六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

中村メイコ 永六輔 60年安保 そして I さん

2015-04-30 22:43:06 | 想い出を掘り起こす
 4月29日午後、PCにたまった写真などを整理しながら、折から、NHK FMで放送中の「今日は一日“戦後歌謡”三昧」を聴くともなしに聴いていた。どうやらラジオ放送90周年記念番組の一環らしい。ちなみにNHKがラジオ放送を始めたのは1925年で、その13年後に私は生まれたのだから、相当古い人間だということになる。まあ、それはいわずもがなだろう。

 放送を聴き始めたのは中村メイコがゲストの後半で、彼女は1947(昭和22)年から52(昭和27)年まで続いたラジオ番組、「日曜娯楽版」の10代の頃からの常連で、その頃の話がどんどん出てくるのは面白かった。
 実はこの三木鶏郎が編成し、音楽も担当した番組、小学生から中学生にかけての私が、風刺を通じた社会への批判的な眼差しを養う上でとても大きなウエイトを持っていたのだった。その、寸鉄人を刺すコントは実に面白かった。

          

 この番組から生まれたヒット曲では、森繁久弥・丹下キヨ子・三木鶏郎が歌う『僕は特急の機関士で』(1950年)や、楠トシエの『毒消しゃいらんかね』、それに中村メイコの『田舎のバス』などがある。

 田舎のバスは、三木鶏郎の作詞・作曲だが、その作詞のヒントは中村メイコの名古屋での体験にあるという。それによれば、彼女が出演した劇場でエレベータに乗っていたところ、「ハイ、次は*階でございます」と標準語で案内をしていたエレベーター嬢が、知り合いが乗ってきた途端、名古屋弁になり、「やっとかめだねぇ。どこへいりゃあす」と話しだしたかと思うと、また、「お待たせいたしました。◯階でございます」とすましていうその落差が面白くて、その経験を三木鶏郎に話した結果生まれた歌だという。

  https://www.youtube.com/watch?v=j135NDzas9s
 
 なお、現実に出来上がった歌では名古屋弁ではなく、東北弁にアレンジされている。歌詞の途中に、牛の鳴き声が出てくるが、これは植木等の声だという。
 その他、そうそうたるメンバーがこの番組を盛り上げていたが、日本が米軍占領下から離脱した51年の翌年、偏向番組として打ち切られ、その継続として「ユーモア劇場」という番組が始まるのだが、その折にはもう毒にも薬にもならない番組になってしまった。

 ここで疑問は、占領軍支配下で検閲も厳しかった時代、なぜこの番組が可能で、日本が主権を回復した途端に打ち切られたかということだが、その理由は、中村メイコのあとにゲスト出演した永六輔(ただしこのインやビューは前のものの再放送)が明かしていた。

          
 
 当時占領軍は、NHK(しかなかったのだが)の番組に携わる者たちを集め、繰り返し、繰り返し、表現の自由ということをアメリカの番組を例にとりながらレクチャーしていたというのだ。
 それが、主権回復と同時に政権与党にとって都合の悪い表現が抑圧されるようになったということは、今日の籾井体制による御用放送化へと連綿として続くNHKの歴史のように思われる。
 あるいは、戦前の大本営発表体質への先祖返りか。

 中村メイコの次のゲストは永六輔であったが、ほぼ、作曲者でピアニストの中村八大との関係に絞られた何年か前の収録とはいえ、実に面白かった。聞き手はベテランの加賀美幸子アナウンサー。
 この永六輔、中学生の頃から上述の「日曜娯楽版」の常連投稿者であり、高校生のときのは既にして準構成者扱いだったというからその才能には舌を巻く。

 驚いたのは、このインタビューの途中に、「60年安保」という言葉が何度も繰り返されたということだ。当時、彼につながる人脈がこの闘争に賭けていた情熱がビンビン伝わってくる内容だった。
 それによれば、永は当時、民法のある人気番組の構成作家であったのだが、連日デモに出かけるため、局側から、「番組が大事か、デモが大事かどっちなんだと」と詰問を受けたという。
 それに対する永の答えが振るっている。
 「そんなもの、デモが大事に決まってるでしょう」
 それで彼は馘首同様にその番組を降ろされた。

          

 しかし、当時はまだNHKにも骨のあるディレクターがいて、そんな永を招請し、できた番組があのテレビ史に残る名番組、「夢であいましょう」だった。
 この番組からは、いまも歌い継がれている歌がたくさん誕生している。
 いずれも中村八大作曲に永が詞をつけたものだ。「永が詞を」といったが、まさに文字通りそうで、中村八大が先輩格だったため、彼がまず曲を書き、「オイ、これに詞を付けろ」という手順だったらしい。それにしてもこのコンビはすごいと改めて思った。

 「上を向いて歩こう」(歌:坂本九、1961年10月と11月)
 「遠くへ行きたい」(歌:ジェリー藤尾、1962年5月)
  「故郷のように」(歌:西田佐知子、1962年12月)
  「おさななじみ」(歌:デューク・エイセス、1963年6月)
  「こんにちは赤ちゃん」(歌:梓みちよ、1963年7月)
  「ウエディング・ドレス」(歌:九重佑三子、1963年11月)



 60年安保の話はまだ続く。世界中にヒットした「上を向いて歩こう」は、60年安保に敗北した悔しさを念頭に置いた歌だというのだ。
 そしてこれには、こんなエピソードも残っている。当初、坂本九がいかにも楽しげに軽い調子で歌ったのに対し、永が激怒し、「これはそういう歌ではない!」と注意したというのだ。

 ほかにも、八大とのコンビでヒットした「黒い花びら」(歌:水原弘 第一回レコード大賞受賞曲)について、「あれは60年安保で亡くなった樺美智子へのレクイエムだ」と語っていたが、これは永の勘違いだと思う。
 樺が亡くなったのは文字通り60年だが、歌の方は59年だからだ。
 しかし、それぐらい60年安保への思いい入れは強かったことを示しているのだろう。

          

 最近、TVにしろラジオにしろ、これほど60年安保という言葉が頻出するのは聞いたことがない。それを語る永もだが、きわめて自然にそれを聞き出す加賀美幸子アナウンサーに好感をもった。

 私がかくも感興を覚えたのは、これらがまさに戦後の、私自身が少年期から青年期を迎える頃の話だったからということは確かである。
 しかし同時に、私の脳裏には、この話を聞かせてやりたかったある先達のことが去来していた。それは昨秋なくなった同人誌の先達 I さんで、もし、彼がこれを聴いていたら、逆に私のところへ電話をしてきて、「オイ、六さん、FMをつけてみろ」と言ってきたのではないかと思うのだ。
 まあ、彼は彼で、アチラ側で中村八大から直接聞いているかもしれないが。

 なお、永がそのインタビューの中で、晩年を迎える心境を、「この世に参加し、やがてこの世を去ってゆく身としては・・・」といっていたが、はからずも、ハンナ・アーレントのいう「人間の生誕と世界への参入」と響き合うものをもっていると思いながら聴いていた。
 
  
 



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わが家のツツジ その源平合戦について

2015-04-29 02:32:37 | 日記
 この時期になると毎年書くことだが、今年も書く。
 うちには樹齢40年を超える大きなツツジが二本ある。
 一本は赤(というより濃いピンク)である。
 もう一本は純白である。いや、あった。

        

 少なくともここ10年ぐらい前まではそうだった。
 異変が起きたのは10年ぐらい前だろうか。
 純白であった方に2、3輪の赤が咲いたのだ。


 
 どうしたことだろうと思っていたら、赤は年々増えてきた。
 今では一枝全体が赤になってしまった。
 そればかりではない。
 そこから離れた白い花にも赤い斑入りのものが出はじめた。



 ようするに、赤が確実にそのテリトリーを広めつつあるのだ。
 この分でゆくと、やがてこの白い木が全て赤に染まる日も来そうだ。
 もちろんそれまでには長い年月がかかることだろう。
 そしてそれが実現した頃には私は生きてはいないだろう。

 ところで、もともと赤い木の方だが、こちらは変わりない。
 白が進出した形跡はとんと見られず赤いままだ。
 ようするに赤が優性遺伝ということかもしれない。



 しかし、それにしても個体たるべき木がたくさんあって、それらが
例えば、3:1に分離しているわけではない。
 一本の木の中で遺伝子が争っているのだろうか。
 
 階級闘争華やかなりし頃なら、この現象は世のブルジョアジーにと
って脅威であろう。例えば冷戦時代だ。
 赤は微動だにせず、白を侵食し続けるのだから。



 この結果は、源平の合戦とも異なっている。
 平家の赤旗を打ち破ったのは源氏の白旗だった。
 しかし、わが家での観測による限り、赤軍がはるかに優勢である。

 こうした現象を説明できる知は持ち合わせていない。
 そんな時は、古人の格言を借りるに限る。
 曰く、「朱に交われば朱くなる」だ。
 あ、これって去年もいっている。
 来年もおそらくいうだろう。

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気分は「お蚕さん」 桑の木と私

2015-04-27 02:38:10 | よしなしごと
 いまの若い人たちには「お蚕さん」といういい方はいくぶん奇異に響くかもしれない。もちろん、蚕は知っているだろうが、なぜそれに「お」や「さん」など敬称を付けるかだ。
 種明かしをしてしまえば、養蚕というのは農家にとって、割合短期間のうちに現金収入が得られるありがたい仕事だったのだ。だからそれをもたらす蚕を呼び捨てにするのは恐れ多いことだった。

          

 私もその端くれを経験したことがある。
 戦争中に疎開した母の実家は、米を主体とした農家だったが、その二階を利用して、この時期からお蚕さんを飼い始め、一ヵ月余を過ぎると繭ができて、それが絹糸の原料になるというわけだ。
 繭ができた頃、街から仲買人がやってきて、天秤秤で計量してそれを買い取ってゆく。
 その過程が、どんぴしゃりお蚕さんの食料、桑の新芽が出て成長してゆく経過と重なっているのだ。

          

 私たち子供にできることは、お蚕さんの食料、桑の葉の運搬ぐらいだ。
 大人たちが、桑を枝ごと切って束にする。背中いっぱいの大きな束は大人たちが運ぶ。子供たちは小さな束を作ってもらって抱えるようにして運ぶ。
 蚕の食欲は旺盛だし、常に新鮮な葉が必要だからこれもけっこうキツイ労働だ。

 切ってきた枝はそのままお蚕さんの棚に均すようにして並べる。お蚕さんたちはそれをひたすらモリモリと食べる。その食べっぷりがどんなにすごいかというと、一匹一匹は人間の小指にも満たないほどなのに、それが何千匹単位でひたすら食べると、その音がシャカシャカと絶え間なく聞こえるのだ。

          

 そんな経験もあって、お蚕さんとそれに関連した桑の木のはちょっとした思い入れがある。

 もう30年ほど前だろうか、いま住んでいる家の敷地の片隅に、20センチあるなしの一本のヒョロヒョロッとした木が生えているのを見つけた。こんなところに生えてきたって、じゃまになるだけだから可愛そうだが引っこ抜こうと思った。最初は、我が家の古参、ムクゲの子供かなと思ったのだ。しかしよく見ると違う。桑だ。

          
 子供も頃の思い出がむくむくとこみ上げ、よっしっ、育ててみようと日当たりの良い場所に移植した。桑の木の成長は早い。そうでなければ蚕の食欲にも追いつけないのだろう。今やこの木は、2階建ての我が家を凌駕し、その枝を二階の私の部屋のベランダに張り出している。

 そして、5月末から6月のはじめにかけてたわわに実をつけるようになった。一見、真っ黒に見えるまで熟した実は、甘くて独特の香りがあり美味しい。毎年、2、3日の間隔をおいて数度にわたって収穫でき、採ったものは娘が働いている学童保育の子供たちのおやつに供している。
 ここに載せた実の写真は、昨年の5月31日のものである。



 そんな桑の木が、いま新葉の時期を迎えている。読書や、PCに疲れてふと目を上げると、日増しに濃くなる緑が眼前にあるのは嬉しい事だ。
 そんな2、3日前、ネットで調べ物をしていたら、その派生的な情報として、桑の新芽は天ぷらにすると美味いというのが飛び込んできた。桑とは子供の頃からもう70年の付き合いだが、これは初耳だ。

 早速、ベランダに出て、その新芽を摘んで食べてみた。桑の実と同じ味がほんのりとして、何のアクもなく、そのままサラダにも使えそうだ。
 桑の新芽は、実の赤ちゃんと同時に出てくる。この実の赤ちゃんというのは実は花であり、それが実になるのだろう。

 実を採らないようにして新芽とまだ柔らかそうな葉を採り、天ぷらにした。
 美味いっ!
 ただし、うまく揚げるためには多少の配慮がいる。要は大葉の天ぷらと同じだが、衣はやや薄めにして高温でさらっと揚げる。揚げ足らないとベチャッとするし、揚げ過ぎると味が飛んでなんだかわからなくなってしまう。菜箸で確かめながら、衣にカリッとした感じが出たところで素早く取り出す。

          

 縷々書いてきたように、桑との付き合いは長いが、その葉っぱをこんなに美味しく食べることができるなんて知らなかった。
 もう、気分はすっかり「お蚕さん」だ。

 天ぷらの写真、向こう側はその日、地元の蕗を煮たのだが、その先の方は硬いので、その部分を天ぷらにしたもの。これも美味しかった。

 桑は、私を三重に楽しませてくれる。目前の緑として、その実の甘さとして、そして新芽の美味しさとして。
 長生きはするもんだ・・・ったって、この長寿社会、まだ新参者の老人にすぎない。その割にはあちこち傷んでいる。

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昨今三題噺 うちひとつは主観的

2015-04-25 13:30:24 | よしなしごと
*ドローン

 ドローンがテロに利用されるから規制するって?何を寝ぼけたことを!
 ドローンは無人飛行機の総称だ。その軍事用機はすでにイラクなど中東で使用され、何千人単位の人間を殺している。使用者は遠く離れてゲーム感覚で悲惨な殺戮すら実感することなく、それを行っているのだ。
 もし、ドローンの危険性を云々するならまず米軍による殺戮を問題にし、それを禁止すべきだろう。それを容認しながら、自分たちだけ安全圏にというのは虫がよすぎる。
 ドローンの殺人行為を無視し、あまつさえ、集団的自衛権に名でそれを容認し支持する者たちには、それを忌避する権利はない。

 写真は米軍のドローン戦闘爆撃機、RQ-4 グローバルホーク。この空飛ぶ悪魔の容姿を目を凝らして直視すべきだろう。


          

*キューバ

 米・キューバ国交回復の動きにいち早く追随して岸田外相がキューバへ飛び、経済進出の環境を整えるという。
 かくてキューバは、先進諸国によって瞬く間に食い物にされるであろう。制裁解除によって無人称の「経済」というものは発展するだろう。しかしそれは、これまでになかった格差を生み出し、救済されざる貧困層も生み出すだろう。
 みんなが貧しかった時代と、貧富の格差が幾何級数的に増大する状況とどちらがいいのかは考えてみる問題であろう。
 いずれにしても、あの底抜けに明るいキューバン・サウンドが絶えないことを祈るばかりだ。


          

*孤独

 とある駐車場の片隅に捨てられていたクッション。破れてはいるがまだきれい。昔の人なら繕ってまだ使ったのに(私も?)。
 それとも、密輸品のヤクか宝石をとり出したあとか?
 いずれにしても、クッションの身になったら、ちょっと切ない。


          
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嘘ではない良い嘘 映画『グッド・ライ いちばん優しい嘘』を観る

2015-04-23 11:22:32 | 映画評論
 年間、70本の映画を劇場スクリーンで観たのは何年前だったろうか。その年は、キネ旬ベストテンのうち、7、8本は観ていた。
 今はそれほどの体力も気力もない。スクリーンで見る映画が好きなことには変わりないが、わざわざ出かける機会がうんと減ったのだ。

 ひとつには、わが街岐阜にあった名画座系が消滅して、それらしい映画というと名古屋まで出なければならないことにもよる。みみっちい話だが、交通費で換算すると、シニアの入館料よりはるかに高額になる。

 したがって、映画を見る機会は名古屋での所用との組み合わせになる。その点では割合こまめに名古屋へ出る都度、予めチェックした映画を観てはいる。
 先般も、名古屋で若い友人と逢うことになったが、その友人は当然まだ仕事をしているので夕方からということになり、その前に映画を観た。

        

 いつものように事前にチェックしたのだが、どうしてもこれというのが見当たらない。次善の策として、友人に逢う時間から逆算してその前に終るものにした。
 で選んだのが、『グッド・ライ いちばん優しい嘘』だった。
 ネットで見た限りでは、1983年、アフリカはスーダンの内戦で両親を殺された幼い6人姉弟が、アフリカ大陸をさまよいながら、難民キャンプに収容され、なんとそこで13年間を過ごした後、アメリカへの移住を許されるのだが、そこでのカルチャー・ギャップを描いたものとなっていて、状況としては重いものの、そのキャッチからしてストーリー展開はいくぶんコミカルなものかなと思ってしまった。

 にもかかわらず、これを選んだのは、今なおアフリカ各地での戦乱を避けるため、多くの人がヨーロッパへの脱出を目指し、悪質ブローカーの甘言に乗せられ、劣悪な条件下で地中海に挑み、何千単位での遭難者を生み出しているという最近のニュースとの類縁性を感じたからである。

        

 結論からいうと観て正解だった。
 前半の脱出劇そのものがアフリカの美しい風景に不釣り合いなほど凄惨で、彼らのアメリカ移住にはホッとさせられるものがあった。
 マクドナルドも電話すらも知らない彼らが体験するカルチャー・ギャップは、しかしながら、まさに彼我の世界と人間のかかわりの違いを示していて、始めに想起したようにコミカルなものではけっしてない。
 むしろ、そこでは、現代人が生産性や効率という名のもとにとっくに捨ててしまった高潔ともいえるモラルとプライドを、彼らが日常的に保持していることが際立つ。

        

 例によって、詳細は語らないが、最後のストーリー展開はいくぶん無理があるものの、それを無理と感じる私たちのほうがようするに俗なのかもしれないとも思う。
 スーダン人の姉弟がそれぞれ個性的でいいなぁと思ったら、彼らは実際のアフリカ難民だという。
 彼らをむかえ、当初はいくぶん投げやりながら、次第に心を開いてゆく職業紹介所の職員キャリー(リース・ウィザースプーン)の役どころもよかった。
 どうでもいい話だが、この人、朝ドラ「マッサン」でキャサリン役をしていた濱田マリさんにちょっと似ている。

 そんなわけで、当初期待をして観に行って外れる映画もあれば、さほどに思わないままにいって当たりのものもある。今回は後者だった。

        

 それにしてもこの映画の冒頭のスーダン内戦は1983年なのだが、それ以後30年以上を経た今も、なおかつアフリカ大陸に戦乱が吹き荒れているのは、人類は進歩どころか愚かな破局への行進を続けているのではないかとさえ思われる。
 彼らの悲惨は、おそらく、私たちが相対的に安穏と暮らしていることとどこかでつながっているはずだと思う。

 その後、若い友人とこの映画も含めて語り合った。
 日照時間が少なかった4月にしては、温かい夜であった。


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今季の竹の子に初挑戦

2015-04-19 23:19:53 | よしなしごと
 今季の竹の子に初挑戦した。
 うちの鉢植えの山椒が芽吹いたのを見て思いついたのだから「主客転倒」といっていいかもしれない。
 午前も早い時間に農協の野菜売り場へ。
 
 ちょうどふさわしいものがあった。
 大きな鍋がないからそこそこのサイズのものしか湯がけない。
 全長20センチほどを頭に3本、米ぬか付きで500円。

          

 早速持ち帰り洗う。
 表面の硬い皮はある程度剥き捨てる。
 根っこの赤いぶつぶつのある辺りは綺麗になるまでそぐ。
 先端部分を斜めに落とす。
 皮に一本、縦の切り込みを入れる。

          
 これで準備万端。
 たっぷりのお湯に、米ぬかと鷹の爪を入れ、落とし蓋をして湯がく。
 1時間ほどで良さそうだが、1時間20分にタイマーを設定する。

          

 出来上がった。竹串で確かめるとす~っと通る。
 そのまま、夕方までそっとしておき自然に冷ます。
 それから皮を剥いたのが最後の写真。
 この時、皮の下部に付いている柔らかい部分を捨てないでとっておく。
 これに薄口の生姜醤油をかけると立派な一品の料理になる。

          

 さて、本体のほうだが切れ端を切って試食したら、うまい具合にエグみがとれていたので、やや小さめに切って、ワカメなどを合わせることなく、それのみを薄味の鰹出汁で煮付ける。
 採ってきた木の芽を散らして出来上がり。

 残りは水を張ったボウルに入れる。
 まだ一本半ほどある。
 明日はたけのこご飯を炊こうかな。
 それでも残りそうだから、若竹煮か、それともわけぎと合わせてヌタも面白そう。

          

 たかが竹の子だが、その調理には先人が残した経験や知恵がいっぱい詰まっている。だから私たちは、それを利用して美味しく食べることができる。
 もっと大げさに言えば、先人たちが作った世界へと私たちは生まれいでて、この世界になかで生きている。ここを去る前に、何か痕跡をといっても、私個人の力をもってしてはなんともならないが、私たち相互の実践によって、新しく生まれいづる人たちに、良い世界を残せるといいのだが。

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なんでもない日記 春雷・タンポポ・境川

2015-04-17 22:30:55 | 日記
 16日夜は、必要があって夜更かしをし、午前2時頃床についた。
 さあ寝ようというときに、いきなり春雷が轟いて夜のしじまを引き裂いた。
 同時に、音を立てて激しい雨が。
 その後も春雷は、時折、唸りを上げる。
 誘眠剤は飲んだのに、すっかり寝そびれてしまった。

 そのまま悶々として寝付かれない。
 時計をみたら午前4時になっていた。
 これでは明日に差し支えると、あわててもう1錠誘眠剤を飲む。

 そのせいでしばらくして眠ったらしい。
 睡眠時間は短かったが、眠りが深かったせいかまあまあだ。

          

 うちの敷地内で5輪のタンポポが咲いているのを見つけた。
 昨年まではここにこんなものはなかったから新参者らしい。
 たかがタンポポというなかれ。
 確かにどこにでも咲いている。
 しかし、わざわざ我家を訪れたとなれば特別だ。
 それにこの大きさもいい。
 最近のものはやたらひょろひょろと背が高いが、これはほどほどだ。
 子供の頃、見慣れたタンポポだ。

             

 郊外のメガネ屋へ行く。壊れた眼鏡を新しくした。
 帰りは今まで通ったことがない道を選ぶ。川べりに出る。境川だ。
 街なかとは思えない静けさだ。
 今どき珍しく手すりのない橋がある。
 川の西岸は桜並木だ。
 今度は花の時期に来よう。

          

 明日は責任がある大事な用件で豊橋へ行く。
 その後、旧友とも会う予定だ。
 ぐっすり眠らなければならない。
 今夜ははじめから、誘眠剤は2錠飲もうと思う。


この川、どこか風情があるなと思ったら、最近の都市近辺の河川と違って、変な護岸工事がしてなくて、自然な堤防、つまり土手が残っていることだ。だから植物たちが、ごく自然に生い茂っている。






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早春の奥美濃を往く 雪の廃校ほか

2015-04-15 23:53:13 | 日記
 岐阜県は美濃と飛騨とに分かれる。美濃は割合平地に恵まれているが(とはいえ濃尾平野のおすそ分けぐらいで大したことはない)、飛騨地方は山間部に相当する。濃飛国境付近に水源を発する河川は、美濃を通って太平洋側に流れるものと、飛騨を経由して日本海に流れるものとに分れる。
 
 ひるがの高原にはその分水嶺を目の当たりにできるところがある。そこまで流れてきた小さな渓流は、ちょっとしたよどみのような池にプールされ、その流出口には三角状の石があり、その頂点にあたった水は左右に別れる。
 上流から見て右手へゆくものは長良川を経由して伊勢湾へと、左手のものは庄川を経て富山湾へ注ぐ。


 ここへは3、4度行ったことがある。子供たちも連れて行った。少し上流から笹舟や木の葉を流してみると水流の関係でどちらかに分かれてゆく。
 ではここで別れた水たちは永久に分かれてしまうのだろうか。もちろん海はつながっているので、いっしょになるといえばなるのだが、もっとその場所を特定できないだろうか。

 暇な折に、日本列島を取り巻く海流図を見ていたら、それらの流れの一部が津軽海峡で出会うことがわかった。あの大間のマグロが獲れる辺りであろうか。
 ひるがのの分水嶺で泣き別れた笹舟たちが、津軽海峡で出会うなんてなかなかロマンティックではないか。まさに「われても末に逢わむとぞ思ふ」(崇徳院)だ。



 そうした分水嶺の近くのもう少し行けば飛騨路という付近まで行ってきた。
 平地ではもう終わってしまった花の饗宴がその辺りに行けば見ることができるかもしれないと思ったからだ。
 しかし、東海北陸道を白鳥(ハクチョウでもシラトリでもない、シロトリと読む)で降りて一般道の山道に入って幾ばくもしないうちに路肩に残雪が見られる。


 
 さらに分け入ると、雑木林などはすっかり雪に覆われているのだが、樹木の根の周りだけぽっかり雪が溶けていて、植物のエネルギーを思わせる。
 まだまだ花などとはとんでもない話だ。
 それでも、木々はまだまだかわいいが新芽を宿しはじめているし、日当たりの良い雪解けの箇所ではツクシや蕗の薹を見ることができる。

   

 廃校になって何年も経った鷲見(わしみ)分校はまだ雪景色の中だった。
 キャッ、キャッと雪の玉を投げ合う子供たちの声が聞こえるようだ。
 その子たちは今どこでどうしているのだろう。
 すっかり大人になって都会の喧騒のなかにいるとき、あるいは夜更けに自分に部屋に帰った時など、ふとここを思い出したりはしないだろうか。
 山村を走ると、他にもこんな場所が沢山あるし、またこれからも増えるのだろう。
 岐阜県は、ここ25年後には20%以上と大幅に人口が減るといわれている。


 
 雪の大日岳では、まだスキー場が営業中で、山腹のリフトが動いているのが肉眼でも見える。

 ここを北限に南へ下る。
 ちょっと南下するだけで確実に春の気配が濃厚になる。
 白鳥から大和地区に入り、「道の駅古今伝授の里やまと」で昼食。ここの蕎麦はセルフ方式だが結構美味い。
 傍らでは馬酔木(アセビ)の花が咲き、池では鯉が輝いている。


                         前景に林立するのはつくし

 そこから少し離れた箇所の円光寺の枝垂れ桜を見る。
 八分咲きぐらいだろうか。
 なかなかのものだが訪れる人は少ない。
 ちょっともったいないがそれがかえっていい。


 
 長良川沿いに南下を続ける。
 途中休憩した箇所、桜の咲き誇る下でアマゴ釣りをしている青年を見かける。
 私の40年前の姿だ。少し胸にくるものがある。
 フライではなくエサ釣りだ。
 しばらく見ていたら、瀬尻のあたりでヒットして、手元へ引き寄せる段階でバレてしまった。距離があるから定かではないが、尺とまではゆかなくとも、まあまあの良型のものだった。
 見ていても口惜しいが、本人はもっと口惜しいだろう。



 この12日、雨の日が続くなか、ポッカリと好天に恵まれて、実に久々の遠出を楽しんだ。
 昨秋、体調を悪くして以来、岐阜と名古屋以外にはほとんど足を延ばしていない。 
 そろそろ、身体を動かさないと、このまま老いさらばえてしまいそうだ。
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私の文化財とあでやかな新葉と・・・

2015-04-10 17:47:01 | 写真とおしゃべり
 親しい方から高額の図書券をいただく。
 せっかくだから、「ア、読んだ、読んだ」で済ますような本ではない、じっくりと手元において読み返すような本を買おうと思った。
 たいていの書は図書館で借りるが、返済期限などの関係で、マイペースで、しかも何度も読み返すような読み方はなかなかできない。

          

 名古屋へ出た折に、在庫の豊富な書店に寄って、それらしいものを探した。
 予めネットなどで検索しておいた候補のうちから、それらを手に取り、目次や版の組み方などをじかに確かめる。
 よし、これだというものを一冊選ぶ。

          
 
 菊版で600ページほど、2キロほどもあろうか、ずっしりとした重みが頼もしい。税込みで5,000円超、ポケットマネーだったらなかなか買えない書だ。
 かくして、私の「文化財」が一つ増えた。

          

 今日は違う書を読んでいる。近々、あるところで発表を行うための予習のようなものである。人様の前で発表する以上、やはりきちんと理解してもらえるようにしたい。
 そのために根を詰めると結構疲れる。

          

 ふと目を上げると、二階のテラス越しのマサキの新葉が一段と鮮やかさを増している。こんな緑を眼前にできる私は幸せ者だと思う。
 このマサキの下にはツツジが一本あって、その蕾も次第に目立つようになった。
 あと、10日もしたら開花するのではないだろうか。
 
          

 その頃には引き受けた発表も終えているから、マサキの緑とツツジの白のコラボを楽しみながら、買ってきた本をゆっくりと、丁寧に読みたいものだ。
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「花の生涯・最終章」

2015-04-08 13:30:38 | 花便り&花をめぐって
 人を愛するなら、その人の最盛期からその終焉まで見届けるように、花を愛でるならその終章をも見届けるべきだというのは、ふと思いついた言葉で、何ほどの意味もない。
 しかし、今春、私ははからずもその機会を得た。

    
   
 車検である。車検代、自動車税、ガソリン代、その他の維持費、などなどを勘案しいたら、私のような高齢者がいつまで車を保有するかは、いろいろ考えるところである。
 しかし、郊外にあって公共交通も大したことはなく、近所に需要を満たす商店もないなか、やはり手放しがたいものがある。
 というわけで、また車検を受けた。

    

 委託した業者は自宅から2kmほどある。車を置きに行って、さいわい降りそうで降らない天候だったので帰りは歩くことにする。代車を借りるほどのことはない。
 帰路は川沿いに斜めに帰ると割合近い。この道は、ここ2、3回書いている「マイお花見ロード」へと続く。


          対岸の階段の白いところは降り積もった花びら

 そんなわけで、今年の花の終幕を見届けることができた。
 川の方は、昨日の雨で水量が増し、流れも早くなっているため、期待した花筏はほとんど見ることはできなかったが、その代わり、川岸や道路の花絨毯をしっかり堪能できた。
 思うに、昨日の雨の湿気で、花びらがしっかり地表に張り付いているため、例年になく濃厚な絨毯が出現したのだろ。

    

 最近の車検は早い。午前10時に持っていったのに、午後4時にはできましたと電話。
 またもや同じ道を逆にたどってとりにゆく。
 応対した若い娘が、「雨が降らなくてよかったですね」という。
 そういえば、先週見積もりに来たときに応対してくれたのもこの娘で、「いつ車をお持ちになりますか」との問いに、「今週は雨が多そうだから来週に」といって今日にしたのだった。
 そんなことを憶えていてくれたことが嬉しい。

    

 帰りは、せっかくここまで来たのだからと、私が60年ほど前に通学していた中学校から、道路を一本隔てた加納城址へ立寄ってみる。
 10年ほど前だろうか、ここへ来たとき、死角になるような木陰で、多分私の後輩になるような中坊のカップルが、パッコン・パッコンしているのを目撃してしまって驚いたことがある。いまから思うと、ちゃんと一部始終を見届ければよかったと思うのだが、何のことはない、こちらが恥ずかしいことをしているみたいにこそこそと逃げ出したのだった。

 駐車場に停めて、城址に入ろうとしたら、係の人らしき人が現れ、「申し訳ない、4月いっぱいまでは5時で閉門します」という。その人とちょっと立ち話をする。
 ここが戦後、米軍に接収されていたことを話すが、そこまでは知らないという。
 まあ、私より若い人は知らない話だろう。

    

 城内に入るのは諦めたが、石垣を外回りから観て歩く。角を曲がった途端、素晴らしい花絨毯の景観に出会う。古城の石垣と、落花のコラボといういささか郷愁をそそる情景だ。
 生憎の曇天で夕闇が迫るなか、しかも逆光で、こちらの装備はガラケーのみ。
 それでも、なんとか撮ったのが後半の写真。技術的に足らざる点は想像力をもって補って欲しい。

    

 かくて私は、今春の花を送ることができたのだった。
 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」といったのは林芙美子だった。
 花ならぬ私は、悲喜こもごもの春を送ろうとしている。




コメント (2)
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