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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

尾張瀬戸へ行く・5 在日の叔父を訪ねて

2024-06-28 00:39:58 | 歴史を考える

(承前)
 叔母の再婚相手が在日の人であることを知ったのは、私が40歳過ぎて実姉に再会したあとのことである。
 私と姉は、叔母に会い、その家を訪れた。叔母の連れ合い、在日の彼、つまり私の義理の叔父にも会った。彼は亜炭鉱の炭住でも権威をもっていたように、親分肌の豪快な人物だった。ただしその折は、いまの私より少し若いぐらいの年齢で、もう現役を引退した好々爺風であった。

 姉と私の訪問をとても喜んでくれた彼だったが、とりわけ私が、「あなたは総連系、あるいは民団系どちらだったのですか?」尋ねたときには、「お前、そんなことを知っているのか。もっとこっちへ来い」と、私を抱きかかえるほどの近くへ招き、酒肴を勧め、その経歴を話してくれた。

 彼はいろんな軋轢の末、民団を選び、引退まではこの地域の幹部を務めていたようだ。私と同じ年代の人で左翼を自称する人たちの間では、総連は左翼、民団は右翼という一般論が支配的だったが、スターリニズム批判を経過した私にはそんな評価は無縁であった。

 日本敗戦後、在日の人たちはただただ勝ち誇ったようだったと語る人たちがいるが、そんな単純なものではない。日本の敗戦は同時に朝鮮半島の動乱の始まりでもあった。新たな朝鮮の出発を期して希望を胸に帰った在日の人たちが、チェジュ事件など思いがけぬ惨事に逢い、日本へ再入国したり、戦後、新たに日本へ亡命同然にたどりついた朝鮮の人たちも多い。

 私は一応それらの事実を知っていた。それらが彼との間に共感を生んだのだろう。現役時代には、きびしい表情で過ごしたであろう彼が、私に対しては破格の笑顔で対応してくれたのをいまも思い出す。

 姉と2回ほど彼と叔母の元を訪れたであろうか。やはり歓待してくれた。彼の訃報は家族主体の葬儀を済ませたあとに届いた。姉と私は、その四十九日に相当する日に彼の霊前に赴き、叔母や義弟、義妹の力になってくれたことを改めて感謝した。

 これが、私と姉を外に出すことにより、継続した「家」の物語の顛末である。これはまた、実父の戦死などを含め、先の戦争が影を落とす物語でもあった。
 再会して以降はできるだけ交流を保つようにした姉も亡くなり、いま、その末裔で私が連絡を取れるのは姉の娘たち(姪二人)と実父と叔母の間にできた義妹だけである。

 毎年、5月の八十八夜、その年の新茶を贈ってくれるのが静岡県に住む姉の習いであった。それをいま、その娘、つまり姪が引き継いでいてくれる。

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尾張瀬戸へ行く・4 血縁・家・万世一系

2024-06-25 14:34:42 | 歴史を考える

【これまで】家を守るため入り婿に入った実父は実母との間に姉と私を設けたが、その実母が私の生誕後亡くなったため、女学校を出たばかりの実母の妹(つまり私の叔母)と再婚しました。これも家を守るためでした。
 しかし、叔母はあまりにも若く乳飲み子と幼子を養育することはできず、姉と私はそれぞれ別のところへ養子として出されました。
 実父と叔母はその後、私の義弟、義妹にあたる二人の子を設けたのですが、折から激しくなる戦争に取られ、1944年インパールで戦死してしまいました。二人の幼い子を抱えた叔母は、戦後のドサクサで苦労を重ね、当時、愛知の三河や岐阜の東濃にあった亜炭鉱山の女坑夫として働きました。
 そんな母に同情し、良くしてくれた男性がいて、二人の子持ちを承知で叔母と結婚しました。これはこれで新しい「家」が誕生したわけで、うまく収まったかに見えましたが、これまで「家」を守るを信条にしてきた叔母の親戚一党はこの結果を歓迎せず、隠然とした差別のようなものが生まれたのでした。
 なぜか?それがこれまででした。
 なお、これは先般瀬戸を訪れた際の私の回顧録で、それらは瀬戸と関連の深い地での出来事だったのです。

          

          写真は以下も含め、すべて瀬戸蔵ミュージアムの展示です。

【それ以降の続き】 

 なぜそうなったかの結論をいいましょう。
 叔母が結婚したのは在日の人だったのです。
 「家を守る」に固執する親戚筋の人たちには驚愕の事実だったようです。
 あからさまな陰口や隠然とした差別があり、中には事実上の付き合いを絶った人たちもいたようです。

     

 でもこれって変な話ですね。家を守るというのが血縁の繋がりを中心に考えることだとすると、女系家族のところへ実父が婿養子に入り、妻に先立たれたらその妹と再婚してその流れを守り、その婿養子をなくした妹、つまり私の叔母が新たな連れ合いと結ばれたということですから、その新たな連れ合いとの間にできた子にも、血縁は継承されるはずです。

     

 にもかかわらず、「家を守る」といっていた人たちが叔母と在日の人との結婚を歓迎しなかったのはなぜでしょうか。これまで、「家を守る」を「血縁の継承」という点から見てきたわけですが、それ自身を考え直す必要がありそうですね。

           

 人間のみならず、生物は遺伝子の継承をもって繁殖を継続します。とりわけそれが、動物の場合ですと血縁の継承となり、人間の場合ですと親子にとどまらず、孫やひ孫の代までの継承関係が親戚だとか親族一門を形成します。これは血縁の自然的側面ですね。もっとも、人間の「孫子の代まで」になると、定住生活に伴う土地や住居などの財貨の継承を含みますから、歴史的社会的に形成されてきたものといえそうです。

     

 さらに人間の場合ですと、この「血縁」は身分や階層を保つという意味でのある種の序列や秩序を前提にしていることが見えとれます。日本でいうならばかつての士農工商、インドでいうならばカースト制度の継承です。
 こうなればもう血縁は自然的な面を離れて、完全に歴史的、時代的に秩序構成的なものになります。

     

 現今の日本では、あからさまな身分制度はありませんが、それでも、家の釣り合い、学歴の釣り合い、などなど無言の制約は皆無ではないでしょう。
 ましてや私の幼少時の戦前、戦中は、まだ身分制度の名残りはあり、私の生家が「家」にこだわったのは家康公時代からの三河武士の流れという変なプライドに固執したからでしょう。

 ですから、叔母が在日の人と再婚したことをもって「家」の終わりであるかのように評価する人たちは、イスラエルの国防相がパレスチナの戦士たちを「動物のような人間」と形容したように、在日の人は血縁を継承する対象たり得ない人であるとするレイシスト的価値観に囚われているともいえます。

 それらをまとめてみるに、血縁を中心にした「家」というのは、その自然的側面を土台にしながらも、人間の長い歴史を経て、限られた階層の保持、各階層間の序列の保持などなどの社会構造をなす極めて人為的な秩序や規範として、時には抑圧的に、時には差別、排除的に働く極めて人為的な制度だということです。

 こので肝心のことをいわねばなりません。そうした規範を通じて、国民統合を価値づけ、時には逸脱者を排除してきたこの国の中心には、「血縁」を介した「万世一系」の家族が厳然として存在し、人々はそれを崇拝し、「象徴」という名であれ何であれ、その一家の総領を国家元首としていただいているとうことです。

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「廃」の「あはれ」と硫黄島の少年兵たち

2024-05-29 15:42:16 | 歴史を考える
 先般、私のうちの近くの廃屋やもはや使われないままに打ち捨てられた農機具などについて書いた。こうした廃屋や廃車など「廃された」ものへの哀れ(古語でいえば「あはれ」。ただし、「枕草子」などでみるように、古語のほうが「しみじみとした」情感一般を指していて、その用途が広いようだ)の感情はなぜ起こるのだろうか。
 
 さんざん利用された後に打ち捨てられたその「もの」に対する感情だろうか。それとも、それを利用した人たちへの「来し方行く末」を思う気持ちからだろうか。

      

 ここに載せた廃車は、やはりわが家の近くにあるもので、最初に気づいてからもう10年は経っていると思う。かつての田んぼを埋め立て、埋め立てた山土を均し固めたのみの駐車場の一番端に鎮座しているのだが、廃車を物置として使っているケースともやや異なる。

      

 物置として使用の場合は普通、ナンバープレートは外してあるが、これにはれっきとしてそれが付いたままであるし、ものを出し入れした形跡もない。
 ルーフキャリアには作業用はしごを乗せ、中にもやや小さい脚立とホースやコード類がびっしり詰め込まれているので、何かの工事屋の車と思われる。
 それがなぜ、長年にわたってここにあるのかは謎だが、今度近くの人に会ったら訊いてみよう。

      

 廃屋、廃車、廃線などに「あはれ」を感じはするが、廃フェチというほどではない。ただ、これらの「廃」を貫いて思い起こすのは「故郷の廃家」という古い文部省唱歌だ。この歌は、最近ではほとんど聞かれないが、私の子供の頃には時折耳にする事があった。

 しかし、私が特に感慨深く思うのは、1945年、硫黄島において歌われたそれだ。
 この年の2月から3月にかけて、硫黄島に配属された約2万1千名の日本軍は、アメリカ軍に包囲され、連日の艦砲射撃に穴蔵生活で耐え続けた。そしてその中には、およそ数百人の15、6歳の少年兵たちがいた。
 彼らは夕刻、米艦の砲撃が止むと穴蔵から出て、北の方角・故郷を見つめながらこの歌を合唱したというのだ。
 https://www.youtube.com/watch?v=DQAstpXLkmE
 https://www.youtube.com/watch?v=zu2rS1-gV0g

 この歌の作詞は犬童球渓であり、彼は「ふけゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む・・・・」の「旅愁」の作詞者でもあるが、「故郷の廃屋」もこの「旅愁」も、曲の方はアメリカ人であり、特に後者は当時存命中のアメリカ人作曲家であった。普通なら敵性音楽として公の場所では歌ったりできないものであったが、文部省選定の「中等教育唱歌集」に収められたものであったせいで生き延びたのであろうか。
 なお、硫黄島の少年兵たちがこれを歌ったのも彼らの年齢層が接していた、まさに「中等教育唱歌集」の歌だったからだろう。
 
      
      

 その硫黄島であるが、3月に入り、圧倒的な火力の米軍が上陸作戦を強行し、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」の東條英機の「戦陣訓」に従い、絶望的な玉砕・バンザイ攻撃の中でその9割が戦死した。その割合は、少年兵も同じであったろう。

 私は、このくだりをできるだけ淡々と書いてきたが、実際にはこみ上げる寸前の思いをたぎらせて書いている。明日をも知れぬなか、歌い続ける少年兵たち、そんな彼らを微塵の情けもなく消し去ってゆく圧倒的な戦火・・・・。
 私は彼らを殺した者たち、戦争をした大人たち、少年兵をそこへと送り込んだ者たち、そのくせ、戦後はのうのうと生き延びてなおかつ人の上に立ち続けた者を憎み続けてきた。

 「廃」からの繋がりが広がりすぎた感があるが、しかしこれはこじつけではなく、私の中ではごく自然に行き着く流れなのである。
 「廃」は哀れ(古語では「あはれ」)を呼ぶと冒頭で述べた。だとすれば、硫黄島での少年兵たちの合唱「故郷の廃家」はまさにその全幅の意味を込めてその対象というべきであろう。

全く偶然の発見だが、上の記事に引用したボニー・ジャックスの方の「故郷の廃家」の2番の冒頭に出てくる写真、2008年に私が近所で写し、2015年のブログに載せたものの引用です。廃屋の雰囲気をよく出しているとして引用してくれたのでしょうから歓迎です。
 なおいまはその地にはこざっぱりとしたアパートが建っていて、かつてこのような情景があったことを覚えている人はもうほとんどいないでしょう。 
 その写真は以下です。
     
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【読書録】E・H・カー『歴史とは何か』をめぐって

2023-10-10 02:13:37 | 歴史を考える

 岩波の『思想』7月号の「E・H・カーと『歴史とは何か』」を特集した号をやっと読了した。
 これを読んだ動機は、1962年、清水幾太郎訳の「岩波新書」版でその刊行時に読んだことがあり、加えて最近、教育実践の立場から高校教諭の小川幸知司氏が著した岩波新書の『世界史とは何か』をやはり教育実践の経験者A氏からのご恵贈で読んだことによる。
 なお、『思想』の特集号は、私が若い頃読んだ清水幾太郎訳のE・H・カーの『歴史とは何か』に代わる近藤和彦氏の新訳版が昨年刊行され、それが読書子や歴史専門家の興味を引き、ある種の刺激をもたらしたことによる。

                                 

                  E・H・カー 

 小川幸司氏の著は、いってみればE・H・カーの切り開いた地点を当然前提にしているといえる。それを、E・H・カーのものから引用すれば、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」(旧訳 第一講から)ということになる。

 この一見、当たり前のようにみえる前提は、実は含蓄が深いものを含んでいる。いってみれば、歴史とは、私たちとは独立した対象としての過去として存立しているようなものではないということ、歴史家の解釈、あるいは私たち自身の解釈の介在をもってはじめてその姿を表すものであるということである。

 ところで、歴史家も私たちも、まさに歴史がもたらした結果としての一定の立場に立っていて、その立場自体が歴史解釈に影響をもたらすとしたら、それは堂々巡りの相対論に陥ってしまうのではないかという疑念は残る。私たちから離れた確固とした歴史というものがあるということを否定した瞬間から、この疑念は不可避かもしれない。

 では、確固とした歴史が存在するとして、それを私たちはどのようにして知りうるのかということになると、今度は神秘的な啓示に頼るかあるいは不可知論に陥ってしまう。結局それは、「相互作用の不断の過程」や「尽きることを知らぬ対話」に頼らざるを得ないことになる。

               
              1962年 清水幾太郎:訳 岩波新書

 カーが前世紀の中頃、それを強調せざるを得なかったのは、一方では「確固としてるが不可知の歴史」というものがあるという伝統的な立場と、他方では、人々の個々の営為とは関わりなくその法則によって歴史は進行するとする「唯物史観=史的唯物論」が両立していたからである。
 歴史研究家でもあり、外交官として実践的な立場にもあったカーにとって、そのどちらもが不毛であった。ただし、社会的実践家であったカーが、マルクス的なものへの共感を持っていたという事実も指摘されている。

 ところで、私がこの書を旧訳で読んだ60年代のはじめ、私はソ連型の正統派マルキストには批判的であったが、その立場はニューレフトとしてのマルキストであった。したがって、「唯物史観=史的唯物論」には依拠していたのだが、一方、このカーの書にはかなりインパクトを覚えたことを記憶している。
 この辺のところを自分のなかでどう整合性を保っていたのか、いまとなってはさっぱりわからない。当時の私自身の曖昧さというほかない。

              
               2022年 近藤和彦:訳の新版

 あまり長くなってもと思うので、ここで、新訳の方からカーの歴史観のエッセンスのようなものを引用して、私の中途半端な勉強のアリバイとしたい。
 
 「歴史家の解釈とは別に、歴史的事実のかたい芯が客観的に独立して存在するといった信念は、途方もない誤謬です。ですが、根絶するのがじつに難しい誤謬です。」

 「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」

 「本気の歴史家であれば、すべての価値観は歴史的に制約されていると認識していますので、自分の価値観が歴史をこえた客観性を有するなどとは申しません。自身の信念、みずからの判断基準といったものは歴史の一部分であり、人間の行動の他の局面と同様に、歴史的研究の対象となりえます。」

 「ちょうど無限の事実の大海原からその目的にかなうものを選択するのと同じように、歴史家は数多の因果の連鎖から歴史的に意義あることを、それだけを抽出します。」

 「歴史家にとって進歩の終点はいまだ未完成です。それはまだはるかに遠い極にあり、それを指し示す星は、わたしたちが歩を先に進めてようやく視界に入ってくるのです。だからといってその重要性は減じるわけではなく、方位磁石(コンパス)は価値ある、じつに不可欠の道案内です。」

 
以上の引用はすべて、新訳刊行に当たっての岩波の内容紹介による。
E・H・カー(1892~1982年)は英国の歴史家、国際政治家、外交官で、「ロシア革命の歴史」(全14巻)を始めとする幾多の著作があるが、ここでとりあげた『歴史とは何か』はいまもって歴史を語る人々にとって名著とされる。
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クラシックコンサートと〈歴史(学)〉について

2023-10-06 01:27:30 | 歴史を考える
      
 
 3日のトークショーに続いての名古屋行き、最近の私の行動としては珍しい。4日は名古屋M協会主催コンサートで、「山本友重 ヴァイオリン・リサイタル Pf 河尻広之」。久々のライブを楽しむことができた。

 私は演奏の良し悪しに言及するだけの耳を持ち合わせていない。ただ、媒体を介した音楽鑑賞との違いはわかる。それは音楽の身体性とでもいうべきものだろうか。奏者の身体をもって音が発せられ、それが私という身体で受け止められる。その受け渡しの中にライブの快楽がある。

 演奏を堪能したあと、聴衆の中のA氏とI 氏と出会う。両氏はともに私の同人誌を読んでくれている人でもある。A氏はかつて私に、岩波新書の『世界史とはなにか』(小川幸司)を寄贈してくれたりした。

 折しも私は、それによる刺激もあって、若い頃読んだ歴史学の古典、E・H・カーの『歴史とは何か』の新訳(近藤和彦:訳)の出版に際し、岩波の『思想(7月号)』で組まれた特集を読んでいたこともあり、ひとしきりその話で盛り上がる。

 なお、このA氏と I 氏のご両名、近々、『世界史とは何か』の著者にして長野県の高校教諭である小川幸司に会いに、長野県へお出かけとの由、その強靭な探究心とフットワークにただただ敬服の至り。
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映画『新生ロシア1991』とサンクトペテルブルクの思い出

2023-02-20 02:16:38 | 歴史を考える

 もう何度もあちこちに書いたが、1991年8月、私は初めての海外旅行の途上にあった。行く先はモーツァルト没後200年に際しての記念すべき音楽祭に湧くザルツブルグであった。三つのオケと二つのオペラを含むこの夢のような旅は、ボーナスもなにもない自営業の私に、私自身が与えた開業20年ぶりのボーナスであった。

 この旅で、私が最初にその足を下ろす異国の地は、当時のソ連、モスクワ空港であった。モスクワに滞在する予定はなかったが、そこで給油のため一時間半か二時間の滞在があるので、空港内へ降り立っての行動は予定されていた。
 ノーテンキな私は、その空港内で、上質のウオッカでも入手せんものと手ぐすね引いていた。機は、大小の湖と白樺林が点在するモスクワ郊外の空港へと滑り込んだ。

            

 その時であった。スワと席を立とうとした私に無慈悲な宣告が下された。機内アナウンス曰く、「ソ連当局のお達しにより、乗客の空港内立ち入りは禁止されました。そのまま、お席にて出発をお待ち下さい」
 ガ~ン、ソ連の、モスクワの地をこの足下で感じとりたいという私の望みはかくして断たれることとなった。1991年8月22日(日本時間)のことだった。

 その要因もほぼ推測できた。いくら世間に疎い私でも、ゴルバチョフのペレストロイカやそれに同調するエリツィンに対し、それに抵抗する旧共産党系の反動派がクーデターを図ったが既に鎮圧されたというニュースは出発前日にキャッチし、それじゃ、モスクワ空港内の散策も・・・・と安心しきっていたのだ。

       

 しかし、結局はソ連が崩壊し、その傘下の国々の独立と同時にその中心であったロシアは新生ロシアとして再出発するという歴史的大事件が、この現地においては、日本の地で新聞やTVで見ていたように、「ハイ終わりです」というわけにはゆかないことは当然だったのだ。
 しかも、私がモスクワ空港へ着いたその日、クーデター派によってクリミアに幽閉されていたゴルバチョフが、開放され、まさにモスクワ空港経由で帰ってくるその日だったのだ。

 航空機の窓から見る空港は、まさに厳戒態勢だった。機関銃を積んだ装甲車が走り回り、完全な戦闘ムードの兵士たちが、あちこちで警備の体制をとっていた。銃を携帯した兵士の一隊が、機体の周りをパトロールする。窓越しにではあるが、下手に目を合わせると狙撃されそうな気分にすらなる。

       

 前置きが長くなった。私が観た映画は、ちょうどその頃、当時のレニングラード(いまのサンクトペテルグルクで何が起こっていたことを映像にしたものである。
 日にちや時間などの字幕が入る以外、ほとんどノーナレのモノクロ映像は、この都市の各地での凄まじい数の人々の不安や怒りや訴えを映し出す。それらは、やっと73年にわたるスターリニズムの抑圧体制からテイクオフしようとしているとき、そのネジを逆転させようとしている反動派のクーデターに反対するものだ。

 実は私は、コロナ禍が始まる寸前の2019年夏、このサンクトペテルブルクを訪れている。その折は、主として1917年のロシア革命の痕跡を追いかけたのだが、その折見た多くの風景が、この映画では、その17年の革命を否定する場として登場するのは感慨深かった。
 ここに載せたモノクロの写真は映画からのものだが、カラーは2019年に私が撮ってきたものだ。

       
 
 映画は、サンクトペテルブルクの各地で人々が集まり、集会やデモを行うシーンが出てくる。とりわけ、私が何度も行ったエルミタージュ美術館(1917年のロシア革命では、ボルシェビキがケレンスキー一派を最終的に追い出し、政権を樹立した当時の冬宮)前の宮殿広場には、八万人の大観衆が集結する大集会がおこなわれ、人々は口々に要求のスローガンを叫び続けた。
 この映像を見て、これだけの人々が集まりながらも、ほとんど流血をみなかったのは、素晴らしいと思う。

       

 その結果が、ソ連の解体となり、連邦内の国々は独立し、新生ロシアが誕生したことは誰もが知っている。そして映画は、そこで終わっている。
 この映画には、若き日のプーチンもチラッとだが出てくる。反動派のクーデターに反対する立場からのものである。

       

 私たちにとっての興味は、その後のロシアがどうして今日見られるようなプーチンの専制政治体制になり、ウクライナへ侵攻するなど大ロシア主義の道をたどることになったかである。
 あの、サンクトペテルブルクの街を埋め尽くした「自由」への叫びは、どこへ行ってしまったのだろうか、ということでもある。

       

 その解明に役立つのは、ハンナ・アーレントの『革命について』ではないかと思う。これを論じだすと長くなるので端折るが、彼女は、革命の成否はその革命が要求する内容の方向性によるとする。
 搾取や強権、抑圧からの解放は革命の要因になりやすい。ただ、その「~からの自由」のみの革命は挫折しやすいという。むしろ、問題は獲得すべきものを明確にすること、つまり、「~からの自由」にとどまらず、「~への自由」が明確にされねばならないとする。

       

 それを適用するならば、1991年のロシアの「革命」は、73年続いたスターリニスト支配「からの自由」を実現したものの、自らの体制をいかなるものとして形成するかの、新しい体制「への自由」という展望を欠いていたがゆえに、新自由主義とのグローバルな世界的競争に投げ出されるなか、今日のような奇怪な体制を余儀なくされているのではないか。

       

 世界には、いま開催されているG7のような一時的安定の中で静態的に不動であるかのような「優等生国家」がある。しかし、それらの国々がいつ炸裂するかわからないマグマを抱え込んでいるのは、アメリカやこの国をみるだけでじゅうぶんわかる。
 世界の歴史は、そうした潜勢態にあるものが、ちょっとした変化で、現勢態に転ずることから生じる。

       

 1991年までの20世紀の大半は、米ソの不動の体制下にあり、左翼も右翼も、リベラルも、全てその舞台で踊っていたのだから。

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12月8日 おやつは富有柿 そして「リメンバー・・・・

2022-12-08 16:03:27 | 歴史を考える
 農協の朝市でゲットしたもの。贈答用の等級品ではないが、それでも大きく堂々としている。価格も手頃だ。産地が近いせいだろう。
   

 皮を剥いて盛り付けたらこんなにある。
 美味しかったので全部一人で平らげたが、夕食は控えねばなるまい。
    
 
 日頃、あまり甘いものは口にしないが、この程度の品のある甘さが好みだ。
 
 今日は真珠湾奇襲攻撃81年目。私は三歳だったので記憶にはないが、後日、国民は提灯行列をしてこれを祝ったと聞かされた。
 その後の経過から見て、まことに「地獄への道は薔薇の花によって敷き詰められていた」のだった。
  
 
 奇しくも政権は、敵基地先制攻撃の軍備として、従来の軍備を倍増する軍事費を検討している。しかも増税をしてだ。
 かくして「専守防衛」を大きく逸脱した「攻撃型軍隊」への脱皮が図られようとしている。
 
 「リメンバー パールハーバー」は、米国民の合言葉だったが、今や日本人に対して強調されねばなるまい。

 

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「朝日」「天声人語」の無知と思い込み

2022-04-09 16:52:26 | 歴史を考える
 今日の「朝日」の「天声人語」は、 ロシアでは戦争支持が8割を超え、わずか十数%しか反対者はいないと言う事実に驚いている。そしてその要因としてロシアのメディアが国民に実情を伝えていないからだとしている。
 
 そんなの当たり前じゃないか。かつての戦時中の日本を考えても見たらすぐわかる。戦争に反対する人は 果たして十数%もいたろうか。そして、国民には戦況の実情が本当に伝わっていたろうか。そんな事は決してない。

 ミッドウェイ開戦のボロ負けで、その後は敗退の連続だったのに、大本営発表は「我が軍の大勝利、当方の損害は軽微」で、それを各メディアは報じ続けたのだ。
 その筆頭に「朝日」がいたことはいうまでもない。

      


 にもかかわらずロシアの例を、なにか鬼の首でも獲ったかのように言いたてる。戦争というものはそういうものなのだ。そして、戦時下で大きな顔をして報道できるのはそういう許されたメディアだけなのだ。

 ここには、歴史的に自分たちが果たしてきた行為がまさにフェイクニュースのバラマキそのものであったことへの無知がある。さらにいうならば、ロシアという国のみがとりわけそうなのだという検証を欠いた思い込みがある。 

 そんなことだから「朝日」は、一方では安倍の悪口を書きながらも、もう一方では安倍の親衛隊のような幹部記者が、他誌が書いた安倍に取材した原稿を予め検閲しようとして、恐喝まがいの申し入れをしたりするのだ。

 

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ビッグバンの痕跡を生きている私たち ニーチェ&アーレント&おでん

2022-01-10 01:27:53 | 歴史を考える

 ごく当たり前のことだが、一つの事象はそれに先行する事象によって起こり、前者は後者の痕跡となる。だから私たちの周辺にある事象は先行するものの痕跡としてある。
 その先行するものも、さらにそれに先立つものの痕跡だとしたら、この先行探しは、今から138億2千万年前のこの宇宙の始まり、ビッグバンへと至るのではあるまいか。逆に言うと、ビッグバンこそがすべての事象を可能にした始点であるといえる。

               
                  前線が通過した後の痕跡

 ある意味、これはその通りなのだが、では今私たちが眼前にしている事象、そしてそれらの今後の推移もすべてビッグバンに予め書き込まれていたものの発現にすぎないのかというとそうではあるまい。すべての未来がすでにして書き込まれているものの現れであり、私が何を意志し、どんな行為を選ぼうが、それは書き込まれていたものに従った演技にしか過ぎないとしたら、私たちは深いニヒリズムに捉えられる他はない。

 実は、近代においてこの関係をもっとも深刻に受け止めたのがニーチェだった。
 ときあたかも、近代的合理主義と一神教的形而上学が相まって、世俗的な面から聖的な面までもが決定論的に語られるなか、その背後にあるニヒリズムを嗅ぎ取り、その脱却のために考え出されたのが、ニーチェの「永劫回帰」だった。
 ただし、当初の「永劫回帰」はいわばニヒリズムの局地であった。始めも終わりもなく、同じ運命が永遠に繰り返されるとしたら、「一切はむなしい、一切は同じことだ。一切はすでにあったことだ」。これほど虚しいことはあるまい。

               
                 にもかかわらず雪が降った痕跡

 しかし、ここでニーチェはクルリと体を躱すようにして「前を向く」。「よろしい、ならばその生をなにか本質的なものから疎外されたものとして忌避するのではなく、まさにわが運命として引き受けようではないか」。ようするに、どこかに他の運命がと漠然と期待したりするのではなく、まさにこの運命をわがものとして引き受けそれを肯定してゆく「運命愛」の発見である。

 こう書いていても私自身、よくわかっているわけではない。論理の飛躍もあるだろう。
 しかしこれは、いわゆる運命といわれるものを受動的に甘受せよというわけではあるまい。
 痕跡の痕跡の痕跡・・・・という連続のなかで、私自身はその痕跡の一つに過ぎないのかもしれない。しかし、その痕跡の痕跡の痕跡・・・・という連続のなかで、私自身が新たな痕跡の創始者、あるいは変革者たりうるかもしれない。

               
        これは何の痕跡かはむつかしい わが家の近くのスミレの群落の黄葉

 それを説いたのはハンナ・アーレントであった。
 私たちは先人が築いた痕跡の集積の中へと生み出され、それを受容しながら生きてゆく。しかし、私たちが単に受け身の消費者にとどまらず、なにか「活動」に相当するような行為としてそれらの痕跡に能動的に関わるとしたら、既存の痕跡の変革者、新しい痕跡の創造者たりうるかもしれない。

 これはニーチェの運命愛の否定ではなく、本当に自分の運命を愛するということはどういうことかを展開したかのように思わせる。

 ビッグバン以来の過程で生み出された人類は、まだ宇宙環境そのものを対象とした面では何の能動的成果をも挙げてはいないが、近年の「人新世」の概念が示すように地球規模での環境を左右しうる手前まで来ている。それらの気づきが、人間による積年の地球環境破壊の結果であるというのは皮肉ではあるが・・・・。

            
            わが家のガレージ近くの白南天 晴天の痕跡陽が落ちゆく

 しかし、ハンナ・アーレントの主著のひとつ、『人間の条件』(ドイツ語版を底本とする日本語訳は『活動的生』)が、ガリレオによる望遠鏡の発明や、執筆時の人工衛星スプートニクなどを冒頭に掲げ、地球そのものが人間の対象となった時代(1950年代後半)を出発点としていることは象徴的でもある。

 私たちは先人の産み出した痕跡の累積のなかで生きている。
 それをどう捉えるのか、それに何かを加えたり変えたりができるのであろうか。それらは宇宙規模での痕跡には無力であるかもしれないが、地球規模での痕跡にはなにがしかの付与、変革を可能にするかもしれない。

 さらに何世紀か後、AI に先導された人類が、地球規模を超えて宇宙規模での力を発揮し、ビッグバン以降の歴史を変革するという物語が可能かもしれない。しかしこれは、今のところSFの世界の話であろう。

 現実の私は、次のゴミ出しはいつだったっけ、年末から年始にかけ、酒類を飲む機会も多かったから、ビンもけっこう溜まってる、これを出す日は、などというレベルで生きている。

 

【付:わが食欲の痕跡】

            

 今年初おでん。今日明日の連休はこれに青野菜、他に若干のもので凌ぐつもり。
 はじめて関東風の白いはんぺんを使ってみたが、これが始末に負えない。出汁に浸かるというよりプカプカ浮かんで移動する。いつものように、鍋のなかの各具材をきちんと整列させにくい。次から入れてやんないから。
 味はいいと思うよ。
 

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「祈り・・・・命どぅ宝」と沖縄慰霊祭に思うこと

2021-06-23 01:38:54 | 歴史を考える

 今日、6月23日は沖縄慰霊祭だなと思っていたら、一昨年秋、沖縄へ行った際の三日間、私の希望に沿って、ヤンバルの森、辺野古埋め立て現場、チビチリガマ、平和祈念公園(今日慰霊祭が行われる広大な慰霊公園)などを案内してくれたおりざさんが、自分がリリースしたCDを携え、宜野湾のFM局に出演した際(昨22日)の映像がYouTubeにオンされているのを見た。

 https://youtu.be/1D4VvTFUfhU

 まずはこの歌を聴いてみてほしい。歌詞は彼女自身の詩によるもので、歌はもちろん彼女によるものである。

 タイトルの「祈り・・・・命どぅ宝」はあの沖縄戦で、県民の四分の一が死亡した悲惨な状況の中から産み出されたともいえる。切々と迫るものがある。

         

        

 沖縄戦があれほど悲惨な結果に終わったのは、端から負け戦とわかっていながら、投降を許さず、最後の一兵まで戦い、もって本土への接近を一日でも遅らそうとする本土の側のエゴイズムによる。そしてその、本土のエゴがなんの反省もなく今日も繰り返されていることは周知の事実である。

         

        

 何度も示された沖縄の民意は、一顧だにされることなく、本土の都合によって踏みにじられ続けている。ここに載せた美ら海の写真は、私が撮ってきた辺野古の海である。今ここでは、かつての激戦地で、そこで死亡した人の遺骨が混じっている可能性がある本島南部の土がその埋め立てに用いられ、コバルトだったサンゴ礁を茶褐色に染め上げつつある。

 今から60年ほど前、沖縄からの留学生(当時はまだアメリカの占領下にあったため)と知り合った。彼は沖縄独立論者で、本土でも沖縄でも叫ばれていた「日本への復帰」ではなく、「沖縄の独立」を主張していた。彼はなんとかそれを訴えようとしていたが、しかし、政治活動を行ったことが知れると沖縄へ強制送還されてしまうので、それがままならなかった。そこで私と有志が、彼の主張を取りまとめ、チラシを作り、それを撒く活動をしたことがある。

        

 もちろん、沖縄独立論には、現実的立場からのさまざまな批判があるだろう。しかし、沖縄が置かれた現状、さらには一昨年の訪沖時に見た巨大な基地群を思う時、日本への復帰もまた、沖縄蹂躙の継続に過ぎなかったのではないかと思われるのだ。

 沖縄に対する本土のエゴイズムと書いた。本土とは誰なのか。これを書いている私、読んでいるあなたを含め、沖縄の人々以外のすべての人々のことなのだ。

        

挿入した写真は、一昨年、私が撮ってきたもので、辺野古や平和祈念公園のものが多いが、千羽鶴のものは、チビチリガマという場所のもので、そこには周辺の住民139人が戦火を避けて立て籠もっていた。米軍が上陸し、投降を呼びかけたにもかかわらず、当時の皇民教育(虜囚の辱めを受けるくらいなら死ね)のせいもあって、それに応ぜず、抵抗したり、自決したりして、結局80人以上の犠牲者を出すに至った。

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