六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「悪玉」とのたたかひ と ゆふぐれのうた

2009-10-31 03:17:56 | よしなしごと
 近くの医院へ行った。先般おこなった検査の結果を聞くためだ。
 「だいたいにおいて良いです。ただ一点を除いては」
 と女医さんが告げるのだが、その一点が問題なのだ。
 いわゆる「悪玉コレステロール」が従来より急増しているという。

 何年か前にもそういわれたことがある。
 「悪玉」と言われるくらいだから悪い奴に違いなく、正義の味方たる私がそれを放置するわけになゆかない。したがってこの間、医師の指導に従い、悪玉と熾烈に戦い続けてきた。

 玉子、魚卵、烏賊、甲殻類、貝類、干物、動物性油脂などなどは能う限り慎重に回避してきた。
 おかげで、寿司屋に行っても、白身、マグロの赤身、光りもの以外食うものがない。
 まあ、私の食べることが出来るものは割合低価格で済むのだが、その代わりひと様といった折などは必ず割り勘負けをする。相手が「トロ、海老の踊り、ウニ、イクラ、アワビ!」などと叫んでいるとき、私はしめ鯖などつつきながら、「すみません、カッパ巻きを下さい」といった有様なのだ。

 
            わらしべを焼く匂いも撮したかった

 なぜ私がこれほどの苦行に耐えてきたのかというと、それには深~いわけがある。
 それはコレステロールの増減にとってのもうひとつの大敵、アルコールの摂取を聖域として保持したかったからである。早い話が、酒を続けるために食い物の方の制限を甘受してきたわけだ。

 にもかかわらず今回のような結果が出たと言うことは、敵は私の迂回作戦を打ち破り、ついに聖域たる本丸にとりかかりつつあるということである。
 これは私にとって人生最大級の岐路ともいえるが、問題それ自体は単純である。酒類を慎んで生き長らえるか、それとも命を賭して飲み続けるかである。

    
            柿の紅葉 まだ命が逆らっている

 齢70は越えた。しかし、「見るべきものは見つ」などという取り澄ました心境にはない。奥手の私にはまだ見えぬものがたくさんあるし、あるものが見えるとその周辺がなお見たくなったりするのだ。
 これは生への執着とはいささか異なるとも思っている。ただ長く生きたいと思っているわけではない。
 世界とは「できごと」が生起する場であるとしたら、そうしたできごとを感受出来る間はそれとともにありたいということである。

 「だったら酒やめろよ」という声が聞こえそうである。しかし、酒を嗜むという「できごと」はすでにして私において出来てしまった不可分な現実なのであり、それをやめることは「私というアイディンティティ」を葬ることなのである。それを葬った私はもはや私ではない。

 
        夕日に染まりはじめた芒 「おいでおいで」か「さよなら」か

 え?そんなのは屁理屈だって?
 まあ、そうかも知れない。しかし、酒をやめろという残酷な現実に対し、酒飲みはそれに抗する万余の屁理屈を用意しうるのも事実なのである。

 医院から私の家までは5分とかからない。しかし帰途、散歩をかねていろいろ遠回りをしてしまった。秋の陽はつるべ落としとはよくいったもので、あらぬ事など夢想しながら歩いていたら、自分の影がやたら長くなっているのに気付いた。
 子供の頃の遊びの影踏みというのは、考えてみれば夕方の遊びであったことに今さらのように思い至った。


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君はホウジャクを見たか? 長生きはするもんだぜ!

2009-10-29 14:46:06 | よしなしごと
 もうそろそろだろうと当たりをつけて行ってみた。わざわざ行くほどの粋人ではないので行くといっても郵便局に用事があったついでに立ち寄ったというのが本当のところだ。
 やはり咲いていた。近くの神社の境内にあるツワブキの群生だ。この花の黄色は、「黄色ってこういう色よ」という自己主張があるようでどことなく好ましい印象を持っている。

 

 さっそく携帯のカメラに納める。木陰にあるため、光の射し具合など確かめて撮る。
 カメラを構えていると、なにやらうるさく飛び回っているものがいる。その大きさなどからして、はじめはクマンバチかスズメバチの一種かと思った。

 

 ところがどうも飛び方が違うのである。花から花へと移動するのだが、その移動が実に素早くほとんど目にとまらない。今ここにいたかと思うと、次の瞬間別の花のところにいる。まるで瞬間移動だ。
 しかも、花に止まることはない。空中でヘリコプターのようにホバリングしながら蜜を吸い、とどまることなくツイと次の花に移動する。

               
               これではよく分からない

 よく見ると飛び方だけではない、その形状も蜂類とはかなり違う。胴体や羽の長さ、それに口吻がその体長の倍以上に長いのだ。
 なんとかカメラに収めたいと思った。しかしこれが至難の業なのだ。すでに述べたように花に止まり羽を休めることはなく空中でホバリングをしたまま蜜を吸い、しかもそれもきわめて短時間でツイと次の花に移動してしまうのだ。

 幸い、あまり人をおそれず、私の回りを傍若無人で飛び回っているので、シャッターチャンスはあるはずなのに、私の技量ではその軽やかな飛翔にはまるで付いては行けない。五条の大橋で、牛若丸に翻弄される弁慶のようなものである。

 
           何枚か撮ったうちでこれがまあまあ

 それでもなんとか撮すだけは撮して、帰宅してからネットで調べた。やはり、蜂のところにはそれに該当するものはいない。窮余の策で検索に「口吻が長い」と入れてみた。
 そしたらヒットしたのだ。なんと蜂ではなく蛾の仲間、スズメガ科のホウジャク類の一種だということが分かった。しかし、ホウジャクの仲間もたくさんいて、私の目撃したのがどれかは特定できなかった。

 
      同じくツワブキと戯れているが私が撮ったものではない
               ネットの図鑑から


 しかし面白い虫である。70年以上生き延びてきてはじめてお目にかかった。ネットの昆虫図鑑で見るといっそう面白く、ある種の美しさと造型の謎を秘めたような虫である。
 今日一日は、あいつを見ただけで満たされたように思った(実際にはいろいろ用事をこなし、勉強もしましたよ)。

 

    
             同じくネットの図鑑から
         私の目撃したのはこの上のものに酷似していた


 私が住まう世界は私がまったく知らない世界と併存しながらあるといえる。
 知ってる世界のみで知らない世界を演繹的に導くのは自分と世界を閉ざすことであろう。
 今日のような新たな「できごと」に遭遇すると、この世界への好奇心もあらためてかき立てられようというものだ。

 ところで、私がこの虫を見たおり、スズメバチかクマンバチの仲間かと誤認したのもあながち無理でははなかった。ホウジャクとは漢字で表記すれば、「蜂雀」というのだそうだ。
 しかし、あれが蛾の仲間だとはなぁ・・・。


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せせらぎ街道 命の洗濯旅

2009-10-28 03:49:33 | 写真とおしゃべり
 先般の日曜日(10/25)、前日の曇りと翌日の雨との狭間を縫って、晴れ間の見えた飛騨せせらぎ街道を目指しました。
 この街道は、郡上八幡から明宝や清見を抜けて高山へ至る約70キロの道のりで、途中の西ウレ峠は標高約1,100メートルあります。
 そしてこの峠は、太平洋側と日本海側の分水嶺で、日本海側へは、川上川、宮川、神通川を経由して富山湾に注ぎます。また、太平洋側へは馬瀬川、吉田川、長良川を経由して伊勢湾に注ぎます。
 いささか汚い比喩でいえば、この峠で「立ち小○」をすると、半分は日本海へ、そして半分は太平洋へと至るわけです。どうですか、たかが、「立ち小○」されど「立ち小○」で、なかなか壮大ではありませんか。

    

 で、なぜここへ行ったかといいますと、この辺は紅葉の見所なのです。
 岐阜を発つときには紅葉にはまだ少し早いのではとも思いました。なぜなら、岐阜の市街地では、まだモミジは緑のままですし、公孫樹がやっと葉の周辺が黄色くなり始めたものもあるというぐらいだったからです。

 
              
 しかし、せせらぎ街道を進むにつれて景観は一変しました。まさに紅葉真っ盛りなのです。
 それもそのはず、岐阜の早朝で十数度あった気温が、午前九時ぐらいで峠付近では五度しかないのです。下着にシャツ、ベストに薄手のジャンパーといういでたちの私は、車から出た途端、震え上がってしまいました。写真の何枚かがぶれているのはそのせいです(と自分の未熟を誤魔化す)。

 

 やがて徐々に暖かくなってくるのですが、この昼夜の寒暖差が紅葉を促すとかで、期待以上の美しさでした。モミジなどは、峠の付近では紅葉が終わってもう枯れ始めています。おかげで、くっきりとした紅葉の葉を撮ることは出来ませんでした(と、また誤魔化す)。

 

 この、せせらぎ街道、昔から(四〇年以上前から)よく通っているのです。でも、こんなきれいな紅葉は初めてです。理由は単純です。かつてこの峠を往来した頃は、アマゴや岩魚を求めての渓流釣りのためでした。そしてこれらの渓流魚は、だいたいにおいて九月いっぱいで禁漁になるのです。だからそれ以降というか、この時期にはこちらへ来たことはなかったのです。

 
                 「 ハイ、チーズ」

 紅葉と同時にきれいな渓流にもまみえることが出来ました。今でも岩魚のいそうなポイントは分かります。あの瀬尻に一匹、あの淵には二匹ぐらいいるかな、などと想像します。
 しかしそれももう何十年前のこと。その後の乱獲が祟って、今では車を降りてすっと竿を出せるようなところには、もはや魚影はありません。

    
          この道をどこまでも辿ってみたいような・・・

 昼近くになると、車も人の群も多くなりました。
 やはり人々はこの界隈の景観をよく知っているのでしょう。
 空気も、景色もおいしくて、おまけに野鳥のさえずりがBGMときて、すっかり命の洗濯をしてまいりました。
 



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というわけで、六文錢の旗印です!

2009-10-26 17:49:15 | よしなしごと
 古稀を過ぎてから最初の誕生日です。
 その26日、最近出来たばかりの親族の方にご不幸があり、葬儀に出席いたしました。
 もともと歳老いてからの誕生日であり、加えてそうしたご不幸の日とあって、浮かれるようなわけには行かないのですが、ただひとつだけ皆様にご報告旁々ご披露いたします。

 誕生日にと息子夫妻くれたシャッツです。
 見ていただければ分かりますので、詳しい説明は致しません。

    
                これが前面です

 問題はこれをどこへ着て行くかです。
 いろいろ思い悩んでいます。
 70過ぎてこんなの着て街を歩いていたら逮捕されるかも知れません。
 オフィシャルな会合に着ていったら(例えば、M協会)、除名されるかも知れません。

    
            これが背中側 こっちがどハデ

 さてどうしたものでしょう。
 これを読んでいる女性のみなさん、このシャツを着た爺さんとデイトをしてくれる勇気のある方(慈悲心のある方かな?)はいらっしゃいますか。
 え? 時給はいくらくれるかですって? そんなもん払えません!

    
 
 何はともあれ、面白い物をくれた息子夫妻に感謝。
 (来年は現金でもいいですよ。)


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ものみな熟するときに・・・

2009-10-26 00:08:37 | 花便り&花をめぐって
 私のお気に入りの場所、県立図書館と美術館界隈へ出かけました。
 この前来たときから二週間余りですが、すっかり秋色が濃厚になっていました。
 まだ本格的な紅葉とはいえないのですが、樹木の種類によってはすっかり葉の色を染めていました。

 とりけ顕著なのはそれぞれの木の実で、オヤ、あの木にこんな実がといったものも含めて、あるいは色づき、あるいはたわわに垂れ下がり、「私はここよ」と招いているかのようです。

 その中から二、三を。
 まずは、私がいつも観察している南京ハゼの樹です。
 
 
              これは9月下旬の実です

 
           樹全体の現在の有様 気候に恵まれると
         全部の葉が暗紅色に紅葉するのですが今年はどうか


 
        これは現在の実 果皮が弾けて白い実が覗いている
             これから蝋が採れるらしい


 続いては「ナナメノキ」の実なのですが、どんな花だったのかを覚えていません。来年観察してみるつもりです。
 「ナナメノキ」という割には真っ直ぐな樹です。
 標示板が斜めにかけられていて、これを設置した人のユーモア感覚が偲ばれます。ちなみに他の樹のものはほぼ水平でした。

 
               ナナメノキ全体像

 
            この実 もっと赤くなりそう

 
           標示板のかけ方にユーモアが感じられる

 続いてはおなじみのハナミズキです。これの先月末に比べその実の色が一段と赤くなり、その葉もほどよく紅葉しています。

    
                一ヶ月前の実

 
                 現在の実

 
                樹木全体の紅葉

 やはり真っ赤で、しかしハナミズキのそれより3回りほど大きく、柔らかそうな実を見つけました。サンシュユ(野春桂) 別名ハルコガネバナ、アキサンゴとありましたが、これも花の時の記憶が飛んでいます。来年のお楽しみです。

 
           なんかおいしそうな感じですね

 まだまだ紅葉真っ盛りではありません。肝心のモミジがまだ色付いていません。
 やがてはほかの木々も色付いて晩秋を迎えるでしょう。
 春の花が、結実に先だつプロローグだとしたら、秋の植物の紅葉はひとまずその生命を閉ざし、新たな再生の春を待つエピローグへの招待を含意するかもれません。

 まあ、しかし、これは人間の勝手な言い分や区別立てで、植物は春夏秋冬、いずれの季節においてもおのれの生存を賭けて戦っているのでしょう。
 冬の間、身をこごめて地中に潜む虫たちも、地上の花や茎や葉まですべて枯らして球根や根っこ、種子で過ごす植物たちも決して休憩や準備をしているわけではないように思います。 




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【ミステリー】この消失事件には目撃者がいた!

2009-10-22 17:16:27 | よしなしごと
 齢を重ねると、様々な問題に遭遇いたすものでございます。
 なぜ様々かと申しますと、若いころでしたらほとんど問題ではなかった事柄に躓いたり、あるいは、かつてなら「エイやっ」と決断できたことが出来なくなり、いつまでもグジグジと尾を引いたりするからでございます。

 先般のそれは、ちょうど玄関脇に置いた植木に水をやったいたときでございました。
 前にも一度、拙日記に登場いたました山椒の木の鉢にふと目をやりますと、あきらかに異変が起こっているのに気付いたのでございます。半年ほど前、農協で買ってまいりましたものが巧く根付き、30センチほどの若木に育って参ったのですが、その幹の先端に相当する辺りの葉がきれいになくなっているのでございます。

    
           ホラ、上の方が食われていますね

 う~む、もしやという私の予測は不幸にして的中いたしておりました。近づいてよく見ますと、3センチはあろうかという緑色の虫がすまし顔でそこに陣取っているのでございます。いえ、すまし顔というのは私の単なる想像で、この種の虫の表情を読み取る能力が私にあるというわけではございません。
 おもん見るに、この虫はアゲハ類の蝶の幼虫と思われます。といいますのは、これも拙日記に記したのでございますが、今年は母の死を前後していつになく多くのアゲハや、アオスジアゲハを我が家で目撃いたしたからでございます。
 拙日記にいただいたコメントでは、蝶は命や魂の象徴であるから、今年に限って目撃例が多いというのは、母の死を巡る心理的なものではないかと示唆されたりもしたのでございました。

    
            こんなにきれいに食われました

 さて、ここで私ははたと迷うのでございました。
 問題は、やっと根付いた山椒を救うべくこの愛らしいアゲハの幼虫を駆除するか、あるいはまた、アゲハを歓迎し山椒をその食糧に提供するかのどちらを選択するかでございます。
 いうならば、父・清盛と後白河法皇の対立の狭間で、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と苦悶した平重盛の心境でございます。

 しかし、私の逡巡も長く続くことはございませんでした。蝶は人の命や霊魂の象徴であるという示唆が私の心を強く揺さぶったのでございます。思えば、かの「韃靼海峡」を渡っていった蝶もまた、霊魂に違いないのではございますまいか。
 それに、この山椒の苗木はもともと150円で農協で入手致したものですから、また来年、入手すればいいことにも思いを巡らせたのでございます。このように命に関わる重要な問題に、経済原則が顔を出し、それが判断の決め手になるとは哀しいことではありますが、この際致し方はございません。

 
            根元に近い部分は大丈夫のようです

 さてこの様にして、心穏やかならぬままにひとつの結論を選択いたしたわけですが、それが必ずしも十全と思われなかったせいでしょうか、その夜の眠りは浅いものでございました。
 で、その翌日でございますが、私は所用で出かけており水やりは致しませんでした。
 したがって、その問題と再び向き合ったのは一日置いてからでございました。
 私は、決断の結果を確かめるべく、山椒の鉢植えを丹念に眺め回したのでございました。

      
       動転して写真が撮れず、ネットの図鑑から借りました
         これと同じものでした アゲハの幼虫です

 
 ところがでございます、彼女、ないしは彼の姿はどこにも見あたらないのでございます。近辺に、彼が好む柑橘類の樹木などなく、また俊敏にどこかへ移動する能力も持ち合わせてはいなかったように見受けられただけに、これはまた面妖に思えたのでございます。
 念のため周辺を探索致しましたが、その行方は杳として知れないのでございました。

 可能性としてはふたつの事態が考えられます。
 ひとつは、鳥類などの目にとまってその食用にされ、異なる生命の系列へと連れ去られてしまったということでございます。
 もうひとつの可能性は、朝夕の寒気に促され、私が一日見ない間にサナギに変態し、この周辺で春を待っているかも知れないということでございます。

 幼虫からサナギへの変身は急速に進むらしく、そうなれば褐色に変じて回りの草木に身を隠したそれを、老眼の身をもって識別することはほとんど不可能なのでございます。
 私と致しましては、もちろん、後者の結末を望むに切なるものがございます。年改まって春うららな頃、突如どこかから現れて、私の眼前でその華麗な舞を見せてくれたらどんなにか嬉しいことでございましょう。

 ところで、私が推測でしか申し上げられない事態の一部始終を目撃していた証人がいるのでございます。それは、私が玄関に配した六蛙(迎える)のうちの一匹で、その位置関係からしてすべてを目撃していたに違いないのでございます。
 惜しむらくは、私は彼と情報を交換する共通のコードを持ち合わせていないのでございます。

    
              これが唯一の目撃者です

 まあしかし、一部始終を知ることがいいことばかりではありますまい。私たちがそれに関与しようがしまいが、出来事は起きるのであり、その出来事を事後的に引き受けて生きるというのが私たちの生き様ではありますまいか。
 いえいえ、歳ゆえの諦観や変な悟りのようなものとして申し上げているのではございません。
 むしろ、現実と向き合って生きることのひとつの証だと思うのですがご理解はいただけないかも知れませんね。

 私としてはただひたすらに、アゲハの幼虫にお裾分けした山椒の回復を待つばかりなのでございます。



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瀬見井久君 ご苦労様! 君は偉いっ!

2009-10-20 17:31:22 | ラブレター
 瀬見井久君が12年間つとめた犬山市の教育長を辞任するそうです。
 瀬見井君などと君付けで呼ぶのは、彼が私の学生時代の同級生だからです。
 特別に親しかったわけではありませんが、会えばもちろん挨拶のみならずいろいろ言葉を交わす仲でした。まだ犬山市の教育長になる前、愛知県職員のころには私のやっていた居酒屋にもしばしば来てくれて、私もその席に招かれ歓談したものでした。

 瀬見井君が辞任などというと、しばらく前でしたら、回りの頭の固いどうしようもない連中に責め立てられて、刀折れ、矢尽きたかといったところだったでしょうが、この時点での辞任は、彼の教育への情熱と理念が堂々と認められた結果の凱旋ともいえるものです。

             

 彼を一躍有名にしたのは、文科省が現場の意見(組合だけではないですよ、校長など管理者にも反対が多かったのです)などを無視して一方的に進めた全国学力調査への参加を、唯一見合わせてきた自治体の教育長だったことです。
 今では明らかですが、この「調査」と名付けられたテストは、自治体別、学校別の学力を競わせる一種のレースで、学校や地方によっては、点数を底上げしたり、成績の悪い子を当日無理矢理休ませるなど、ただただ、教育現場を荒廃させるものにすぎませんでした。

 はたせるかな、調査の結果は、成績とその都道府県や自治体の一戸当たりの所得とがほぼ比例することを示し、ようするに、教育投資というゼニ・カネの問題に還元されるというものでした。そして敢えていうならば、そんなことは毎年百億近い金をかけて全国一斉にテストをしなくとも、ちょっと想像力を働かすならば誰にでも分かることなのです。
 そこで現れた結果が現場を締め付け、「学力調査に向けた教育」という本末転倒の結果すら生み出し、教育現場をいっそう混乱させるものでした。

 

 瀬見井君もちろんそれらを予見して参加しなかったのですが、彼の功績はそうしたマスコミが取り上げやすいセンセーショナルな事柄にあったばかりではなく、もっと地味な、本当に子供に向き合った教育の場を築き上げたことにあったのです。
 そのひとつは、少人数学級の実現でした。一クラス30人ほどをめどにそれらは進められ、学童と教師の触れ合いの機会を多くしました。
 また、国の学習指導要綱では不十分な点を副教本の作成で補うなどの試みが実施されました。
 さらには、一方的な暗記授業から脱却するために、「自ら学ぶ力」を付ける学習や、子供たちが教え合う「学び合い」の授業を押し進めてきました。

 そうした、マスコミではほとんど取り上げられなかった地味な努力があったればこそ、教育現場に不正や荒廃をもたらす「学力調査」という名のドッグ・レースへの参加を拒否したのでした。
 しかしそれは、子供たちの方ではなく県教委や文科省の顔色ばかり窺う連中には忌避され、彼も苦戦を強いられてきました。
 ネットなどでも内実を知らない連中の、無責任な悪口雑言が飛び交ったりもしました。
 しかし、それも過去のことです。

 

 冒頭に、その辞任を「彼の教育への情熱と理念が堂々と認められた結果の凱旋」と書きました。
 そうなのです。
 彼の真摯な主張がついに認められて、文科省も全国一斉のそれを「無駄な事業投資」と認定し、来年度からの学力調査を、その本来の目的に即して「抽出調査」にすることを内定しました。
 これにより、上に述べた過当競争や、それが引き起こす不正やインチキが防げ、その上毎年、数十億円の無駄な出費が削減されるのです。

 瀬見井君の努力の結果は、今、上のような形で全国規模で結実しようとしています。
 しかし、本当の彼の成果は、目隠しをされた上でむち打たれて駆け出すような無機的な教育ではなく、自分たちで学ぶ力を付けるという犬山方式の教育で育った子供たちの中にこそ実を結ぶのではないかと思います。

 瀬見井君、本当に御苦労さんでした。
 しばらくはゆっくりお休み下さい。
 


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【ショック】すり減ってしまった! 縮んでしまった!

2009-10-19 17:39:47 | よしなしごと
 病院へ行きました。いつもは診察前に体重を量ります。
 しかし、久々に身長も測ることになりました。
 そんなもの改めて測らなくとも、ちゃんと記憶しているのにと思ったわけです。
 体重の増減はもちろんありますが、身長にはそんなものはないはずです。

 しかしです、しかし、その計測結果は私の記憶と違っていたのです。
 しかも3センチも!もちろんダウンです!
 私の記憶が違っているわけではありません。
 身長の伸びが止まって以来、何十年にわたり何度も測ってきて、いつもその結果だったのですから。

 
 
 私の身長は、小学生時代は小さかったようですが、中学、高校ではクラスで五番目以内を維持していました。高校へ入学した折りは、バスケット部から勧誘をされ、当時、岐阜の市民センターで見たハーレム・グローブトロッターズのトリッキーなプレイに魅せられた私は、実際にバスケット部に入部したのです。
 ただし、自分にスポーツの才能はないと悟って一年で辞めたのですが・・・。
 
 後年、大学の体育の授業でバスケットを選択し、実技試験でフリースローが五発五中、ランニングスローも五発五中で「優」をもらいました(もちろん、マグレです)。それを見ていたバスケット部の人から、また勧誘を受けたのですが今度は入りませんでした。
 運動は運動でも、別の運動にかまけていたことは知る人ぞ知るです。
 もっともこれらの話は、半世紀以上前のことで、数年前に読んだ新聞記事では、当時の高校生の平均身長と、その折りの私の身長とがほぼ同じでした。

 

 ところで、以前に身長を測ったのは何年ぐらい前か思い起こしてみました。
 多分、三年ぐらい前です。
 ということは、一年間に一センチの割合で減ったことになります。
 もしそうなら、あと一〇年生きたらさらに一〇センチ減ることになります。
 そして、あと百何十年ほど生きたら、私はすり減ってなくなってしまうわけです。

 年を経ると身長が減ることを知らなかったわけではありません。
 父や母の晩年には、この人たちはもっと大きかったはずなのにと思ったものです。
 そして、それは心理的なものではなく、実際に小さくなっていることにも気付いていたはずです。
 にもかかわらず、うかつにもそれが自分にも生じることだということに思いを致さなかったのです。

 さて、身長が減るということは、実際にはどんな結果をもたらすのでしょうか。
 若い連中に見上げてものを言わなければならなかったりしますね。
 それと、自分の視線が今までより下がることによって世界が違って見えるかも知れませんね。
 キリンの視野とミミズの視野は、そしてそれらの世界像は違うはずです。
 ヒールの高い靴を履いた方がいいでしょうか?
 昨年、芥川賞をとった川上未映子さんは、いつも高いヒールの靴を履くといっていました。



 あ、また話が逸れました。
 ちょっと心配なのは、私を前から見知っている人と会った折り、私が挨拶をしても無視されるのではないかということです。
 私の実像をご存じのみなさん、どうか私の身長が一年に一センチずつ減っていることを念頭に置いていただいて、あなたの傍らを通りかかったあまり身長のない男が挨拶など致しました折りにも、物貰いやたかりの類と間違えて交番に突き出したりしないようにお願い致します。

 あまり歩き回ると減るのが早いのかなあ。
 いや、やはり脊椎の問題だろうなあ。
 一昔前に流行ったぶら下がり健康器って今もあるのかなあ。
 いずれにしても這いずり回って生きてきたようなものだから、まあ、いいかっ。

 写真は気まぐれに載せたもので本文とはまったく関係ありません。




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金木犀が「淫ら」ということではありません。

2009-10-17 15:43:47 | 花便り&花をめぐって
 昨日のことです。
 久々に母の亡くなった病院の方に足を運びました。といっても近くに所用があり、自転車で出かけたのですが。
 帰途、秋の陽はすっかり西に傾き、夕映えの中に風景がくっきりと輝いていました。
 ちゃんとハサ木にかけられた稲の向こうに立派な家が輝いてました。その辺りまで来るとむせかるような金木犀の匂いが立ちこめています。その発信元を探すと、その立派な家のすぐ左にその木はありました。

 

 

 こんもりとまあるく刈り込まれていて、その回りにびっしりと花を付けています。
 もう少し近寄ってみましょう。え?もっとですか?巧く写るかなぁ。

 

 嫌いではないのですが金木犀の匂いはどこか淫らな感じがします。もちろん、金木犀そのものにそうした趣があるのではなく、そう感じてしまう私の淫らさの反映なのでしょうが・・・。
 ちょっと匂いが強すぎるからかも知れません。

        

 花の色や匂いは、いずれにしてもその生殖に関連するものですから、そのアピールが強烈すぎるものに多分、私が圧倒されるのでしょう。
 匂いではなく視覚でいったら桜や百合がそれに相当するでしょうか。
 
 古来より桜は魔性を招くとされていますが、その中には美しさを通り越したある種の淫らさもあるようです。近年では、林あまりさんが作詞をした「夜桜お七」などもそうです。
 百合については時実新子さんの次のような川柳もあります。

    百合みだら五つひらいてみなみだら

 あ、またまた脱線王子(?)の本領発揮で話が逸れました。
 まあ、様々な情感がそうであるように、とりわけ淫らなどという情感はその相手が発するというよりそれを受け止める側のものであってみれば、やはり淫らなのは私の方なんでしょうね。

 

 写真を撮り終えて、自転車でその場を遠ざかるにつれ、その匂いは次第に薄れ、刈ったばかりの稲藁の匂いが辺りを支配するようになりました。
 振り返ると、秋の雲が少し夕日に染まりはじめていました。

<おまけの笑い話>
 お母さんと歩いていた女の子、香水を付けた女性とすれ違いざま、
 「お母さん、この人、トイレの匂いがする」。

 お分かりですね。トイレの防臭剤は金木犀に類似したものが多いのです。


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お米食べてますか? 収穫の時期に・・・。

2009-10-16 04:22:58 | よしなしごと
 この間、三重県の松阪へ行ったのですが、桑名や四日市以南の田圃はすでに稲刈りが済んでいました。
 さらに南へ行くと、刈った稲株からもう新芽が出ていたりして、この地区の稲刈りの早さを思い知らされました。

 
         私の地区ではまだらに田圃があります。
 
 ところで、我が家の近辺ですが、今なお、たわわに実ったままです。
 しかし、先般の連休で一部の農家が稲刈りをしました。
 次の土日には、ほとんどの田圃で稲刈りが進むと思われます。
 私の住んでいる地区の農家はほとんど兼業で、田植えや稲刈りは休日に限定されるのです。

 
        田植えをしたひと株の稲はこれだけ株を増やします。

 今のコンバインって凄いですね。一反(300㎡)や二反の収穫はあっという間です。
 しかし、「大男、総身に知恵が・・・」で刈り取れない死角があります。
 そこは人力で、昔ながらの鎌での稲刈りです。
 これがまた懐かしいのです。

 
             これぞ黄金色の稲穂です。

 私が小学生のころ、疎開先の母の実家が農家だったこともあり、数年間、当時の農家の生活に馴染みました。
 田植えや稲刈りは一家総出の事業でした。
 もちろん機械などありませんから全部手作業です。
 そして、田植えや稲刈りのいわゆる「農繁期」は学校も休みでした。

 
           コンバインの威力は大したものです

 田植えは私たち子供もしましたが、稲刈りは鎌という刃物を使うので子供はしませんでした。ザクッと力を入れて株から切る仕事ですから、ひとつ間違うと自分の足を切ってしまうのです。

 こうした経験をしたおかげで米への思い入れは結構あります。
 今でも米を捨てることが出来ません。また、こぼしたご飯粒もちゃんと拾って食べます。
 生きていれば130歳ぐらいで、一生農家の主婦で過ごした祖母が、「一粒の米でも出来るまでに一年かかるのだ」といった言葉が今でも忘れられないのです。

 
       コンバインの死角はやはり鎌による伝統の手作業で 
 
 米は、天皇家をはじめ、私ども下々にも及ぶ日本の歴史的文化です。それが保たれるか、衰退するか、それはこれからの日本人が選択することでしょう。
 私としては、みんなで米を作るという専業農家の、あのプリミティヴな思い出を大切にし、お米という淡白でありながら微妙な差異を持った「ご飯」を味わい続けたいのです。




コメント (6)
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