六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

二百歳古老への突撃インタビュー 《聞き手:梨元 勝》

2010-08-31 02:03:38 | ひとを弔う
           

 突然で恐縮です。私、レポーターの梨元 勝です。
 皆さんとお別れしてからの初仕事ですが、まさにそれにふさわしいところへの突撃レポートです。 
 
 二百歳という人を先頭に、百歳以上というかそれに近いひとも含めて戸籍上は在籍しているのにその生死が不明な人たちが大勢いますね。そして、その数も半端じゃぁないようです。
 皆さんは、それらのひとはとっくに亡くなっているに違いないとお思いでしょうね。
 ところが違うんです。
 そうしたひとたちだけが暮らしているワンダーランドがあることを、私、梨元が突き止めたのです。恐縮です。

 といっても皆さんからは見えません。
 そこはいわば第六次元にあって、不可視不可分な領域なのです。
 そうですね、いわば神隠しにあったひとたちの行き着く場と言ったら分かりやすいでしょうか。
 私がそれを突き止めたのも、皆さんとお別れした後なのです。
 それでは早速、ここでのリーダー格、二百歳の男性にインタビューをしてみましょう。
 
 「恐縮です。梨元です。二百歳になられたってほんとうでしょうか?」
 「ほんとうだとも。ちゃんと娑婆には戸籍も残っとる」
 「確か長崎県の壱岐市だとか・・・」
 「長崎県だとか壱岐市なんてもんはあとから勝手にくっつけたもんじゃ。そんなもんがなくっても、壱岐は小さい島ながら、それ自身、壱岐国として立派な国だったのじゃ。もっともわしが生まれた頃は、平戸藩の支配下にあったがな」
 「恐縮です。お生まれになった一八一〇年というのはどんな年でした?」
 「どんな年って言われてもな、生まれたときはまだ小さかったからあまり覚えとらん」
 「なるほど、恐縮です」
 
 「ぼけとるわけじゃぁないぞ。同じ年に生まれた連中は覚えとる」
 「へえ~、誰ですか?」 
 「まずは、国定忠治だな」
 「ほほう、あの博徒の忠治ですか」
 「そうとも、若い頃から暴れん坊で、<国定忠治は鬼より恐い、にっこり笑ってひとを斬る>なんていわれたもんだ。かと思うと情に厚いところもあって♪男心に男が惚れて、壱岐が(オッと変換間違いだ)意気がとけ合う赤城山♪なんて歌われたもんだな」
 「あのう、あなたは壱岐にいたわけでしょう。それで忠治の方は上州で暴れていたのによくご存じですね」
 「いいんだよ、見てきたような嘘は芸能レポーターの特技だろう?」
 
 「恐縮です。では、他に同じ年のひとは・・・」
 「そうだな、ドイツの作曲家、ロベルト・シューマンだな」
 「ド、ド、ドイツの作曲家ですか?」
 「なんか文句あるか?芸能レポートだろ」
 「それにしてもちょっと飛躍しすぎでは・・・」
 「いいかい、この六次元ってえのはそもそも飛躍の世界なの。国境なんて窮屈なもんもないから、日本もドイツも何でもありなんだよ。シューマンの曲はいいよ。どの曲にも彼特有の悲哀感というかメランコリーがあって・・・」
 
 「分かりました。分かりました。恐縮です。で、同い年でなくともいいのですが、他にどんな人がいました?」
 「葛飾北斎という変な画家がいて五十歳も上だったが、あいつは大物だったな。広重はそれより四十近く若かった。雷電為衛門っていう強~い相撲取りがいたが、四十三歳年上だからもう峠は越えていたな。野球賭博には関わっていなかったようだ。
 あ、そうそう、遠山の金さんってひとはわしらより十七上だから兄貴分みたいなもんよ。このひとと渡辺崋山ってひとが同い年だって知ってたかい?」
 「恐縮です。知りませんでした」
 「それから、鼠小僧次郎吉っていう泥棒が江戸で暴れ回っていたらしいが、こいつの歳はよく分からない」

 「ところでその頃の時代というのはいろいろと窮屈ではなかったでしょうか?」
 「窮屈といえばどんな時代でも窮屈さ。あんただって、ジャニーズ系のスキャンダルにはあまり触れるなって圧力が結構あったそうじゃないか」
 「恐縮です」
 「まあ、それでも、それに憤慨して番組を降りたりしたそうだから、こっそり裏から内閣機密費のお裾分けをしてもらっていた自称政治評論家や政治記者よりもましだろうな」

 「ますます恐縮です。ところで、この六次元での住み心地はいかがですか?」
 「悪くはないね。朝は寝床でグーグーグーだし、学校も試験もないし・・・」
 「それじゃぁ、まるでゲゲゲの鬼太郎じゃないですか」
 「そりゃそうさ、あいつも六次元の出身だからな。あの歌の三番にあるだろう。♪おばけは死なない 病気も なんにもない♪って」
 「あっ、だから二百歳まで生きることが出来たのですね」
 「やっと気がついたかい。あんたもここでゆっくりしてったらどうだい」
 「恐縮です」

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これだけは知っておきたい現代用語の基礎「痴」識

2010-08-29 18:13:10 | ラブレター


リーマンショック
 リーマン・ブラザーズがスズメバチに刺されて亡くなり、多くの人にショックを与えたこと。
 なお、叶シスターズは、四〇代豊満ヌードで、世の男性にショックを与えている。

そのヴァリエーション
サラリーマン・ショック
 いきなりリストラや転勤、降格を言い渡されてショックを受ける。

ロンリーマン・ショック
 自分の板(=掲示板)が荒らされたのにショックを受け、アキバへトラックで突っ込んだりする。

サントリーマン・ショック
 かつて、世界の「壽屋」といわれたサントリー株式会社が、キリンとの合併を取りざたされるようになったこと(実現はしなかったが)。



ハラスメント
 仇討ちのこと。「恨みをハラスメント」といった具合に使われる。

そのヴァリエーション
セクハラ
 セクト同志の恨みのはらし合いによる暴力沙汰。昨今、それほど元気のあるセクトもいなくなった。

アカハラ
 繁殖時に婚姻色で雄の魚の腹が赤くなる。例えばウグイなど。

アサハラ
 もとオウム真理教の代表。法廷でわけの分からないことをいい、検察、弁護、判事のそれぞれに恐怖感を与えているらしい。

ウエハラ
 もと巨人のエース。現在は大リーグのオリオーズに所属し、故障と戦いながらプレイしている。

セキガハラ 地名。今から4百年ほど前、天下分け目の大合戦が行われた。

ネトハラ
 ひとのブログなどに、いきなりわけの分からないコメントを付けたりすること。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【お尋ねします】この謎の看板の正体は?

2010-08-27 18:31:22 | よしなしごと
 ここに掲げた看板は「長者町繊維街」(名古屋市中区)を除いた他は、最近岐阜市内で撮ったものです。
 長者町のものを一つだけ入れたのは最近この街が再開発されようとしていると聞いたからです。
 それにこの、白地に赤い明朝体の看板、シンプルでわかりやすくて好きなのです。
 この辺を通りかかって、この看板を見るとなんだかホッとします。

     

 岐阜公園を起点に徒歩で南下しながら撮りました。
 最初は名和昆虫博物館のものです。
 ここは日本最古の昆虫博物館なのです。

     

 「ギフチョウの発見者(命名者)である昆虫学者名和靖が、害虫駆除、益虫保護の研究のために、1896年(明治29年)4月に開設した名和昆虫研究所が前身」で、今では「世界各国の昆虫約18,000種類、300,000点以上の標本を有する」とあります。
 当然のこととして昆虫好きの子供たちのメッカでもすから、夏休みの終わり頃ともなると、自分が採集した昆虫などを参照するためにやってくる子供たちで賑わうようです。
 私も二、三度いったことがありますが、大人も充分楽しめるスポットです。

 岐阜公園から伊奈波神社へ南下してくる辺りは、あの岐阜大空襲からも免れた一帯で、戦前からの町屋造りの家屋もかなり残っています。
 しかし、その保全というのはなかなか大変で、空き家になったりするとたちまち崩壊や倒壊などの危機に襲われます。それらを防ぎ、町屋をを今風に活用活動しようと頑張っている人たちがいます。

     


 しかし、商店街一般や昔ながらの個人商店の没落など、経済事情と絡んで避けがたい事情もあって一軒、また一軒と閉鎖する店があとを絶たないのも厳しい実状なのです。

     

 最後に伊奈波神社の参道を西へ折れ、長良橋筋をこえた木造町の界隈で、こんな看板を見つけました。
 読めません!右から読むのか、戦前流に左から読むのかも分かりません!
 店の中を覗いたら、せめて何屋さんかがわかりヒントになるかもと思ったのですが、あいにくの日曜日、カーテンが閉まっていて中をうかがうことはできません。

     

 分からないことは率直に尋ねるに限ります。たまたま通りかかったいかにもこの土地の人でしかもある程度年配の人を捉まえて尋ねました。
 「これってなんと読むのですか?」
 「さあ」
 「ここって何屋さんですか?」
 「さあ」
 といった具合で話になりません。

 まあ、いいや、うちに帰れば漢和辞典という強力な助っ人がいるのだからと、その場での解明は諦めることにしました。
 しばらく放ってあったのですが、今日思い出して調べてみました。
 ところがです、漢和辞典にもないのです。
 右から二番目の字なんか、画数も少なくいかにもありそうな字ですがそれがないのです。
 いちばん左の字もありません。
 他の二つの字は同じなのですが、これもありません。

 しかし、私にはもう一つ強力な武器があります。
 それは日本語入力システム「ATOK」で、これに手書き文字入力という機能があって、そこへマウスで書き込めばたちどころにその文字が現れるという仕組みです。
 しかしです、しかしそれでも該当する文字はないのです。

 ようするにこの文字は(それが文字であるとして)一般的な流通性をもたないのです。
 もし特殊な文字で、何らかの意味があるとしたら、この通りを挟んで古刹と思われる寺院が三つあり、さらに近辺一帯は寺の密度が高いところなのです。
 とすれば、何か仏具に関連するものかも知れません。

 一般に看板というものは、広く人に何かを伝えるものですが、この看板の場合、それを拒否し、分かる奴に分かればいいとうそぶいているようでもあります。

 これをごらんの皆さん、なにとぞこの読みと意味とを教えて下さい。
 最近また不眠や途中覚醒に悩まされているのですが、その主要な原因は異常な暑さにあるとはいえ、もう一つの要因はこの看板のせいかも知れません。
 どうやら私は、見てはいけないものを見てしまったようです。
 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【素朴な疑問】ツクツクボウシのリハーサル

2010-08-22 15:05:04 | よしなしごと
 甲子園の決勝が終わると秋が来るという人がいます。
 終わりました。
 でもまだ暑いですね。
 この時期、「まだ暑い派」と「やはり秋の気配派」に別れるようです。

    

 狭い庭に、ツクツクボウシがやってきました。昨日のことです。
 ご承知のように夏の終わりを飾る蝉です。

 昼頃にそれらしいがちょっと違うような鳴き声がしました。
 ん?と思って耳を傾けていると確かにツクツクボウシです。
 しかし、「ツクツクボ~シ ツクツクボ~シ」というあの旋律をまだうまく鳴けないのです。
 鶯の初音というのも、最初から「ホ~ホケキョ」とうまくは鳴けず、次第に様になって行くようですね。
 
 ツクツクボウシにもそれがあることをはじめて知りました。
 なんか寸詰まりのような鳴き方だったのが、三時間ほどしたら上手に鳴けるようになりました。
 もうどこへ出しても恥ずかしくない立派なツクツクボウシです。

    

 で、ちょっと疑問が湧いてきました。
 どうやってうまく鳴けるようになるんでしょう。
 マニュアルも音符もなく、回りに参考にすべき別の個体もいない中で、どうしてうまくなるのでしょう。

 蝉はむろん、どの昆虫もその固有の鳴き声は遺伝子に書き込まれたものでしょう。
 しかし、次第にうまくなるというのはどういうことでしょう。
 鳴いてみて、あ、ここんとこダメだなと反省しながら次第に仕上げて行く様子をイメージしましたが、そんなことはありませんよね。反省の元になる教則がないのですから。
 まあ、そのうまくなる過程そのものが遺伝子に書き込まれているということでしょうか。
 (この「遺伝子に書き込まれている」という言葉、便利なのですが、こんなに濫用してもいいのでしょうか・・・とすこし反省)

    
       近くの田の稲もこんなに青々としてきました

        <photo src="v2:551045646:l">
        これが六月一〇日、田植え直後の同じ場所です

 鶯の場合には鳴き声に個体差があって、飼い主が自慢し合うという優雅な遊びがあるようですね。
 声が良くなるよう幼鳥の頃からの飼い方からその餌の配合や添加物にノウハウがあるという話も聞きました。
 そして鳴き合わせという競技会まであるそうなのです。
 がしかし、現在は鳥獣保護法によって捕獲や飼育が禁じられているのだそうです。
 でも、どっかでやっていそうな気もしますね。

 ところで、ツクツクボウシの鳴き声にも個体差があるのでしょうか。
 うちのツクツクボウシは一応うまく鳴けるようになりましたが、子供の頃、田舎で聞いたそれに比べると気のせいか、やや気弱で逞しさが足りないような気がするのです。
 うちのツクツクボウシにそれを指摘してやって、「おまえなあ、もっとこう腹の底から声を出すんだぜ」と教えてやったらもっとダイナミックに鳴けるようになるでしょうか。

    

 なんて思っていたら今日は来ません。
 鳥にでも喰われてしまったのでしょうか。
 それともこんな狭いところで鳴いていても相手に恵まれないことを悟って、近くの鎮守の森まで飛んでいったのでしょうか。

 そう思うことにしました。
 彼は、昨日よりさらにうまく鳴いて、あの森にいる雌たちに盛んにアピールしているのではないでしょうか。
 他の雄たちに負けんなよ。

   

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「葉裏のそよぎ」を巡る惚け防止騒動の一幕

2010-08-20 16:24:04 | 想い出を掘り起こす
 木の葉を逆光気味にとったりするのが好きなんです。
 何となくその生命の営みを裏側、あるいは内側から観ているような気がします。ですからそんなアングルの写真を時折撮ったりします。

 そしてそんなとき、頭の片隅である言葉がリフレインするのです。
 それは「葉裏のそよぎ」という言葉で、詩歌の一節だというのは分かるのですが、それがどんなものの一部だったのかが思い出せないのです。
 その部分のメロディまで浮かぶのですが前後が分かりません。
 それがしばしばなのです。

    

 記憶力のいい方なら、ここまで読んで、「あ、それはこの歌の一部だ」と思い起こされたことでしょう。
 私もそうなりたくて、やっとググってみることにしました。
 そうしたらなんのことはない、一発で出てきました。

 「追憶」 作詞:古関吉雄 作曲:スペイン民謡

 そう、「追憶」でした。確か中学生の頃習った歌で(ということは五十数年前です)、短調でもの悲しい歌でした。
 そして、その歌詞も、同時に検索できました。

1.星影やさしく またたくみ空? 
 仰ぎてさまよい 木陰をゆけば? 
 葉うらのそよぎは 思い出誘いて? 
 すみ行く心に しのばるる昔? 
 ああなつかし その日

2.さざなみかそけく ささやく岸辺? 
 すず風うれしく さまよい行けば ? 
 くだくる月影 思い出誘いて? 
 すみ行く心に しのばるる昔?
 ああなつかし その日

    
 
 そしてこの歌詞が見つかったとたん、その前後も含め、すらすらと歌えてしまうではありませんか。たぶん、半世紀以上歌ったことはないと思うのですが。
 なるほど、スペイン民謡ねと思って作詞の処を見たら古関吉雄とあります。では元のスペインの歌詞はどうだったのでしょうか。
 さる方のブログによるとこう説明されていました。
 
 ・・・・・・この歌は、明治23年8月「明治唱歌(五)」の中に「月見れば」という題で載ったものだという。原題は「free as a bird (鳥のように自由に)」で、いちおうスペイン民謡となっているが、スペイン語の歌詞は無く、英語の歌詞を昭和14年4月に明治大学国文学教授の古関吉雄が訳詩したものだという。・・・・・・

 そこで、英語の詩を捜し、ついでに直訳を見つけたのですが、どうもキリスト教の賛美歌のようで、上の日本語の歌詞とこの英詩との間にはほとんど結びつきはなさそうですね。

    

■英文の歌詞とその直訳     
1?
 Flee as a bird to your mountain?
 Thou who art weary of sin?
 Go to the clear flowing fountain?
 Where you may wash and be clean
 ?Fly, for th'avenger is near thee?
 Call, and the Savior will hear thee?He on
 His bosom will bear thee?
 Oh thou who art weary of sin?
 Oh thou who art weary of sin

 鳥のように山に逃げなさい
 罪に疲れた貴方よ
 行きなさい綺麗な湧き出る泉に
 そこは、身を清め綺麗になるところ
 飛びなさい、貴方の傍に仇を討つ人が居る
 呼びかけなさい、主が聞いてくださる
 主の胸に貴方は抱かれるだろう
 ああ 罪に疲れた貴方よ
 ああ 罪に疲れた貴方よ

 He will protect thee forever
 Wipe every falling tear
 He will forsake thee, Oh never
 Sheltered so tenderly there
 Haste, then, the hours are flying
 Spend not the moments in sighing
 Cease from your sorrow and crying
 The Savior will wipe every tear
 The Savior will wipe every tear

 主は永遠に貴方を守ってくださるだろう
 全ての涙を洗い流して
 主は貴方を決して見捨てないだろう
 そこでは貴方はやさしく思いやりに満ちて庇護される
 急いぎなさい、時は過ぎて行く
 ため息をついて時を浪費していけない
 悲しみと叫びから解放されよう
 主は全ての涙を洗い流してくれるだろう
 主は全ての涙を洗い流してくれるだろう

    

? ね、全く違うでしょう。
 この、古関吉雄という人、上の方の資料にもあるように、明治大学の国文科の先生で、いろいろな学校の校歌の歌詞も手がけているようですから、おそらく、全く新たに作詞したものと思われます。
 なお、この古関吉雄という人、あの作曲家の古関裕而とは従兄弟の関係だそうです。

     
             南京ハゼの坊やたち

        
          上の写真の一ヶ月ほど前はまだ花でした
 
 というわけで、私の頭の中でぐるぐる巡っていた「葉裏のそよぎ」の正体は明らかになったのですが、歌詞から見ればどうやら夜の情景を歌ったもので、私が掲げる「葉裏もどき」の写真とはほとんど関係がないことも分かってしまいました。まったくドジな話ですね。
 むしろ、今の私の立場でいったら、英文の歌詞の方が近いのかも知れませんね。いまからでも遅くはない、悔い改めよ・・・・・・。
 でもやはり「葉裏のそよぎ」をハミングしながら、今後とも、逆光気味の葉っぱなんか撮り続けて満足するのでしょうね。

最近、この記事とほとんど似たものを書いた気がする。それがどこであったか思い出せない。はやり・・・。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【立秋の揺れ】私の声はどこまで届くのだろうか?

2010-08-17 15:16:32 | よしなしごと
 これだけ暑くて何が立秋だと悪口を言っていましたが、さすがにお盆を過ぎると様相が変わってきます。
 特に私のような夜型人間にとってはそうです。
 遠く、近く聞こえていた盆踊りのお囃子もすっかり絶えました。
 子供や若者達の花火遊びの音や嬌声ももう聞こえません。
 近隣の市町村の遠花火ももう聞こえません。
 時折、「風の音にぞおどろかねぬる」ような風を感じ、ふと虫の声などを耳にすると、やはり、来るべきものは来ているようです。
 これで、甲子園が終わると秋色は一段と強まるでしょう。(後半にこの続き)

        

 前回は、65年前の敗戦時、8月15日の私の体験などを出来るだけ淡々と述べてみました。
 延べ三日間で、ブログやSNSへのアクセスは1,000を越えました。私の記事をさらに他の方へ紹介していただいた方などもいて、アクセスが広がったのだと思います。

 私は、ネットや最近参加した同人誌などで、いろいろな言説をまき散らしています。しかし、そうはしながら、私の言説がどこまで届いているのかに対しては懐疑的です。アクセスなどの数の問題に留まらず、その質においてもです。
 もちろん、私の繰り出す言説そのものの質やその評価の問題はあるのですが、それ以前に、例えば若い人たちが依拠しているメディアとの間に大きな齟齬があるのではないかと思うわけです。

    

 もちろん昔から硬派の言説とそれ以外のものとがそれぞれ依拠するメディアを別にしながら併存するという状況がありました。しかしそれらは、簡単に交わるものではないにしろ、どこかに接点があったり、あるいはあるはずだという前提のようなものがあっての棲み分けだったような気がするのです。

        

 従って、いわゆる知識人といわれる人たちがいて、その人のものを直接読んではいないが全般的な言説の地図の上でどの辺を占めているのかがある程度概括でき、人々がそれらを共有するような事態がありました。
 そして何かの出来事や事件の都度、それら知識人がその見解を述べ、それに納得するにせよ反発するにせよ彼らを参照項とする習慣がありました。

 現在でもそうしたスタイルが新聞などではとられていますが、「中庸」を装うためにほとんどの場合、見解を異にしたり、賛否を違える両者を均等に扱うなど、そのオピニオンリーダーとしての役割は著しく低下しています。
 そしてまた、彼らの言説そのものにもまったく勢いが感じられません。

    
 
 とりわけ、いわゆる冷戦終結後の緊張感を欠いた論壇においてはそれが加速されたように思います。それぞれが依拠してきた「大きな物語」を失ったからでしょうか。
 それの善し悪しはいいますまい。
 それがいわば、ポストモダンな社会においての言説の実状だとしたら、それを踏まえてものをいうべきなのでしょう。
 が、それにしても人々は様々に小分けされていて、それらを横断して聞き届けられるということは果たして可能なのでしょうか。

        

 この文章の前半は、昨日の夜半に書きました。
 ほんとうに多少は秋の気配があったのです。
 しかし、今日17日の昼は、それを取り消したいくらいの暑さです。
 気温は既に三七度を軽く超えています。
 先ほど、すこし離れたところまで外出したのですが、頭がくらくらして来て、早急に用件を済ませて逃げ帰ってきました。





コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【追憶】65年前の軍国少年と8月15日

2010-08-15 03:29:18 | 想い出を掘り起こす
 8月15日は第二次世界大戦での日本の敗戦記念日です。
 既にこの頃のことは何度も語ったのですが、重複を恐れず今年も語ります。
 
 私は当時、国民学校の一年生でした。
 ちょうどものごころがつく頃です。
 こんな幼い私でも、いっちょうまえの軍国少年でした。
 学校や周辺がそうなるべく教え込んだのです。
 「大きくなったら兵隊さんになり、天皇陛下のために立派に死ね」
 これがすべてでした。
 死がなんたるかも知らぬまま、それが私の運命と固く思いこんでいました。

 私の悩みは、陸軍に入るか海軍に入るかでした。
 戦艦の舳先で手旗信号を送る水兵はスマートで魅力的でした。
 一方、時折家の前を帯刀して軍馬で通る陸軍士官も威厳に満ちて立派でし
た。

     

 日本の海軍が既にして壊滅的な敗北を喫し、陸軍が各地で玉砕や全滅をしていることなどは全く知りませんでした。
 大本営の発表は、各戦線でわが軍は偉大な戦果を挙げていると報じ、その最後に付け足しのように「なお、わが軍の損害は軽微なり」と伝えていたからです。

 ただし、戦線が逼迫し、連合軍が本土へ(沖縄戦はうすうす知っていましたが、そこでも日本軍は優勢だと思っていました)上陸する可能性があり、その本土決戦では一人一殺で戦うのだいわれ、幼いながら私もと思っていました。
 物陰から竹槍を繰り出せば米兵の一人ぐらいやっつけることができるだろうと真剣に考えていました。そして、その後、撃ち殺されるのだろが、そのときには、「天皇陛下バンザ~イ」と叫んで死んでゆくのだと想像していました。

 1945年に入り、名古屋、岐阜、大垣などの空襲を目撃しました。
 竹槍の届かないところからの攻撃は全く卑怯だと思いました。
 そのうちに広島や長崎に「特殊爆弾」が落とされたという報が流れました。
 噂によれば、それは光線爆弾だというのです(報道管制で、その内容は全く明らかではなかったのです)。
 そこで大人たちの意見が分かれました。
 光線なら白い布を被って逃げたほうがそれを反射して助かるというのが一派でした。
 もう一派は、白い布など被っていたら敵に発見されやすいではないかというものでした。

 今から考えると、核兵器の前にこんな論争はほとんど無意味なのですが、当時の大人たちにとっては、まさに命をかけた大論争だったのでした。

     

 8月15日のことは断片的に覚えています。
 疎開先で通っていた小学校も既に全焼し、折からの夏休みとあって、ろくに宿題すらなく(紙や学用品すらなかった)、それをいいことに遊びほうけていました。
 朝から暑い日でした。
 田舎のこともあって、裸同然で遊び回っていました。

 何時頃か、母が呼びに来ました。
 かしこくも、天皇陛下様の放送があるから、うちへ帰れとのことでした。
 帰った私は、珍しくもちゃんとしたズボンと白いシャツを着せられました。
 そして、疎開先の母の実家の母屋に集まりました。
 私たち疎開者と、地元の人でもラジオのない人たちなどおそらく20人以上が集まっていたと思います。
 一部では、起立して聞けとのお達しがあったようですが、私たちは正座をして聞きました。

     
 
 チューニングの悪いラジオをだれかが必死に合わせました。
 君が代が流れ、そして「玉音」、つまり天皇のお言葉が始まりました。

 当時天皇は「現人神」でしたからその声を聞くというのみで大変なことでした。
 当時の日本人で天皇の声を聞いたことがある人は、皇族の他は側近やおつきのひと、それに御前会議に出るようなほんの一握りのひとに限られていました。
 いまのように、ワイドショーにまで天皇が出る時代ではなかったのです。

 何か甲高い声が響き始めました。いまでいうと何か合成音のような声です。
 天皇としても録音機の前でしゃべるなんてことは初めてで、しかも日本や自分の運命に関わる重大事でしたから声が上ずるのは致し方なかったのでしょう。

 加えて、その中味は宮中用語ともいうべき特殊なボキャブラリーでしたから、6歳の少年には分かるはずがありません。
 で、周りの大人たちには分かったかというと、20人ほどいたその人たちにもまた、ちんぷんかんぷんだったらしいのです。
 でもなかに多少理解力のある人がいて、「どうも戦争に負けたらしい」といいました。しかし、それもあやふやです。
 結局、役場へ行って確かめようということになりました。

     

 こうして戦争には負けました。
 その瞬間、日本人はすべて虚脱状態になったなどといいますが、それは嘘です。
 それは戦争を一心に推進してきた連中やその尻馬に乗ってきた連中、インテリたち、あるいは都会で周りの視線を気にしていた人たちに限られていたのだと思います。それと、一部、ほんとうに真面目に日本の今後をを案じるひとたちもいたことでしょう。

 私はというと、白いシャツとズボンを脱がされてまた野良へ放り出されました。
 百姓衆は、早速、田の草取りなどの農作業に出かけました。
 もう、米軍機のいたずら半分の機銃掃射を受けなくて済むのです。
 そして、戦争に勝とうが負けようが稲は育つし、それには人の手が必要なのですのです。

 伊勢湾に上陸した米兵が、すべてを奪い尽くし、家を焼き払い、女子供に手ひどいことをするという噂も一時流れましたが、やがて、それも落ち着きました。思うにこれらの噂は、自分たちが中国大陸でやって来たことの裏返しの表現だったようです。

     

 それから後もたくさんの断片的な記憶があります。
 学校が焼けてなくなったため、あちらのお寺、こちらの工場跡と流浪の教室でした。
 教科書の墨塗りもしましたが、慌て者の私は間違ったところを塗ってしまい、大いに困りました。

 シベリアにもってゆかれた父の復員が遅かったため、結局私は5年生の3学期までの数年間を疎開先で過ごしました。

     

 あれから65年、昨日はシベリア帰りの養父の墓へ詣でました。
 それ以前に、インパールで戦死した実父にはしばし黙祷しました。

 教訓めいたことは何も言いますまい。
 来年もまた同じようなことを書くつもりです。


        玉音にわれ関せずと蝉時雨    六
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【郡上節など】雨も降らぬに 春駒!春駒! 

2010-08-12 16:01:58 | よしなしごと
 暦の上ではもう立秋だそうだが、地域の盆踊り大会の音頭などがあるいは近く、あるいは遠く聞こえたりすると、夏たけなわの感もある。遠く、近く聞こえるのは地域ごとに開催日を調整しているからだ。踊り好きな人は、今日はあちら、明日はこちらと踊り歩くらしい。
 
 宵の口は子供たちに合わせてTVのアニメソングなどが聞こえるが、やがて東京音頭になり、炭坑節になったりする。なぜ、美濃の国で東京音頭なのか、あるいはいまの若い人に炭坑節が分かるのかなどとつい思ってしまうのだが、まあ、それも野暮な詮索といえるだろう。

     

 しかしやがて、終盤に近づき、幼い頃から聞き慣れた郡上節の「かわさき」や「春駒」が聞こえたりすると、なぜかホッとしてしばし耳を傾けたりする。
 「かわさき」の 
 ♪郡上のなぁ 八幡出て行くときは 雨も降らぬに袖絞る♪
 の袖絞るが涙を含意し、百姓一揆の訴人たちが命がけで郡上を発つときの情景であることを知ったのはいつ頃のことだったろう。
 替え歌としては
 ♪郡上のなぁ 八幡出て行くときは 雨も降らぬに「みの」恋し♪
 があるが、これは簑と美濃をかけたものである。

     

 同じく、郡上節の中で「春駒」というややアップテンポな歌があるが、その中の歌詞で、1184年(寿永3)の宇治川の先陣争いで梶原景季の愛馬であり名馬として知られた磨墨(するすみ)と、やはり佐々木高綱が騎乗する名馬の誉れ高い池月(いけづき「生食」とも書く)とが先陣を争った際の、その磨墨が八幡近くの明宝・気良(けら)の里から出た馬であることも知った。
 その歌詞にいう。
 ♪郡上は馬所(うまどこ) あの磨墨の名馬だしたも ササ気良の里 七両三分の春駒春駒♪

 この郡上八幡の近くには「磨墨の里公園」という道の駅を兼ねたエリアがあり、そこで馬刺しのブロックを買ったことがある。ポーランド産だったが適当にサシがあってうまかったので文句を言う筋合いはない。

     

 もっとも、この磨墨伝説は全国各地にあるようなのだが、美濃国の人間としてはこの奥美濃説を一応は支持したい。それにこの「春駒」というのは軽快で好きな歌であり踊りなのだ。

     春駒が下駄で跳ねてる郡上節  六

 なお、本場の郡上八幡では明日13日から、14、15、16日の四日間、宵から明けまで徹夜踊りが開催される。この郡上踊り、日本三大盆踊りに数えられ無形文化遺産にもなっているようだ。

 さて地元の夜に戻ろう。
 盆踊りとオーバーラップするように聞こえていた花火遊びの音色が次第に鮮明になるのは、やはり、盆踊りが終わった頃である。花火の音のみではなく、それに伴う嬌声などがはっきりと聞こえるようになる。
 やがてそれらも次第に静まり、往来する車もめっきり減ると、遠く夜汽車がひた走るのがかすかに聞こえてくる。
 かくて夏の夜は更けてゆく。
 ん? やはり秋の気配がそこはかとなく・・・・・  <追記>があります。

          

<追記> このブログに時々コメントをいただいているTさんが、毎年6月に東京は青山で郡上踊りの会があることをお書きになっていらっしゃいますが、この青山という地名、郡上踊りの隆盛に功績があった往時の郡上藩主、青山公の江戸屋敷跡だからだそうです。
 なお、このTさん、郡上のご出身でその縁もあってか青山にお住まいです。
 
 なお、郡上一揆(いわゆる宝暦騒動)の藩主はその前の金森公で、お家断絶になっていますが、百姓の側にも大勢の犠牲者が出ました。郡上踊りは、それらの人たちの霊を慰める意味もあります。
 
 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【なんでだろ】アマガエル君の独り言

2010-08-11 00:37:21 | よしなしごと
 僕、雨蛙の子供です。
 まだオタマジャクシから孵ったばかりで、体長は一センチ足らずです。
 このうちのおじさんが水を撒き始めて、それが気持ちよかったのでひょこひょこ出てきたところを写真に撮られてしまいました。

     

 やがて成人(は変ですね成蛙?)になると三センチほどになります。
 こんなに小さくても、数年間は生きるのですよ。

 人間は百近くまで生きるのだそうですね。
 で、しかも、百以上になると忽然とどこかへ消えてしまう習性があるとのことです。不思議ですね。

     

 はじめは東京で問題になったようですが、10日の夕刊によると、神戸という都市だけで、一〇〇人以上が行方不明なのだそうです。
 全国で集計したらどうなるんでしょうね。
 しかも、消えるのは別に百歳以上ばかりではないようですから、仮に八十歳以上で調べたらもっともっと増えそうですね。

     

 最後の写真は、子供用の小さなプールですが、うち捨てられているお人形が、世の中からはじき出されて水死したお年寄りのように見えました。

 ところで、水を撒いてくれるこのおじさんも、そろそろ世の中から疎んじられる年頃です。数年して私が大人の蛙になったときにも、この人ちゃんと水を撒いているでしょうか?
 それともやはり・・・。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嗚呼、鳴いて呼ぶ柳ヶ瀬探訪記

2010-08-09 03:31:20 | 現代思想
 久しぶりに柳ヶ瀬に出ました。
 8月8日は、柳ヶ瀬商店街が企画した「岐阜ど真ん中夏祭り」の最終日ですから、何かがあるのかと思ったらさしたることはありません。
 いわゆる柳ヶ瀬本通りに、数店の出店があるのみなのです。

       

       

 そこでトマトを格安で売っていたオッサンに話を聞きました。
 「夏祭り最終日だそうですが、まだ何かあるのですか」
 「なんにもないさ。見てみろ、この本通りを解放したのに、出ている店はほんの数軒、これじゃあ、柳ヶ瀬はおしまいだよ。やる気がないんだもんな、みんな。俺んとこも柳ヶ瀬で何十年も八百屋をやって来たがもう考えるよ」と痛烈なことば。
 こうした問答があったからかどうか、それまで、5個300円だったトマトが、10個で300円でもってけになりました。

    

 関の刃物やさんが店を出していました。
 こんな街頭で出しているのに、お客は高いというのだそうです。なぜしょうか?
 関へ納入されただけの外国産のものが、関の刃物でまかり通っているというのです。しかも大メーカーがそれを行っているのだといいます。
 うちはほんとうに関で作ったものを売っているのだとご主人。
 そのご主人が気炎を上げている間、奥さんが立ち寄る客に刃物の特性やその手入れを事細かに説明しているのが印象的でした。
    
   
 親子三人で、肉料理の店を宣伝しているほほえましい屋台がありました。
 しかし、昼間っからこうしたキャンペーンをするということはかなり苦戦している証拠だとおもいます。何とか応援してやりたいものです。
 肉料理は、年齢からして若干敬遠気味なのですが、同伴してくれる人(女性が望ましいがこのさい男も許容します。ただし割り勘ですぞ)がいれば行ってやりたい感じがしました。
 この店の成否は、なにがしかこの子の生来をも左右すると思うからです。

    

 柳ヶ瀬にも一箇所、華やかな箇所がありました。昔の古~い映画館が、大衆演劇のメッカとして復活したのです。どれくらい古いかというと、私が亡父に連れられてここで映画を見たのが60年前なのです。
 もちろんそのときとは造りは変わったいますが、名前は一緒です。

 私が通りかかった折、ちょうど開演前で、一座の若い衆がデモンストレーションをしていました。撮影にはもちろん了解をとったのですが、「自然で結構ですから」といったら、「その自然が難しいんだよなぁ」というのが彼らの返事。
 なるほど、彼らは見られる商売、人の視線のなかで自然にいることは出来ないのでしょうね。
 でも快く撮らせてくれました。

    


 最後の看板の写真、真ん中の白い着物の役者さん、私の若い頃にうり二つだと思うのは私だけでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする