六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「マイお花見ロード」 2015

2015-03-30 02:08:24 | 花便り&花をめぐって
 土曜日、所要のついでに近所の「マイお花見ロード」を通る。
 2、3日前にまだ二分咲き位かなと思ったので、まだまだだろうと思ってきてみたら、もう八分咲きぐらいで驚いた。
 「世の中は三日見ぬ間の桜かな」などといい、世の移ろいの早いことをいうが、その比喩のもとになるだけあって桜の変化は早い。
 しまった、一眼レフを持ってくるんだったと思ったが、引き返すほどの熱意もない。
 しかたがないので、手持ちのガラケーで写した次第。

 ところでもう何年も、いわゆるグループでのお花見というのをしたことがない。「華の宴」とはとんと無縁なのだ。
 私にとって桜は、その時々の思いを胸に一人で観て歩くものになっている。しかし、せっかく咲いているもの、その樹下を目を伏せて歩くことだけはしたくはない。







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花と軍艦  あゝ、なし崩しの結果はここに至れり!

2015-03-28 11:48:51 | 歴史を考える
 各地の花だよりをぼんやり見ていた。一昨日あたりのTVのニュースである。それらと並んで、さらっと触れられていたが、海上自衛隊が大型空母「いずも」を就役させたというニュースだった。
 うかつにも、これほど大きな空母が作られていることを知らなかった。
 これまでも、「ひゅうが」というヘリの艦載母艦はあったようだが、今回の「いずも」は全長にして248メートルとヘリ以外の艦載機を飛ばすのに十分な長さをもつ。しかし、「いまのところは」艦載機は積まないという。



 問題は、専守防衛の自衛隊がなぜ空母を必要とするかだ。
 防衛のためだけならば、この狭い国土、各地の航空基地だけで十分なはずだ。
 それに、「いまのところは」というのが気になる。
 やがては、ホルムズ海峡やペルシャ湾に艦載機を積んだ「わが軍」が登場するという可能性が十分あるということだ。

 「なし崩し」という言葉があり、これは「済し崩し」と書いて少しずつ返済という意味だそうだが、その類語に「瓦解」というのがあり、これは「ある一部の乱れ・破れ目が広がって全体が壊れることをいい、一部の瓦が崩れ落ちると屋根全体に及ぶところから生じた語」だという。

 思えば「わが軍」の歴史は、そうした、「ここまでは」、「このへんまでは」という事実が積み重なって、もはや引き返せない事態に陥っているような気もする。
 「それは理想だ」、「現実的ではない」といわれながらも、例えば9条のような平和規定は、常にそこへ立ち返るべき参照点であろうと思う。しかし、そうした参照点を生かさないまま、気づいたら事態はとんでもないところへ来ていたというのが実情だろう。

          

 結果として、敗戦直後に掲げた理想をないがしろにしてきたツケを背負ったまま、戦後70年を迎えようとしている。
 あの戦争は、まるで自然事象として通り過ぎたもののように回想されはするが、それがまさに人為の累積によってなされものであり、その瓦解としてヒロシマ・ナガサキや敗戦があったことをいま一度肝に銘じるべきであろう。

 これらの事態は、当初些細な妥協であったものが、それがほころびとなってのっぴきならない事態に陥るという人間のもつ弱点、そしてそれが惹起する悲劇的状況をよく示している。そして、時間や歴史は不可逆であることも。

 

 前に紹介した庭のレンギョウがさらにその色を増し、艶やかな黄色がまわりを明るくしている。窓の外の木々の新葉も色鮮やかになりつつある。
 草木は季節とともに「何故なし」に移ろいゆくからそこには邪念のようなものが介在する余地はない。だから自然と向き合うとき、私たちの心は浄化される。

 

 それに比して、人の世は欲望が渦巻き、その結果のからみ合いとして事態が変化してゆく。だからある種の醜さは隠せない。
 しかし、ほかならぬこの私がその人の世の一員である以上、そこから逃げ出すわけにはゆかない。
 草木を愛でながらも、この「憂き世」との関わりを断つわけにはゆかないのだから、事態と向き合って自分なりの応答をしてゆくほかはない。
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身辺報告と「応答可能性」について

2015-03-26 01:10:05 | よしなしごと
 私のような老人は、三日も何かを書かないと、「あいつもとうとうくたばったか」ということにされそうだ。
 特別に忙しかったわけでもないが、怠けていたわけでもない。
 そこそこ何かをしていた。

          

 ひとつは同人誌発刊後の整理だ。いろいろな人から感想などをいただいている。
 それを頂きっぱなしにしないために、記録にとどめたりする。
 必要なものは同人一同に回覧する。

 感想に添えて、私があと生き延びても数年だろうと書いたことにつき、「そうはいわずにせめて十数年は生きろ」との励ましをいただく。ありがたいことだ。
 十数年といえば九〇歳を超える。私の先達で九〇歳を超えても別の同人誌で頑張っている方もいらっしゃるから一般的にいえば不可能でもあるまいが、若い頃からかなりでたらめな生活をしてきたから、やはり無理だろうと思う。
 まあ、できるかぎり頑張るつもりだが。

          

 もうひとつは、やはり同人誌の縁で、四月に、あるサークルのようなところで、レポーターとして話をさせてもらうことになったが、学者でも専門家でもない私としては、出来合いの既成の知識のなかからなにがしかをヒョイとつまみ出して話すという芸当はできない。
 そこで、それなりの勉強にとりかかった。これがまた、始めるといろいろな枝道が現れて、あちこち参照していてなかなか本題が進まない。
 でも、集中できる課題があることはいいことだ。それに人様に話すためとはいえ、結局は自分の身につくのだから。

          

 いろいろあってしばらく音信が途絶えていた若い友人から久々にメールが来る。
 とてもホッとしている。
 しかし、メールの内容は真剣勝負のような話だから、儀礼的な応答では済まない。それなりに考え、言葉を選んで返信する。
 これもまた、翻って私自身の勉強になることだ。

 寿命があと何年かはさておき、周辺からの刺激に対して応答可能であり続けたい。
 その間は自分が進化できると単純に思い込んでいる。
 実態はといえば、若いころの不勉強を今頃になって埋め合わせているだけなのだが。
 
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夢も壊れる弥生三月花の時期

2015-03-22 02:00:54 | 日記
【20日】
 久々に農協の野菜売り場へ。相変わらずお値打ち。
 花売り場で、ピンクのコブシと、やはりピンクのユキヤナギを見る。
 白のユキヤナギはうちにもあるが、ピンクは初めて見た。

 

 うちへ帰ったら、二、三日前から黄色が目立ち始めたレンギョウがその色をいや増しに増していた。ほとんど満開に近い。

 
 
 もう20年近く前、Niftyのパソコン通信で知り合った仲間と岐阜でランチ。
 一人は名古屋から、一人は大垣から。

 会場は戦争で焼けずに残った町家造りを改装してできた和風の飲食店だが、悪口になるといけないので店名も書かないし、撮ってきた写真も載せない。
 さて、雁首が揃ったところで、積もる話をということになるはずであった。
 そこへ亭主が挨拶に。
 初顔と見て(一人は二度目)挨拶とはなかなかやるなあと思っていたが、亭主、話し好きと見えてなかなか引き下がろうとしない。
 料理が出たら、「それじゃ、ごゆっくり」といって引き下がるかと思ったがそれもしない。彼のご高説を承りながらの食事で、何をどう食べたのかも記憶に残らない。

 ところで話の内容だが、自分がこの街へ来てもう何年にもなるが、町内の人たちに挨拶をしても返事すらしないという話に始まり、ついには、自分が巻き込まれている訴訟沙汰の話になり、その訴状やそれに関する自分の反論をタイピングしたものを持ちだして私たちに見せるという事態に。

 

 もうこのへんから、私たち三人が何のために集まったのかよくわからない始末に。
 私も飲食業をかなり長くやって来て、自己顕示欲が旺盛でくせのある店主であったと思うが、呼ばれもしないのに客席に長々と侍り、話題を独占し、自己中な話を一方的に展開したことはないと思う。

 ここまで来ると、この町の人たちが彼を容易に受け入れないのは、古くからの城下町の閉鎖性によるのみではなく、彼の方にも何がしかの問題があると思わざるを得なくなってきた。

 食事を終えて、お茶でもという段になり、車の移動も面倒なので同じ敷地内にある茶房でコーヒーを頂いたが、ここにも彼が現れ、いろいろ話をしなければならない展開に。
 かれこれ、三時間近くここにいたのだが、そのうちの半分以上が彼のご高説を承る展開であった。
 せっかく会ったのに、何か消化不良で、中途半端な感じで別れた。


【21日】
 今日も好天で温かい。
 鹿児島、熊本、名古屋で桜の開花宣言があったようだ。
 昨夜はいろいろな細かい処理があり、明け方まで起きていたので朝はゆっくりと。
 午后から県立図書館へ。
 借りていた6冊を返す。
 来月、人前でまとまった話をする機会があるので、そのための予習の書物をどっさり借りる。

 
 

 図書館と美術館の間にコブシの並木があるのだが、開花時期の差がとても大きいようだ。満開に近い樹が二本あったが、ほかは白いものがチラホラといった程度。
 その内の一本をカメラに収めていたら、もう一本の樹の小枝が揺れていて何やら騒がしい。
 近づいてみると、その樹には二羽のヒヨドリがいて、花を食べている最中であった。コブシはよほど美味しいのか、すぐ下まで寄っても逃げようとはしない。

 

 図書館に戻り中庭を散策。ヒイラギナンテンの花が可憐に咲いていた。
 私はこの花が好きだ。
 前方に黄色を散らした樹が。
 サンシュウの花だ。

    

 早春に黄色い花をつけるので「ハルコガネバナ(春黄金花)」と呼ばれたり、秋には真っ赤な実をつけるので、「アキサンゴ(秋珊瑚)」とか呼ばれているようだ。

 私などの年代になると、この花は、「庭のサンシュウの木」で始まる「稗つき節」を連想するのだが、そして、この花こそそこで歌われているものだと思いこんでいたのだが、どうもあそこで歌われているのは「サンシュウ」ではなく「サンショ」の木だとのことである。
 理由はすごくそっけない。
 
 要するにこの歌は、平氏追討に派遣された那須大八郎(弓の名手として知られた那須与一の弟)と平家の落人集落の鶴富姫との悲恋を歌った歌で、舞台背景は鎌倉時代なのだが、サンシュウの木が中国から日本へ渡来したのは江戸時代に入ってからだというのだ。あの赤い実が、漢方薬の材料になるかららしい。

 あの可憐なサンシュウの花を見るたびに、大八郎と鶴富姫の日本版「ロミオとジュリエット」や「蝶々夫人」の恋物語を夢見ていた私のこの感傷を一体どうしてくれるのだといいたくなるほど、まさに「合理的」な史実ではある。

 

 ほかにも寄るところがあり、数時間振りに帰宅したら、出かける前に膨らみ始めていたラッパ水仙の花がほぼ開いていた。私が怠惰にいろいろ夢想をしている時間にも、自然界は着実に自分を実現しているようだ。

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春はリムジンに乗って・・・・

2015-03-20 01:51:14 | よしなしごと
 おおよそ人の世に偏見や思い込みは付きものであるが、そのひとつに私が貧乏で慎ましやかな生活を送っているのではという巷の評価がある。
 もちろん、これにはそれなりの理由があって、私の謙虚な美徳からして、自分がどれほど裕福であるかを知らしめないようにしてきたことよる。実際のところ、私がかくも裕福であることが知れ渡ると、私の友人たちもつい一歩引いて、私に「様」などをつけて呼ぶようになるだろう。
 
 たしかに、周辺が私に対してへりくだった態度をとることについてはそれなりの快感を覚えはするが、同時に、それらが私というこの人格に対してではなく、私の支配する富に対するものであることに気づかないほど私は愚かではない。
 したがって、私はその富の威光を表立ってはそれとわからないようにしてきたのだが、時としてはそれらを隠すことなく、その実態に則した生活をしたい時もある。例えば今日のような日だ。

          

 いつもは路線バスや省線(JR)を乗り継いでゆく名古屋へ、今日は自家用車でゆくことにする。その旨、お抱え運転手にいうと喜んで飛んできて、「で、旦那様、ロールスロイスになさいますかそれともリムジンで?」と訊く。「そうだな、今日は久しぶりにリムジンにするか」というと、「え、本当にあれを転がしていいんですか」とガレージの方へ転ぶように駆けてゆく。

 私が見込んだ通りの車好きの好青年だ。ただし、メイドなどから聞く話では、私が貧乏人のまねをして、路線バスや省線を利用するのが気に入らないらしい。私がそれらで出かけたあとでは、それへの不満を募らせながら、ガレージの車数台をこれ以上ないくらいにピカピカに磨き上げるというから可愛いではないか。

 彼がエンジンを掛ける。「どうだね調子は」と私。
 「旦那様の前ですが、こいつは私の弟分のようなものですから、エンジンの最初の一音でこいつの調子が分かるんです。もし不機嫌な場合は、もう一度踏み込んでやります。チューニングですよ。オーケストラでいうとコンマスと楽団員のようなものです」

 彼の運転の腕は確かだ。早すぎず、遅すぎず、それでいて周りの車の流れを乱すことなく、吸い込まれるように目的地へ着く。
 まずは、名古屋の栄で要人たち三人に逢う。
 手土産の札束を渡す。
 「大丈夫ですよ。ちゃんとマネー・ロンダリングがしてありますからそのままお使い下さい」と私。

 会合を終えて名古屋駅前に出る。私が建てさせている複数の高層ビルは順調に工事が進んでいるようだ。表向きはリニアの開業に間に合わせるということだが、実際には知ったことではない。リニアがポシャっても私の才覚からしてこれらのビルの採算性はとっくに計算済みだ。

      

 駅西へリムジンを回させる。映画が見たくなったので、運転手にその間自由に車を転がしていいぞといったら喜んでいたが、「しかし、旦那様、これだけのものを転がすとずいぶんガソリン代が・・・」というので、「あのなぁ、お前」とジロリと睨んでやったら、「あ、すみません。出すぎたことで・・・」と謝った。
 もちろん本当に怒ったわけではない。ガソリン代まで心配するとはうい奴だと思っている。

          

 映画の後、すこし飲みたくなったので、運転手に電話して、○◯時に駅西につければいいからといって、なじみのバーに入る。
 「何かいい酒が入ったかい」とママに聞くと、「そういえば2007年もののロマネ・コンティ」が入りましたという。「えっ、あのニューヨークのオークションで高値を呼んだ07年ものかい。じゃぁ、抜栓してもらおうか」と頼む。
 「あ、そうそう、おみやげがあった」と要人たちに渡したあまりの札束を渡す。
 「あらあら、こんなものを。冷蔵庫へ入れようかしら」とママ。
 「フ~ン、金庫はいっぱいでもう入らないわけか」と私。

 しばらく飲んで運転手に電話したら、もうスタバっていますとの返事。車のところへ行くうちに夜空を見上げて気が変わった。名古屋のツインタワーのマリネットホテルが目についたからだ。
 「おい。もう今夜は岐阜に帰らず名古屋へ泊まろう。電話をしてみてくれ。スイートルームひとつと君用のシングルだ」
 「なに?スイートはとれたけどシングルはない?じゃぁ、ツインは?ツインはある。それなら君はそこへ泊まりなさい。ホテルの冷蔵庫のものはもちろん、ルームサービスでなんでも自由にとり給え」

          

 恐縮している運転手と別れて、ホテル・マリネットのスイートでこれを書いている。ナイトキャップにレミーマルタンのブラックパールとつまみに水牛のモッツァレラチーズに野菜をあしらったものを頼んだが、まだ来ない。
 金持ち喧嘩せずで気長に待つつもりだ。
 このスイートから眺める名古屋の夜景も捨てたものではない。

 
【この日の実際の行動】路線バス、JR、地下鉄を乗り継いで同人誌の会合に。昨日採ってちゃんと掃除をしたつくしを出席者にプレゼント。会議終了後、県の芸術文化センター12階のソファで時間調整の読書。その後名古屋駅へ。シネマスコーレで映画「唐山大地震」を観る。馴染みの「りりこ・マタハリ」へ。最後のつくしひと包みをプレゼント。白のワイングラス一杯と、韓国焼酎の水割りを2杯、コーヒーを飲んで、JR、路線バスで帰宅。リムジンはたまたま、駅西に停まっていたもの。
 

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梅は咲いたか 桜はまだかいな

2015-03-17 01:49:22 | 花便り&花をめぐって
 ここ2ヶ月ほど、ある程度精魂を注いできたことがやっと形になって結実した。それに伴う最後の仕事、発送も終える。
 中国人の若い女性の友人にそれを届けるべく、Air Mail 便を出しに郵便局へ。
 これで終わりと、なんだかホッとした気分に満たされる。


 
 本屋へ立ち寄る。
 品揃えのせいで読むべき本はない。
 渓流釣りの雑誌を立ち読みする。
 雪の残る渓のイワナやアマゴはまだサビが付いているから、去年の写真かなぁと思う。それでも見ていると楽しい。
 現業から手を引いたら、思いっきり渓流で遊ぼうと思っていたのに、その頃になったら体力も気力を失せていたのが口惜しい。
 結局ここでは、年度手帳(4月~3月)を買った。

             

 4月並みの陽気につられて散策。
 久々にのんびりする。
 畑の隅の矢車草がもう咲いていた。
 前にも訪れたちょっとした梅の木立へ。
 ここの紅梅は、うちの鉢植えのそれと違って、いくぶん淡いピンクで清楚な感がある。



 あまり遠くなるとと思い引き返し、いつもの桜並木の川べりを歩く。
 蕾はだいぶ膨らんできたが、ほころびるにはまだ遠そうだ。
 おっ、カワセミが岸辺に佇んでいる。
 あわててガラケーを引っ張りだしている間に逃げられた。
 どうせ撮れてもガラケーじゃ点描にしかなるまいとうそぶく。イソップ物語の届かないブドウを酸っぱいと決めつける狐のようだと苦笑する。
 代わりに、川面への桜の木の映り込みを撮る。

             

 帰宅するとうちの桜が出迎えてくれた。
 この桜んぼのなる桜は、ソメイヨシノに比べると10日から2週間、花が早い。
 惜しむらくはもう樹そのものが寿命で、花の付きは全盛期のそれに比べ1割か2割だ。
 次世代を挿し木で育ててはいるが、しばらくの断絶はやむを得ないだろう。
 それよりも、次世代が実をつける頃にはこちらが逝っている可能性が高い。





 寿命が尽きかけた樹で懸命に咲く花はいとおしい。
 お前はあと何度、花をつけるのか。
 そして私は何度、それを愛でることができるのか。
 お互いに頑張ろみゃぁ(ってなんで岐阜の人間が名古屋弁に・・・)。

 
 
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ニーチェ全詩集からの抜き書き 私の読書ノートから

2015-03-14 02:00:07 | 日記
                     
 ニーチェを理解していると強弁はしません。
 ただ、いろいろ学ばせてもらったのみです。
 
 そのひとつは「疎外論」からの脱却です。
 疎外論はいいます。
 現実の頽落した生に対し、「本来的な生」があると。
 しかし、ニーチェはいいます。
 この現実の生こそがまさに生きているということなのだと。
 これは彼の「神は死んだ」という言葉とも通底します。

 しかし、だからといって何でもありではありません。
 自分の生き方を自分で見出さなければならないのです。
 「セ・ラ・ヴィ」と自分の人生を引き受けなければならないのです。
 
 そんな彼の膨大な詩、ないし詩的な韻文から私の琴線に触れたものを。
 なお、タイトルは私が勝手につけました。
 句読点はいじっていますが、訳文は尊重しています。
 (『ニーチェ全詩集』人文書院より)

 
     

金貨
 ここに金貨が転がって わしは金貨と遊んでいたのに・・・・
 ほんとは金貨がわしを手玉にとって・・・・
 ころがったのはわしだった!


解釈
 ぼくがぼくを解釈すると、ぼくはぼくを欺いてしまう
 ぼくは自分でぼく自身の解釈者になることはできない
 しかし自己自身の道程を登ってゆく者でさえあれば
 ぼくの姿をも もっと明澄な光に近づけて見ることができるだろう


もっと美しいもの 
 どんな美しい肉体も・・・・ヴェールにすぎぬ、そのなかに
 恥じらいながらも・・・・もっと美しいものが包み込まれている・・・


偶然 
 君が「偶然なんて存在しないよ!」と言ったのは
 すべての勝利者が決まって言うせりふだ


偶像
 君が偶像を引き倒したことではなくて
 君のなかにいる偶像崇拝者をぶっ倒したこと
 それが君の勇気だった


意志の力
 意志は救済する
 なんにもしない人にも
 その「なんにもしない」ことがわずらわしくなる


法則 
 新しい声がもはや語らぬとき
 君たちは古い言葉からつくったものだ
 法則とやらを
 生命が硬直すると 法則が塔にようにそびえ立つ

 
子供
 君はこわれやすいのか?
 だったら 子供の手に用心するがいい!
 何かをこわさなければ
 子供は生きていけないんだ・・・・


回帰ないしは転向 
 また二番せんじ、むしかえしをやってるな
 やっこさん もうくたびれたと見える
 むかし通った道を、いまさら捜すなんて・・・・
 つい最近までは前人未到のものを愛していたのに!
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ひそかに燃えつきてしまったのだ
 といっても 自分の信念のためではない
 信念を持つだけの
 勇気がもうなくなったからなのだ


牛乳とチーズ 
 彼らの心には牛乳が流れている
 しかし 悲しいかな!
 彼らの精神はチーズのように固いのだ

 
真理 
 意識的に、故意に
 うそのつける詩人だけが
 真理を語りうる


ザリガニ的言辞 
 これはザリガニ、どうも虫が好かん
 つかめば、はさむし
 はなせば あとずさりして行く


月の中の男 
 夜だ またもや あぶらぎった月の顔が
 屋根屋根の上をうろつく
 あらゆる雄猫のうちで いちばん やきもちやきの彼
 すべての恋する者たちをねたましげに眺めやる
 この青白い あぶらとりの「月のなかの男」は
 あらゆる暗いすみずみを みだりがましく はいまわり
 半ば閉じられた窓に のっそり身をよせかけ
 好色の あぶらぎった坊主のように
 夜ごと 厚かましくも 禁断の道をかよう


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近ごろとても恥ずかしく思ったこと

2015-03-11 11:46:09 | 歴史を考える
    

 ドイツ首相のメルケルさんが来日した。
 首脳同士ということで安倍首相と同席する機会が多かった。
 対談もし、共同声明も出した。
 儀礼的な面ではそれらは完全に一致したかのように伝えられた。

 しかし、彼我の相違は心ある人には明らかだった。
 なかには私のように幾分恥ずかしい思いをした人もいるだろう。
 その論理的倫理的な面、また人格においてあまりにも違いすぎる。

 私はメルケルさんを無条件に礼賛しているわけでもない。
 彼女は西洋的、ドイツ的、キリスト教民主同盟(CDU)的限界を背負ってはいる。
 にもかかわらず、安倍氏とは格が違うのだ。
 どこが違うのかというと、哲学の有無とでもいうべきだろう。

 私たちは生きている以上、この世界の対して責任を持たねばならない。
 それは歴史的なものであったり、地政学的なものであったりする。
 責任=応答可能性(レスポンシビリティ)をどう設定するのかが問われる。
 哲学なき者はそれを「自己中」な範囲に限定したがる。
 その時自分は生まれていなかった。
 そんな遠いところでの事態には思いが及ばなかった。
 自分にはその事態については権限がなかった。
 などなどという次第である。

 この論理のもと、日本の戦争責任はことごとく曖昧にされた。
 一部の戦犯が処刑されはした。
 しかし、それをスケープゴートにして多くが責任を逃れた。
 A級戦犯に問われながら政治の場に復帰した者さえいる。
 安倍氏の祖父、岸信介氏である。

 ドイツで600万人を殺したホロコーストがあった。
 それに直接関わったアイヒマンが行った弁明もそうだった。
 「私には権限がなかった。上からに命令に従ったまでだ」
 これらが責任=応答可能性を無視する哲学の末路だ。

 しかし、メルケルさんは違うようだ。
 彼女はヴァイツゼッカー元大統領の遺訓を踏襲している。
 ヴァイツゼッカー元大統領は明確に語っている。
 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と。
 メルケルさんは抽象的にこれを継承しているだけではない。
 70年前のドイツの被害者である各地へと積極的に出かけている。
 そして、率直に反省と謝罪を述べる。

 圧巻は2008年のイスラエル議会での演説だった。
 歴代ドイツ首相で初めてのそれは、野次と怒号、退席者もでた。
 しかし彼女は反省と謝罪をきちんと述べた。
 その結末は拍手の嵐であったという。

 安倍氏にそれだけの度量があるだろうか。
 彼のお友達たちは、ネウヨ同様の言辞をまき散らしている。
 曰く、従軍慰安婦はなかった。南京虐殺もなかった。
 過ぐる戦争は日本が植民地解放のために戦ったのだ。
 中国や韓国のインフラは日本が整えてやったのだ。
 それにもかかわらず、恩知らずな連中は・・・・。
 と、嫌韓嫌中の言辞が尽きることなく吐露される。

 これこそまさに責任を自己中的に棚上げした言辞である。
 安倍氏は直接にはそこまで語らない。
 しかし、彼が集めたお仲間たちがそれを臆面もなく語る。
 類は友を呼ぶだ。

 中国は、戦勝70年記念式典に安倍氏を招待するかもしれないという。
 彼はそれに出るだろうか。
 メルケルさんと同様に、歴史を直視したコメントを出せるだろうか。
 世界が注目するなか、数カ月先には「談話」なるものが出る。
 しかし、その魂胆は透けて見える。
 自分の「独自色」を出し、これまでのものから後退しながら、
 どれだけ中韓などからの抵抗を避けるかの政治力学的配慮だ。

 しかし、それは単なるレトリックの問題であり、哲学ではない。
 安倍氏が真に哲学を持つならば、無限責任の立場に立ちながら、
 そこから自らの具体的な責任を語るべきなのだ。
 メルケルさんの言辞はそのようにして紡ぎだされている。

 最後に、安倍氏を選んだのが私たちであるとしたら、
 私たちもまた、その責任を負わねばならないことを肝に銘じたい。

 
彼我の相違が明確になったもう一つに原発問題がある。
 メルケルさんはもともと原発推進派であった。
 しかし、フクシマを知ると直ちにその方針を改めた。
 しかし、安倍氏は当事国なのに推進を断固として行うという。
 その理由は再生エネルギーの利用は困難だからというものだ。
 ここにも哲学の相違がある。
 メルケルさんの思考は危険なものは即やめる。
 その上でその代替を必死になって追求する。
 安倍氏は現状に拘泥することしか知らない。
 もっともその影には、原子力村の重い影があるのだが。
 いずれにしてもそれをかなぐり捨てる決意は彼にはできない。
 
 
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私の春を呼び醒ますコンサート 大阪フィルを聴く

2015-03-08 11:09:26 | 音楽を聴く
 大阪フィル、第38回岐阜定期演奏会を聴きにサラマンカホールへ。
 38回というから大した歴史だ。近年はズ~ッと3月だ。
 そのうち、10回ぐらいは聴きに行っている。
 ここ数年は春を告げるコンサートとして欠かしたことはない。

               

 今回の指揮者は大友直人氏。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%9B%B4%E4%BA%BA
 ヴァイオリン・ソリストに成田達輝氏。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E9%81%94%E8%BC%9D
 前者は脂の乗り切ったベテランの指揮者、後者は新進気鋭のヴァイオリニスト。

                       

 曲目は以下の耳慣れたものばかり。
 1)シベリウス『交響詩 フィンランディア』
 2)メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』
 3)ブラームス『交響曲 第一番 ハ短調』


 ただし私にとっては、『フィンランディア』の生は初めて。
 聴覚的にも視覚的にもライブでとても映える曲だ。
 かくて一挙にオーケストラの世界に。

               

 いわゆる「メンコン」は生では3回目だと思う。
 この前は名古屋で諏訪内晶子さんのソロだった。
 さて成田氏(23歳だから君かな?どっちでもいいや)の演奏は華麗にして繊細であった。第一楽章のカデンツァなどは、息を潜めて聴き入るほどの美しさであった。

 で、この人はヴァイオリンのもつそうした繊細さの表現に富んだ人かと思ったのは早とちりで、アンコールに弾いたパガニーニの小品二曲は、その超絶技法を全面に押し出して弾きまくり、ヤンヤの喝采を受けていた。
 パリを拠点に活動しているようだが、世界を羽ばたくヴァイオリニストに成長する予感がする。

               

 ブラームスの『第一』は完成に21年を要し、師のシューマンを飲み込み、ベートーヴェンに迫り、それを凌駕せんとした気迫で、とりわけその第一楽章は息詰まるほどの重装備だ。前のめりに聴いていると肩が凝ってくる。これを聴くと、音楽が憩いや癒やしだというのが嘘のような気がする。ある種の格闘技といってもいいほどだ。
 第四楽章のエンディングは、「これでどうだっ!」と力技でピリオドを打った感じで、鉛筆ならば芯が折れたのではないかという感すらする。

               

 しかし、聴き終わってみると、ドイツの黒い森を駆け抜けてきたようなカタルシスにも似た爽快感が残る。
 大阪フィルの重厚な演奏がそれを引き立ててるのはいうまでもない。

 外は雨だ。
 ひとまず岐阜駅へ出て、酒をいっぱいとそばを食って帰宅。
 さして美味くはなかったが、演奏会がよかったから良しとしよう。
 
 

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「もうすぐ春なのかしら」殺人事件

2015-03-06 20:40:13 | よしなしごと
 

 殺人事件の容疑者として逮捕された
 友人の連れ合いを殺したというのだ
 動機は痴情のもつれか金銭問題だという
 どちらか一方にしてほしいものだ
 手段はトリカブトで意識を曇らせ
 金属バットで頭部を強打したとのこと
 取り調べを受けたが詳細は思い出せない
 モゴモゴいっていたら釈放された

 無罪放免になったわけではない
 明日から裁判だそうで出廷せよという
 警察署を出たらすぐ近くの道端に
 証拠物件のトリカブトと金属バットが
 無造作に捨てられていた
 まったく管理のずさんな警察署だ
 戻って注意してやろうかと思ったが
 余計なおせっかいだと思いやめた

 歩いて川べりの道へ出た
 私が殺した女性の連れ合い つまり友人が
 その愛人とともに魚釣りをしている
 女性が「ホラ引いたわよ」などとはしゃいでいる
 瞬間 この友人こそが自分で連れ合いを
 殺したのではないかとの疑いがかすめる
 でも 友人である彼にそれをいうことはできない
 「容疑者」である私の責任転嫁になってしまう

 またしばらく歩くと 道路の反対側から声が
 「アラッ 六さんじゃないのお久しぶりッ」
 なんと、私が殺した女性ではないか
 少し慌てて彼女を引き留めにかかる
 その行く手は 彼女の連れ合い つまり友人が
 愛人と戯れている方向だったからだ
 そんなところへ彼女を行かせたくはない

 「あのう、明日裁判所へゆくのですが、
 よろしかったらあなたもいらっしゃいませんか」
 とほとんど無意味な声をかけてみる 
 「そうねえ でも着るものなんかもないし」
 「いいじゃないですかそのままでも」
 「あなたも関係していることなんですよ」
 といいかけて 口をつむぐ
 彼女は本当に「関係」しているのだろうか

 で いきなり裁判が始まる
 小林稔侍のような検察官が私から視線を逸し
 「え~、容疑者は有罪のような無罪のような」
 と つっかえたように話すのがもどかしい
 「で、どちらなんですか」と判事がキレる
 「これなんかはどうでしょう」と検察官
 どういうわけか取り出したのは真っ赤なタオル
 「これで首を絞めたということでは」
 「それで異議ありませんか」と判事が私に訊く
 トリカブトと金属バットと赤いタオルが
 ぐるぐる頭を巡って何が何だか分からない
 
 傍聴席を振り返ると私が殺した彼女が
 えくぼを浮かべて無邪気に微笑んでいた
 そのまわりをまだらな蝶が一頭
 ヒレホロハラチルと舞っていた

 
 カット内部は裏文字です。

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