六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

敗者の墓標 風景に寄せて

2019-09-28 15:30:39 | 写真とおしゃべり
 あいちトリエンナーレの話といい、関西電力の原発資金還流詐欺といい、権力や金の亡者たちが、悪徳の限りを尽くしているのを見せつけられるのは実に胸糞が悪い。吐き気がしそうだ。
 
 こんなとき、弱い私は逃げ道として自然へと逸れる。
 とはいえ、もはや私たちの前にある自然が、実はこの時代の人工物に過ぎないことは承知しているし、それ自体が、政治や経済と連動し、刻々と変わっているのも事実ではある。

 私のまわりで今急速に増えつつある廃墟廃屋、耕作されず荒れ地となった田地田畑も、経済構造のなかで敗北し、打ち捨てられたものたちの墓標といえるだろう。

 この時期、残され、数少なくなった田の近くを通りかかると、稲わら独特の匂いがする。まだ刈り取られたわけではないが、その匂いが日増しに強くなる。
 遅場米の産地であるこの辺りの稲刈りは、恐らく来週の週末から再来週の週末にかけてであろう。

         
 一方では、いまなお残る田の、歌麿の美人画の生え際のように端正に並んだ稲の風情があるかと思うと、他方には、耕作放棄された田が荒れ放題で広がっている。
 昨秋刈られたその株からのヒコバエが、やはり季節を察知して、もはや収穫されない穂をつけているのも、いくぶん哀れである。

         
 これらを語ったら、近くの都市の友人から、こちらもそうですよとの知らせ。「いずこもおなじあきのゆふぐれ」と返したら、そんな歌に読まれるような風雅なものではありませんとの感想。
 たしかにそうだ。それが経済構造や政治的方針のなかで生みだされた風景であるとしたら、風雅や優雅といってはいられない。
 
 戦後の一時期、「農は国の力」とそやされ、「農協さん」が肥え太った時期があった。主として保守系の政治家の票田でもあった。
 それがいまや、先の日米貿易交渉やTPPにもみられるように、自動車産業のためには農は人身御供に出される運命になっている。

 私たちの観る風景は、まさに人為の結果にほかならない。
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愛国者トランプとオボッチャマン小泉のことなど

2019-09-25 11:47:59 | 歴史を考える
 アメリカのトランプ大統領は、開催中の国連総会での演説で、「未来は国際主義者のものではなく、愛国者のものだ!」とぶち上げたという。
 国連を絶対視するものではないが、少なくともこれは、国連でするにもっともふさわしくない演説と言っていいだろう。

 18世紀末に、イマヌエル・カントが、その著、「永遠平和のために」でその理念を語り、20世紀に至ってやっと実現した国際機関を、ちゃぶ台返し同様に、ひっくり返してみせたようなものである。

 同じ演説のなかで、彼は、イランを激しく非難し、北朝鮮や中国を牽制している。しかし、これらの国々もまた、彼のような「愛国」の原理に従っていることに思いが至らないのだあろうか。
 残念ながら私には、それらの国々の愛国に比して、トランプの愛国の方が優れているという理由を見出すことが出来ない。

 相対的にいえば、アメリカのような大国が愛国主義に走ることはより危険であるし、絶対的にいえば、あらゆる愛国主義は世界に厄災をもたらす危険性を孕んでいる。

         
 アメリカの愛国主義は、すでにしてさまざまな波紋をもたらしている。米中貿易摩擦などはまあその相互性からいって一方を非難することはできないが、火をつけたのがトランプであることは経過が示すとおりである。

 さらには、今総会で注目されている地球温暖化対策についていえば、自国産業の利益擁護のため、自ら蚊帳の外へ出て話し合いに加わろうともしない。

 ついでながら、この件に対し、日本国もほとんどアメリカに足並みをそろえているようなのである。今回の国連の分科会が、以前の京都議定書では不十分だとし、それをさらに超えた規制案を検討しようとしている折から、日本はそれに応じようとはしないで、トランプ同様蚊帳の外に出てしまっている。

         
 所轄大臣の小泉オボッチャマンは、「環境問題はセクシーだ」との迷言をその演説の結びに使ったが、その意味を内外の記者団に問われても何ら具体的に答えられず、その演説そのものが単なるパフォーマンスに過ぎないことを自ら暴露してしまった。
 実際のところ、その演説はレトリックのみで、一般的、抽象的、かつ無内容なものに過ぎなかった。彼の「舞い上がり感」のみが独りよがりで空疎な後味として残る代物だった。

 国連を絶対視はしないと書いた。実際のところ、国連が犯した誤り、あるいは罪過は数えようによっては無数にあるかもしれない。また、肝心のところで役に立たなかった事例も数多い。
 にもかかわらず、各国が話し合う唯一の場としてのその存在を無視することは出来ないと思う。

 先に見た、カントが描いた夢の250年後の現実として、いわばその「未完のプロジェクト」として、長い目で見てゆく必要があるのではなかろうか。
 それに対し、トランプのように愛国主義を対置し、それに各国がそれぞれの愛国を掲げて呼応するならば、このプロジェクトは幻として霧散するであろう。

 私はいま、1933年の当時の国際連盟から日本が脱退した折の、松岡洋右の演説を思い出している。日本の立場が、42対1で否定された後、彼は短い脱退の宣言文を読み上げ、その最後を「サヨナラ」と日本語の4文字で結んだ。

 日本の愛国主義者たちは、そしてほとんどのメディアも、それを熱烈に支持したが、その「サヨナラ」の4文字が起点となって、孤立を深めたこの国が、その後、世界の人々や日本人そのものにどのような悲惨をもたらしたかは、歴史の事実がが示すところである。
 最も近頃は、そんなことはなかったことにしようとする風潮が政権筋にまで及んでいるらしいのだが・・・・。

 使い古されてはいるが、サミュエル・ジョンソンが語ったという「愛国者はならず者の最後の隠れ家である」という言葉を言い添えておこう。








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無題

2019-09-22 17:36:25 | ポエムのようなもの
 

 初々しい恥じらいに
 赤く染まって昇った朝日
 夕べともなれば
 人の所業の愚かさに
 怒りに染まって沈む

 われらが父母の世代は
 朝夕のお天道様に
 掌を合わせ崇拝したものだ

 朝はその初々しさに感嘆し
 夕べはその怒りを鎮めるために

 明日もまた陽が昇るとは
 限らない
 怒りのあまり
 昇らなくなることだってある

 だから朝日は有難いことなのだ
 そして夕日は
 明日の再見を念じながら
 心して見送らねばならないのだ

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田園将に蕪れなんとす@茜部界隈=私の散歩道

2019-09-21 01:19:42 | 写真とおしゃべり
 行きつけのクリニックへ薬をもらいに出かけたついでに、ここ二、三日ほとんど歩いていないことにかんがみ、少し遠回りして帰ることにする。
 いわゆる「ついで散歩」だ。私の場合、わざわざ散歩に出たり、歩くために歩くということをする習慣がないので、いつもそんな調子だ。

 前々から書いているので、また蒸し返しかと思われる向きも多かろうが、最近、かつての休耕田とは違い、明らかに耕作放棄と思われる田畑が目立つのだ。
 理由はいろいろあるだろう。耕作者の高齢化、あるいは死亡、そして後継者の途絶。

         
 そのうちの一つが、私が長年ウオッチングをしてきた田んぼで、今年1月にオーナーが急逝して以来、耕作がストップしている。最初の写真の田がそれで、昨秋刈られた切り株から出たヒコバエが、他の田んぼの稲同様に穂をつけているのが憐れだ。
 「主(あるじ)なしとて秋な忘れそ」といったところか。

         
 この人の所有に係るものに、あまり広くないレンコン畑がある。蓮の花が咲き、レンコンも収穫されていた。
 それが二番目の写真であるが、ここは今後どうなるのだろう。

         
 三番めの写真は、この人の使っていたユンボ(油圧ショベル)である。その屋敷内に放置され雑草に埋もれようとしている。
 もっともこのユンボ、相当の年代物で、この人が亡くなる何年か前からもう稼働していなかったと思う。

            
 四番目の写真は、亡くなった人とは関連しないかもしれないが、つい二、三年前まで、きれいに耕された畝に、何種類かの季節の野菜類が絶えなかった立派な畑であった。
 そのなかには、仏花にするのだろうか、四季折々の花々を育てるコーナーもあり、さらにその端には、高さは二メートルを越え、花の直径は三〇センチを越えるひまわりが数本並んで立ち、ゴージャスさと端正さを同時にかもしだす空間だった。

 それが今はこのありさま。かつて、お花畑のあった辺りに、生き残った百日草が、「私はここよ」と叫んでいるようで、なんだか痛ましい。

 都市化の波がひたひたと押し寄せる地方都市の郊外、こうした情景は必然というべきで、私のような叙述は薄っぺらな感傷でしかないことは十分承知している。
 しかし、風景は歴史であり、経済であり、政治であり、次代に渡すべき資産でもある。
 だとするならば、私が八〇年前、この世に生を受け、先人から受け取った風景を、いま私たちが眼前にしているようなものとして次代へ引き渡すことは、後世、どう評価されるのだろうか。

            
 原発事故に関して、東電の幹部たちは無罪だという。ようするに、誰も責任を取らないような事態が認められたことになる。法的な展開が今後どうなるかはわからない。
 ただし私たちは、原子力をはじめて兵器に使い、転じて発電に使用し、その影響や効力を享受した世代として、あの福島の膨大な汚染水、膨大な汚染物質が累々として立ち並ぶ風景に、一人ひとりが責任をもっているのではないかと思うのだ。
         
         
 風景とは、そこへと私が生み出され、そこで過ごし、その過ごし方の痕跡をとどめて、次代へ引き渡すものであろう。

 最後の二枚の写真は、話題がシリアスになりすぎたのを軌道修正するためのもの。
 最初は、私の頭ほどもあるでかい柑橘類の実。そして最後は、岐阜の地産米「ハツシモ」の現状。稲刈りまで、あと三週間ほどか。

 




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肉体で聴く音楽シーン@名古屋今池祭り

2019-09-18 14:42:32 | 音楽を聴く
今年も名古屋の今池祭りに行ってきた。
 懐かしい知己に会うことが出来た。

         
            
         
 今回はその音楽シーンについて書くことにしよう。
 正直いって、ともに、いつも聞くジャンルではないのだが、これらについては今池つながりということでジャンルもへったくれもなく、身内の音楽のようなものだ。
 
 今池に寄り添い、今池とともにあるようなバンドが三つある。
 そのひとつは、生粋の今池生まれ、「バレーボールズ」だ。ブルースっぽいものが主体だがその幅は広い。リーダーの森田裕氏は、私から数えて6代目の今池祭りの実行委員長だ。

https://www.youtube.com/watch?v=JpvSYiBaAoY

 もうひとつは、今池では絶対の人気を誇るロックバンド、「原爆オナニーズ」だ。
 彼らの舞台はハードだが、同時に開放的でもある。興にのった聴衆は誰でも舞台に駆け上る。そしてそれぞれのパフォーマンスを披露した後、客席に向かってダイブすることとなっている。女性もしている。
 私もしようかと思ったが、それで寝たきりになってはと思い、自重した。

https://www.youtube.com/watch?v=gCe7oOWxXv8
 
 もうひとつは、何年か前、紅白にも出た「nobodyknows+ 」である。ラップのバンドだがそのハーモニーはなかなかのものだ。
 今回は残念ながら、時間の都合で聴けなかった。

            
         

 代わりにやはり、今池祭りの常連で、練り歩きの演奏なども披露する、「ホットハニーバニーストンバーズ」を紹介しよう。とてもファミリーなバンドである。
 一見、デキシーランド風だがそれとも違う。私の感想では、「アンダーグラウンド」や「ライフ・イズ・ミラクル」の映画監督、エミール・クストリッツァが用いるバンドに似ているように思う。もっともあそこでは、チューバが音の厚みを出していたが、このバンドにもかつてはチューバがあったように思う。

https://www.youtube.com/watch?v=zXN9yXz36Ig

 最後に今一度、「バレーボールズ」を載っけておこう。
 正直いって、ラジオなどの媒体から聞こえてきても、あまり反応しない私だが、やはりなまで聴くと、肉体が反応する。

https://www.youtube.com/watch?v=82syLHoVNe0
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ゴロツキに促された「あいちトリエンナーレ」三会場

2019-09-15 10:47:37 | アート
 名古屋市長の河村たかしという男はゲスでゴロツキである。
 私は一度、今池という街で店を持っていた折、直接対話をしたことがあるのだが、彼の開口一番は、「マスター(私のこと)、今池はチョーセンが多いで、商売、やりにくにゃぁきゃぁ」であった。
 頑迷なレイシストの言葉であった。

            
 この男が、今回のあいちトリエンナーレの企画展示「表現の不自由展・その後」の少女像などにイチャモンを付け、それをなぞるように菅官房長官の公金での支援を疑問視するが談話が続き、それらが火付けとなって事務当局への妨害電話、脅迫電話が相次ぎ、ついには、京アニ事件を想起させるガソリンをもって参上という武力攻撃を示唆する書き込みがネット上で公開されるに及んで、その企画が閉鎖されて今日に及んでいる。

         
 表現の不自由を検証しようとする企画が、はからずもそのまま、今日の表現の不自由、その不自由を実現しているのがどんな連中かを炙り出したといえる。

         
 この経緯の口火を切ったのは先に見たようにゴロツキ河村だが、彼にひとつだけ功績があるとするならば、これまでのトリエンナーレをチラ見ぐらいで済ませてきた私をして、ならばちゃんと見てやろうではないかと思わせたことであろう。
 私のみならず、あれが契機で、このあいトレに関心をもった人も多いかもしれない。

         
         
            
         
 そんなわけで、前回の豊田会場に引き続き、今回は、県美、市美、円頓寺と三箇所の会場を巡った。ここに掲載したものは、それぞれの会場で撮したものである。
 アートというものを見慣れていない私には、それらの評価は為す術もない。ただ、これは邪道かもしれないが、ある種のこだわりをもったもの、そのこだわりが私に響くものに注意や関心がゆくのは否めない。

         
         
 例えば、円頓寺「メゾンなごの」での弓指寛治のその一階を飾る作品。これは東日本大震災などの大きな事故の影で、忘れられがちな栃木県鹿沼市のクレーン車暴走事故で亡くなった集団登校時の6人の学童の鎮魂の作品群である。
 この事故の特色は、持病があってそれによりたびたび事故を起こし、執行猶予中に起こった事故ということで、今日の老人の運転問題などへも継続された問題である。

            
            
            
         
 作家は、犠牲者たちの日常を数々の絵で表現するとともに、加害者となった息子に、次々と車を買い与えた母親へのインタビューやその絵画表現をも試みるが果たせなかったことを明記している。後半に出現するおびただしい車の絵は、それを払い除けてくぐらなければ通れない仕組みになっていて、それ自体が中毒症状ともいえる車社会の現状をよく表している。

 今回、ひと通り観た中で、全体を通じた感想としては、この種のアートフェステバルの中では、異例なほど、かつての日本の植民地支配があぶり出されていたことである。最初に述べた「表現の不自由展・その後」の少女像もそうだが、台湾の日本統治時代の、農業高校(?)での訓練の背後に流れる「海ゆかば」の合唱、同じく、統治時代の記憶を持つ老人たちが歌う日本の軍靴や歌謡、それらはすべて戦前生まれの私もかすかに記憶してる、天皇礼賛に属する歌たちであった。
 そしてこれらは、豊田の喜楽亭で観たホー・ツーニェンの戦前の軍国日本を描いたあの印象的な映像に通じるものであった。

         
 かくして、日本を取り巻く現代アートは、いまなお70年前、80年前の時代とのズレと振幅を抱え込んでいるように思った。
 それはまた、あの敗戦時に、日独伊の三国同盟のなか、唯一、戦争責任者が生き延び、国旗も国歌も変わらなかったこの国のヒズミが、今日に至るまで亡霊としてさまよっていることを表しているのかもしれない。
 冒頭に述べたゴロツキ河村の妄言も、もちろん、そのひとつの帰結である。

         
映画「エル・トポ」や「サンタ・サングレ」のホドロフスキー監督が、映像の「サイコ・マジック」に出ていた。そうしたパフォーマンスもいいが、もっとその映画を観たいものだと思った。

 
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旅の終わりは切なくて・・・・@フィンランドナショナル・ギャラリー・アテニウム

2019-09-06 00:40:20 | 想い出を掘り起こす
 サンクトペテルブルクとヘルシンキの旅、ぐだぐだと一ヶ月近くにわたって掲載してきたが、実際のところは一週間、実質5日間の旅だった。長々しく書いてきたのは、要点をかいつまんで述べることができない私の欠陥と、旅慣れた人にはアタリマエの事物に、オノボリさんの私にはいちいち立ち止まって感嘆していたことによる。

         
 それはさておき、いよいよ旅は最終日で、午後にはヘルシンキを離れなければならない日の午前、選択した行く先は、ヘルシンキのナショナルギャラリーともいうべき美術館、アテネウムであった。
 この美術館、ヘルシンキ中央駅の斜め前に堂々と建っていて、ヘルシンキの初回に書いたように、この街のほとんどの見どころが、80歳の私の足で到達できるという意味で、私の身の丈に合っているといったまさにっその象徴のような場所にある。

            
            

 ホテルからも徒歩で10分ぐらいだが、チェックアウトをして荷物があったこともあり、最後に名残りのトラムに乗る。
 築130年ほどだが、この堂々たる美術館は、それ自体が国定文化遺産建築に指定されている。大きな荷物はフロントで預かってくれ、手荷物はロッカーに入れて身軽になる。

            
            
 この美術館のコンセプトは、フィンランドの作品を主体にそれを時系列で見せるということで、他国の著名な作品の蒐集にはさして力を入れてはいない。後述するようにそれらも多少は散見はできるのだが。

         
         
 前半は、フィン人=スオミ人の伝統を示す作品が並び、次第に近代へと進んでゆくのだが、こうしたほとんど予備知識のない美術館の作品を観るのも新鮮でいい。ひとつひとつの作品と無垢な気持ちで対面できる。

         
         
 この美術館所蔵で、唯一、私が知っていたのは、ヒューゴ・シンベリの「傷ついた天使」であった。象徴主義といわれるこの画家の作品には、さまざまな解釈がなされているが、それらはひとまず置くとして、私にとっては、担がれてゆく傷ついた少女風の天使もだが、担いでいる後ろの少年の、まさにこの絵を観ている私に対して注がれた視線が気になって、しばしその場を立ち去りかねたのであった。

         
          上の塑像ふたつの間にあるのが「傷ついた天使」
         
 先に、この美術館、フィンランドの作品が主体だが、ほかの著名作家のものも多少はあるといったが、それらのうち、目についたものを挙げておこう。

         
 ・ゴッホ「オーヴェル=シュル=オワーズの通り」

            
 ・ゴーギャン その作品集では、「豚肉と馬のいる風景」がアテネウム所蔵となっているが、この絵は明らかにそうではない。

            
 ・モディリアーニ 「画家レオポルド・シュルヴァージュの肖像」
 
 なお、セザンヌの「エスタックの道路橋」があるとのことだったが、それは見当たらなかった。貸出中かもしれない。あるいは私の見逃しか・・・・。

            
 ひと通り見終わった感想としては、楽しい時間だった。普通、美術展ではとても疲れる私なのだが、それもなかった。きっと、普段あまり見ないようなものを野次馬根性で観るという気軽さが、肩肘の張りをなくしてくれたせいだろう。

         
         これは絵ではない 美術館のビストロで食事をする家族

 まだ出発までには時間があった。空港行のバスは、目の前の中央駅の横から出ているので、乗り遅れる心配はない。
 美術館のビストロへ入りしばしの休息。ここはけっこう人気があるらしく、美術館のヴィジターではない人もかなり多いようだ。

         
 人気は、10ユーロのバイキングらしい。しかし、それほどの食欲もない。アラカルトの軽いものに、ビールを注文。ここのシステムは、カウンターでオーダーをし、料金を払うと、小さな旗をくれる。その旗をテーブルに立てておくと、そこへオーダーしたものが届く仕掛け。ただしバイキングは、大皿を一枚くれるので、料理が並んでいるところへ行って自分で勝手に盛り付けるシステム。

 少し歩いた後のビールは心地よい。これでこの旅はお終いかと思うと、ちょっとした感傷がツンツンと私を突っつく。
 この街は、どこへ行くにも分かりやすくてよかったなぁと改めて思う。

         
 わずか2日半なのに、何度もその前を行き来したヘルシンキ中央駅前を横切りながら、西側広場へ向かうと、もう空港行のバスが待っているのだった。
 そして、セントレアへとまっしぐら。

         
 地球は狭くなったが、もう二度と来られないだろうサンクトペテルブルクも、そしてヘルシンキも、私にとっては再びはるかな夢の街、そして思い出の街へと収納されるほかはないのだ。
 


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教会三題@ヘルシンキ 赤レンガ造り・白亜の殿堂・そしてなにこれ? 

2019-09-03 15:31:55 | 旅行
 前にも書いたが、ヘルシンキに着いたのは日曜の夜。翌日は美術館でもと思っていたが、はたと気づけばこちらでもそういうところは月曜日は休み。急遽予定を変更して著名な教会三箇所を回ることに。

         
 最初は、港のすぐ近くの丘にある「生神女就寝大聖堂」(別名、ウスペンスキー寺院)という日本ではあまり聞かない寺院名である。「生神女就寝祭」とは聖母マリアの永眠を記念するという意味のフィンランド正教会(ギリシャ正教会やロシア正教会と同系列)の大祭のひとつで、カソリックの聖母被昇天の大祝日に相当する。
 したがって、生神女就寝大聖堂とはその大祭を記念する寺院ということになる。

            
 こうした寺院は、正教系ではどこにでもあり、ロシア正教のモスクワ、クレムリンにあるそれは、世界遺産になっている。

         
 赤レンガ造りの生神女就寝大聖堂は南港から手を伸ばせば届くようなところだが、なかなか急峻な坂を登らねばならない。登りきったところにそれはどんと構えていた。多くの観光客が周辺を回るようにして眺めている。
 中へ入ろうとした。ロシア正教のそれはサンクトペテルブルクで入ったから何となく分かるが、ヘルシンキではどうなんだろうという期待感がある。

         
 しかし、教会入口は無情にも閉じたままであった。公開時間があるのだろうか、それとも美術館同様、月曜日の一般公開はしないのだろうか。
 境内の敷地から、この丘で南港と隔てられている北港を見下ろすことが出来た。この辺りも、時間があれば散策してみたいところだと思った。

         
 次の目標、大聖堂を目指す。白亜のこの聖堂は、ヘルシンキのランドマークのようで、各種の観光ポスターやガイドブックの表紙を飾っている。

         
 ここはフィンランド福音ルター派教会に所属する寺院であるが、その規模は先程の生神女就寝大聖堂に比べ、遥かに壮大である。しかもそれが、宝塚もびっくりという大階段の上に鎮座していて、さらにその階段の下は、元老院広場という広々とした石畳が広がる空間があり、その中央にはロシア皇帝アレクサンドル二世の銅像がそびえている。

         
 なぜロシアの皇帝がというと、1800年代初頭、ロシアの支配下にありながらも、フィンランド大公国の設立が許され、公用語としてフィンランド語の使用も許され、自由な時代を謳歌したその時代の皇帝がアレクサンドル二世だったからである。

 しかし、やがて、1835年に出版された民族叙事詩「カレワラ」の一節にもあるように「われわれはスエーデン人には戻れない。しかし、ロシア人にもなれない。そうだ、フィンランド人でいこう」ということで、さらなる完全自治を求めることとなる。

            
 さて大聖堂の方だが、ここは入ることが出来ないものかと、疲れた足を引きずって入り口の扉の見えるところまで大階段を登ったが、それがが閉まっていて、どうも人も入ってゆかないようで、その時点で諦めてしまった。
 しかし、帰国してから改めて調べると、その時間、ここはちゃんと入場可能だったらしい。きっと、ほかの入口があったのだろう。しまったことをした。

         
 この大階段は、親しい者同士が隣り合って色々語り合う場所として人気があるらしい。ローマのスペイン広場を連想するが、そのスペイン広場の方は、今年から立ち止まることすら禁止になったようだ。その点ここは、より広々としているようだから大丈夫だろう。

         
 さて、もうひとつの教会は、テンペリアウキオ教会といい、やや離れていたが、ぜひ見ておいたほうがいいという触れ込みだったので、疲れた足を引きずり、トラムを二本ほど乗り継いで、最寄りと思われたところで降り、坂道を登る。どうも小高いところにあるようだ。しかし、地図も参照し、人にも訊ねて、確実にそこへと接近しているのに、それらしいものが見当たらない。

         
 人は教会を訪ねるとき、何を目印に探すだろうか。十字架のついた尖塔、あるいはドーム、鐘楼、などなどではないだろうか。私もそれらを目当てに上を向いて探していた。しかし、それらしいものはない。
 地図が指し示すところへ来た。そこにはなにか、低い建物があって、人が出入りしている。ちょっと見、劇場のようでもある。

         
         
 狐につままれたようで、やはり間違えたのかといったんは通り過ぎようとした。しかし、もしやと思い、人の流れを整理をしていたスタッフらしい人に訊いてみる。「これは教会であるかや?」。返ってきた答えは、「しかとさようである」。
 え、え、え、これが教会?まるでかつてのアングラ劇場の入口ではないか。

         
 入ってみて驚いた。確かに教会なのだ。ただし、思い描くようなドームの高い天井の下の教会とは違って、回りは岩肌で、その円形の空間に、丸い天井を乗せた、まるでUFOのような教会なのだ。
 やがて回りから聞こえた英語を聞いて、すっかり納得することが出来た。「ロック・チャーチ」。そうなのだ、この教会は岩山の頂上部分を円形にくり抜きその上に天井をしつらえたユニーク極まりない教会なのだ。

         
 福音ルター派に属するというこの教会の歴史は新しい。デザインコンペにより選ばれたもので、完成は1969年というからちょうど50年前。
 写真でもご覧になれるようにまったく斬新なのだが、ちゃんとパイプオルガンも祭壇も設置されている。

         
 けっこう観光客も多く、ざわめいているが、不思議に落ち着ける空間。オルガン演奏はなかったが、ピアノでバロックの曲が流れていたりして(惜しむらくは生演奏ではなかった)、雰囲気も最高。
 かなり歩き回って疲れていたのと、その日の最終行程だったので、ゆっくりと30分ほども過ごしただろうか。

         
         丸天井の回りからは自然光が入る 岩山の回りの光景も見える
 
 なお、この教会、周囲の岩石の凹凸がうまく作用しているのか、音響がいいということで、しばしば、クラシックなどのコンサートも開催されるようだ。

         
 帰りに、いま一度この教会を振り返ったが、これはどう見たって教会とは思えないよなぁというのを再確認。
 ヘルシンキへいらっしたら、必見。
 あ、他の教会もそれぞれ異なっていて魅力的だったことはむろん。


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フィンランドを象徴するような要塞島スオメンリンナへ

2019-09-02 02:00:43 | 歴史を考える
 フィンランドは、いまでこそ平和で国民の満足度も高い国のトップクラスに数えられるが、長年、デンマークやロシアなどの強国に支配されていて、その自治州になったりはしたものの、国として独立したのはわずか100年ほど前、ロシア革命のどさくさ紛れの1917年のことだった。

         
 しかし、その独立後も、ソ連の赤軍の侵攻によりその領土の10分の1を奪われるなど、その抑圧に苦しんだ。そのせいもあって、1941年に始まったナチスドイツ軍のサンクトペテルブルク包囲にあたっては、一時期、ドイツ軍と手を結んだこともあったが、途中でソ連と和解し、ドイツ軍の残党狩りに協力したこともあって、辛うじて敗戦国扱いから免れた。

         
 もし、あの折、第2次世界大戦の敗戦国側に位置づけられていたら、東欧諸国等と同様、ソ連の支配下に置かれたろうといわれている。
 ことほどさように、歴史のなかでもみくちゃになった経験を持つ国なのだが、その凝縮のような場所がフィンランド港から観光船で15分の海上にある、全島6島(ほとんどが橋で連結)からなるスオメンリンナ要塞跡であり、現在はその全域が世界遺産いなっている。

         
 この要塞を支配したり攻めてきた国々は多い。デンマークの支配、ロシアの支配、フィンランド湾の海上の要衝としてここを狙った大英帝国、フランス海軍などがそれである。
 先程、この要塞がフィンランドという国そのものの縮図のようだといった由縁である。

         
 ヘルシンキの中心部から、中央に帯状の公園を挟んで延びる優雅なエスプラナディ通りを東へ進むと、やがて賑やかなマーケットスクエアに至る。物売り独特の喧騒がさざめく一帯だが、その南側がヘルシンキ港の南港になり、そこからは小型の観光船、近くの島々や近郊の沿岸に至る小型の連絡船などが出ている。

         
 同じ南港でも、少し沖合の岸壁には、見上げるような豪華客船やおそらく外国航路とみられる大型フェリー、そして外洋巡りの貴婦人のようにスマートなクルーズ船などが停泊している。

         
            
 小型の観光船に乗り、15分もすればスオメンリンナ要塞跡に到着する。海上から見るヘルシンキの街も素敵だ。この南港は工業地帯などに面していないから、ここから遠望する街はほんとうにきれいだ。

         
         
 島へ近づくにつれ、いまは世界中からの観光客を招いているこの島が、実は外来者を排除するためにこそ装備された要塞であることがよく分かる。
 島のほとんどは、石垣で固められ、そこに穿たれた銃眼や狭間(さま)が、侵入者を狙撃せんものとまさに狙いをつけているかのようである。

         
         
 ここの建造物は、石垣と赤レンガが主であるが、それらが青空と海辺に映えて美しい。
 ただし、ここの石垣は、日本の城郭や砦とは基本的に異なる。というのは、日本の場合、石垣を土台としてその上に建造物が建っているのだが、ここの場合には、石垣の内側が建造物になっている。いわば建造物は、石垣の鎧をまとっているといえる。

         
         
 石垣自体の感じもいくぶん違う。
 ひとつは色合いだ。日本のそれもよく見るとそれぞれに色合いが違うのだが、全体的には灰色を中心としたモノトーンの感じが強い。
 しかしこのスオメンリンナの石垣は、その色彩がバラエティに富んでいる。とりわけ、赤や茶色の暖色系のものが混じっていて、石垣そのものがいくぶん華やいで見える。

         
         
 積み方も違う。日本の城郭のそれなどは、見事な反りを描いているが、ここのものはただ垂直に立つのみである。
 これは推測だが、先に見たように、上に建造物を乗せないため、それほどの強度を必要としないせいだと思われる。

         
         
 それにもうひとつ、私どもの地震列島と違って、北欧は世界でも地震が少ないことで有名で、したがって、それほどの強度を必要としないのだろうと思われる。
 今年の3月、スエーデンではマグニチュード3.2の地震があったということで大騒ぎになったようだが、M3ぐらいの地震は、日本では毎日どこかで起こっているもので、微小地震と小地震の間ぐらいに位置づけられている。ちなみに、2011年の東日本大震災のマグニチュードは9といわれている。

         
         
 島は、ハイキング気分で歩くには最高である。ちょっと飽きたかなという頃に、ひょいと日本では見られない大型の野鳥が、しかも人を恐れず目の前にいたり、いまの原潜からみたらオモチャのように彩色された潜水艦がぽっかり係留されていたりする。

         
         
 しかし、思わぬところに大砲が設置してあったり、銃眼が通りかかる私を狙う位置にあったりすると、やはりこの島は、ひたすら戦うために装備されたものであることを痛感するのであった。







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