六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「モネ それからの100年」展とアメリカ村 

2018-06-28 01:02:59 | 想い出を掘り起こす
              

 先週のことである。白川公園内にある名古屋市美術館の「モネ それからの100年」展に行った。
 予想していたより面白いものであった。そのコンセプトが、モネを印象派という共時的な時代のなかでみるのではなく、むしろ、没後100年近い現代から振り返って通時的に彼の仕事を位置づけようとするものだということは、そのタイトルからもわかっていたのだが、その展示方法を含め、その奥行きは想像以上に深かった。

          
 
 モネの作品へのオマージュ、彼の作品にインスパイアーされた表現者たちの作品が、モネの作品に従うかのように展示され、彼が、印象派の巨匠という規定を超えて、現代芸術にまで至る裾野をもっていることがよく分かる展示であった。
 この種の展示会にでは、その大元ともいえる画家の展示は少なく、その影響下の取り巻きが多いのが普通で、それを覚悟していたのだが、その割にモネ自身の作品も多く、嬉しい誤算であった。

          
 
 モネの描く絵画は、睡蓮にしろ積み藁にしろ、ルーアンの大聖堂(今回の展示にはなかった)にしろ具体的な対象をもつが、その対象がどのように見えるのか、その対象と自己との間にあるアトモスフェア-のようなもの、表象そのものを描いたのが特徴だと思う。だから彼は、同じ対象を何度も描き、その都度、それらはそれぞれ異なる。
 この表象の領域への肉薄が今日の表現者にとっても新鮮な刺激を与えているのだろう。

          

 結論としてこの展示は、「印象派の」モネではなく、そうした規定を超えた表現者としての彼の、現代に至る系譜を観せてくれることにある程度成功しているのではないかと思った。

          

 写真は、その美術展が行われた名古屋市美術館の周辺で撮ったものである。
 この美術館は、その他に市の科学博物館、広大なグランドなどを備えた白川公園のなかにある。
 市科学館の野外展示のHⅡBロケットは、「こんな大きなものが宇宙空間へ」と驚かされるが、同時に、この先端に核兵器が装備され、それが宇宙空間ならぬ大陸間を飛び交うとしたら、との恐怖も湧いてくる。 
 そのほかの写真は、いかにも美術館周辺といった感じのもだと思う。

          
 
 なお、この白川公園は、今でこそ平和で文化的な空間といえるが、実は、戦争の歴史が染
み付いた場所でもある。
 そもそも、この公園の計画は、多くの家々を立ち退かせて、「防空公園」として計画されたものだったし、敗戦後はその空間がそっくり米軍に接収され、キャッスル・ハイツという在日米軍の家族住宅地になった。

          

 その、通称アメリカ村は1958年まで存続し、57年に学生として名古屋へ出てきた私は、アメリカ人の住居というものがどんなものかを見に行ったことがある。
 高い金網に囲まれた広大な敷地に、緑の柱に白塗りの横板が張られた住宅が広い前庭をもって並んでいた。その前にはには、当時の各家庭ではまず見られなかったブランコや滑り台、などの極彩色の子供の遊具が備えられていた。

          
 
 完全にお上りさんだった私は、金網に頬をくっつけるようにしてそれらを見つめていた。
 すると、MPの腕章を巻いた兵士が、いつでも発射できるように銃を構えたまま塀沿いに巡回警備をしていて、見物人の私に、銃をグイッと動かして、「立ち去れ」という仕草をするのであった。
 当時は、各基地の周辺で、日本人が射殺される事件もあったので、ほんとうに怖かった。

               

 写真でご覧になるように、今やこの空間には巨木ともいえる大きな樹々が枝を伸ばしていて、返還以来の60年という歴史が、その過去をすっかり古層に沈めているかのようだ。しかし、それもいいだろう。戦前の強制立ち退きの歴史、防空公園、米軍の接収、それらを下層に埋めたまま、平和な空間であり続けることはきっといいことには違いない。
 ただし、私は忘れられない。
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牧野剛氏の墓所は濃尾平野の突き当りにあった。

2018-06-20 16:09:12 | 日記
 1960年代の後半のある日、畏友の須藤勝彦氏から、私たちの後輩、堀田英樹氏(当時現役の学生)が面白い店でバイトをしているから一緒に行かないかと誘われて、今池商店街からほど近い「壺」という飲み屋へ行った。
 
 そこのママさんが個性的で面白い人で、その人と堀田氏などを巡る話をしだしたら長くなるので端折るが、その店のカウンターで、まだ学生服を着た(私も2年生ぐらいまでは学生服だった)現役の大学生が飲んでいた。どうもバリバリの活動家のようであった。

 どういう経緯だったかはともかく、気づいたらその学生と須藤氏との間に大論争が展開されていた。学生服の彼がいうには、あなたたちがだらしなかったから今日の状況があるということで、それに対して須藤氏は、そんなことは関連がない、問題は「今日の状況」といわれるものが何なのかを見つめることだと反論していた。

 こんなふうに書くと私自身は蚊帳の外のようだが、学生服の彼がいう「あなたたち」の中には須藤氏と行動をともにした60年安保世代の私も当然含まれることからして、のほほんとしているわけには行かなかった。
 ただし当時、私は故あって、須藤氏とも一定の距離をとっていたので、割合冷静にそのやり取りをみていた。

             

 で、その大論争の結末がどうなったかというと、論争で決着が着かなければ決闘以外はないだろうということで、もう夜中を回っていたがそれが実施されることになった。
 まさか、夜半に、街なかで乱闘騒ぎもということで、東山の名古屋大学構内でということになり、そこへと出かけることになった。総勢4人、決闘の当事者、須藤氏と須藤氏側の立会人、かくいう私、そして学生服の彼とそちらの立会人、酒井氏(後のかわな病院院長、理事長)。

 その学生服の彼こそ、牧野剛という男で、後に、私が今池で飲食店をもって以降、かなり濃密な関係をもった男であった。
 決闘の成り行きを書かねばなるまい。
 それらしき芝生の広場に着いた私たちは、どのようにそれを執り行うかもわからないまま、立ちつくしていた。
 牧野氏側の立会人、酒井氏の飄々としたもの言いが功を奏した。
 「まあ、いっぺん坐ろうか」
 四人は車座になって坐った。

 酔いはすっかり醒めていた。
 誰からともなくとつとつと話が始まった。
 なぜ、私たちはここにこうしていなければならないのか。
 私たちは状況とどう切り結んできたのか、あるいはこなかったのか。
 いろいろ、万感迫るものがあった。
 牧野氏が文字通り声涙下る語りをはじめた。
 私たちそれぞれがそれに応じた。
 話は夜が白々と明け初めるまで続いた。

          

 これが、学生服を着ていた男、牧野剛と私の最初の出会いであった。
 それ以降、その「壺」という店で時折会ってはいたが、とくに関係が濃密になったのは、70年代の前半、私が脱サラ(脱落サラリーマン)をして、今池の地で居酒屋を開店してからであった。

 そのころ牧野氏は、当時の三大予備校のひとつ、河合塾の人気講師であった。
 と同時に、予備校そのものが活気のあった時代で、その講師陣には、いわゆる「全共闘崩れ」が名を連ね、「公教育なにするものぞ」との気概に満ちていた。
 彼はその中心にいたといって良い。
 彼は、講師として著名であったばかりではなく、受験生のたためのアイディア(例えば、ベーシックコースや大検コースである「コスモ」などの創設)を提案し、実現させた。

 と同時に、各種社会運動にも積極的に取り組み、活躍した。
 当時の革新市長といわれた本山氏を中心に、名古屋五輪是非が問われた市長選では、自民党から共産党までのすべてが五輪実現で一本化されるという異常事態の中で、牧野氏は、五輪反対の旗幟を鮮明にし、無名の同志を擁立した。結果は、本山氏28万826票に対して、6万3533票と17.5%(他に反対を表明した候補の得票も含めると20%強)であった、自民、民社、社会、公明、共産のオール与党体制のなかではいわば大勝利であり、果たせるかな、次期開催地決定のIOC総会では、名古屋はわずか30%台の得票で破れた。
 こうして、住民無視の政財官主導の五輪誘致は潰え去ったのだが、この運動の中心には彼がいた。

 これを先頭に彼の関わりあった社会運動は多岐にわたり、また無党派の声を集約するための各種選挙にも積極的に関わった。

          

 先に見たように、牧野氏と私の関わりは、私が河合塾の本拠地の近く、名古屋の今池に飲食店をもつに至ってより密接になったが、彼は、塾のスタッフや同僚の講師たち、時には塾生たちとよく店を利用してくれた。

 彼の功績のひとつに、河合文化教育研究所との関わりがあるが、その特別研究員である錚々たる学者諸氏を紹介してくれたのも彼であった。精神医学の木村敏氏、フランス文学の中川久定氏、歴史家の谷川道雄氏、数学者の倉田令二朗氏、哲学者の廣松渉氏(順不同、故人も多い)などが私の店を訪れ、中には常連として個別に来てくれた人もいた。
 それらの人たちとのカウンター越しの会話で学んだことも多い。いわゆる「門前の小僧」である。

 こうして彼との付き合は半世紀を超えたが、惜しむらくは一昨年の五月、それ以前からの闘病生活の結果、帰らぬ人となったことだ。

          
 
 彼とは、冒頭に述べた「壺」という店で肩を並べて飲んだ事もあったが、記憶に新しいのは、晩年、やはり冒頭で述べた彼の決闘相手の須藤氏宅で、毎年正月に行われた勉強会での何回かの出会いである。

 この席には、彼と須藤氏の他、それぞれの介添人、酒井氏とかくいう私、それに「壺」でバイトをしていた堀田氏と、あの決闘事件の当事者五名すべてが顔を揃えていたのである。運命のめぐり合わせといおうか、まことに稀有なことではある。
 この勉強会での論争はあったが、もちろん、決闘に至るようなものではなかった。

 その五人うち、須藤氏は牧野氏に先立つ一ヶ月前にその生を終えている。また堀田氏は、さらに前に他界している。寂しい限りである。

 ところで牧野氏と私だが、その考え方や行動に対して、私なりの批判があり、そうした面では一定の距離があった。
 しかしである、気がつけば私は、例えば市民運動レベルなどではいつも彼と行動をともにしていた。そして、その行動力には常に敬意をもっていた。容易には語りえないが、対象化される思想など以前に、通底するものをもち合わせていたのだろう。

             

 その彼の墓所は岐阜市の北西のはずれ、濃尾平野の突き当りともいっていいところにある。
 この19日、梅雨の晴れ間を縫って墓参に訪れた。花などが絶えてはいまいかと持参したが、やはり訪れる人が絶えないと見えて、まだ枯れきっていない花が手向けられ、缶ビールが供えられていた。

 持参した花をそれに加え、かなり減っていた水を取り替え、折からの30度の暑さに、「頭髪の薄い(ない)君にはとりわけこたえるだろう」と墓石にたっぷりの水をかけてやった。
 持参した線香を手向け、しばし瞑目した。

          

 彼の墓石のほかの写真は、彼が毎日見下ろしている風景、それに彼の背後の墓石群などである。
 こうして彼の墓石の前に立っても、なぜか「安らかに眠れ」という感慨は湧いてこない。それだけ、彼の阿修羅のような生涯は強烈であったし、今更それを無に帰すような幕引きはしたくないという思いが私の中にはある。

 彼と最も多く共に過ごした今池の街を、ときおり訪れる。
 今でも、その辺の横丁から彼が現れるような気がする。現れてほしい。
 晩年、彼はほとんど飲まなかったし、飲めなかった。でももう、健康だの医師の指示などは必要ないのだから、心ゆくまで痛飲して語り明かしたいものだと思うのだ。


これを書いていると、彼との思い出が次々にたち現れるのだが、もうじゅうぶん長くなってしまって、それらは割愛せざるを得ない。続きは、私がそっちへ行った折、「そういえばあんなこともあったなぁ」と語り継ぐとしよう。



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信州上田は別所温泉 山本宣治ほかの活動家記念碑

2018-06-16 01:37:03 | 歴史を考える
 先月の信州の旅で載せていなかった情報などについてである。
 かつて信州はいわゆる「左翼」の強い土地であった。ここでかつてというのは、戦前、戦中、そして戦後の一時期までのことである。
 その一つの源流は、戦前の地主と小作という農業生産のあり方の中で、一方的に搾り取られていた小作人の農民運動にあった。その中から、タカクラ・テルや山本宣治などの活動家を輩出した。
 真田の隠し湯といわれる別所温泉の一角に、彼らに関する記念碑が建立されている。

             

 詳しくは後掲の記念碑についての説明に譲るが、山本宣治は、1929年3月1日、労農党代議士として、この地で1,000人を超える聴衆を前に講演をし、その足ですでに悪名高い弾圧法として機能していた治安維持法のさらなる改悪に、ひとり立ち向かうため上京した3月5日、右翼テロリストの凶刃に倒れた。

          

 タカクラ・テルはその治安維持法によって逮捕され、1945年の敗戦によりその10月に釈放され、共産党の代議士などになるも、今度は、マッカーサーの司令による公職追放となり、徳田球一などとともに北京に亡命、さらにソ連などを転々としたあと、1959年に帰国、政治家として、また文学者として、さらには国語国字改革などの活動に取り組む。
 ただし、晩年は、日本共産党の方針転換などによってしだいに閑職へと追いやられ、この党によってひところもてはやされた国語国字改革運動も誤りとして批判の対象とされることとなった。

          

 斎藤房雄は私の調べた限りではとくに華々しい活動歴はでてこなかったが、彼は、老舗温泉旅館の当主であり、タカクラに住居を貸していた家主でもあったから、山本も含めた当時の活動家の心強い支援者だったと思う。
 すでに戦前に建てられていた山本宣治の記念碑については、警察当局からその撤去を命じられた際、自宅の庭に埋めてそれを守り通したという。
 
 戦後、それを掘り起こして38年間ぶりに再建されたのがこの碑で、その上部にある「VITA BREVIS SCIENTIA LONGA」は山本の座右の銘であった、「生命は短し、科学は長し」というラテン語だという。生物学者でもあった彼の一面を示すものであろう。

 斎藤房雄の碑は、その内容からして、辞世の歌ではないかと思われる。
 タカクラ・テルのそれは自筆によるものという。

          

 最後に掲げる寺と花の写真は、山本宣治らの石碑近くの古刹・安楽寺とその境内で今まさに開きそうな芍薬の花である。もって、山本宣治以下、治安維持法などによる戦前の弾圧の犠牲者、活動家、文学者、俳人などの表現者諸兄姉への献花としたい。

          

 私が、金子兜太氏最後の揮毫という「俳句弾圧不忘の碑」と金子氏の弟子、マブソン青眼さんと会ったのはその翌日のことだった。これもなにかの因縁だと思っている。

             

*以下は記念碑に添えられた説明である。

          

■山本宣治 高倉・テル 齋藤房雄 記念碑について■

 昭和初期の大恐慌の中、上小(上田・小県)農民組合連合会が結成され、小作料値下げ、土地取り上げ反対などの運動に立ち上がった。
 これより前、上田自由大学の講師として別所に在住していたタカクラ・テル(高知県出身、文学者、日本共産党衆・参議員)は、農民運動・民主主義と社会進歩の運動に指導的役割を果たした。
 1929年(昭和4年)3月1日、上小農民組合連合会は第2回総会にタカクラの義兄弟にあたる山本宣治(京都府出身、生物学者、労農党代議士)を招く。この記念講演は1千名を超える聴衆に深い感動を与えた。
 この講演から4日後の3月5日、山宣は治安維持法改悪承認の議会にただ一人反対演説をすべく上京したが、その夜、右翼によって暗殺された。
 上小農民組合は山宣の死を悼み、追悼大会の決議により抗議の記念碑を翌年5月1日(メーデー)にタカクラの借家の庭に建立した。
 1933年2月、治安維持法による県下最大の弾圧事件であった「二・四事件」でタクラ・テルは逮捕、家族は県外追放となった。
 警察は家主の齋藤房雄に、碑の取り壊しを命じてきたが、氏は碑を密かに自宅(旅館柏屋別荘)の庭に埋め、38年間守り通した。
 戦後、この碑の再建委員会を結成、多くの協力者を得て1971年10月、碑はこの地に再建された。
 碑の前面に彫られたラテン語は、山宣座右の銘「生命は短し科学は長し」の意である。なお、碑面の文字はタカクラの筆である。
 タカクラ・テルは1986年4月に亡くなり、記念碑は1988年10月、山宣の碑に並べて建立された。齋藤房雄記念碑は2006年、山宣碑再建35周年記念事業で建立した。

                           長野山宣会
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ついに舞台に立つ! フォルテピアノとフレンチジャズ 

2018-06-13 16:44:20 | 音楽を聴く
 面白いコンサートへ行ってきた。
 「ジャコバン国際ピアノ音楽祭 2018in岐阜 6月10日のマチネ・コンサートで
 まず前半は「フォルテピアノで聽く名曲たち」そして後半はフランスのジャズピアニストのソロ演奏というその組み合わせ自体が面白い。

             

 フォルテピアノのリサイタルというのは初めてで、媒体を通じてではない生の音も初めてだ。当日の楽器はモーツァルトなどが弾いた時期から数十年下った1830年代産のアントン・シュヴァルとリンク。この時代になると、当初脇の鍵盤や膝で操作していたペダル装置がつくようになる。しかし、全般の形状は華奢で、まだチェンバロの面影を宿している。

             

 演奏が始まった。下に添付した内容とは変わって、ショパンの2曲の間に、フンメル、モーツァルト、クララ・シューマン、ロベルト・シューマンを挟むような構成だった。
 演奏者は小川加恵さんで岐阜県は池田町の出身。中学生の折、ザルツブルグのモーツァルトの生家でみた古いピアノに魅せられ、東芸大の古学科修士課程、オランダは、デン・ハーグ音楽院修士課程などを経て、フォルテピアノの弾き手としてヨーロッパ各地と日本で活躍している。

 彼女の活動は演奏家としてのそればかりではない。自らが魅入られた古楽器、とくにフォルテピアノの特色、歴史的経由、その魅力などなどを伝えるためのレクチャーに力を入れている。
 この日の演奏会でも、一曲ごとにマイクを握り、その時代とその楽器をいつくしむような説明をしてくれた。古楽器に入れ込み、同時にその演奏家である彼女の解説は、モーツァルトが、ショパンが、シューマン夫妻が、この楽器でどんな音を紡ぎ出していたのかを彷彿とさせるもので、とても面白かった。

             

 ところでその演奏というか音色だが、今様のピアノに比べまずは音が小さい。そして音色が柔らかい。高音部でもその音は決して鋭角的ではなく、どこか優しい。そうなんだ、モーツァルトのピアノ曲はこんな音だったのだと改めて納得するところが多かった。

 ところでサプライズはその後にあった。
 演奏を終えたソリストの小川利恵さんが言ったのだ。
 「フォルテピアノに興味のある方はどうか舞台に上がって身近にご覧下さい」
 もちろん、私も見たいと思った。
 またたく間に前方の客が両サイドの階段から舞台へ上がり、フォルテピアノを取り巻いた。
 小川利恵さんは鍵盤のところで説明をしているようだが、十重二十重と取り巻く群衆で立錐の余地もない。

            

 そこで私は、待機作戦を取り、舞台上での人の減少を待った。これぐらいならフォルテピアノも見えるだろうという時期を見計らって舞台に上る。
 しかし、小川さんが解説する鍵盤側は人でいっぱい。そちらは諦めて反対方向から写真を撮る。

 今様のピアノだって内部をまざまざと見たことはないのだが、やはり全体に華奢である。弦もハンマーも優しい風貌をしている。何よりも、全体の形状がチェンバロに似ている。
 チェンバロは撥音楽器であり、ピアノは打楽器であることは知っているが、しかし、その間には明らかに連続性がある。その生き証人がこのフォルテピアノなんだと思う。
 写真は、舞台公開の後半に撮ったものだが、やはり鍵盤側には近付けなったため反対側から撮った。しかしおかげで、上方画面中央、ドレス姿で説明している小川さんがよく撮れた。

             

 なお、私は、このサラマンカホールのメンバーも20年近くで、年数回としても100回ほど通っているのだが、この舞台に登ったのは初めてだった。フォルテピアノに夢中な人をしりめに、オペラのアリアでも歌ってやろうと思ったのだが、あいにく思い出される歌は、演歌ばかりだった。
 
 小川利恵さんは、滑舌も良く、MCとしても優れた能力をもっている。そして何よりも、若き日に魅せられたというフォルテピアノへの情熱をもち続けている。大成を期したい。

 コンサートの後半は、フランスの気鋭のジャズピアニスト、レミ・パノシアンのリサイタルで、こちらの方は普通のグランドピアノ。やはり音量と音の響きの振幅が違う。
 ところで、ジャズの方だが、ひところよく聴いたのは、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、セレニアス・モンクなどなど1950~60年代のもので、もっているCDもそのへんのところである。
 その後のジャズの歴史がどうなっていったのかはまったくわからないのだが、このレミ・パノシアンの演奏はそれらのどれとも異なっているようだった。アレンジメントとインプロビゼーションが錯綜しいて、かなり重層的な構成になっていた。

             
 
 曲目は、最近お映画の主題歌などのアレンジや、もともと知らない曲などであったが、スタンダードナンバーの「キャラバン」はわかった。もともと大編成のバンドなどでも取り上げられる曲だが、ピアノソロでのその後半の熱演はホール全体にあふれるほどのエネルギッシュなもので、あちこちからブラボーの声がかかっていた。
 アンコールはフレンチピアニストらしく「枯れ葉」。

 フランスは、アメリカ発祥のジャズをいち早く取り上げ、1950年代から60年代にかけてはモダンジャズを取り入れた映画が多く作られたことでも知られているが、フランス特有の演奏スタイルなどというものはあるのだろうか。
 その辺のところはまったくわからないのだが、この奏者の演奏を聞きながら、バラード調の静謐なところではドビュッシーが、次第にクレッシェンドする箇所ではラヴェルのイメージが重なって聴こえたのは、おそらく私の先入観によるものだろう。

    https://salamanca.gifu-fureai.jp/1411/
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ナンテンたってアイドル! 南天の唄

2018-06-08 23:50:20 | 花便り&花をめぐって
              

 ナンテンはとても強い植物で、知らない間にあちこちからでてくる。
 さして広くないうちの庭(玄関先と居間の南側に少々)にも、ふと気づくとこんなところにという場所から生えてくる。
 「難を転じる」という縁起担ぎもあり、また、生薬の原料でありそれ自身解毒作用があるということでそれなりに尊重してきたが、そのあまりにも旺盛な繁殖力に業を煮やして、ここ何年かは専守防衛の精神を発揮して、新たなものは排除やむなしという方針に転じた。

 それでもいまなお、数箇所にそれなりのスペースを占めて陣取っている。それすらもわが庭のキャパシティからいったら過剰気味なのだが、それらを許容しているのにはある事情がある。

          

 ご存知かもしれないが、一口にナンテンといってもその種類はいくつかに及ぶ。いま、うちにあるナンテンは4種類である。
 そのうち2つは、ほとんど見分けがつかないが、秋に実を結ぶ頃になるとその違いが判然とする。一方は赤い実がなるのに対し、一方は白い実を結ぶ。いわゆる白ナンテンなのである。

 もう一つは葉の形状が違う。写真でご覧になるように、歯が細くよじれている。いわゆる柳葉ナンテンというのだそうだ。
 これが捨てがたいのは、もう25年ほど前他界した父が実家の坪庭で育てていたものを、そこを潰すと言うので貰い受けてきたものだからだ。他に亡父からは紅梅の鉢も引き継いだ。

          

 もう一つは折鶴ナンテンという。あまり大きくはならないが、秋には真っ赤に紅葉する。
 このナンテンは、今から30年ほど前、飲食店をやっていた折、常連だったヤクザのあんちゃんが正月前に2万円だと売りにきたのを断った寄せ植えの鉢の中にあったものである。
 断ったのに何故うちにあるかというと、こんな事情による。正月明けの頃、そのあんちゃんがやってきて、「結局去年はノルマが果たせず、売れ残ったものを自己責任で引き取らされた。5千円にするから買ってくれないか」という。
 
 見たところ、何種類かのものが楕円形の盆栽風の鉢に寄せ植えにされているもので、5千円ならそれ相当と思われるし、常連のあんちゃんが困っているのなら買ってやっても組の資金源にはなるまいと思ってそれを引き取ってやったのだ。
 
 喜んでそれからもよくきてくれた。多少、それらしい雰囲気はあったものの、根は明るくて良い青年であった。ある時、妹を呼び寄せてクラブかなんかで働かせようと思うがどうだろうかという相談を受けた。私は、「無理して呼び寄せないで、田舎にそっとしておいてやれ。第一、あんたの商売ではいざというとき妹を守りきれんだろう」というと、「そうだなぁ」と素直に頷いていた。

 やがて、全国区のヤクザが進出してきて、彼の所属する地元の組もしばらく抵抗していたが、圧倒的な資金力と軍事力の格差のもと、蹴散らされるようにして解散したようだ。
 その間の抗争で、何人かの死傷者もでたようだが、彼の消息はよくわからない。

          

 さて、その彼から買った真っ赤に紅葉するナンテンだが、その花は他のものに比べてやや遅咲きで、しかも薄紅色をしてとてもナンテンの花とは思えないほどたおやかで美しい。
 この最後の写真だけ見せたら、それをナンテンと言い当てる人は少ないのではないだろうか。


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ついに田んぼが見えなくなった! 私たちが隔てられてあるもの

2018-06-05 01:56:29 | よしなしごと
 半世紀前、私が今の住まいに来た折、四方八方が田んぼであった。簡易舗装の道路の脇に、ポツネンと建ったわが家は、六、七月に周囲の稲が青々と風に波打つ折などには、絶海を往く孤舟のようであった。

          

 やがて西方に、材木を収容するための倉庫が建ち、ついで南に隣接する田が埋め立てられて、一階は店舗、二階は住宅という三軒続きの長屋が建てられた。
 それでもなお、東方と北方は田んぼが広がっていた。

          

 やがて、私の家を包囲するように家々が建てられ、東方の一反は埋め立てられて駐車場となったが、いささか視野がせまくなったとはいえ、二方向の田んぼをウオッチングすることはできた。

          

 それらが激変したのは一昨年からである。東方に残っていた田んぼ二枚が埋め立てられ、ひとつはドラッグストアに、ひとつは駐車場になった。
 そして北側にあった三反の田んぼのうち、手前の休耕田が埋め立てられ、そこに四軒の建売住宅が並び、その向こうの二反の田んぼはすっかり見えなくなってしまった。
 この田んぼこそ、私が長年にわたって、田植えや稲刈り、あるいはその途中の作業などを観察し、ブログなどに載せてきたところである。
 かくして、わが家から居ながらにして見ることができる田はなくなってしまった。

          

 もちろんこうした趨勢は我が家の周囲のみのことではない。冒頭に書いたように、半世紀前は田んぼが圧倒的に多く、その中に昔ながらの集落があるという典型的な農村風景であった。
 そして、私がネットなどに関わり始めた二〇年ほど前は、都市化の波が押し寄せ、まだら模様の風景が実現していた。

          
 
 その後、バブルの崩壊などがあって、都市の侵食は一時的にその勢いを弱めたかに見えた。しかし、ここ何年か前からふたたびその勢いを回復し、いまや田んぼが包囲されるところとなった。
 実際のところ、住宅に包囲された田んぼが孤立していたりして、どうやって必要な取水などしているのかわからないところもある。

          

 しかしそれらの田も、そうした水処理や日照の問題で白旗を掲げて宅地や駐車場へと変わってゆく。こうなると、オセロゲームのように事態は一挙に進行する。
 デベロッパーが暗躍し、私のうちまでアタックの対象になる。これは誤解によるもので、わが家に隣接する妹夫妻(いまはその長男の甥の経営だが)の二百何十坪かの材木置場が狙い目なのだ。

          

 こうした趨勢に伴い、周辺の自然条件も激変した。それらをいちいち列挙していたらキリがない。
 その是非は問うまい。ただ、そうした変化によって、人間が生態系から切断され、自然環境や四季の移ろいから疎外されつつあるのは事実であろう。
 そして自然は、そのなかで私たちが生き、共存してゆくものではなく、人間の欲望に従わせるもの、そのための資源と化してしまった。

          

 これはものごころついた頃に疎開で田舎に転居し、今のように機械化されず、田植えから田の草取り、稲刈りまで、まさに地を這うような労働を、そして、その結果としての実りの喜びを観てきたものの感傷かもしれない。

          
 
 テクノロジーの進化は、生産性を飛躍的に向上させ、それにより余暇を与えられた人間はより豊かになるはずであった。しかし、かつて地を這って労働していた人たちより、今の人たちのほうが本当に豊かなのか、いろいろ考えるところではある。

          

 いわゆる先端企業で過労死が頻発する事態は決して正常とはいえまい。奴隷時代ならともかく、「自由な」労働市場でそれが起こっているのである。それらを規制すると称して、ちゃっかり抜け道を用意している法案が強行採決されようとしているとき、その法案のまやかしを暴いてゆくことは必須といえる。

 と同時に、そこへと至った私たちの文明史を振り返ってみる機会であるのかもしれない。
 田んぼの話が、いくぶん飛躍した感があるが、私のなかではつながっているのだ。
コメント (2)
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