六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

眼下のツツジと旧友の遺稿

2016-04-29 18:06:52 | 花便り&花をめぐって
               

 私がPCや読書に疲れてフト目を上げる光景が華やいでいる。
 このまえまでは新緑一色だったのが、そこへツツジの白が加わったからだ。
 格子があるのは、別に牢獄にいるからではない。
 二階の部屋だから、ベランダの手摺りがあるのだ。
 手摺りの間からは下の写真のようになる。

               

 ベランダには久々の陽光で、木のシルエットがくっきりと模様を記している。
 この木は、桑である。
 ツツジも桑も、そしてツツジの背後のマサキも、ともに50年近い樹齢で、私とは長い付き合いである。

                    

 桑は伸びすぎるのでときどき伐るのだが、それに抗うようにさらに伸び続ける。
 その生命力たるやすさまじい。
 だからこそ、あんなに食欲旺盛なお蚕さんの飼料になるのだろうと思う。

                    

 あまり浮かれてもいられない。
 さきごろなくなった旧友のPCにあった遺稿が、その親族の方から送られてきた。
 膨大な数であり、メモ程度のものや、起承転結がはっきりしているものなど、千差万別だ。
 一番最近のもので、しっかり書かれているものは、私が同人誌に載せた小論への批判であることはいくぶん皮肉だが、それだけ最後まで気にかけていてくれたと解したい。
 彼を偲びながらじっくり目を通したい。
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青年が奏でる華麗なピアノに酔う

2016-04-28 01:37:22 | 音楽を聴く
 務川慧悟ピアノリサイタルへ行く。
 地元、旭丘高校から東京芸大を経て、2014年、パリ国立高等音楽院に審査員満場一致で合格し渡仏中。詳しい経歴は書かないが、逸材だと思う。いまに日本を代表するピアニスト、いや国際的に評価されるピアニストになると思う。

             
 
 弱冠23歳の青年は、気取ったところもなく、スタスタ(本当にそんな感じなのです)と舞台に現れる。しかし、ひとたび鍵盤に手を置くと、豊かな音が溢れ出し、あるときはピアノが軽やかに歌い、またあるときは重厚な唸りを発する。
 
 リストの難曲をらくらくと弾きこなす。そしてラフマニノフも。
 そうかと思うと、ラモーの曲をクラヴサンを思わせるタッチで弾いたり、ドビュッシーの繊細な音を醸し出したりする。

             
 
 一番いいことは、マナジリを決してではなく、ピアノを弾くことが楽しくてたまらない雰囲気が全身から伝わってくるところだ。そしてまだまだ伸びしろがあることを存分に感じさせるところだ。
 彼のピアノを何度も聴いたひとは、聴くたびにうまくなっているのがよくわかるといっていた。
 とても清々しいコンサートであった。

 彼が大成するまで生き延びて、またその演奏を聴きたいものだ。

  https://twitter.com/keigoop32
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『リザとキツネと恋する死者たち』と『オマールの壁』

2016-04-26 02:48:51 | 映画評論
 それぞれ、全く性格の違う二つの映画である。どちらがどうかではない。それぞれに違っていて面白い。

■『リザとキツネと恋する死者たち』

               

 日本びいきのハンガリーの監督が作った超絶ぶっ飛び映画。シャイな30娘・リザの周辺で起きる連続殺人事件、リザが引き継いだ日本大使未亡人の屋敷に住み着く陽気な唄う亡霊トミー・谷(トニー・谷ではない)、その家に間借りする不死身の刑事ゾルタン。
 奇妙奇天烈な世界のなかで、結論を言ってしまえば、臆面もなく、「愛は世界を救」ってしまうのだ。

      

 息をつく暇もなく、兎にも角にも面白い。監督のウッイ・メーサーロシュ・カーロイはハンガリーでも人気のCMディレクターで、長編映画はこれが初挑戦だという。
 これは日本人監督によっても、ハリウッドでも、決して真似できない手作り感満載の日本へのオマージュにあふれた作品だ。
 この面白さを言葉で表現することはとてもできない。私たちの想像力を超えているからだ。映画の中で流れる、昭和臭プンプンのポップ・ミュージックがとても楽しい。
 世の自称日本人たちよ、君たち(私も含むのだが)の住む日本は、こんなにも愛される資格があるのか。

■『オマールの壁』

 こちらが突きつけるものは重い。パレスティナに住むレジスタンスの青年オマールは、イスラエル軍に捕らえられ、拷問投獄の末、巧妙な罠にはまってスパイに仕立てあげられる。
 栄誉ある壮絶な死という選択肢すらない。九〇年の投獄かスパイとして「自由」の身か。

      

 主人公は、愛する女性やその兄のため、スパイを装いながらそうでないように振る舞う。しかし、そうした立場は彼だけではない。彼が漏らさなくとも秘密は漏れる。疑心暗鬼のうちに、彼は愛する女性からも見放される。
 彼は自己犠牲的に身を退くが、それでもなお、イスラエル軍からの情報要請や謀略への参加要請は一生続く様相を見せる。
 彼の決意は、彼をそんな窮地に追い込んだ大元を断つことだ。それはいささか唐突で衝撃のラストシーンとしてやってくる。

      


 なお、オマールの「壁」とは、イスラエルがパレスティナ地区分断のために設置したもので、その高さは8メートルとされる。映画の冒頭から、主人公がそれを越えるシーンが描かれ、それが幾度かにわたる。もちろんそれ自身が決死の行為だ。
 この壁は、パレスティナ人の尊厳に打ち込まれた壁であり、だからこそ、この映画のタイトルは「オマール」の「壁」なのであった。



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花たちとS君宅への弔問

2016-04-24 16:09:33 | ひとを弔う
 先に書いたが、60年来の友人を亡くした。
 家族葬ということで葬儀には出られなかったが、昨日改めて弔問に訪れた。
 お供えと花を用意した。
 花屋では、「大切な友だったから」と余分な口を滑らせたばかりに、じつにていねいに花を選定してくれ、それで終わりかと思ったら、またまたていねいに梱包してくれた。おかげで、予定していた列車に乗り遅れた。

            

 名古屋へ出て地下鉄。駅から住宅街を通って彼の家に。この道も若い頃からよく通った。
 数年前まで、正月は、親しい友人、小十人が彼の家に集まり、新年会、兼勉強会をするのが常だった。 その頃の足取りに比べると、どうしても重くなる。

 彼の家では、そのおつれ合いと彼の姪(この人ととも長い付き合い)とが出迎えてくれた。
 早速遺影に手を合わせる。それが置かれた部屋は、まさに、例年の新年会の部屋であり、同時に、私が延々飲んでいて終列車に乗れなかったりした折など、泊めてもらった部屋だった。

            

 おつれ合いは、まず、彼の勉強の痕跡を見てくれとその書斎に案内してくれた。
 書籍類はみんな捨てろとのことで、ダンボールに入れられたものもあったが、彼が最後の入院をするまで勉強していたらしい書籍も残っていた。
 それには、マーカーやペンで傍線などが付されていて、それが3色や4色に及ぶ。それらは同時に付けられたものではなく、その都度のもので、彼が何度も何度も読み返し学んでいたことがよくわかる。

 かたわらに、私が送り続けていた同人誌があるのを見つけて、パラパラとめくってみると、私の小論の箇所にやはり傍線や書き込みがなされている。批判的なものが目立つが、それでも少しジーンと来た。
 というのはかねがね彼は、「お前の書いたものなど読みたくない。封も切らずに捨てている」と悪態をついていたからだ。ちゃんとこんなにていねいに読んでくれていたとは・・・。

            

 夫人と彼の姪を交えてしばし思い出話を。夫人は、ティッシュの箱を抱え込んで、一言毎に涙を拭っていた。
 その話の中で、彼は生前、印刷されたものは残さなかったが、それでも最晩年はその意志があったようで、PCの中にそのフォルダがあるとのこと。それを一度送付してもらって、今後のことを決めることとした。

 何やかやで1時間半ほどおじゃましでお宅を辞す。
 帰途、地下鉄までの住宅街、立派なモッコウバラの生垣があった。しばらくゆくと慎ましい白い花が。卯の花かと思ったらちょっと違うようだ。それでも、ウツギの仲間ではないかと思う。

            

 今池によって、彼とよく行った店で、彼といっしょに飲んでいた連中に合い、弔問の報告をし、彼の思い出を肴に飲んだ。
 少し過ごしたかもしれない。
 夜は雨だった。







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若葉の季節に想う

2016-04-20 11:24:19 | 写真とおしゃべり
              

 若葉が萌えている。
 ここんとこ気が滅入って、必要な買い物以外の外出はしていないが、幸い、二階にある私の部屋の窓から若葉を満喫している。
 この20日過ぎからは、外出の機会も増え、「社会復帰」の機会としたい。

  
  


 巡る季節は、変化への期待を掻き立てるが、同時に、もはやそうした「伸びしろ」をもちあわせておらず、周辺からも失われるものが多い齢いを迎えた身としては、一抹の寂寞感を禁じ得ない。

              

 芭蕉の句、行春や鳥啼魚の目は泪(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)は「奥の細道」への出発にあたり、千住の船着場で見送りの人たちと別れる不安を呼んだ句で、上に述べた私の心境とはいささか異なるが、「逝く春」からの連想で中句、下句への流れもなんとなく符合するように感じられる。

              

 書かれたものは、こうして自分の心境のようなものを確認させると同時に、それに形を与えることによってある区切りをつけ、次への移行を促す働きもある。

              <photo src="v2:2209276988:l">

 そうした働きに期待して、この月末、若葉の季節に臨みたいものだ。
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逝く春に 花・地震・S君のこと

2016-04-17 11:22:28 | 日記
 春は逝くのが早い。
 ついこの間まで、ぱっと明るかった桜の並木も、何ごともなかったかのように取り澄まし、新緑へと衣替えしてしまった。
 気の早いたんぽぽはもう綿毛を飛ばし始めた。

               

 つい先ごろ、近所で見つけた菫の花も、今日通りかかったらもうすっかりしぼんでしまっていた。
 私の六〇年来の旧友も、逝く春を追うようにして逝ってしまった。

    

 人が逝くといえば、当初一桁だった熊本地震の死者数は、ついに数十人の規模に達した。
 普通、本震があって、余震は徐々に収まってゆくものだが、今回は後のほうが大きかった。ということは、前のものが予震で、後のものが本震だったというわけだ。
 いろいろな専門家や解説者が最初の地震について語っていたが、そして一様に、余震に注意とはいっていたが、それ以降にもっと大きな地震がくることを予測してはいなかったと思う。

               

 それを責めているのではない。ことほどさように、世界で起こる事象は不確定であるということだ。私たちが法則性と呼んだり、蓄積された知=経験知と呼んだりするものは、常に具体的な出来事によって裏切られてゆくものにすぎない。
 もっとも、知の方も取り逃がした事象をさらに包含しうる法則を求めて苦闘する。
 人間の知と生きた現実とのせめぎ合いこそが人間の歴史そのものなのかもしれない。

               

 それを、醒めた眼差しで見続けたのが逝ってしまった私の旧友だった。彼は、現実の変転をあるところで自分の都合のいいように停止させ、それをもって全体を理解しようとする思想を許せなかった。だから、それにいま一度現実を突き付け、その矛盾を指摘し続けた。
 それはあたかも、ソクラテスがしつっこい虻のごとくありきたりの知を振りまく連中に迫ったのと相似形とも思えた。

 それは、ある時は辛辣で、またシニカルでもあった。
 私は終始、圧倒され続けた。
 彼が逝ってしまったいま、私はいささか戸惑っている。
 彼は私にとって無言の参照項だったのだ。

 いや、これからもそうであろう。
 それが彼と生きてきたことの証であるし、ともに過ごした私たちの青春へのオマージュであるのだから。







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我が家の環境が大変貌を余儀なくされる

2016-04-14 11:32:17 | よしなしごと
 50年前、ここに居を構えたとき、周辺は田んぼばかりであった。
 私の家から100メートル四方には住居らしいものがなかった。
 それ以来、高度成長期の波が押し寄せ、田んぼが一枚二枚と宅地に転換され、一面の田園の中に各集落があるという風景から、その集落間の距離が縮まり、都市と田園とがせめぎあうマダラ模様の地域となった。
 
 このままどんどん都市化されてしまうのかと思われたが、前世紀末以来の不況で開発のスピードは鈍化し、マダラ模様はなんとか保たれてきた。
 しかしここへ来て、じわじわと田んぼが減り始め、私の家の周辺では大きな変化が起きようとしている。私の部屋の窓から見える何枚かの田んぼが一斉に姿を消し、建設機械が入って埋め立てや地ならしが始まったのだ。

              
 
 聞けば、大型のドラッグストアが進出してきて、その店舗とそれに付帯する駐車場になるというのだ。
 風景は一変するし、交通関連での影響も懸念される。不器用な私の、ガレージからの車の出入りはスムーズにゆくだろか。

 もちろん便利になる点もある。日用雑貨はバス道路をまたぎ、駐車場を横切れば手に入る。ある程度食品も置くだろう。ただし、各地のドラッグストアを見ても、生鮮野菜や魚類、肉類は既製品以外期待はできない。

              
                    私の部屋のベランダから

 今秋には完成するという。
 どんな建物かはまだ見えてこないが、それを取り巻く広大な駐車場といった環境の変化が何をもたらすのか、そのメリット、デメリットもまだ不詳である。

 ただ確実に言えることは、かつては様々な種類を数えていた野鳥たちの飛来は確実に減るだろうと思われる。

              

 余談だが、300メートルほど離れたところにある中型のドラッグストアの受ける影響は甚大だと思われる。熾烈な価格競争をしてくれれば諸費者には有り難いが、そのうちに消えるのではないかとも思う。
 地方の小型のスーパーが中型店に駆逐され、それらもまたさらに大型店によって蹴散らされるという食物連鎖のような様相をこの近くでも見てきたが、またもやそれが繰り返されるのだろう。
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映画を観てCDを買って酒と蕎麦(3)【おまけ】付き

2016-04-12 11:20:29 | 日記
 映画を観て、CDを買って、ものを食ったという単純な話を書き始めたのだが、脱線が多いのでダラダラと三回目になってしまった。
 しかし、考えてみたら、何を食って何を飲んだという話なんぞ、ネットにはあふれていて面白くもなかろうから、今回はサラッと書くことにする。

 行ったのが中央線の千種駅前のビルの地下にある店で、友人がネットで紹介していた店だ。ちょっとしたツマミで地酒を飲み、〆に蕎麦をたぐることができる。
 これで三度目ぐらいか。いずれも映画の帰りだ。

          

 最初は、はりこんで純米吟醸を飲んだが、吟醸香はするものの少しネットリしていて、当たりが強すぎる。季節の白和えなどが当てだが、酒のほうが勝ってしまう。二杯目は少しサラット系のものを選んで、これが当たりだった。

 買ってきたCDのジャケットやライナーノートを広げてさっと目を通す。両方共、洋版の原盤なので、理解するのにいささか手間取る。まあ、こんなところだろうと検討をつけ、必要な箇所は帰宅してから辞書をひくかPCの翻訳機能を用いて調べるしかない。 
 この店でも、BGMにクラシックがかかっていたが、ここのはやや趣が変わっていてブルックナーだろうか、重くて延々続く曲だった。

 蕎麦は美味い。いつもうちで乾麺を湯がいて食べているが、それとは別の食い物だ。しかしそれはそれでいい。乾麺から手がけた自家製のものはまたそれでいいものだ。

 中央線、東海道線、バスを経由して帰宅。

 とまあ、こんなありきたりの話だ。しかし、家に閉じこもってポチョポチョやっている機会が増えた今日このごろ、会合から始まり、映画にCD選び、それに酒と蕎麦という一日は、私にとってはけっこう刺激的な日だった。

【おまけの余談】これは昨日のことだが、外出先から帰って玄関ヘ向かうと、自転車に乗ったおっさん(私と同年輩)が近づいてきて、「◯◯くんでは?」と問う。まさにその〇〇君だから、「そうですが」と答えると、「僕、誰か分かる?」ときた。どっかで見た感じだが名前などはとんと思い出せない。「顔は覚えているが名前は思い出せない」と正直に答えると、「中学校の同級生」とのこと。
 
 少し絞りこまれたとはいえ、当時の同級生は8~9クラスあって、しかもひとクラス50人ほどであったから400人ぐらい候補者がいるわけだ。でもこれだけ親しく口を利いてくるというのはクラスも一緒だったとうことだから数十人に絞り込める。それに半分は女性だったから二十数人が候補だ。
 
 順に記憶を手繰り寄せてゆくうちに、ふとある名前に行き当たった。とくに親しい仲でもなかったので自信はなかったが、どうもそれしかないということで、その名を口にしてみた。
 それが正解で、それまで意地悪そうにニヤニヤしていた彼の表情が変わり、「よく覚えていてくれたね」といささか感動気味だった。卒業以来六十年余のあいだ(その間ろくすっぽ同窓会もなかった)を置いての再開であったから、初対面に等しかった。
 お互いに「いま何やっとるの」とか、当時の同級生の動静などの情報交換をして別れた。

 しかし、彼の名前を思い出せたことは我ながら奇跡的であったと思う。
 なんか、少しだけ、自分に自信が持てた気がする。
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映画を観てCDを買って酒と蕎麦(2)

2016-04-09 17:28:07 | 音楽を聴く
 前回は、映画を観て、CDを買って、酒と蕎麦を味わってといろいろ書くつもりだったが、例によって脱線が著しく、映画館の話だけで終わってしまった。
 今回はその続きである。

 映画館をでたのは午後五時少し前だった。
 つい先ごろまで、五時になればもう薄暗かったのだが、陽が長くなってまだまだ明るい。いくら酒好きでも、何となく明るいうちに盃を傾けるのははばかられる。

 映画館を出て少し歩き、今池時代に世話になった旧友の張さんが営む、CD、レコード、DVDなどの中古盤専門店、「ピーカン・ファッジ(P-CAN FUDGE)」に立ち寄ってみた。
 今時は、音楽はネットで契約したり、それからダウンロードしたりして聴くのが若い人たちの主流のようで、こうした物質的な媒体を介してのそれは激減していて、ひところに比べれば店も寂しくなったと張さんが嘆いていたが、それでも店内には、いろいろ物色する何人かの客がいた。

              

 映画は劇場で、音楽は物質的媒体でが主流である保守人間私も、早速その仲間になり、掘り出しモノを物色し始めた。
 結局、CDの数にすると三枚買ったのだが、そのうち二枚は組になったものだ。

 一枚物はバーンシュタイン版のモーツァルト「レクイエム」。
 これで「レクイエム」は三枚目だ。
 一枚は、ミッシェル・コルボ指揮の リスボン・グルベンキアン管弦楽団、合唱団(1989年)のもの、もう一枚はペーター・シュライヤー指揮でドレスデン・シュターツカペルレとライプチヒ放送合唱団(1982年)。

 今回買ったバーンシュタインのものは、バイエルン放送交響楽団と同合唱団によるもの(1989年)。なお、この盤でテノールを歌っているジェリー・ハドリーは2007年に自殺を図り、一度は未遂に終わったようだが、その後、やはりあの世へ行ってしまった。

 「レクイエム」はほかにFM放送からエアー・チェックしたもので、先ごろ(3月5日)亡くなったアーノンクールが1991年にザルツブルグ祝祭劇場で指揮をしたライブを録音したものを持っているので、それも引っ張りだして聴いてみた。
 この、アーノンクールのライブでは、未完成のこの曲を、通常演奏されるジェスマイヤーが補作したものではなく、モーツァルトが未完成で残したままで演奏している。ただし、それでは締りがないので、その後に、同じ年に作曲したモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K618)という合唱曲をくっつけるという変則版だ。だから、通常五十数分の演奏が、37分足らずで終わっている。
 ただし、これもなかなかいい。

                        

 なお、同じ91年8月末、ザルツブルグの大聖堂のドームコンサートで、ジュリーニが振るウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場合唱団の「レクイエム」を私はナマで聴いている。モーツァルトが洗礼を受けた場でそれを聴くのはその臨場感とあいまって大感動ものであった。

 さて、「レクイエム」のCD三枚を少し聴き比べてみたが、バーンシュタイン版は総じてテンポが遅い。「Lacrimosa」などは他の盤が3分台なのに5分38秒という長さだ。まるで他の曲のようだ。
 私としては、最初に買った、ミッシェル・コルボのものがいちばん馴染める。まあ、いちばんよく聴いているので、身体的に刷り込まれているのかもしれない。

      
 
 もうひとつ買ったのは、モーリス・ラヴェルのさまざまな曲を2枚組のアンソロジーにしたものだ。ラヴェルは分散して音源を持っているが、まとまったものはもっていないのでこれぞと思ったわけだ。
 演奏は パリ国立歌劇場管弦楽団が主体。指揮はマニュエル・ロザンタル。この人、2003年に亡くなっているが、ラヴェル末期の直々のお弟子さんで、作曲法などを学んでいる。その意味ではラヴェルのアンソロジーを編むには最適な人かもしれない。

 一通り聴いたが、ラヴェルの音楽はじつに多彩で豊かである。ひとつひとつの曲想が判然と異なっていて聴いていて飽きることがない。

 もうひとつ気に入っているのが、この二枚組CDのジャケットというか装幀というのかそれらがとても洒落ている点だ。絵はモジリアーニの「扇をもつ女性の肖像」である。
 内側にも手抜かりはない。それらがCDの盤面の色合いとも良い調和を保っている。視覚的にも十分楽しめる。
 さすがフランスの原盤だけのことはある。
 ライナーノートがフランス語なのはちとつらいけど。

 またまた長くなってしまった。
 なかなか酒や蕎麦にはありつけない。
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映画を観てCDを買って酒と蕎麦(1)

2016-04-08 01:19:52 | よしなしごと
 先般、名古屋である会合に出たあと、今池へ寄った。
 まずはお目当ての映画を観る。
 今池での映画は、なんといっても「名古屋シネマテーク」で観ることが多いのだが、今回はそうではなくて「キノシタホール」。
 ここへも時折、足を運ぶ。

 ここは、私にとってはとてもありがたい映画館なのだ。
 映画が好きではあるが、岐阜に住む身、観たい映画の大半は素通りである。
 したがって名古屋へ出るのだが、映画だけのために名古屋ヘ往復するのはいささかつらい。
 シニア料金で映画を観る身としては、映画代よりも交通費のほうが倍ぐらいになってしまうのだ。
 もちろん時間もかかる。往復のそれは映画一本分の倍近くになるからそれだけで一日仕事だ。

                
          キノシタホールへの階段 エレベーターもあるがこの階段がお気に入り

 そこでキノシタホールの出番だ。ここは、私が名古屋へ出る機会と合わなくて観過してしまったものをしばらくあとに上映してくれるのだ。
 いわば良質の映画の二番館なのだ。

 にもかかわらず、観客の少ないのは気になる。
 良質の映画をとても良い環境下で観せるのだからもっと多くの人が来てもいいはずだと思う。
 いつかなど、観客は私一人であった。もったいないやら申し訳ないやら複雑な気持ちであった。

 ここでいちばん多く入っていた記憶は、もう20年ぐらい前になるだろうか、いまのようにきれいに改装される前だったが、やはりリヴァイヴァル上映の『天井桟敷の人々』上映の折だった。
 この折には満席とはいわないが、いつになく大勢の人が入っていた。

 3時間10分という長い映画ではあったが、息つくひまもないほどの充実した映画が終わり、エンドロールが終わってもしばらくは席を立てないほどであった。
 そのとき、何かしら異様な雰囲気を感じて、斜め前の席をみると、和服姿の妙齢の夫人が、ハンカチを顔に押し当てて静かに泣いていたのだった。
 映画にも感動したが、この情景そのものにも感動した。

                

 考えてみれば、私が映画に親しむようになったのは、学校からの集団鑑賞を除けば、学校を出ていくぶんデスペレイトになっていた時期、当時、名古屋の電停毎にあったような場末の二番館で、土曜日の夜など、三本立て50円のプログラムをろくすっぽ内容すら確かめず、半分酔醒ましのように入っていた時期だった。

 美男美女のラブロマンスやチャンバラ映画の合間に、「これは」といずまいを正して観るようなものがままあった。
 思い出すのは、『豚と軍艦』や『貴族の階段』などだ。
 それが、私が映画を主体的に見るようになった原点かもしれない。

 キノシタホールへ話を戻そう。
 先般、観たのは『黄金のアデーレ』だった。
 それについての感想はすでに書いた。

 その後のCDの購入と酒と蕎麦について書くつもりだったがもう十分長くなってしまった。
 続きは次回としたい。
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