六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【ズンドコ節考・5】「君いつ帰る!」

2008-01-31 01:44:08 | よしなしごと
以下は連載の五回目に当たります。はじめてお越しの方、もちろんこれだけお読みいただいても結構ですが、お時間に余裕がございましたら、前のものもお読み下さい。 
 
 前回には「海軍小唄」と呼ばれたズンドコ節の元歌をとりあげました。
 そのおさらいで、1番と2番の歌詞をもう一度掲載してみます。

(1)
 汽車の窓から 手をにぎり  送ってくれた 人よりも
 ホームの陰で 泣いていた  可愛いあの娘が 忘られぬ

(2)
 花は桜木 人は武士  語ってくれた 人よりも
 港のすみで 泣いていた  可愛いあの娘が 目に浮ぶ

 ここには、目立つヒロインと目立たないヒロインの対比があり、それは同時に、建前のヒロインと本音のヒロインの対比に相当することを述べました。
 そして建前のヒロインは「大日本帝国婦人会」へと流れることも述べました。
 では、「柱の陰」や「港のすみ」で泣いていた女性はどうなったのでしょうか。
 それが今回のテーマです。

 そして、その状況にぴったりの歌があるのです。
 ズンドコ節では一貫して男の視点からのものでしたが、それを女性の立場から唱ったものがあったのです。
 それは以下のものです。

 

 「夜のプラットホーム」 作詞 奥野椰子夫・作曲 服部良一.
             唄 二葉あき子 1947年(昭・22)


(1)
  星はまたたき 夜はふかく 
  なりわたる なりわたる プラットホームの 別れのベルよ 
  さよなら さよなら 君いつ帰る

(2)
  ひとはちりて ただひとり 
  いつまでも いつまでも 柱によりそい たたずむわたし 
  さよなら さよなら 君いつ帰る

(3)
  窓に残した あのことば 
  泣かないで 泣かないで 瞼にやきつく さみしい笑顔 
  さよなら さよなら 君いつ帰る


 年輩の方はご存知の方が多いと思いますが、同時に、戦後の1947年(昭・22)のこの歌がなぜ、ズンドコ節のアンサーソングなのか、男女の別れを唱ったものに過ぎないではないかとお思いになるかも知れません。
 確かに、戦後においてはそうしたものとして受容されたのでした。
 しかし、この歌にはその前史があったのです。

 というのはこの歌、実は戦時色がいよいよ濃厚になりつつあった1939(昭・14)年に、既にレコーディングされていたのです。しかも、出征兵士を送るという意味合いを込めてです。作詞、作曲や歌詞は一緒でしたが、その折りの歌い手は淡谷のり子でした。
 しかし、この歌は陽の目を見ることはなかったのです。

 発表されるやいなや、即、発売禁止になってしまったからです。
 理由は、出征兵士を送るには全体的に陰々滅々として勇壮な見送りではない、むしろ厭戦気分をかもし出す、とりわけ、「行ってきます」が、「逝ってきます」の時代に、「君いつ帰る」とは何ごとかというわけです。
 一銭五厘で狩り出された以上、兵士達の命はもはやお国のものであり、天皇のために死を厭ってはならない存在だったのです。
 要するに、それを悲しむ本音のヒロインはもはや登場する余地がなかったのです。

 

 従って、この歌が晴れて登場するためには敗戦という事態を越えねばならなかったのです。それが二葉あき子によるリメイク版なのでした。これは、先に見た「海軍小唄」が、戦後、田端義夫によって恋の歌として甦ったのと同じですね。
 ただし、「海軍小唄」は戦時中でも歌い継がれていたのに対し、この「夜のプラットホーム」は権力の手によって、固く固く封印されていたのです。

 しかし、これには後日談があって、作曲者の服部良一はどうしても諦めきれず、「I'm waiting」という詩に英訳し、なおかつ、作曲者名を服部良一をもじったR・Hatterとして、あたかも洋盤であるかのようにして売り出したのです。

  I'm waiting

Soon, I will be all alone.
Soon, you will be gone.
How sad each long day !
How dark each long night !
I will be waiting you,
Counting the hours you are away.
Good-bye, my lover, though we part now.
Soon be back to me, certainly !

 この歌がどのように具体的に流通したのか今となっては分からないのですが、ただし、こちらの方はどうも発禁にはならなかったようです。
 検閲官が英語に暗かったのか、それともこれを前に発禁にしたものと同じものであることが分からず、恋の歌としてスルーさせたのかも知れませんね。

 しかし、いずれにしてもその二年後の日米開戦以後は、英語の歌は敵性歌として全面的に禁止されてしまいました。時あたかもスイングジャズの全盛時代、ジャズ愛好家達はポータブルレコードを持って押入に入り、頭から布団を被って外へ音が漏れないようにして聴いたのでした。
 むろん発覚すれば、特高警察か憲兵隊へしょっ引かれたのですから、命がけの鑑賞だったわけです。

 



おまけのトリビア
 服部良一は、戦前戦後を通じて、古賀政男と並び、日本歌謡曲界を引っ張ってきた大御所でした。古賀の方が演歌に通じていたのに対し、服部はバター臭いものを得意としました。
 
 それもそのはず、彼は若い頃、あの朝比奈隆と共に、大阪フィルの団員だったことがあるのです。その後、ポピュラーに移るのですが、西洋音楽をバックとしたものを作り続けました。
 戦前では、淡谷のり子と組んだブルースのシリーズ(「雨の・・」、「別れの・・」など)、「蘇州夜曲」、「湖畔の宿」などがヒット。戦後では、笠置シズ子と組んでのブギウギ(「東京ブギ」、「買い物ブギ」など)や、「青い山脈」、「銀座のカンカン娘」など多くの曲で知られています。

 要するに、服部良一は、間違いなく、和製ポップスの元祖的存在であるということです。

 なお、現在も作曲家として活躍している服部克久はその子息で、その孫、隆之もまたドラマや映画の音楽を多く手がけています。
 さらに、その曾孫は富沢宏順といってジャニーズJr.のメンバーらしいのですが、その辺までくると、もう私の守備範囲ではありません。

  

<予告> 次回からは、こうした「厭戦歌」のバリエーションを考察して行きます。
 これらは、私の少し上の年代の人々の青春のありようだったのであり、それを調べ、書いていると、何だか切ないものがこみ上げてくるのです。

     
 


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【ズンドコ節考・4】恋の歌ではなかった!

2008-01-29 03:03:26 | よしなしごと
これは、連載の第四回に相当します。
 はじめていらっしゃった方は、むろんこれだけでも結構なのですが、余裕がありましたら最初のものからご覧になって下さい。

 
 
 ズンドコ節は私の幼少時から周辺で唱われていて、てっきり始めから「ズンドコ節」だと思っていたのですが、実はそうではなかったのです。

 この歌が広く知れ渡ったひとつの契機に、戦後すぐ、歌手の田端義夫がレコード化したことがあったのですが、その折に、その囃子言葉から「ズンドコ節」と名付けられたのです。敗戦直後で、従前からのの原題(後出)を付けるわけにはいかなかったということもあります。
 田端が歌った歌詞は特定できませんでしたが、多くの証言によると、それはいわゆる元歌と同じだったようです。

            

 それではいよいよ元歌の登場です。


 作詩作曲者不詳

(1)
 汽車の窓から 手をにぎり
 送ってくれた 人よりも、
 ホームの陰で 泣いていた
 可愛いあの娘が 忘られぬ
 トコズンドコ ズンドコ

(2)
 花は桜木 人は武士
 語ってくれた 人よりも
 港のすみで 泣いていた
 可愛いあの娘が 目に浮ぶ
 トコズンドコ ズンドコ

(3)
 元気でいるかと 言う便り
 送ってくれた 人よりも
 涙のにじむ 筆のあと
 いとしいあの娘が 忘られぬ
 トコズンドコ ズンドコ


 いかがでしょうか。1番から3番まで、私がこの連載の冒頭で述べた「目立つヒロインより目立たないヒロイン」という特徴がよく現れているでしょう。
 そうした特徴が、「アキラ」のもの以外に色濃く引き継がれていることはすでに見てきたとおりです(「きよし」の&「ドリフ」の)。

 


 では、田端義夫が「ズンドコ節」として唱う前の、つまりまだ戦争のまっただ中にあった時期の、この歌のタイトルは何だったかというと、それは「海軍小唄」といったのです。
 だから敗戦直後にはそれを題名とすることが出来ず、「ズンドコ節」になったのです。
 そして、この歌詞の状景は、単なる男女の恋の歌や別れの歌ではなく、出征兵士が戦場にとられて行く状況を唱ったものなのです。

 その特質は、2番の歌詞によく現れています。
 「花は桜木 人は武士」と語った大和撫子は、要するに「立派に死んでこい!」といっているのです。それに対比するように港のすみで泣いている娘は「死んでくれるな!」と祈っているのです。
 やがて、「立派に死んでこい」と送り出した女性は、割烹着に「大日本帝国婦人会」のたすきを掛けて華美な化粧や服装を咎めて歩き、パーマをあてた髪にハサミを入れたり、ドレスに墨を塗ったりすることになります。

 ここでは建前のヒロインと、その陰ともいうべき本音のヒロインとが対比され、その後者こそが肯定されているのです。
 ここに、この歌が、いわゆる「厭戦歌」であるゆえんがあります。

 

 ちなみに当時の日本には。実質的に「反戦歌」というものはありませんでした。歌というのは本来声に出して唱うものなのですが、反戦の意味を込めた歌など唱おうものなら、特高警察か憲兵がとんできて、即逮捕、拷問、その命さえ危ない時代だったのです。

 しかしながら、建前とは別に、厭戦の気分は当然ありました。それらの噴出が上の「海軍小唄」などで、作詞、作曲が不明なのが特徴です。
 そしてこの系譜の歌はこれに留まらず、他にも結構あるのです。
 それらを逐次追ってみたいと思いますが、次回は特に寄り道をして、「柱の陰で泣いていた」女性の方に焦点を当てた考察をしてみたいと思います。

 

おまけのトリビア

 ネット上でこの歌の英訳を見つけました。
 訳したのは、B・Itoという人ですが、それが誰なのか探しても見つかりませんでした。


‘Zundoko’ Song 英訳歌詞: B. Ito

(1)
Holding my hands / at the train window,
People saw me off / at the station.
A girl was weeping / in the same corner.
I can’t / for get the lovely girl.
Toko zundoko zundoko.

(2)
“Blossoms, cherry’s are best / and men, bushi.”
People said to me_ / when they saw me off.
A girl was weeping / in the port corner.
I can’t / forget the lovely girl’s face.
Toko zundoko zundoko.

(3)
“We hope you are getting / along well.”
People wrote to me / one of those days.
A girl wrote to me / tear stained letters.
I can’t / forget the pitiful girl.
Toko zundoko zundoko.



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【ズンドコ節考・3】マイトガイ・アキラ

2008-01-27 02:35:56 | よしなしごと
これは、連載の第三回に相当します。
 はじめていらっしゃった方は、むろんこれだけでも結構なのですが、余裕がありましたら最初のものからご覧になって下さい。


 1960年、マイトガイにしてギターを抱いた渡り鳥こと、小林 旭によってリリースされたものである。
 60年と言えば、かの安保闘争が示すように、戦後のひとつのエポックであり、日本のその後の基本路線が決められた年といっても良い。

 このズンドコ節は、ドリフの総花的なそれとは違っていわばラブソングに絞られたものであり、その意味では「きよし」のそれはこの路線でのリメイクといって良い。
 ただし、この歌には、前にズンドコ節の特徴であるといった「目立たないヒロインとその純愛」といった面は全く見られない。そればかりか、ここではその女性のイメージすら全く述べられておらず、ただ、男性の自負と思いのみが唱われているのである。

          

 歌詞は以下のようである。

 1. ズン・ズン・ズンドコ
   ズン・ズン・ズンドコ
    街のみんなが振り返る
    青い夜風も振り返る
    君と僕とを振り返る
    そんな気がする恋の夜
    
    散歩しようか踊ろうか
    一緒にいいましょアイラブユー
    グッドナイトと二人に
    ウインクしている街灯り

 2. ズン・ズン・ズンドコ
   ズン・ズン・ズンドコ
    街の夜更けをただ一人
    君と別れてただ一人
    恋の切なさただ一人
    抱いて戻れば星が降る

    今夜もあの娘(こ)を夢で見る
    逢いたい見たいと夢で見る
    夢で見なけりゃなんで見る
    見るまで一日寝て暮らす

 
 まず、囃子言葉のズンドコであるが、実際に唱っているものを聞くと、力強く重々しい。これはマイトガイの小林を強調しているせいかもしれない。

 1番の「街のみんなが振り返る」は随分自意識過剰に聞こえるかもしれないが、今とは違って、恋人同士が寄り添って歩くのはまだまだ目立った時代だったのである。
 恋人でもないひととでも、男女二人が歩くのはまだ幾分はばかられた時代でもあった。

 そんな中、惚れた同士が共に歩くという自負と喜びのようなものがこの歌詞にはよく現れている。そしてそれが、1番後半のカタカナが多い「ハイカラ」な歌詞へと繋がる。
 それにしても、「一緒にいいましょアイラブユー」とは今聴いても背筋がむず痒い感じがするが、「もはや戦後ではない」といわれはじめた時期の開放感と、そのもはや戦後ではない内容がどうしようもなくアメリカナイズされたものであるという事実を如実に示している。

 ここまで、あるいは2番の前半まで見るとロマンティックな歌で終わりそうなのだが、やはりそれだけで終わらないのがこの歌のようで、2番の後半のフレーズはコミカルな響きを持って「落ち」をつけている。

 なお、このズンドコ節と姉妹編のように、「アキラのダンチョネ節」というのがあり、それが回り回ってズンドコ節とも絡み合うのだが、それはまた追って述べたい。

     


おまけのトリビア
 
 小林 旭は美空ひばりと結婚し、その後離婚するのであるが、その結婚も離婚も、ひばりの父親代わりの山口組三代目組長田岡一雄からの指図であったという。
 むろん両者に恋愛感情はあったものと思われるが、とりわけひばりの母親がその結婚に反対し続けたため、結局は入籍もしないままに離婚を迎えたという。
 ということは、小林の方はその後再婚したが、ひばりについていえば戸籍上は生涯独身であったということになる。

<予告> 次回はいよいよズンドコ節の元歌についてです。
     そしてこの元歌が意外な転換を見せるのです。



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【ズンドコ節考・2】 ザ・ドリフターズ

2008-01-25 11:09:56 | よしなしごと
これは、連載の第二回に相当します。
 はじめてお越しの方は、もしよろしければこの前の第一回もお読み下さい。


 いわゆる「ドリフのズンドコ節」である。
 1969年(昭和44年)11月にリリースされ、翌70年にかけて大ヒットした。
 「8時だョ!全員集合」などのテレビ番組でよく唱われた青少年向きのコミックソングというのが一般的な見方であろうが、それがなかなかのくせ者で一筋縄では行かない内容を持っているのである。
 
 「目立たないヒロイン」の登場という元歌以来の伝統を引き継いでいるのは前回に見た「きよし」のそれと同様であるが、いささかニュートラルな感がした「きよし」のもの以上に、まさにその時代の状況そのものを色濃く映し出しているといえよう。
 というより、それは、作詞者により意識的に埋め込まれているのだが、その概要や作詞者名はあとに譲ろう。
 音楽としてはテンポが速く軽快であり、数あるズンドコ節の中で最もノリがいいのではあるまいか。囃子言葉のリフレインも歌を盛り上げて行く上での要素となっている。

           

 まずはその歌詞をみて行こう。

1.ズンズンズンズンズンズンドコ
 ズンズンズンズンズンズンドコ

学校帰りの森影で
ぼくに駆けよりチューをした
セーラー服のおませな子

甘いキッスが
忘らりょか ソレ

2.(囃子言葉は1番と同様なので省略)

毎日通った学食の
赤いホッペの女の子
内緒でくれたラーメンの
ショッパイ味が懐しい

3.(囃子言葉は1番と同様なので省略)

入社早々一目惚れ
お尻をフリフリ歩いてた
社長の秘書のグラマな娘
でっかいヒップが
目に浮かぶソラ

4.(囃子言葉は1番と同様なので省略)

飲んでくだまきかみついて
つぶれた俺の耳もとで
体に毒よとささやいた
ノミ屋の娘が
いじらしい ソラ

5.(囃子言葉は1番と同様なので省略)

やって来ました倦怠期(けんたいき)
不貞くされ女房は家出して
スイジセンタク ゴハンタキ
新婚当時を思い出す ソレ

6.(囃子言葉は1番と同様なので省略)

汽車の窓から手をにぎり
送ってくれた人よりも
ホームのかげで泣いていた
可愛いあの子が忘らりよか

(長い囃子言葉のリフレイン、省略)

        

 以下は、これらの歌詞をめぐっての考察である。

<1番> 
 これはある意味で衝撃的であった。
 といってもそれは、「男女七才にして席を同じゅうすべからず」といった教育が残響として残っていた私のような年配者にとってであるが・・。
 セーラー服と言うからには、女子高生か中学生であろう。その年代が好きな相手にキッスをする、それが堂々と唱われ、ブラウン管を通じて全国へ蔓延する、そんな時代の変遷を物語っていたといっていいだろう。

 そうした若年層の愛情表現、というか性風俗は、やがて、キッスから妊娠に至るA・B・C・Dといったスラングを生み出し、H(性行為)の後にI(愛)がある(アルファベット順による洒落)といった逆転現象まで生み出すこととなった。

<2番>
 これは元歌以来の伝統で、目立たないヒロインの純情と、そのおかげを被ってもててしまった男のお話である。

<3番>
 当時映画などのシリーズではやったサラリーマン物のパロディである。
 高度成長期の右肩上がりの時代、終身雇用と年功序列に守られたサラリーマンの時代の到来であった。

<4番>
 これはまた、当時の演歌のパターンをパロったものであるが同時に、2番の状景とも重なる。
 この逆パターンで女性が飲んでつぶれるのを男がたしなめるというのが小林幸子の「おもいで酒」であるが、そうした状況の出現は10年後であった。
 
<5番>
 これは見やすいだろう。明らかにクレージーキャッツのパターンをなぞるものであり、それは充分意識されていたと思われる。

<6番>
 これは元歌のズンドコ節の一番と同じものである。
 ここへと回帰することにより、それまでの歌詞が、これをベースにしたバリエーション、あるいはパロディであることを如実に示している。


 以上見てきたように、この「ドリフのズンドコ節」は青少年向けのコミックソングの枠を超えて、しっかりその時代を、しかも多面的に描いている
 この作詞者は、クラシックから演歌まで、また、作詞から小説まで、広い視野で知られるなかにし礼氏である。


おまけのトリビア
 このドリフターズは、昭和41年(1966年)6月日本武道館で行なわれたビートルズの来日公演の前座を勤めている。
 この時の曲は「のっぽのサリー」で、歌は真面目に唱っているが、振りはコミカルで、最後は全員が舞台に倒れ、加藤茶の「ばっかみたい!」という科白で決めている。


<予告> 次回は「アキラのズンドコ節」



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【ズンドコ節考・1】「キヨシッ!」

2008-01-23 16:47:21 | よしなしごと
<序>
 長年生きてきたおかげで、沢山のズンドコ節を知っている。
 それらを新しいものから遡行しながら、順にみて行こう。
 幾分大げさな言い方をすれば、それら複数のズンドコ節の背景に、その時代がみるように思うのだ。
 以下、私が知る限りでの幾つかのズンドコ節、また、それから派生することどもにつき、思いつくままに記してみたい。

 なお、一挙掲載は長文になるので連載とした。
 
 ==============================
 
 昨今のそれは、
   「ズンッ ズンズン ズンドコ!」
 という囃子言葉に、「きよしっ!」という黄色い(中には焦げ茶色もあるが)かけ声がかかる「きよしのズンドコ節」(詞:松井由利夫 曲:水森英夫)ということになろうか。
 
          

 その歌詞は以下のようである(囃子言葉の部分は除く)。    

一 風に吹かれて 花が散る
  雨に濡れても 花が散る
  咲いた花なら いつか散る
  おなじさだめの 恋の花
  向こう横丁の ラーメン屋
  赤いあの娘の チャイナ服
  そっと目くばせ チャーシューを
  いつもおまけに 2・3枚


二 明日 明後日 明々後日
  変わる心の 風車
  胸に涙が あふれても
  顔にゃ出せない 男なら
  角のガソリン スタンドの
  オイルまみれの お下げ髪
  なぜかまぶしい 糸切り歯
  こぼれエクボが 気にかかる
 

 この一番には、もててしまった男の告白がある。
 そして一番、二番に共通して、ヒロインとして目立つ女性より、あまり目立たない女性に対しての関心がある。
 そしてそれらは、その純情さへの男の願望を色濃く持っている。
 
 この二つの要素は、実は幾つかのズンドコ節においての共通のパターンなのであり、それがゆえにこの歌が様々な歴史の変遷の中でその形を変えながら生き延びてきたポイントとなっているのかも知れない。
 だからいうなれば、ズンドコ節は徹頭徹尾、男の歌なのであり、男の願望なのである。
 そして、それぞれのズンドコ節は、それぞれの時代の中で、それを唱い上げてきたのだといえる。

 その意味では、この「きよし」のズンドコ節は、時代そのものに対しては淡泊でニュートラルであるように思う。この時代に特有の今日性を宿してはいない。
 それはまた、氷川きよしという比較的アクを持たないそれ自身ニュートラルな歌手に適した歌であるのかも知れない。
 幾分皮肉な言い方をすれば、ズンドコ節のポストモダン編ともいえそうだ。

  <予告> 次回はドリフのズンドコ節

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

檸檬の輝きと六の時事川柳

2008-01-21 01:59:28 | 川柳日記
 寒いからと言ってうちにばかりひっこんではいられない。
 土曜日、陽射しもあって幾分暖かそうなので近くに散歩にでた。

 季節が季節だから、いつもとはちょっと違うコースを辿ったら、たわわに柑橘類が実った木に突き当たった。
 果実の形状が心なしか違うようなのでよく見たら、檸檬(レモン)であった。
 恥ずかしながら、ン十年生きて来て、木になっているレモンを見たのははじめてである。

 もちろんこの道ははじめてではない。おそらく今までは、檸檬が実を付けない時期にしか来たことがなかったのだろう。
 もし、実を付けていたら注意深い私が気付かないはずはない(こういうことは自分で言うものではない!)。
 いずれにしても、冬の陽光に輝くその果実は美しかった。
 その近くに他の柑橘類が実った木もあったのだが、やはり檸檬は幾分色合いが違う。レモン・イエローという言葉を改めて思い出した。

 しかし、こんな場所で立派に実を付けるのに、スーパーへ行くとほとんど国産の檸檬はなく、たまにあってもとても高いのはなぜなんだろう。
 おそらく自然の条件を超えた経済のメカニズムが働いているからだろう。
 私たちは、豊かな自然に囲まれているように見えながら、実は、目前にあるそれらから引き離されて、様々な媒介物、政治や経済などを経てしか自然と再会できないようなのである。

 そんなゴタクとは関係なく、檸檬は冬の陽射しの中で輝いているのであった。

     


<今週の川柳もどき>  08.1.20

 やっぱりなどげんかせんといかん
  (東国原知事ら国政単位の新グループ)

 永田町二五円のせめぎ合い
 暫定を食って土建屋肥え太り
  (ガソリン国会)

 道理でな書きやすかった年賀状
 古紙よりも薄い倫理を混ぜて漉く
  (インチキ再生紙)

 救急車たらい積むかと子に訊かれ
  (あと断たず。医療体制の問題)

 汗しても六割だけが懐に
  (あとの四割は派遣会社の搾取)

 殺人と火事で家族が消えて行く
  (連日)

 一敗がさらなる勝利への起点
  (女子レス吉田選手連勝途絶える)


 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

DV? 一高生、女性を足蹴に!

2008-01-19 15:30:09 | よしなしごと
 この度、「讀賣新聞」が伝えるところによると、一高生、間 貫一なる者が、デートDV(dating violence)の疑いで、当局の事情聴取を受けている模様。
 事件は、去る一月一七日夜半、静岡県の熱海海岸で起こったもので、被害者は、間と将来を言い交わした仲、鴫沢 宮さんと見られる。

           

 この一部始終を目撃したとされる尾崎紅葉氏によれば、間は鴫沢 宮さんが心変わりしたものとみなし、激昂のあまり暴行を加えたという。
 当局に、参考文献として提出された尾崎氏の記述によれば、以下のようである。まずは、間が以下のように切り出したという。

 「吁(あゝ)、宮さん恁(かう)して二人が一處(いツしょ)に居るのも今夜限(ぎり)だ。お前が僕の介抱(かいはう)をしてくれるのも今夜限、僕がお前に物を言ふのも今夜限りだよ。一月の一七日、宮さん、善(よ)く覺えてお置き。來年の今月今夜は、貫一は何處(どこ)で此月(このつき)を見るのだか!再來年(さらいねん)の今月今夜……十年後(じふねんのち)の今月今夜……一生を通(とほ)して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可(い)いか、宮さん、一月の一七日だ。來年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何處かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ。」

 それに対し、鴫沢さんの事情説明や言い訳などがあった模様だが、間はそれに納得せず、暴行に及んだという。そのくだりを、前述、尾崎氏の記述から再び引用する。

 「それぢゃ斷然(いよいよ)お前は嫁く氣だね!是迄(これまで)に僕が言っても聽いてくれんのだね。ちえゝ、膓(はらわた)の腐った女!姦婦(かんぷ)!!」
 其聲(そのこゑ)と與(とも)に貫一は脚(あし)を擧(あ)げて宮の弱腰を礑(はた)と〔足易〕(け)たり。(宮は)地響(ぢひゞき)して横樣(よこさま)に轉(まろ)びしが、なかなか聲をも立てず苦痛を忍びて、彼(女)はそのまゝ砂の上に泣き伏したり。

            

 以上が事件のあらましだが、奇怪なのは、こうした尾崎氏の目撃証言にもかかわらず、鴫沢さんがその間の経緯に関する証言を拒んでおり、したがって、DVの立証は困難かと思われる。

 なお、間の方は、その容疑を大半にわたって認めており、刑事告発も覚悟している模様。その場合、一高は追放になるのだがどうするつもりかの質問に対し、いずれにしても退学し、以後は、闇金融を生業として過ごすつもりだと答えているとのこと。

 一方、目撃証言をした尾崎氏に対しては、ここのところ熱海海岸で続発している覗きや盗撮の容疑者との見方もあり、その方面からも当局の厳しい追求がなされている模様。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パラノ? スキゾ? ニューアカの想い出とそして・・。

2008-01-17 06:21:13 | 想い出を掘り起こす
 四月の頭に、ある会合で勉強の成果(?)を発表することとなっている。
 予め決まっていた発表者がキャンセルし、そのピンチヒッターに指名されたのだが、バッターボックスに立てるというだけの軽薄な動機と、指名されたという喜びに舞い上がってしまい、つい引き受けてしまったのだ。
 引き受けてしまってから、その責の重大さに気付き、あわてふためいて付け焼き刃の勉強をはじめるというのだから、わがことながら困ったものである。
 
 その発表の参考資料とすべく、いわゆるニューアカ・ブームに火を付けた浅田 彰のものをパラパラッと参照してみた。それらの書は、『構造と力』(1983)と、『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』(1984)の二冊だが、その内容には立ち入らないでおこう。
 若き日々の自分自身をちゃんと清算できないまま、勉強するでもなく、ただただ目に付くものを読み漁り、のんべんだらりん過ごしていた私にとって、これらの書がある衝撃を与えたことは否定し得ない。が、その内容についても言うまい。取り敢えずは、その、いわゆるニューアカブームに関しての想い出を綴ることとしよう。

 

 これらの書のもたらしたインパクトは、それが若干26才の京大の助手によって書かれたものであること、そしてその彼が、臆すことなく当時のビッグネームの思想家に立ち向かったばかりか、それらをチャート式にまとめてしまったことにあった。
 それらの本は売れた。人文書籍としては例がない短期間の間に、ミリオンセラーとなった。
 巷では、OLすらもが『構造と力』を小脇に抱えて闊歩したなどと報じられたが、この報道には底意がある。要するに、「女子供ですら」という例のあれである。しかも、「分かりもしないくせに」という蔑視が張り付いていた。
 ミリオンセラーになるためには、もちろん男性も買ったのであり(そのほうが数は多いはずだ)、そして、それらの男性は総じてそれを理解したとはとても思えない。私を含めてである。
 浅田氏はちゃんと勉強をしていて、彼がもたらした情報量は圧倒的であった。

 
 
 彼の『逃走論』は、人のありようを類型化し、「パラノイック(固執型)」と「スキゾフレーニー(分裂型)」とする(もともとはドゥルーズなどの論)明解なもので、要するに世の中には何かにしがみつくオタッキーな人間と、常にそこから逃げ出し、私が私ではないようなパッパラパーな人間がいて、後者こそが望ましいとするものであった。
 もちろんこれは、彼の独創ではなくて、ナチズムやスターリニズムといったパラノイックな体制を経験した当時の思想が辿り着いたひとつの境地を纏め上げたものだが、彼の展開は、そうした歴史的経験的なものを感じさせないまま、軽やかな逃走を勧めるものであった。

 この「パラノ」と「スキゾ」という明解な区分立ては、週刊誌ネタにまでなって蔓延するなど一世を風靡し、ついには、その年(1984)から始まった、「現代用語の基礎知識」が催す「新語、流行後大賞」の新語部門で銅賞を獲得した(現在は流行語のみ、ちなみに昨年の大賞は「ハニカミ王子」<アマチュアゴルフの石川遼選手>と「どげんかせんといかん」<東国原英夫・宮崎県知事>)。
 なお、その折りの金賞は、NHKの朝ドラ『おしん』ブームをとりあげた「オシンドローム」であった。

 

 こうしたニューアカブーム(ア、説明し忘れたけど、ニューアカって言うのは決して「新しい共産主義」とかってことではなく、「大学の研究室を離れた巷間の新しいアカデミズム」ということです)を、一過性の社会現象として冷ややかに捉える向きが主だが、私は必ずしもそうは思わない。
 それを契機に、なんの腹の足しにもならない思想というものに触れた人は多いのであり、また、中にはそれを踏み台として学んだ人たちも多いと思われるからだ。

 ニューアカブームのもう一つの効用は、各出版社が、これまでその分野の本を出していなかったところも含めて、その種の本を相継いで出し、広く海外の思想家のものなどが紹介されたことである。
 更には、そうしたブームのおかげで、人文系の本がある程度の部数売れるようになり、手に入れやすい価格でそれらが供給されたことである。
 そうしたブームが去った現今では、ちょっとしたものが6,000円から8,000円という世界であり、これが大冊で上下二巻に別れたりしようものなら、たちまち福沢さんがお二人居なくなるということで、私のような年金生活者には高嶺の花なのである(図書館さん、お世話になります)。

 

 文化というのは、概して腹の足しにはならないものである。むしろ、腹の足しを離れてはじめて成立するものともいえる。
 しかし、一方、極めて廻りっくどい経路を経てであるが、どっかでそれらは腹の足しに回帰するのだと、一応は思っている。しかもそれらは、人類と共にある欲望の表出であることには間違いない。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元服式のアウラと徳山村のこと

2008-01-15 03:28:17 | 歴史を考える
 私のような古い人間は、1月14日が成人の日と聞いてつい違和感を持ってしまう。成人の日は1月15日という刷り込みが強力だからである。
 しかし、今年の14日は最もぶれが少ない方で、去年なんかは8日だったのだ。
 
 これは、いわゆる国民の祝日に関するハッピーマンデー制度によるもので、それによれば、成人の日(かつては15日に固定)は1月の第二月曜日に、海の日(かつては20日固定)は7月の第三月曜日に、敬老の日(かつては15日固定)は9月の第三月曜日に、そして体育の日(かつては10日固定)は10月の第二月曜日とされたからである。

 ここでやや不思議なのは、成人の日と老人の日が共に15日固定だったのに、前者は第二月曜日に、後者は第三月曜日にされていることである。
 これについて調べてみたら、もし、敬老の日が9月21日で、続く秋分の日が9月23日となるか、敬老の日が9月20日で秋分の日が9月22日となる場合、祝日法の規定により間に挟まれる日(それぞれ22日か21日)が国民の休日とみなされ、敬老の日前日の日曜日から4連休(週休2日制であれば5連休)となるため、「第2のゴールデンウィーク」あるいは、敬老の日が関係するため、シルバーウィークともいう連休を設けるためとあった。
 粋な計らいといえばそうかも知れない。

          
              徳山神社での元服式
               中京TV 一昨年


 しかしまあ、こんなことを言っても年寄りの愚痴になるばかりだが、祝日にはそれなりの曰く因縁があるのであって、成人の日は昔の元服の日、海の日は沖縄返還後のイベント・沖縄海洋博が開催された日、敬老の日は戦後、兵庫県の地方の村から始まった「としよりの日」に起源を持つ住民提言型の祝日、体育の日は東京オリンピックが開催された日といった歴史的なエポックが張り付いているのである。

 そうした祝日が可変式になってころころ変わるのは、確かに連休が増えるなどのメリットもあろうが、しかし一方、上に述べたその日の単独性、「その日」性のようなものが喪われて、利便性だけになり、結局祝日といっても、何をことほいでいるのかが分からなくなってしまうのではないだろうか。

 絵画などが教会や王侯貴族の館から引っぺがされ、美術館や個人に退蔵されるのに対し、芸術におけるアウラの喪失を指摘し、それが複製芸術の時代に繋がると指摘したのはベンヤミンだったと思うが、私たちの暦自身も、自然や出来ごととの有機的な関連を喪失したアウラ無きものになりつつあるようだ。

 まあ、こんなことを大声で言ったら、せっかく増えた休みを減らすつもりかと顰蹙を買いそうなので、ある人のブログへのコメントとしてコッソリ書き込んでおいたら、やはりそのブログの常連さんである先輩格の方からこんなコメントを貰った。

============================

 <前略>アウラ喪失の指摘もさすが。徳山民俗資料、古文書もアウラ抜きで収蔵庫に眠っています。
 可変式祝日は山の学校ではずつと前に先取りしてました。だって祝日がとびとびだったら平坦部から赴任した先生が往復に時間が取られて休むひまがなくなり、不便だったからでした。村の人は、お仏事、旧正月と学校など関係なく、「その日」性を満喫していました。

============================

 この方のコメントに説得力があるのは、文中にあるように、この方自身が、今や巨大公共事業で出来上がった徳山ダムの湖底で「水になってしまった村」、全村離散の旧徳山村の住人であり、村の学校でながらく教鞭を執ってこられた方だからである。
 実際のところ、かつて岐阜市街地からこの村への往復は、優に半日以上を要したのである。

 
          全村を飲み込んだ巨大な水溜まり
         この水の用途はほとんど決まっていない

 いや~なるほど、そういう可変式休日があったかと改めて感心。
 そうした地区毎での自治としての決めごとはむろんあって然るべきだと思う。

 ところで、成人式に関しての話は、この方の出身地徳山村とは深い因縁があるのである。
 この旧徳山村の成人式は、室町時代からの伝統に従い、15才をもって成人とし、その若者たちに烏帽子装束をまとわせて祝うのである(もともとは村の中の本郷地区だけだったらしい)。

 今もそれが継承されている。現在は、比較的多くの人が移住した岐阜県の本巣市に全村内の八つのお社をまとめて建立された「徳山神社」で、村の出身者を対象に行われている。
 しかし、離散の度合いが進むのと少子化とで、年々対象となる新成人が減り、今や数人にも達しないようである。

 人々が慣れ親しんできた状景、その中にあるアウラのようなもの、それらをすべて引っぺがして進むのが近代化であるのだろうか。
 その世界的規模での展開が、いわゆるグローバリゼーションというものではなかろうか。






コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真面目すぎ?女風呂でも厄払い

2008-01-14 00:13:07 | 川柳日記
 

<今週の川柳もどき>  08.1.13

 数たのみねじれを戻す力業
 都合よいときのみ憲法にすがる
  (三分の二条項発動)

 民の声よりはブッシュへお年玉
  (賛成は30%台なのに)

 垂れ流す石油徳山インド洋
  (徳山湾で原油漏れ)

 年金も預金も目減りする寒さ
  (物価高
 追い討ちを虎視眈々と消費税

 わがことであるかのような予備選挙
  (やはり米州のひとつ?)

 いっぺんにメジャーになったあの競技
  (ハンドボール

 真面目すぎ女風呂でも厄払い
  (男鹿半島のなまはげ乱入)

 お気楽にちと自転車ともう行かぬ
  (規制が厳しくなるとか)


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする