六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ちょっとした異変 「朝日俳壇」と「朝日歌壇」

2012-01-30 23:40:38 | よしなしごと
      

 月曜は「朝日歌壇」と「朝日俳壇」を読む楽しみがあるが、今日はちょっとした異変が。
 4人の選者の評価が重複することが珍しい俳壇の方で重複評価された句が4句もあり、逆に、重複評価がいつもはかなりの歌壇の方で一首のみ。
 短歌は文字数の関係で有意味性が強く、重複評価が多いのだろうと思っていたのだが、どうやらそうばかりでもないらしい。

 最近、俳句関連の書を2ヶ所からもらった。
 ひとつは身近な人が関与するもの。
 もうひとつはネットで知り合った沖縄の人たちの俳誌。

 有季定型と無季不定形に近いもの。
 俳句もいろいろとあるものだ…ってあたりまえか。


      
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夭折の天才・村山槐多と岡崎市美術博物館

2012-01-29 01:08:06 | アート
            

 「村山槐多の全貌」展、この29日が最終日だというので、やっと27日に行くことが出来ました。
 村山槐多の絵は散発的には観たことがあるかも知れませんが、まとめて観るのは初めてです。
 22歳で夭折、というより病をおしての無茶な行動でほとんど自殺のように世を去ったこの画家が、それでもその短期間の制作のなかで、かなりの点数を残してくれたのは救いです。

              
           風船を被った自画像 1914   裸婦  1914~1915
 
 彼は19世紀末の既成の価値観に懐疑し、芸術至上主義的な立場をとったフランスのボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、イギリスのワイルドらのいわゆるデカダン派の影響を強く受けた人でした。
 デカダンスを気取ることはあっても、彼ほどそれを自分の生として意識的に生き続けた人も少ないでしょう。早熟であった彼は、15歳の頃からその死去まで、一貫してその姿勢を崩さなかったようです。
 定住と安定に抗うように放浪と退廃を、砂漠への旅を生き続けたのでした。

               
            尿(いばり)する裸僧 1915   カンナと少女  1915
 
 絵についてはあえて説明しません。後期の赤の色彩が強烈になる頃に彼は燃焼しつくしたのかもしれません。
 面白かったのは、1982年に発見されたという彼の300号に及ぶ大作「日曜の遊び」の真贋を巡って、この岡崎市美術博物館の学芸員が20年以上にわたって調査研究した成果と共に当該作品が展示されていて、美術品をめぐるミステリアスな話題を提供していたことです。

          

 自筆の詩などもかなり展示されていました。
 惜しむらくは午後から出かけたためそれらを克明に読むゆとりはありませんでした。
 それと、この歳になると途中から疲れがどっと出て、最後の方はこれと思うものを見逃さず観るのがやっとなのです。

      

 彼の一番素直な文章が、美少年、稲生きよしに宛てたラブレターや一連の詩でしょう。

 げに君は夜とならざるたそがれの
 美しきとどこほり
 げに君は酒とならざる麦の穂の
 青き豪奢

   (中略)

 われは君を離れてゆく
 いかにこの別れの切なきものなるよ
 されど我ははるかにのぞまん
 あな薄明に微笑し給へる君よ。   (1913年 17歳)


      
 
 そして次に引用するが、死の三ヶ月ほど前に書かれたいわゆる「遺書」といわれるものです。

 自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居る事を十五、六歳から気付いて居ました。
 私は落ちていく事がその命でありました。
 是は恐ろしい血統の宿命です。
 肺病は最後の段階です。
 宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げよう、引き上げようとして下すつた小杉さん、鼎さん其の他の知人友人に私は感謝します。
 たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陥ちるでせう。最低の地獄にまで。さらば。         (1918年 22歳)


      

 おおよそ100年前に生きた多感な男の少年から青年にかけての記録を目のあたりにし、それらを噛み締めながら美術館を出ると、冬の陽はもう陰りはじめていました。
 ついでながらこの美術館、岡崎市の郊外の小高いところにあって、気候の良い時分なら散策するにもいいところなのですが、何分にも冬の夕刻、しかも白いものがちらつくとあって、身震いしながら帰途のバスを待つのでした。
 しかし、寒さをおして訪れるだけの価値がある作品群だったと思います。

 村山槐多の作品以外の写真は、岡崎美術館内、あるいは周辺のものです。


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「老春探検隊」 日本料理店へ

2012-01-27 01:49:42 | よしなしごと
 「本格的な日本料理を食わせるいい店があるぞ」
 「しかもマニアックな日本酒が飲めるらしい」
 これを聞いて心躍らないとしたらもはや死んだも同じこと、われら「青春」ならぬ「老春探検隊」はSS隊長(ナチスの組織のようだがイニシャルがそうだから仕方がない)を先頭に部下約一名=ROKUで早速探検に乗り出すことにした。
 
 場所などはしちめんどうくさいからあとで纏めて書くが、名古屋駅から徒歩で15分、ということは陽気が良い時期ならふらふら散策しながらでも行けるということだ。しかし、時は睦月も後半、まさに大寒の頃と来てはそうもいくまい。
 
 六時オープンの少し前、まだ真新しい引き戸を開けると玉砂利を敷き詰めた上に飛石というイントロが続く。イントロが長いというのは高級店の証拠である。つい足がすくみそうになるが勇を奮って前進する。
 イントロというのは日常空間とこれから催される宴の空間とを遮断するために必要ないわば緩衝地帯なのだろう。南北朝鮮をへだつのも三八度線という直線ではなく、その回りにはかなり広い緩衝地帯があるのだ。それがないと危なくってしょうがない。

 オッと、これは脱線も甚だしい。
 とやかくするうちに無事に宴の空間にたどり着くことができた。杉の一枚板のカウンターがオープンキッチンと客席をへだつ。カウンターの幅も十分だ。立ち飲みバーと違って食の空間はゆとりがなければならない。

          
 
 われら老春隊は、カウンターの隅に席を占める。カウンターはやはり隅が落ち着く。さあ、メニューを見てと注文をと探しても無駄だ。オープン以後22時までは、オーナーシェフのおまかせ料理を堪能するのがこの店のルールなのだからだ。
 隊長ともども、まな板の恋(オッとー、鯉だった)よろしくすべてを委ねてそれを待つ。

 そのかわり、長い和紙に書かれた日本酒のリストがある。これがまた通り一遍ではない。地酒を集めた店は結構あるが、だいたいは、ウン聞いたことがあるという範囲なのだがここは違う。書かれた20を越えるほどの酒はそうした地酒のさらに奥へと踏み込み、マニアックなまでに追求された品揃えなのである。
 したがって、かなりの日本酒通でもここに自分の知っている銘柄を見出すのは至難であろう。

 それもそのはず、ここのオーナーシェフは、腕利きの料理人であると同時に、日本酒のソムリエでもあり、全国各地の蔵元を飛び回る熱心な酒道精神の持ち主であり、しかるがゆえに可能となった品揃えなのだ。

 それらの中から勧められるままに何種類かを口に含む。その芳醇で多様性に満ちた味に酔う。もちろん日本酒は、土地、酒米、水、精米歩合、麹、杜氏の技などによって様々な多様性をもつことは知っていたが、これほどまでにバラエティに富んでいるものを目のあたりにすると、思わず咽が鳴ろうというものだ。

 もちろん料理とともにいただく。
 長皿に盛られた先付けを見ただけでここには修行を積んだ職人がいて、それぞれに十分な仕事がほどこされていることが分かる。
 盛り付けも上々だ。しばらく眺めてから箸をつける。
 日本料理の粋に達したこの料理は、やはり、京大阪、さらには東京で10年以上の歳月をかけて(しかも熱心に)学んだ者でなければ不可能であろう。
 隊長と会話を交わし、盃を交わし、箸を運ぶうちに程良く次の料理が出てくる。
 どれも厳選された素材にしかるべくちゃんと手がかけられていることが分かる。

 味の百花繚乱のなか、これはもう酒は進むは、話は弾けるはで、怒涛の3時間はあっという間に過ぎ去ったの。
 ゆったりと味を楽しみ、酒の深い味わいを探るにはもってこいの店とみた。

       

 戦い済んで夜が更けて、われわれ老春隊はこの店を制覇した記念に写真に収まったのであった。
 左側がSS隊長、右がその部下=ROKUである。
 私が小さいのではない。隊長がでかすぎるのだ。
 戦中戦後、ほぼ同じ年代を経過してきたにもかかわらず、これだけでかく成長したのは・・・マア、そんなことはどうでもいい。
 余分なことを言ってると肝心なことを忘れる。
 カウンターの向こうからわれら老春隊に優しい眼差しを送っているのはこの店のオーナーシェフである。
 
 で近くの地下鉄の駅まで同道し、そこで「た、隊長、今日のレポートについてですが」と問う私に、「あ、それね、任せたよ」とハードボイルドな声で言い放った隊長は地下鉄の闇へと消えてゆくのであった。

以上のレポートは決してご馳走になってのヨイショではありません
 老春隊二名、ちゃんと正規の料金を払って参りました。
 昨秋の開店以来、ひたすら伝統の味をベースに新しさを求め、さらにそれに合う酒を全国各地から選りすぐってくる若いオーナーシェフへのエールを送りたいと思ったからです。
 
 料金を払う際、気づいたのですが、お酒はそれぞれ一合換算600円均一とお値打ちです。ましてやそれが、その近辺の酒屋でおいそれと手に入らない代物だとしたら余計です。

お店のまとめ
 店名/馳走和醸 すぎ(ちそうわじょう すぎ)
 住所/名古屋市丸の内1-12-23 サンエスケーイワタ丸の内1F
 国際センター駅、丸の内駅からともに徒歩5分
 名古屋駅からは徒歩15分くらいです。
 電話/052-231-1901 営業時間/18時~翌2時
 18時~21時(LO) おまかせコース5,000円
 22時~翌1時(LO) 単品500円~
  コースは要予約だと思います。
  店のキャパもそれほどありませんから、いずれにしても
  まず電話でしょうね。

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アンゲロプロスが死んでしまった!

2012-01-25 23:38:50 | 映画評論
 何たることだ!
 あのテオ・アンゲロプロスが、次回作を撮影中に交通事故でなくなってしまうなんて!
 おそらく、日本で上映されているものは全部観ている。追っかけなのだ。
 私の寝室には、彼の大作『旅芸人の記録』のポスターが貼ってある。

          

 今年は彼の新作が数年ぶりに上映されるというので嬉々として1月9日の日記にも書いたばかりなのに。
 その折、私は彼についての短い紹介を以下のように書いている。
 そしてそれを、今さらながら噛み締めている。


 重厚で緻密な映像のなかに流れる叙情、実験的な手法のなかで見えてくるリアリティ、そして特殊な地域を撮りながらもそれを越えて表出される普遍的な歴史。

       

  *今年上映される予定の作品の予告編 
   http://www.imdb.com/video/wab/vi1865941785/

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お尻ペンペンのうた

2012-01-23 00:57:34 | ポエムのようなもの
 

なんだかすべてがうまく行くような気がする

しつっこかった風邪の症状が後退し始めた
見当たらなかったメガネがソファの隙間から見つかった
おかげで世の中がまた見えるようになった

水仙の花芽をまたひとつ見つけた
鶺鴒のつがいがあでやかな曲線を波打たせて飛んでいった
天気予報に反して雪になる模様はない
百均に丁度欲しかった携帯用ノートがあった
これで、どこにどんな思想が落っこちていようがすぐ拾える

風邪のあいだ食べなかったかぶらの漬物の味がぼけてきた
出汁と醤油で煮〆たらどうにか食える
食い物を捨てないで済んだ

世の中ペシミスティックにならざるを得ないことが多い
それなのに僕はアカルイロウジンでいられる
適当に鈍感なのもいいことだ

風邪で約束を破った僕に再度チャンスが巡ってきた
「約束」に「赦し」が伴うのはとてもいいことだ

相撲取りが勝負の前に自分のおしりをペンペンするように
活動再開を前に、僕もペンペンをしている
ペンペンはエンジンの始動だろうか
ペンペンをすると・・・
なんだかすべてがうまく行くような気がする

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「人類」という虚構 吉本・大西氏の原発容認論を巡って

2012-01-21 10:45:26 | よしなしごと
 以下は、同人誌などでの先達、Oさんから頂いたお手紙、並びに同封されていた諸資料を拝読し、それへの返事として書きかけたものなのですが、そのとたんにインフルエンザA型というものにやられ、一週間を無為に過ごしてしまいました。ただし、熱にうなされながらも、し残した宿題が気になりいろいろ考えているうちに、あ~ら不思議、風邪の苦痛にまさって、ウン、あれもあったな、これもあったなと思い付くこともあり、回復してすぐにタイピングしたものです。思考や文章がふらついているとしたら風邪のせいです。インフルエンザA型の匂いが染み込んだ文章、ご笑覧ください。ただし長文ですよ。

       

 科学技術についての単線的な進歩史観、ないしそれへの崇拝は根強いものがあります。とりわけ日本人にそれをしっかり植えつけた出来事に、1945年の敗戦という事態があります。
 当時の日本の軍事技術の最高峰は戦闘機の零戦、戦艦の大和、対する米軍は各種レーダーと超高々空爆撃機B29(高度1万メートル近い高空の飛来に日本の迎撃態勢は全く手が出なかった)などなど彼我の差異は大変なものがありました。
 それに対して日本は現人神の赤子による人海戦術、B29に竹槍の精神主義、そして、最後には神風が吹き敵の上陸を阻止するというオカルティズムでもって対峙したのでした。しかしそれらも、広島、長崎での二つの閃光によってピリオドが打たれたのでした。

 こうした彼我の科学技術の差異が公然となったのはもちろん敗戦後のことですが、多くの日本人はその戦争の当否よりも先に「日本は科学力で負けた」と感じたのでした。
 その後、カルト的な政治体制は改められ、民主主義が輸入されるのですが、その裏には先に観た敗戦時の実感としての科学崇拝が張り付いていたのでした。
 ようするに戦後民主主義は同時に科学主義でもあったのです。「あ、それは科学的ではない」といった言葉がよく聞かれました。この場合、「科学的」であることは、合理的であったり、論理的であったり、先進的であったり、文化的であったり、ある場合には倫理的ですらあったのです。とりわけ左翼は「科学的」社会主義を自己の立場として固めて行きました。
 
 こうして科学技術はどの階級にも属することなく、すべからく人類の進歩に貢献する絶対的な神として君臨することとなり、その進歩史観への従属こそが常に「善」とされたのでした。
 この度、原発維持の旗色を鮮明にされた吉本隆明氏、大西巨人氏も戦後民主主義のまっただ中で、また科学主義の全面的解禁のなかで文筆を執り続けた人です。そのせいあってか、脱=原発を進歩に逆らう愚行として一笑に付しています。

 吉本氏には反原発、脱原発をを19世紀のラッダイト運動(機械打ち壊し運動)と同列に見る誤りがあると思います。
 当時の労働者たちはその機械技術そのものを問題にしたのではなく、それらの職場への導入が自分たちの職を奪うという社会的ありようを忌避したのでした。たとえそれが、機械を物神化しその打ち壊しに向かったとしても、機械導入を巡ってもたらされた労資のせめぎあいこそが問題だったのです。だからこそ、資本、労働、そして機械をめぐるいきさつが一段落した折には、ラッダイトも止まったのです。
 原発はそうした資本・労働の諸関係に関わりなく、それ自体としてすべての生命や環境に対する決定的な影響をはらんでいるゆえに単に個別階級による忌避の問題ではないのです。

 どうやら吉本氏は誤解しているようですが、脱=原発は原子エネルギーの研究を未来永劫に封印せよといっているわけではないということです。ただし、それらの研究・実験は、原発という私たちを巻き込んで人体実験に処する装置としてではなく、しかるべき研究機関で基礎的な研究として行われるべきなのです。
 しかし現行のそれは、逆に、そうした基礎的な研究機関から指摘された幾多の問題を無視して強引に推し進めてきたものであり、その結果として最悪の事態をもたらしました。
 その推進力となった要因が「金=効率」なのですが、それは後述します。

 ひとつは安全神話の崩壊というより、それ自身が実は虚構であったという事実です。
 吉本氏は、原発にはこれでもかという安全性に基づく設計(=フェイル・セーフ)がなされているといいますが、その幾重にも施されているはずのそれが結局は機能せず、今日の結果が生じているわけです。
 前にも紹介しましたが、原発の仕組みを見学した小学生と説明のおねえさんのやり取りが象徴的です。安全装置の説明に小学生が尋ねます。
 「もしそれがきかなかったらどうなるのですか」
 おねえさんは得々と説明します。
 「そんな場合のために、これが作動するようになっているのです」
 「それもまたきかなかったら」
 「あ、その場合にはさらにこれが働きます」
 「それもまたきかなかったら」
 おねえさんはここで切れます。
 「そんなことは絶対ありません!!

 決してこのおねえさんがヒステリックだったわけではありません。
 原発そのものが様々な疑問に蓋をしてまさに見切り発車をしたのです。
 「想定外」といいますが、自然は常に人の想定を裏切るものです。
 
 吉本氏には原発を継続しなければその安全性に関する技術も進歩しないとの言い分があるようすが、それは、安全性が確立するまでは人々をあたかも「動物実験」のように危険にさらすという姿勢であり、容認することはできません。そこには技術に対する手放しの「進歩史観」があります。
 また彼は、自然界にだって放射能は満ち溢れている(したがってがたがた騒ぐな)と言っていますが、それに関して宇宙飛行士の小川さんはこんなことを言っています。
 「確かに宇宙への往復には、ふだんより多くの放射能を浴びることになります。しかしまた、それを覚悟で私は宇宙へと行きたい。ただし、これは地球に住む通常の人に対して降り注いではならないものなのです
 
 もう一つ、これも繰り返されていますが、使用済み核燃料の垂れ流しです。
 これはただ、どこか地中や海中へ放置するというのみで、全く見通しが立っていません。
 未来の地球への負荷を累積しながら現状の効率(安価な?エネルギー)を求めるということが許されるかどうかです。

 いざというとき、原子炉が水素爆発を起こしたりメルトダウンするのではなく、また周辺に放射能を撒き散らすことなく、確実にブレーキを掛けることが出来る技術、その廃棄物を環境汚染なく処分したり分解したりする技術の確立、それが保証されない限り、原発は安易に適用さるべき技術とは言いがたいと思います。
 
 今一つ、世界情勢との関連で見て、北朝鮮やイランで問題になっているように、そうした原子炉は容易に核兵器の生産に結びつくということです。原発=核兵器ではありませんが、為政者の決意次第でいつでもそうなる可能性があるのです。
 そしてそれは、改憲、核武装論が頭をもたげているこの国の可能性でもあるのです。  
 


       

 大西巨人氏も吉本氏同様原発維持を表明するのですが、そのレトリックは多少違います。 
 大西氏は、原発が地震と津波をもたらしたのならともかく、そうではない限り原発を容認するというのですがそれがよくわかりません。本人はそれまでは原発反対だったがこれを機に賛成に回ったといっていますが、そこにあるねじれが余計またわかりません。
 彼は言います。
 「人類は、原発事故という不可避的な事態を経ることによって、あらたなる次元へと進みうるかもしれぬと私は考える」(原子力発電に思うこと)
 そしてその文章を次のように結んでいます。
 「(原発は人々に極めて悲惨な事態をもたらすかもしれない)しかしながら、その望ましからざる未来のありようもまた、人類にとっては必然の一局面たらざるを得ないと私は考えるのである」
 
 ようするに、起こりうる悲惨も「人類」にとっては必然だからそれに甘んじろというわけです。これを敷衍してゆけば、戦争だろうが暴力だろうが、あるいはまた貧困であろうが、「人類」にとっては必然だというわけです。したがってその必然に拝跪しろということになるのですが、氏がそうしたシニシズムに満ちたイロニーを弄ぶのは勝手なのですが、世の中には、氏や私のようにもう墓場に近い者もいれば、生まれきた者たち、これから生まれいづる者たちもいることを考えてみていただきたいものです。

 ここにも吉本氏同様の「必然的進歩史観」に併せて、「とにかくなるようになるのだから行くところまで行け」といったいささか無責任なトーンも響いてくるように聞こえます。
 
 吉本氏にしろ、大西氏にしろ、すでにして不可逆的に起こってしまっている甚大な被害の実情についての認識が机上のものにとどまり、実感として全く捉えられていないように思います。それらはせいぜい、彼らが信奉する「進歩史観」「必然史観」「効率重視史観」の実験のひとつの結果にしか過ぎないのです。
 被災者に対して、「科学の進歩、事態の改善にとってあなた方の被災は必然的に必要であったのだ」とはもちろん言えることではないし、彼らとて面と向かってそれをいう勇気はおそらくないでしょう。
 
 科学技術がある方向性をもったものとして変化し続けることはもちろんですが、それはただ単線的に「進歩」するのではなく、とりわけ技術として適用される過程においてはそれぞれジグザグの過程をたどるものです。やはり、その危険性が改めて赤裸々になった以上、一度止めるべき所では止め、改めて点検し直すことも科学技術の果たすべき重要な役割だと思います。ドイツはそれを選択しました。

 もうひとつ彼らが無視しているのは、今回の原発事故やそれ以前の安全神話の形成が、官僚主導のけっして「科学技術的」なレベルとはいえない操作のもとで行われてきて、官僚、政治家、科学者、地方自治体の首長などなどが電力資本の金の支配下で行われてきた危険な慣れ合いの結果だということです。
 この事故は、まじめにアセスメントをやってきたり、科学的データによる数値をシビアーに受け止めたにも関わらず起こってしまったのではなく、それらを金と効率化という秤で完全にネグレクトした結果として起こったのです。吉本氏のいう科学技術の進歩というのも、しょせんは効率化の追求=投下資本に対する見返りの増大に依存するものにほかなりません。
 
 こうした官僚主導の構造は極めて強固に我が国の体制に染み付いています。
 あの事故後も重大な情報隠し、とんでも御用学者による安全性の「啓蒙?」活動、電力会社と地方自治体首長との間での情報操作、ヤラセのフィクションによる「第三者」機関の結論誘導が堂々と行われてきました。
 もともとの設置段階での地元民の承認というのも、こうした官僚の脚本に沿った演出の結果もたらされたものであることも明らかになりました。重要な情報を知らせず、過疎化する地方のほっぺたを札束でたたくようにしてでっち上げられた合意だったのです。
 確かにそれは、今回の事故によって明らかになった事態ですが、そうであればこそ大西氏の事故を契機として原発推進という逆のねじれが全くわからないのです。
 
 「原子力村の幹部たちがきけば、おそらく感涙を川の水のように流したであろう」(首藤滋)というこれらの発言は、電力子飼いの御用学者よりも危険です。これら御用学者たちが「研究費」という名目で億単位の金を電力から受け取っていることは公然の秘密です。要するに、飼犬の利害に基づく発言といっていいでしょう。
 
 しかし、吉本氏や大西氏のそれはむしろイデオロギーとしての攻勢です。
 したがって、それらを単なるデマゴギーとして排除するのではなく、彼らの立脚点への批判とならなければなりません。
 結論としてまとめるならば、彼らは科学技術においての単線的な発展という進歩史観に足をすくわれ、視野狭窄に陥っているように思います。そしてその結論は、「なにごとも必然として諦めろ」なのです。

 両氏に共通して多用される言葉に「人類」があります。いわく「人類の進歩」、「人類の進む道」などなどです。
 両氏のような「思想家」にとっては、人類こそが主体なのです。
 しかし、人類というのはどこにいるのでしょう。
 街を歩いているのは人類でしょうか。
 人類などというものはほんとうはどこにもいなくて、実際にいるのはあなたや彼や彼女、そして私という個々の人間なのです。そして、人類というのはそれらの総称とし抽出された抽象概念にほかならないのです

  
 ですから両氏は、現実に生きている私たち、とりわけ自然災害と原発という人災のなかで何重もの被害を背負う人々に、どこにもいない人類という抽象物の進歩のために十字架を背負い続けろというわけです。
 
 繰り返しますが、彼らの机上にあるものは「人類」「進歩」「文明」「科学技術」といったいかにも彼らの好みそうな玩具のみで、彼らはそれを動かして「思考」しているのです。そして、そこに欠けているのは、この事故が産み出し、今も産み出しつつある不可逆的な悲惨の現実なのです。だからこそ被災民をモルモット扱いにできるのです。
 
 更には日本の原発行政が、原子力関連の科学者と技術者の連携によって行われてきたという幻想があります。しかしそれは、この間、明らかになったように、官僚と電力会社と御用学者、それに監視機関にまで金が行き渡るというおおよそ「科学技術」とは関係のない図式のなかで、三文芝居の公聴会やアセスメントで実現されてきたのです。

 脱原発が同時に官僚支配打破にも通じるというのはこれを指しています。
 それに対し吉本氏や大西氏は「どうもご苦労様でした。どうかこれからもお続けください」と言っているに等しいのです。

 もう一度問います。現に放射能が降る場所で具体的に生きている人間を捨象した「人類」、官僚指導の人災のシステムとそこで被った被災者たちの実情を見ようとしない「人類発展の必然性」というのは一体何なんでしょう
 


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薬が切れたのに治らない。

2012-01-20 00:37:37 | よしなしごと
 症状は改善されてきたが咳と血痰が止まらない。
 鼻汁に血液が混じる。
 なのにもう薬が切れた。
 明日はまた、このふらつく体を操縦してクリニックへ行かずばなるまい。
 この前だって、歩道のないバス通りをふらりゆらりと揺れながら歩いていたら、通りかかる車が徘徊老人あつかいで、遠く避けて走っていった。
 それらの車を見送りながら、自分が車を運転していてもそうするだろうと一人で苦笑していた。
 明日もまたそうなるだろう。
 21日の会合もキャンセルをした。

 こんな一週間を過ごすと健康で笑っている人たちが別世界の人のように思えるが、同時に、私なんかよりはるかにひどい病魔に苦しんでいる人もいる筈だと思うと、やはり私はこの世界の中心にいるのだと思う。なんだか変な理屈だなぁ。

 

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近況報告

2012-01-18 15:46:35 | インポート
 ピークは過ぎて回復傾向にあれど、一行タイピングしては肩で息つく有様。
 まだまだ文章化は無理。
 それに論理的思考力も・・・。


 え?それは前からですって?
 誰ですか?そんなこと言う人は?
 風邪、うつしてあげますよ!
(と、まあ。このへんまでは書けるようになりました。とはいえ体に力が入らない)

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インフルエンザ!

2012-01-16 12:24:50 | よしなしごと
 インフルエンザをこじらせて、まともな文章や長いものが書けません。
 今週いっぱいは安静だそうです。
 事情ご賢察の上、よろしくご了承ください。

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どこで拾ったのでしょう? この風邪・・・

2012-01-13 14:43:29 | よしなしごと
 貧乏性ですから落ちているものは何でも拾ってしまいます。
 ついに風邪を拾ってしまいました。
 昨夜から喉に痛みを覚え、これはと思い、予めクリニックでもらってあった風邪薬を服用しました。
 これでけさは快適に目覚めるはずだったのです。
 
 しかしそうはならず、頭痛や微熱すら伴っています。
 とりあえず、14日、15日の予定はキャンセルしました。

 どこで拾ったのでしょうか。
 昨日の行動のおさらいです。
 新装なった岐阜県立美術館へ行きました。

       
 
 <企画展・1>「岐阜135」を観ました。
 美濃と飛騨が合併して岐阜県が生まれて135年になるのを記念し、その歴史と並行しながら岐阜ゆかりの美術家の作品を見せるという面白い企画でした。

 山本芳翠の「浦島」は何度も観ていますがやはり圧巻です。
 川合玉堂や前田青邨も私の好きな画家です。
 それに熊谷守一。
 加藤東一・栄三兄弟の岐阜を描いた作品の数々も。
 それらを堪能しました。
 なかには、私が知らない作家のはっとするような作品もありました。

       

 <企画・2>「三幕の物語・1」も観ました。
 これは岐阜県大垣市に本社がある西濃運輸の創業者・田口氏一族のコレクションと、建築家、安藤忠雄のコレクションを展示したものでした。
 田口氏といえば郷土の富豪ですから、伝統的な作品が集めれれているのかとおもいきや、一部を除いてはほとんど新しい作品でした。
 どの作品がどちらの提供かは詳しく覚えていませんが、荒川修作のものがとても多く(ン十点)、単発の作品は観たことがあっても、その個展を観たことがない私には思わぬ出会いでした。
 こうして何点もが一堂に並べられると、彼の意志のようなものが伝わってくるかのようです。

       

 この頃にもう気配はあったのです。
 とても気だるい感じがありました。
 しかし、二つも展示を観たのだから疲れたのだろうと思っていました。

 帰りに、スーパーへ寄りました。
 屋上の駐車場から見る暮なぞむ岐阜の街は先ほど観てきた作品に劣らず綺麗でした。
 夕日をよぎるようにして薄れ行く飛行機雲も素敵でした。
 そんなものを写真に収めているうちにブルブルっと身震いが襲いました。

 さて、私はどこで風邪を拾ったのでしょう。
 もっとも疑わしい犯人はわが娘です。
 昨日から風邪で仕事を休んでいるのですから・・・。

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