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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

映画『PLAN 75』と老人たち むろん私を含む・・・・。

2022-06-30 14:30:02 | 映画評論
 『PLAN 75』は、75歳以上に達し、どうしても生きづらくなった人たちを、国家が「懇切丁寧に」フォローしながら、安楽死へと導いてくれる法案が成立した後の世界を描いている。いわば「合法的姥捨山」であり、若い人たちにとっては、幾分ディストピア的なSFの世界と映るかもしれない。

          

 しかし、2025年には75歳以上が人口の五分の一以上を占めることが確実で、しかもその75歳を上回ること10年近い私の世代には極めてリアルな問題なのだ。なぜリアルかというと、もし、この制度が今日実現したとしたら、それに呼応するかもしれない何人かの人たちを知っているし、かくいう私だって、然るべき条件下では応募する可能性はゼロとはいえないからだ。

 私自身の経験からしても、受け取る年金額は十数年前から一万円近くダウンし、月80,000円ほどだ。しかし一方、物価はどんどん上がり続けている。もちろんこれは私のみの例ではなく、年金生活者の一般的な情況である。

      

 この映画においても、「PLAN 75」登録者になる前の老人たちは、そしてそれを取り巻く現実は至って厳しい。倍賞千恵子が演じる角谷ミチ(78歳。賠償さん自身は81歳)は夫に先立たれながらも、ホテルの清掃従業員として働いている。しかし、映像で示唆される同僚の老女の仕事中の事故をもって、その職を追われる。作業中に従業員が死亡するなどという話題が拡散することをホテルが嫌ったのだろう。

      

 ミチは、収入源に見合ったアパートへの転居を決意するが、アパートの家主や不動産業者は高齢者の入居を忌避する。入りたければ、何年か分の家賃を前払いせよなどと迫る。高齢者の孤独死の舞台となることを嫌うからだ。
 ハローワークでの職探しの過程を含めて、自助のための努力は八方塞がりで、しかも、本人の尊厳をも傷つけられることが多い。ようするに老人が、いまここでこうしていることすらが困難な状況がある。
 こうした出口のない現実がミチをも登録者へと誘うことになる。

      

 この制度では、至れり尽くせりのフォローがなされる。もちろん、一度登録したからといっても、いつでも引き返すことが保証されているし、登録者たちには若いフォロアーが時折の話題の相手になってもくれる。ここには「福祉の極地」があるかのようだ。

 登場する若い世代も、無批判にこの制度の進行役を演じているばかりではない。
 この制度の勧誘や登録を業務としているヒロミ(磯村勇斗)は、長年行方不明になってた自分の叔父がこの制度に応募してきたのを知り、その最後まで付き合うこととなる。

      

 「その日」が来るまで、志願老人の相手をするコールセンターの瑤子(河合優美)もその名前の通り、まさに揺れている。フィリッピンから出稼ぎに来た子持ちのマリアは、子供の病の支払いにとより高額の収入が得られる「政府関係」の仕事に就く。それは安楽死させたひとの遺品をまるでごみの分別のように整理する仕事であった。

 これら登場人物がラストでさまざまに絡む。
 それは書くまい。実際の映画で確認されたい。

      

 繰り返すが、この『PLAN 75』で示される国家の対応は至れり尽くせりであり、福祉国家の極限でもあるかのようだ。
 
 しかし、私の想念にはある事件の記憶が蘇る。入居者の19人が刺殺された、津久井やまゆり園の襲撃事件だ。その事件で逮捕された植松死刑囚は曰く、「重度の障害者は生きてる価値はない。むしろ健常者にとって負担であるに過ぎない」。その「弊害」を取り除くべく、彼の手によって大量の殺害は実施された。

           

 一見この事件と、映画『PLAN 75』が描く高齢者への「手厚い」処遇は対極にあるかのようだ。しかしだ、障害者や老齢者の生存理由は次第に希薄になるのであり、つまるところ、商品価値を産み出すことへの寄与こそが人のあるべき姿、労働力商品こそが人間の存在理由だという論理は、そうではなくなったひとたちを公の措置として「丁重に」安楽死させようが、植松被告のように「荒々しい」の暴力で刺殺しようが、まったく変わらない論理ではないだろうか。
 この映画が、「仮の」姿としてえぐり出す国家の「不要者抹殺」の姿は、決してありえないものではないし、むしろ、しっかり目を見開いて観るならば、あらゆる国家はそうした論理をその度合いはともかく、隠然、公然と背景に持っているのだ。「福祉」という名の管理において。

 実年齢をメイクなどで隠すことなく、その老いを演じきった倍賞千恵子さんと、初長編という脚本・監督の早川千絵さんに、さらなる表現の可能性を期待したい。
 
 私に関するならば、安楽死よりも野垂れ死にこそがふさわしいと思っている。エロスという生の衝動を道連れに、「ここにいる老人」として、くたばるまであがき続けるという意味においてだ。


 

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ズッキーニ

2022-06-27 13:57:00 | よしなしごと
 長年飲食店をやってきたが、和風の居酒屋だったため、西洋野菜には慣れていない。
 それに、私が現役の二〇年前には西洋野菜は一部の好事家はともかく、さほど普及はしていなかった。スナップえんどうが珍しかった頃だ。西洋野菜ではないが、かいわれ大根が出回り、それを一株、皿に盛り、おかかを乗せただけのものが結構売れたりした。

      

 先般、農協で手に入れたズッキーニ、ビール瓶ほどの大きさで70円というのでホイホイと買ってきたが、買った以上食べねばならぬ。しかし、一人で食らうには大きすぎる、そこで三分の一を使い、まだらに皮を剥いて、縦に二分し、それを薄めに半月に切って豚コマと炒めることにした。

      

 味付けは、薄口醤油、味醂、オイスターソース、タバスコ、コショウなどまったく我流。でもそこそこ美味しかった。火が通りやすいのでそんなにしゃかりきに炒めすぎないほうが適度な歯ざわりや風味もあって美味しい。

      

 結局、夕餉はこれと、キュウリとチクワの細切りの柚子胡椒和え、それにこの前頂いた魚のカマなどのあら煮ということに。
 まあ、それなりのバランスもいいようで・・・・。

 

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今年の6月22日と23日は特別?

2022-06-24 18:13:51 | よしなしごと
 毎年、6月22日と23日はやってくる。
 ただし今年のその日々は、私にとっては今までとは違ったのかもしれない。

 そのひとつは、5月中旬以降、思い立って白内障の手術を行ったことだ。6月1日に右目を、8日に左目を。手術そのものは大したことはなかったが、いわゆる白いカビ状のものが固くてしつこかったので、普通より時間がかかりましたとのことだった。

 その後は、術後の安定を維持し、その効果を安定させるためにさまざまな制限が課されていた。そして、それらの制限が解除されるのが22日だった。指定されたゴーグルにマスクという老月光仮面の出で立ちもこれで終了だ。
 もちろん全てが自由になるわけではない。白カビをとり、目の中に入れたレンズが安定するまで、眼球への圧力は禁止されているし、4種類の目薬の指し分けも継続である。

 そんな22日の午後、嬉しい電話が。釣り名人で、乗り鉄で、「薬師」(「徒然草」でいうところの「医師」)のYさんが、今日釣った日本海の朝獲れの魚をおすそ分け下さるとのことなのだ。
 やがて、Yさんが到着、「篠島のリベンジに!」とのコメント付きで釣果の一部をいただく。

 篠島のリベンジ! そう、先週は急に思いたち、三河湾に浮かぶ篠島を訪れたものの、事前の準備不足と行き違いで、鮮魚にありつけず、ウドンいっぱいで退散せざるを得なかった。それを嘆いた拙ブログを、Yさんも読んでいてくれたのだ。

      

 ハマチ(50センチ)とイサキ(40センチ)の二尾をいただく。とりわけイサキの方は、この辺のスーパーの魚売り場でも出るものの、せいぜい20センチ超えどまりだからこの大きさはすごい。おまけにこのイサキ、まるで臨月のように腹が膨らんでいる。これは真子だなと思ったら、まさにそうだった。

 久々に出刃と柳刃を出し、とりあえずハマチを三枚におろし、カマの部分などあら煮にできそうな部分を残す。ついでイサキ。やはり立派な真子をもっていた。これはあら煮とは別にさっぱりとした煮付けにするつもり。

     

 とりあえずは、今宵の刺し身として、ハマチ少々とイサキを切り分ける。
 合わせる酒は、菊水の辛口純米酒。
 ん、ん、これぞまさしく篠島のリベンジ。帰りの船の便や電車の時間など気にすることなくゆったりと味わい、飲める。
 Yさん、ありがとう。

      

 明けて23日、沖縄の戦没者慰霊祭の日。
 なぜ23日なのか。それは4月から続く沖縄戦での、「組織的抵抗が終了した日」なのだ。これがまた日本らしいのだ。東條の「戦陣訓八」が縛っていた日本軍には、どんなに劣勢になっても降伏ということはありえず、それを民間人にまで強要したため、県民の四分の一が生命を失う惨事となった。
 6月23日は、牛島満中将(死して後大将に)が自決し、組織としての抵抗が終わったと認定される日なのである。いわばズルズルベッタリの敗戦なのだ。

 19年秋、沖縄を訪れた折を思い出す。
 沖縄の友人に案内してもらったチビチリガマは、読谷村波平にある鍾乳洞で、そこへ避難した139名のうち、元日本兵の降伏を認めない示唆により、80人以上が自決をして果てたという。すぐ近くのガマでは、降伏をしたため全員が助かったのに。

         
 「慰霊の日」の儀式は、NHKで一部中継していたが、その舞台の沖縄戦終焉の地、糸満市摩文仁(まぶに)の丘に広がる沖縄平和祈念公園では、平和の灯を取り囲むように扇形に配置された黒御影石には、沖縄戦で失われた人たちの姓名二十数万人分が刻まれている。沖縄の人たちはもちろん、日本軍の兵士たち、それと戦ったアメリカ軍の兵士たち、軍属などとしてこの地で生命を失った朝鮮半島出身の人々などの名も刻まれている。

      

      

      

      

 今年の「慰霊の日」では、小学2年生の徳元穂菜さんの詩が朗読された。これまでは中高生などが多く、幾分論理的だったが、穂菜さんの詩は感性的で、タイトルは「こわいをしって へいわがわかった」だった。

          

 
 これはよく分かる。敗戦時、国民学校一年生だった私は、B29の轟音のもと、防空壕の中で雨あられと降る焼夷弾や爆弾の恐怖にうち震え、敗戦によってもう防空壕に逃げ込まなくても良いことを知ったとき、「平和」を実感したからだ。 
 
 昼食はこの前、半額でゲットした平打ちの生パスタ。具はピーマンと昨日いただいたイサキをソティにしたもの。ソースはマヨネーズに酢、オリーブオイル、すりゴマなどを加えアクセントにカレー粉を少々。カレー粉を加えたのは、イサキの重みに負けない刺激をパスタ側にも求めたため(なんて書くと一流シェフみたい)。取り合わせはわかめと豆腐のお吸い物と私流に。

      

 午後、電話で予約した上で床屋へ行く。いつも行く聾唖の人がやっている店だ。ここが気に入っていて、もう10年近く前、ここが開店して以来、ここ以外へ行ったことはない。
 ただし、今回は、白内障の術後の関係で医師からの注意事項が継続している。それをA5版の用紙に書いて持参し、彼に見せる。彼は一通り読んで、親指と人差指でOKマークを作って私に微笑みかける。

         

 そしてそのようにしてくれた。いつもに比べ、私の目やその周辺に気遣ってくれるのがよく分かる。終了して、私は大きく口を開いて「アリガトウ」といった。彼は、満面の笑みを浮かべて「いやいやどういたしまして」とばかり手を振った。
 私は、行ける限り、床屋はこの店にするつもりだ。

 

 

 

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最近の瞳孔、もとい動向から・・・・(老いの絵日記)。

2022-06-21 11:41:03 | 写真とおしゃべり

       

       

6月19日
 いささか遅い衣替え。ついでにシーツの交換も。何やかやで三回洗濯をした。ウール以外のものは全部自分で洗う。乾したり、取り込んだり、必要なものにアイロンがけをしたり。長袖をほぼ片付け、半袖やTシャツ、夏用のズボンなどを寝室兼着替え室に移す。さあ、夏よ、いざ参れ。(チカレタビー。フ〜ッ・・・・)

 夕餉の酒肴がうまかった。幸せな「副作用」。

       

6月21日
 今日のおんさい朝市(農協朝市)。「おんさい」は岐阜地区の方便で「いらっしゃい」とか「よく来たね」の意味。
 今日は、13種類14品をゲット。
 これで一週間分の野菜はまかなえる。
 この値段、農協サマサマだ!
 
ジャガイモ小粒 よく洗って皮ごと素揚げにして煮汁に絡ませるオランダ煮がうまい ピーマン5個 100円 ズッキーニ大 70円 サニーレタス 80円 トマト中2個150円 *曲がったキュウリ5本 100円 *トウモロコシ(やや小)2本 200円 ナス3本 120円 十六ササゲ 1束 100円 インゲン 100円 モロコインゲン 130円 オクラ 100円 小松菜 2束(葉物が少なかったので2束に 茎が細く柔らかくて食べやすい)100円✕2=200円   合計 1,550
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不定愁訴からの脱出 篠島一人旅 終章

2022-06-18 00:18:06 | 旅行
 前回は、篠島をそぞろ歩きし、島を貫く山脈の尾根を越えて港へ戻ろうとして、その急峻な坂と階段の連続に、行く手を危ぶみ、逡巡するところまでを書いた。
 今回はその続きだが、その前に前回、書き忘れたことを書いておこう。

 河和から船に乗り、ひたすら知多半島に沿って南下して島々へ至るのだが、ふと「知○半島をめぐる船での事故」を思い出してしまった。そう、あれは知床半島、今も行方がわからない人たちがいる。こちらは知多半島、どんよりと重い雲だが波は穏やかだった。

 さて、急峻な登りで逡巡する私に戻ろう。
 人は迷った時どうするのだろう。慎重な人は立ち止まってじっくり考えたり、分岐点に戻って判断をし直したりするのだろう。あいにく、慎重さを欠いた私にその能力はない。エイヤッと自分の判断を貫くのみだ。会社を辞めるときも、居酒屋を閉店するときもそうだった。おかげで、惜しまれながら去るという余録にあずかることができた。
 死ぬときもそうであれば御の字だが、まあ、そうは行くまい。野垂れ死には覚悟の上だ。

 あれあれ、へんに脱線しちゃった。
 この急峻な坂や階段の連続を前にしての私の決断は、「行くしかないっしょ」だった。亀のようなスピードで、階段を登る。道は真っ直ぐではない。しばらく登って突き当り付近で尾根に出られるかなぁと思ったりするが、事実はそれほど甘くはない。登りは左右にコースを変えながら続く。

 ゆっくり歩くから、出会いも多い。生後間もない仔猫にも出会った。これ、意外と近くで撮っている。いくぶん怯え、すぐ逃げられる体勢をとりながらも、私がシャッターを押すまではじっとしていてくれた。近くにもう一匹いたが、これは草のなかに隠れるようにしていた。

      
 
      

 さらに登って振り返ると、オオッ、眺望が開けて海が見えるではないか。尾根は近いのか。しかし、事態はそれほど甘くはない。それからしばらく登って、やっと尾根を走る道に出る。とはいえ、その尾根の道は決して平坦ではなく、今までほど急ではないとはいえ、それでも登りなのだ。

          
         

 しばらく行くと、やっと登りが終わる。今度は港の方へ降りる道を探しながらの行程だ。せっかちな私は、これかなと下ってゆくと個人の住まいで突き当たりだったり、神社仏閣の施設であったりする。
 無駄な体力の消耗つづき。しばらく行くと、尾根道の脇の小さな畑で、ペットボトルから水やり作業をしている女性を見かける。浜から登りはじめて以来、仔猫以外ではじめて出会う生き物だ(失礼)。

 港方面へ下る道を尋ねる。「あ、それならすぐそこ」と指さされたのはなんとこの畑の筋向かい、確かに下へ降りる道がついている。しばらく行くと緩やかな階段になり、降りるのもとても楽だ。ただしもう疲れきっているので、軽快な足運びとはいかぬ。 階段が終わり緩やかな下り坂となる。これは楽だ。
 
           
 空き地に、2メートルを遥かに超えるようなシシウドが生えていた。斜面に沿って吹き上がる海風に、頭をゆらゆらさせている。


 しばらく行くと、眼下に緑色の屋根葺の立派な寺院が現れる。おそらく知多八十八箇所聖地巡りの寺のうちのひとつではなかろうか。赤い幟がそんな風情だ。

      

 そして、船溜まりの一角が見えてきた。道はついに平地へ。曲がりくねって天にまで達するようなあの急な階段を前にして、しばし、怯え、佇んだのが随分前のように思える。

      

 船溜まり脇の道を進む。
 荒れた空き地の一角に立派なユリの群落が。
 ランドセルを背負った子が通りかかる。今日はウィークディなのを改めて知る。
 擦れ合うぐらいで通りかかった窓から吊るされた布袋のなか、ぬいぐるみが入ってるとばかり思いカメラを鼻先まで近づけたら、ウ~と小さく唸られた。生きてる!ちゃんと写真は撮らせてくれた。

      

      

      

 さてこれで、島を約半周巡り、南側ビーチで地元の女性たちと触れ合い、昔ながらの漁師道を辿り、山の尾根の道にいたり、港の方へ降りるという当初から思い描いていたコースを踏破したいま、目指すは唯一つ、海なし県・岐阜では絶対に味わえない地の魚を味わうこと。

 浜で二人組から教えてもらった二軒のお店を疲れた足を引きずり、探しに歩く。
 その途中で、山頭火の句碑を見かける。8句が刻まれている。句に描かれた情景からしてどうやら春にこの島を訪れたようだ。

      

 一軒目、閉まっている。現在3時半頃。あの女性たちが、あそこはラストオーダーが早いからと言っていたのを思い出す。もう一軒については、「あそこは遅くまでやっているから」と言っていたので、それを頼りにそこへ。

 やっていた!
 女性が顔を出し、「4時閉店ですがいいですか?」
 ウ、ウ、もう30分もない。「なにかお造りはできますか?」
 女性は引っ込み、「刺し身ってできる?」と板場に訊いている。
 「すみません。お刺し身はもうできません」
 もうひと粘りする。
 「どこかこのへんで、お宅と同じように魚料理を出されるところはありませんか」
 「さあ、この時間はみんな閉まってますよ。うちが一番遅いくらいですから。あ、そうそう、船着き場の中の売店ならまだなにかできるかも・・・・」 

 ガ~ン。「絶望!」と書かれた垂れ幕が目の前にドサッと落ちてくる。
 船着き場の食堂って、着いたときにウドンを食べたセルフサービスの店じゃん。

      

 トボトボと港へたどり着く。その過程で、スマホで当たってみたことがある。船が着く河和港の近く、名鉄の河和駅周辺の飲食店だ。
 ヒット!駅のすぐ近くにお寿司屋がある。しかも結構しっかりした店のようだ。よし、ここに賭けよう!
 
 帰途の船を待つ。この時間夕刻とあってか船の便はかなりあるのだが、師崎行きなどが多く、河和行きは40分ほどまたねばならない。
 その間、師崎と行き来しているフェリーボートの車の乗降作業などを観て過ごす。走っているのを見かけた郵便車なども本土の方から来て夕刻には帰ってゆくのだ。歩いてきた尾根へ出る道のとくに階段部分は、郵便車もバイクも入れないから、やはり徒歩での集配作業なのだろうなとその労苦を偲ぶ。

      

      

 やっと河和行きの船が来た。終わりよければ全てよしの逆だったから、島を懐かしく振り返る元気もない。曇り空の太陽が、船のマストと並行して落ち始めてる。

      

 河和港着、無料送迎バスで河和駅まで。
 チェックしておいた寿司屋を目で追いかける。あった!駅の真ん前。ここなら安心して飲食ができそうだ。やった~!

 ん?しかし気になる点が・・・・。もう5時を回っているのに看板に灯が入っていない?ん?ん? 店頭まで来てみる。何やら張り紙が・・・・。
 「本日、都合により臨時休業といたします」
 が~ん、が~ん、が~ンの30乗だ! 何タルチア、惨タルチア!
 定休日なら致し方ないと諦めもつく。しかし、よりによって「臨時休業」とは・・・・。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」

 疲れ切った足を引きずって河和の街を飲食店探しに徘徊する元気はもうない。
 岐阜へ帰るしかない。

      

 鵜沼行急行に。神宮前で岐阜行特急に乗り換え、一路帰途へ。神宮前付近から名古屋までは名鉄とJRが並走している。
 上は私が乗る岐阜行特急と左はJR岐阜方面行。
 下は、岐阜に着いた電車。折返し豊橋行特急になる。

        

           

 岐阜へ着く。駅近くの安い寿司屋で、造り二品ほど、白魚の磯辺揚げなどを酒二本のアテとして食らう。篠島のことは思い出さないことにしよう。
 結局、篠島で使ったお金はウドン代の500円のみ。私に魚を食わせてくれたら、島ももっと潤ったのに・・・・って引かれ者の小唄か。嗚呼!

      
       浜辺で拾ったヒトデと貝殻(ウチムラサキ=大アサリのもの)

 歩数計は2万歩を指していた。しかもあの急峻な登りを含んだ2万歩だ。ただし、思ったほどの疲れはない。ただ、そこはかとない悔しさが残った旅だった。
 これはもはや不定愁訴ではない。ちゃんと対象をもった愁訴だ。
 「旨い魚で一杯やりたかった~~~~~~~~」 

コメント (5)
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老人性不定愁訴からの脱出 篠島一人旅へ

2022-06-16 01:57:42 | フォトエッセイ

 なんか不安感がある。何がそうさせているのかはわからない。老人性不定愁訴のようなものだ。
 こういうときは思い切って周辺環境を変えたほうが良い。白内障の手術やその予後の病院通いなどでけっこうスケジュールが混んでいるなか、たまたま予定がなにもない日があったので、そこで、エイヤッと思い切って日帰りの一人旅へ。

 そうだ、ここ2,3年海をまったく見てない。海の見えるところ、そう、離島が良い。岐阜から日帰りで行ける島といったら、日間賀島、篠島、佐久島の三河湾内の三島ぐらいか。

 日間賀島はここ10年以内に近所の人たちと行っているし、その前にも行ってなんとなく状況もわかる。佐久島と篠島はここ半世紀ほど行ったことがない。で、両方のうち、篠島のほうが岐阜から河和経由でかんたんに行けそうだ。

 で、篠島へ。行きの電車の時刻表だけネットで調べ、あとは行きあたりばったりの出たとこ勝負と腹をくくる。

 岐阜は晴れだったが、河和へ着いたら曇り。この日、結局は曇りで終始。
 以下、河和からの行路を絵日記風にかんたんに記す。

 まずは河和港で。

         
      フォト

 乗船した船、「はやぶさ」の出航まで。


      

       

          

 最初の寄港地は日間賀島西港。けっこう賑やかだ。
      


 ついで日間賀島東港へ寄るのだが、その途中、私の目的地篠島が右舷に見える。

      

 東港は、西港に比べれば静かだ。ただし、この東には私が知ってるホテル(というかかつての民宿)が、そして一度っきりのところも含めれば三軒ほどある。
 写真は東港を護るテトラポット。

      

 篠島へ到着。大きな鯛がお出迎え。これはTVなどでは観ているが半世紀前にはなかったと思う。そういえば、港の様子もまったく違っていて方向感覚もままならない。
 それもそのはず、後で聞いたら港の位置そのものが前とは随分離れた所へ移転しているそうなのだ。
      

 着いたのが昼ごろだったので、これからの歩きに備えて港の建物内にある軽食スタンドで軽くウドンなど食べる。島へ来てウドンとは芸がなさすぎだと思うことなかれ。これはあくまでも中食で、帰り際には海の幸を存分に味わうつもり。
 港の奥まったところは大きな漁港というか船溜まりというか、実に多くの漁船が係留されている。それらが、波につれて小さく揺らめくさまはまさに漁港ならではのもの。鼻孔を満たすのはもちろん潮の香。   
      

 漁師さんに教えてもらった道を辿り、島の南にある砂浜を目指す。そこは半世紀前、家族連れで来た際、海水浴をした浜だ。
 その途中、こんな飾り物をした家を通りかかる。下のタヌキがちゃんと上を見つめているのが味噌だ。

         
      

 やがて、島の東部を弧を描いて回るような広い道に出る。半世紀前にはまったくなかった道路だ。その道なりにゆくと、東側に海を隔てて渥美半島の先端、伊良湖岬が見える。晴れていたらもっとくっきり見えるのにと残念。
          

 テトラポットの間に、この道路ができる前の自然海岸の痕跡、岩礁が見える。なんだかホッとする。

      

 やがて、目指す砂浜が見えてくる。この光景は、建物などは随分変わったのだろうが、どこか半世紀前の情景と重なる。

      

 砂浜の側から振り返る。テトラポットの上が、私が歩いてきた道。

      

 ム、ム。これはなんだ。なんかの拍子に塗料がこぼれた?それとも人為的な「アート」?

          

 この砂浜を歩いている間に地元の三人の女性と話をする。いずれも70代か。
 まず最初は一人。ぽつんと一人で佇んでいるので、黙って通り過ぎるのも悪いと思い、「コンニチワ」と声をかけて通り抜けようとすると、「あんた、どこから来たん」と問われ、正直に岐阜からと答え、ついでにこの島は半世紀ぶりだというと、「それはよく来た」とばかりに島の説明を始めえる。
 ここは日間賀島とは地質的にも随分違って岩も硬い。だから加藤清正が名古屋城の築城にこの島から石を運んだ。そして、この眼の前の砂浜の砂の質も、日間賀とはぜんぜん違う。いま大河でやってる源氏の歴史とも関係がある。伊勢神宮の遷宮後の材木が支給され、それに従って造営する神社はここだけで日間賀島にはないといったことなど、とにかくその一つ一つに日間賀の比較がまるで党派闘争のようについてまわるのだ。
 私も知っているが、半世紀前はこの島は日間賀よりも隆盛を誇っていた。しかし、今は、私がまさに今日、この目で見てきたように、日間賀の方が遥かに賑やかで、この島に降り立った観光客は少ない。それが彼女には悔しくてたまらないのだろう。しかし、観光以外にこの島の長所もあるに違いない。
 日間賀の悪口続出に、ロシアとウクライナのような薄ら寒さを覚えた私は、話の継ぎ目を見計らって、それではこれでと、その場を辞した。

 写真は、海岸通りでみかけたアートっぽい風景。

      

 次に出会ったのが護岸堤防付近で賑やかに話しながら、ビールを傾けている二人連れ。黙って会釈だけして通り過ぎようとしたら、「あんた、一人かい?」を尋ねられた。「ハイ」と答えると、「ワシらも天涯孤独、独身じゃ」とのこと。聞けば二人共10年以上の独り身だという。
 身の上話に引きずり込まれても困るので、こちらの必要な情報を訊こうと思って、「これから後ろの尾根を超えて、港の方へ戻り、活きのいい地の魚でも食べたいのだが、いい店があったら教えて下さい」と頼む。
 二人で、いろいろ相談していたが、二軒の候補を挙げてくれる。そのうち一軒は三時頃に終わるかもしれないがもう一軒はずーっとやっていると保証してくれた。
 そのうち、一人に電話がかかってきて、何やら激しい口論が始まる。もう一人が、「あんた誰と話して怒っとるんや」と訊くと、「〇〇や」と怒りの表情が治まらない。
 ここが潮時と失礼する。

          
          フォト

 さらに砂浜沿いに歩き、背後の山の尾根にある背骨のような道路に続きそうな漁師町特有の狭い道路を歩き始める。はじめ緩やかだった坂がだんだん急になり、ついには、どこまで続くかわからない階段になっていしまった。
 ウ、この老脚で登ることができるかどうか自信が揺らぐが、もうかなり登ってきたし、これを諦めるとしたら、浜まで降りて、やってきた道を戻るしかない。
 さあ、どうしようか。

          

 ずいぶん長くなった。続きはまたにしよう。




 

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水無月半ばの絵日記帳から

2022-06-12 11:39:20 | 写真とおしゃべり

三角(右)やっと田植えが始まった。建物やバス通りに囲まれて残った田。それでも、あるだけで心和らぐ。

 

      


三角(右)紫陽花が盛りを過ぎようとしている。この花が次を追いかけている。なんだかわかりますか?この花とかけて、小泉今日子ととく。そのココロは「ナンテンたってアーイドル~」なんちゃって・・・・(寒~いジジイギャグ)。 ピントが甘いじゃん!


     
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昼餉二題 冷やしソバ 中華&和風

2022-06-10 14:33:56 | よしなしごと


《その1》白内障手術後の眼帯がとれたので、我流冷やし中華を(なんの関係があるんじゃ)。湯がいた中華乾麺(ストレート)をよく冷やし、その上にレタスの千切り、モヤシ、キュウリの塩揉み、動物性たんぱく質はたまたま在庫の赤ウィンナー。この赤ウィンナー、名古屋の喫茶店で出すナポリタンの必須アイテム。懐かしいので時々買う。
 出汁は、醤油、味醂、砂糖、酢、ゴマ油、ラー油などを適宜に。
 具が盛りだくさんすぎた。



《その2》後に手術した左目の方はまだぼんやりしているが、先に済ませた方は明らかにこれまでより良く見える。そこで(なんでそこでじゃ?)今度は変わり冷やしソバ(日本蕎麦)。
 具は昨夜の天ぷらの残り。稚鮎数尾、人参、ブロッコリ―など。冷えたソバの上にレタスの千切りを敷き、その上に天ぷら、そして薬味類(葱小口切り、大葉千切り、刻み海苔)を乗せる。
 出汁はやはり天つゆのあまりにいろいろ加えてそばつゆよりやや薄めのものをかけた。

 

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左目の映像には赤色が輝いていた・・・・白内障手術第二段

2022-06-08 16:47:54 | よしなしごと
 白内障の手術、この1日に右目を施術したが、今日8日は左目の施術。
 先般はその術中に目に映じた画像や印象などを報告したが、その右目の場合と今回の左目の場合はどう違い、どう同じなのかが 自分でも興味があった。
 
 最初に現れた白い目が2つと口というように解釈できる映像は、右の場合とほぼ一緒であった。ということは、この映像は私の目のほうにあるものではなく、手術の 装置のほうにある何かが私の目に映じているということなのだろう。
 その後の展開は右目の場合とよく似ていて、色が流れ、拡散し、あるいはその形状がさまざまに変わり、その明るさを増したり減じたりで壊れた万華鏡のようにさまざまであった。

          

 だから、基本的には右目の場合と大差はないのだが、ひとつだけ気づいた点がある。それは右目の場合にはとくに特定の色合いをが強調されていたわけではなかったが、左目の場合には基本的には暖色系が、とりわけ赤色が鮮やかであったことである。最初に広がったのも、手術の終盤にしばらく安定して見えたのも鮮やかな赤い色であった。

 もちろん、なぜそうなのかはわからない。強いて心当たりを言えば、私は若い頃、いわゆる左翼に属していたから、左の象徴、赤が目立ったのかもしれない。なんてこじつけも著しいところだが・・・・。
 
 とりあえず、手術は無事終了したことを報告しておきたい。

 

 

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黄緑色の田んぼ 田植えの時期がやってきた

2022-06-05 11:39:54 | よしなしごと
 これまでも書いてきたが、岐阜の県産米が「ハツシモ」と名付けられているように、狩り入れが霜の降りる頃といういわゆる遅場米に属するため、田植えも遅い。
 ついでながら、「ハツシモ」は米粒が大きく、食感も明確で、寿司米などにも好適だといわれる。もちろん私も、それを食している。

          

 先週末、やっと田に水が入った。早いところで今日ぐらいから、遅いところでは今月中頃ぐらいの田植えになる。

          

 ところで、これまでも何度も目撃しているのだが、田に水が入った途端、その水面がきれいな黄緑色に彩られるのだ。
 田んぼの土はもともと黒っぽいし、引かれる水は揚水ポンプで組み上げられる地下水で無色透明である。

          

 ではこの鮮やかな緑色はどこから来るのだろうか。土のなかに潜んでいた微生物が、水と反応してこの色を醸し出すのだろうか。

          

 そこで、ネットで調べてみた。
 「元肥が施してあるためです 肥料をもらって富栄養化状態にあります 植物性プランクトンが大量発生してアオコのような状態になります 肥花(コエバナ)などと呼ぶ地域もあり田んぼにとっては良い状態らしいです」
 とあった。

          

 なるほどと思った。ところで、この予め施してある「肥料」とはなんだろうか。
 そこで追及の手を停めた。あまり詳しく追求してゆくと、そこらの米は食べられなくなるかもしれないとの恐怖も。

 

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