六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「空想の音楽会」バロックから古典派&世紀末ウィーン

2014-03-28 14:19:00 | 音楽を聴く
 前にも書いたが、いまから25年ほど前、FMラジオから音楽をカセットデッキにエアーチェックし、せっせととり溜めたことがある。
 当時共同通信から隔週で発行されていた「FM fan 」を欠かさず買い、その番組表にしたがってめぼしい音楽番組(主としてクラシック)をすべて録音した。

                          

 仕事で家を空けている時間帯でも予約録音などを重ねた結果、そうしたカセットは数百本となった。
 ちょうどその頃、CDという媒体が普及し始めたのだが、高値で不安定だったため、とりあえずそれは無視して、テープをとり続けた。そしてその頃は、そんなに早くカセットが消えてゆく運命にあるとは全く思わなかったのだった。
 PCでいったら、未だにたくさんのフロッピーディスクをもっているのと同じことかもしれない。

 それらとり溜めたものは、現役を引退したら、のんびり絵でも描きながら聴くつもりであった。しかし、長年の居酒屋稼業を辞めても、対外的な関わりや第二の仕事のようなものがあり、今日まで家でのんびりする機会が少なかったのだが、ここへ来て、やっと家にいる時間が長くなった。

                     

 さて、ではそれらのテープを聴こうかという段階になって、カセットデッキの調子がどうもよくない。CDプレーヤーもトレイの動作が怪しくなってきた。よく新聞に広告が載っている、レコードからカセット、そしてCDまで聴ける装置をと思ったが、同時に何とか膨大なカセットをデジタル化できないものかとも思っていた。

 そこで、ネットでの友人にアドヴァイスを求めたところ、ちょうど私が求めていたような機器を紹介してくれ、果たしてそれが使いこなせるかどうか不安に思っていた私に、その詳細なスペックまで情報として提示してくれた。
 結果的にはそれが大当たりだった。

 いま私は、家にいる時間は実際に山ほどあるテープの音楽をUSBに放り込みながら、それを聴いている。
 以下に紹介するのもその一環で、「空想の音楽会」という2時間番組のテープが5本という特集である。

                     

 なぜ「空想の音楽会」かというと、NHKの中田薫アナウンサーと音楽評論家の石井宏氏がある時代の特定の場所で開かれた音楽会に潜入し、その実況と解説という形で、その時代とその地方、そしてそこに出没した音楽家たちのの音楽を紹介するという体裁をとっているからである。

 この番組のおもしろさは、その音楽もさることながら、そこへ登場する歴史的人物、当時のコンサートのありよう(協奏曲は独奏者が舞台に立ち、オケは手前のピットの中にいた、など)、それに古楽器の解説などなどが語れているなど、時代考証的な背景のなかでそれらの音楽が聴けるということである。
 120分テープの全5巻の内容は以下のようになる。
 それぞれのテープのケースには、「FM fan」に掲載された番組表からの切り抜きが付されていて、作曲者、演奏者、演奏時間などの詳細が付されている。

      

            
      

 第一巻 バッキンガム宮殿でのバッハ、アーベル コンサート(1780年)
      バッハ作・モーツァルト編曲のチェンバロ協奏曲などもある
 第二巻 ベルサイユ宮殿でのコンサート(1780年)
      クープラン グルック ラモー リュリ など
 第三巻 サン・スーシー宮殿(ボッダム) (1772年)
      エマニエル・バッハ フリードリッヒ大王 C・バッハ など
 第四巻 シュベツィンゲン離宮最後のコンサート (1778年)
      シュターミッツ(ヨハン&アントン) モーツァルト など
 第五巻 世紀末ウィーンの宮廷舞踏会
      シュトラウス(ヨゼフ&ヨハン) ランナー など

 各2時間、計10時間 毎日一巻ずつUSBに移しながら聴いたが楽しかった。
 
 まだまだ、手持ちのテープには、時代別とか、作曲家別とか、あるいは演奏家別などのおもしろい特集がいっぱいある。たとえば、ヨーゼフ・シゲティの特集のみで13本のテープがあったり、モーツァルト没後200年の命日、91年12月5日の、「終日モーツアルト」の
特集もある(最後の締めはもちろん「レクイエム」)。
 
 この作業は楽しいが、さて、移行し終わった頃にもそれらを聴く気力は残っているだろうか。
 そのUSBをしっかり握りしめて、にっこりほほえんだまま逝ったりして。

  
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マイ・フェイバリット・シング VIVA! 百均!

2014-03-26 02:08:55 | 日記
 もう30年ほど使っているだろうか。とにかく古い。
 買ったのは、まだ百均が独立した店舗をもつことなど考もしなかった頃、常設でもなく、スーパーなどの軒下三寸を借り受けて時折やってくるという時代だった。
 事実これは、当時、名古屋は今池にあったユニーというスーパーの軒下の、歩道にはみ出しそうになった陳列のなかから買ったものである。

                     

 その品物はというと、いわゆるトレイ(トイレではないぞよ。トイレは百均では買えない)である。
 私のように、主として二階に生息する夜行性の動物にとっては、これが実に便利なのだ。ようするに深夜、小腹がすいたり、ナイトキャップを嗜む折にはこれが不可欠なのだ。
 冬はお湯割りセット、夏は水割りセットが乗ったりする。

 大きさは32.5cm×24cmで、これがまた丁度いいのだ。小さすぎればもちろんものが乗らないし、大きすぎれば二階のデスクに置くことができない。
 材質もいい。いわゆるプラスチック製品なのだが、厚みもかなりあって頑丈なのだ。かなりのものを乗せて片手で端を持っても、歪んだり反対の端へ傾いたりすることはない。

                     
 
 最近になって、こんな使い勝手のいいものをどこの誰が作ったのか、そしてどうしてわずか100円で30年も使用できるのかを知りたくなった。
 そこで裏面を見たら、スペック表のようなものがあっていろいろ書いてある。もちろん、今まで何千回と洗っているので、何やら書いてあるなということは知っていたが、改めて読むなんてことはしなかった。
 写真でご覧のように、そんなに明確に読める程ではなかったこともその一因であろう。

                     

 そこにはこんなことが書いてあった。
【家庭用品品質表示法による表示】*原料樹脂 ポリプロピレン *耐熱温度 120度 *耐冷温度 ー20度 《取扱い上の注意》(1)火のそばに置かないでください。(2)たわし又ははみがき粉でみがくときずがつくことがあります。

 そして、「表示者 P 1ー6587」とある。
 ここんところがよくわからない。表示者=生産者と考えれば、Producerの略であろうか。とすると、1ー6587はしかるべきところに登録されている生産業者のナンバーかもしれない。
 この辺のところ、分かる人がいたらご教示願いたい。

                     

 そしてこのスペック表の欄外には、「MADE IN JAPAN」とある。これには少し驚いた。
 ひとつは、こんなものをこんなに安く売ることができるのは、当時、新興国であった中国の製品であろうと勝手に決めつけていたからだ。
 そして今ひとつは、こんな事実を確認しようともせず、30年近くも使い続けてきたということに対してである。

 写真に撮ったり、いろいろ調べているうちに、一層このトレイが愛おしくなってきた。私が逝くときにはこれを棺に入れてもらおうか。そうすればあの世の二階(?)で夜食やナイトキャップを楽しむことができるかもしれない。

 ん?まてよ。スペック表には耐熱温度は120度とある。とすれば火葬は無理なようだ。その辺の桜の樹の下にでも埋めてほしい。
 そうしたら、また、梶井基次郎のような人がなにかを書いてくれるかもしれない。


この《取扱い上の注意》にある「はみがき粉でみがくときずがつくことがあります」が泣かせる。若い人には何のことかさっぱりわからないだろうが、昔は金物類の汚れや錆を落とすのに、歯磨き粉を使ったものだ。歯磨き粉の中には研磨剤が入っているので綺麗になることを、とくに主婦は経験的に知っていていろいろ応用したものだ。
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「岩波」独善文化の特権性といやらしさ

2014-03-24 17:39:39 | 日記
 名古屋市の一画に「戦争と平和の資料館 ピースあいち」(名古屋市名東区よもぎ台2丁目820 TEL 052-602-4222)という施設がある。
 当初は民間のNPO組織として発足したが、今では愛知県教委の認可を得た「博物館相当施設」である。

 名前の通り、戦争と平和を主題とした常設展や特別展を行うが、それにとらわれることなく、「福島はいま----東日本大震災から3年」といった企画展も行う。その他、会場での各種パフォーマンス、学校への出張授業、戦争体験を伝える催しなどなどを随時開催している。

          
           
 私自身は地理的に離れているせいもあって深い関わりはないのだが、館長以下、ボランティアで活躍していらっしゃる方たちを存じ上げているし、身近なところでは、一緒に同人誌を作っているSさんという先達がいらっしゃって、80歳を過ぎたご高齢にもかかわらず、スタッフとして、また語り部として七面六臂の活躍をしていらっしゃる。

                     

 さて、この施設が開館7年を迎えるにあたって「特別展 みんなで学ぼう日本の憲法」という催しを予定している。【4月29日(火)~5月31日(土)】
 この催しのひとつに、250点に及ぶ憲法関連の書籍を展示するコーナーを設けようという企画がある。
 書籍を置くだけではインパクトがないので、必要と思われる箇所を拡大コピーしてその書籍の上に掲げるという企画である。

                     

 Sさんはしかるべき出版社にその概要を示し、許可を求めた。中には僅少の著作権料を求めるところがあったが、一方、新たな資料をわざわざ送付してくれた出版社もあるという。
 こうしてこの企画は想定通りほぼ成功するところとなった。たった一社を除いては。

          

 その一社が岩波である。担当者は無礼にも、Sさんが丁重に書いた依頼状の余白に「お断りする」の一言を付してFAXで返送してよこしたのである。その後、ブックレットの特定のページの一枚を拡大コピーして展示するのみで、配布するのではない、またそれについての著作権料も払うという説明に対しても岩波は頑として応じなかったという。

                    

 対象となった書は「岩波ブックレット」で、その刊行のことばの末尾には白々しくも、「読者の皆様が、市民として、学生として、またグループで、この小冊子を活用されるように、願ってやみません。」とある。

 これは一体何なんだ!なんとも醜悪ではないか。
 岩波文化という特権意識は、同時に他者を差別し見捨てるものであることが歴然と示されているではないか。
 先に、上野千鶴子氏の講演を断った山口市長でさえ、態度を改めてそれを実施したではないか。
 こんな頑ななことで「秘密保護法」を云々できるのか。
 まさに「秘密保護」を実践しているのは岩波ではないか。

                               
 聞くところによると、岩波は一般採用はやめて縁故採用のみに限定するとしている。
 どんな縁故によるのかはしらないが、少なくとも多様性や複数性に反するような組織への傾斜が強くなるに決まっている。縁故で採ってもらった奴が組織でまともに口がきけるはずがない。
 とにかくこの組織はいやらしい。
 先の都知事選でも影でなんやら暗躍したようだが、表面では口を拭ってシレッとしている。

                     

 岩波で本を出すことが「学者」や「文化人」にとってのステイタスである間は威張っていられるが、そうした高価な全集本などは納入先が決まっている図書館や大学の研究室でホコリを被っていることが多いのだ。
 岩波がもっとも大衆的に奉仕しうるのは、文庫や新書、それにタイムリーなブックレットなどであろう。しかし、この分野ですら、下手な官僚組織顔負けの頑なさで対応する奴がいるとは、もともと幻想は抱いてはいなかったが、見下げ果てたものだ。
 紙媒体については曲がり角に差し掛かっているようだが、岩波のこうした態度は、その衰退を自ら推進しているように思えてならない。
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なごり雪と日本のカルチェ・ラタン

2014-03-22 02:06:02 | 日記
   写真は本文とは関係ありません。
 
これでは「寒さ暑さも彼岸まで」ではなくて、「寒さ暑さは彼岸でも」というべきでしょうか。北の方は雪が激しいようですし、岐阜県でも飛騨地方は雪のようです。今年はいつまでも寒いし、雪も多いですね。
 東京の場合、観測史上、これまで一番遅い降雪をみたのは1969年の4月17日だそうですが、実はこの日、私は東京にいたのでした。
 
 当時はまだサラリーマンで居酒屋を始める前でしたが、まあまあ出世をして、東海三県と静岡県の西部、北陸三県を束ねる名古屋事業所の責任者になっていました。

                   
 
 それで、全国8グロックの責任者が毎月一回、当時は東京の八重洲にあった本社での会議に引っぱり出されるのですが、結構厳しい会議で、本社側の高い目標設定を巡っての地方の抵抗といった攻防戦が展開されたりしました。
 
 とはいえ、時代は高度成長期で右肩上がりは当たり前で、私の記憶では、名古屋地区は年々20%ほどの上昇を達成していました。
 で、会議が終わると、今度は社長以下打ち解けて、銀座周辺へ繰り出しての慰労会ということで、「鞭」のあとの「飴」をしゃぶらせてもらったものでした。

                    
 
 それでも飲み足りないと、今度は自前の二次会で場末の酒場へ繰り出し、そして宿へ帰っ て宿泊するという段取りでした。宿泊費は実費ではなく規定で決められていましたから、安いところを確保すればその差額は懐へ入るというか、まあ、それを当 てにして、二次会で飲んでしまっていたわけです。
 
 宿泊はたいてい、御茶ノ水から医科歯科大学の傍らを通って湯島天神の方へ向かうごちゃごちゃしたところの木賃宿で、部屋数も少なく、一階は帳場と台所、二階に2、3部屋といった感じの宿でした。
 半分腰が曲がったようなばあさんが仕切っていて、二階の部屋へ案内するときも、狭い階段を四つん這いになって上がってゆくそのばあさんのお尻を拝みながら寝床へ辿り着くのでした。

                    
 
 いつもそこへ泊まるのは、割合、気が合って一緒に飲んでいた九州の所長と新潟の所長、それに私の三人で、もちろん三人で一部屋でしたから、驚くほど安い料金で泊まることができたのでした。
 
 朝食は下へ降りて、ちゃぶ台を囲んでばあさんの給仕で頂くのですが、そのばあさんがけっこう世話好きの江戸っ子気質で、「お前さん方、遊ぶのは結構だけ ど、変なのにつかまっちゃぁいけないよ」と、以前、泊まった客で、靴まで盗られて帰ってきたひとの話だとか、白塗りの狐の話など朝っぱらから結構面白い話 を聞かせてくれるのでした。

                    

 4月の雪を経験したのも、その宿を出た時でした。御茶ノ水までの道すがら、新潟の所長が、「今頃は新潟だって雪などは降らないぜ」といったのを覚えています。
 結構何度も利用したのですが、今となってはその宿の名前も忘れましたし、場所ももちろんわかりません。
 
 この宿にまつわるもう一つの思い出があります。前年の68年、何月だったかは覚えていませんが、宿を出た私は、新潟や九州の所長に、「ちょっと寄ってゆくところがあるから」と別れ、御茶ノ水駅の反対側、日大の駿河台キャンパスに行ったことがあります。
 日大闘争の最盛期で、連日、機動隊や右翼学生との衝突が繰り返されていた頃で、周辺にはツンと鼻を突く催涙ガスの残臭が漂い、日本のカルチェ・ラタンといわれた一帯にはただならぬ雰囲気が漂っていました。

                    
 
 遅い春、東京の雪、などと聞くと、それに、イルカの「なごり雪」を聞いたりすると、これらのことが走馬灯のように蘇ってくるのです。
 
 東京へはもうずいぶん行っていません。
 オリンピックブームで荒れつくす前に、一度ふらりと行ってみたいと思っています。
 誰か相手をしてくれるひといます?
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「お釣りの人生」について考える

2014-03-19 02:05:23 | 日記
 高齢者社会といわれます。
 確かに人口構成はそうなってきています。古希をとっくに過ぎ、今や後期高齢者である私も含めてです。

          

 若い人たちから見たら私のような老人はどう見えるのでしょうね。50年前に、私が今の私ぐらいの人たちをどう観ていたのかを思い起こせば何らかの参考になるのですが、それがよく思い出せないのです。 
 これはおそらく、私の年齢のせいばかりではなく、いま50代の人が20代の折に50代の人をどう思っていたのかもよく思い出せないのではないでしょうか。 

 ここには観察していた自分と、今や観察対象である自分との間の差異と同一の入り組んだ関係があるようです。

          
           
 この老齢者社会にあって高負担を強いられる若い人たちにとっては私たちはお邪魔虫で「お釣り」で生きているような人種なのかもしれませんね。一方、高齢者自身が「私はもうお釣りで生きていますから」といったりする場合もあります。

 若い人たちの「お釣り談義」はすでに終わったひとたちという見方を含むものでありそれはそれであり得るでしょう。
 
 しかし高齢者自身の「お釣り談義」はいささか違った響きを含むように思います。というのは、ひとの生は何らかの有意義なことをなすためのものであり、自 分はもはやそれをなし終えた、つまり、人間の本来性をすでに成就し、いまはその余剰(=お釣り)を生きているという不遜さを秘めているようにも思えるから です。

          

 しかし、ここでいわれている「有意義なこと」「本来なすべきこと」というのは、それが労働であれ、学問であれ、たかだか現業への参加でしかなかったわけです。ようするにそれは、その人が「何」であったか示しているにしか過ぎません。
 ですから、それを「本来」として、それ以外を「お釣り」とすることには抵抗があるのです。
 むしろ、私たちがそうした機能としての、あるいは交換可能としての「何」からは自由になり、「誰」として登場するのはその余剰(=お釣り)の方にこそあるのではないでしょうか。
 もちろんそれは、現業を終えてからというより、現業に従事している折にも要請されていたことなのでしょう。

 そんなわけで、そのお釣りを軽く見るのではなく、あらゆる分野で、その価格が不当と思われるときには執拗にお釣りを請求したり、またある時には「釣りは要らないよ。とっときな」といなせにいい切ることが必要なのではと思ったりするのです。

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水ぬるみ、亀が鳴く春がきた!

2014-03-15 14:00:11 | 日記
 今年の冬は長かったと思います。過去形で書きましたが、もういい加減かんべんしてほしいという願望と、にもかかわらずやはり春は確実にやってきているという兆しがあるからです。

 私の住まいは都市の郊外で、割合自然が残されてはいますが、まさに「残された」というように人工的な自然(言語矛盾ですがそうなのです)でしか ありません。そんな中、植物たちは一見、その種固有の太古からの営みを繰り返している様に見えるのですが、それとてもちろん、時代とともにその生態系に大 きな変化を被っていることはいうまでもありません。

          
           整備された清水川 アユも登ってくる

 しかし、それ以上に著しい変化は動物たちのそれでしょうね。

 私がここに住み始めて約半世紀になりますが、その頃は、今はバス通りになっている道路をイタチが横切ったりしていました。近所の草むらでは、キジがヒナたちを連れて闊歩していました。

 うちの敷地内にもしばしば、シマヘビがやって来ました。

           

 夏の夜には近くの小川でウシガエルがバスの音域を奏で、隣の田からはトノサマガエルのバリトンが聞こえたものです。今はもうその両者ともにいません。

 とくにトノサマガエルは、雨の日など隣の田から遊びに出て、私のうちの玄関先で飛び跳ねていました。

 今も、田に水が張られるとカエルが合唱するのですが、低音部を欠いたそれには全く迫力がありません。本来ポリフォニックなはずなのに、単調なモノフォニーを聴いているような感じなのです。

 しかし、もっと激減したのが魚類です。

 もう何度も書きましたが、このへんの灌漑用水はかつては自然の小川に依存していました。しかし今は、随所に掘られた大きな揚水ポンプに依存して います。その水を効率よく送るために各種の水路はすべてU字溝に替えられました。しかもそれらは、もはや自然の河川とは切断されていますから、田に水を必 要とする以外の時期は完全に干上がっています。川=魚類の生息場所ではもはやないわけです。

 私はこれらを非難しようとしてこれを書いているわけではありません。これらはまさに、私を含んだ近代人の欲望の結果として現れたものなのです。曰く、近代化、合理化、効率性などなどの要請への応答で、その意味ではすべての人はギルティなのです。

                      
             足元にはマーガレットの花も

 そんな中、奇跡的に蘇った川があります。
 それは岐阜駅のすぐ南を流れる清水川です。
 文字通り自噴もあった清流で、子供の頃、この近くに住んでいた私は、ズボンを濡らし、母に叱られながらも、タモを持って川に入り、小魚たちを追っかけ回したものです。
 それが高度成長期の環境汚染で、垂れ流しの淀んだ流れに成り果て、魚類も激減しました。

 それが蘇ったのが岐阜駅の改築に伴う周辺の環境整備によってでした。
 清水川の環境整備の監修をしたのは後藤宮子さんでした。
 この方は、私の高校時代の生物の先生で、私はこの方の授業から多くのものを学びました。
 後藤先生は、長良川の中流域で、いわゆる「登り落ち漁」で捕らえた魚を毎日観察し、時代とともに河川環境が変化するのを如実に記述し続けました。
 その膨大な研究資料は、今は京大のしかるべき研究室に収められています。

                     
         陽光を受ける木製ベンチ 日向ぼっこにはまだ寒い?

 その研究はまた、長良川河口堰がこの川にもたらした生態系への悪影響を明らかに示していて、後藤先生はそのデータを元に河口堰のもたらした弊害を主張し続けました。
 近年まで、先生とは付かず離れずで連絡がありましたが、今は先生の老化の影響もあって途絶えています。
 さて、その先生が監修をして整備した清水川ですが、見事に蘇りました。

 水はその名の通りあくまでも清く、その幅わずか数メートルなのですが、フナやハヤはもちろん、夏にはアユが登ってくるのです。
 私は何度もそれを目撃しています。というか、その近くを通りかかると、必ず川を覗きこむのが習性となってるのです。
 昨日も所用の帰り、そこを覗いてきました。

 時期的にアユはいませんが、それでもハヤたちが楽しげに群れていました。
 「水ぬるむ」というのはありきたりですが、俳句の世界では亀を鳴かせてしまうのですね。「亀鳴く」は春の季語だそうです。
 亀はどんな声で泣くのでしょう。多分、それは高(甲)音ではないでしょうか。

 ということで、春の兆しを味わってきました。

          

 帰宅すると、うちの敷地と道路の間に何やら黄色いものが・・・。
 やや小ぶりなタンポポの花でした。
 こんなところに咲いたら道行く人に踏まれるぞと思ったのですが、わざわざ移植するほどの物好きでもありません。それにタンポポは踏まれたぐらいではポシャラないほどの生命力があるのです。

 昨秋苦労して植えたラッパ水仙の蕾が少し膨らんできました。
 何十年も前、交通事故死した飼い犬を埋葬した上に植えた桜桃の花もいつの間にか五分咲きぐらいになってきました。

          

 私自身は人生の晩秋を迎えていますが、やはり春は少し華やぐのです。
 図書館で本を借りてきました。
 アントニオ・ネグリに少し向き合ってみようと思います。
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大西巨人氏と原子力発電について

2014-03-14 03:39:55 | 日記
 大西巨人氏が亡くなりました。
 97歳というから大往生といっていいでしょう。
 明日あたりから、新聞などのメデュイアでは氏の追悼記事が種々掲載されるでしょうね。

 氏については、さしていうべきことはもちませんが、一昨年の一月、同人誌の先達から、大西氏が書いた短い文章が送られてきて、どう思うと感想を求められたことがありました。
 それに関して私は、当時、原発に賛成していた吉本隆明氏と絡めて批判的な文章をブログに載せたことがあります(思えば二人とも故人になりましたね)。
 それについては後で紹介するとして、その折に触れた大西氏の文章を再録してみようと思います。


        


   原子力発電に思うこと       大西巨人

 このたびの東日本大震災で、結果として、私の知人たちがおおむね無
事であったことは、ひとまず喜ばしい現象であった。それに引きつづき
福島第一原発における重大な事故が発生しており、原子力発電の是非が
論じられているけれども、これについてはなお慎重な論議が必要である
と思う。
 これまで私は、原子力発電に反対するものであったが、このたびの天
変を経験することによって、賛成の立場に転じた。即ち現在の私は、た
とえば吉本隆明が従来原子力発電に賛成であったのと同じく――あるい
はより強くーー原子力発電に賛意を抱いているのである。
 福島第一発電の異変は、地震及び津波という天災によって招来せられ
た。仮にその関係が実は逆であり、今回の天災が原子力発電の結果とし
て惹き起こされものであることが証明せられたとするならば、私の反対
の考えはなお一層強まるであろう。
 原子力発電が人類にもたらす災厄は、いっそ不可避的な結実である。
その現実的な発生を目の当たりにしない限りは、人類は原子力発電の実
相を知りえなかったであろう。人類は、原発事故という不可避的な事態
を経ることによって、新たなる次元へと進み得るかもしれぬと私は考え
る。
 言うまでもなく、それは多くの人々にとって現象的・物理的には極め
て悲惨な状況となるであろう。しかしながら、その望ましからぬ未来の
ありようもまた、人類にとって必然の一局面たらざるを得ないと私は考
えるのである。
                      (以上全文)


        


 この出典は雑誌『メタポゾン』2011夏号241ページで、その先達から抜き刷りで送ってもらったものに依りました。                   
 もともとは大手の文芸誌のために書かれたもののようですが、短すぎて没になったようです。内容絡みでの没ではないようです。

 人類がここまで来た以上、とことんゆくところまでといったやや斜に構えたシニカルな発想とも見受けられます。とりわけ、原発事故までは反対であったのが、その事故後、賛成に転じたというあたりが、そして後半の、「その望ましからぬ未来のありようもまた、人類にとって必然の一局面たらざるを得ない」のかどうかあたりが鍵になりそうです。

 今回はこれ以上は書きませんが、当時の私が書いたそれへの批判的見解は以下をご参照下さい。

 「人類」という虚構 吉本・大西氏の原発容認論を巡って
 http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20120121

 なにはともあれ、氏の文学上の業績をたたえ、その死を悼みたいと思います。     
合掌

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大西巨人氏と原子力発電について

2014-03-13 15:20:41 | よしなしごと
 大西巨人氏が亡くなりました。
 97歳というから大往生といっていいでしょう。
 明日あたりから、新聞などのメデュイアでは氏の追悼記事が種々掲載されるでしょうね。

 氏については、さしていうべきことはもちませんが、一昨年の一月、同人誌の先達から、大西氏が書いた短い文章が送られてきて、どう思うと感想を求められたことがありました。
 それに関して私は、当時、原発に賛成していた吉本隆明氏と絡めて批判的な文章をブログに載せたことがあります(思えば二人とも故人になりましたね)。
 それについては後で紹介するとして、その折に触れた大西氏の文章を再録してみようと思います。

           

   原子力発電に思うこと       大西巨人

 このたびの東日本大震災で、結果として、私の知人たちがおおむね無
事であったことは、ひとまず喜ばしい現象であった。それに引きつづき
福島第一原発における重大な事故が発生しており、原子力発電の是非が
論じられているけれども、これについてはなお慎重な論議が必要である
と思う。
 これまで私は、原子力発電に反対するものであったが、このたびの天
変を経験することによって、賛成の立場に転じた。即ち現在の私は、た
とえば吉本隆明が従来原子力発電に賛成であったのと同じく――あるい
はより強くーー原子力発電に賛意を抱いているのである。
 福島第一発電の異変は、地震及び津波という天災によって招来せられ
た。仮にその関係が実は逆であり、今回の天災が原子力発電の結果とし
て惹き起こされものであることが証明せられたとするならば、私の反対
の考えはなお一層強まるであろう。
 原子力発電が人類にもたらす災厄は、いっそ不可避的な結実である。
その現実的な発生を目の当たりにしない限りは、人類は原子力発電の実
相を知りえなかったであろう。人類は、原発事故という不可避的な事態
を経ることによって、新たなる次元へと進み得るかもしれぬと私は考え
る。
 言うまでもなく、それは多くの人々にとって現象的・物理的には極め
て悲惨な状況となるであろう。しかしながら、その望ましからぬ未来の
ありようもまた、人類にとって必然の一局面たらざるを得ないと私は考
えるのである。
                      (以上全文)


           

 この出典は雑誌『メタポゾン』2011夏号241ページで、その先達から抜き刷りで送ってもらったものに依りました。                   
 もともとは大手の文芸誌のために書かれたもののようですが、短すぎて没になったようです。内容絡みでの没ではないようです。

 人類がここまで来た以上、とことんゆくところまでといったやや斜に構えたシニカルな発想とも見受けられます。とりわけ、原発事故までは反対であったのが、その事故後、賛成に転じたというあたりが、そして後半の、「その望ましからぬ未来のありようもまた、人類にとって必然の一局面たらざるを得ない」のかどうかあたりが鍵になりそうです。

 今回はこれ以上は書きませんが、当時の私が書いたそれへの批判的見解は以下をご参照下さい。

 「人類」という虚構 吉本・大西氏の原発容認論を巡って
 http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20120121

 なにはともあれ、氏の文学上の業績をたたえ、その死を悼みたいと思います。   合掌




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映画のはしごと旧友との集い

2014-03-11 03:02:27 | 映画評論
 久々に映画のはしごをしました。
 そんなことはあまりしないほうがいいのだろうと思います。一本一本のイメージが混濁するからです。
 しかし、何年か前、年間70本以上(すべて映画館で)を観ていた頃は一日に3本を観たこともあります。そのせいか、その年のキネ旬のベストテンのうち8本ぐらいはちゃんと観ていました。
 それでも上には上があるもので、私がかつて知っていた映画青年(今は故人)は、年間200本を観ていたといいます。

 私がはしごをする理由は、私の住まいでは映画館が激減し、名古屋まで出なければこれという映画を観ることができないことにもあります。自宅から名古屋の映画館への往復の交通費は2,000円弱ですから、シニア料金の映画代よりもはるかに高いのです。
 しかし、それでもここしばらくははしごは慎んでいました。それだけの体力もなくなってきたことにもよります。

           

 今回は、夕方から旧知の友人たちと名古屋で会う機会があり、その前に映画をと思ったのですが、私がマークした映画の終了とその集まりの間に二時間余の間があり、よしっ、ならばもう一本となった次第です。
 たとえそれがどんな映画でも、暗闇の中の大きなスクリーンで観る映像は、TVの画面で観るそれをはるかに上回る快楽です。

 奇しくも2本ともに、もはやそんなに若くない女性の生き様を描いたものでした。
 私にとって女性はいつまで経っても謎です。
 もちろん、映画を見たらその謎が解けるなどとは思っていませんが、さまざまな生き様を観ることはそれ自身、十分興味を満たすものです。

 でその映画ですが、ネタバレにならない程度にさらっと書いておきます。

           
 
■『グロリアの青春』
 2013年のチリの映画です。
 最初は主人公のグロリアになかなか寄り添えなかったのですが、今は何かのためにあるのではなく、まさに今を生きることが大切なのだという彼女の「生きる=活きる」という確信のようなものに次第に惹きこまれてゆきました。
 しかし、そうした彼女であればこそ、現実の「リアリズム」からの抵抗を余儀なくされます。そうした失意のなかで痛烈なしっぺ返しをしながらも、なおかつ晴れない状態から立ち直ってゆくラストシーン、まさに彼女のために作られたような「グロリア」の曲に乗って全身で反応しながら踊る彼女の晴れやかな表情に、「自分を生きる」ことへの希望を見出したのでした。

           
 
 なお、この映画はベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作品で、主演のパウリーナ・ガルシアは主演女優賞をとっています。
 この女優さん、眼の表情で演技する人が多い中、口の表情がとても豊かです。とくに、半開きにした口はとても魅力的でした。

■『はじまりは5つ星ホテルから』
 2013年のイタリア映画ですが、これは、5つ星ホテルに身分を隠して宿泊し、細かな点をもチェックしてゆく秘密捜査員の女性の物語です。
 そんなホテルなど一生縁がないのですから、それらが拝めるだけでも眼の至福ですし、おまけに、それらを極秘にチェックするとうのも面白そうだと思って観ていました。

           
 
 しかし、それらの外面の華やかさにかかわらず、次第に主人公の存在そのものが前面に出てきます。まさに「はじまりは5つ星ホテルから」なのですが、それが次第に主人公イレーネに惹き込まれてゆくのです。
 とりわけ、同宿したホテルでのジェンダー学者との出会いと彼女の急逝を契機に彼女のなかで何かにスイッチが入ります。そこには彼女なりの転回があったようなのです。
 これは予期した以上の佳作でした。マルゲリータ・ブイの演技も光っていました。

           

 といったようなわけで、映画のはしごもまんざら捨てたものではないようです。
 映画の後は旧知の友人たちとの集まりでした。
 世界を駆けまわっている写真家のN氏を迎えて、名古屋の知る人ぞ知る出版社・風媒社のR編集長、それにもう30年近い前から知り合いの図書館学の権威M氏、それに私の4人が、名古屋駅西口のカタルーニャ・バル「カラ カルメン」に集いました。
 このお店、料理もワインも美味しくて、とてもいい時間を過ごすことが出来ました。
 新しい恋人ができたら連れてゆきたいような店です。
 やはり、もつべきは良き友と旨い料理、そして美酒ですね。
 あ、そうそう、いい映画を観たあとだけに一層それが好ましかったことを書き添えねばならないでしょう。


コメント (2)
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スターリンの亡霊と日本国憲法

2014-03-08 01:44:50 | 社会評論
 憲法論議がかしましくなりつつある折から、「おらは死んじまっただ」クラスの大新説にお目にかかることとなりました。
 なんといっても、「憲法自体が憲法違反だ」ということですから、私ども単純な頭脳では計り知れない深遠な摂理が秘められているようなのです。

 話は少しさかのぼりますが、2月26日、参議院の憲法審査会というものが開かれました。この冒頭で、自民党の副幹事長(あの石破さんとこのサブです)の赤池誠章さんがその冒頭でおっしゃったのが上のお話なのです。
 ですから、憲法を審査した結果、憲法違反であったということになります。

 ではこの場合の審査の基準はなんでしょうか。「憲法違反」というわけですから、憲法が憲法を審査したわけですね。しかし、こんなことが可能なのでしょうか。まるで、ショパンの「子犬のワルツ」のように、自分で自分のしっぽを追いかけるような話ですね。

 この場合、憲法を審査したのは実は憲法自身ではなく、赤池さんのオツムの中の基準がそういわしめたと考えるほうが自然ですね。
 この赤池さんという方、先にいいましたように、今でこそ自民党の副幹事長におさまっていらっしゃいますが、その経歴を拝見すると、新党さきがけ、新生党、新進党、民主党を渡り歩いた経歴が示しますように、とても幅広く、見識豊かな方だと想像されます。

                      
 ですから、「憲法は憲法違反だ」という、そこいら近所の並の憲法学者もでんぐりかえって悶絶するような新しいフレーズを「発見」なさるのですね。
 しかし、いかに俗論を超越したかに見える赤池さんでも、根拠なしにそんなことを仰るわけではありません。

 赤池さんはその根拠を三つ上げていらっしゃいます。
 その第一は、この憲法は、「米国への属国化、保護国化」によるものだとおっしゃいます。いわゆる、「押し付け憲法」のバリエーションでしょうが、「属国化」などの言葉が自民党の副幹事長から出るということは、やはり赤池さんの新しさかもしれません。

 その第二は、戦後日本が戦争のない新たな国を志向したことが社会契約説によるフィクションであるといわれます。赤池さんの言葉をそのまま紹介します。
 「人工国家、米国流の社会契約説であります。敗戦後の日本国民が契約によって、新しい国家をつくったフィクションに基づいています。」

 これもまた、赤池さん流の新しい視点ですね。
 というのは、ホッブスやロック、ルソーに戻るまでもなく、近代国家の立憲主義は多かれ少なかれ、この「社会契約」的な契機によって成立しているからです。
 ですから、その「社会契約」的な理念を否定するとしたら、「朕は法なり」という絶対王制に戻る他はないのです。

 赤池さんの独創性は、第三の理由に至って満開となります。そのおことばをそのまま掲載しましょう。
 「第三は、旧ソ連の1936年スターリン憲法に影響されており、共産主義が紛れ込んでおります。第24条の家族生活における個人の尊重や、両性の平等、27 条の勤労の権利および義務などは、その条項にあたるといわれております。社会主義者や共産主義者が護憲になる理由がここにあるわけです。」

 これはまた新しい展開ですね。
 日本国憲法は、アメリカからだけではなく、ソ連からも押し付けられていたのですね。
 それでは、スターリン憲法による影響がどのようなものかを、赤池さんが具体的にあげている日本国憲法の条文から見てみましょう。

           

 まずは第24条です。ここにはこう書かれています。

 第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。


 私はスターリンが嫌いですが、これを読む限り、なかなかいいことをいっているじゃありませんか。これのどこが社会主義的で共産主義的なのか私には理解不能なのです。赤池さんはひょっとして男女平等、あるいは個人の尊厳の強調そのものが「アカ」のたわごとと思っていらっしゃるのでしょうか。

 例に出されたもう一つの条文は以下です。
 第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
 2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
 3 児童は、これを酷使してはならない。


 私にはこれのどこがいけないのか全くわからないのですが、赤池さんはこれも社会主義者や共産主義者のたわごとだとおっしゃいます。
 逆に裏返せば、世にいう「ブラック企業」こそが労使のあるべき姿だとおっしゃっているように聞こえますね。

           
 
 以上が赤池さんの憲法審査の内容ですが、ようするに「属国憲法」であり、社会契約による「フィクション憲法」であり、「スターリン憲法」であるということです。
 しかし、それに大いなる示唆を受けながら私が「審査」したところによれば、「属国化」というのは憲法そのものというより、自民党が選択してきた政治外交姿勢そのものであることは明らかです。
 また、社会契約によるフィクションというならば、そもそも近代国家の憲法というもの自体が、そうした国家イメージのフィクションとして制定されるものなのです。それを否定するならは、絶対王制まで戻るべきことはすでに述べたとおりです。

 スターリン憲法の影響というのはおどろ木ももの木さんしょの木なのですが、それがアメリカの押し付け論とどう整合性をもつのかはともかく、具体的に例示された条文の内容はアカもシロもなく、近代国家としては当然のありようだと思います。
 しかし、赤池さんがわざわざ例におあげになったということは、それ自体が憲法改正の対象になっているということです。
 
 憲法改正というと、9条に絞られがちですが、基本的な人権の面でも大いに問題にされているということです。
 封建制とさほど変わりがなかった帝国憲法の軛から、戦争という甚大な犠牲を経て私たちのものとなった基本的人権そのものが、赤池さんたちからすれば、スターリン的な「アカ」い状況として、抹殺の対象となっているのです。

 なお、ここにはもうひとつの罠が仕掛けられていますね。
 というのは、赤池さんの発言にあるように、憲法改正に反対するのは社会主義者や共産主義者だということがさらりと述べられているのです。
 
 20世紀より21世紀のほうが変な人が多いですね。



コメント (4)
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