六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

無常・暴力・六の時事川柳

2007-09-30 14:53:23 | 川柳日記
 今年は夏が長く、その内容も濃かった。
 このままではいつまでも夏が終わらないのではといわれたが、やはり季節はもうである。

 
        九月一日のハナミズキの実

 季節というのは私たちにとって見えない時間の経過だから、それを見るためには定点観測が必要である。
 同じ場所の同じ風景を捕まえれば、昨日こうであったものが、今日はこうではないことが分かる。

 
        九月末日のありよう。同じ樹

 それらは時として、ある種の無常観として詠嘆の対象となる。古来、それを嘆いた言説は多い。ひとはまた、そうした言説へと惹かれる。
 
 しかし、無常こそが常なのである。
 それが時間であり、時間は常が常ならぬ他者に取って代わられるということなのである。
 常ならぬことが私たちのありようだとしたら、常ならぬものを常なるものとして固着しようとするところには必ず暴力が現れる

 
        暴力を排除した在り方とは・?      

 個人であれ、政治であれ、移ろいゆく無常なものをある価値のもとに繋ぎ止めようとするとき、そこには暴力がある。
 ナチズムやスターリニズム、今日のミャンマーのありよう、あるいはあらゆる原理主義が内蔵する時間の他者性への抵抗は、必ず暴力を伴う。

 それらは、あたかも季節を止めることが可能であるかのように振る舞う。
 しかし、季節をとどめ得ないように、時間がもたらす他者性(来るべきもの)に対し、そうした暴力の体系は席を譲らざるをえないであろう。
 私はそうした常ならぬものに対して開かれていたい。
 

<今週の川柳もどき> 07.9.30

 沖縄は自己責任と文科省
 なかったで済ませる美しい日本
  (集団自決で強制なしとする検定に
   沖縄でで11万人の抗議集会

 軍政を支え続けて二〇年
  (特に、日本と中国)
 あな不思議狙い通りが流れ弾
  (長井さんの殺戮)

 素手でする相撲になぜかビール瓶
  (タコ部屋殺人事件)
 一七歳さぞや無念であったろう
  (やりたいことがいっぱいあったのに
 透明さ隠す「国技」と「相撲道
  (過剰な価値付与による殺人)

 猫を追うより皿を引く賢明さ
  (横領多発、社保庁で現金取り扱い停止

 一円は銭ではないと見栄を切る
  (自民伊吹幹事長、一円以上公開を拒否

 ファームではドラ本番はさあどっち
  (二軍は中日優勝、で一軍は)






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悪夢・さるぼぼ・夢判断

2007-09-29 15:13:58 | よしなしごと
 夢をよく見るようになった。
 そのほとんどが悪夢である。

 この間など、風呂場の戸を開けたら、が湯に浸かり、洗い場にはがいた。
 猪は、飛騨の伝統的な人形「さるぼぼ」のように真っ赤にゆだった子供に変身したので、慌てて湯から出して身体を冷ましてやったのだが、なぜかその子は私から身を振りほどこうとするのだ

              

 こうしたナンセンスなシーンがあって、後段はほとんどの場合、焦燥に駆られることとなる
 単純なことなのに必ず邪魔が入ってそれが出来ない。

 いつの間にか私は自分がやっていた店のレジで、会計をしているのだが、途中までレジを打つとそれが誤りであることに気付き、もう一度始めからやり直さねばならなくなる。それが繰り返される。何度やっても巧く行かないのだ。誰かに言葉をかけられ、それに応答してから目を戻すと、計算していた伝票そのものがなくなってしまっている。
 懸命に探す。確か私の本棚の何処かに挟んであったと思いつき、部屋へ行く。

 すると子どもたちが暴れ回っていて、本は散乱し、どれがどれだかさっぱり分からない。
 子供を一人ずつ部屋から出す。もう出し終わったと思うとまた増えている。何と別の出入り口があって、そこから前に出したはずの子や新しい子がドンドン入ってくるのだ。

 

 私はパニックに陥るのだが、どこかで冷静にしなければという抑制や、子供は実は私を試すために何処かから送られてきた連中で、それをぞんざいに扱うと私が傷つくという思いに駆られる。
 それが証拠に、子どもたちはコッソリ目配せを交わしているではないか
 そこで私自身が部屋を出ることにする。あっ、そうだ。レジに客を待たせたままだ

 すると子供が入れ替わり立ち替わり現れて通せんぼをするのだ。それを一人ずつ両脇に手を入れて静かに横へよける。
 しかし子供は次々と現れる。
 ニンマリ笑った子、泣きべそをかきそうな子、憎悪に歯をむき出した子、そしてのっぺらぼう。

 それらを一人一人かき分ける。でも、前方を見ると、ずらーっと子どもたちが並んでいる。その中にさっきの「さるぼぼ」がいる。そこへ辿り着かねばと思うのだがままならない。私はただ、群がる子どもたちをかき分けている。
 もうこんなのイヤだ。
 何でこんな不条理な目に遭わねばならないのだ。
 こんな馬鹿げたことは夢に決まっている。


 不思議なことに、そう思った途端目が覚めるのだ。
 起きあがり、子どもたちがいないのを確かめて小用に立つ。

 

 フロイトに『夢判断』という著作がある。
 一通り読んではいるが、遠い昔のことであり詳細は思い起こせない。
 ただ、おおざっぱな結論は、「夢とは、日常のなかで超自我(世間の掟、それとの関連で自分のなかで形成された戒律)によって抑圧され排除された欲望や願望が、睡眠時の超自我の抑圧能力の低下によって、意識へと登場したもの」とされる。要するに、夢は抑圧された願望の表出だというわけだ。

 しかし、睡眠時の超自我の力が衰えているとはいえ、抑圧された欲望や願望はそのままストレートに表面化されるわけではない。そこには依然として超自我による検閲機能が生きており、従って夢は、ふつうの言葉とは違った夢独特の言葉で表現される。ようするに別の言葉へと変換されているのだ。
 従って、それを翻訳すれば夢の解釈が可能になる。しかし、夢の言語を一般化して「夢語辞典」を作ることは不可能である。
 夢は、あくまでも個別的だからである。
 例えば、夢に出てくる槍や針は男を象徴し、舟や壺は女を象徴すると言われるが、いつの場合でもそうであるわけではない。

 

 ただし、いわゆる俗語やスラング、そして詩的な象徴語などが、かなりの程度に夢の言語と重なっていることが多いのは面白い。例えば、蝶と花などという対比は夢においても男女の対比であることが多い。
 これはむしろ、そうしたスラングや象徴語自体が無意識の誘導によってその言葉を選択したのだとも思える。

 しかし、この程度の知識によって夢を分析することはほとんど不可能である。
 なぜなら、夢はあくまでも個別的であり、先に述べた夢の言語も辞書的に適応できないからだ。
 よく、夢のみを取り上げて、夢占いや夢判断をする例がある。しかし、それらのほとんどが眉唾である。

 

 フロイトの夢判断では、夢を見た人の幼少時以来の記憶への遡上(それは本人の意識していない次元にまで及ぶ)、ここしばらくの間に彼または彼女の身の上に起こった諸経験の掌握、などなどを通じて夢見た主体の隠された動機にまで分析が及んだ上で、判読されるものである

 従って、こんな夢を見ましたがどうでしょうというレベルでは判読など不可能なのだ。
 といったところで今日の日記は終わりだが、私の目論見は、こうして自分の夢をさらし者にすることによってしばらくは悪夢から逃れられるのではというところにある。

 私には、上に述べた専門的な夢の判断は出来ないが、「俗流」夢判断をしないわけではない。
 例えば、身をよじらせて私から逃げたあの赤い「さるぼぼ」は、ひょっとしてあなたではないのかとか・・。


ここまで書いてきて、私の夢になぜ唐突にも「さるぼぼ」が登場したのかについてのある仮説がひらめいた。しかし、あくまでも「俗流」の域を出るものではないので敢えてその内容は書かない。
 しかし、俗流とはいえ、ひとつの解釈として可能性がないわけではないと思っている。






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時津風部屋殺人事件と朝青龍問題

2007-09-27 02:26:37 | 社会評論
 やっぱり本当だった
 朝青龍への処分が厳しく、それに追い打ちをかけるようなバッシングが横行するなか、それ自体が、より大きな事件を隠蔽するための工作ではないかと従前より囁かれていたし、私もそう思っていた。

 私が朝青龍バッシングが民族問題(たかがモンゴル人に「国技」を馬鹿にされたという意識)などを含む、一筋縄でゆかない面をはらむと日記に書いたとき、複数のひとから、それはこの殺人事件から眼を逸らすための協会ぐるみの工作だとの指摘があった。

 
     折角の中秋の名月にこんな話はしたくない。

 横綱審議会のエビジョンイルこと元NHK会長の海老沢も、あからさまに朝青龍を排斥する発言を行っていた内舘牧子も、これらの事実を掌握していたにもかかわらず、それをおくびにも出さず、ひたすら朝青龍問題を拡大するにまかせ、殺人事件の隠蔽を行っていたのである。
 
 なぜ協会や横審が一丸となって時津風部屋を庇うかというと、この部屋が、かの大横綱・双葉山以来の伝統ある部屋だからだ。
 この名門を庇うためなら、「外国人」の朝青龍の問題を焚きつけ、そこへ衆目を集める工作をするぐらい当たり前という感覚なのだ。

    

 協会や横審がどうこれを裁くかが見ものである。加害者である時津風部屋一同は当然のこと、協会や横審もほぼ共犯、少なくとも犯人隠匿に相当するからだ。
 巡業をさぼった朝青龍に引退を迫った内舘は、部屋ぐるみの殺人事件にどう対処するつもりなのか。

 だいたい、朝青龍問題にしても、今回のリンチ殺人事件にしても、協会の管理体制は全くなっていない。そうしておいて、何か問題が起きると部屋のせいにして自らは何の対策も取ろうとしない。
 ここは、協会や横審を一度解散するぐらいの大手術が必要だと思われる。

    
 
 私の提案はこうだ。

1)稽古に名を借りた暴力事件(今回だけではない)が絶えない部屋制度を全廃する。
 だいたいこの制度は不合理である。
 かつて、貴乃花が優勝を続けていたとき、何と40人の幕内力士のうち10人が同部屋(二子山部屋)のため、貴乃花はそれらの力士と対戦することなく優勝していたのだ。
 こんなハンディがついたスポーツはほかにはない。

2)国技だ、相撲道だという狭小な看板を外し、開かれたスポーツとして再出発すべきである。
 むろん、相撲が持つ伝統的なものをすべて捨てろというわけではない。
 それらの美しさや華麗さを継承しながらも充分スポーツとしての合理的な展開が可能なはずである。

    

3)現在の相撲教習所を充実させ、力士はすべてそこの所属とし、幕内、十両などの力量別練習法、指導法を組織する。

4)女性は排除という悪しき伝統は改めるべきである。
 排除といいながら、大阪場所では女性知事が出す大阪知事杯をしっかり貰っているではないか。
 そのくせ、その賞を出す知事を土俵に上げないと言うのはまことに失礼千万な話というほかない。

 

 今回の殺人事件を、たまたまその部屋で起こった不祥事として済ますのではなく、これを契機に大相撲全体の改革を断行することが必要だと考える。

 先にも述べたが、名古屋場所での新弟子は0人であった。
 そして3月に入門した貴重な若者は無惨にも殺された
 このどこに大相撲の未来があるのか
 まあ、野垂れ死ぬつもりならばそれはそれで良いのだが・・。


コメント (4)
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ノリパン・爆乳・向井滋春

2007-09-25 22:33:52 | よしなしごと
 この三題噺のようなタイトルは、私が去る23、24日の名古屋の今池祭りでゆっくり観ることができたパフォーマンスである。

 今池は私の第二の故郷のような街であるが、この祭りの初期に関わり合い、ある種の達成感や挫折感などを味わった懐かしい想い出を持つ。
 19回を数えるこの祭りの特色は、企画会社などの手を煩わせない手作りの暖かみがあることだ。それが、かえってある種のネットワークとして広がり、近隣の住民のみか、東京、横浜、関西などの遠来の連中が押しかけてきて、ブースを持って自分たちの作品やパフォーマンスを披露するに至っている。

 
              ノリパンの舞

 祭りは主に二つのパートに別れる。
 そのひとつは、町中を歩行者天国にして行われる大バザールである。敗戦直後の闇市をイメージし、何でももってこいのこのバザールは200店近くが出店し、声を限りに呼び立てる。
 かつて、これらの店で、希少と思われるCDをゲットしたことがある。
 ひやかして歩くのも楽しい

    
                舞う少女

 もう一つは、4箇所ほどの小規模なステージと、各街頭で繰り広げられる様々なライブやパフォーマンスである。
 もともと今池はライブハウスが多い街であるが、そこへ出場しているメンバーが全くの無償でいろいろ聞かせてたり見せたりしてくれる。
 同時進行型のライブなので、どっちへゆこうか迷うこともしばし。

 例えば、冒頭に掲げたようなパフォーマンスである。
 今年の目玉は、ジャズトロンボーンの向井滋春だとあたりをつけて、じっくり聞いたが、これは屋内だったため写真はない。

 名古屋の中高生からなるバンドFree Hills Jazz Orchestraに客演した彼は、若い人達に混じりのびのびとした演奏を聴かせてくれた。
 とりわけ私がはじめて聞いたのは、トロンボーンのアカペラ演奏で(後半のみドラムスの参加)、何かを語りかけるように迫る演奏は感動的であった。

 
          弾けるエネルギー・爆乳シスターズ

 なお、彼のソロに物怖じせずついていったドラマー、トロンボーンバトルで向井に負けじと吹きまくった若い奏者たちに、爽快感を持つことが出来た。

 簡単に写真を説明しよう。
 最初は「ノリパン農楽隊」の街頭での演舞である。
 このグループ、朝鮮半島の伝統芸能に関心を持つ、在日の人たち(南北を問わない)と日本の人たちがともに会するもので、まだ冷戦時代であった発足時においては画期的であった
 創立の頃の半数ぐらいは私の知り合いであったが、今は年代も代わり知った顔はチラホラ。

 思い出すのは20年ぐらい前の第一回の頃、今池は在日の人が多いところで、当時は一世、二世も多く、それらの人たちが生きているうちにこれが観られるなんてと涙を流して喜んでいたことである。

 
                沖縄エイサー

 次は「爆乳シスターズ」。賑やかな女性のみのコミック・ボーカルグループ。弾けるようなエネルギーで天衣無縫の面白さ。
 あとで、リーダーこと会長と少し話す機会があったが、その折りは物静かな女性なのでびっくりした。

 あとはおなじみ沖縄エイサー。などなど。

 ほかにも紹介したいシーンが沢山あったが、私自身が見とれていてシャッターを切る余裕を持たなかった。

    
              大道芸人   
 
 ここでコマーシャル
 この祭り、毎年秋の彼岸前後に二日間行われる
 来年は、あなたが楽しむ番です



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「割れ目の向こう」と六の時事川柳

2007-09-23 04:47:09 | 川柳日記
    

 割れ目があるとその向こうが気になりませんか。
 私は気になります。
 ですからこんな写真を撮ってみました。

    

 割れ目の向こうのおじさんは、回りのお掃除をしているのです。
 掃除ですから長袖長ズボンの作業服です。

    
 
 この日も35℃に迫る暑さでした。
 本当にご苦労さんです。

    

 のんびり写真を撮っているのが恥ずかしいくらいです。




<今週の川柳もどき> 07.9.23

 ベッドから投じたのかな一票を
  (総裁選挙で安倍さん

 主のない「美しい国」霧散する
  (安倍さんの有識者会議解散)

 お役所が大臣審査するリスト
  (農水省兼職議員リスト作成)

 ふるさとは税を納めて思うもの
  (ふるさと納税進展か)

 東海は東海か中
  (12道州制への提言)

 サルコジブッシュの方に舵を切る
  (仏外交政策米寄りに)

 ニイハオと言う松茸が売れ残る
  (中国産去年より半減か)




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嗚呼、無情!それは幻と消えた!

2007-09-20 15:14:47 | よしなしごと
 A新聞社から電話がかかってきた。
 一週間ほど前のことである。

 総裁選挙に立候補した覚えもなく、最近は(前からじゃ!)犯罪に手を染めたこともないのにと、ややキンチョールの蚊取り線香。

 相手は少し固い声をした女性。
 彼女曰く、「あなたの応募された川柳が採用されました」。
 そういえば、久々にこれといったものが出来たので応募したのであった。いや~、朗報、朗報。また図書券ゲットだ。

 
           高山線普通列車。岐阜駅にて

 ところが角屋のトコロテン。
 そうはイカのオツンツンである。

 「しかし」と彼女はのたもう。
 そういえばここ数年、何度も採用されているが、こんな確認の電話も「しかし」も「おかし」も「むかし」もあったことがない。

 彼女は続ける。
 「ネットで検索したところ、あるブログに全く同じ句があったのです
 エッ、エッ、エッ、越中富山のフンドシも真っ青(フンドシは白?)。

 確かに川柳はたった十七文字の表現、しかも時事川柳とあれば題材も限られ、同じ句があっても不思議ではない。
 しかし、あの句は自信作、特に、あの発想はひとさまには容易に思い浮かばないだろうと多寡をくくっていた矢先。

    
        ワイドビューひだ号。連結部分

 「え~と、え~と、それはどんなブログですか?」と私。
 「ア、それはですね、<六文錢の部屋へようこそ>というブログです」と彼女。

 これはこれはとひと安心。
 「ア、それでしたら私のブログです。ですから盗作では有馬温泉」

 しかし、彼女の言葉は依然として田中屋の「四つ折り煎餅」ほど固い(ここんとこローカルネタ。大垣のひとならばっちり分かる仕掛け)。
 
 「いえ、盗作とは申し上げていません。ただ、ネットだろうが何だろうが、不特定多数のひとに公開されたものは、既成の作品とみなされるのです」

 エッ、そ、そ、それでは・・。
 ここから、彼女の声に同情がこもり、教え諭すように柔らかくなる。
 でもって、私の期待は幾分繋がる。
 「ですから、応募作品はネット上でも発表しないで、その採否が決まってから発表して下さい」
 「わ、わ、分かりました。で、今回のものは?」
 「上司と相談します。しかし、今後、上記の原則は守ってください」

 
          岐阜駅の高山線発着ホーム

 それから、二,三日、紙面を見ていたが、遂に私の作品は陽の目を見ることがなかった。レ、ミゼラブル。ああ、幻と化した図書券!

 時事川柳は生ものである。賞味期限が切れたら単なるゴタク。
 ところで、A新聞社の採用・不採用は三、四日を見なければならない。だからその正否を見てからではもはや死んだ子、水子の子である。

    
        ワイドビューひだ号の標示など

 私はいまやハムレット。ネット重視か新聞重視か?

 で、決めた。
 図書券狙えそうなものはネットで公表しないで投稿。

 でもって、皆様へのお白州ならぬお知らせ。
 ネット上の作品の質が落ちたとしても、それは図書券取りに出かけた一軍の留守に登場させた二軍のせいだとご了解いただきたい(何といううまい言い訳!)。

 ところで、幻の採用句は以下。

     遠回りせずに来られる薬売り

 これは、土砂崩れで不通になっていた高山線が三年ぶりに開通し、富山・岐阜間が直通になったことを詠んだもの
 だから、ここに載せた高山線関連の写真はちゃんと計算の上。
 
 え?たいした句じゃないって。そりゃそうでしょう、今となっては。
 でも、開通時の沿線の人たちの喜びは大変だったんよ。

 ホラ、だから言ったでしょう。時事川柳は生ものだって・・


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【君のキャラは立っているか?】

2007-09-18 01:15:46 | よしなしごと
 写真はそれぞれ、今回の自民党総裁選候補両氏のスナップです。
  あなたは、どちらがふさわしいと思いますか?

    

 「キャラが立つ」というのは麻生太郎氏のキャッチフレーズのようで、演説の冒頭にしばしば使われています。
 ところで、これについて、テレ朝出演の本番前の両氏の楽屋話で、こんなやりとりが流れていました。

    

 福田「キャラが立つってどういう意味?」
 麻生「キャラクターがあるということですよ」
 福田「じゃあ、ぼくはキャラクターがないの?」
 麻生「いや、ないというより私の方が個性的ということかな
 福田「すると、ぼくは普通ということかな?」
 麻生「うーんそう、普通、普通ね・・」

    

 これがだいたい実際のやりとりですが、私はこれを聞いて、彼らの政治的主張や関係は別として、なんだか微笑ましい感じがしてしまったのでした
 むろん政治というものは、こうした微笑ましい情景など踏みにじって進む非情な面を持っていますが、それだけにこうした幕間狂言のようなやりとりがおかしかったのです。

    

皆様への重要なご注意
 麻生氏のように、この言葉の使い方を心得ていらっしゃる方はいいのですが、私ども素人が使うととんでもない間違いを犯したりしますから注意しましょう
 例えば「キャラ」の「キャ」の代わりに「」といってしまったりする間違いです。

 え?くだらないことを言うな、そんなことを言うと「ハラが立つ」って。
 なるほど、お後がよろしいようで・・。


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「日はつれなくも」六の時事川柳

2007-09-16 14:42:36 | 川柳日記

  あかあかと日はつれなくも秋の風  芭蕉

 今頃になるとこの句を思い出す。日中はまだまだ暑いけれど、どことなく秋の気配が、ということであろう。
 この句は多分、以下の歌を念頭に置いたものだと思う。

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる                                      藤原敏行  

 しかし、何となく、前者の芭蕉の句の方がリアリティがあるような気がするのだ。
 それはおそらく、「あかあかという日」と「秋の風」という鮮明な対比がもたらす効果であるかもしれない。
 この対比により、同じような情景でも、芭蕉の句の方が動的に感じられるのだ。

 門外漢の知ったかぶりはこの辺にして、私自身が見つけた秋の気配を載せることにしよう。

 

 この銀杏は名古屋駅付近の路上で見かけたものだが、「エッ、もう?」という感がして見上げると、どういう訳かひと枝だけ色づきはじめているのだった。
 季節に敏感な枝と、そうでない枝が一本の樹のなかで同棲しているのだろうか。

    
 
 これは名古屋のテレビ塔の夕景であるが、やはりどことなく秋の気配が漂う。

 


 最後は、全く関係ないが、某所で見つけた鳩の巣である。こうして樹木に巣を作るのはキジバトであろう。
 どうやら、抱卵している様子。無事に雛がかえればいいが・・。







<今週の川柳もどき> 07.9.16

 三代目二代目三代目
 政策は次ページまずは血統書
 始めから結果が見えてつまらない
  (自民総裁選)

 会社員と名乗られるのも腹が立つ
  (国交相公務員身分隠して献金

 共産が自民を越えている不思議
  (昨年の政党収入、共・282億
   自・262億、民・125億


 混乱はイランのせいと八つ当たり
  (ブッシュ、イラン空爆の前哨?)

 北極海横切ってゆく船遊び
  (氷なく新航路開設

 日本を見下ろすようなビルが建つ
  (上海、101階、492メートル






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愛の行方【映画】『ショートバス』を観て

2007-09-15 15:43:46 | 映画評論
 いきなり自慰やセックスのシーンから始まるが、ポルノ映画ではない。やはり愛の映画なのだ。

 

 夫婦や家族、世間に飼い慣らされ、すっかり馴染んでしまった場合は別として、ワイルドな愛は悲哀や破滅と無縁ではない
 愛は常に過剰を含むからである。
 相手の余すところなき所有への希求、ないしは、相手への完璧な献身への情熱。時空を越えた一体化の追求。

 それらはしばしば、エコノミーや現実原則を越えることにより常軌を逸する
 『冥土の飛脚』の梅川・忠兵衛をはじめ、近松の心中ものなどはその極致であるし、かの地では、例えば『カルメン』のドン・ホセなど、古今東西の悲劇はまさに愛の過剰によるといってよい。

 

 ならば愛は、夫婦や家族、世間によって飼い慣らされ、その野生のエネルギーによる炎を鎮火させるべきものなのだろうか。エコノミーへの従属のなかで。

 映画『ショートバス』に戻ろう。
 この題名になったクラブに集う人たちは、上に述べたジレンマに悩む人々である。一般的にいえば、常軌を逸しているが、なおその愛を成就したい人たちが出会う場である。

 現実原則に飼い慣らされず、なおかつ成就する愛は可能なのか、それが問われている。

 

 先に、愛は過剰を含むと述べた。それは事実である。先に引いた古今東西での愛の物語も、今日、私たちが道ならぬという形で見聞する(あるいは体験する)愛も、それらは宙吊りにされ、現実への帰還か、あるいは悲劇への突入を待っている

 しかし、ここで立ち止まって、私が先に述べたワイルドで、現実原則を越えるという愛を観てみよう。それらは常に、ある固定した対象にパラノイックに(偏執的に)縛られているのではあるまいか
 誰々への、あるいは何々への愛。

 

 クラブ「ショートバス」は、そうした愛を成就出来ない人々の集いでありながら、それを解いて行く方向をも指し示す。
 それは、愛を「誰々への」とか、「何々への」から解き放ち、一般的な他者への愛、普遍的な愛へと昇華させることである。パラノイック(偏執的)な愛からスキゾフレーニー(奔放)な愛への転回
 しかしこれは、特定の対象への愛を放棄することではない。普遍的な「他者への愛」を経由して、そのうちへと自分が愛する特定の他者を据える試みである。

 
 ここにはある種のコンミューンがある。
 誰かを犠牲にすることで誰かに奉仕する共同体(現実原則によるエコノミックな計算の世界)とは異なるコンミューン。

 私は、この「ショートバス」という限られた場所で実現される愛のコンミューンを肯定する。私も、そして私が愛する者たちもそうであればと思う。
 しかしそれは、あくまでも限られたコンミューンでの話ではないだろうか。

 現実は、まさにそれが現実であることによって現実原則としてのエコノミーの論理に支配され、それをはみ出すものを排除する。
 その時、この「ショートバス」は、それを食い破る地点たり得るだろうか。

 愛は、文字通り真正な革命による真正なコンミューンをを要請するように思われる

 
 
 監督は、前作『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』で評判を呼んだジョン・キャメロン・ミッチェル で、日本映画に例えれば、昨年度の、『メゾン・ド・ヒミコ』に近い雰囲気があるかも・・。

 音楽は多彩でいい
 ニューヨークを俯瞰するイラストもいい味を出している。特に、世界貿易センタービルの跡地を忠実に描いているのは、映画の主題が、いかに現実の「政治」とかけ離れているように見えようが、まさにそれがわれわれの時代、他者の受容が問われている時代のものであることを示している。
 




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【石の微笑】

2007-09-14 01:47:09 | フォトエッセイ
 は微笑むだろうか?
 それはおそらく、こちらの側のレスポンシビリティ(応答能力)の問題であろう。
 以下に掲げるたちは、確実に微笑んではいないだろうか。

 もし、同感されるようでしたら、あなたも微笑み返してやってください

 

 

 

 

 

     

    

 

    

 
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