六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

奥美濃寒水(かんすい)白山神社の掛踊=ユネスコ無形文化遺産を観る

2023-09-12 17:29:41 | 催しへのお誘い

 九月九日「重陽の節句」、古来、菊を嗜む日とするがそれは旧暦のこと、新暦ではやや早いと地区のサークルの人たちとともに、奥美濃寒水(かんすい)白山神社の掛踊を観にでかけた。
 郡上八幡からさらに20km近く北東へ分け入った山間部におおよそ三百年前から伝わるというここの秋の祭礼への奉納踊りは、昨年、郡上踊りなどとともにユネスコ無形文化遺産に指定されたものである。近くの郡上踊りは従来より有名で、ここの掛踊りもそのバリエーションぐらいに誤解されるかもしれないが、まったく異なる。その違いは追って説明しよう。

       

 夕方までの踊り見物、ここは10年ほど前にも訪れているが、人家が散財する農山村で、飲食店やコンビニなどはまったく存在しない地域である。したがって昼食や飲み物は用意してゆかねばならない。そこで、その事前調達で、目的地に一番近い長良川支流の吉田川沿いに走る国道472号線沿いにある道の駅・明宝(別名、摺墨=するすみの里)でそれらを求める。

      

 この道の駅がなぜ「摺墨の里」と言われるかというと、『平家物語』にもでてくる「宇治川の先陣争い」で、梶原源太景季が騎乗したという名馬、摺墨の産駒地といわれるからである。この道の駅の中央には、この摺墨と騎乗する梶原景季の立派な銅像が鎮座している。
 なお、これは郡上踊りの踊り歌10曲のうち、「かわさき」と並んで人気がある「春駒」の中でも歌われている。余計なことだが、この「春駒」、日本民謡のうちでは珍しくアップテンポな曲といわれる。以下を参照されたい。

 https://www.youtube.com/watch?v=q1DHd7CyMHg
 目的地、寒水白山神社へ着いた。10年前に来た折には、ずいぶん近辺を歩き回り、祭り支度の模様や神社へ集まる集落の人々を撮したりしたが、今回は体力の衰えを考え、神社近辺の寒水川やその付近を見て回るにとどめた。その代わり、神社で写真を撮るに適した拝殿廻りのやや高い位置に居所を構えて待機した。 

      

     
   
       
           グッズ売り場で待機する巫女姿のJC
     
           同様に待機する報道陣の一角
     
              始まりを待つ一般の人

 さて、郡上踊りと寒水の掛踊りの違いであるが、後者はそれが、盆踊りではなく秋祭りに神社へ奉納されるという点あり、さらに大きな違いは、郡上踊りが近郷近在はむろん、遠来の観光客をも含め不特定多数が参加する踊りなのに対し、この掛踊りは露払い2名から踊幟持ち4名に至る総勢100~130人の、それぞれ定められた衣装と持ち物が決まった「役者」たちによって演じられるという点にある。もちろん、その踊りの進行順序も決まっている。

           
             いよいよ入場 赤鬼姿の露払い
           
               主役・折太鼓の一人
      
                  花笠
        
         田打ち 文字通り田を打ち均す動作を演じる
      
                  笛吹き

 神社境内に入場した各役者が大きな円陣を組んでそれぞれの役割に応じた振り付けの舞をするが、そのクライマックスには、長さ3.6mシナイと呼ばれる花飾りを背負い、胸に太鼓を抱えた4人の折大鼓という主演クラスの踊り手が、その他の役者たちが作る円陣の中央で、音頭取りの歌に合わせ、太鼓を打ち鳴らしながら激しい動きの舞いを披露する。
 その舞の激しさに、シナイに飾られた花が散乱するが、それが地面に落ちるや三枚目役の大黒舞たちが素早く駆け寄り、その花を奪い合ったりして賑わせ、円陣の外の一般観客に手渡す。その花は縁起物で、家へ持ち帰り、一年間飾っておくといいことに恵まれるという。
     

 踊りは休憩を挟んで2時間ほど続くが、その登場人物の多彩さ、役割の違い、衣装の華やかさ、踊りそのものの流麗さなどなど、飽きる暇がないままに終わる。
     

                  奴 

     

                  花笠

      

                折太鼓

      

                  奴

           
               露払い=赤鬼の舞

 ユネスコ文化遺産指定後初めて、コロナ後初の一般観衆参加の催し、さぞかし観衆も多いだろうと思ったが、それほどではなかった。むしろ、10年前のほうが多かったように思う(翌10日にも開催されたからそちらが多かったかもしれない)。
 しかし、いくら観衆が多くても、この辺の集落に金が落ちる受け皿はないから集落が潤うことはほとんどない。なぜこんな無粋なことを言い出したかというと、この行事に寄せるこの地区の負担を考えたからである。

      
             これも含めた3枚は奴
      
     
     
              抱かれた子も参加者
     
            いよいよクライマックスへ

 すでに述べたように、この掛踊り、役者だけでも最低100人を要する。さらに裏方のスタッフなどを考えると、150人ほどが必要人員となる。
 ただださえ過疎化が進むこの集落で、これだけの人数を動員し、これを維持してゆくことは並大抵ではないことは、実行委員会の責任者の挨拶に滲み出ていた。

 実際のところ、多くの山村や漁村などで、代々続いたきた伝統ある祭りや行事が、人知れずひっそりと消えていった例は多いし、いまもその趨勢は変わらない。
 そんな折からユネスコ文化遺産への指定、精神的な励みになるし、行政からの助成金も多少は出るであろう。しかし、それを支える人手の減少は金銭づくでも片付く問題ではない。

      
            以下、クライマックスのシーン
      
      
      
      


 その意味では、こんな大変なものに指定されてしまった以上、もはややめるにやめられない足かせをはめられたともいえる。ようするに、これを存続させるための地域の人たちの甚大な努力は続くとうことだ。

 しかし、実際に私の眼前に繰り広げられた趣深い踊りの展開、それに参加した老若男女の人々の屈託のない爽やかな笑顔には、そうした裏事情を乗り越えて、一致団結してなにごとかを成し遂げた人たち特有の晴れやかな表情が溢れていた。

      

                                                                  大黒など

      

               退場する花笠

 それらの人々に心からの拍手を送りながら、私の中での葛藤は続く。都会地とは異次元の過疎化の中で、アヒルの水かきのような水面下の努力でやっと保たれている伝統行事、それをいつまでも続けとただただ思うのは、一応都会地に住む私のエゴイズムにすぎないのではないかと。
 私にできることは、今のところこうしてそれを不特定多数の人々に知らせることでしかない。

 *踊りであるから動きをとクライマックス近くの動画を3本載せておく。似たようなシーンになってしまった。もっと前半から動画に撮っておくべきだったと悔やんでいる。

    https://www.youtube.com/watch?v=9Zvlq8WwuKI
    https://www.youtube.com/watch?v=-uwa-QjAN28
    https://www.youtube.com/watch?v=rhnbd7dzHKU




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病院からと岐阜県不破郡垂井町の子ども歌舞伎

2023-06-14 17:42:52 | 催しへのお誘い
 鼠蹊ヘルニアの治療で入院したのが12日、手術が13日午後。
 手術自体は下半身麻酔で半ば夢の中。
 終了後、下半身の麻痺が何時間も続き、それが切れると傷口の痛みが。日常用いている睡眠薬の使用も禁止され、睡眠もままならず、五体を拘束された安静とやらが続く。
 翌13日完全な睡眠不足と傷口の膨らみなどで38度以上の発熱。
 医師の診察。「あ、これは血が溜まっているので出しましょう」とのことで、傷口の周りを押して血を押し出す。
 麻酔なしだから、これまで経験したことのない痛みが続き、気を失いそうになる。
 あらゆる神様、仏様、旧統一教会の文鮮明様も動員してのご加護を頼めど、これまでの悪業が祟ってか効き目もなし。夕刻になって痛みも発熱も治まってやっとPCに向かう気力が。
 
 なんて病苦の話は辛気臭くなるばかりだから、話題をガラリと変えて、この5月3日、岐阜県不破郡垂井町で行われた祭礼に伴う「子ども歌舞伎」の情景を撮した写真を未編集のままズラリと紹介しよう。
 あらすじとしては、役者の披露とその練り歩き(パレード)、そして三台の豪勢な山車(だし)を連ねての舞台での演技の模様である。
 ああ、文章を書くのもつらい。 
 では写真の羅列を。



 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

















 

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「あいち2022」ならぬ「なごや2022」の超芸術活動 その1

2022-08-04 11:16:22 | 催しへのお誘い

 「あいちトリエンナーレ2019」というのを覚えていらっしゃるだろうか。ここでの「表現の不自由展」での大村愛知県知事の処置の不適切さをあげつらった河村と高須の脱線コンビが、何十万という偽リコール署名を生み出す格調高き場外乱闘で有名になったあの国際美術展である。

 そういえばと思い出す人も多いだろうが、それと並行して、超芸術家による超芸術活動としての「なごやトリエンナーレ2019」の存在を知る人は少ないだろう。前者の「あいトリ」に対する後者の「なごトリ」であり、数次の超芸術活動を展開した。

     

 トリエンナーレとは三年に一度という意味で、今回はその年に当たる。しかし、主催者側は、三年前のトラブルを想起させるのがマズイと考えたのか、本来は「あいちトリエンナーレ2022」となるところを、「国際芸術祭あいち2022」と名称変更をした。

 この日和見主義は、この催しの知名度を損なう面もあるといわれているが、先に述べた「なごトリ」の方もそれに合わせ、「なごや2022」として、超芸術活動を展開するという。

         

             活動が展開された近くの堀川運河

 その第一回ともいうべき活動が8月3日午後、名古屋国際センタービル前で行われるというので観に行った。午後5時を期して、超芸術家が出現。

 活動内容は、戦時中の空襲警報を鳴らしながらの演説パフォーマンス。その携帯スピーカーが向けられた先は・・・・。そう、6階にある名古屋のアメリカ領事館。

         

 この超芸術活動、動画にも登場するが、警官と私服の公安担当らしき人影も。そう、それが超芸術たる所以。一般的な芸術活動は、力、ないし力への意志を「美のオブラート」に包み表出する。だから力の直接的な表出は一応回避される。しかし、超芸術はそんな回りくどいことはしない。力あるところに力あらしめよだ。

 だから、超芸術にはカウンターたる力=権力が誘導される仕組みになっている。

 限られた空間での、わずか数分のパフォーマンスであったが、そうした超芸術の内包するものが抽出された瞬間であった。

■超芸術活動の動画 

https://www.youtube.com/watch?v=Z9P-lsmbLXw

https://www.youtube.com/shorts/q5oB762TLvw

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「原爆の図 丸木美術館」が存続の危機を訴えています!

2020-06-29 18:00:18 | 催しへのお誘い

 ドイツ在住の畏友 K氏から、「原爆の図 丸木美術館」がこの間のコロナ禍により館存立の危機にあることを知った。ドイツ経由で知るとはうかつな話である。

       

       

 その危機の内容と支援の方法などは下記のページをご覧いただきたい。私もささやかながらカンパをさせていただいた。

https://congrant.com/project/marukigallery/1587

 私個人はこの東松山市にある館自体へ入ったことはないが、丸木夫妻の作品自体は巡回展などで2,3度は観ている。
 
 近くは2017年秋、愛知県一宮市の三岸節子記念美術館での「丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢」を観ている。この丸木スマは、丸木位里の母親で、70歳を過ぎてから位里の連れ合い俊に勧められて絵筆を執ったという異色の画家で、その自由奔放な構図と色彩はある種心地よい全身の弛緩を誘うものであった。

 話が逸れたが、私の中での丸木美術館の位置づけだが、優れた芸術性を持つと同時に、戦争の負の遺産を余すところなく表現した作品を所蔵する美術館として、長野県の上田市郊外の「戦没画学生慰霊美術館無言館」と並んで決してなくしてはならない場所であると思う。

       

       

              18年5月に訪れた際のもの

 この間、芸術施設や芸術活動は「不要不急」とみなされ、公的な支援も薄く、危機的な状況にある。しかし、人間の生活は衣食住だけではあるまい。
 一定の時期が過ぎたとき、生き延びてはみたものの、貧しく索漠とした世界に自分たちが住んでいることに気づくのではあるまいか。

 そうならないためにも、ある種のアクションが必要なのだと思う。

 

 

 

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【長良川鵜飼開きと獲らぬ狸の悲哀】

2020-05-11 20:05:31 | 催しへのお誘い

 本来なら今日は長良川中流域の鮎の解禁日であり、それに合わせ、長良鵜飼、小瀬鵜飼が開始される日でもある。
 しかし今のところ、このコロナ騒ぎで開始の目処は立たず、延期されることとなっている。無観客で、つまり、遊覧船での観覧をなくして、ただ鵜飼漁のみをという案もあるようだ。

        
 鵜飼といえば岐阜の観光の目玉、この痛手は大きい。とりわけ今年は、その期待値が大きかったこともあって、いっそう落胆の度合いも大きいようだ。
 というのは、NHKの大河ドラマ『麒麟が来る』の特にその前半は岐阜が舞台で、それだけに従前から手ぐすね引いて今年の観光収入を当て込んでいたからだ。
 もちろんこれは鵜飼のみならず、美濃から飛騨を含めた岐阜県全体の期待を担ったものだった。

           
 それがこの騒ぎ。観光収入は増収どころか例年の実績を大きく下回るであろうことはすでに明らかだろう。
 それだけではない。これまでに使った自治体や地域全体の宣伝経費はすべて空振りに終わるし、一部の観光施設は、人員の増加や設備の整備、増設でさまざまな投資をしているところも多い。
 そのために借り入れをしたりしていれば、負債のみが残ることとなる。

        
 大河ドラマや朝ドラに依拠して地域の振興を夢見るというのは、次第に大きくなる地域格差の中で、地方が試みる藁にもすがるような試みだ。それを無残に打ちひしがれた口惜しさは大きいだろう。
 しかし、それを愚痴ることもなく岐阜県人は感染の防衛に歯を食いしばっている。

        

        
 今年の後半、もしこの騒ぎが落ち着いたなら、岐阜へ足を運んでほしい。ここでの私の知人なら、一部の案内をかってでても良い。
 奥美濃に発した清流長良川が、山あいを縫うようにして流れ、岐阜市の北部で濃尾平野へとデビューする、どこか懐かしさを誘う土地だと思っている。

===========================
 https://www.youtube.com/watch?v=3xhYFA6rvS8
 
 これからの宵、長良河畔の散策は気持ちがいい。伊吹山から養老山脈にかけて日が落ち、川面を夕闇が満たす頃、上流から篝火を焚いた六艘の鵜舟が順に下ってくる。それが近づくに連れ、トントントンと船べりを叩き、ホウ、ホウ、ホウと鵜を励ます掛け声が涼風に乗って聞こえはじめる。

 篝火の火の粉が川面に散り、流れを赤く染める中、鵜匠が操る12羽の鵜が、代る代る潜り、鮎を捕らえる。それらを注意深く見守っている鵜匠が、これという鵜を船べりに引き上げ、鮎を吐かせて取り込む。

        
 やがて、漁の終着。六艘の船が横一列に並び、鵜を操る。クライマックスの総がらみだ。鵜を引き上げ、鵜籠に戻す頃、篝火も痩せ、やがて深い闇と静寂が支配する時間が訪れる。

 「ぎふの庄ながら川のうがひとて、よにことごとしう云ひのゝしる。まことや其興の人のかたり伝ふるにたがはず、浅智短才の筆にもことばにも尽くすべきにあらず。心しれらん人に見せばやなど云ひて、やみぢにかへる、此の身の名ごりおしさをいかにせむ。                                    
   おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉   芭蕉 (真蹟懐紙・夏・貞享五)

 

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伝統芸能の資料としてではなく生きた地歌舞伎の面白さ

2017-11-27 14:27:59 | 催しへのお誘い
 私は歌舞伎については暗い方だ。まともな公演は、名古屋の御園座で2回ほど観たのみ。あとはTVなどで断片的に。
 あ、そうそう、名古屋は大須の街を拠点に活躍していたスーパー一座の歌舞伎は何度か観たことがある。これはここで述べる「地歌舞伎」に近かったかもしれない。

           

 岐阜は全国一といっていいほど地歌舞伎の盛んなところである。県内に30箇所の保存会があり、それぞれの伝統を継承し、それらを形として守るのみではなく、祭礼などのことあるごとに、その地で現実に生きたパフォーマンスとして公演が行われている。

            

 地歌舞伎は、メジャーな大歌舞伎に対しては、大メーカーに対する地ビールや地酒のような位置づけだろう。演じる人たちも、みんな素人の地元の人たちである。
 ただし、それはマイナーな歌舞伎が今もほそぼそと生き続けているということではなく、地域に溶け込んだ独自な伝統文化としてヴィヴィットに生きている。
 だから、もはや大歌舞伎ではほとんど演じられなくなった演目を保持していたり、古くからの歌舞伎のための芝居小屋が残っていたり、社寺仏閣などの境内で奉納されたり、公演に協賛した人びとの名前がところ狭しと表示されたり、おひねりが飛び交ったりする。

            

 その脚本も、おひねりが飛んだり、大向うから声がかかるための見栄きりの場面が多いという。その掛け声も、役を演じる人の本名や下の名前であったり、はたまたあだ名であったり、職業であったりいろいろだ。
 ここには、むしろ、東京や大阪の大歌舞伎として集約されたものの、かつての原点のようなものが生きているといってよい。

            

 そんな地歌舞伎の、中津川地域を中心としたものの公演が岐阜市で行われ、それに行ってきた。そのきっかけは、舞台を取り仕切る仕事をしている友人のY氏がFace Bookにそれを告知していたからである。
 開演、30分前に会場に入ったが、演者の所作や表情がよく見える前方や中ほどは既に全て埋まっていて、後方からの鑑賞を余儀なくされた。
 舞台の写真がボケているのは後方からガラケーで無理やり引っ張って撮したせいである。

             

 さて、中身の方だが、地方に伝わる伝統的なものの資料と言った面を超えて、文句なしに楽しい。
 今回は地元での公演と違って劇場での披露だが、それでもなお、大歌舞伎と違って客席との距離や交流が、とても近くて温かい。
 ここぞというところで大向うから掛け声がかかり、前方ではおひねり がバラバラと舞台に投げ込まれる。

 それにみんなうまいのだ。なかには端役が台詞につまり、プロンプターの声が聞こえてしまうというご愛嬌もあったが、主だったところはみな上手い。浄瑠璃や囃子方もなかなかのものだ。

            
             舞台にバラバラと見えるのは飛んできたおひねり
 
 出し物では、『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)「熊谷陣屋」が面白かった。この『平家物語』を下敷きとして展開される大河ドラマにも似た延々と続く物語は、そのパロディとも言える異説で成立しているのだが、それにさらに後世の江戸期の武家のモラルが加算されて、独特の物語構成となっている。
 頼朝と義経の確執を前提とし、史実とはいささか異なる展開は、まるで陰謀論のように、なるほどそうだったのかと思わせる整合性も備えている。

 この長い物語を、凝縮したようなのが三段目の中の「熊谷陣屋」といえる。その前後には膨大な物語が散りばめられているのだが、やはりその核心は「熊谷陣屋」だといえる。脚本もうまくできていて、この部分だけでも全体像を推し量ることができる完結したドラマになっている。

                 

 最後は町家の物語、いわゆる世話物で、『増補八百屋の献立 新靭八百屋』。これは中津川保存会の十八番らしく、NHKホールなどでの上演されたことがあるという。
 母・くまを演じる役者さんは、かつての「ばってん荒川」のお米婆さんを彷彿とさせる演技で客席を沸かせていた。
 こうした世話物になると、ダジャレや風刺、現代風物なども飛び出して楽しいのだが、このお芝居は最後は悲劇に終わる。

 芝居も楽しかったが、それをめぐる全体も楽しかった。ロビーでは東濃地方の名産が販売され、五平餅やみたらし、焼きそばといった屋台が設えられ、幕間の人たちを惹きつけていた。
 前に八百津の方に行った折、そこで求めたせんべいが美味しかったので、「昔懐かしいふる里せんべい」というのを三袋500円でゲット。そしたら、「ハイ、これもおまけ」と煎茶の入った袋を付けてくれた。

            

 私がものごころついて始めてみた芝居は、疎開先の片田舎で70年ほど前の敗戦直後、村の祭礼での田舎芝居。復員してきた兵士たちも混じえて、手造りの装置や衣装、カツラによるものであった。出し物の詳細は忘れたが、戦争は終わった、もう戦地へ駆り出されることもなく、降り注ぐ爆弾のもと、死地を彷徨うこともないという解放感が溢れ、弾けた舞台であった。
 これらが、戦時中は決してできなかったものだったことを考え合わせると、芝居を観せる・観るという関係も平和ならでこそのものだとしみじみ思う。

 今度はおひねりを用意して、実際に地歌舞伎を上演している「現地」へ乗り込みたく思った。またひとつ地歌舞伎の「地」性が強く感じられることと思う。
コメント (3)
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パラミタ(波羅蜜多)ミュージアム @三重・菰野

2017-10-15 17:45:42 | 催しへのお誘い
 過日、三重県は四日市市のとなり、菰野町にあるパラミタ・ミュージアムを訪れた。



 この美術館、御在所岳を仰ぎ見る地点にあって、創立はいま選挙中の岡田克也の叔母さんに当たる小嶋千鶴子によるもの。この千鶴子さん、岡田屋呉服店をジャスコからイオンにまで育て上げた人で、その関係で、このミュージアムは岡田文化財団の運営になっている。
 なお、この千鶴子さん、101歳でご存命との由。


 
 一階の常設会場には、池田満寿夫の陶作「般若心経シリーズ」や千鶴子の連れ合いで洋画家の小嶋三郎の作品が展示されている。
 二階はその都度の催しであり、今回は平山郁夫の作品展であった。
 また、館の裏手には回遊できる庭園があり、さまざまな樹木や山野草の咲くなか、彫刻作品などが点在している。



 このようにロケーションが良いせいか、いつ行ってもけっこう人が多く、今回も平日にもかかわらず賑わいを見せていた。
 作品については余り書くまい。
 というのは私が訪れた前日、ここでお知り合いのSさんが行ってらっしゃって、もうレポートを書いていらっしゃるからだ。
 だから、Sさんとは違うアングルの写真と、やはりここまできたら御在所岳に近づいて私の好きな渓谷の写真でもと撮ったもののみを載せようと思う。



 あいにくのどんよりとした曇り空、御在所岳もロープウエイの白い鉄塔が見えるものの、やはり山の写真はバックの空がねぇ・・・。
 渓谷は三滝川。水源から海への距離は短いが、いろいろな表情を見せる川である。



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船頭重吉の漂流譚 劇団PH-7『石の舟』を観る

2017-09-18 22:56:55 | 催しへのお誘い
 久しぶりにナマの演劇を見ました。
 劇団PH-7による『石の舟』(脚本:北野和恵・演出:菱田一雄 於:名古屋市守山文化小劇場 9月16日・17日)がそれで、その下敷きは三田村博史の力作、『漂いはてつ』によります。

             

 話の概略は知多半島在住の小栗重吉が船頭を務める督乗丸が江戸からの帰途、遠州灘沖で遭難(文化10年=1813年)、以後484日という長期間太平洋を漂流し、イギリス船に救助され、日本人としてはじめてアメリカ大陸に上陸したという話です。しかしその後、カムチャッカ半島経由してちょうど200年前の1817年に帰国したものの、その間、14人の乗組員中12人を失い、結局帰国できたのは船頭重吉のほかは伊豆の音吉のみでした。

           
              

 それらのいきさつは、重吉からの聞き語りを記した池田寛親の『船長日記』に残されています。
 それらによれば、重吉は無事帰還できたものの、手放しで喜ぶわけにもゆかず、何よりも船頭という立場でありながら、多くの乗組員を失ったという自責の念が重く残ったといいます。そこでじゅうきちは、今でいうところの栄誉賞に相当するものとして与えられた苗字帯刀をも返上して、諸国を遍歴し、その経験を物語る傍ら、喜捨を求めて回ることとなります。

 そして、そうして集まった浄財をもって、いまは帰らぬ12名の者たちの名を刻み込んだ石で作った舟型の供養碑を名古屋の笠寺観音にの境内に奉納します(今は移転され、熱田区の成福寺に置かれています)。
 それがつまり、この芝居のタイトルになってる『石の舟』なのです。

           

 さて、その芝居を観たわけですが、事前に私には2つの気がかりがありました。
 そのひとつは、いわゆるアングラ劇団として30年以上のキャリアをもつこの劇団が、この原作のもつシリアスな内容と、劇団の持ち前であるエネルギッシュでヴィヴィッドな舞台表現をどうつなげてゆくのだろうかということでした。
 もう一つは、私はこの劇団の芝居を3回ほど観ているのですが、そのいずれもが何DKかのアパートぐらいの狭い空間でのもので、それはそれでうまく演じられていましたが、それが今回のような、大劇場ではないにしろ一定の空間をもった舞台で、どう展開され表現されるのだろうかということでした。

 幕が開くと、舞台は上下の2層に別れていて、この2層は2つの時代に隔てられていました。上層は200年前の笠寺観音を中心とした、つまり重吉が生きた時代の場、下層は、重吉の物語を書いている作家とその母が住む現代の場。

 上層には、すでに観た重吉の自責の念が吐露される場があり、下層には、どうやら失踪した父を持つ母子の物語があるようです。
 もちろんこの物語が平行して進むわけではありません。やがて上層と下層、200年前と現代とが混在しはじめ、時空を超えた場が作られてゆきます。そのあたりから、この劇団のパワーが全開となり、台詞と肉体のパフォーマンスが入り乱れ、観る者をグイグイと惹きつけてゆきます。

 そして、芝居は、重吉が建立した石の舟の出現とともにクライマックスを迎えます。重吉の苦悩にも、そして作家母子の問題にも希望の光が差し込むこととなります。
 そこに、観音様を出現させるのも面白いですね。慈母のような観音は、それらすべてを包み込んで、おおらかな肯定のうちへと導く存在です。

 ここには、アリストテレス流のカタルシスがあると同時に、ベートーヴェンの第九に歌われるシラーの詩、「苦悩を抜けて歓喜に至れ」が鳴り響いているようにように思いました。

           

 といったわけで、私が観る前にもっていた2つの気がかりは、みごとに解消されていました。そこには、やはりあのエネルギッシュなPH-7の舞台があり、そして確かに、ひとつの確固とした重吉像が描かれていました。 
 舞台も前面のせり出しも含め、そしてまた、上下の立体関係も含め、うまく機能していたと思います。
 いってみればこれは、重くて長い重吉の漂流譚の要となるエキスをうまく表出し得た脚本と演出の勝利というべきだろうと思います。
 ラストシーンは感動的なものでした。

 こうしてこの劇団の熱気に当てられて、頬を火照らせて帰途についたのでした。


《分かる人にはわかる追伸》オーリーさん、いい機会を与えてくれてありがとう。すべてを包み込む、ふくよかな観音様、素敵でしたよ。

 
 
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【観たいもの】ミュシャ「スラブ叙事詩」

2017-05-04 20:22:25 | 催しへのお誘い
 いま日本でやっている絵画展でいちばんみたいのが国立新美術館で行われている「ミュシャ展」である。

 http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/
 
 彼の名を一躍知らしめることになった女優、サラ・べルナールのポスター、あるいはその様式になる絵画群も知っているし、うちにはかなり大きなジグソーパズルになったものもあった。どこかで直接作品を見たこともある。
 以前の名古屋でのクリムト展での関連展示であったろうか。

          

 ついでながら、このクリムト展は、どういうわけか私にはいささか欲求不満を感じさせるものであった。

          

 今回のミュシャ展でとりわけ観たいのは、晩年の連作、「スラブ叙事詩」だ。
 これらの作品群は、自由と独立を求めて闘ったスラブ民族の歴史の描写というそのテーマ性もさることながら、その群像を描写する作家の視線の置き所、描かれた人物が定型化されず、それぞれの実存を秘めた眼差しを宿しているところなどだ。
 いってみれば、これらの絵画はその事件や出来事を描いているのではなく、そこに立ち会った人々のそれぞれありようそのものが描かれているということなのだろう。

          

 でも多分行けないだろうな。
 老いの身にとっては東京は遠すぎる。それに、その絵画展にのみゆくにはもったいない。誰かと親しく話す機会でもあれば決心がつくのかもしれない。

          

 ところでこのミュシャだが、1939年、チェコに侵攻してきたナチスにより捕らえられ、反ナチ的な民族意識の高揚を図るものとして厳しい尋問に晒された。しばらくして釈放されたものの、それがもとで体調を崩し、4ヶ月後には他界している。享年78歳はまさにいまの私と同年である。

          

 なお、1945年、チェコはナチ支配から開放されたが、その後の共産党政権はミュシャの民族性のようなものを警戒し、その存在を黙殺し続けた。
 ようするに、ナチズムからも、スターリニズムからも忌避されたということである。

          

 もちろん観たいのはそれだけによるのではないが、いわゆるイデオロギー体制が忌避するもの、いってみれば何ごとも単一に統制したい者たちにとっての余剰が何であるのかを観てみたいとも思うのだ。

 
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「雑然こそ素晴らしい ! 」 今池まつりのレポート

2012-09-18 16:21:30 | 催しへのお誘い
 16、17の両日は今池祭りでした。
 名古屋の今池という街は「雑然としていて駄目だ」というのは行政に委託されたコンサルタントの提言の結論でした。1989年のことです。
 雑然?雑然がなぜ悪いんだ?その雑然をぶっつけてやろうじゃないか・・・というので始まった今池まつりなのですが、今年でもう24回になります。

 
  
  


 嬉しいことに「雑然がなぜ悪い」というコンセプトは今なお生きています。
 これはまさに、電通や博報堂を始めとする広告会社の介入を一切断り、すべてが住民の手作りで運営されていることの賜物だと思います。
 ですから、統制もセレクトもありません、今池と何らかの関連を持つという表現者がこの時とばかりわっと集まります。

     
     

 しこもこの街は、中心になる広場なぞを持たないので、おおよそ10箇所の空き地や公園で、同時多発的、かつゲリラ的にパフォーマンスが展開されるのです。
 どこで何を見るのかは来訪者の選択によります。

        
      

 しまった、あそこであれを見ればよかったということは頻繁に起こります。
 しかしそれが人生で、人生は選択なのです。
 広告会社のガイドに従って「正規」のものを見るのとは一味も二味も違った祭りがここにはあるのです。

          

 ここに載せた写真は、私がセレクトしたパフォーマンスです。
 しかしそれによって、私が見過ごしてしまった数々のもっと面白かったかも知れないパフォーマンスが背後にはあるのだと思います。

          
  
      
 ここには、私がこの街で過ごした30年の歴史と、そこで出会った人びと、別れた人びと、の歴史がぎっしり詰まっています。
 「雑然がなぜ悪い」は当初は負け惜しみだったかも知れませんが、ここにいたってポジティヴな意味を持っていると思います。
 必然性や科学的予測の中に人の生が収斂されてゆくなか、それらをはみ出してゆく、複数性、多様性、偶然性の中にこそ、予測を裏切る面白さ、真の「出来事」があるように思うのです。


  

 かつて今池はエロスに満ちた街でした。現行はそうしたものは不可視です。しかしどこかにそうした「エロスを隠し持った街」ではないかと密かに思っているのです。
 私はこの街に来るといつも密かにつぶやくのです、「雑然がなぜ悪い」、「雑然こそ命 ! 」と。

 
韓国芸能のノリパン農楽隊の写真をたくさん載せました。私が好きだからです。
  他にも理由があります。時節柄、変な連中からの横槍や妨害工作がありはしないかという心配もあったからです。
  しかし、それは杞憂でした。野次ひとつもなく、素晴らしい演技には全員が拍手を送っていました。
  それにこの組織は、まだ冷戦時代の頃、南北の在日の人たち、日本人のいずれをも問わず、半島の芸能を学ぼうとする若者たちが始めたものです。ですから今なお、そのメンバーは混成のままです。
  今から24年前の今池まつりにこのグループが初めて登場した時のことが忘れられません。
  今池は在日のひとが多い街です。
  そしてその頃はまだ在日一世の人がたくさんいたのです。
  そこでこのノリパン農楽隊の演奏が始まるや、そうした人たちが立ち上がり涙しながら共に踊り出したのです。
  「生きているうちにこれが聞けるとは思わなかった」とメンバーの手を固く握り締める人たちもいました。
  涙、涙の演奏になりました。
 
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