六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

尾張瀬戸へ行く・5 在日の叔父を訪ねて

2024-06-28 00:39:58 | 歴史を考える

(承前)
 叔母の再婚相手が在日の人であることを知ったのは、私が40歳過ぎて実姉に再会したあとのことである。
 私と姉は、叔母に会い、その家を訪れた。叔母の連れ合い、在日の彼、つまり私の義理の叔父にも会った。彼は亜炭鉱の炭住でも権威をもっていたように、親分肌の豪快な人物だった。ただしその折は、いまの私より少し若いぐらいの年齢で、もう現役を引退した好々爺風であった。

 姉と私の訪問をとても喜んでくれた彼だったが、とりわけ私が、「あなたは総連系、あるいは民団系どちらだったのですか?」尋ねたときには、「お前、そんなことを知っているのか。もっとこっちへ来い」と、私を抱きかかえるほどの近くへ招き、酒肴を勧め、その経歴を話してくれた。

 彼はいろんな軋轢の末、民団を選び、引退まではこの地域の幹部を務めていたようだ。私と同じ年代の人で左翼を自称する人たちの間では、総連は左翼、民団は右翼という一般論が支配的だったが、スターリニズム批判を経過した私にはそんな評価は無縁であった。

 日本敗戦後、在日の人たちはただただ勝ち誇ったようだったと語る人たちがいるが、そんな単純なものではない。日本の敗戦は同時に朝鮮半島の動乱の始まりでもあった。新たな朝鮮の出発を期して希望を胸に帰った在日の人たちが、チェジュ事件など思いがけぬ惨事に逢い、日本へ再入国したり、戦後、新たに日本へ亡命同然にたどりついた朝鮮の人たちも多い。

 私は一応それらの事実を知っていた。それらが彼との間に共感を生んだのだろう。現役時代には、きびしい表情で過ごしたであろう彼が、私に対しては破格の笑顔で対応してくれたのをいまも思い出す。

 姉と2回ほど彼と叔母の元を訪れたであろうか。やはり歓待してくれた。彼の訃報は家族主体の葬儀を済ませたあとに届いた。姉と私は、その四十九日に相当する日に彼の霊前に赴き、叔母や義弟、義妹の力になってくれたことを改めて感謝した。

 これが、私と姉を外に出すことにより、継続した「家」の物語の顛末である。これはまた、実父の戦死などを含め、先の戦争が影を落とす物語でもあった。
 再会して以降はできるだけ交流を保つようにした姉も亡くなり、いま、その末裔で私が連絡を取れるのは姉の娘たち(姪二人)と実父と叔母の間にできた義妹だけである。

 毎年、5月の八十八夜、その年の新茶を贈ってくれるのが静岡県に住む姉の習いであった。それをいま、その娘、つまり姪が引き継いでいてくれる。

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尾張瀬戸へ行く・4 血縁・家・万世一系

2024-06-25 14:34:42 | 歴史を考える

【これまで】家を守るため入り婿に入った実父は実母との間に姉と私を設けたが、その実母が私の生誕後亡くなったため、女学校を出たばかりの実母の妹(つまり私の叔母)と再婚しました。これも家を守るためでした。
 しかし、叔母はあまりにも若く乳飲み子と幼子を養育することはできず、姉と私はそれぞれ別のところへ養子として出されました。
 実父と叔母はその後、私の義弟、義妹にあたる二人の子を設けたのですが、折から激しくなる戦争に取られ、1944年インパールで戦死してしまいました。二人の幼い子を抱えた叔母は、戦後のドサクサで苦労を重ね、当時、愛知の三河や岐阜の東濃にあった亜炭鉱山の女坑夫として働きました。
 そんな母に同情し、良くしてくれた男性がいて、二人の子持ちを承知で叔母と結婚しました。これはこれで新しい「家」が誕生したわけで、うまく収まったかに見えましたが、これまで「家」を守るを信条にしてきた叔母の親戚一党はこの結果を歓迎せず、隠然とした差別のようなものが生まれたのでした。
 なぜか?それがこれまででした。
 なお、これは先般瀬戸を訪れた際の私の回顧録で、それらは瀬戸と関連の深い地での出来事だったのです。

          

          写真は以下も含め、すべて瀬戸蔵ミュージアムの展示です。

【それ以降の続き】 

 なぜそうなったかの結論をいいましょう。
 叔母が結婚したのは在日の人だったのです。
 「家を守る」に固執する親戚筋の人たちには驚愕の事実だったようです。
 あからさまな陰口や隠然とした差別があり、中には事実上の付き合いを絶った人たちもいたようです。

     

 でもこれって変な話ですね。家を守るというのが血縁の繋がりを中心に考えることだとすると、女系家族のところへ実父が婿養子に入り、妻に先立たれたらその妹と再婚してその流れを守り、その婿養子をなくした妹、つまり私の叔母が新たな連れ合いと結ばれたということですから、その新たな連れ合いとの間にできた子にも、血縁は継承されるはずです。

     

 にもかかわらず、「家を守る」といっていた人たちが叔母と在日の人との結婚を歓迎しなかったのはなぜでしょうか。これまで、「家を守る」を「血縁の継承」という点から見てきたわけですが、それ自身を考え直す必要がありそうですね。

           

 人間のみならず、生物は遺伝子の継承をもって繁殖を継続します。とりわけそれが、動物の場合ですと血縁の継承となり、人間の場合ですと親子にとどまらず、孫やひ孫の代までの継承関係が親戚だとか親族一門を形成します。これは血縁の自然的側面ですね。もっとも、人間の「孫子の代まで」になると、定住生活に伴う土地や住居などの財貨の継承を含みますから、歴史的社会的に形成されてきたものといえそうです。

     

 さらに人間の場合ですと、この「血縁」は身分や階層を保つという意味でのある種の序列や秩序を前提にしていることが見えとれます。日本でいうならばかつての士農工商、インドでいうならばカースト制度の継承です。
 こうなればもう血縁は自然的な面を離れて、完全に歴史的、時代的に秩序構成的なものになります。

     

 現今の日本では、あからさまな身分制度はありませんが、それでも、家の釣り合い、学歴の釣り合い、などなど無言の制約は皆無ではないでしょう。
 ましてや私の幼少時の戦前、戦中は、まだ身分制度の名残りはあり、私の生家が「家」にこだわったのは家康公時代からの三河武士の流れという変なプライドに固執したからでしょう。

 ですから、叔母が在日の人と再婚したことをもって「家」の終わりであるかのように評価する人たちは、イスラエルの国防相がパレスチナの戦士たちを「動物のような人間」と形容したように、在日の人は血縁を継承する対象たり得ない人であるとするレイシスト的価値観に囚われているともいえます。

 それらをまとめてみるに、血縁を中心にした「家」というのは、その自然的側面を土台にしながらも、人間の長い歴史を経て、限られた階層の保持、各階層間の序列の保持などなどの社会構造をなす極めて人為的な秩序や規範として、時には抑圧的に、時には差別、排除的に働く極めて人為的な制度だということです。

 こので肝心のことをいわねばなりません。そうした規範を通じて、国民統合を価値づけ、時には逸脱者を排除してきたこの国の中心には、「血縁」を介した「万世一系」の家族が厳然として存在し、人々はそれを崇拝し、「象徴」という名であれ何であれ、その一家の総領を国家元首としていただいているとうことです。

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尾張瀬戸へ行く・3 「家」は守られたのか・・・・

2024-06-23 00:38:19 | 想い出を掘り起こす

 姉と私は、その実母を亡くし、家系を守るため実父が実母の妹、つまり私たちの叔母と再婚するに当たり、そのための余計者としてそれぞれ養子に出されたことは述べてきました。それらの舞台が瀬戸と大きな関わりをもっていたことも述べました。
 ではその、三河武士の末裔というささやかな誇りをもった家系は、姉と私を排除してリセットし、あの戦中戦後の混乱の中で守られたのでしょうか。

     

 写真はすべて瀬戸蔵ミュージアムでのもの。ここでは陶磁器の製造工程と瀬戸での土器以降の陶磁器生産の歴史を、出土したものや現代の製品を網羅して展示している。

 家系などという概念に全く関心をもっていない方も多いでしょう。私もそうなのです。しかし、時代もあるでしょう、私の幼かった戦前には、まだ家系の維持というのは没落した士族などを中心に生きていたのです。
 家系の今日的意義は、国会議員の二世、三世、四世・・・・や企業の創業者の系譜の中にこそその特権的利害を伴って重要視されているのかもしれません。

     

 実父が叔母と結婚し、リセットされた「家」のその後をみてみましょう。
 新しい家には、新しく一男一女が授かりました。私の義弟と義妹です。これで新しい家は守られたかのようでした。
 しかし、時代は戦争の真っ只中です。実父もまた赤紙一枚で戦地へとられました。しかも、出征先がよくありませんでした。ビルマ、いまのミャンマーです。ここは詳細は述べませんが、もっとも愚昧な作戦といわれたインパール作戦の舞台で、いたずらに数万を超える死者を排出したのですが、その死者の一員が私の実父でした。

     

 新しい家構想は、こうして戦争のためにあっけなく崩れたのですが、さらにその後があります。二人の子どもをかかえて戦争未亡人になってしまった叔母ですが、戦時中は「英霊の妻」として何らかの支えがあったようなのです。しかし、いざ敗戦となった瞬間、なんの支えもないまま、混乱した巷間へ親子三人が放り出されたのでした。

 あれほど、家、家、といって叔母を後妻に導いた親戚筋も、自分のことに精一杯で、誰も支えてはくれませんでした。親子三人の生活はすべて叔母の肩にかかっていました。
 叔母は、体を売ること以外のことはほとんどしたようです。そして、最後にたどり着いたのが、亜炭鉱の鉱山労働でした。当時亜炭は、瀬戸での焼き物の火力など広い需要があったのでした。

         

 叔母は、亜炭鉱の炭住長屋に住まいし、男並みの労働で子どもを養い続けたのですが、男女の体力差、出来高制のような賃金体制の中では苦戦の連続でした。
 そんななか、何やかやと叔母を支えてくれる同じ炭住の男性労働者が現れました。叔母は彼とのしばらくの付き合いの後、再婚を決意します。彼は独身にも関わらず、二人の子持ちの叔母との結婚に同意してくれたからです。

     

 これらの経緯を知ったのは40歳過ぎに姉と再会し、その姉を通じて叔母と合った折のことでした。その折、叔母はもちろんその男性の妻であり、その男性との間に別途、男の子をなしていました。
 私にいわせれば、それは「めでたしめでたし」なのですが、「家を守る」に固執していた親戚筋には「極めて重大な問題孕みの事態」であったようで、そんな叔母の決断への隠然たる非難や陰口が絶えず、叔母の一家は一族の中からはいささか異質な存在とされてしまったのです。
 なぜでしょうか。それは次回に譲ります。

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聞くも哀しい命名・・・・オオキンケイギクのことをこんな風に

2024-06-21 13:57:06 | ひとを弔う
       
 オオキンケイギクは今花期を迎えているキバナコスモスに似たきれいな花だが、セイタカアワダチソウと同様、特定在来植物の代表的なものといわれる。持ち込まれたのは1880年代というからけっこう古いが、急速に増えたのが先の戦後である。
 
 やはりセイタカアワダチソウ同様とても繁殖力が強く、敗戦後、日本に着陸する米軍機の車輪にくっついて、飛行場を中心に繁殖したといわれる。
 これは私の記憶をたどってもそう思われる。岐阜近辺の繁殖は、各務ヶ原飛行場を中心に国道21号線沿いに広がっていった。ひところは、今頃の木曽川の河川敷はこのオオキンケイギクの群生地として黄金色の花に埋め尽くされたものだ。
 
 この、飛行場を中心に・・・・というのはやはり全国での様子で、今朝の「朝日」、声欄のトップはかつて鹿児島県に住んでいた80代の女性からのもので、それによれば、あの戦争末期、片道の燃料と爆弾を抱えた特攻機が飛び立った鹿屋や知覧の飛行場あとに、戦後しばらくしてこのオオキンケイギクが咲き始め、人々はこの花を「特攻花」と呼んだのだそうだ。
 
 南海の海に沈んだ若者たちの魂が、黄金の花として還ってきたと見立てたのだろう。
 なんとなく、グッと来るものがあるではないか。


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尾張瀬戸を訪れる・2 姉と弟

2024-06-18 17:00:50 | 写真とおしゃべり

 三〇度を超すかもしれないと予報が告げるなか、名古屋の栄町(地名は「栄」ですが駅名は「栄町」)から名鉄瀬戸線で「尾張瀬戸」へと向かいました。

 途中、矢田川を渡り、守山区(名古屋へ合併する前の守山市)から尾張旭を経て瀬戸へ至る路線は途中で高架化のための工事区間などがありましたが基本的に変化はありません。
 終点、尾張瀬戸駅の ふたつ手前、今は新瀬戸駅(それとクロスする愛知環状鉄道の駅名は瀬戸市駅)となっいてるところはかつては尾張横山駅といわれていました。その駅南の線路に沿うようにしてかなりの面積をもつ製陶所をもっていたのが、前回述べた私の養母の姉妹の嫁ぎ先の親戚でした。多分、私の養子縁組の仲立ちをしたところです。

         

 駅前を通りに挟まれて流れる瀬戸川 私が少年時代に来た頃は、各陶磁器製造所からの排水のため、土色に濁りきって、川岸には粘土がへばりついていた いまは水は清らかで、泳ぎ回る魚影を確認できた ついでながら、当時の各陶磁器の窯は亜炭を炊いていたため、空はその煙で真っ黒だった

 それもあってか、そこへはよく行き、製陶所の器具を眺めたり、仕掛品を見たり、そして時折、すぐ近くを行き交う瀬戸線の電車を見ていたものでした。
 
 その箇所には昔の面影はまったくなく、その面積いっぱいのようなマンションが建っていました。その親戚がオーナーなのか、それともその地を手放してしまったのかはわかりません。親しかった従兄弟は随分前に亡くなり(私より20歳近く上)、その兄弟姉妹とのつながりも途絶えてしまったからです。

         

             駅近くの和風建築 陶磁器屋さんらしい

 終点の尾張瀬戸駅に降り立ちました。
 駅舎を出ると、瀬戸川を挟んで東西に走る通りがあります。この辺の地理的な感じは70年以上前とほとんど変わりありません。
 駅頭に立って、まずは南方の交差点を注視します。ここには、立派な歯科医とその住まいがあり、その面積もかなりのものでした。しかし、もはやそれはありません。多分その跡地だと思うのですが、そこには立派なホテルが建っていました。これはどうもホテルチェーンの一つらしく、かつての歯科医とは関連なさそうです。多分土地を売却したのだろうと思います。

     
 瀬戸蔵ミュージアム(次回にでも紹介)に付帯するタワーから街全体が見渡せるというので登ってみる エレベーターは4階までしかなく、そこから上は階段を登る しかも30度近いのに空調はなしで、ガラス越しの陽射しが容赦なく照りつける

 なぜその歯科医にこだわるかというと、私の2つ上の姉は、そこへ養女として入ったからです。姉と私が再会したのはもう40年ほど前でしたが、その後に姉とともにそこへ挨拶に行ったこともあります。
 瀬戸では一等地の名だたる歯科医でしたから、姉はさぞかし裕福な生活を送っただろうと思われるかもしれませんが実はそうでもなかったのです。

 それは、養子をとる動機と関連します。どういうことかというと、私の場合は開業したての材木商の小商人でしたが、子どもが出来ないために是非と望まれて養子に来たわけです。それに対し、姉が引き取られた歯科医にはすでに姉妹二人がいたのですが、引き取り手がない女の子がいるのなら、可愛そうだし、余裕もあるから引き取ってやろうかというのが動機だったのです。

         
          そのタワーから撮った瀬戸川沿いの写真 次も同様

 籍も入れてくれて、衣食住にも困ることはなかったのですが、すでにいた姉妹とはやはり扱いに歴然とした差異がありました。その待遇は娘というより使用人風だったようです。その扱いの差がもっともはっきりしたのが進学についてでした。上の姉妹は高校はもちろん、大学まで進んだのですが、私の姉は中学卒業時、高校進学は許されず、手に職をつけて嫁に行けるようにと裁縫や縫い物の手習いに出されたそうです。
         
 その後、姉は、瀬戸市内に住む名古屋の繊維問屋へ勤務する男性と結婚し、さらに彼は、静岡県内にチェーン店を数か所もつアパレルショップの経営者にヘッドハンティングされて、複数の店を任されることとなりました。
 
 そんなわけで、私が姉と再会した折、姉もまた静岡県内のショップを一つ任されてキビキビと働いていました。

 ちなみに姉の相方、私の義兄ですが、彼は享栄商業時代、のちのプロ野球の大投手、金田正一と同級生で、一緒に野球をしていたことがあるといっていました。

 今回は、尾張瀬戸の駅頭に立ったところで終わりそうです。
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尾張瀬戸を訪れる・1

2024-06-16 16:40:53 | 写真とおしゃべり

 人の生涯には、様々な転機があります。それは自ら決断したものであったり、自分の意志にかかわらず周りの状況などからそうなってしまったものなどいろいろでしょう。
 私が自分の生涯を振り返ったとき、まだ物心つかない前に、そうした転機を迎えていたことが事後になってわかってきました。

 そのひとつは、私が生まれてまもなく、その母が亡くなってしまったということです。いわゆる産後の肥立ちが悪くというのでしょうが、その意味では私は鬼子というべきかもしれません。

         

      名鉄瀬戸線栄町駅で 地下駅のため水漏れがもたらしたフォルム

 私の実父は、もともと女系の家に婿養子に入ったのですが、 その妻たる私の母の死後、やはりその家系を守るべく、母の妹と再婚をすることになりました。これは 戦前の「家を守る」という不文律の考え方のもとではよくあることでした。

 問題はその母の妹というのが女学校を出たばかりの18歳の若さであったということです。その若い彼女(つまり私の叔母)に、乳飲み子の私と私の2歳上の姉を養育することはとても不可能だったのです。

         

        私が乗る列車が入線してきた 折り返し尾張瀬戸行になる

 「家」をリセットするためには、姉と私は余計者になってしまい、親戚中をたらい回しにされた結果、それぞれ別のところへ養子に出されることになりました。私は岐阜へ、そして姉は愛知県の瀬戸へでした。
 こうして瀬戸は、私の実の姉の住まいではありましたが(これは実は、私が40歳過ぎてから知ったことです)、それのみではなく、私にとってもある意味をもっていたのは、私が岐阜へ養子に入った際、その仲立ちをしたのは瀬戸にいた私の養母の親戚筋だったからですです。

          

                尾張瀬戸駅到着

 ですから瀬戸は、実母を亡くすという第一の転機に次ぐふたつ目の転機の場所、つまり、岐阜の養父母と家族になるということが決められた場所ということになります。
 そんなこともあってか、幼少のみぎり、私はよく養母に連れられて瀬戸へ行ったことがあります。それというのも、養母には10人の兄弟姉妹があって、そのうちの三人の姉妹が瀬戸に嫁いでいて、そのうちの長姉の家が、私の養子縁組を斡旋したらしいからなのです(これも四〇歳過ぎに知ったことです)。

     

               尾張瀬戸駅ホームにて

 養父が戦争に取られ、敗戦時に満州にいたため、ソ連軍によってシベリアへ抑留されたまま消息不明であった時期、養母は心細く思い、私を連れて縁のある瀬戸へ何度も訪れたのでしょう。

 むろんその後も、養母の姉妹の家での冠婚葬祭などに、何度も訪れたことがありますが、私にとっては幼少の頃に訪れた瀬戸は忘れがたいものがあるのです。

     

      尾張瀬戸駅 私が懐かしいのはこの駅ではない 次回にでも紹介

 前置きがダラダラ長くなる悪癖のせいで、まとまりがつかなくなっていますが、これはこの度、改めて瀬戸へ出かけた経緯と関連するのです。つまり、まだ意識も定かでない頃、私の人生がこのように始まったという土地を再確認してみようという思いもあったのですが、同時にこれが見納めというちょっと感傷めいたものもありました。

 以下は、たった半日間の瀬戸体験ですが、とても一回では無理なので、日にちをまたいで三々五々書いてみます。

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洗濯を三回した!

2024-06-14 16:53:44 | よしなしごと
今日は日差しも強く風もそこそこあるので、三回の洗濯を試みる。
一回目は通常のもの。
二回目は、合物のズボンやシャツ、ベストなど何枚か。自分で洗うのもいくぶんやばいかなというものもあったが、それだけクリーニングに出すのはと、思い切ってエイヤッと洗ってしまう。
三回目は余勢をかって、シーツとフトンカバー、枕カバーなど寝室周りのも
の。
         
布団はもう片付けてタオルケットにする。
三回洗濯といってもそれ自体は洗濯機がやってくれるからいいのだが、汚れたものを二階の寝室から降ろし、乾いたものをまた二階へというのが大変だ。
また洗濯機の在り処から干場までが離れているため、濡れて重いものを運ぶのも大変だ。
持病の腰痛が、「お前大丈夫か」と訊いてくる。
 イラストのような爽やかな洗濯だといいんだけど・・・・。
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それでもカニはカニ、あるいは時期外れは時期外れ?

2024-06-14 02:48:13 | よしなしごと
 昨日、あるSNSで、古くからの友人が、故郷・田原(渥美半島)で、親族の方が獲ってきたワタリガニ(ガザミ)を暴れ食いしているのを羨んでコメントを付けた。
 そんな矢先の今日、いつもゆくスーパーの魚売り場で、セコガニ(勢子ガニあるいはセイコガニ)の足を折りたたんだ状態が25センチほどのものを見かけた。うまそうだがどうせ価格が・・・・と通り過ぎようとして足が止まった。

     


 え、え、え、198円?何度見直してもそうだ。ならばということでゲット。
 湯がくのではなく、せいろで十数分蒸した。

 セコガニはズワイの雌。時期ならば抱卵していてそれもうまいのだが、いまは時期はずれ、それはない。甲羅を外すと、いくばくかのカニ味噌を味わうことができた。

     


 その他、甲羅の肉も、脚のそれも、そこそこ美味かったのだが、やはりこのスリムさ、口中でのボリューム感がもの足りない。

 結局、少しばかりの満足感と、かなりの欲求不満が残るカニとなった。

 

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近場の風景 意外なものがまだあった!

2024-06-09 15:04:49 | 写真とおしゃべり
 わが家から数百メートルのの箇所に所要で出かける。あまり来なかったり、来てもしげしげとあたりを見渡したりしない場所がけっこうある。
     

 帰途、多少の回り道をしながら散策。
 この田植えの時期しか配水されない水路に、カルガモが一羽。どうやら母鳥から独立したばかりの若い個体のようだ。なんかドギマギして落ち着きがない。私が接近したせいもあるが。

     

 近くの生け垣に、埋もれるようにして咲いているクチナシを見つけた。
 そういえばかつて、わが家にもクチナシがあった。入手した経緯も覚えている。半世紀以上前のサラリーマン時代、大きな背負い籠(通称:ショイカゴ)を担いだ女性二人が会社のオフィスにやってきた。
 訊けば山口県からやってきた行商だという。ショイカゴから食い物など含めた山口の物産をいろいろ取り出し、買ってくれという。

 たまたまオフィスにいた社員が、好みに応じてさまざまなものを買った。その折、私が買ったのがクチナシの苗であった。二株ほど買ったその苗は、その後、今頃になるとかぐわしさとともに白い花を付け、わが家の庭を賑わしていたが、いつの間にか、他の植物に侵食されたのか、姿を消してしまった。

 会社のオフィスに、地方からの行商の人たちが気軽に立ち寄った古き良き時代を思い出した次第だが、その折気づいたことに、その女性たちが話す山口弁が、「~しやぁ」とか「みやぁ」とか「~だぎゃ」とか、それに「~しんさい」という名古屋弁や岐阜弁にも似ているということであった。
 それをその女性たちに話すと、「この地区ではよくそう言われるんですよ」と言っていた。

     
         

 最寄りの幼稚園を通りかかる。家の子どもたちも行っていたところだ。その横にある駐車場も、幼稚園の雰囲気を備えていて微笑ましい。

     

 近くにある国道21号線の交差点に差し掛かる。ここは、郊外近くを走る国道と、岐阜市内中心部を結ぶ道路の交差点で、けっこう交通量が多い。将来の高架化が計画されているが、その完成時には私はもうこの世には居まい。

    

 広い道路から集落の中に入って進むと、水路の端にイグサの群生を目撃する。これは随分前に見かけたことがあり、この辺の自然環境が激変するなか、「おう、お前無事で生き延びていたか」と声をかけたくなるくらいだ。

 ちなみに、イグサの和名は「い」であり、これに「草」がくっついて「イグサ」なので、和名としては最も短い植物となる。都市でいえば「津」が短いのと同じだ。

     

 次はすぐ近くの洋菓子屋さんの駐車場のエントランス付近のミニ庭園。何となくそれらしい雰囲気が出ている。

     

 帰宅。最後はわが家の紫陽花。今年は赤が例年に増して鮮やかなような気がする。

 これだけ歩いても5,000歩しか稼げなかった。
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人工の建造物、そしてそこから見える風景@岐阜

2024-06-07 13:06:14 | 写真とおしゃべり

 所用で岐阜ふれあい会館にあるオフィスに。
 この中には、岐阜では随一のコンサートホール、サラマンカホールがある。今日は残念ながらコンサートとは無縁の事務的な用事であったが、用件が終わったあと、この先のコンサートの予定のパンフをあさってきたので、日程が合うものは来たいと思う。

       

      

 このフロアの写真を撮っていたら、やや派手っぽい衣装の6,70代ぐらいの女性がつかつかとやってきて、「いま、私の写真を撮ったでしょう」と詰問された。
 「いやいや、あなたが通り過ぎるのを待ってシャッターを押しましたよ」と、このホールで撮ったスマホのすべての写真を再現してみせた。

     

     
 
 「アラ、ほんと。ごめんなさいね、疑ったりして」と彼女。
 あらぬ疑いをかけられたわけだが、不快感はなかった。彼女の抗議の仕方、その引き際がどこかさっぱりしていて、とても自然だったからだ。
 変に矛盾した話だが、そんな彼女の写真を撮っておけばよかったと思ったほどだ。

          

 ここまでの5枚の写真はこのふれあい会館で撮ったもの。

 その後、せっかくここまで来たのだからと、すぐ近くに昨年はじめに出来上がった新しい岐阜県庁舎へ立ち寄る。ここでの見どころは、20階にある360度が見渡せる展望回廊だ。長年県民税を払い続け、それがこの新庁舎の建材の一部になっているかもしれないのだから、それを見ておかない手はない。

          
  
          



 20階へ上がる。平日の午後とあってか ほとんど人影は無い。エレベーターから出た所はほぼ中央部分なので、そこを起点に時計回りで回ることにする。
 かつてこの場所に県庁ができたおり、なぜ田んぼの中との批判もあったが、そのせいで周りには高い建物は全くなく、したがって遮るものがない展望は360度どこまでも広がる。

      
          
 
      
 
 最初は北東部、 岐阜市の中心部で 右側の高いビルのあるあたりがJR岐阜駅である。 そして中央の山が岐阜のランドマークともいえる頂上に岐阜城をいただく金華山である。

      
 
 次は南東方向で、右上に白く見えるのは一宮市のいわゆる138タワーである。 これは一宮(イチのミ・ヤ)との洒落で できた138メートルの展望塔である。 そのすぐ下に広がる緑の帯は木曽川であり、これが岐阜県と愛知県の県境をなしている。

      


 続いては、南南東の名古屋方面を望むもので、中央の白い塔は稲沢市にある三菱の高層エレベーターの実験棟である。そしてその左側が名古屋駅周辺の高層ビル街である。

     

 南西部に目を移すと、長良川があり、その向こうには養老山脈が連なっている。

      
 これは西側。完全な逆光だが、中央の建物はここへ来る前に行ってきたふれあい会館で、その背後に光っているのは長良川である。さらに背景に聳えるのは伊吹山である。

          

 最後は、北側眼下、国道21号線から県庁へのエントランスの並木道である。この道は緑に囲まれゆったりとしていて、私の好きな通りである。

          
 この回廊の床は、まさに「岐阜は木の国」、と言われるようにタイル等ではなく木材が使われている。かつての材木屋の息子としては、 木材についてはやはり好ましい印象を持ってしまうのだ。

      
 4時を回った帰り際、来たときよりもかえって人影が増えていた。

      
 下に降り、駐車場に歩を進めていると、庁舎前を新しい消防車が差し掛かるのに出会った。

 今日は、人工の建造物、ないしはそれから見えるものを味わった半日であった。
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