六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私たちの目線とタレスの教訓

2020-10-31 01:52:30 | 写真とおしゃべり

            
 直立歩行する私たちの目は、顔の平面に並んで付いていているから、だいたいにおいてその視線は前面に対し水平に向けられます。もちろん左右を見たり、振り返って後ろを見ることもあります。
 上下方向では空をはじめ高いものを見上げるということ、そして足下に視線を落とすこともできます。

            
 ただし、俯いてばかりいないで前を見ろといわれたり、何かを見下ろすのはともかく見下すというのはよくないといわれたりすることもあります。
 ですから、足もとに気をつけなければならないような危険な場所とか、あるいは何か落としたものを捜す場合を除いて、あまり継続して足もとを見続けることはないのではないでしょうか。視線を落とすという表現も、概してあまり良くない場合に使われるようです。

            
 あ、でも、野の花を愛でたりする場合、あるいは植物学者が野山の植物の生態を探索する場合など、ひたすら視線を下げることもありますね。

            
 え、私ですか? まあ、あまり胸を張るような生き様をしてこなかったこともあって、視線を落とすことが比較的多いように思います。決して対象を見下しているわけではありませんよ。
 でも下を見ていると、ちょっと違った感じのもの、あるいはアングルの違いによる面白さのようなものに出会うこともあるようです。

            
 上を向く人の代表は、坂本九さんですね。「上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」などが思い出されます。
 元祖「上を向いて」は、星空の観察に夢中になって溝に落っこちたという最古の哲学者・タレスでしょうか。

            
 おっと、最初の出足と違って、やはり足元を見ることが大事だということになってしまいそうですね。
 写真はすべて、上から垂直に見下ろしたものです。

 

 

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三年間、全く一緒って・・・・。付:散歩道から

2020-10-29 01:40:43 | 写真とおしゃべり

 先般の健康診断の結果を聞きに行きつけのクリニックへゆく。
 結果は、コレストロールがやや多いが、これは善玉の方だから問題ない。さらに、貧血症状がみられるがこれも大したことはないとのこと。

         
 じつは、この結果はこの3年間、判で押したようにまったく一緒なのだ。で、健康状態は安定してるということで安心できるかというと、そうばかりではない。
 どういうことかというと、こんなに安定して健康が保たれていること自体が不思議なのだ。というか、そんなことはありえないのだ。

   
 傘寿をすぎることふたとせという老齢もさることながら、睡眠は不規則で熟睡は少なく、酒類は休肝日なんてどこの話という毎日皆勤、運動ときたら一週間ほとんど家にこもりっきりということもザラ、日に数度の二階との往復のみといった暮らしぶりなのだ。

       
 どう考えたって、これで健康なはずがないのだ。にもかかわらず、数値には全く異常は出てこない。ということは、休火山のその潜伏ぶりがあまりにも穏やかで、なんの兆候もデータには出ないにもかかわらず、ある日突、然爆発的な噴火をするような、そんな状態ではなかろうかと思えるのだ。

 

 まあ、この歳になれば、それもじゅうぶんあり得ることで、その可能性を心得た上で、これまでの生活を続けようと思っている。変に怯んで、これまでの生活習慣を変えようものなら、私が私でなくなってしまう。私と世界とのバランスが崩れてしまうのだ。

        
 そんな、ある意味身勝手なことを考えながら、クリニックの帰りを少しばかり遠回りして散歩に当てた。秋の深まりとともに日の落ちるのが早くなった。
 夕ざれた変哲のない道を辿っていたら、突然、忘却の彼方から、この間ほとんど耳にしたことがない歌が思い浮かんできた。

          
 「あの町この町」詞:野口雨情 曲:中山晋平がそれだ。
 歌詞の日本語とメロディの見事な調和、そして、そこに醸し出されるそこはかとない哀愁。かつての子どもたちは、こんな美しく豊かな世界を、自分たちの周りにもっていたのだ。
 https://www.youtube.com/watch?v=GE8a3vH44uI


 受診結果表の他の写真は帰途に撮ったもの 白い花は「お茶の花」

 

 

 

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誕生日の接頭詞は?

2020-10-26 15:09:08 | よしなしごと

 チェッ、だろうか。エッ、だろうか。それともア~ア、だろうか。
 どんな接頭詞も似合いそうにない私の誕生日。
 
 82歳という未経験の領域に入ることとなった。
 心身ともに能力の減退は明らか。
 人生の後退戦の、しかもその終盤に至って、どんなポテンシャルが残されているというのか。

             フォト
 すでにしてかなりの優れた友人たちを失ってきている。
 そんななか、傍目には、著しく劣化した生きる術を奮い立たせ、掻き立てながら、たんに悪あがきをしていると見えぬこともあるまい。
 妙なところでトンガッて、往生際の悪さを曝していると見えるかもしれない。

             フォト
 まあ、それらはみな当たってているのだから仕方ない。
 まあるい、穏やかな、全てを包み込むような晩年…なんてくそくらえだ。

 「なあに、案ずることはない。どうせ野垂れ死に覚悟で生きてきたんだろう」とつぶやいてみる。そして、「そうだよな」と応じてはみるものの、それも覚悟しきったそれとはいささか違い、歯切れがよくはない。
 しかし、それが私の82歳なら、「ウィ」といってすべてを引き受けるほかないだろう。

             フォト
 写真は誕生日の花だ。農協の花売り場で、自分で撮してきた。

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待っていただけではない『オルガ』 ベルンハルト・シュリンクの最新作を読む

2020-10-24 14:26:37 | 書評

 『朗読者』のベルンハルト・シュリンクの最新作『オルガ』を図書館で見つけて読んだ。彼の翻訳されたものはほとんど読んでいると思う。
 ストーリー展開の面白さと、そのストーリーの歴史的背景がしっかり掌握されているのが彼の先品の特徴だと思う。

 今回のものも期待を裏切らない。
 作品は三部構成で、全体を通じると、19世紀末に誕生した一人の聡明な女性、オルガ・リンケが1970年代初頭に亡くなるまでの一代記をなしているのだが、その各部ごとに叙述の主体といおうかスタイルが異なっている。

            
 まず第一部では、彼女の後半生に至るまでの過程が、とりわけ生涯の恋人・探検家のヘルベルトとの関係を中心に三人称で語られる。
 そのヘルベルトは、常に冒険や拡大を求める性格で、しょっちゅう世界中をめぐる探検に出かける。そして最後には、北極圏に新しい航路を見つける旅にでかけたまま行方不明となる。
 それを待つ彼女。まるでペールギュントを待ち続けるソルヴェイのようだが、ペールギュントと違ってヘルベルトは戻らない。
 そうしたオルガの、その後の生涯についても描写される。

 第二部では、彼女がその晩年、1950年代から世話になった裕福な家庭の息子、フェルディナントの視点からの展開で、オルガとの心温まる交流と、彼女がある爆破事件に巻き込まれて死亡するまでの経由、さらにはさまざまなきっかけから彼女の語られざる部分へと迫る過程が描かれる。そしてフェルディナントは、オルガの恋人で行方不明になったヘルベルトの北極探検の最終基地の街トロムソ(ノルウェー)で、その郵便局留めで書かれたオルガの手紙の束を入手する。

         
 第三部は、その30通の手紙をそのまま並べてものだが、彼女が語らなかったすべてが、ジグソーパズルの各ピースのように、収まるところへと収まり、秘められた意外な事実が明らかとなり、かくて彼女の生涯の真相が示されることになる。
 それらの意外な事実は、じつは、これまでの叙述の中に断片として散りばめられていたもので、思わず、なるほどそうであったかと納得させられる。

 この辺りは推理ドラマの要素を多分に含むのでネタバレは避けるが、ただ一言、彼女が愛する「男たち」を失う羽目になり、その「男たち」を奪っていった「拡大」志向のようなものに対し、批判的な立場を失うことなく、それを貫いたことをいっておくべきだろう。
 そしてそれは、ビスマルク以降、第一次、第二次(ヒトラーの時代だ!)世界大戦と続くドイツの歴史への彼女なりの総括であるともいえる。

            
 まあ、そうした時代背景などの固い話はともかく、そんななか、ひたすら自己を保ち生きてきたこの女性・オルガの生涯に、そっと抱きしめてやりたいようないとおしさを感じるのは私の感傷だろうか。

 いすれにしても、ベルンハルト・シュリンクのストーリーテラーとしての能力が遺憾なく発揮された作品といえる。

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岡崎城下騒然!5万円バラマキと「康宏・康浩」因縁対決の怪

2020-10-22 11:31:58 | よしなしごと

 以下の話の前半にではなく、後半の二代続くドラマにこそ私の興味はある。 

 愛知県では、去る18日開票の岡崎市長選挙で、自民・公明・立憲・国民・連合愛知の実質オール与党推薦の内田康宏氏(67歳)を、衆議院議員の経歴はあるものの市長選は初挑戦の新人・中根康浩氏(58歳)が、約10万対7万の差で勝利したことが話題になっている。

            

 その勝因は何かというと、端的に言って勝者が掲げた「コロナ禍で苦しむ市民に一人あたり5万円の給付金を支給する」という公約にあるとみられる。
 究極のバラマキ政策だが、選挙違反などの違法性はない。しかし、その実現の可能性の問題は残る。

 岡崎市民一人あたりに5万円を支給するに要する金額は、193億円超になるらしいが、その金額をどこから捻出するかだ。
 それを実現するには市議会での承認が必要となるが、上にみた選挙事情からして、議員数37名の内、与党とみられるのはこの選挙を側面支援した共産党の2名のみである。
 どんな裏付けがあってこの公約を出したのかよくわからないが、実現はかなり難しいと思われる。

        
 が、私の興味はそこではない。その決定は岡崎市民に任せるとして、例によって変なところに注目してしまったのだ。
 上の両者の氏名をよくみてほしい。康宏(内田)と康浩(中根)と字こそ違え、音読み(やすひろ)やローマ字表記は同じである。
 もちろんそんな偶然はよくあることで、これもまたそうした偶然のなせる技だろうと最初は軽く考えていた。

            
 しかしである、中根とは果たしてどんな人物かをWikiで調べてみたら、とんでもない事実に行き当たった。この名前の裏には、内田・中根両家の共感・共振の歴史が潜んでいたのだ。
 まずは、なぜ中根が康浩と名付けられたのかについて、Wiki は以下のように記述している。

 「父親の中根薫は1960年代初め、岡崎市青年団体連絡協議会長として青年団活動に力を入れていた。その過程で、県議選への出馬を目論んでいた愛知新聞社社主の内田喜久を知る。内田に心酔した中根薫は1962年に生まれた子供に、内田の長男・康宏の名前をとって『康浩』と名付けた」

           
 そうなのだ。この二人の名前の音読みの一致は、偶然ではなかったのだ。その父親たちの絆のなせる技だったのだ。この父親たちは、「キク(喜久)かおる(薫)」といわれた仲だったが、1980年、内田の息子の康宏を衆議院選に担ぎ出す際に現金の授受があったとしてともに逮捕されている(最高裁まで行って有罪)。

        
 今回、岡崎市長選で対決した二人は、こんな因縁の歴史を背負った二代目同士なのだ。
 さて、5万円のバラマキは果たしてどうなるのか、いささか気になるところだが、私としては、康宏と康浩の音読みの一致から、こんなことを調べてしまうという私自身に、老人性パラノイアの傾向がありはしまいかと深く懸念するところである。

        
 なお、康宏と康浩の「康」の字が共通しているのは、愛知県民なら誰でも知っているように、岡崎がほかならぬ徳川家康生誕の地であるからだ。
 え?愛知県民のくせにそれに気づかなかった?
 おのおの方、これを書いている私は、れっきとした岐阜県民でありんすわいなぁ。

写真、家康の銅像以外は、三年前の誕生日、岡崎城で私が撮ったものである。
銅像は昨年11月に公開された日本最大級といわれるものだが、私自身は未見。
 

 

 

 

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わが青春の街の思い出 名古屋、栄・矢場町界隈

2020-10-20 16:34:00 | 想い出を掘り起こす

 名古屋栄の交差点付近は、かつて名古屋の押しも押されぬ中心であった。最近でこそ、名古屋駅界隈に押され気味だが、それでもなお、その賑わいは相当なものである。
 駅前界隈が、戦前から敗戦後の諸建造物がほぼ一新され、新しい街に生まれ変わり、かえって再開発の余地が少なくなったのに対し、栄はこれからその更新が始まるということで、さまざまなプロジェクトが進められようとしている。

 しかし、それらへの関心はあまりない。この界隈での関心の拠り所としては、一挙に半世紀以上前の、私がまだ紅顔の美青年(厚顔の媚青年?)だった学生時代へと回帰するのが常だ。

                   松坂屋美術館、南廊下のステンドグラス

 栄交差点の南西へ少し入った通称「証券ガード」付近の音楽喫茶「琥珀」で、ショスタコの「五番」やチャイコン(チャイコフスキーの「P協奏曲」)、それにメンコン(メンデルスゾーンの「V協奏曲」)などをしかめっ面をして聴いたりしたかと思うと、そのすぐ前にあった、まだチェーン展開しない前の「寿がきや」で、ラーメンをすすり、世の中にこんなうまいものがあるのだろうかと思いっきり世俗的な食の世界に浸ったりしたものだ。

 ちなみに、当時の名古屋には珍しかったこの店の豚骨系のスープをめぐり、「寿がきやは蛇のダシを使っている」という噂があったりもした。むろん蛇だろうがマムシだろうがうまけりゃいいというのが基本で、だいたい、琥珀へいって寿がきやへ行けるなんてバイトの金が入ったあとぐらいで、ふだんは、腹さえ膨れればと、学食でラーメンライスを食っていたのだから。

 その前の50年代の中頃なんか、一家4人で店屋物のラーメンを一杯とって、それを分け合っておかずにしていたくらいだった。

       

 食いものの話はどんどん逸れてゆく。当時の街の様子に戻ろう。
 琥珀や寿がきやとさして遠くない、いまのスカイルビルがある辺りに、松本書店という古書店があった。そこを皮切りに、南大津通の西側に沿って転々と古書店があった。そこを辿ってゆくと、上前津の交差に至るのだが、その交差点近辺には四隅に数点の古書店があり、さらにそこで折れて、今の大須通(かつては岩井通といってたような)を東へ進むと鶴舞公園に至る間に数店の古書店があり、都合3キロ余のうちに十数軒の古書店があった。

 これを物色して歩くのはほぼ一日仕事だったが、しばしばそれを行った。具体的に特定の書などを捜すこともあったが、その場合ですら、それにとらわれずいろいろな棚を見て歩き、未知の領野の膨大さに圧倒されたものである。
 栄からのスタート地点では、文系の書が圧倒的だったが、鶴舞に近づくにつれ、理系の書が多くなっていたように思う。鶴舞の近くには名古屋大学の医学部と、名古屋工業大学があったせいだろう。

       
  矢場町角には古くからのハンコ屋さんが ハンコ屋いじめて行政改革でもあるまい
       

 今回は、それを懐かしみながら、栄から上前津までの間を歩いた。南大津通筋の古書店は全て消えていたが、上前津にはまだ4店舗が残っていた。

 写真はその途中の矢場町付近のものである。
 
 実はこの栄のエリア、もう一つ消すことができない思い出がある。ちょうど60年前、いわゆる60年安保の頃、学生だった私はほぼ連日のデモに参加していた。
 デモは、今度リニューアルオープンしたTV塔下広場から北上して、自民党愛知県連へ行くことが多かったが、当時まだ工事中だった百米通りの矢場町付近を解散点にすることもあった。
 6月15日の夜、国会南門付近での樺美智子さんの死を知ったのもこの矢場町に近いところでだった。それへの抗議と追悼のデモを行ったのも南大津通だった。

 私にとって、今でも名古屋の中心は栄であるし、生活圏として懐かしいのは千種区の今池である。

 

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「身が縮む思い」と反復のなかの差異 散歩道で

2020-10-17 13:52:29 | よしなしごと

 市の福祉行政の一環として、「健やか検診」というのがあって、500円で高齢者の健康状態をチェックしてくれるという。
 世の中には、「健康のためなら死んでもいい」ぐらいの健康オタクがいて、日々切磋琢磨したり、「チョットお待ち下さい。今回、初心者の方に限り・・・・」といったたぐいのサプリメントの摂取に余念のない人たちがいると聞くが、私の場合はほぼ無関心でなんのケアーもしていない。まぁ、それだけ健康なのかもしれないし、鈍感だから多少の故障があっても自覚症状として現れないのかもしれない。

            
            
    
 しかし、500円で現状の健康状態を数値で可視化してくれるのなら、やはり受けるべきだろうということで、やっと稲刈りが終わった田んぼに残り香のようにただよう稲の臭いを感じながら、いつものクリニックへ行く。
 採尿、採血などをし、聴診器でのチェックを受ける。それらの結果は、次回訪問時にしかわからないが、直ちに分かる数値は体重と身長である。体重の方は、ほぼ毎日、風呂上がりに自宅の体重計に乗っているので予想範囲内だったが、身長の方はいささかショックだった。

            
              終わってしまった曼珠沙華
            
     赤い蜘蛛 こうしてみるとタラバガニが蜘蛛の仲間というのは納得できる

 小学生の頃はあまり覚えていないが、中学、高校の頃の身長は、いつもクラスで5番前後で教室の前の方に坐った記憶はない。現に高校一年の頃は、誘われてバスケット部に所属したこともある。新人戦には出場したが、自分より小さな選手にらくらくと抜かれるなど、自分には才能がないことを嫌というほど知ったのと、二股をかけていた文系のクラブの方に興味が傾いたのでやめてしまった。

            
              これは紫式部でいいのかな

 その折の自分の最高身長が、今どきの高校生の平均身長であることを知ったのはもう一〇年以上前だったろうか。まあ、半世紀も経てば変わるものだとその時点では納得していた。
 しかし、問題は私自身の身長がどんどん低くなってゆくことである。今回も減っているであろうことを覚悟はしていたが、それが最高時に比べ、七センチ減ったとなるとなんか自分の身体がいつの間にか別物に乗っ取られたようで落ち着かない。人様からみた外見というより、自分自身の問題として妙な違和感があるのだ。

            

 そんなこともあったが、久々に徒歩で出歩いたのだから、チョット遠回りしてその辺を散策することにした。
 秋の日はつるべ落としという通り、自宅を出た折は爽やかな陽光といった日差しだったが、西の空が次第に赤みを増すなか、できるだけ自然が残っているようなルートを選んで歩く。私の歩くエリアは限定されているから、目新しいものは殆どない。しかし、そのなかに、私の既成の意識を揺さぶるような小さな変化の発見もないではない。

            
            

 自然も私たちの生も、基本的には一定のリズムで反復しているようにみえる。しかし、完全な反復などはありえない。偶然の契機や差異が忍び込み、反復のパターンは常に乱れる。そして、この反復を乱す差異の登場こそが歴史を形成する。そんな、形而上的なことなどをぼんやり考えながら、暮れなぞむなか、歩を進めるのであった。
 反復のなかの差異の堆積、それが私の身長を縮めた犯人でもある。

 

 

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食い意地が衰えない老人の書ける・・・・

2020-10-14 14:50:25 | よしなしごと

 わずかばかりのサラリーマン生活と、あとの自営業で、支給される年金は当初9万円近かったのが、介護保険料の天引きと、その後の年金そのものとの減額で、いまのところ手取りは月8万円しかない。エンゲル係数はうなぎのぼりで、いまや50%に近づきつつある。

 だから、私にとって食いもののの話は、いかに豪華でうまいものを食ったかではなくて、限定された条件下で何を食っているかになる。そうした制約下だから、豊かとはいえないまでも、決して惨めではない食生活もあるのではないかと、それには心がけている。
 つまるところ、身近に手に入る食材を自分なりの調理でささやかな満足を得るといったパターンになることが多い。

        

 農協の野菜売り場でゲットしたこれは、まず都会地のスーパーには出ないであろうものだ。ようするに里芋の親芋なのだが、私が子供の頃過ごした田舎では、「ゴジ芋」といっていた。
 確かに、小芋の里芋に比べると「ゴジ」っとするのだが、全部が固いわけではなく、上半分は里芋同様、ねっとりと柔らかいし、下半分も里芋とくらべれば固いが、そんなに固いわけではない。その上、上方の茎の部分も結構うまい。

 調理法はふつうに煮るだけでもうまい。
 私の場合、里芋は白煮風に仕上げるが、この親芋は醤油の色合いを気にせず、田舎煮風にしっかり味を滲ますようにする。
 下茹で風にして、味噌田楽にしてもうまい。
 変わったところでは、薄く切って下茹でし、フライパンでバタ焼き風にする場合もある。この場合は、好みのスパイスを色々変えてみると味にバラエティが出る。
 
 いじましい話だが、とにかく安価で手に入る。写真のものは80円であった。小さい方2つで田舎煮風にしたから、大きい方はバタ焼きにでもしようかと思っている。

        

 最後は、やはり農協の野菜売り場での一把100円の蕪菜を二把、鷹の爪、昆布などとともに一夜漬け風にしたもの。
 この前は、大根葉だったが、蕪菜は蕪菜でまた独特の香りと風味があってうまい。

        静隠や 芋と青菜の おらが秋   六

 

 

 

 

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【独断的読書雑感】『リベラル・デモクラシーの現在』について

2020-10-11 14:53:46 | 現代思想

 以下は、岩波新書『リベラル・デモクラシーの現在 「ネオリベラル」と「イリベラル」のはざまで』(樋口陽一)に触発された感想。
 
 この書によれば、リベラル・デモクラシーがネオリベラル(現今の新自由主義)とイリベラル(反知性的で偏狭ないわばトランプ的あるいはネット右翼的連中)の挟撃に逢っているという図式だが、実態はネオリベラルとイリベラルが相互に関連し、浸透し合っているということではないだろうか。

             
 
 ネオリベラルとイリベラルはさほど矛盾した存在ではない。ネオリベラルの自己責任論による格差の拡大、セーフティネット崩しなどによる貧困層の創出があるところに、それら排除された部分のルサンチマンを組織するイリベラルが跋扈する。トランプ支持者たちがそれに相当する。
 もちろん、わが国のネット右翼といわれる連中も例外ではない。

 翻って、現在進行形の米大統領戦をみるに、世論調査等の数字がそのまま実現するとすればバイデンが勝利するだろう。しかし、表層的にはトランプより紳士・淑女的であれ、その政策が基本的にネオリベラルの域を出ないとしたら、イリベラル生産の環境や過程は変わることなく継続されるだろう。

            

 なお、このイリベラルは、『全体主義の起源』で、ハンナ・アーレントがいうところの「モッブ」に相当する。そしてこのモッブは、いわばゴロツキなのだが、しばしば全体主義の露払いをするばかりか、場合によっては、ポピュリストとしてその全体主義の担い手そのものに成り上がったりもする。ヒトラーがそうだったように。

 また、このイリベラルを背景にしたポピュリストとしてはトランプがそうだし、身近なところでは名古屋市長の河村がいる。彼はレイシストで歴史修正主義者で、低俗極まりないデマゴーグである。

 ここから見えてくる課題は、ネオリベ支配の現実による犠牲者たちを、その支配の構造のなかに放置したり、あるいはイリベラルの疑似変革の罠に取り込まれないようにすることなのだが、現今の野党といわれている勢力がどこまでそれを自覚的に追求しているのだろうか。

 たんに、ネオリベやイリベラルに対しリベラルを対置するのみでは無力であろう。先に見たように、いわゆるリベラルを呼称しながら、その実、ネオリベと大して変わりない連中もいるからだ。

 

 

 

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繊細なものに宿る天平の崇高さ 「正倉院宝物展」を観る

2020-10-07 16:08:57 | 歴史を考える

 名古屋の松坂屋美術館でこの3日から開催している「正倉院宝物展」の入場券を頂いた。恥ずかしながらこの歳まで、正倉院というところへは行ったことがないし、その収蔵物についても「シルクロードを経てなんちゃらかんちゃら」などということを聞いたことはあるが、実際にはなんの見識もない。これは行かずばなるまいと、腰を上げた次第。

        

 ここで断っておかねばならないのは「宝物展」といっても、その収蔵品の現物が来ているわけではない。そのサブタイトル、「再現模造にみる天平の技」にあるように、すべてが「再現模造品」である。
 「な~んだ」といってここで顔をそむけるあなた、あなたは決定的に間違っている。

        

 なぜなら、まず大前提として、ホンモノの収蔵品を持ち出して展示することなどはまずもって不可能なのだから。
 それに、模造品ならではのメリットもじゅうぶんにあるのだ。それはまず、経年による損傷や退色を補って、それらが制作された当時の原型を観ることができる点にある。ようするに、「ホンモノ」より詳細にわたってそのディティールを鑑賞することができるのだ。

           

 しかもこれらは、近年流行りの3Dプリンターでさっとなぞったものとはまったく異なる。明治の初期から始まったその複製作業は、人間国宝などの超一流の職人が、そのオリジナルの素材まで追求し、当時の技法をなぞって生み出したもので、1,300年前へタイムスリップしたような出来栄えなのだ。
 例えば、素材の絹糸などは、その後、大玉の繭に押されて廃れてしまった奈良時代の養蚕繭、小石丸をわざわざ復活させ、それから製糸をするという凝りようなのだ。

        

 だから、ここに展示されているものは、徹底した学術調査の裏付けに支えられた超一流の技法による燦然たる芸術品といっていい。
 したがって私たちは、聖武天皇を始めとする天平貴族の命による贅を凝らした物品たちと、それを能う限り再現しようとする現代の優れた工芸家の最高水準の技倆とを合わせて鑑賞することができるのだ。

           

 見終わった感想としては、想像以上に天平の工芸が繊細にして優美、かつ高い技倆に支えられているということ、それとその技術が飛鳥から続く百済などからの渡来人のそれを含めた東アジア全体にその基盤を持つということ、さらには当時の東アジアは一応、「くに」という仕切りはあったものの、にもかかわらず、文化や技術、文物の交流が豊かであったということだ。

        
 
 個人的な思いとしては、天平時代の工芸の無駄とも過多とも思われる繊細な装飾の見事さのうちにある崇高さのようなものに撃たれた。崇高といえば、巨大な瀑布、オーロラのような天空の異変、荒れ狂う海など、スケールの大きさを引き合いに出して語られる場合が多いが(例えばカントの第三批判)、私は極小の繊細極まりない装飾、それを無心に造り上げた職人たちの息遣い、あるいは、機能的にみれば無用の用の極限ともいえるそれらを産み出す時代そのものの情熱のなかに、ある種の崇高さを感得したのだった。
 
 時代を越えて存続する制作に触れ合うこと、それは自分の生の連続性を改めて歴史の中に置いてみることかもしれない、というのはちょっとカッコ良すぎるまとめか。

 

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