六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

80円切手とカメムシ君

2014-05-30 01:50:27 | 写真とおしゃべり
 手紙とはがきを書いた。
 手紙の方は依頼されて同封した文書の説明であるが、おせっかいにも自分の感想などを書いてしまった。
 事務的に頼まれた文書だけを送ることが出来ないのは性分なのだろう。

 問題ははがきの方だ。
 こちらは手短かに済む用件だったので絵葉書風のものを出した。
 切手を貼らねばならない。
 この4月以来、2円が必要なのは心得ている。
 で、ちゃんと「所定の」切手に加えて2円切手を貼った。

          

 さて、これらを出しに行こうとして玄関を出たところで点検をし、とんでもないミスに気づいた。
 なんと、手紙につられて、ハガキの方にも80円切手と2円切手を貼っていたのだ。
 「ん、ん、ん」と思いながら迷った。
 
 たかが30円のことだからこのまま出してもいいという思いがあった。
 しかし一方、このまま出すと「あいつもついにボケたか」といわれるのもシャクだという思いもあった(事実、こんなことをしたのはボケた結果なのだが)。
 右せんか左せんか、自称ハムレットは玄関先で迷いに迷った。

          
 
 そのおり、60年ほど前の切手収集少年だった私が、やかんの蒸気に切手を当てて剥がす技術を駆使していたのを思い出し、よし、ダメ元でいいからやってみようと引き返した。
 結果をいえば、成功だった。
 やかんの口から出る蒸気に当てると、80円切手はウソのようにするするっと剥がれた。絵はがきそのものにも何ら損傷はない。
 
 80円切手を剥がしたあとに素知らぬ顔で50円切手を貼った。この葉書の受取人はそんな作業がなされたものとはつゆ知るまい。ただし、この葉書の受け手の復数の友人たちがこの記事を読んでいるはずだ。

          
 
 かくして、それらの手紙をポストに入れ、帰ってから二回目の桑の実の収穫にとりかかった。先に来ていた椋鳥が非難がましく鳴き喚くなか、熟しきった実を選んでざるに入れる。
 
 そのとき、何かが目の端で動いた。ん?と思ってよく見るとカメムシだ。桑の葉と同じような色合いだから、動かないとそれだとはわからない。
 わずか1センチ前後の大きさではあるが、彼らは別名「屁◯◯虫」といわれているほどの悪臭を放つ。それは天敵を防ぐ「ため」だというのが通説だが、動植物の「なになにのため」というのは眉唾が多い。
 そんな目的意識などはさらさらなく、たまたまそうした遺伝的特質を持ったがために生き延びたというのがせいぜいのところだろう。

          

 ちなみのに、この屁こき・・・、あ失礼、カメムシ、閉所に入れて刺激をし、その臭いを出させたところ、自分自身が失神してしまったというから実に面白くて可愛いではないか。

 ここに載せた写真は、それぞれ10センチ内外にまで接近して撮ったものだが、私の指に這うまでしたにもかかわらず、どんな臭いをも発散しなかった。
 たぶん、私を仲間だと思ったのではないだろうか。
 きわめて光栄なことである。
 





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私の散歩道から ある菜園

2014-05-28 03:39:40 | よしなしごと
 雨上がりの一日、買い物かたがた散歩に出た。
 買い物袋をぶら下げての散歩も無粋だから、まずはその辺をほっつき歩き、なまった体をほぐしてから買い物にゆくことにした。

 このへんの田植えは遅い。まだ田慣らしが終わったばかりで、その田には水も張られてはいない。
 苗代を見かけたが、まだ田植えをするほど育ってはいないようだ。
 おそらく、来月に入ってからだろう。

          

 あちこちでねぎぼうずが拳を振り上げている。
 よく見ると、白い花の塊のなかに、もう黒っぽい実が宿っている。

          

 四角にガードされたのはナスの苗である。
 畑のなかに突然の人工物で、そのコントラストが面白い。

          

 都会に住む人たちは、玉ねぎというのは水仙などと同様、球根として地中にあると思っているのではあるまいか。しかし実態は写真のようである。
 これと似た話がある。もう季節は過ぎたが、蕪も同様に地上に出ている方が多いのだ。
 ロシア民話の『おおきなかぶ』の挿絵などで、蕪が地中に埋まっているものには違和感を覚える。その絵を書いたひとは実際の蕪を見たことがないのだろう。

          

 このへんのジャガイモの花は、だいたい薄紫のものが多いのだが、純白のものが目に入ったので近づいていったら、10坪余の小さな菜園にいろいろな種類の野菜が育っていて、傍らに、そのオーナーと思しき人が佇んでいる。年齢はほぼ私と同程度だろうか。

 「このジャガイモの花、写真に撮らせて頂いてよろしいですか」と許可を求めると、「ああ、どうぞどうぞ」と快諾してくれたのだが、同時に、「ここにはなになにの種が蒔いてあるので、この辺まで立ち入って頂いて結構です」と親切に足のやり場まで指示してくれる。

 写真を撮りながら、二つのことに気づいた。
 この菜園は狭いながら実に手入れが行き届き、雑草一本生えていない。
 この近くに、300坪ぐらいで復数の人が菜園を共同で持ち、それを管理しているところがあるが、そこでは、耕作を放棄した人の箇所は八重葎であるし、耕作を続けている人たちもそのボーダーにまで手がまわらないのか、全体に雑然とした感は否めない。そこへゆくと、ここは実にきちんとしているのだ。

          

 もう一つは、そのオーナーがどうしても地の農家の人ではないということだ。
 その服装など、私のだらしなさに比べたらはるかに洗練されている。
 言葉つきも丁寧である。

          

 写真を撮り終わってから、少し話をした。
 「ご趣味の菜園でしょうか。それにしてもたくさんのものを栽培していらっしゃいますね」
 「そうですね、今のところ、12種類ほど栽培しています。ほかに、ホラ、無花果が一本、そして将来はここをドウダンツツジで囲もうとしているところです」
 それにしても性格の律儀さが現れた空間である。
 「どうしてまた、こんな小宇宙を構想されたのですか」
 「実はですね、悪性の胃癌ができて全摘手術を受けましてね、それ以来、仕事も一線を引いて、前々から夢であった菜園をやろうと思ったのですよ」
 「えっ、あ、そうですか」
 と、なんか頓珍漢な私の応答。
 「それで最初はですね、この数倍の面積を買いましてね、それで始めたのですが、どうも病後の体でとても無理だと思って、殆どを駐車場にし、これだけ残したのです」
 なるほど、この菜園の地続きには三台ほど駐車できるスペースがあって、このひとが乗ってきたらしい車が停まっている。
 「で、その全摘手術とうのはいつ頃なさったのですか」
 と私が尋ねる。
 「今年で五年目です」
 と、彼はこの間の治療の概略、抗癌剤や放射線治療に伴う副作用の苦しさなどを淡々と語った。
 「じゃあ、もう大丈夫ですね」
 と、私。
 「いやあ、どうでしょう。今年の検診がクリアーできれば少し気が楽になるのですが」
 このひと、どうやら会社のオーナーらしくて、午前中は会社に少し顔を出し、午後はここへ来て植物たちと会話をするのが楽しみなのだという。
 「どうもおじゃましました」とその場を辞する私に、「お話出来て良かったです」といってくれた。

 これからも、ときどき、この菜園を見にゆこうと思う。
 しかし、ある時から、ここが荒れ放題になっていたらどうしよう。
 「イヤイヤそんなことは」と悪い予感を振り払いながら、その場を離れた。

          

 話し込んだおかげで買い物が遅れた。
 通りかかった「マイお花見ロード」はすっかり葉が繁り、そのもとにイモカタバミの群落がピンクの花を敷き詰めていた。
 

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「考える前に読め!」 私のデタラメ読書録

2014-05-26 03:06:46 | よしなしごと
 私は実に持続力のない、いわゆる落ち着きのない子なのです。
 ですから、小学生の頃から、通信簿の特筆欄には、いつも「もっと落ち着きなさい」と書かれていました。
 ですから、それを見た父母は、「もっと落ち着け」というのですが、私にはそれがどんなことを要求されているのかがわからないまま、今日まで来てしまったのです。

 おそらくそれは、私の関心の対象がつねに揺れ動いていて定まらないということだったのではと今にして思うのです。で、それがわかったからして70年後の私が落ち着きなるものを身につけたかというと、それはまったくもって怪しいのです。

          

 最初の写真は、今私が平行して読んでいる書の全てです。この「平行して」というのが散漫具合をよく表していますね。
 私は、ひとつの著を集中的に長い時間をかけて読むことができないのです。
 そうすると、その内容がなんか希薄なものに溶解してしまって、そのリアリティが失われてしまうのです。
 ですから、私の読書は、学校での一時限目、二時限目ののように一日の間に何度も移動します。

 現在の主眼は、「思想」の1月号、2月号に連載された森一郎氏の、「共ー脱現在化と共-存在時性 ハイデガー解釈の可能性」です。
 これは今私が勉強している領域と重なりますし、ハンナ・アーレントが、その師、ハイデガーから何を学び何を忌避したかも偲ばれます。
 なお、この2月号の柿並良佑の「存在論は政治的か?」も気になるところですがまだ未読です。

 ミッシェル・フーコーの『ユートピア身体/ヘテロトピア』は、短いテキストですが、前世紀に書かれたもっとも美しい、かつ詩的な哲学的エセーとしてじっくりと読みたいと思います。
 美しい書、美しい文章で、まさに哲学と詩がもっとも理想的にクロスする文章だと思います。

 「きけ わわだつにのこえ」は、当分座右に置きながら、それを追体験する書です。
 私のつい兄とすべき人たちの死地へと赴く自己了解のようなものが哀しく、この理不尽さを再び人類は生み出してはいけないと思い、そこへと立ち返って思考したいと思います。

          
 
 最後の山田風太郎は、なぜだかうちにあったものですが(誰か家人が持ち込んだもの)、彼の文章は簡潔で歯切れがよくて好きです。だいたいは、睡眠剤を飲んでから眠くなるまでに読むのですが、時折、それではもったいないシュールなものもあります。
 この口絵などは、岩田専太郎ほどではないにしても、まさに時代劇のそれですね。

 といった具合で私のデタラメ読書術を紹介したのですが、ついで、次につっかえているのもを紹介します。

          

 ひとつは、日方ヒロコさんからご贈恵頂いた作品集『やどり木』です。
 日方さんは熱心な死刑廃止論者でいらっしゃって、私も知っているある死刑囚と養子縁組をされているような方ですが、この本は直接それに触れたものではありません。
 戦前、北支のチチハルに生まれ、満州国で育った著者が、日本へ帰り着く過程で、いわゆる関東軍がいかに現地の一般民を棄却していったのか、それらの中でやっと日本に帰った著者がいかに戦後の日本を受容していったかの話ですが、まだ拾い読みした段階です。

          
          

 ついで昨日、ネットで知り合った大学の先生から大著のご恵贈を頂きました。
 いわゆる社会学の分野に属するのですが、
 「現行の福祉国家を踏まえながら、それがはらむ問題領域を検証しつつ、来たるべき共同体のありようへのご考察と勝手に見当を付けさせていただきました。あまり馴染みのない固有名や、社会学独自の概念装置などがありそうですが、なんとか食らいついて勉強させていただく所存です。」
 という私のお礼状にある通り、私の関心領域ともかなり関わっていると思います。
 とりわけ帯にある、「理想の力」があとがきでは「知的想像力」と等値されているように、この大著が、単に客観的事象の対象的な叙述にとどまらず、著者のある志向性を如実に表明しているように思います。
 追って精読いたしたいと思います。

 そんなチャランポランな読書の中から、私は何かを掴めとれるのでしょうか。
 いささか心もとないのですが、とりあえずは、活字が招くところに従いたいと思っています。
 

以上に触れた文献の資料。

1,雑誌『思想』 岩波書店
2.ミッシェル・フーコー『ユートピア身体/ヘテロトピア』 水声社
3.『きけ わだつみのこえ』 Ⅰ Ⅱ 岩波文庫
4. 山田風太郎 『ありんす国伝奇』  富士見書房
5. 日方ヒロコ 『やどり木』 れんが書房新社
6. 新川敏光 『福祉国家変革の理路 労働・福祉・自由』ミネルヴァ書房



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「花鳥風月」と無粋な私

2014-05-24 02:49:57 | 花便り&花をめぐって
 写真は昨日、農協の花売り場で撮したものです。

 心身ともに不調の折、花鳥風月に慰められるという人たちがいる。
 私は生まれついての無粋なせいか、そうした経験はあまりない。
 昨秋、一週間の入院の間、息詰まる病室から逃れるため、しばしば窓から外界を見渡したが、これといった印象はなく、自分が幽閉されているという意識を強くするばかりであった。



 先ごろまで、何度も繰り返す風邪にも似た症状の中で不快な日々を過ごしてきた。三日ほど前に、降りしきる雨の日があったのだが、それが上がるとともにさわやかな日々が訪れた。それに呼応するかのように、私の体調も回復し始めた。

 用心のために片付けないでいた冬物の一部も全部片付けた。
 かくして、不退転の決意で初夏を迎えている。
 これを潮時と私の頑固な肉体も転向したようで、ここ二、三日は調子が戻ってきた。



 移ろいゆく皐月の陽光は眩しく、季節の花々が私を誘惑する。
 やっと、それらのシグナルを受容できる自分の回復に改めて自信をもつことができる境地へと至った。

 古来歌人は、自分がみまかる際の花にまで思いを寄せた。
 「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」
 は西行のそれである。



 私にはそれほどの願望もないし、自分の死と自然とのコラボも期待してはいない。
 私が逝く時には、その折々の花が咲き誇り、もし花のない季節なら、木々が黒々とそびえ立っていればいいと思う。
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迷路の中で彷徨う私とメタレベルの話

2014-05-21 00:50:17 | よしなしごと
 写真は例によって本文と関係ありません。北米原産のカルミアという花で、コネチカット州の州花だそうです。

          

 迷路に突き当たったとき、どんな行為が考えられるだろうか。
 とにかくがむしゃらに進んでゆくというのもあるだろう。
 それに近いのがいろいろ試行錯誤をしてみるというものかもしれない。
 慎重なものとしては、一度出発点に立ち返ってみるということだろうか。

 これらの試みのどれを正解として選ぶべきかは一概にはいえない。
 それぞれが成功の確率と、同様により悲惨な結果という確率をもっている。

          

 上に述べたそれぞれの方法は、迷路のある同一の平面においての判断である。
 しかし、この迷路の比喩に従うなら、迷路のある地平とは異なる次元からこれを見るというのはどうだろう。
 例えば、上空から迷路を見渡すということである。
 いうならば、メタレベルに立つということである。

 この上空から見るというのは遊園地の迷路では確実に有効性をもつだろう。
 どこでだったか記憶にないが、ある遊園地では、まあまあの規模の迷路がしつらえられている傍らにやぐらが立っていて、そこへ登ると迷路が見渡せるようになっていた。
 子どもがその迷路で迷っているのを、やぐらの上からお母さんが、「Aチャン、違うッ!そこは、右、右ッ。お箸もつ方!」と叫んでいたほほえましい光景を記憶している。

          

 しかし、これはあくまでも比喩にしか過ぎない。
 迷路そのものが平面であるとは限らないし、そもそも、迷路そのものが遊園地のそれのように、かならず出口をもつとは限らないのだから。

 問題は具体的な迷路そのものではなく、迷路という比喩を借りた私自身の迷いであるから、上空から見ることなどはできないのだ。
 しかしこの場合にでも、メタレベルに立つことには一定の意味があるだろう。
 ようするに、私が進路に迷っている事象そのものをいったん離れて、それと向き合っている私の姿勢、私の考え方などを反省的に捉え返すということだ。

 時としてはそれでもって問題そのものが解消してしまうこともある。
 その問題が取るに足りないものであることが判明したり、そこで迷う私自身の対応の愚かさが自分で了解できるようなときである。

          

 もちろん、そんなことでは解消しないことがほとんどだし、出口へのヒントすらつかめないことが多いだろう。
 しかし、メタレベルというにはおこがましいかも知れないが、迷っている自分と、それを離れて見つめる自分とを二つの極として想定しながら、その間を交互に行き来しつつ、ジグザグに、這うように進むしかないのではと思う。

 ストンと悟りへ至るような器用なことができない私には、それが唯一の道であるように思われるのだ。
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「時間」を観ること、そしてその時間について行けない私

2014-05-18 14:48:05 | 写真とおしゃべり
 なかったものが現れ、あったものがなくなるということが時間というものを簡単に見聞できるということらしいのですが、これはちょうど一ヶ月前と同じアングルの写真です。私のデスクの真ん前の光景で、毎日見ているとさして気づかないのですが、こうして並べてみると歴然です。

          
          

 左側はマサキの樹ですが緑がいっそう濃くなってきました。
 その下方に姿を見せていた白いツツジはもう完全に終わってしまいました。

 右から出ている枝はクワのそれですが、葉っぱがでかくなって色合いもたくましくなってきました。
 一番目立つのは、その間にあって、まだチョンチョンとしか新芽をつけていなかったムクゲの葉が立派に生えそろってきたことです。
 やがて底紅の花を付け、蝶や蜂などがやってきて私の目を楽しませてくれることでしょう。

          

 そうそう、大きくなったクワの葉の影で、健やかに育ちつつある桑の実を紹介すべきでしょうね。もう赤く色づき始めたものもありますが、食べごろは、赤紫からほとんど黒くなった頃で、触っただけで実がホロリと落ちてきそうなものがとても甘くて美味しいのです。
 第一陣の収穫は一週間から10日先でしょうね。

 こんなに目にも鮮やかでさわやかな季節なのに、私の鈍感な体はうまくついて行けないようなのです。暑苦しくなって軽装にすると急に身震いするような寒気に襲われたり、センサーが狂っているのか、反応や調節機能自体がおかしくなっているのか・・・・って愚痴にしか過ぎませんね。

 心頭滅却せば・・・云々という悟りの境地は私には無理なようです。肉体や身体的なものの超克、それは私にとっては死でしかありません。
 ですから歪んだ感受性に満ちたこの身体ともどもというか、この身体そのものを生き切るよりほかないのでしょうね。
 生きてる間な死なないという素朴な信念(?)にすがりながら・・・。



 
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「パン」と「子ども」 新子さんの絵

2014-05-16 01:16:23 | アート
 友人の娘さん、「新子」さんの個展を観ました。
 彼女の絵の対象であるファクターは極めて限られています。
 ずばり、「パン」と「子ども」です。
 それだけなのです。
 他のものは描かれていません。

 彼女の絵を観るのはこれで2回めですが、前回もそうでした。
 ここに載せた写真は今回のものではなく、たぶん、前回のものですが、これらの写真だけから見るとなんとなくメルヘンチックに見えるかもしれません。
 タッチが繊細で柔らかいので余計そう見えることでしょう。

          

 しかし、連作を観てゆくと、パンのバラエティ、そして子どもの表情や仕草のバラエティなどがそれぞれ異なり、そしてそれらの組み合わせによって表出されるものはそれぞれ異なります。

 なかには、子どもがパンを食べるのではなく、パンが子どもを食べるというシュールなものもあります。
 そうした一見、平板そうでいて単純なメルヘンのなかには収まりそうにない余剰が、これらの絵画を絵本の挿絵のような佇まいから自立した現代アートの一翼へと位置づけるのかもしれません。

 その意味では、アニメのキャラクターをフィギャ化したようなアートよりは私たちには馴染めるように思いますし、少なくとも身近に感じられるのです。

             

 なお、なぜその対象が「パン」なのかについては、画家自身が「子供の頃からのインプレッション」としてパネルのなかに書いているのですが、私のような疑り深い老人は、それ以上のトラウマのようなものをつい考えてしまいます。しかしそれは、たぶん、対象化された作品を曇りなく受容する上ではまったく余分な詮索というべきでしょうね。

 なお、この「新子展」は、18日(日)まで、以下で開催しています。

  ギャラリー名芳洞
  名古屋市中区錦1丁目20-12伏見ビルB1
  052-222-2588
  地下鉄 伏見駅9番出口すぐ


なお、作品の写真はネットで拾ったため、実際の作品とは色彩や明度、コントラストなど異なることをお断りします。


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ミーチンと社会学 そしてヴェトナムの味の素

2014-05-14 03:47:40 | 想い出を掘り起こす
 写真は最後のヴェトナムの味の素のもの以外は関係ありません。

 以下はあまり語られていない歴史の些細ともいえる一断面ですが、私自身が忘れてしまわないうちに書き残しておきます。

 ミーチン*という当時のソ連の哲学アカデミーの総裁であった人が来日し、名古屋でも講演をするというので野次馬根性で出かけたことがあります。
 それがいつだったかというと、記録によれば1958年の日本共産党の第7回大会に来賓として来日したというものがありますが、どうもその折ではないと思います。

 それで別の資料を探していたら、1959年の12月に東京唯物論研究会**で「ミーチンを囲む会」が催されていたことを突き止めました。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/16443/1/0100805101.pdf(長文ですから関心のある人のみお開きください)

          

 名古屋での講演はその流れの一環であったと思います。
 すでに、ソ連共産党第20回大会でのフルシチョフのスターリン批判が行われたあとでしたが、日本共産党は公式にはそれを認めていない段階でしたから、ソ連への幻想もあったのか、会場は人いきれがするような盛況でした。
 私はというと、1958年の全学連大会で全学連が日本共産党の全面支配を脱した後であり(その大会に私は出席していました)、ソ連共産党を頂点にしたコミンフォルム***体制と、それの継続のような状態にはむしろ批判的でしたから(1956年のハンガリー革命の影響も大)、上に述べたようにいささか野次馬的な参加でした。

 そこでミーチンがどのような話をしたのかはまったく覚えていないのですが、唯一、印象的なシーンがありました。
 それはひと通りの話が終わったあとの質疑応答の折でした。
 誰かが、ソ連での社会学の位置づけについて質問したのです。
 それに対してのミーチンの答えはおおよそこうでした。
 「社会学というのはブルジョア人文科学であり、やがて史的唯物論に吸収され消滅するであろう」

          
 
 これは、ミーチンの立場としては十分予想される回答でした。なぜなら、彼は1930年代、哲学のレーニン的段階というスローガンをひっさげてソ連哲学界にのし上がったのであり、そのレーニンはというと、革命が完成した折に残る人文科学は、生産や消費を統制する統計学と経営学だけだろうと断言していたからでした。

 私がその折注目したのは、ミーチンではなく、私の前に座っていた明らかに党員と目される社会学の院生でした(私は別のところの学部生でした)。彼は、その言葉を聞くやいなや、みるみる首筋から耳にかけて紅葉させ、明らかに興奮状態で、吐く息も荒くなっているのがその肩の上下から見て取れました。

          

 私は、ミーチンがそういうことは明らかにあり得るのに不勉強なという思いもあったのですが、それ以上に彼に深く同情したのでした。
 彼が何か反論したり、追加の質問をするのではとも思ったのですが、それはありませんでした。

 で、その後の彼ですが、離党なり何なりするのかとも思ったのですが、そんな気配もなく、少なくとも在学中は党に忠実であったようです。彼の中で、その折の衝撃とどう折り合いを付けたのかは興味あるところですが、それは知り得べくもありませんでした。

 ミーチンという人は、当時の左翼やその周辺の人達が裃付けて歓迎したのですが、その割にほとんど影響を残さなかったように思います。それは、上に述べた問答のように、彼が編纂したソ連哲学アカデミーの『哲学教程』に記された「教条」を順守し、その徹底を図るという以外のものを何ももたらさなかったからです。

          

 そんなわけもあってか、ネット上でもミーチンに関する記録や資料は少ないのですが、私が行き当たった面白い例を紹介しましょう。

 「ミーチン」というのはヴェトナムでは「味の素」のことなのだそうです。そしてヴェトナムは味の素の大量消費国なのだそうです。
 複数のブログなどは、ベトナムの屋台や飲食店で、麺類やスープものを注文すると、まず多量の白い粉が(スプーンに何杯という単位だという人もいます)丼に入れられ、そこにスープは注がれるというのです。そのどれもが、半端ではない多さだと記しています。それが味の素なのです。

 これは味の素の経営戦略の勝利かもしれません。ヴェトナムには味の素の工場があり、スーパーなどの食品売り場では日本では信じられない程のスペースで、大きな袋入りの味の素が売られているのだそうです。

          

 そのあまりにも多量の使用に、そうした人工調味料に敏感なひとは、それらを食したあと頭痛がするとも記されています。そして在留の日本人たちで外食に慣れている人たちは、「ホンチョーミーチンニャ-!(旨味調味料は入れないでね!)」というのだそうです。

 それに関連して思い出すことがあります。
 わが家へこの魔法の調味料、味の素が入ってきたのは1950年代、私が中学生の頃です。当時のパッケージは赤い缶にエプロン姿のお姉さんが付いているもので、耳かきのような小さなスプーンが添えられていました。
 それをほうれん草のおひたしなどにほんの少量パラパラとかけるのです。

 ある日、私はそんなに少量で旨くなるのなら、まとめて食べたらさぞ旨かろうとくだらぬことを考え、添えられていたスプーンに一杯を口にしました。
 ウ、ウ、ウッ、オエーッと思わず吐きそうになりました。
 ヴェトナムの飲食店を笑えませんね。


マルク・ボリソヴィチ・ミーチン(Mark Borisovich Mitin) ロシア革命後の内戦時に共産党に入り,1929年に赤色教授養成学院哲学部を卒業したが,師のデボーリンを批判して,翌30年より《マルクス主義の旗の下に》誌の編集長に就任し,スターリン時代のソ連の哲学界を牛耳った。39年より科学アカデミー会員となり,マルクス=エンゲルス=レーニン=スターリン研究所所長も兼任した。しかし44年にジダーノフによって両職から解任され,第2次大戦後も閑職にあったがやがて復権。来日時にはソ連哲学界のトップだった。
 一説には、スターリンの「唯物弁証法と史的唯物論」はミーチンの手によるとするものもある。

**第二次唯物論研究会(通称 唯研) 戦後、日本共産党の周辺にさまざまな学者を集めた民主主義科学協会(通称 民科)という組織があったが、それが路線上の対立などで衰退し、さらには統一戦線的な志向をもったことから、それに対立する意味で日本共産党の肝いりで組織された学者たちの会。第一次は戦前、1930年代の戸坂潤などの組織したもの。現在も唯研を名乗る組織が存在するがかつてのように党派性はないと思われる。

***コミンフォルム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%A0を参照のこと









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私んちの桜ん坊

2014-05-11 03:39:05 | よしなしごと
          

 毎年書いていますが、またこの季節がやって来ました。
 私んちの桜ん坊です。
 かつてはシーズンに数回収穫したこともありますが、私と一緒で樹の老齢化に従い、枯れてしまった枝もあって、最盛期の半分も実をつけません。

             

 去年が不作だったので今年はもうだめかもと半ば諦めていたのですが、意外と花の付きが良かったのが幸いしたのか、去年よりもはよく実をつけました。
 しかも今年のものは、一粒ずつがやや大きくて、甘くて美味しいのです。

                    

 土曜日に、娘の務める学童保育所のおやつに持たせてやりました。
 子どもたちが目を輝かせて喜んでくれる様子を勝手に想像しながら、ちょっと幸せな気分に浸っているのです。

                       

 さて、もう一回、採ろうかどうか迷っています。
 もう一回目程は採れないにしろ、みんな鳥たちにやってしまうのはややもったいないぐらい残っているのです。
 ただし、残ってるのはみんな高いところですから、リスクをおかして登ったことはいいが、落っこちて寝たっきりになる可能性もあります。

 日曜日、といってももう今日ですが、体調やら気分やらのコンディションと相談して決めることとします、
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雪山賛歌 奥美濃&飛騨

2014-05-09 01:20:28 | 写真とおしゃべり
 連休の最終日(といっても仙人ぐらしの私には関係ないのですが)、奥美濃から飛騨地方へゆく機会がありました。
 面倒だから細かいことは書きません。写真を見て下さい。

 見てきたのは、まだ冠雪している山々、今が盛んな桜、水芭蕉、高原の空気とびっくりするくらい近くで鳴くウグイス、などなど。
 春と初夏の混在。
 渋滞を心配しましたが、まったくそれらしいものに出会いませんでした。


          
                白山連峰
          
          
                   
                 大日ヶ岳
          
             
             
          
                         
               カラマツと桜のコラボ
                     
              清見付近からの乗鞍岳
                  
            山桜・・・花よりほかに知るひともなし
                    
              帰途立ち寄った郡上八幡城

コメント (6)
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