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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私にオケを生で最初に聴かせてくれた人 近衛秀麿

2017-07-31 15:43:34 | 音楽を聴く
 振り返ってみても私が受けた音楽教育の歴史は極めて乏しい。
 生まれた時期も悪かった。完全に戦時体制に突入していた1938年、生母に先立たれた私は養子に出されたのだが(実父はその後、悪名高いインパール作戦で戦死)、養父が戦争に取られ、都市部が空爆にさらされるに至って、大垣郊外の片田舎に疎開することとなった。
 そんなこともあって、私は幼稚園などというところへも行ったことがない。絵本でみたことはあったが、特殊なお金持ちが行くところだとばかり思っていた。

 45年に国民学校へ入学するのだが、そこでの音楽教育についてはほとんど記憶がない。
 教室の前にオルガンがあって、みんなで斉唱をするのみだった。
 戦争が終わっても、猛烈な物資不足は続いた。
 小学校も高学年になると、音楽表現も授業の一環となったが、なにせ楽器がない。
 ハーモニカだってクラスに一本か二本で、それを順に回し吹きをするのだ。自分の前の子が、青鼻を垂らしていたりすることもあった。
 ほかには木琴。これもクラスに一台で、前の教壇にあるものを一人ずつ出ていって交代で叩くのだ。
 これで興味をもったとしても、自分専用の楽器が買えるような状況ではなかった。

          

 音楽を受容する教育については小学校の折には経験がない。
 中学校になってやっとあったような気がするが、音楽室で音楽専用の教師が名曲のさわりをピアノで弾くぐらいで、オーケストラの作品になると、手回しの蓄音機で、いわゆるSPレコードによる細切れのものを聴くのみであった。その音質も、針の音が聞こえるようなひどいものであった。

 そんな私に、ナマのオケを聴く機会が巡ってきたのは、確か1952年、私が中2のときであった。その頃、疎開地から岐阜へ戻っいた私は、学校からの動員で当時の岐阜市の公会堂(現在は取り壊されて市民会館ができているが、これもまた改築されるという)へと駆り出されたのであった。
 その頃は、時折、学外の映画館などでの鑑賞の授業があったりしたので、その一貫ぐらいだろうということでさして感興をもっていたわけではなかった。

 しかしである。一旦、演奏が始まってみると、その最初の音で打ちのめされたような衝撃を味わった。それらの音は、チューニングの悪いラジオから聴いたり、針音がするレコードで聴くものとは全く異質のものであった。ましてや、まだ再生装置にステレオなんてものがなかった時代、ナマで聞くオケの音は、弦はそのあるべき位置で音を紡ぎ、管はその後方で音を響かせ、打楽器は、とりわけ、初めて見るティンパニーの飛び跳ねるような音色はその所在を明確に告げていた。
 ようするに、音楽の音に然るべき空間を占める立体感があることをはじめて体感したのだった。

 曲目は、カルメンの前奏曲や、スッペの騎兵隊序曲などなど、最もポピュラーな小品ばかりだったが、それぞれが面白く、すっかり堪能することができた。
 その時のオケが、近衛管弦楽団で、指揮はもちろん近衛秀麿であった。戦前戦後にかけて、山田耕筰と並んで日本のオーケストラを引っ張ってきた人である。

 その折の感動は、今から振り返っても大きなものがあったが、多情・多感な少年の興味の対象は拡散しがちである。
 クラシックについても、それがきっかけでしばしば聴くようになったが、近衛秀麿についてはさほどこだわりをもたなかった。時代は帝王カラヤンに傾斜していて、なにかそれだけでありがたがっていた。

          

 まだまだ再生装置にも恵まれていなかった。実家にあったのは流石にもう手回し式ではなかったが、動力をモーターに変えただけのプレーヤーであった。
 高校生の頃、やはりちゃんとした再生装置が欲しくなり、カラヤン指揮・ベルリン・フィルのベートーヴェンの6番のLPを買ったついでにもう一枚、三橋美智也かなんか、当時流行っていた演歌のレコードも買った。

 後者は父母が対象で、私の作戦としては、「ホラ、こういうレコードも、もっといい再生装置で聴いたらいい音がすると思うよ」ということで、ステレオ装置かなんかを買ってもらうことであった。
 父母はレコードは喜んでくれたが、「私らはこの音でじゅうぶん」ということで、私の深慮遠謀はあえなく挫折した。

 近衛秀麿のことだが、私にはじめてクラシックのナマの音を聴かせてくれた人ということでずっと記憶にとどめてはいたが、どこかでやはり縁遠い人だと思っていた。
 と言うのは家柄が良すぎた。お公家さんの五摂家筆頭の家柄で、地位もお金もあり、だからこそ戦前からヨーロッパでクラシック三昧を決め込むことができたのだというぐらいにしか思っていなかった。

          

 印象が変わったのは先般、たまたまNHKBSで、「玉木宏 音楽サスペンス紀行 マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」(29日後8:00)を観たからである。
 この番組で、戦前のヨーロッパでの近衛の足取りが具体的に示されていて、それは私が思っていたように家柄の良いボンボンが優雅に・・・といったイメージといささか異なるものであった。たしかに当時の日本はドイツと同盟関係にあったとはいえ、そのナチス・ドイツはヨーロッパ各地で、とりわけユダヤ人に対して残虐の極みを尽くしていた。

 そのナチスが、クラシックの世界にも干渉し、あのモーツァルトの音楽や音楽祭までナチス色に染め上げたことは、私自身が勉強し、今春発刊の同人誌に書いたとおりである。
 そうした渦中に近衛もいたわけである。昨日までともに演奏していたユダヤ人演奏家の仲間が、今日、収容所でガスシャワーを浴びるというそんな環境の中に・・・。
 そこで彼は何人かのユダヤ人を助け、その亡命に手を貸し、演奏機会を奪われた彼らに自分の指揮下で演奏する機会を与えたりしたという。

          

 とりわけ占領下のポーランド・ワルシャワでの、当時の状況下では舞台に上ることもできなかったユダヤ人音楽家たちをも組織して行われた謎のコンサートは、おそらく感動的なものであったろうと思われる。その曲目、シューベルトの『未完成』は、番組冒頭から通奏低音のように流れ続けていた。

 私は今、私にはじめてオケのナマの音を聞かせてくれたのが、近衛秀麿であったことを改めて誇らしく思う。そして、彼のことをいいとこのボンボンの芸事のように扱ってきたことを恥ずかしく思う。

 NHKには私が観た番組に先立つ、「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」というドキュメンタリーがあるという。それも併せて観たいと思っている。


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【今日の昼ごはん】我流冷麺風パスタ 

2017-07-25 13:38:38 | グルメ
昼は蒸し蒸しして食欲がない
ありあわせのもので冷たい麺類をと、ヒヤムギや冷やし山かけそばなどをよく食べるが、そればかりでは飽きがくる
たまには変わった洋風?なものをと冷たいパスタを我流で作ってみた

        

まず、キャベツ、ピーマン、玉ねぎを和風だしと薄口醤油で柔らかくなるまで煮る
火を止めてからミョウガの千切りを入れる 
それら野菜を取り出し粗熱をとってから冷蔵庫へ 
出汁は捨てないでケチャップ、隠し味程度のカレーパウダー、ブラックペパーなど好みの味付けでで濃い目に煮詰める
出汁の粗熱がとれたら氷をぶち込んで冷たくする
その氷の量でスープの濃さを調整する
パスタは細めのものを使い、茹で上がったら冷水で〆る
パスタを皿に盛り、冷えた野菜をのせる
ツナフレークの小缶をそのままドバッとのせる
その上から冷えただし汁をかける
お好みでオオバやカイワレを乗せてもいい
冷っこくておいしい
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四角いものがまあるい輪っかになるという話

2017-07-23 02:47:01 | よしなしごと
 私の実家は材木商である。
 私は放蕩息子で家を継がなかったので、妹夫妻が継ぎ、今はその息子、つまり私にとっては甥が経営をしている。その材木商の本拠は私の家から離れたところにあるが、商品の在庫の一部は私の家に隣接する倉庫に保管されている。
 
 2、3日前、彼から電話があって、「おじさん、いつも洗濯を干している横の空間に、しばらく材木を置かしてくれませんか」とのこと。お安い御用で二つ返事で引き受けた。
 なんでも、ここ2、3ヶ月のうちにちゃんと乾燥させて納品しなけではならないものがあって、それは倉庫の中でも駄目だし、風通しのいいわが家の洗濯干場のところが一番いいというのだ。
 ところで、わが家の洗濯干し場だが、かつて塾を経営していた頃の生徒の自転車置き場で、屋根付きでかなりのスペースがある。

        
 
 了承したその日のうちに材木は運び込まれた。それが写真のものである。
 材木をよく見ている私にとっても、あまり見慣れない形状である。柱でもなけれが板でもない。木そのものも、杉や檜とは違ってもっと硬そうな材質である。
 運んできた人に、「これって何に使うの?」と尋ねたら、「これは輪っかにする」とのこと。
 
 え、輪っか?大八車の時代でもあるまいに、いまさら木の輪っかとは、とさらに尋ねたら、これは樫の木で、山車や山鉾、だんじりの輪っかにするため、宮大工級の専門職に納品することになっているとのこと。
 更に詳しく話を聴く。
 これらからうまく木取りをしてあの頑丈で丸い輪っかを作るのだということ、そのためには完全に乾燥させて、といっても直射日光に当たるとヒビが入ることもあるので、風通しのいい日陰でしっかり干しあげなければならないのだ・・・云々。というわけで、私んちの洗濯干し場が選ばれたのだった。
 
 これによって作られる輪っかは、さらにその上に建造される、あるいはすでにできている、何トンもの山車や山鉾、だんじりの構造物を支えなければならない。この輪っかは樫だが、上部の殆どはケヤキでやはり堅牢で重い材質のものである。しかもたいていのものには、お囃子やからくり人形師など複数の人間が乗る。
 
        

 だからその素材を納品する側も、細心の注意をはらい、最上のコンディションのものを納品しなければならない。この上に乗るのは、ほとんどが重文級のものなのだ。
 こんな木をもっている材木屋はほとんどないだろうと訊いたら、「だからこういったものはうちに集中して注文が入る」と運んできた人は誇らしげにいった。
 
 ここで材木商の現状を書いておくと、全国でもひところの一割があるかなしかだろう。ひとつには、木造日本建築が激減したということである。一見和風に見えても、実際には材木を使った箇所はほとんどない。あっても輸入材など安価なものでまかなわれてしまう。
 家屋のみならず、材木の用途はうんと減っている。かつての町並みではよく見られた板塀などというのも、よほど優雅な造りの家でない限り見ることはない。
 
 おやおや、いつのように脱線気味になってきた。
 ようするに、私の甥の材木商は、上の輪っかの材料のように、特殊な用途の銘木を中心に扱っているから今も存続できているということをいいたかったのだ。
 なお、大量販売の波に流されず、たとえそのときは買い手はなくとも、いいものがあれば常に在庫しておくというのは私の父の時代以来の伝統で、父から国宝犬山城の改修の折に基本的な材料を納めた話や、その他、国宝級・重文級のものの材料ををあちらこちらへ納めた話をよく聞かされたものだ。
 しかし、親不孝な私は、また親父の自慢話が始まったとあまり熱心には耳を傾けなかったものである。
「親父、申し訳ないっ」
 と、生きてれば108歳の親父に詫びねばなるまい。
 
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三本の実のなる樹を失った老人の居直り

2017-07-19 11:47:26 | よしなしごと
 失われたものを回想することはつらいことです。
 これは書こうかどうか迷っていたのですがやはり書きます。
 私のうちはさして広くはないのですが、田んぼの中の一軒家としてスタートしたのを幸い、建坪以外に若干の余裕があり、それを我流の庭として使ってきました。草花よりもむしろ樹木主体の庭です。
 そのなかで、食べることができる実をつける樹が三本あったのです。
 3月10日頃に花をつけ、5月10日ぐらいに収穫できるサクランボ、5月の末頃に収穫できる桑の実、そして、6月中頃に収穫できる琵琶、この三本がそれでした(という過去形で語らなければならないとは・・・)。
 この三本が、今年、一挙にして失われたのです。
 それぞれ、原因は異なるのですがそれが今年に集中してしまったのです。

          
          

 まずは桑の木です。ご承知のように桑はお蚕さんを育てる樹で、虫たちに好かれることは知っていました。これまでも、しばしばそれに襲われましたが、その都度、殺虫剤などで退治してきました。
 今年、気づいたら、もう手の施しようがないほどの虫たちに侵食されていました。大木に育ってしまったこともあって、もう殺虫剤が届かないのです。あれよあれよという間に万余の小型の毛虫たちが湧くように現れ、すべての葉を食い尽くしてしまいました。
 ほかの植木にもと思ったのですが、やはり桑がいいようで、隣接するほかの木々は無事でした。ただし、行き場を失った毛虫どもがわが家の屋内にも現れたり、風に乗って隣家にまで姿を現すに至って、決断をせざるを得なくなりました。

                    
 
 「伐る!」がそれでした。もはや私の管理能力を越えてしまったのです。
 かなりの大木になっていましたから私では切れず、人を頼んだのですが、一挙に切ると倒れる折に建物を傷つける可能性があるということで、枝を払い、最後に幹をバッサリでした。
 
 枇杷の木も伐りました。伸びすぎた上方が風などで電線や電話などの引き込み線を損傷するおそれがあるということで、ついでに伐ってもらうことにしたのです。

                    

 サクランボの樹は寿命です。今年はほんの一握りの収穫があったのですが、もう、樹ぜんたいが枯れていて、なんともしようがないのです。

 といったわけで、一挙に三本の実のなる樹を失いました。
 桜以外は40年以上の大木でしたので、家の周りが明るくなりましたが、同時に、この時期に満喫していた緑陰も失われました。

          

 花も実もない私の老いを象徴するような話ですが、実際のところはいささか違います。周辺から実がなる樹が消えたのなら、それに同化してションボリなどしないで、私自身の今後の開花と結実を目指したいと思います。
 周辺が語る老いの一般論、諸能力の減退などなどに対し、無理に若ぶって突っ張ろうとは思いませんが、かといってそれを内面化して周辺の期待通りみごとに老いようとも思いません。

 若かろうが老いようが、新しい一日は新しい経験、「私はすでに老いたから」などという観念とは関わりなく、今のコンディションを全開にして、今日という経験、明日という経験を生きてゆくつもりなのです。

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私にとっての夏の匂い・・・・稲の香

2017-07-13 01:03:28 | よしなしごと
 ひとにとっての夏の匂いが何であるかについては、それぞれの居住環境や経験によって異なるだろう。
 海に近い人には、一段と強まる潮の香であったり、山に近い人にとってはむせ返るような草木の香であったりするだろう。
 小学生時代を田園地帯で過ごし、成人してからも田園地帯へ戻ってきて半世紀になる私にとっての夏の匂いは、やはり稲の香である。

          

 田植えをしたばかりの田では、まだ稲はその香を放つことはない。放っていても、私の方にそれを感受する能力はない。まだ、土や水の香が勝っているからだ。
 しかし、それらがすっかり根付き、丈も二〇センチから三〇センチにもなり、夏の日射しでヒートアップされると、自己特有の匂いを放つに至る。
 そんな折、田んぼの脇を通りかかると、「オッ、夏だ」と思わず口に出そうになる。

 この稲の香は、どんどん強まり、稲刈りの頃には最高潮となる。刈られた稲がハザ架けなどされている現場では、間違いなく、米びつを開けた時のあの匂いが充満している。
 しかし、夏のはじめのこの時期のそれは、それほど強烈ではなく慎ましやかである。

          

 ここで何回も書いてきたが、田んぼのなかの一軒家としてこの地に居を構えてから半世紀、都市化の波はとどまることを知らない。昨年だけでも、私の周辺では一〇枚近くの田んぼが失われた。今さら嘆いても致し方がないことは重々承知の上だが、何やら淋しい気分もある。

 やがては居ながらにして四季を堪能することがかなわなくなり、都会の人たち同様、四季を求めて郊外へ出なければならなくなるのだろうが、幸いなことに、その頃にはこちらの寿命が尽きていることだろう。
 だからいま、稲の香を堪能している。

 
 
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ブキッチョさんと「麦わらイサキ」(続編)

2017-07-11 00:38:12 | よしなしごと
 昨日は、いただいたイサキをおろして捌いたところまで書きましたが、今回はその調理です。

          

 まずはお刺身。イサキ独特のこの色艶、たまりませんね。
 味は言うを待たずです。今までイサキの造りを食したことはありますが、これは別格です。鮮度と、それに産卵前のこの時期、まさに旬の旨さです。
 脂がのっているのは確かですが、舌に絡むそれではなく、ほんのりと甘みを感じさせる品のいいノリなのです。

          

 続いては、中骨やカマの部分、それに卵や肝などを煮付けたいわゆる「アラ煮」です。
 鮮度が良いものですから、薄味でさっぱりと、しかも煮しめるという感じではなく短時間でサラッと仕上げました。いわゆる沢煮風にしたわけです。
 それが成功して、柔らかな食感を残したまま魚の旨味が口中に広がる仕上げとなりました。ウン、ウンと自分で頷きながら箸を運びました。

              

 私は調理人ではありませんが、味覚や味付けのセンスはあるように思います。もし、生まれ変わって、調理の勉強を基礎から行ったら、いい料理人になれそうに思います。
 それを活かして高級店のトップにおさまり、料理界を睥睨しようなどということを考えているわけではありません。
 私がやっていたような大衆店で、リーゾナブルな価格のまま、超旨いものが提供できたらと夢見ているのです。

 どなたか、生まれ変われる方法を教えて下さい。
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ブキッチョさんが「麦わらイサキ」を捌く。

2017-07-10 00:46:58 | よしなしごと
 釣り好きの知り合いから、釣果のおすそ分けをいただく。
 それも釣行の帰途のお立ち寄りだから、何時間か前までは泳ぎ回っていた鮮度抜群の代物だ。
 「わざわざお立ち寄りいただいてまで」と恐縮する私に、「どうせ帰り道ですから」とおっしゃるが、たしかに私の家は漁場の北陸とご自宅の間にあるとはいえ、高速で直行できるところをわざわざ降りてご持参いただくお手間を取らせたことには間違いない。

 今回の魚は旬のイサキ。産卵前のこの頃が一番美味しいとされ、「麦わらイサキ」「梅雨イサキ」などと呼ばれて珍重される。
 「うちは少人数ですから」と一番小さいのをいただいたが、それでも30センチは優に越える。

          

 夕食を済ませたあとだから、いただくのは明日になるが、捌くのは早いほうがと包丁を握る。
 飲食店を経営していたが板場ではなく、彼らの仕事の見よう見まねで、しかももともと手先が不器用な方だから、あまり自信はない。しかし、せっかくいただいたもの、少しでもうまく調理したいと集中する。

          

 方針としては、半身はその鮮度を活かしてお造りで、そして後の半身は火を通したムニエルかなんかで、そしてアラは煮付けでということにする。
 それに従い、まずは三枚におろす。
 おろす過程で、産卵前ということで卵があったので、これと肝とはアラと一緒に煮るということで捨てないでおく。

          

 頭からいわゆるカマの部分を外すが、これは中骨のアラと一緒に煮るつもり。また、両身ともに腹骨をすくうようにしてとるがこれもアラと一緒に煮るつもり。
 刺身にする方の片身は、背身と腹身を分かつ中ほどの血合の部分をとるが、これも捨てないでアラと煮るつもり。

          

 刺し身にする方の背身、腹身それぞれの皮をひいたら、背身の方にこの魚独特のきれいな縞模様が現れた。
 この短冊はそのままキッチンペーパーにくるみ、サランで巻いて冷蔵庫にしまう。
 刺身とムニエル、それにアラ煮、明日の食卓が楽しみだ。

 衣食住などの形而下的な欲望から目を背けていた時期がある。しかし、いまはそうではない。形而上的なものは、たしかに形而下的なものからの超越によって可能になるが、かといって形而下的なものを無化することはできない。それらはどこまでもついて回る。それを無視した形而上的なものやその命題には、たぶん、どこかに嘘が、時としてとても危険な嘘が仕込まれている。

 などというもって回ったことを考えなくとも、うまいものはうまい。ましてや、海なし県にいて、座して鮮魚を食らうなんて贅沢は理屈抜きに素晴らしい。
 Yさん、ありがとうございます。
 お礼は出世払いということで・・・・って、私にはもう出世のチャンスなんかはないのだが、さてどうしよう。


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風邪

2017-07-07 18:25:29 | 日記
風邪。喉痛い。熱38.5度。時折咳も。水っ鼻も。生まれてこの方、もう何回風邪をひいたろうか。それなのに毎度この有様。風のひき方に熟練というのはないのか。と思って検索したら「上手な風邪のひき方」というのがあった。しかし、それを読んだからといって楽になるわけではない。やはり、ひかない方がいいに決まってる。

          
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亡き友の息子たちへの報告 彼を悼んだ飲み歩き

2017-07-06 00:21:08 | 日記
 五月の末、高校時代からの友人一人を亡くしたことはここにも書いた。
 15歳の時からの友人だから63年の付き合いということになる。

 以下はその息子たち二人に宛てたメールである。
 二人共彼の自慢の息子で、彼はその二人をそれぞれイギリスとフランスに海外留学させ、そのうちの一人は、エネルギーや環境関連の研究調査機関にいて、もうひとりはフランスを拠点にした写真家である。
 この二人は、親父の最後をよく看取ったと思う。

 メールの内容はたわいないもので、残されたもう一人の友人・H氏と私とが、亡くなった彼と飲み歩いた足跡を辿ったというだけの報告である。ようするに、ていよく彼を肴にして飲んだというだけのことである。
 言い訳はともかく、出したメールは以下のようなものである。

 =====================================

  親父殿は、惜しいことをしました。
 ただし、あなた達二人が最後までよく看てやったこともあって、満足して旅立った
ことと思います。
 通夜や葬儀の際には、家族葬のところ押しかけてたいへんお世話になりました。
 その後のH氏と私の件につき若干の報告を致します。

 通夜の際、彼の遺言でその枕辺で飲んだ彼愛飲の酒、哀しくも美味かったです。
 つい最近、同じものを近所のスーパーで見かけ、5 缶あったすべてを買い、そのう
ち2缶はH氏におすそ分けをしました。

               
                     
 7月4日には、かねてよりH氏と示し合わせていましたように、親父殿と飲み歩いた
足取りを辿って、居酒屋一軒とカラオケスナックとに参りました。
 どこも親父殿のことを憶えていて、その死を悼んでくれました。
 盃はちゃんと三つ用意して、彼への献杯といたしました。

 カラオケスナックでは、親父殿がよく歌っていた歌をと思ったのですが、彼は割合
もって回ったような曲を歌っていましたので、H氏や私には難しく、まあ同時代の歌
謡曲といったところでお茶を濁してきました。

 といったようなことで、親父殿を肴にした私たちの飲み歩きといったところでした
が、それでも、あいつこのカウンターであんなこと言ってやがったなどという思い出
が断片的によぎるなど、しんみりした場面もありました。全体的にいって、賑わし役
の親父殿のいない寂しさは覆いようもなかったことは事実です。

 私たちも、いつまでこんなふうに過ごせるかは定かではありませんが、可能な限り
こんな機会をもとうといいあってH氏とは別れました。
      
                   

 自慢の息子のあなた達が、それぞれの分野で活躍されること、それが親父殿への、
そして、先に逝かれた母御殿への孝行であろうと言わずもがなのことを言い添え、他
愛もないことで申し訳ありませんが、私たちの近況の報告と致します。
 H氏もよろしくいっていました。

 =====================================

  私は、このイラストのような好々爺ではありません。






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