六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

なにもなにもちひさきものはみなうつくし

2013-06-14 15:38:40 | 写真とおしゃべり
 清少納言の『枕草子』に触れたのは今から五十数年前、高校時代の教科書の中でのことだ。受験勉強のまっただ中であったが、その歯切れの良さなどに興味を覚えて、現代語訳を付した抄本のようなものを読んだことがある。その本の題名も、そこに書かれていた内容も、今となっては忘却の彼方だが、この随筆には、清少納言にとっての「マイ・フェイバリット・シングス」、つまり、「私ってこういうのが好きよ」という叙述が多かったことは覚えている。

        
             柿の赤ちゃん 専門用語ではガキ

 冒頭の「春はあけぼの」からしてそうなのだが、そうした彼女自身の趣向に加えて、彼女が仕えていた中宮定子周辺の宮廷社会の事情やエピソードが綴られているというのがその全貌であろう。

        
                石榴の花とその赤ちゃん
 
 もちろん、好きなものばかりが述べられているわけではなく、その反面の「私ってこういうのは嫌いなの」という箇所もかなりあって、例えば第二五段の「すさまじきもの」などではそれのオンパレードである。

        
                これは琵琶の赤ちゃん
 
 それらは、彼女自身の優れた感覚にもよるのだろうが、一方では平安貴族の美意識のようなものをも表しているのではないだろうか。
 カントの『判断力批判』ではないが、趣味判断のようなものは、何らかの公理や定理から演繹されるものではない。判断者の複数性を背景とした共通感覚のようなものとして成立する場合が多い。
 だとすると、この『枕草子』が同時代の『源氏物語』と並んで当時の古典として不動の位置を獲得しているのは、彼女自身の美意識のようなものを通じて、平安時代の上流階級の普遍的なコモンセンスのようなものが凝縮して表現されているからではないだろうか。

        
                Homo sapiensの幼生体
 
 以下に、その『枕草子』、百五十一段「うつくしきもの」の後半、「小さきもの」に関する記述を転載する。

 ===============================

 ひひなの調度。 はちすの浮き葉のいと小さきを 池より取り上げたる。 葵のいと小さき。 何も何も、小さきものはみなうつくし。 いみじう白く肥えたる児の、 二つばかりなるが、 二藍の薄物など、衣長にてたすき結ひたるが、 はひ出でたるも、 また、短きが袖がちなる着てありくも、 みなうつくし。 八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、 声は幼げにて文読みたる、 いとうつくし。  鶏のひなの、足高に、白うをかしげに、 衣短なるさまして、 ひよひよとかしがましう鳴きて、 人のしりさきに立ちてありくもをかし。 また、親の、共に連れて立ちて走るも、みなうつくし。 かりのこ。瑠璃の壺。

        

<現代語訳>
 雛人形の道具もかわいらしい。蓮の浮いている葉でとても小さいのを池から取り上げたもの。葵の葉のとても小さいもの。何もかも,小さいものはみなかわいらしい。とても色白で太っている子供で,二歳ぐらいの子供が、二藍の薄物などを,着物が長くてたすきを掛けているのが、這って出てくるのも、また、着物の丈が短い物で、袖ばかり目立っている物を着て歩き回っているのもとてもかわいらしい。八歳・九歳・十歳ぐらいの男の子が,声はまだ幼い感じで、漢籍を読んでいるのも,本当にかわいらしい。鶏のひなが、足長で、白くかわいらしい感じで、短い着物を着ているようで,ぴよぴよとやかましく鳴いて、人の歩く前後に立って歩き回るのもかわいらしい。また、親鶏が、ひなといっしょに連れ立って走るのも、すべてかわいらしい。雁・鴨などの卵。ガラスの壺もかわいらしい。

 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする