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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

VIVA!北斎!「ボストン美術館 北斎 浮世絵名品展」を観る。

2014-02-28 04:13:55 | アート
 名古屋ボストン美術館で開催中の「ボストン美術館 北斎 浮世絵名品展」に行ってきました。

           

 北斎の絵の概略はもちろん知っていました。その大胆な構図や描写も好ましく思っていました。ただ、その人物について興味をもつに至ったのは、実は作家の山田風太郎を通じてでした。
 山田風太郎には、『八犬伝』について書いた2冊の書があります。最初のものは1964年、彼の「忍法帳」シリーズの一環として書かれた『忍法八犬伝』ですが、そちらの方は読んだ記憶がありません。
 私が覚えているのは、1983年の『八犬伝』で、この書の構成は、『南総里見八犬伝』の翻案紹介と、その作者、曲亭馬琴その人をめぐるエピソードとが交互に出てくる仕組みの大長編となっています(どこの出版社も上・下二冊の分冊にしているようです)。

           

 『南総里見八犬伝』のダイジェストともいうべき部分は、山田風太郎独自の筆致で簡潔ながら面白くまとめられているのですが、それにもまして、曲亭馬琴に関する後半部分、視力を失った彼が早逝した息子の未亡人・お路の口述筆記に助けられてこの作品を仕上げてゆく過程は、壮絶でありかつ美しく、感動をも呼ぶものでした。
 これはまさしく、自身、優れたストーリー・テラーであった山田風太郎が、やはり、江戸の一大ストーリー・テラー、曲亭馬琴に捧げたオマージュといっていいでしょう。

              

 さて、悪い癖で何やらゴチャゴチャ書いてきましたが、それがどうして北斎と関係があるんだと叱られそうですね。

           

 で、その山田風太郎の『八犬伝』に、気難しい曲亭馬琴のほとんど唯一といっていい気の許せる友人としてこの北斎が登場するのです。そしてまたこの北斎も、画号を30回以上変えたり、90歳の生涯のうち、江戸市中で93回の転居をするなどのいわくつきの変人なのに、馬琴とは親しい友として登場するのです。
 ちなみに、ベートーヴェンもウィーン市内で80回ほど引っ越していますが、回数では北斎が勝っています。ただし、ベートーヴェンは57歳で亡くなっていますから、北斎の歳まで生きていたらおそらく引っ越し魔の栄冠は彼のものだったでしょう。

                
 
 この馬琴と北斎の関係は山田による創作ではなく事実の裏付けがあって、北斎はしばしば馬琴の書の挿絵を担当しています(馬琴のもう一つの主著『椿説弓張月』など。ただし、『南総里見八犬伝』の挿絵は北斎のものではありません)。
 しかも、馬琴の家にしばらく居候をしていた時期すらあるのです。
 ちなみに二人の生没年は以下のようです。
 北斎は1760~1849年、馬琴は1767~1848年と、二人とも当時としては長命で、しかも晩年まで旺盛な創作意欲を欠かすことはなかったようです。
 今回の北斎展では、最晩年の北斎が炬燵のなかで寝転ぶようにして絵を描いている姿を、その弟子が描いたものが展示されています。
 ちなみに山田風太郎の生没年は1922~2001年です。

           

 さて、美術展の話なのに、だらだらと書き連らねてしまいました。
 音楽もそうですが、絵の話を言葉にするのは難しいから逃げたのです。
 
 今回の展示品は、タイトルにあるようにアメリカのボストン美術館が所蔵するものの展示です。これらは、この国の明治期、浮世絵が陶器輸出の包装紙や緩衝材としていとも無残に使われていた頃、アメリカ人のモースやフェノロサ、ビゲローなどによってせっせと収集されたものです。
 北斎だけで、若年期から最後期に至るまでこれだけの収集をと驚かざるを得ません。しかも、日本ではとっくに失われたものも含まれていて、良好な条件のもとに保存され、こうして里帰りをするのですから、それだけでも感動モノですね。
 ちなみに出品点数は大小取り混ぜて142点、その他、資料的な特別出品などもかなりあります。

              

 北斎はその画法や題材、それにアイディアなどが実に多彩で、延々と長時間観て回っても飽きるところがありません。いささかの疲れもなんのその、最後までじっくりと観ることが出来ました。

           
 
 この美術展の今後の予定について書いておきます。
 名古屋ボストン美術館は3月23日までです。
 以下、順次各地を回ります。

  神戸市立博物館 4月26日~6月22日
  北九州市立美術館分館 7月12日~8月31日
  東京上野の森美術館 9月13日~11月9日

おまけとして北斎で著名な「蛸と海女」を載せます。
 Wikiの「蛸と海女」で検索すると、ここに書かれている文章も読むことができます。興味のある方はどうぞ。
 これは、いわゆるあぶな絵の中でも傑作に属すると思います。
 ただしこれは、残念ながら出品されていません。

           


 

 




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機械に弱い私のオーディオ・ドタバタ日記

2014-02-26 02:19:02 | よしなしごと
 音感はいい方ではないと思うが音楽を聞くのが好きだ。もっとも、いい音を聴くという機会に恵まれず、オーディオについての関心を持たない環境で過ごしてきた結果だから音感上の弱さは仕方がないと思っている。
 
 昭和20年代の中頃から音楽を聴き始めたが、まずはチューニングの悪いラジオからで、雑音や得体のしれない音波がつねに飛び込んできた。そのおかげで北京放送やモスクワ放送も聴いた。何やら怪しげな4桁の数字が延々と読み上げられることがあったが、あれは乱数表を用いたコミンフォルムからの暗号指令だったのではないかと思う。

 そんな環境のなかでS盤アワーとかL盤アワーとかいった番組で音楽を聴き始めた。ようするに聴こえさえすればいい、ないしはちゃんと聞こえると僥倖だといった環境下で聴きはじたのだった。
 再生装置といったら、手回しに近い蓄音機程度のものしかなかった。

           

 そんななかではじめて自分専用のオーディオ装置を持ったのは30年近い前だろうか。これはパナソニックのシステムコンポで、先ほど「自分専用」といったが実は当時経営していた居酒屋に置いたものであった。
 システムコンポにしたのは、アンプはどこそこ、プレーヤーはあそこ、スピーカーはあれといった知識が皆無だったのと、それらを個別に買って接続できる自信が全くなかったからである。

 それを使って店のBGMを流した。今でこそ珍しくも何ともないが、当時、居酒屋でクラシックやジャズを、しかもイージーリスニングではなくて聴かせるというのはそんなになかったと思う。
 あるとき、私の好きなメルカダンテのフルート協奏曲(5曲あってどれもいい)をかけていたら、店の奥から一人の顧客がネギマを焼いている私の所までわざわざ来て、「これは有線か」と訊くので、「いいえ、私の選曲です」と答えると、「いやー、こんなところでメルカダンテが聴けるなんて」といたく感激して、その後、次々と音楽好きの顧客を紹介してくれた。
 私より少し年配の方であったが、その数年後に亡くなられた。
 メルカダンテを聴くと、まっさきにそのひとのことが頭に浮かぶ。

           

 なお、BGMにするにはバロックからモーツアルト前後までだろうか。
 ロマン派になるとフォルテシモとピアニシモの落差が大きく、音量を前者に合わせるとピアニシモの部分が全く聴こえず、後者に合わせるとフォルテシモの部分でとんでもない音量となりなかなか使いづらい。もっとも、室内楽の場合はそれほどの落差はないので使える。

 それから数年後、今度は自宅の自分の部屋にもと思い、DENON(当時はデンオンといった。いまはデノンらしい)のD101というシステムコンポを大枚20万円ほどで買った。
 それをいまでも使っている。
 ところがだ、寄る年波で最近あまり外へ出ないせいでよく聴いたからだろうか、CDプレーヤーが壊れてしまった。トレイが作動しなくなってしまったのだ。蓋を開けていろいろいじっていたがどうにもならない。それ以前にカセットデッキの部分も壊れてしまっていたので使い続ける勇気をなくし、なんとかこのアンプとスピーカーを活かしてCDやカセットを聴けないものかと考えた。

           

 ここまでお読みいただいてお分かりのように、めっぽう機械に弱い私にはこれを独力で解決する能力はない。そこで、もつべきは「くすしとものくるるとも」との兼好法師の教訓のもと、援軍を探すこととした。そこで白羽の矢を立てたのが、パソコン通信時代からの知り合いで、店にも来てくれて、MIXIでも出会い、FACEBOOKでも付き合いのあるU氏であった。
 彼はこの方面にも明るいはずだし、なによりも情報収集能力に長けている。
 私は率直に窮状を述べて泣きついた。

 氏による豊富な情報が私のもとに届き始めた。私はそれを追認しながらも慎重であった。その情報をもとに機器を購入するとして、それを最後に接続するのはこの不器用な私である。私が撮った自分の機器の背後の写真や、氏が送ってくれる購入予定の機器の使用説明書などが飛び交った。
 その積み重ねのなかで、「よし、これならいけるだろう」と確信をもつに至って、私はそれを発注した。メーカー小売希望価格は68,000円ほど、大手家電販売店では49,000円ほど、そしてAMAZONでは29,000円ほど、ということで迷わずアマゾンへ。溜めてあったポイントもあって、28,000円弱で手に入った。

           

 そしてそれが今日来た。10%ほどの不安を抱えて接続した。一発でOK !
 CD、カセット共に大丈夫だ。
 この際、設置場所も自分がいつも座っている場所でベストなように変えたせいもあって、さながら大掃除のように半日を要した。しかし、居ながらにしていい音楽を聴けるのだからそんな手間暇はたやすいものだ。

 さてセットアップには成功したが、この機器の機能をフルに稼働させるためにはまだまだ使用説明書などで勉強しなければならない。
 この機器の特色で狙い目は、USBメモリーにCDやカセットテープの音楽を移動させることにある。とりわけ私にとっては、カセットテープ700本の音楽を聴きながらUSBに移すという作業が眼目になる。

 とりあえず、接続できたことに有頂天でこれを書いているが、まずは取扱説明書を精読し、諸機能を十分マスターしなければならない。
 今日、最初に聞いたテープは、かつてFMからエアーチェックしたペルゴレージの音楽であった。
 これをしみじみと聴きながら、ここまで辛抱強く付き合ってくれたU氏に感謝感激雨あられの思いをもっている。

 おっと、購入した機器名を書くのを忘れた。写真にもあるようにそれは、TEACのAD-RW900、CDレコーダー/カセットデッキである。

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【人の生と死】 オイディプス三部作とアンティゴネー

2014-02-23 17:49:31 | ひとを弔う
 オイディプス王の物語はほとんどの人が知っているだろう。精神分析学でのエディプス・コンプレックスの由来がこの王によるものであることから、数あるギリシャ悲喜劇の登場人物のなかでもっとも著名といっていい。
 
 母を挟んでの父子関係の葛藤と、その段階からの離脱による自立の物語として知られるフロイトの提示したイメージはあまりにも有名なため、そちらの方面から解釈される向きが多いが、その背景には人の命運に関する皮肉ともいえる物語がある。

 機会があって、ソポクレスによるこのオイディプスとその子らをめぐる悲劇の三部作(その舞台である地名をとってテーバイ三部作ともいう)を読んだ。『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネー』の三冊である。

           
 
 テーバイ王の子、オイディプスの生誕時、「この子は父を殺し母をめとる」という神託があり、彼は荒野へと放逐され殺されることとなる。しかし、助けられて成長し、引き寄せられるように祖国テーバイへと向かうのだが、その途次、それと知らぬまま父であるテーバイ王を手にかけてしまう。テーバイへ入った彼は、残された未亡人である王妃、つまり自分の母と結婚し、男女2人ずつの子どもをなすに至る。

 こうした事実が、時系列に展開されるのではなく、推理小説の倒叙法のごとく事後的に明らかになってゆく過程がソポクレスの作劇術の巧いところだ。
 オイディプスはことの成り行きに絶望し、王位を捨て自らの目を潰し、さすらいの旅にでる。彼の母であり妻でもあった王妃・イオカステは自らの命を絶つ。

 実際に書かれた順序は違うようだが、その続編ともいうべき『コロノスのオイディプス』は彼の娘であり妹(同じ母から生を受けたのだから)でもあるアンティゴネーとのさすらいの旅を描いたものであり、同時に、彼の息子(であり兄弟である)二人のテーバイの跡目相続をめぐる争いが示唆される。
 しかし、もっとも大きな出来事は、オイディプスその人が、娘たちにすら知らせぬ墓地におもむき、ひっそりとその生を終えることである。
 コロス(合唱団)は歌う「あまたの苦しみが、ゆえなくしてあの人を襲ったが、その報いに正義の神はふたたび彼を高められることだろう」と。

 三部作の最後はオイディプスのさすらいに寄り添った娘、アンティゴネーの物語である。
 ただし、この物語と前の『コロノスのオイディプス』の間にはテーバイの支配をめぐるオイディプスの息子(であり兄弟である)二人(ポリュネイケスとエテオクレス)が相争う戦いがあり、なんと二人は刺し違えてともに死んでしまっているのだ。
 そしてテーバイの支配権はいまや、かつてのオイディプスの母であり、同時に妻でもあったイオカステの弟であるクレヨンの手にある。

 舞台はその骨肉相争う戦が終わった後、二人の死者(オイディプスの息子たち)の葬儀を巡る問題として展開される。 
 それは新しい支配者クレオンがテーバイの城にいて戦ったエテオクレスの埋葬は認めたものの、他国の軍勢に援助を受けたポリュネイケスの埋葬を認めず、野ざらしにし、鳥獣の蹂躙するままに任せたことにある。しかも、その葬儀を行おうとする者は死罪にするという掟を設ける。

           

 この措置をめぐりオイディプスの娘にしてポリュネイケスの妹であるアンティゴネーは激しく抗議し、聞き入れられぬや自身の手によってその埋葬を行おうととする。それらは、クレオンの配置した番人に見つかるところとなり、彼女は捉えら死罪を申し渡される。
 この宣告に対し、テーバイの長老たちからなるコロス(合唱団)は婉曲にその翻意を促すがクレオンは聞き入れない。さらに、その息子にしてアンティゴネーの婚約者、ハイモンが助命を請うがこれも退ける。そしてこの国の節目ごとにその助言でもって貢献してきた老いたる預言者、テイレシアスの諌めをも聞き入れようとしない。

 しかし、さすがにこの預言者の言葉は心に残ったのか、コロスの言葉にも耳を傾けたクレオンが、アンティゴネーを幽閉した場所へ足を運ぶのだが、その時、悲劇の全てはすでに終りを迎えていた。 
 自死したアンティゴネーの傍らでは息子のハイモンが寄り添うように自ら命を絶っており、それを嘆くクレオンのもとにさらに悲報が届く。それはハイモンの母にして彼の妻、王妃エウリュディケーもまた自らを刺し貫いたというのだ。

 かくして、オイディプスに端を発するテーバイの悲劇は終焉するのであるが、フロイトならずとも、これらの物語から幾多の教訓や典型などを見出したくなるであろうし、事実、学問や文学、芸術などに多くの二次作品を生み出すこととなった。

 ここでは私は、クレオンとアンティゴネーの関係に絞って考えてみたい。
 
 新たな王、クレオンは現世の人であり、リアリズムの人である。したがって、金銭による関係への猜疑が深い。
 これは、禁止したポリュネイケスの埋葬に誰かが金銭で雇われてその禁を犯すのではないかと考えたり、あるいは長年の信用でもってその地位にある預言者、テイレシアスの予言もまた、金銭によって歪められているのではと疑い、預言者によって諌められる場面もある。
 彼が現世の人でリアリストだというのは、この世で生きる人たちを金銭によるネットワークの範囲内で解釈しようとするところに端的に現れている。

              

 これに対するにアンティゴネーは現世のみならず、前世や来世ともつながっている。
 それが埋葬への固執に現れている。
 人びとはすでにして多くの人が暮らすこの世へと生誕によって現れ、そして死によって去ってゆくのだが、それにより、新しいものが加わったり、伝統的なものに変化が及んだりする。それが、人間の世界への登場と退出のありようである。したがって、人を葬るということは過去や未来の可能世界とのつながりの儀式であり、人間自身が自分の有限性を自覚するがゆえに普遍的な歴史の展望のなかに自らを見つめる契機でもある。

 人を葬るという行為は、言語などと相前後し、人間がその世界を自覚的にもつようになった始まりだという。したがって死者を弔うという行為は、時間的にも空間的にも、まさに復数の人びとと共有している世界自身の現れであるといえるのであり、反面、そこに住む人々の世界への帰依のありようなのである。

 リアリスト・クレヨンはそれを理解し得ない。したがって、過去や未来とのつながりに生きるアンティゴネーを否定するものとして現れる。しかし、それは同時に自分が複数の人たちと生きていることへの無自覚にも通じる。
 したがって彼は、すべてを、つまり彼の愛する者たちすべてを失う。それはもちろん、彼自身が、それら周辺の人々の生きる術やその視野をまったく理解しようとせず、それらを顧みることなく否定し続けたからであった。

 神託から逃れようと務めたにも関わらずその通りになってしまったオイディプスの悲劇は、一見、「神託」という超絶的なものに支配され、ひとの努力によっては如何ともしがたく思えるのだが、それでもなお、オイディプスの孤高な後半生は、それをも実存の条件として生き抜いてゆく物語だし(『コロノスのオイディプス』)、娘にして妹のアンティゴネーの行為は、この天と地の間で人びとの織り成す世界へと死者を、そして何よりも、自分自身を敢然として挿入してゆく物語といえる。

 悲劇はそれ自体人間の弱さではない。神々の神託や人間の掟などをその実存の条件としながら、それを生き抜いてゆく人間への賛歌でもある。


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人間の性と愛 『パリ、ただよう花』を観る

2014-02-21 02:12:00 | 映画評論
 観る前に2、3の新聞評らしきものを読んだが、実際に観た感想からいうとどれも少し外しているのではないかと思った。
 それらによると、主人公の花(ホア)は自由奔放に男たちと体を重ね合わせてゆくように述べられているがけっしてそうではない。彼女は無作為に誰とでも寝ているわけではない。
 主としてその性行為の相手となるマチューにしたところで、半ば強姦に近い形の強引さで結びつくに至ったのだ。しかも、一旦そうなってからの彼女は、社会的階層が異なり、すれ違いも多いマチューとの性愛を大切にしている。

           

 ところで、性行為と愛情とを関係づけるのは人間特有のことだと思われる。もっとも、この「関係づける」ということ自身が人間の思考という特殊な営為に根ざすとしたら、これは何かをいったことにはならないのだろうが。

 問題は、人間の性行為が、動植物の子孫を残す(ためという目的意識に基づくのではなく本能的にそうなのだが)行為からみたら、それ自身「疎外された性」として特殊化されたものであるからだろう。
 人間の性は、人間が人間になった当初から、それ自身エンターティメントであり、儀式であり(天皇が執り行う新嘗祭や大嘗祭にはそれらが様式化されているという。ただしこの場合は生殖という共通概念による豊年の祈願と思われる)、ヨーロッパ中世の騎士道や、江戸の遊郭においての様式美の発露であったりするなど多様な側面を持っている。

           

 一方で、愛情と性行為を関連付ける歴史も古い。大半の人々はそうではなかった時代においてすら、各種の古典に見る限り、性行為は愛情の発露として固く結び付けられている。
 いわゆるプラトニック・ラブは、性行為を伴わないことによってその美学を貫徹するようであるが、しかしながらこれも、性行為を抑制することによる快楽や満足の追求であるとしたら、やはり性とは無関係とはいえない。

           

 かくして人間においては、性と愛情は結合されながらも微妙にねじれたありようとしてある。端的にいってしまえば、性行為のない愛情も、愛情なき性行為も、どちらも成立可能であるしそれらは相互に変化し相互転換さえする。そしてその狭間で、性行為や愛情の過剰や過不足などなどが取り沙汰されたりする。しかも人間の諸関係が社会的に規制される面をもつとすれば、それら男女の現実的な関係は多くの選択肢やバリエーションをもつ。

           

 ホアとマチューがまさにそれである。彼らの階層の差異は映画のなかで幾度も出てくるし、最後にホアがマチューの故郷を訪ねるシーンは象徴的である。
 パリという人びとの諸関係を溶解するような都会での肩肘張ったマチューの姿は故郷では見られない。ホアもまた、パリでのマチューとの関係とはその表情からして違う。それは彼女が、性愛というシーンから抜け出て、中国でのインテリ女性として准教授の妻となることを決意しながら、なおかつマチューとの性愛の日々を忘れがたいとする残響のようなものを伴って訪れるからだ。

           

 性行為と愛についての物語は正直いってわからないことが多い。これは私自身がこれまで生きてきた間に十分実感している。したがって、ホアにだってそれはわからないし、だから「ただよう」しかないのだ。
 そのただよう様子を、ハンディカメラの揺れる映像が寄り添うように捉えつくしている。

 全編にわたってポルノ映画のようにセックスシーンが登場する。しかし、観終わった印象としては、これはホアの純愛映画、少なくとも純粋な他者との関係を模索する映画なのだという思いが強い。

 彼女は『ボヴァリー夫人』のエマや『人形の家』のノラの末裔なのだが、時代に洗練されて、最終的にはきわめて理知的にも思える。それがいいことかどうか、私にはわからない。

 

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田母神票の年代分布と「戦後レジーム」について

2014-02-19 02:36:55 | インポート
 もはやいささか旧聞に属するのですが、都知事選での田母神陣営の票の伸びが予想以上で気になったので、その投票者の年代別分布を調べてみました。
 若年層に支持者が多いとは聞いていましたが、実際に数字に当たるとまさにその通りで、他の有力候補者との違いがくっきり見えてきますし、それ以上に見えてくるものもあるようです。

           

 上位4人の候補の年代別投票比率をみてみましょう。
 それぞれ、氏名 20代 30代 40代とその合計 そしてそれ以上年代の比率です。

  舛添氏    3.5% 10.9%  15.4% =29.8%   70.2%
  宇都宮氏   3.8% 13.5% 16.1%  =33.4%   66.6%
  細川氏    2.4% 13.0% 15.5%  =30.9%   69.1%
  田母神氏   10.5% 20.7% 27.5%  =58.7%   41.3%

 その差異は歴然としていますね。田母神氏が20代から得た得票比率は他の候補者の3倍以上になります。
 そして30代、40代も他の候補者のダブルスコアに近い比率で、結果として20、30、40代からの得票についていえば、他の候補が30%近くなのに対し、田母神氏は実に60%近くを占めています。

 舛添、宇都宮、細川の各氏がその保革や立ち位置の違いにもかかわらず共通した世代的な支持分布をもっているのに対し、田母神氏が著しく異なるということなのですが、ここにひとつの日本戦後史の亀裂のようなものがあるように思えるのです。
 その亀裂とは何でしょうか。

 安倍首相はその目指すところとして、よく、「戦後レジームからの脱却」を強調します。そしてこの「戦後レジーム」とは、現行憲法を枠組みとした主権在民、平和主義に基づく行政、外交、教育などなどを指すことは明らかで、したがって安倍氏も、「憲法改正」をもって「戦後レジームからの脱却」のひとつの目安としています。
 突然、安倍氏を引き合いに出したのは、実はこの「戦後レジームからの脱却」は氏の主観的な努力目標であると同時に、すでに始まりつつある客観的な出来事ではないかと思ったからです。

 私やそれより少し上の人たち、逆に少し下の団塊の世代を含んだ年齢層を仮に戦後第一次世代としましょう。ようするに、現行憲法が新たなルールとして確定した時代に自己形成をしてきた人たちです。政治的出来事としては60年安保や70年安保を担った世代です。ただし、ここでいおうとするのは、当時の左翼とか、安保反対を叫んだ人とかというのみではなく、安保改定に賛成した人や当時から憲法改正に傾いていた人たちをも含んだこれら世代全体のことです。

           

 この人たちには、保革さまざまな違いはあっても、もっと大きな範囲での社会的合意(コンセンサス)のうちにあったように思うのです。例えば戦争に対する忌避の感度の問題、あるいは、他者に対するある程度ヒューマンな眼差し(というか人権上の配慮)などがあったように思うのです。後者については異論もあるでしょうからいい添えますが、「他者への思いやり」とか「差異の承認」とかは現在のほうが言葉としてはいわれる機会が多いかもしれません。しかしそれらは、自分の仲間内での「絆」にすぎなく、その同じ口が仲間以外に対しては「死ね」とか「殺せ」を言い立てることがあるのです。
 したがって、最近のように「みんな違っていいんだよ」という社会の成り立ちとしては当たり前のことが、なにか特別の発見であるかのようにあえて言われなければならないことこそが異常だともいえるのです。

 いいたいことは、戦後一次世代にあったおおまかなコンセンサスが、その後の過程のなかで成立しなくなってきたのではということです。その後の過程というのは、戦後の第二次世代が自己形成をした1980年から90年、そしてそれ以降についてです。
 1980年代、日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と自他共に誇るほどの経済成長を遂げます。日本の資本がアメリカの企業を買収したり、不動産を買い取ったりし、アメリカでは貿易摩擦を始めとする反日運動すらが起こったのもこの頃です。
 
 世界情勢も大きく変わりました。社会主義圏の崩壊です。
 いわゆる冷戦体制もまた、保革両陣営ともに抱いていた戦後レジームの背景でした。
 それにつれて、国内のいわゆる55年体制=自・社を両極としたせめぎあいという、これまた保革ともに前提としていたレジームが崩壊します。
 この時期、私の記憶にあるのは、東大、京大でともに政党支持率の一位が自民党になったというニュースでした。

           

 繰り返しますが、戦後の第二次世代というのはこうしたなかで自己形成をしてきた人たちです。
 ですから、そこで形成されたものは、第一次世代が漠然とではあっても保革ともにもっていたある種のコンセンサスとは異なるものではないかと思うのです。あるいはそれを、極めてドライな新自由主義的世界観の増進といってもいいかもしれません。その意味では、最近の自民党そのものがもはやかつての「保守政党」ではないともいえるように思います。

 安倍氏が憲法改正でもってひとつの目安としようという「戦後レジームからの脱却」は、現実に着々と進行しつつあるのではというのがこの論考の出発点でした。そして、そうした新しいレジームが行き着いた先のひとつが田母神氏の得票とその年代別得票率の著しい特徴ではないでしょうか。
 
 ところで、「戦後レジームからの脱却」というのは安倍氏(や田母神氏)の背負ったイデオロギーや展望はともかく、すでにみたように、戦後第二次世代にとってはもはやそうした「戦後レジーム」そのものが無効になっているとしたら、私のような戦後第一次世代など、「戦後レジーム」に一定の価値を見出してきた人たちはそれにどう対応すべきなのでしょうか。
 もちろん私がそれに対する回答を持ち合わせているわけではないのですが、安倍氏などのいう「戦後レジームからの脱却」が彼らのこれからの課題というより、すでに着々と進行しつつある事態を踏まえた制度的な完成(その頂点としての改憲)を目指すものであるとしたら、その方向に危険性を感じる人たちはやはり新たな布陣を迫られているのではないでしょうか。

 思えば、民主党政権の成立とその崩壊は、すでに内実は壊れてしまっていた戦後レジームの最後の徒花だったのかもしれません。そして、その政権が瓦解して以来、そうした見せ掛けのレジームすら残る余地がなくなり、そのポスト・レジームがその全貌を見せ始めたのだといえます。 

           

 昨年末、私などの感覚からいえば完全な右翼団体である「勝兵塾」というところの月例会の記録を読みました。例の田母神氏を始め「真の近現代史観」という論文(いわゆる歴史修正主義です)を書いている慶応大学の教授やその教え子と思しき慶応の女学生などが講師として威勢のいい花火を揚げているのですが、その塾長にして最高顧問の元谷外志雄氏の締めの挨拶が象徴的でした。
 
 「左翼は戦後68年かけて様々なところに食い込んで、いつの間にかこういう国になった。5年前に田母神論文騒動がなければ、日本はどうなっていたかと感じ る。日本は良い国だったという論文を書いたら政府見解に反するとして航空幕僚長を解任されるなどということは、世界中を見渡しても今の日本以外ではあり得 ないことだ。世界78カ国を訪れその国の有力者とディベートをすれば、日本は今も昔も素晴らしいと賞賛される。それが日本の中にいると日本が悪い国だった と思ってしまう。本当のことを知れば保守になる。私は右も左も関係なく、『本当はどうなのか』を求めていく会として『勝兵塾』を開催している。田母神論文 をきっかけに日本は覚醒した。教育やメディアの改革も大事であるが、左翼が68年かけて今の日本を創ってきたのだから、これを変えていくのには時間がかか るだろう。だから『Apple Town』や勝兵塾、懸賞論文、夕刊フジの連載などと通じてより多くの人に広げていくことで大きな流れを起こしていきたいと考えている。ある程度の線を超 えると一気に加速していくだろう。この5年間でも世の中が大きく変わったと感じている。

 ここには、その賛否はともかく、事実が含まれているように思います。
 当初は、「トンデモ文書」だと思われた田母神論文が次第にその波紋を広げ、結果として都知事選であれほどの票数を、しかも、冒頭に述べたような若い年齢層を中心に獲得したということにそれは如実に示されています。
 「トンデモ文書」がそれなりの地位を得、かつてなら泡沫であった候補があれだけの票を獲得するという事実は、政治的な平衡点も大きく右へと移りつつあることを示しています。だから、一昔前なら極右に近い元谷氏も上に引用したもののなかで「私は右も左も関係なく」としれっとしていえるのです。
 そうした右寄りのシフトチェンジは、政権党の自民党がもはや「保守政党」ですらないこと、労働組合の集合体である「連合」が完全に支配機構の一端であることを舛添支持で改めて明らかにしたこと、などなどにもみられます。

           

 こうした状況に対し、「左翼」やそれへの抵抗を主張する人たちは相変わらず「正義」や「真理」を主張し、政治的に敗れてもそれを主張し得たことに自己満足を覚えているかのようです。しかも、そうした空疎な「正義」や「真理」がまさに戦後レジームの病巣として受け止められていることにはほとんど無自覚です。

 ネット選挙の時代だといわれています。しかし、それをもっとも有効に活用したのが田母神陣営でした。彼らはまさに蜘蛛の巣のネットのごとくその支持者をつなぎ組織してゆきました。田母神陣営がマスメディアの予測や世論調査を上回って票を重ねたのはそうしたせいだと思います。

 何がいいたいかというと、「戦後レジーム」の解体はすでにして着々と進行しつつあるということです。
 それに抵抗する人たちは、安倍氏のその提言を虚妄なものだとして冷笑でもって扱うのですが、上にみたようにそれらは現実に進行しつつある事態なのです。

 かといって私は、「戦後レジーム」を改めて掲げろというわけではありません。むしろ、それからの脱却を安倍氏や田母神氏とは違ったベクトルで考えるべきだろうと思うのです。
 「戦後レジーム」を批判する安倍氏や田母神氏などは、それが桎梏となって日本の国威が発揚されなかったといいます。
 私は逆に、「戦後レジーム」への無批判的な安住こそが今日を招いたのだと思います。
 その意味では、加藤典洋氏などの認識と共通する部分があるかとも思います。

 もちろん私には、具体的な指針を示すことなどはできません。
 ただ、私が自己形成をしてきた「戦後」という時代を、そしてそこで生きた私自身を批判的に振り返りながら、安倍氏や田母神氏とは違ったイメージでそのレジームを葬る方策を考えるしかないと思っています。


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な~んでもない日記(いつもそうだけど)

2014-02-17 01:11:03 | 音楽を聴く
 各地の雪の影響はかなり深刻なようだが、TVも新聞もニュースは五輪中心、バリ島の7人行方不明の扱いも小さい。ニュース「バリュー」というのは誰にとってのバリューなのかをしばし考える。

           

 ず~っと蕾のままだった水仙が、雪解けとともにやっと花開いた。
 ほかではとっくに花をつけているのに、うちのはやはり私に似て慎ましい性格なのだろう。

 午後から名古屋へ。
 名古屋外国語大学の学長、亀山郁夫氏の「ショスタコーヴィチとスターリン」に関する講演を聞く。
 かつて左翼少年であった高校生の頃、「五番・革命」を聴き感動したのだが、1960年前後に、ソ連がもう一つの抑圧の体制にほかならないことを知って以来、ショスタコもそれに仕えたのだと思い少し敬遠していた。
 しかしやがて、ソ連崩壊後に、彼の新しい側面についての情報がいろいろ入って来始めて以降、また時々聴くようになった。

              
                  黄昏の名古屋TV塔
 
 政治的評価に左右されて聴いたり聴かなかったりするという態度はあまり良くないと反省している。これでは、「全聾の作曲家」という付加価値をもってゴーストライター付きの「音楽家」を持ち上げた人たちを批判することはできない。

 講演は、「抑圧ー被抑圧」という関係にとどまらず、その両者の間にあったアンビバレンツな側面を、とりわけショスタコーヴィチの実際の曲の構成やそのディティールを例証に語ったもので、面白かった。

           

 懇親会に出たが、終了後おとなしく真っ直ぐに帰った。
 最後の写真は名古屋駅での表示。
 20:00の列車に乗った。

 

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「第三の翼」と再び『エレニの帰郷』について

2014-02-14 16:29:47 | 映画評論
 Kさん、映画『エレニの帰郷』のご感想、ありがとうございました。
 描かれた人物たちは、大きな物語のうねりに翻弄された自分たちについてはある程度意識的だったように思います。それは、私が前に引用した次の会話にも見られます。

 ヤコブ「別世界を夢見たあの夢はどこへ消えた?始まりは全て違っていた。風も吹いていた。空にも住める。そう思う人までいた」  
 スピロス「誰かが言ったよね。歴史に掃き出された、と」

 エレニのそれについての言及はありませんが、彼女の愛し愛された軌跡そのものがそれを雄弁に語っています。

                   
 
 Kさん、私が前回触れ得なかったこの映画のひとつのキーワード、「第三の翼」についてのご指摘、ありがとうございました。この映画の原題は『 The Dust of Time 』ですが、当初、邦題は『第三の翼』に内定していたようでした。これを取り逃がしてはいけませんね。

 映画の中でも、収容所で女性の詩人が撒く詩に始まり、断片的にではありますが、再三再四台詞として登場し、ホテルが荒らされたシーンではずばりその翼が映像として出てきますね。また、ヤコブが船から身を投じるシーンんでのあの立ち姿は、明らかに翼を広げた像をイメージしています。
 
 そのヤコブは、女性詩人の撒いた詩を拾ったといって、その一部を引用するシーンがあります。
 「群衆の喧騒の中を歩みながら、不安なことに天使が沈黙していた。天使は翼を地に垂れ、泥で汚してこう叫んだのだ。唯一望みうるユートピア。第三の翼」

 ここで朗読される詩は、三者の愛の物語のなかでヤコブが置かれた立場を考えると痛切なものがありますが、もちろん、ヤコブ個人にかかわらず普遍的な意味をもつものと思われます。ただし、一貫してこの言葉に固執していたのはやはりヤコブであることは事実です。
 そしてこの、ヤコブを演じるのが、かの『ベルリン・天使の詩』(ヴィム・ヴェンダース監督)で天使ダミエルを演じたブルーノ・ガンツとあっては、アンゲロプロスの凝った演出を思わずにはいられませんね。

                    

 「唯一望みうるユートピア。第三の翼」と歌われてはいるのですが、しかしながら、例えば政治的な左右両翼に対する「第三」とする短絡はいささか違うような気もします。時代的にナチズムやスターリニズムの暴虐に苦しめられた彼らの状況下にあっては、そうした寓意は全く否定し得ないとは思いますが、もう少し広い見方もできるように思います。
 
 Kさん、私はむしろ、ありえたかもしれない世界の別の様相を想起します。これは、SFでいうところのアナザー・ワールドとは少し違うのですが、私たちが誕生し、そこへと参入する世界はあらかじめ先行する世代の実践によって築き上げられたものであり、私たちはそれを己の実存の条件として受容しつつ、その世界での実践へと参加します(不参加もまたひとつの参加の形態です)。そして、その結果として幾つもの悲喜劇が誕生します。
 エレニ、スピロス、ヤコブの織りなすドラマもそうしたもののひとつです。

 彼らはやり直すには十分老いています。したがって、そうではない世界、つまり第三の翼への希求は、次の世代に託されざるを得ません。それがおそらく、ブランディンブルグ門を背景に駆けるスピロスと孫のエレニの継承のイメージだと思われます。
 そうすると、冒頭のモノローグ、「何も終わっていない。終わるものはない。帰るのだ・・・。物語はいつしか過去に埋もれ、時の埃にまみれて見えなくなるが、それでもいつか不意に、夢のように戻ってくる。終わるものはない」がニーチェの永遠回帰のように不死性を伴った物語の継承として深く重い意味を持ってくるのです。

           

 アンゲロプロスの映画は、状況的だといわれます。不断に状況に支配され揺れ漂う人々が描かれているからです。しかし、そこに登場する人たちはそうした状況下にあっても、それを自然必然のように一方的に受容するのではなく、自己の尊厳をかけて生き抜こうとする人たちなのです。
 この映画の中での三者も、けっして自らの被った運命的な足跡を、ルサンチマンをもって振り返るのではなく、それ自身を自らの生として引き受けていると思います。

 Kさん、改めて私にいろいろ考える機会を与えていただき、ありがとうございました。以下が私の結語のようなものです。
 「これぞわが生だ!」と愛をもって生き抜く人々の生は、永遠に回帰し、したがって、「終わるものはない」。

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三河に春を呼ぶ豊橋の奇祭「鬼祭」へ行く

2014-02-13 01:33:28 | よしなしごと
 地域の同好の方々と一緒に、豊橋市の天下の奇祭といわれる「鬼祭」に行ってきた。
 毎年、2月10、11の両日にわたって行われるこの祭りは、正式には、安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)、別名豊橋神明社(とよはししんめいしゃ)の例祭で、国の重要無形民俗文化財に指定されているという。

 早朝に岐阜を出発したせいで、9時にはもう豊橋に到着したので、街なかを散策しながら神明社へと向かう。集合場所を決めての自由行動なので、私は一人で生まれてはじめて通るような脇道を選んでぶらぶらと歩を進めた。だいたいの土地勘はあるのと、方向感覚はまあまあいいせいで、迷うことなく会場近くに着いた。

   
                          歩兵第18連隊の哨舎跡(末尾に注)
 
 神明社は豊橋公園(吉田城址だが終戦までは歩兵第18連隊の所在地)のすぐ前なので、まずは市の公会堂が目に入る。見た目にやさしいロマネスク様式を基調にし、大正から昭和にかけてのモダニズムの風貌を湛えているこの建物は、国の登録有形文化財に登録されている。

 

 豊橋といえば、今なお、路面電車が走っているのが嬉しい。
 見ていると、かなり頻繁に走っているのだが、利用客もそれなりにある。
 もうとっくに路面電車がなくなてしまった街に住んでいる身には羨ましいものがある。

 

 やがて、最初の集合場所である豊橋美術博物館に着く。ここは2010年秋に、当時開催されていた「ユトリロ展」に来たことがあり、ようするに豊橋はそれ以来ということになる。
 ここで他のメンバーと落ち合って、付帯する軽食堂で昼食をとった。

 

 さて、いよいよ祭りの会場である。来る途中の下調べで少し境内を覗いてみた折でもかなりの人出があったのだが、再び戻ってみると人出は倍増していた。
 11時50分からは、まずは子鬼が登場し、そのぬいぐるみのなかには、小学校の5年生が入っているという。解説のようなアナウンスが入り、神事に付く演技者の名前をいちいち報じるのも現代風で面白い。

 

 すごい人混みでよくは見えないが、デジカメを持つ手を高くあげてその液晶部分で間接的に見る。そしてここぞという場面でシャッターを押す。
 この子鬼の奉納の所作が終わったところでこの祭りの名物「たんきり飴」という飴撒きの行事がある。
 この飴撒きが単に飴を投げるというだけの半端なものではない。それと一緒に大量の白い米粉が祭りスタッフのもつ赤いズタ袋のようなものからぶちまけられるのである。その凄まじさは写真を参照してご想像いただきたい。

 
 

 私はというと、土地の人らしいご婦人方が、「ここはだいじょうぶだよね」と話していたのですっかり油断をして向かい側の「惨状」をカメラに収めていたら、とんでもない方向から米粉爆弾が飛んできて、とっさにカメラをかばったものの、頭から真っ白になってしまった。慌てて避難をしてそれを振り払ったのだが、帰宅してからも帽子や衣服のあちこちに白い粉が残っているほどであった。
 ただし、この粉を被ることは厄除けになるとかで、地元の人は進んで被ったり、あるいはそれを振り払おうとしなくて顔まで白粉だらけで闊歩している人がたくさんいた。

 
 

 さらに様々な神事があり、本殿前の舞台では弓矢の奉納と、奉納されたそれを1年12ヶ月になぞらえて12本の矢を放ったあと、いよいよこの祭りの見せ場である大赤鬼が登場した。さすがに先ほどの子鬼に比べれば貫禄がある。そしてこの大赤鬼と天狗とが対峙し問答を行うのだが(「からかい」というらしい)、ここがクライマックスで、敗れた鬼は街々を駆け巡り、またまた飴と一緒に白い米粉をまき散らす。

 
 

 このへんまで見届けてから帰途についた。
 三河地方に春を呼ぶこの祭りは、まだまだ延々と夜半まで続くのだそうだ。
 そうそう、その途中で、近くにある豊橋公園へ行き、吉田城址とその眼下を流れる文字通り豊かな豊川を見てきた。

 
 

 この祭り、ディティールはともかく、荒ぶる神としての赤鬼が天狗に敗れて退散するというストーリーは一昔前にみた奥三河の「花祭」に似ていうように思った。鬼は共通だが、花祭の方でそれを鎮めるのは神主のような装束であったと思う。また、鬼祭で祝福とされる白い粉は、花祭ではかまどにたぎり立つ湯を、笹の葉につけて振り回すその雫であった。
 なお、荒ぶる神である鬼は縄文人で、あとから来た弥生人がこれを鎮めるのだというもっともらしい話を読んだことがあるが、その真偽の程は知らない。

 豊橋というところは、個人的にも懐かしいところである。私の青春像を交えてそれを小説にでも書こうかという大胆極まりない構想があり、「路面電車が走る街」という題名まで決まっているのだが、肝心な中身がまだ空っぽである。死ぬまでに書き上げることができたらおなぐさみというものだ。


【歩兵第18連隊の悲劇】
昭和19年3月、サイパン島に進駐。途中で米軍の攻撃を受け輸送船が沈没、門間連隊長以下2,200名が戦死。サイパン島に上陸したのは約1,800名。
昭和19年5月、グアム島に一部移駐。
昭和19年6月20日、グアム移駐に間にあわなかった第1大隊、第3迫撃砲中隊、衛生隊は米軍のサイパン上陸に遭遇、ガラパン神社前の米軍陣地夜襲で全滅。
昭和19年7月21日、グアム島に移った連隊主力は米軍上陸地点で防御戦を展開するも戦闘能力は著しく低下、戦車第9連隊の1個小隊を先頭に残余の兵力で攻撃前進中、集中砲火を浴び大橋連隊長以下大部分の将兵が戦死、玉砕する。
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東京都知事選雑感

2014-02-10 23:52:01 | よしなしごと
 簡単に感想を述べてみます。
 舛添氏当選は自公はじめ連合も支持とあって、事前に優位が伝えられていましたが、そのとおりになりました。したがってこの結果には驚きはありません。「やっぱりな」というところでしょうか。

           

 ただし、その票差はやや意外でした。反原発を掲げた宇都宮氏、細川氏、それにその他の反原発候補を加えても舛添氏には及ばなかったからです。
 ということは、選挙戦に入ってからもいわれ続けた「反原発候補の統一、一本化」がもし実現していたとしても、舛添氏には及ばなかったということになります。

 宇都宮氏と細川氏の順序も、私は細川氏の方がやや多いのかなと思っていましたが、それほどの大差ではなかったものの宇都宮氏のほうがが上回りました。
 細川氏は大物とはいえ、その年齢、政界からの離脱の期間などがマイナス要因に働いたのと、急ごしらえの立候補という感が否めなかったのもその伸びが少なかった原因ではないでしょうか。
 本人よりも、支援者のほうが目立ったのも特色ですね。小泉氏、瀬戸内氏、吉永氏などがそれでした。

           

 今回の選挙での私のいちばんの注目点は、田母神氏がメディアなどの事前の予想をも越えて票を伸ばしたことにあります。しかも、その支持者は若年層に多いらしいのです。
 はっきりいって、氏のこれまでの言動などからして、かつての選挙だったらせいぜい一万票台ぐらいのいわゆる泡沫に近い結果しか得られなかったものと思われます。
 それがここまで支持を得るところに、ヘイトスピーチの横行などと相まってこの国の新しい胎動があるようで、とても不気味な気がします。

           

 ハンナ・アーレントが分析したように、自分たちの代弁者を現実の中に見いだせないがゆえに、ある種の極論を選択し、もってナチス登場の露払いをしたいわゆる「モッブ」といわれる層との類似性をそこに見出してしまうのです。
 しかも現政権はそれらを容認し、利用すらする姿勢を示しています。
 安倍氏が強硬な姿勢を示し続ける背後には、彼らへの配慮すらみてとれるように思います。

           

 最後に、舛添氏の公約を改めて掲げておきましょう。

【選挙公約】
 母親の介護の苦労が私の政治の原点だ。医療や介護は自治体がきちんと対応すべきもので、東京でも社会保障政策をしっかりやる必要があ る。地域のコミュニティー内で住民の身近な生活の支援をどうするかが課題だ。東日本大震災もあり、震災に打ち勝つ強靭(きょうじん)な街づくりが必要だ。 危機管理を含めた防災都市を目指す。

           
 
 これ自身に異論はありません。ぜひともちゃんと実践していただきたいものです。
 もうひとつ、氏はその選挙演説のなかで、『原子力に依存しない社会をつくる』と繰り返し述べています。こちらの方も是非とも実現してほしいものです。

 なお、私のブログのコメントに、「都知事選 予想通りの結果になった。これで、反原発の馬鹿どもも、少しは大人しくなるだろう。」(原文のママ)というものが寄せられましたがいささか品が悪いので、そのエレガンスさをもって特色とする私のブログにはふさわしくないと思い、掲載いたしませんでした。
 「大人しくなる」かどうかは、反原発の志をもつみなさんの選択にお任せしたいと思います。
 ちなみに、私はあまり「大人しく」ならないことを申し添えておきます。



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ソチ五輪のアトラクションを見てしまった!

2014-02-08 17:27:12 | よしなしごと
           

 写真は直接関係ありません。

 ソチ五輪の開会式のアトラクションが「ロシアの歴史」をなぞるとあってつい見てしまった。とくに近現代史のそれでは革命が起き、生産力主義が幅を利かせ、ロシアン・アバンギャルドなどが登場するのだが、それを蹴散らして登場した「社会主義リアリズム」という統制芸術の時代、それと並行して行われた強制収容所と粛清、テロルとイデオロギーによる恐怖支配の歴史は当然のことながら出てはこなかった。
 音楽の方も、せいぜい、チャイコフスキーからボロディン止まりで、ショスタコーヴィチのかけらもなかった。

           

 めでたい祝典なのだから、ネガティヴな部分を見せないのは当然だが、それでもなお、何を見せようとしているのかに合わせ、何を見せたがらないのかを知ることによってなんとなくその国の全体像のようなものを伺うことができる。
 なお、各国首脳が並ぶ貴賓席で、安倍首相はトルコ首相の隣に座を占めていたが、先般訪問時の原発売り込みの話の続きをしていたのではあるまいか。

           

 さて、明日はいよいよ都知事選である。
 この結果により、2020年の東京五輪の模様にもいろいろ影響はあるだろう。
 開会宣言をするのは誰なのだろう。
 また、開会式のアトラクションでは、いったい何を見せたがり、何を隠したがるのだろう。

           
 
 「フクシマ」はやはり徹底して隠されるのだろうか。
 それとも、「こんなに立派になりました」と再稼働のシンボルとして喧伝されるのだろうか。いや、その時点では廃炉すら進んでいないはずだから、「触らぬ神に祟りなし」で隠し通すだろうな。
 その代わり、津波の復興地を見せて、「絆」と「花~は、は~なは、花は咲く~」の大合唱で迫るのだろうな。

           
 
 薄っぺらな「お・も・て・な・し」が東京はおろか、日本中に紙くずのように散乱する様子はあまり見たくないなぁ。
 どうか箱根を越えてこちら側へは来ないでほしい。
 私もそちらへは行かないから・・・。
 
 アハハハハ、それまで生きながらえてそれを目撃するかのような書き方になってしまった。馬鹿だなぁ。
 

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