もぐりたくなりゃ マン・ホール

   歌も楽しや 東京キッド
   泣くも笑うも のんびりと
   金はひとつも なくっても
   フランス香水 チョコレート
   空を見たけりゃ ビルの屋根
   もぐりたくなりゃ マン・ホール

   歌も楽しや 東京キッド
   腕も自慢で のど自慢
   いつもスイング ジャズの歌
   おどるおどりは ジタバーク
   空を見たけりゃ ビルの屋根
   もぐりたくなりゃ マン・ホール 

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健在なり、ホドロフスキー! 『エンドレス・ポエトリー』を観る 

2017-12-11 14:00:52 | 映画評論
 久々にアレハンドロ・ホドロフスキーの映画を観た。
 彼の『エル・トポ』に圧倒されたのはもう何十年も前、そう、1970年代のはじめだったと思う。
 当時の映画の概念を覆すような数々の映像の出現、そこにはニーチェがいると思った。『ツァラトゥストラ』によく似た寓話、自己覚醒にも似たロードムービー。しかし、そんなことはどうでもよかった。ただただその貪欲ともいえる表現への欲望の海に翻弄されたのであった。

              
 
 それ以降、『ホーリー・マウンテン』、そして10年以上の間を置いてからの『サンタ・サングレ』などを追いかけて観た。
 その頃のホドロフスキーはアンゲロプロスと並んで私の追っかけの対象であった。
 しかし、ホドロフスキーは寡作でなかなか次の作品が出ない。
 21世紀に入ってからしばらくして、もうこの人は映画を作らないんだと私のなかでは過去の監督という分類箱に納められてしまった。
 だから、数年前、久々にその自伝的な映画、『リアリティのダンス』が世に出た際にも、どういうわけか私の検索範囲からすっぽり抜け落ちてしまったのであった。
 そして今回の、その前作に続く伝記的な作品、『エンドレス・ポエトリー』公開を知り、満を持して観に行った次第。

          

 自伝的な作品といってもあくまでも「的」であって、それが素材になっていることは事実としても、その描き方は例によって斬新で突拍子がない。
 全編これ、現代芸術家によるパフォーマンスの連続といっていい。書割りをそのまま背景にしてしまったり、時としてその書割りを移動させるシーンそのものを画面にしたり、あるいは歌舞伎の黒子風な「補助」要員が小道具の出現や消失を手伝ったりといった手法も楽しい。


          

 何よりもその色彩が強烈である。しかし、これでもかという色使いと、モノクロ風なものとが混在しているというその対比自体が面白い。

          

 ホドロフスキー一家の活躍も見ものである。若き日のアレハンドロ役は、彼の末の息子だし、その父親役は彼の長男である。そこへしばしば現実のアレハンドロ(つまり監督自身)が、映画の時代から見ると未来社会から、すでに老いたる本人として現れ、アドバイスなどするのだからややこしい。
 ホドロフスキー一家ではないが、母親役の女性は、そのすべての台詞がオペラのレチタティーヴォになっている。
 この母親役と主人公が心惹かれる女性芸術家が同じ女優さんの二役というのも、この映画全体が実業家である父のもとを離れる主人公の芸術家としての巣立ちの過程であることからして、フロイト的な父親殺しとエディプス・コンプレックスをかなり意識した作りとなっているようだ。

          

 最後に主人公が岸壁を離れるシーンは、アンゲロプロスの『シテール島への船出』思わせる。ひょっとしたら、同時代に活躍した彼へのホドロフスキー流のオマージュかもしれないと思って観た。

          

 ホドロフスキーは、別のインタビューで、自由になることが芸術の過程であり、かつ目指すところだという意味のことを言っている。ようするに、あらゆる限界、有限性という意識、それらを突き破り、固定された意識から自由になることだというわけだ。
 この映画のテーマもそれだし、それ自身を画面いっぱいに多彩多様に表現してみせた作品と言える。
 私より9歳年上の、やがて90歳になろうという1929年生まれ、まだまだ青年の気概をもった人である。

          

 『エンドレスポエトリー』は高らかに歌う。

  生きろ!生きろ!生きろ!
  命を燃やし、命を繋げ。
  これは“真なる生”への招待状。
  さあ、終わりなき詩を歌おう!
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「今様」という新しい歌が生まれた場所 紅葉の名所圓興寺にて

2017-12-10 11:49:27 | 歴史を考える
 「今様(いまよう)」といわれる歌をご存知だろうか。
 読んで字のごとく、「現代的な」とか「今風な」という歌で、その「今」とは平安の中期から後期にかけてであるという。
 これは、声に出して歌うもので、平安後期には、後白河法皇がこれに熱中しすぎ、喉を痛めたという記録も残っているというから相当の流行り方だったようだ。
 歌の歌詞は、やはり七五調で、「7、5、7、5、7、5、7、5」で1コーラスを構成したようだ。
 この形式にのせてさまざまな歌詞が作られたという。それらを後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』という書の名前をお聞きになったことがあるかもしれない。

              

 よく人口に膾炙するものとしては
 「遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ 揺るがるれ」
 などがあるが、その発展形としては「越天楽今様」などがあり、さらにそれが筑前に広がり、いまに伝わる「黒田節」になったともいう。

                 

 こうして、時の法皇まで巻き込んだ歌曲であるから、さぞかし京の都が発祥の地と考えられがちだが、そうではないのである。
 ではそれがどこかというと、ここ数回にわたって述べてきた、岐阜は西濃の地、濃尾平野の西の突き当りに位置すし、いまは、ひっそりとした佇まいの里が散在する場所なのだ。

              
『梁塵秘抄』が刻まれた石碑の背後の自然石には「遊びをせんとや生まれけん」との文字が
 
 しかしこの地が、古墳時代から律令制に至り、さらには『吾妻鏡』や『保元物語』、『平治物語』のも登場する繁華な宿場(青墓宿)で、その周辺が往時の美濃国の政治、経済、宗教の中心であり、かつ、美濃、近江、京を結ぶ交通の要であったことはすでに述べてきた。

 さて、この「今様」の発祥と深い関わりがある箇所がこの地区にある圓興寺なのである。
 この圓興寺、八世紀の終わりに、最澄がこの地の豪族大炊(おおい)氏の庇護のもと、壮大な七堂伽藍を建立し、その周辺が大いに栄えたといわれるが、それらの伽藍は織田信長によって焼かれ、いまはその後再建された小規模なものにとどまる。
 そして上に述べたこの地が美濃国の県庁所在地的な役割を担った時代も戦国時代にはひっそりと幕を閉じたようだ。

              

 今様の発祥はこの地が栄えていた平安末期、遊女(あそび)と呼ばれた巫女のような女性の集団が青墓にいて、そのなかに後白河法皇にも今様の歌を伝えたという乙前や延寿、延寿の娘、夜叉姫がいたことによる。
 この夜叉姫にはまた、別の物語があるのだが、長くなるので割愛する。

          

 こうしてこの地は、今様という歌の形を生み出したことにより京とのつながりがあるのだが、いまひとつ、後に鎌倉幕府を開く源氏(いわゆる河内源氏)との縁もある。
 源氏一族は平治の乱(1160年)で平清盛と闘って敗れ、激しい追討や落ち武者狩りを振り切って、大炊一族を頼ってこの青墓にたどり着くのだが、源義朝の子、朝長は、追討との戦いで深手を負っており、これ以上は足手まといと自ら乞うてこの地で命を落としたという。
 源義朝は、頼朝や義経の父であるから、この朝長は頼朝、義経の異母兄ということになる。

               

 圓興寺は、こうしてここで亡くなった源朝長の墓所の所在地でもある。
 なお、さらに東方へ逃げ延びた義朝ではあったが、愛知県知多半島の野間で、恩賞目当ての家臣の裏切りによってその命を落としている。

          

 今はひなびた山裾の寺ではあるが、往時の都の文化や政治、軍事などが交わる場所であったことは興味深い。
 なお、この寺内の紅葉は見事で、今秋、まとまった紅葉を見はぐれた私には、絶好の目の保養であった。

          

 西濃歴史の旅はこれで終わるが、とりわけ私が入れ込んだのは、疎開という偶然事であれ、少年の日の住まいに隣接する土地が、古墳時代からの、かくも歴史に彩られた地であったという驚きであった。
 そしてそれらは、改めて発掘され、復元されるまで、古層に埋もれたままで、その上に新しい歴史、新しい文化、そして新しい人の暮らしが重層的に覆いかぶさっていたということである。

              

 それはもちろんこの地方に限ったことではない。今日私たちが、そしてあなたが暮らすその地の古層にも、かつての文化が埋もれている可能性は多分にあるのであって、その意味では、歴史は時系列に沿うと同時に、空間的な地層のなかに断面として潜んでいるともいえる。
 私たちは、誰かが開き、誰かが生き、誰かが死んだその地層の上に今日生きているのだ。

          

 そして私たちが生み出し、そこで生きたことどもも、やがては古層に埋もれ、その上で新しいものたちが暮らすのだろう。その新しいものたちは、私たち人類の末裔なのだろうか、それとも、AIが司る全く新しい文明(?)なのだろうか。
 神ならぬ私たちは、来るべき未来を俯瞰することはできない。

 西濃路を巡る歴史の旅はひとまずこれで終わりです。

          

【追記】この圓興寺をこよなく愛し、その境内に「遊びをせんとや生まれけん」の石碑を揮毫したシンガーソングライター桃山春衣(1939~2008 著作に『梁塵秘抄 うたの旅』青土社2007)の今様浄瑠璃「遊びをせんとや生まれけん」を貼っておきます。
   
         https://www.youtube.com/watch?v=vzyIwdZBOnQ





 
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