六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

漬物三昧の日・・・・といっても食べまくったのではない。

2024-01-31 01:34:37 | フォトエッセイ

 1月30日、私にしては早起きをしてまずは洗濯物を乾してから農協の朝市へ。早く行かないと少量の希少種は売り切れてしまう。

 今回のそれは赤かぶ。漬物類が切れているのでそれを漬けようと思った。やはり早く行ったのは正解で、私の買ったあと、それはもう一束を残すのみだった。
 それはそうだろう。葉付きの中玉の赤かぶが6個一束で93円なのだから要らなくとも買ってしまいそうだ。

       
 その他ネギや青菜類を一通り買って、巻きの固い白菜を一株(185円)買った。これも漬物にするつもり。
 いつもならもう2、3度漬けているはずだが、今季はどういうわけかその機会がなく、今回が初めて。

 帰宅してすぐ、その白菜を8等分して乾す。
 作業はここまで。洗濯物や農協の他、業務用の業務用食材店アミカへ立ち寄り、生ラーメンと春雨のやや大きい袋入などを買い、さらに、同人誌発送に使っていたクロネコのDM便のシステムが来月から変わるというので、その打ち合わせにクロネコの岐阜支店へ行ったりしていたので、もうすっかり疲れてしまった。

           
 お茶をしながら遅めの新聞を読む。
 相変わらず岸田という男は煮えきらない奴だ。たしかに自民党は危機だろうが、ここは開き直ってかつての小泉のように、「自民党をぶっ壊す」つもりで思い切った改革案を出し、自分が率先してそれを実行すれば、支持率は上がり、自民党の他の連中もそれに従わざるをえないだろうと思うのだが、党内の各勢力のバランスを伺い、そんなどうでもいい均衡の上でフラフラしている。
 旦那衆の顔色を伺い、それぞれに揉み手をする番頭気質が染み付いているのだろうか。
 野党なんか敵失に息巻いているのみでなんの力もないなか、この危機は彼にとっては長期政権確率のチャンスなのに・・・・。
 まあ、私が自民党や岸田の心配をする義理合いはまったくないのだが。

 昼は、ネギ、大葉、柚子の皮千切り、切海苔がどっさりのった暖かい山かけ蕎麦で腹ごしらえ。午後の作業に思いを馳せていて、写真を撮るのを忘れた。

 午後、メールやSNSのチェックのあと、漬物作業の開始。
 白菜は乾したままにして赤かぶにとりかかる。といってもぶった切って即席漬物器に放り込み圧力を加えるのみ。今回は葉も一緒に漬けた。葉をつけないときは、それを煮付けにする。白カブの葉と微妙に味が違って面白い。

           



 昆布の千切り、柚子の皮、鷹の爪のみじん切りも合わせる。塩加減は相変わらずの目分量。夜になってチェックしてみたが、よくわからない。明日、もう一度チェックしてみよう。

       

 洗濯物を取り入れ、白菜も取り込む。
 用意したのは、赤かぶと同じく昆布の千切り、柚子の皮、鷹の爪のみじん切りだが量が倍以上。
 久々に陶器製の漬物桶を出してくる。漬物石(やはり陶製)と合わせると何キロになるのだろう。腰痛持ちにはこたえる重さだ。
 白菜、塩、薬味類と次々に押し込んでゆく。そして陶製漬物石。大きい方は5キロ、小は3キロか。

           
          
 ちょっと白菜が大きかったせいか、重石の小は桶の縁より高い。均等に重石が沈めばいいがそんなことはありえない。少しでも傾斜ができると上の重石がゴロンと落ちて、ゴロゴロと駆け出す。以前、夜中にそれが起こり、目が醒めた。
 それを防ぐため、強そうなビニール袋を被せ、桶の縁にしっかり結わえ付ける。これなら斜めに滑っても転がることはない・・・・と油断はできない。前に夜中に落ちたときは、紐の縛りが緩んで大音響になったのだから。

           

 白菜の塩加減も目分量。多分、かなり足りないと思う。多過ぎるより足りないミスのほうがいい。後で足せばいいだけだから。これも明日、様子を見よう。

 夜、メインディッシュはサーモンの切り落としのアラ、200円。自分なりに処理し、フライにした。サブは沖縄の生もずく。生姜の千切りと合わせる。
 19年に訪れた辺野古のあのサンゴ礁の淡い青と、沖合の紺碧のコントラストのうっとりするような風景を思い出していた。

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戦後は誰が? 『ほかげ』(塚本晋也:監督 趣里:主演)を観る

2024-01-28 02:36:40 | 映画評論
 前回、映画を二本観たことを述べた。
 実はこれから述べるのが観たかった本命の方なのである。
 『ほかげ』(塚本晋也:監督 趣里:主演)

          
 舞台は先の戦争直後の闇市が幅を利かせている時代である。
 映画の前半は、その一隅で名前のみの居酒屋で、酒一杯を飲ませ、二階で体を売る女の店が舞台となる。その女と、かっぱらいの戦争孤児と、金のない復員兵の奇妙な同居が続く。

 それぞれが戦争に依るトラウマ=PTSDを抱えていて、睡眠時などの追体験に依る発作にしばしば見舞われる。
 復員兵は戦場での凄惨な場面に、孤児は自分が一人で放り出された悪夢に、そして女は夫と子を失った記憶に苛まれる。

       

  この疑似家族のような関係は、復員兵のPTSD症状の悪化によって崩れる。後半でこの男が廃人になったことが示唆される。
 残った女と孤児は共に失った親子関係の回復であるかのように心を通わせ、孤児は女の「ちゃんとした仕事をもつんだよ」との言いつけを守ろうとする。

 ここまで(映画の前半)はほとんどが女の店を舞台としてる。
 様相が変わるのは、孤児が謎の男(森山未來)と出会って以降である。二人は、ロードムービーのように行動をともにするが、彼もまた、戦争のトラウマ=PTSDを抱えた男であることが明らかになり、その軽減のために(本質的な解決はない)孤児の協力のもと、ある行為を実践する。

       

 それは、原一男監督のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』で描かれた奥崎謙三の行為に似ているが、より暴力的である。

 彼との一連の行動を終えた孤児は女のもとに戻るが、女は戸を閉ざしたまま対面しようとはしない。しかし、彼に「ちゃんとした仕事をもつんだよ」と繰り返し、もう、ここヘは来てはならないと言い渡す。

 孤児は闇市へと歩み、まともな仕事をと忙しそうな店の手伝いを進んで行うが、それまでのかっぱらいの行為が知れ渡っていて、信用されず、殴り飛ばされたりもする。
 それでも必死にその仕事にしがみつき、やがては一定の位置に居座る過程は、女との約束を守ろうとする孤児の懸命さを示していてジーンと来るものがある。

       

 そんな折から、一発の銃声が闇市に響く。それは、女の言いつけに従って孤児が置いてきた拳銃で、おそらく梅毒に侵されて容貌が崩れていった女が、自らの終焉を選んだことを示唆している。

 それはまた、戦争に依るトラウマ=PTSDの一つの終わりを描くと同時に、少年に託された未来を表しているかにも解釈できる。しかし、その解釈は凡庸すぎると思う。
 あの孤児は、実はほぼ私と同年だと思われる。何が言いたいかというと、私たちが歩んできた戦後は、果たして戦前や戦中をどのように凌駕してきたのか、凌駕してきたといえるのかという問いに行きつく。

       


 この映画に出てくる人物のほとんどが何らかの意味で戦争に依るトラウマ=PTSDに侵された者たちである。
 しかし、戦後の「復興」といわれるものは、この人たちのリーダーシップによって、再び戦争に依るトラウマ=PTSDを生み出さないものとして形成されたのであろうか。

 そうではない。むしろ、トラウマ=PTSDの被害者ではなく、そんなものは経験もしなかった、むしろ加害者たちによって形成されたのではなかったか。
 国体は護持され、戦前の精神に根ざした保守政治家たちが一貫して支配してきたのがこの国ではなかったか。
 かつての日独伊の三国同盟において、国旗も、国歌も、そして国家元首すらそのままであるのはこの国だけである。

       

 だから、戦争に依るトラウマ=PTSDは今なお解消されないままこの国の底辺でうごめいている。塚本監督のこの映画は、改めてそれを知らしめたともいえる。

 なお、主演の趣里は、今の朝ドラの主役とはとても思えない役柄を、重みを持って演じきっている。こんなに幅がある女優さんだとは知らなかった。
 それからもう一つ、戦災孤児の少年塚尾桜雅くんの眼差しがとてもいい。上に述べたように、映画が描く時代、私は彼と同じ年代だったが、どんな眼差しをしていたろう。

■以下に予告編を載せておく。
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今年始めての映画、しかも二本。『ポトフ』とそして・・・・

2024-01-27 02:20:53 | 映画評論

 1月ももう終盤。もちろんTVの画面で観た映画はある。しかし、私が映画を観るというのは劇場でのスクリーンでのことである。

 なぜ、二本観ることになったかというと理由は単純である。本命の映画の上映時刻を検索していたら、同じ映画館、同じスクリーンで、私がマークした映画の前に、ン?これもという映画を上映していたからである。
 ならば、どうせ交通費を使ってわざわざ出てゆくのだから二本まとめて観てしまおうということになった次第。

         

 バスで岐阜の中心街へ出る。車中で本を読んでいたら、降りるべきところを通り過ぎてしまった。ひとつ先のバス停から徒歩で引き返す。
 時間に余裕をもって出たからその点は大丈夫だが、その道が危ない。というのは、昨日、岐阜はかなりの雪に見舞われたから、それが溶け切らず歩道を覆っていて、しかも、朝から踏み固められたところではうまく歩かないとツルリンスッテンの危険がある。
 若い人がさっさと歩くのをみながら、一歩一歩慎重に踏みしめてゆく。こんなところでツルリンスッテンで足腰を痛め、寝たっきりではたまらない。

 映画料金のシステムはよく分からないが、二本分まとめて買ったら2,000円になった。いつもはシニア料金でも一本1,200円なのに。バス代の往復分が浮いた勘定になる。

     

 で、最初は本命ではない方の映画『ポトフ』(監督:トラン・アン・ユン)。画面はいきなりドキュメンタリータッチの調理の場面で始まる。この瞬間、この映画も観てよかったと思った。この迫力、臨場感、登場人物の張り詰めた動作・・・・これらは私んちのTVのさして大きくない画面では味わえないものだ。
 ちなみに私は、映画館ではいつも前方に陣取り、画面全体の迫力を浴びるようにしている。

 料理の演出家と思われる主人公の意志を理解し、ときに自分なりの流儀をも発揮してその演出を現実の料理に仕上げてゆく女性の機敏な動作と適切な判断が素晴らしい。
 脚本家や演出家がいて、それに呼応したアクターが一つのドラマを完成させるように、鮮やかに料理が完成する。いずれも、和食系の手抜き料理しか作らない私には縁遠いものだが、その手順は素晴らしい。

     

 この料理のレシピ考案家=脚本家とその造り手=主演女優はすでに中年に差し掛かったいるが、恋仲ではあるといえ結ばれてはいない。これが映画の中盤、結ばれ、結婚にまで至るのだが、その途上のセックスシーンに至る過程を思わせる描写が面白い。
 いずれも、シャワーを浴びたりベッドに横たわる女性の美しいヌードが後ろ姿で出てくるのだが、そこでシーンがカットされる。

 二人の結婚式で新郎が語る「人生の秋に結ばれる」くだりのセリフは詩的で美しい。しかし、映画の前半から示唆されていた彼女の体調の悪さが災いして、彼女の死に至り、秋は冬へと転調する。
 折しも彼は、ユーラシア皇太子歓待の晩餐の調理を任され、豪華絢爛なフランス料理ではなく、家庭料理ポトフでチャレンジしようと彼女と決めていて、その準備を進めていたのだが、哀しみの中で酒浸っている彼にはもうその気力はない。

     

そんな彼を再び立ち上がらせるのは、冒頭で出てきた初々しい少女である。彼女は、絶対音感に相当するような絶対舌感をもち、出来上がった料理を一口味わうのみで、もはや原型を留めぬその食材の数々や用いられた調味料などを言い当てることができるのだ。
 この彼女の再出現が、彼の最高のポトフへの挑戦を蘇えさせるところで映画は終わる。
 
 ここには、最後に青少年を登場させて未来への希望を託すという映画や小説でよく用いられる一般論もあるかもしれないが、老年の私はむしろ彼自身の再生の物語としてこれを解釈したい。

     

 私は普通、映画の紹介では古いものはともかく、最近のものではこれから観る人たち
のことも考え、その映画のストーリー展開まで語ることはない。
 しかしあえてここまで突っ込んで語ったのは、この映画はまさに劇場の画面で見聞するものでストーリーの解釈などは二の次だと思ったからだ。
 
 「見聞」と書いたのは、映像はもちろんだが、この映画ではいわゆる映画音楽や効果音などは一切使われず、現実音のみで表現されていることだ。だから、その調理の場面などの臨場感は半端ではない。
 厳密に言えば、ラストシーンとクレジットで音楽が流れるが、これはクラシックコンサートなどのアンコールでよく用いられるマスネー作曲の「タイスの瞑想曲」で、原曲がヴァイオリンなのに対しピアノ演奏となっている。

 三分余の予告編を以下に載せるので興味のある方はどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=o0_1wXxZo5k

 もう一本観たのは塚本晋也監督の『ほかげ』で、こちらの方が観たい本命だったのだが、もうじゅうぶん長くなってしまった。回を改めたい。

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被災地や豪雪地帯の方には申し訳ないのだが・・・・

2024-01-24 17:59:04 | 写真とおしゃべり
 この地区にしては久々によく降り、よく積もった。
 いつもなら、目覚めると夜半に降った雪が積もってはいても、次第に溶け始めるのだが、今回のは夜明け以降も降り止むことなく、終日降り続いたせいで、積雪量はドンドン増していった。

          
     
           


 昼のニュースでは岐阜市は14センチといっていたが、以降も降り続き、わが家の吹き溜まりのような箇所では20センチ近いかもしれない。

      
          
          

 こんななか、洗濯物が乾くのが絶望的なので、重いそれらをもって近くのコインランドリーへ往復したのが辛かった。歩道のない二車線路で、むろん除雪なんかしてないから、車の轍の跡を行くと、車がやってくるので積雪の中に普通の靴で移動しなければならない。

          
         
     
         

 昼間の雪はそうではなかったが、昨夜半のそれはどうも吹雪模様だったようで、普通雨が降っても濡れない私の車のフロントはうっすらだけど雪で白かった。
         

 雪どけをするほどでもないが、郵便配達の人などのため、玄関までのエントランスの雪は取り除いた。皮肉なことに、こんな日に限って、郵便物はまったくなかった。
 なお、陽が射せば暖かい二階の私の居室、今日は殴りつける雪で、前方が見えないくらい。
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中山道鵜沼宿を歩く

2024-01-23 17:16:35 | 写真とおしゃべり
 中山道六九次のうち、江戸から数えて五二番目の宿場。美濃国鵜沼村であったが現在は各務原市。同市は岐阜市の隣の市で私の自宅からは車で五分ぐらいでその西端に達するが、かつての大合併で、東西に長い市になっていて、その東端に近い鵜沼宿まではかなりの距離だ。

           
          
      
      

 今回は近所のサークルの人たちと、名鉄各務原線で出かけた。あいにくの雨模様であったが、寒くななく、古い街並みのしっとりとした味わいに浸ることができた。

     
     

 三重県の関宿などの比べると、それほどの距離はないが、そのエリアに本陣、脇本陣、旅籠跡の旧家などが凝縮されていて、私のような年配者でも疲れることなく見て回れる。

     
        
     
     

 また、案内所やボランティアが結構充実していて、いろいろ親切に教えてくれます。私の場合、年配の女性で、彼女の説明に従ってひと通り回ってから、またそこを通りかかると、もう一度呼び止めて説明が始まりそうだったので、「あの~、さっきお伺いしましたが・・・・」と応じると、「アラッ、ヤダッ」と大笑い。説明に一生懸命で、この美男子のほまれ高い私の顔を見ていないなんて、もったいないことを。

      
     
     
     

 街道筋の中央付近に、地元の菊川酒造の蔵元があり、大きな黒板塀の建物と並んで巨大な古いアルミ製のタンク並んでいて、一見、雰囲気の邪魔になるようだが、これとて明治四年創業というから一五〇年前の産業遺産のようなもの、そう思ってみると、この宿場の特色のようにも見えてくる。

     
     
         


 忙しいので写真詳細な説明は省略するが雰囲気を味わっていただければと思う。

 なお、こじんまりした宿場なのでここだけでは物足りないかもしれないが、この南2Kmには犬山城があり、日本モンキーセンターで猿たちが焼き芋を食ってる姿などを観ることもできる。

          
     
     
           おまけのふくら雀たち

 なお、この宿場、車の駐車場(多分無料)が2,3箇所と充実していて、よほど混み合う日でなければゆっくり楽しめる。

 以下に関連するページを挙げておく。

 https://www.city.kakamigahara.lg.jp/kankobunka/1010039/unuma/index.html
 https://www.nakasendo.gifu.jp/guide/detail.php?p=10

 

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おせち以後の私の食べ物たち

2024-01-16 17:24:57 | 写真とおしゃべり
昨今のおせち料理は正月を寿ぐ祝宴ムードにあふれるものである。もちろんそれが本意だろうといわれればそれまでだが、かつてのそれにはもう一つの要因があった。
それは、調理というものが主婦の必須専業であった時代、せめて正月ぐらい連日の調理作業から解放してもという世間全体の心配りのようなものであった。
だから、伝統的なおせちというのはほぼ保存食が主体である。海産物や魚介類でも、鮮魚は含まれない。数の子、タツクリ、昆布や身欠きにしんなど乾物化したものが多い。
かつては、それで少なくとも三が日は済ませる場合が多かった。
私が作ったおせちも、母譲りの伝統的なものを中心としているので、どれも日持ちがするものばかりだった。もちろん毎日同じでは飽きがくるが、その代わり、品数を多くする。
ちなみにわが家では、おせちを食べ尽くしたのは5日だった。その間、他のものを口にしなかったわけではない。不足しがちだった青菜類をサラダにしたりもした。
ここに載せるのはそうしたおせち以後、今年食卓に載せたものである
写真キャプションを参照されたい。
 
     
ある日の夕餉 蓮根キンピラ煮、じゃがいも白煮、生わかめとしらすの酢の物、メインディッシュは昨秋頂いて食べきれなかったものを冷凍しておいたヒラマサと大根の炊合せ。
 
     
切り海苔が切れていたので、焼き海苔一枚を使ったためすっかり黒くなったが、山かけそばである。輪切りは、出汁と一緒に煮て装飾にした。
 
     
力うどん(=うどんプラス餅)があるのなら、「力ラーメン」があってもいいのではという発想から・・・・。出汁はあっさりめに。わが家の餅は、既製品ではなくのし餅を切ったものだから美味しい。
 
     
見た目は贅沢そうな夕餉。ニシン刺し身、大根、豆腐、厚揚げの味噌おでん風、アンコウの肝、大根の皮を捨てずに短冊風にして塩もみの即席漬物。アン肝と大根の皮には柚子をたっぷりと。ニシンもアン肝も各300円だったからそんなに贅沢ではあるまい。
 
     
野菜しか見えないが、なかは餅で野菜たっぷりの雑煮。餅は先程述べたのし餅だから格別。
 
 
 
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【年初の読書】昭和のはじめの日本を外部の目で見つめる。

2024-01-11 17:14:04 | 書評
        
   *「見知らぬ日本」 グリゴリー・ガウズネル 伊藤愉:訳 共和国

 著者は1906年に現在のモルドヴァに生まれたが、成人をした頃には、17年のロシア革命を経て、ソ連の若者として育った。
 大学卒業後は、詩人、作家、ジャーナリストとして活躍したが、この書は、革命後10年の27(昭和2)年、日本を訪問した若干21歳の彼の日本の見聞録である。
 
 なお、彼はこの折、世界的演出家として知られたソ連のメイエルホリド劇場からの派遣員という肩書で来日しているので、東京、箱根、名古屋、京都、奈良、大阪、そして日本アルプスを巡るという精力的な活動を行っているが、同時に、日本の歌舞伎や人形芝居、それに当時の前衛劇団の演劇などを見て回っている。
 メイエルホリドが歌舞伎の所作などをその演出に取り入れたといわれているが、その折の彼の報告に依るものかもしれない。

 この書の書き出しからまず度肝を抜かれる。敦賀港に上陸した彼は、そこから鉄道で東京へ向かうのだが、その車中での観察を数ページにわたって書き続ける。それ自身も始めて見る光景として面白いのだが、その結果、彼が着いたのは・・・・。彼はそれをサラッとした口調で述べる。
「僕は間違えて東京ではなく下関へ着いてしまった」と。
 そこから彼は、改めて東京へ向かうのである。今でもこの間違いは大きなロスであるが、100年近い前、まるまる一日をフイにしたことになる。しかし、当時のソ連のあの広大な領地からすると、大したことではなかったのかもしれない。

 彼は日本で多彩な人たちに会っている。なかには、私が若い頃まだ存命で各方面で活躍した人たちもいる。
 露文学の米川正夫や芥川龍之介、広津和郎、小山内薫、蔵原惟人、村山知義、千田是也、その他、当時の歌舞伎俳優などなどである。

 私が若い頃読んだ、プロレタリア作家、葉山嘉樹については一章を割き、その著名な作品、「セメント樽の中の手紙」の内容まで詳しく伝えている。
 その他、プロレタリア詩人、井上増吉の詩集「日輪は再び昇る」の中から二篇の詩を紹介している。

 その当時の日本は、まだ大正リベラルの気風が残っていて、アメリカや西洋に憧れるモボやモガがいる一方、左翼気取りの青年たちは、ハンチングにロシア風のコソボロトカやルパシカといったっシャツを着たりしていた。
 しかし、官憲の監視は三〇年代より幾分マシだったとはいえ、すでに結構厳しく、ガウズネル一行にも、尾行がついて回った。
 宝塚市では、サーベルを下げた警官がやってきて、あなたたちに尾行を付けなければいけないのだが、今選挙で忙しくて・・・・と言い訳けに来るような間抜けな場面も登城する。

 日本でガウズネルを案内し、通訳したのは、文中で「ナガタ」と「吉田」であると書いているが、実はこの二人は同じ人物で、杉本良吉だという。彼は杉本のことを高く評価している。
 杉本がいつからメイエルホリドに関心をもち始めたかは知らないが、このガウズネルとの交渉を通じてそれが強化されたことは間違いなかろう。

 ところでこの杉本良吉であるが、私が生まれた一九三八年の一月三日、女優、岡田嘉子とともに樺太でソ連への国境を超えて亡命をする。メイエルホリドを頼ってのことらしい。
 しかしこの頃、ソ連では大粛清の嵐が吹き荒れ、メイエルホリドはスタニスラフスキーなどの社会主義リアリズムの演劇に押され、完全に干されていたのみか、「人民の敵」として糾弾されつつあった。
 そんななかに飛び込んだ杉本は、スターリン直属のGPUの激しい拷問で、自分も、そしてメイエルホリドも反ソのスパイであることを「自白」させられ、自分は翌三九年に、そしてメイエルホリドは四〇年に、銃殺されている。

 ところで、杉本が日本を案内したガウズネルはどうなったのだろうか?
 彼は、帰国し、二九年ではここに紹介した書をソ連で出版し、その他、さまざまな文筆の分野で活躍し、その将来を嘱望されたが、惜しむらくは一九三四年、弱冠二九歳にして病死している。

 しかし、これはある意味で彼にとっては良かったかもしれない。なまじっか長らえていたら、日本で親しんだ杉本が自白を強要され、それに基づきその杉本ばかりか、彼が師と仰いだメイエルホリドも刑場の露と消えるのを目撃せねばならなかったのだから。
 もっともそれ以前に、スターリン派に寝返って、「人民の敵」を抑圧する側に回る可能性もあったのだが、それはあまり考えたくない。

 いずれにしても、この書は私の知らない昭和のはじめの日本を外部からの「新鮮な」目で解釈してくれる刺激的な書であった。
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相次ぐ訃報たちによせて・・・・

2024-01-09 23:52:36 | フォトエッセイ
        
 
坂田利夫、篠山紀信、中村メイコ、八代亜紀と訃報が続くとなんとなく昭和の終わりを感じる向きが多いようだ。これらの人のうち、私より年長は中村さんのみ。
残されたこの私、昭和の意識はあまりなくて、戦中生まれの戦後育ちという意識の方が大きいかもしれない。
八代亜紀は、往時のデコトラの運ちゃんたちに愛されていた。当時、対向車線に止まっていたデコトラの助手席に、白いドレス姿の八代亜紀が艶然と微笑んで座っているので驚いたが、よく見ると、等身大の写真の板張りだった。
ところで、あのデコトラの過剰装飾は、北九州かどっかの成人式のど派手な装束に似ていて、それ自身無為で儀式めいているところが面白い。
私の話は、脱線が多い。これも一種の過剰装飾。
 
 
 
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年頭の所感?と不信心者の初詣で

2024-01-09 00:36:57 | 写真とおしゃべり

 実質、今年初めての書き込みである。
 忙しかったからである。同人誌の締切りを巡る一連の日程もあったが、これからもまだ予定が目白押しである。1月の半分近くは予定が詰まっていて、中には一日二つの予定をこなさねばならない。ちなみに12日からは怒涛の5日連続お出かけとなる。

 普通の現役の人なら当然であろう。しかしこちらはもう85歳の退役族であるから大変だ。
 昨年の1月と比べてみて驚いた。昨年はそれほど大したことはないのだ。今年の半分ぐらいの予定しか入っていない。 

 これはどうしたことだろうか。偶然だろうか、それとも昨年一年間、老化防止のため付き合いの幅を広げるべく、無意識のうちに努力してきたのだろうか。
 
 もちろん、身体的な負担もあるかもしれないが、何も予定がないと3日でも4日でも家から一歩も出ることなく、人と口も利かないようなことになってしまって、これはやはり老化を進めるからよくはない。

 だから今年は、出歩く機会を大切にして、心身の健康を保とうと思うのだ。

 写真は、2日、帰省した息子夫妻とともに初詣でに出かけたものである。
 宗教を否定するものではないが自身は無宗派である。だから、初詣でも神頼みはとくにしない。民族習慣の一端としてそれを楽しむといったところか。

 行ったのは、子どもの頃、毎年行った加納天満宮。

      
         さすが中山道加納宿の主神、参拝の人も多い

     
     
        
     
     
        
        
  天満宮といったら学問の神様 境内の筆塚をおろそかにしてはいけない

 あとは今の住まいの近く、茜部神社と、わが家から徒歩5分の比奈守神社。

      
     
             上二枚は茜部神社にて

     
       比奈守神社の注連飾りが風情があって好きだ

     
    
         神社境内にある秋葉さんと津島神社

        
  さり気なくある石碑 明治22年、けやきやもみじを寄贈した人の記録  
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正月早々の悲惨!

2024-01-03 01:25:43 | フォトエッセイ

      

 能登は思い出の地。ほぼ60年前の20代後半から30年代、月一の出張で金沢へ出かけ、そこの代理店訪問で「おやつ」にといって出されたズワイガニの極太の足の美味かったこと!
 
 金沢駐留の人とともに能登の珠洲、七尾、輪島へはよく行った。雪の中を車ででかけたが、帰途、ドカ雪で当時の軽自動車では前進不可能。車を捨て、腰まであるような雪をかき分け、たどり着いた農家で最寄りの国鉄の駅を教えてもらい、やっと金沢へ帰ったことも。
 そんな思い出の地だから、その後家族で能登半島を海沿いで一周する旅に出たこともある。
 
 その能登が、揺らぎ、倒壊し、燃えてしまった。こんなの嫌だ!
 計り知れない自然の営みを解明しようという人たちがいて、その人たちには敬意を表するが、その人たちの予測をも超えて暴れるのが自然だ。
 
 羽田で飛行機が衝突したのは人為の事故で、やがてその実像は解明されるだろう。
 ただし、現在のシステムは精巧極まりなく、人間の秒単位での即応を要求する。にもかかわらず、人間の即応力は特に進化したわけではない。
 精巧なシステムと人の能力にあるバグの可能性。
 
 ともに、21世紀を象徴してはいないだろうか。

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