六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

探偵と蝶と桶屋と夜店のくじ引き、そして私たちの未来予測

2013-07-31 17:36:50 | よしなしごと
 頭がいいということは物事の因果性が判るというか見抜けるということのようです。数学の出来るひとは予め定められた公理や定理を記憶し、それからの演繹や帰納によってこれしかありえないという回答を見出します。
 シャーロック・ホームズや明智探偵は、かすかな痕跡を手がかりにそれがそうあることの必然性、あるいは因果性のようなものを突き止め、まるでジグソーパズルを完成させるかのように事件の全体像を明らかにします。
 ときとしては、犯人がいつどこへ現れるかの未来予測までやってのけ、よせばいいのにその犯人は探偵の予測したとおりにノコノコと現れ、かくして捕縛されるところとなるのです。

        

 しかしながら、世の中のことや歴史についていえば、どんな頭のいい人にとってもそんなふうにクルリンパッと事態の全体性が明らかになったり、ましてや未来予測などはできないように思います。

 株などをやっている人で、自分は科学的な法則を知っていて、必要なデータさえあればちゃんと稼いでみせると豪語する人がいますがそれはウソでしょうね。人びとの思惑によって動くようないわばゲームとしての性格のものは、そこにある種の法則性のようなものを見いだせるとしても、それはあくまでも事後的なものであって、事前にはそれらはただ経験の蓄積となっているだけでしょう。加えて「必要なデータ」という点では、世界中のあらゆる出来事が複雑にこんがらかっている今日ではそれらを揃えることも、そしてそれらのうちどれが「必要な」ものかを確定することも困難だと思います。

        

 エドワード・ローレンツという気象学者が1972年に行った講演のタイトル「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」に端を発する「バタフライ効果」という考え方もあるようで、それを力学的に緻密に計算するような研究もあるようですが、そうした計算の能力をまったくもたない私としては、例の「風が吹けば桶屋が儲かる」という論理(?)との区別があまりよくつかないわけです。
 蝶が羽ばたけば、もっとでかい鳥類も羽ばたきますし、オスプレイさえ飛ぶ世の中です。

 もっとも、冒頭で述べた数学という公理や定理で限定された世界でも、「ゲーデルの不完全性定理」とかいうものがあって、なにやら自己言及を含まずして数学の完全性は定義できないなどといわれると、まったく五里夢中でますますわからないわけです。
 まあ、これらからいえることは頑固な原理主義(科学的社会主義者を含む)が思い描くように、世の中はある種の法則によってある一定の方向に進んでいるわけではないということです。

        

 それらは錯綜したものの中から不意に、しかも意外な表情をもって現れます。たとえば夜店のくじ引きを思い出してみましょう(最近パクられた当たりなしの詐欺事件は例外です、というかそれすらありうるということでしょうか)。私のいうのは、いろいろな玩具などに紐が結び付けられていて、それが途中で複雑に絡み合っているため、目の前にもう一方の端があるにもかかわらず、どの紐がどれにつながっているのかがわからなくなっているものです。

 それらを目が痛くなるほど見つめ目で追って、思い切ってエイッと引きます。欲しかったのは新幹線のプラモデルだったのに、その紐の先には着せ替え人形のキットがということがあります。結果としては目が痛くなるほど見つめても、目を閉じて引いてもさほど変わらないのです。

        

 私達の未来を、夜店のくじ引きと一緒にしたら叱られるかもしれませんが、そうした予測不可能性は決して今後への絶望を意味するのではなく、むしろ、暗い予兆を伴った時代においては、私たちを励ましてくれさえするのではないでしょうか。
 時代の趨勢が暗いままで予測通り進行するとしたら、こんな嫌なことはありません。しかし、白馬の王子は現れないまでも、そんなに予定調和的にことが進むものでもありません。

 もちろん、いい意味でも悪い意味でも、私たちの予測は外れ続けるかもしれません。
 したがって、具体的になしうることは現実的にちゃんとすべきなのですが、同時に、現れるもの、そして開かれるものを意を決して待つことも必要なのだろうと思います。
 
 
     歴史は因果性のうちで継起するものではなく、自分自身を不意打ちにする
                                 ジャン=リュック・ナンシー


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♪線路は続くよ、どこまでも・・・・疾走する文明

2013-07-29 02:56:50 | 社会評論
        

 最新型の列車が猛スピードでカーブにさしかかり、脱線転覆する映像を何度も見た。
 だからそれが夢のなかにまで出てきた。
 
 私はその乗客だった。
 そして、その列車が次のカーブで脱線転覆することを知っていた。
 必死で手足を突っ張ってそれに備えていた。
 衝撃はあったがそれはズズズーッとずれていった感じで私は無事だった。
 「だからいったろう」とだれにともなく呟きながら脱出をはかった。

 床はうねうねしていて歩行は困難だったが、その車両の乗客は私一人だったのだろうか。
 予想していた悲惨な光景を見ることがないのが救いだった。
 しかし、私はなかなか進めない。
 車両のあちこちからバシッ、バシッと青白い閃光が散っている。
 ああ、今のハイテクはいたるところに電気を張り巡らしているのだなと感心する。

 車両の隅まで行ったが、そこは妙に跳ね上がっていて、床を登ることができない。
 もう少しというところでズルズルと戻されてしまう。
 これは典型的な夢のパターンだなとどこかで承知している私。
 登るのは諦めて、変に傾いた座席に座り込む。
 なんという変形、その変形に自分の体を合わせないとうまく座れないのだ。

 怒りがこみ上げてくる。
 何でこんないびつなものに自分の身体を適応させねばならないんだ。
 「だからいったろう」が今度は呟きではなく大きな声に出る。

 ノートパソコンを取り出し記録しようと思う。
 ん?記録というより論評をかくべきではないかと思う。
 疾走してカーブを曲がりきれないというのは現代文明の象徴ではないのか。
 原発事故を含めたあらゆる悲惨が、やはりこの文明の疾走ゆえのオーバーランではないのか。

 だとすると、それをどこかで止めなければならない。
 「たぶん革命とはこの列車に乗って旅している人類が引く非常ブレーキだ」
 といったのはベンヤミンだったろうか。
 私たちはその非常ブレーキを引くことなく列車の疾走に任せていたのではないか。

 私はもう夢のなかではなかった。
 夢の続きを覚醒しながら考えていた。
 私はこの文明の一乗客にしか過ぎないのか。
 そうではなくて、その運行に責任があるのではないか。
 私の引くべき非常ブレーキはどこにあるのか。

 容易に結論が出ないまま、再び夢へと戻っていった。
 どういうわけか列車は再び走り出していた。
 次のカーブがサタンの手招きよろしく薄ら笑いを浮かべて待ち構えていた。
 そこへと再び列車は前にも増した速度で疾走してゆくのだった。
 私の手は虚しく非常ブレーキをまさぐっていた。
 






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所得が伸びた時期とそれが食いつぶしてきたもの・完

2013-07-27 00:30:20 | 想い出を掘り起こす
          
 
 <承前>前回は60年代の高度成長期の模様を、私の給与を例に取りながら見て来ました。
 今のような格差のない、ほぼ万遍ない所得の上昇、そして失業者が少ない就職難とは逆の求人難の時代、一見、けっこう毛だらけ猫灰だらけの時代にあって、長期的に見たら私たちはとんでもないものを食いつぶし、かつ生み出してきたのでした。
 今回はそれについて述べましょう。
 
ひとつは農山村の疲弊と過疎化です。
 それ以前、農山村はそれなりにひとつの経済単位として自立していました。
 しかし、高度成長の波は農山村を貨幣経済の荒波に晒し、その労働力を都会へと奪い去り、あっという間に山村の集落を過疎化し、もはや生活不能な地区にしてしまいました。
 
 1970年代は、日本経済発展の頂点を極めたといわれていますが、その影で多くの村落がもはや存続不可能として離村を宣言し、村ごとなくなるという事態が起きました。私が先月訪れた長野県の大平村が集団離村決議をしたのは1975(昭和50)年でした。
 私はその頃、渓流釣りに凝って、あちこちの谷川沿いに歩いていますが、そうした廃村跡を無数に目にしています。

 こうした現象をまざまざと思い起こさせたのが一昨年に訪れた中国山西省の山村です。あとで調べたら、ここにとどまらず、内陸部の農山村から都市部への人口流出は膨大な数で、残されたのは老人と子どもたちだけという典型的な過疎化がドンドン進行しつつあるようです。
 
もうひとつは環境破壊でした。水俣、四日市、川崎、神通川などなどで、人の命にまで及ぶ環境破壊が蔓延し、河川、海洋、そして大気の汚染は留まるところを知りませんでした。
 サラリーマン時代、私はよく四日市へ行ったのですが、名古屋を出て桑名を過ぎた辺りでもう空気は異様な臭気を漂わせていました。
 そのあまりのひどさと、実際に人命に関わる被害が続出するなかで、さすがに各種の規制や改善が実施されましたが、その余燼は今もなおくすぶり続けています。

さらには、エネルギー政策の転換に伴う問題がありました。
 1960年の三井三池の大争議で炭労を片付けた後、石油への転換がまっしぐらに行われました。それが、先に見た四日市や川崎の石油コンビナートによる公害の拡散に繋がって行ったことはいうまでもありません。
 
 そればかりではありません。石油を外国に頼らざるを得ない事態から脱却すべく、63年に東海村に原子力発電所ができて以降、74年には原発を作るごとに交付金が支給される「電源三法」が成立し、この狭い国土に50基を越える原発が設置されるという恐ろしい事態もこの期間に端を発しているのです。そしてそれがフクシマの大惨事につながったことはあらためていうまでもないでしょう。


 こうして一見、結構尽くめに見えた高度成長期は、同時に日本列島に回復不能な深い爪痕を残しました。
 農山村の経済的な破壊とその抹消、自然に刻み込まれた鉄とコンクリートの侵略は、もはや半世紀前の日本の姿を遠い記憶の中へと追いやってしまいました。それに代わって現れたもっともグロテスクなものたちの象徴が、本来は風光明媚であった箇所に設置されたあの禍々しい原発群です。

 これらに加えて、眼に見えない共同体のあり方やそこでの人びとのありよう、人の心の重心や矜持のありようの変化といったものにも触れるべきかもしれませんね。
 
 現代は山林の中の地下茎(リゾーム)のようにすべてが複雑な関連で絡まり合っている時代です。
 そこからあたかも都合のいい部分のみを切り取ることができるかのように叫ばれているのがアベノミクスと呼ばれる経済政策でしょう。この格差社会のなか、あるいは私のような老人が多いなか、収入は増えないのに負担のみが増加する事態はすでに始まりつつあるようです。


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所得が伸びた時期とそれが食いつぶしてきたもの・1

2013-07-26 03:18:31 | 想い出を掘り起こす
        

 安倍総理は「一人あたりの国民総所得」を10年で150万円増やすといっています。
 しかし、これは、すでに指摘されているように、「一人あたりの所得」ではなく、あくまでも国民総所得のレベルでの問題で、たとえそれが実現したとしても10人の内、一人が1,000万増えたとしたら、残りの9人が500万にありつくわけで、そのうちでもまた格差があり、なかにはマイナスの人も出てくることがありえます。
 すでに非正規雇用が労働現場の40%を占める格差のシステムが定着してしまった現在ではその可能性は大きいと思います。

 ただし、本当に多くの人たちの収入がこぞって伸びた時代が過去においてあったことはあったのです。それがちょうど、私がサラリーマンをしていた10年間に相当するのかもしれません。

 60年安保が一段落したあとの1960年末、当時の池田内閣は、政治の分岐点は越えた、これからは経済の時代だとばかりに、その名もズバリ、「所得倍増計画」を打ち出しました。さてその帰結がどうなったのかは後述するとして、1962年に就職し、1972年に退職するまでのまる10年間の私の給与(基本給)を列記してみましょう。

 私は曲りなりに大卒ですが、故あって(話せば長くなりますので端折ります)新聞広告でセールスマンとして採用されました。しかし、その会社の内部の都合により、歩合給の訪問セールスの部門から固定給のルート・セールス、ようするに販売店担当の営業部門に回されたのでした。

  62年の春、私の初任給は16,000円でした。
  その年の10月、18,000円になりました。
  以下順次、書いてきます。

  63年4月 24,000円  同10月 28,000円
  64年4月 33,000円
  65年10月 36,000円
  66年6月  48,000円  同10月 52,000円
  67年10月 60,000円
  69年11月 86,000円
  70年10月 100,000円
  72年4月  110,000円


 他に、この間の全てではありませんが、ボーナスは夏冬合わせて6ヶ月分ありました(夏2.5ヶ月、冬3.5ヶ月)。
 どうです、かなり順調に伸びているでしょう。
 私が優秀だったせいではありませんよ。平均してみんなこんなふうだったのです。
 この間、「人手不足」が深刻な問題となり、私も営業の仕事をする傍ら、母校を訪れて求人活動もしました。当時の失業率は1%前後でした(現在は5%前後を推移しています)が、求人率ははるかにそれを上回っていました。
 なお、先に現在の非正規雇用の割合が40%に至っているといいましたが、1990年代の中頃までのその割合は10%を切っていたのです。

 こうして、日本経済は順調に伸び、私もそのオコボレを頂戴し、同時に、大手の労働組合もその恩恵に預かって徐々に姿勢が丸くなり、「戦わない労組」になってゆくのですが、やがて、そうしたほぼ万遍なく行き渡ったと思われた「成長」のなかで、私たちがいったい何を食いつぶして「豊か」になってきたのかを痛いほど知るところになります。

 長くなりました。この続きは次回に譲ります。
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選挙への道は遠かった!

2013-07-22 02:26:04 | よしなしごと
 写真は投票所への行く際の道草の記録です。 

 開票速報を時々見ながら、これを書いています。
 だいたいが事前の予想通りですね。
 それにしても、最近の選挙速報は実に面白くないですね。昔は、さあ始まるぞとボトルを一本抱え込んで、ちびりちびりやりながらフムフムと見ていたのですが、最近は開票率0%の段階でジャジャジャヤ~ンと大勢が出てしまって、残るは接戦区の趨勢だけと味気ない事この上なしです。
 
 選挙速報からエンターティメント性を奪ってしまった統計学主導の世の中って、実はいろんな方面に作用して私たちの生活を予定調和的な枠に閉じ込めているのではないかとも思います。

 
         ホオズキって意外と匂いがきついのです 栗はもう秋の用意

 選挙へは自転車で出かけました。
 午後一時半という一番暑い盛りです。
 水分をしっかり取り、帽子も忘れず、熱中症対策も万全です。選挙に出かけて命を落としたって、誰も感激したりはしないでしょう。
 自宅から2キロ弱でしょうか、普通なら10分もあれば十分です。しかし、それで行き着くと思うのはとんでも8分、自転車で30分です(実際にそれくらいかかりました)。

 
          青果市場の近くで玉ねぎの山に シルエットは私の勇姿
 
 私には道草という悪い癖があるのです。
 まっすぐには行かないのです。直線距離の3倍位以上をかけて、ここしばらく通ったことがない道を選んでのウオッチング道中です。
 面白いものがあれば携帯でバシャッ、川があれば魚たちを観察、アゲハチョウを見つければその気まぐれな飛翔を目で追いかけるといった具合ですからなかなか進みません。

     
         この写真の中だけで数十センチの鯉が3、4尾 &ハスの花と実
 
 結局は目的の公民館をかなり行きすぎた地点から戻るようにして到着です。で、投票しました。
 いつも思うのですが、投票券さえあれば本人確認はしませんから、なりすまし投票は可能ですね。ようするに、私の投票券で誰か他の人が投票することも可能なわけです。

 済ましてから、「投票済証」を下さいといったら、チャーミングなおネエサンがとんできて、「ご苦労様でした」と丁重に頭を下げて渡してくれました。私ゃ、権利を行使したのであって、義務を果たしたわけではないので「ご苦労様でした」といわれることはないのですが、そこは「可愛いオジサン」に見られたい私としては、憎まれ口はやめて、相手に負けず、「ありがとうございます」と頭を下げて押し頂いてきました。

 
         少し毒々しいこれって何の花? &猫の嫉妬 猫ジェラシー
 
 表へ出ると、某TV局の出口調査に引っかかりました。協力しました。
 誰に投票しましたかのところで、「不本意ながらもと書いてもいいですか」と聞くと困ったような顔をして、「それはカウントされないと思います」とのご返事。どうやら、バイトで雇われた人らしいのでそれ以上からんではと思い、あとは素直に書きました。

 帰りに農協の野菜売り場にゆきました。午後ということもあってほとんどモノがありません。最低限のものをゲットして帰りました。

 
     野菜しめて290円 トマト3個150円 胡瓜7本80円 ピーマン・オクラ各40円

 さて、冒頭に戻って選挙結果ですが、いわゆるねじれは解消され与党は衆参で安定多数を実現しました。ということは与党の提起する事項はそのほとんどが可決される条件が整ったわけです。
 しかし、何でもありを許さないのもまた民主主義のありようでしょう。それぞれの事例ごとに人々が適正な判断をし、それを表現してゆく事が必要だと思います。

 私が昨日書いたような私の思いとはもちろん違う結果ですが、それは当然予想していた事で落胆してはいません。とりあえずは、改憲勢力が3分の2を占めなかったことを諒とし、こうした状況下でこの事態をどう受け止め、今後何を発信してゆくべきかを冷静に考えてゆきたいと思います。


 

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選挙

2013-07-21 03:47:21 | 社会評論
        

 今日は選挙に出かけます。
 以下の人や党には投票しません。

 1)憲法を変えようとしている人ならびに党
 2)原発を再稼働しようとしている人ならびに党
 3)生活保護を始めとした福祉の抑制をしようとしている人ならびに党
 4)農業など一次産業、中小企業、医療などを危機に追い込むTTPを推進しようとしている人ならびに党
 5)政治というのはお金儲けのことだと思っている人ならびに党

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♪青春時代が夢なんて後からほのぼの思うもの…♪

2013-07-19 22:36:18 | 想い出を掘り起こす
 所用で出かけた先が私が卒業した高校の近くだった。
 用件が予定より早く終わり、車での移動ばかりで今日は歩いていないなと思っていた矢先にそこを通りかかったのだ。
 幸い、車を停めることができたので、少し探検してみた。

 ここを卒業したのが1957年だからもう半世紀以上前になる。それ以来ここへ来たことは数回ほどしかない。一番最近来てからももう10年以上は経っている。

 
 
 卒業して以降、最初に訪れたのはサラリーマンをしている折の求人活動のためだった。そのころはまだ、顔見知りの教師がいて、男子の求人を申し込む私に、「六君、窓の外を見てごらん」といった。おりからの放課後で、校庭は生徒たちの嬌声が渦巻いていたが、私は彼の言わんとするところをすぐ理解した。
 
 そこでは、圧倒的に多数の女子高生の間に、チラホラと男子生徒がいるのみだった。私の在校時には、この学校の男女の比率は、男子7.5に対し女子は2.5ぐらいの割合であった。それが一気に逆転してしまったのだ。
 私の在校時の幣衣破帽のバンカラ時代はとっくに終わっていたのだった。

 さて、それ以来何度目かの訪問であるが、建物などには往年の面影はまったくないものの、思い出だけは結構鮮明に残っている。
 そのほとんどは教師や友人たちとのものだ。
 甘酸っぱい話も一欠片ぐらいはあったが、見事、失恋に終わっている。

 
 
 中学生の時の担任が私に教えてくれたのは、人間に必要なのは、真・善・美だということだった。あとで知ったのだが、この区分はカントのそれだ。
 真=「純粋理性批判」、善=「実践理性批判」、美=「判断力批判」というわけだ。昨年亡くなったこの恩師は、カントの哲学のエキスを私に教えようとしたのだろう。

 「商売人に学問はいらぬ」と渋る父を説得して高校進学を可能にしてくれたのもこの教師のおかげだった。ただし「実業高校なら」という条件付きだったが。
 そうして入ったのが、この高校だった。
 ついでながら、父の言葉は全く正しかった。
 この高校で文章に馴染んだり、ものの考え方なんてどうでもいいものに足をすくわれたおかげでどうしても大学に行きたくなり、ついに家業を継がなかったのだから。
 今となっては、父への忘恩と不孝を詫びるばかりだ。

 

 ここで学んだものはおそらく権威への懐疑、そして反抗とその表現であろう。
 懐疑の対象、反抗の対象はいくらでもあった。
 たとえば校則の厳守を要求する教師、そのもとになっている校則そのもの、そして暴力による「指導」。
 同時に、自分の周辺と世界にあふれる不条理の数々。
 
 校歌斉唱もその対象であった。この学校ではそれを歌わされる機会がとても多かったように思う。最初はともかく、途中からはほとんど口パクであった。
 だいたいにおいてこうしたものは、国歌がそうであるように、所属する組織への帰属意識とそれへの従順の表明だと決めつけていた。

 

 しかし、いっておくがそんなに悪い校歌ではない。
 その証拠に、今でも三番までちゃんと歌える。
 また、甲子園などでこれが流れると、ウルウルとして一緒に口ずさむというようなことは決してないが(そうする人もいる)、それ相応の懐かしさは覚える。

 そうした青臭い反抗心を抱いたままここを巣立った。
 今はほとんどその鮮度をなくしてしまったが、それでもそれは今日の私の姿勢のなかになにがしかの残滓を留めているのかもしれない。
 そうしたさまざまな意味で、ここが私のターニングポイントであったかもしれないとは思う。

 

 しばらく校内を散策したが、なにせ時代が離れすぎていて、いろいろな思い出がどの場所でのものか同定することはとても困難だ。そのうちに、本当にあの時代、私はこの場所で過ごしたのだろうかとすら思えてくるようになった。
 思い出と現実とを擦り合わせようにも、あまりにも遠くへ来てしまったということなのだろう。

 校門を出ようとしたら、二階の辺りからブラスバンドが高らかに校歌を演奏し始めた。もちろん、私のためにではない。


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ベンヤミンの小さな黒いノートとガス会社

2013-07-18 00:16:12 | ひとを弔う
       

 ベンヤミンは収集と引用の大家であったという。
 後年、そうした引用ばかりによるシュールなモンタージュで本を構成したいと思っていたようだが果たせなかった。 

 ベンヤミンが持ち歩いていた黒いカバーの小さなノートには、そのために収集したさまざまな引用文が記入されていたらしい。たとえば、18世紀の無名の恋愛詩の次には1939年のウィーンからの報道が書き込まれていたという。それによればこうだ。
 
 「ガス会社は、ユダヤ人へのガスの供給を停止した。ユダヤ人のガス消費はガス会社に損失を与えている。最大の消費者の中にガス代を払わないものがいるからだ。ユダヤ人はとくに自殺をするためにガスを使用しているのである」
 このいい方と理由付けは、ユダヤ人を徹底して追い詰めている閉塞した時代であっただけにある種のブラックジョークめいたものとして聞こえる。
 
 そして、こうしたものいいが、あるいはこれと類似した要求(「在日の特権を許すな!」)が、現在この国で行われている日の丸の旗を先頭とした野蛮な「殺せ!」デモと軌を一にしていることを感じてしまうのはまったく自然なことだろう。心なしかそれらの罵声は、安倍政権成立後は一層勢いをましたようにも思える。おそらくそれらは、政権の中にある同質の体臭を嗅ぎつけ、その先鞭をつけているつもりなのかもしれない。

 話をもとに戻そう。
 大切なことは、上のブラックジョークめいた言い分が、それをはるかに凌ぐさらに大きな、そしてもはやブラックジョークともいえないような出来事として帰結したということだ。それがすでに70年前の出来事だとしてもまったくもって悲憤やる方ないものがある。
 ようするに、ユダヤ人から取り上げられたガスは、より濃縮化されて彼らの最期に供給されたのだった。

 自身ユダヤ人であったベンヤミンが、その黒いカバーのノートにそれを書き付けたのはまさにそれを予知していたかのようにすら思われる。
 
 ベンヤミンはといえば、すでにナチの手に落ちたフランスからスペイン経由でアメリカに亡命を企てたのだが、スペインへの入国を拒否され、ピレネー山中で自死したといわれる。
 彼はその黒い小さなノートに、世界の諸相を、それを並べるだけで何かが見えてくるエピソードを、死ぬまで書き付け続けたのだった。

 アウシュビッツ、ヒロシマで頂点に達したかのような野蛮な時代は決してまだ終わったわけではない。フクシマもまた、21世紀に生き延びた野蛮の一つの象徴である。

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ブログのカウンターと蝉の初鳴き

2013-07-16 14:34:32 | よしなしごと
     
         暑気払いに霧の高原の写真などどうぞ。
 
 ふとブログのカウンターに目をやったら、35万を超えていました。
 延べ人数ではありますが、何らかのかたちでこれだけの方々に訪れていただいたということです。
 一度いらっしゃって、「な~んだ」とすぐ去って行かれた方もいらっしゃるでしょう。
 それらの方々も含めたすべての方に感謝いたします。
 そしてまた、今後共よろしくお付き合いくださいますようお願いいいたします。

 この同じ日、わが家では蝉の初鳴きを聞きました。
 まだチチチ、チチチといった鳴き声ですが、夕刻までには上達してうまく鳴くようになるでしょう。


    
      35万告げるブログのカウンターいや励めかし初蝉の鳴く    六
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「サラちゃん」との出会い

2013-07-14 22:56:30 | よしなしごと
 写真は下の記事にも書いた会で、先月出かけた妻籠宿でのものです。 

 私はそれなりにデベソだから、この地域のあるサークルに入っている。
 月一度の集まりだが、ある月はどこかへでかけ写真を写しに行き(私にとっては貴重なアウトドア・ライフである)、その翌月にはそこで撮った写真を講師である写真家の先生と、仲間たちでガヤガヤと評価しあうのである。

 私のようなリタイア組はともかく、まだまだ現役のひともいてなかなか全員が揃うこともない。春先以来の農繁期には、田植えだから欠席、などといったひとも当然いる。

 女性陣は賑やかだ。ドカッと撮ってドカッと持ってくる。しかし、私のよう素人がいっては失礼だが、こうした合評会のせいもあって確実に腕を上げている。

 
 
 独自の領域をもった人もいて、私とほぼ同年代の人に針穴写真専科という人がいる。原理は、私が子供の頃、少年雑誌の付録にあったような、ブラック・ボックスの一辺にパラフィン紙を貼り、その対称面に針穴を開けるとパラフィン紙に倒立した像が現れるといったもので、それをフィルムに収めるのである。
 こういってしまうと簡単だが、そうした撮影装置そのものをコンマ何ミリの精度で仕上げ、撮影も秒数の計算などまさにデジカメの対極ともいうべき手作業といっていい。したがって、その作品にも私たちの視野とはまた違った広がりと深みあって、幻想的で面白い味が出ている。

 このメンバーで一番若いのはまだ20代か30代の初めの男性で、彼の写真は光と影を特に意識したものが多く、ときにアブストラクトな作品も見せてくれる。
 その彼が昨年末ぐらいに結婚した。私がそれを知ったのは、庶務係のようなことをやっていて彼の住所変更を受け付けたからだった。
 わぁ、新婚だというニュースがグループ内に伝わったのだが、当の本人は割合クールで、どことなくそれ以上踏み込ませない雰囲気をもっていた。もちろん、私事に踏み込むような会ではないからそのままになっていた。

 

 それがだ、先週末の会にいきなり彼が可愛い女の子を連れて現れたのだ。
 エッ、エッ、エッ、去年の結婚でもうこんな子?
 それに対する彼の答えは「ぼく、再婚なんです」とのこと。
 概略わかってはいるものの改めて聞いてみた。
 「で、この子はどっちの子?」
 「先方のです」

 さて、この親子であるが、まさにベタベタなのだ。
 だいたい、お父さんの趣味の会についてくるくらいだからそうだろう。
 普通の親子以上にお父さんと女の子で、見ていてもいじらしくなるくらい仲がいいのだ。
 私は訊いた。
 「何年生?」
 「一年生」
 「名前は?」
 「〇〇サラ」
 〇〇はもちろん連れてきた彼の姓と同じである。
 おそらく昨年までは違う姓を名乗っていたのに、今は全く自然に彼の姓を名乗っているのだ。
 「サラ」が沙羅であるか佐良であるかその字まではわからない。

 

 この辺りで私はグッと来た。
 ここの読者はご存知かもしれないが、私自身、生後、暫くして病死と戦死とで両親を亡くし、養子として育てられた。そのせいか、こうしてなさぬ仲の親子が極めて自然に仲良くしているだけで私には感激なのだ。
 私がそれにより生を長らえ今日に至ったように、彼女もまた、この世界にしっかりとした場所を確保してその生を謳歌してほしいものだと思う。
 
 その若いお父さんとそれにすっかり馴染んでいるサラちゃんとの双方に率直に「いいなあ」と思った。
 帰り際に、「サラちゃん、さようなら」といったら、キョトキョトとしていたが、やがて微笑んで手を振ってくれた。

 どのような新しい命であろうが、それらが世界へとデビューし、そこで成長することは世界へと新しい可能性が到来することだと思っている。それは特定の命のことではない。まさにあらゆる命のことである。
 昨日私は、そんな命のひとつ、サラちゃんに出会った。

 
 
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