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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

推理小説とクラシック音楽(2)『ケッヘル』 過剰と欠落

2013-04-29 02:36:48 | アート
 ケッヘルは、第一義的には音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者として活躍したルートヴィヒ・フォン・ケッヘル(Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Köchel 1800-1877)の人名である。
 
 しかし何といっても彼の名を後世に残したのはW・A ・モーツアルトの作品を整理し、ほぼ作曲年代順に番号を付したことにある。
 それはいわゆるケッヘル・ナンバーといわれ、K525といった具合に表示される。今日では、博物誌的な才能の持ち主だったこの人の業績のなかでも、このケッヘル・ナンバーのみが残った形であるが、ケッヘルを連発するモーツァルティアンでも、それがこの人の人名に発するものであることを忘れている人が多い。

        

 ちなみに、モーツアルトの楽曲はK626までを数え、バッハの1000を越える数には及ばないが、バッハが65歳まで生きたのに対し、モーツアルトが35歳でその生涯を閉じたことを考えると決して少ない数ではない。しかもこのケッヘル・ナンバーでは、数々のアリアや合唱曲、それに前奏曲や間奏曲を含むオペラも一曲にしか数えられていないから、それらを加えると700に迫ることだろう。

 ポピュラーな曲でいえば、セレナーデ「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」はK525、交響曲40番はK550、オペラ「魔笛」はK620、そしてその白鳥の歌、「レクイエム」は最後のK626となる。
 私が書きかけた小説、『K627 チェロ協奏曲第一番』は、モーツアルトがそのソナタでも協奏曲でも決して書かなかったチェロの曲の発見に関わる仮想の物語であるが、その冒頭部分で挫折したままである。

 この辺までは知っている私であるが、小説の世界などには暗く、図書館で『ケッヘル』という本を見かけた時には、冒頭で見たケッヘル氏の伝記的な作品かなと思い、お目当ての他の本のついでに気楽に借りてきた。

        

 しかし、この本、『ケッヘル』(上・下 中山可穂 文藝春秋)は案に相違して、推理小説であった。発行年が2006年であることからして、この前に紹介した『シューマンの指』(奥泉 光)がシューマン生誕200年に書かれたように、この書はモーツアルト(1756~91)の生誕250年に合わせて書かれたものだろう。

 この本でのケッヘルは、むろん、もっぱらモーツアルトの楽曲の番号としてのそれにとどまるのだが、そのナンバーにまつわる話は、とりわけ前半においては重要な役割を担っている。

 この物語は、親子三代にわたる壮大な規模を持ち、それ故、上下2巻にわたるのだが、推理以外の要因としてはやはりモーツアルトとその音楽に関する薀蓄がある。しかしこれは、『シューマンの指』ほどマニアックではないかもしれない。たとえそうでも、それが醸し出す雰囲気だけ味わってスルーしても小説の受容にはほとんど関連はない。

            

 推理以外のもう一つの要因は「愛のかたち」についてである。ここに登場する愛は、放縦なもの、ストイックでプラトニックなもの、そして、いわゆる「ビアン」なものなどと多彩である。このビアンな愛にはいささか面食らったが、中山可穂さんは自らそれをカミング・アウトしているようだ。SNSには一般的なファンサイトと、加入には審査が必要な女性専用サイトとがある。

 登場人物はそれぞれ、極めて過剰なものをもっている。そうした過剰は、しばしば反面としての欠落をも示すもので、この小説でもそれによる危うさやエキセントリックなものが秘める自傷的なものが語られている。

        

 推理小説としての評価は、例によって避けるが、犯人探しの面では、一度ある容疑者を浮かび上がらせ、それからミスリードを図るようにほかを示唆し、更に曲折してループ状に戻るという操作が行われていて、納得する反面、やや、物足りなさも感じさせてしまう。
 読者の感想など参照したら、「あいつが犯人であって欲しかった」などというものが複数寄せられていて、その意味では期待はずれであったかもしれないが、同時に読者の期待をうまくはぐらかした面では成功といえるかもしれない。

 この書の面白さは、事件の推理を離れて、過剰なゆえに欠落を背負う人間を描いていることかもしれない。
 この点では前に書いた『シューマンの指』とも共通しているし、ミステリアスな幻のピアニストが登場するという点でも似ているといえる。

 余談であるが、ストイックな愛とビアンなそれとはなにか共通するのだろうか。
 この書がそうであるように、中山可穂さんはあえてそれを並行して書いたのだろうか。

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【夢で逢いましょう】緑色の服の女性と「寿限無」

2013-04-28 02:03:18 | ポエムのようなもの
 昨夜はたくさんの夢を見た。
 全部を記録すると短編小説集ができるほどいくつもの多彩な夢だった。
 しかし、それらをちゃんとした文章に書き記すだけの能力を持ち合わせていないので、とくに印象が深かったものをひとつだけ書き留めておくことにする。


         
 
 僕はまだ高校生かその少し上ぐらいの若者だった。
 プールで泳いでいると誰かが見つめているような気配がした。目を上げると少し離れた高台の家の庭に、緑色の服を着た女性と2、3歳ぐらいの子供がいてこちらを見ていた。親子らしい。
 プールから上がった僕はそこへと行ってみた。
 
 しかし、そこにはもう先客がいて、なんとそれは、僕が飼っていた「寿限無」という名の犬であった。
 寿限無は、その幼児と戯れているというか、むしろその玩具になっているようで、耳を引っ張られたり、口の中に拳を入れられたりしていた。
 野性味いっぱいに育ててきた犬なので、なんかの拍子にその幼児に噛み付いたりするのではと少し気になったが、緑の服の女性は先回りするように、「すっかり遊んでもらっています」と穏やかに微笑みながらいった。

 そこへ、幼児の兄にあたると思われる小学生ぐらいの少年が息せき切って現れて、「ねえ、母さん、今度のサッカーの試合、見に来てくれるよね」と念を押すように尋ねた。
 女性は、あいまいな表情のまま、「さあ・・・」と首を傾げた。
 少年の表情が曇ったのを見た僕は、「大丈夫だよ、お母さんはきっと行くと思うよ」といった。

 少年は僕の方を見据えて、「じゃぁ、お兄さんも来てよ」といった。
 とっさに僕は、「いや、いろいろ事情があるから」といってしまった。
 「そうよね、みんな、いろいろ事情があるのよね」と女性が自分の足元に視線を落として淋しげにつぶやいた。
 少年はその母と僕とを交互に見つめた。
 幼児は立ち上がって自分の居場所を探しているようだった。
 寿限無はというと、いつのまにか僕の足元へ来て寄り添っていた。
 女性だけが、遠くを見る眼差しで白い椅子にかけていた。
 
 まるで、芝居のラストシーンのような情景のなかで僕は困惑して立ち尽くしていた。
 彼女が着ている服の緑が視界を遮るように広がるなか、僕はなにかとてつもない嘘を振りまいてしまったかのように自分を責めながら、胸が苦しくなって目が覚めた。



 
 なぜ、その少年に、「よし、じゃあ見にゆくか」といってやらなかったのかと思ったのは目覚めてからだった。あの若さの僕に「いろいろな事情」などあるはずがなかった。
 しかし、そのことが重要だったのかどうかもわからない。
 この夢をあえて解釈しようとは思わない。
 覚めた後しばらくは、キューンとした郷愁にどこかでつながるような気がした。
 登場する人間はすべて見知らぬ人であったが、犬だけは紛れもなく寿限無であった。
 その寿限無も世を去ってからもう20年になる。
 
 もちろん、この夢に似た経験などは一切したことはない。
 
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推理小説とクラシック音楽(1) 『シューマンの指』

2013-04-26 15:27:57 | 書評
 写真は内容とは関係ありません。この時期の果実の赤ちゃんたちです。
   上から、梅、桑、琵琶、柿の花、おまけは南天の若葉


 もうだいぶ前になりますが、あるところでシューマンについて話したことがあり、その際、なんかの参考になればと思って読んだのが『シューマンの指』(奥泉 光 /講談社 2010)という小説でした。
 
 この発行の年は実はシューマンの生誕200年で(Amazonでは100周年となっているがこれは誤り 彼は1810~1856)、この本もそうした200年祭の一環として書き下ろされたものものでした。
 各種コンサートではシューマンの曲が取り上げられていました。ただし、どちらかというと前期のピアノ曲、歌曲、交響曲、それにピアノ協奏曲などが主であったような気がして、いくぶんもの足りなく思ったものでした。

        

 この本を一口でいうと、シューマンに関する蘊蓄や思い入れが散りばめられた推理小説ということになりますが、その薀蓄はけっこう微に入り細にわたっていますから、クラシックファンやシューマニアーナにとっては面白いのでしょうが、それらに全く関心のない人には幾分苦痛かもしれません。
 もっとも、そこに醸し出される雰囲気のみを味わって微細な点はスルーしても小説としては成り立っていますから決して読めないということではありません。

            

 そのシューマンに関する蘊蓄ですが、私にとってはさほど目新しくはありませんでした。それは私自身、半年間ぐらいかけて、シューマン関係の文献を10数冊読み漁っていましたし、結果として、この本の巻末にある著者が参照したという文献がそれらとほぼ一致していたからです。
 また、たくさんの曲を、たとえばピアノ曲を全曲CDで聴いたり、とくにあまり演奏される機会が少ない後半(狂気に陥る手前のもの)のさまざまな曲を聴いたりしたことにもあります。

        

 推理小説の結末や評価をいってしまうのは、殺意に等しい憎悪を呼ぶこともあるようですからそれには触れませんが、ひとつだけ、これを読むための前提として知っておいたほうがいいことを書いておきます。それは、シューマンという人が当初、ピアニストになろうとして練習をしすぎたため指を傷め、作曲家になったという伝記的な事実です。それがこの本のタイトルとも、そして内容とも結びつきます。

        

 ついでながら、ある音楽評論家は、「シューマンはよくぞその指を傷めてくれた。おかげで後世の私たちはその素晴らしい音楽を聴くことができるのだから」といっています。
 たしかに、彼がどんなに優れたピアニストになっていたとしても、その時代にはまだ録音技術というものがありませんでしたから、私たちのもとへは届きようがなかったわけです。

        

 推理小説の常として、エピローグが同時に謎解きになるのですが、この作品の場合、いくぶん書き過ぎな感じがあり、もう少し手前であっさり終わっていたほうがという気もします。まあ、著者のサービス精神過剰か、原稿が所定の枚数に至らなかったからかもしれません。

 もう少し突っ込んだことが書きたかったのですが、推理小説の評価というのは難しいですね。それに触れようとすればどうしてもネタバレになってしまいますから。
 まあ、お読みになって、「あ、あいつのいってたのはこのことか」と思っていただければということでお茶を濁しておきます。
 

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届いた血圧計と「生政治」との関連について

2013-04-23 17:12:15 | よしなしごと
          

 わが家には血圧計というような文明の利器はなかった。
 診療所へ行くたびに測ってくれるし、幸いにもあまりケアーする必要がない数値内に収まっていたからである。
 具体的に言うと最高が130前後、最低が70台といったところであった。

 ただし、これは昨年までのことである。
 今年になってその自信が揺らぎ始めた。
 時折、高いほうが150台になるのだ。
 しかし、また次回行くと130前後に戻っている。
 まあ、これなら誤差の範囲内かと医師もいってくれたし、自分でもそう思っていた。

 先般の日記にも書いたが、岐阜大学医学部での「糖尿病の発症と関連する遺伝子の解析研究」の無作為抽出の検体として出向いた際に、まずは血圧の測定があった。
 出た結果に驚いた。
 170台の後半を指していたからだ。
 「少し高いようですね」と教授(女性)は眉を曇らせた。

 この数値はややショックだった。
 十数年前脳梗塞で倒れた折、その後に測った数値でも169だったのだ。
 でも、急に環境が変わって、見慣れない女性の教授とさほど広くない研究室にふたりきりになったせいだろうと自分に言い聞かせていた。

 それからしばらくして、行きつけのクリニックでやはり血圧を測った。
 やはり、170台だった。
 クリニックの医師(女性)もさすがに警告を発するところとなった。
 今年に入ってからの平均がアベノミクス以降の株価状態だったからだ。

 そこでやっと決意をした。
 血圧計を買うことにしたのだ。
 ネットで調べると、手首式のものは2,000円ぐらいからある。
 しかし、上腕式のものに比べると精度が落ちるとある。

 あまりでかくなくコンパクトなもので上腕式という基準で選んだ。
 3,000円台の後半で手頃なものが見つかった。
 今日それが届いた。

 で、早速測ってみて驚いた。
 なんと、184―93ではないか。
 今までの最高値である。
 「お前はとっくに死んでいる」といわれたようなものだ。
 もう一度測ってみたが、やや下がったのみである。
 そういえば、今日は多少熱っぽくて軽い頭痛もする。

 さいわい、今日中にし上げ無ければならないこともさしてないので、昼寝をした。
 うとうとしながら、こんな短編小説を思いついた。
 血圧を気にして血圧計を買い、それが届くのだが、それが到着して「宅配便で~す」と玄関で告げる声を聞きながら、発作を起こして死んでゆく男の話である。
 ちょっと皮肉だが、リアルすぎてあまり面白くはない。

 午睡から覚めて、お茶をいっぱい飲み、もう一度測った数値が上の写真である。
 145ー73(脈拍68)。
 少し安堵したが予断は許さない。

 昨夜読んだ「生権力」、「生政治」に関しての本には、諸個人が健康への留意を図るということが極めて近代の事象であり、そうしたミクロな事態の積み重ねの上に、国家は、人口の管理、出生率、死亡率、衛生や環境というマクロな事業を、それにかかるコストとの兼ね合いのなかで進行してゆくのだとあった。

 とするならば、私の行為もそうした「生」をめぐる近代の権力構造による無言の指示によるものであり、同時にそうした構造の一環をなしているともいえる。
 医学・薬学の研究関連や病院や諸治療機関はもちろん、老後の諸施設、さらには、健康ジム、それによくわからないサプリメント関連を含めると、今や広い意味での健康関連の分野は一大産業をなしているといえる。


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【今日の朝刊から】時事性のある短歌たち

2013-04-22 14:13:51 | ポエムのようなもの
                              桑の新葉、小さな果実たちもスタンバイというかこれが花なのだ
 
   かつて、時事川柳をせっせと投稿していた時期があった。
   短歌にも時事性の強いものがある。
   以下は、4月22日の『朝日歌壇』、佐佐木幸綱・選によるものである。



     

     同僚は白いベールの向こう側退職決めて景色は歪む
                     (大洲市 村上 明美)
 
     ふくしまの何に寄り添う寄り添わぬもとの生業返してほしい
                    (二本松市 安田 政幸)

     グランドに重機の重き音響く津波被災の色無き校舎
                    (南相馬市 深町 一夫)

     値段かと1.998の案を見る希望を語る年度初めに
                     (弘前市 今井  孚)

     例外で武器輸出する永田町違憲の人が違憲の行為
                     (小浜市 津田 甫子)

     嘘という種には嘘の花が咲く原発事故はぺてんの如し
                     (三郷市 岡崎 正宏)

     原発の事故はなかったことにするそんな動きがじわりと見えて
                     (坂戸市 山崎 波浪)

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【ある日の六】歩いた! 観た! 飲んだ!

2013-04-21 00:37:09 | よしなしごと
 ここんところ運動不足で血圧も上昇気味、したがって時間が許せば歩くことにしている。
 過日も、名古屋市中区の上前津での会合を終えたあと、伏見まで歩くことにした。
 伏見といっても京都のお稲荷さんではない。同じ名古屋の中区である。地下鉄にして栄経由だと3駅分、鶴舞線だと2駅分ほどになる。

    

 目的地へ着くだけではつまらないので、野次馬根性全開のなんでも観てやろうモードにし、しかもあまりこれまで通らなかった箇所をと歩く。しかし、今どきの都会、そんなに風変わりなものがあるわけではない。

 大須のアメ横近辺を通る。20年ほど前、このへんでパソコンを買ったことがあって、その頃はよく出入りしていたが、今回は久しぶりだ。なんだか往時のほうが活気があったような気がする。
 パソコンを始めとするIT関連の黎明期とあって、そうした熱気が辺りに渦巻いていたのだろう。

    

 そこを通りすぎて名古屋自慢の100メートル道路に出る。銀杏並木が新緑をまとって眩しいほどにきらめいている。路上生活をしているらしいひとのアジトを発見する。この辺りでは、かつて青テントがちょっとした集落を作っていたのだが、機動隊まで動員した掃討作戦により、一斉に撤去されたと聞いていた。
 雑然と並んだものは、それ自身の秩序を備えていて、巧まざる絵模様をなしている。

 歩道橋を渡ると、市の美術館や科学館がある白川公園に至る。ウイークディの昼下がりとあって広いグランドには人っ子一人いない。いきなり頭上で、ヴィーンと音がするので見上げると、伸びすぎた樹木の枝を切る作業をしていた。せっかく伸びたのにとみるか、都会の公園で育ててもらっている樹木の宿命とみるか。

    

 公園をなはれると道路の反対側に名古屋での歌舞伎の殿堂、御園座が見えるはずなのだが、4度目の建て替えのために休館中とあって、外観は普通のビルに過ぎない。
 再建の着手は2年後で、完成は5年後だというから、私はそれを見ることができるだろうか。

 あちこちふらふらしながら目的地の映画館に着いた。さて、チケットを買ってロビーで少し本でも読んでいればやがて・・・と思ったのだが、ない!ないのだ!これから観るはずの映画が。
 カウンターで尋ねたら、「あ、それは明日からです」と、いともあっさりと宣告された。
 え?え?え? じゃあここまでえっちらおっちら歩いてきた私の労力はどうなるのだ。

 

 ムダにするわけにはゆくまい。その日のプログラムをよく見直したら、30分ぐらい待つと『アンナ・カレーニナ』を上映するとある。まあ致し方ないかとそれを観ることにする。
 内容は知っているといえば知っているのだが、それを映像でどう見せてくれるかだ。
 結論をいえば、舞台構成を模した実験的な映像といえるのだろうが、やはりやり過ぎの感があって、ストーリーに馴染みかけた頃にそうした演出がナマで出てくると、かえって興をそがれることとなる。
 ちょっと才に走りすぎたというところか。

 帰途、時々行く居酒屋のカウンターの隅で、遅い夕食兼晩酌。
 「〆張鶴」の純米吟醸酒がうまい。
 ちょっとした小説を読みながらちびちびやっていたら、すぐにグラスの底が見えたのでお代わりを。
 翌日、近くのクリニックへ行ったら、「血圧が高い」といわれてしまった。
 
    

 それからほとんど二日間をかけて、一応、宿題として与えられていたものをやっと為し終えた。とてもたくさんの仕事をこなしたように思うにもかかわらず、なぜか達成感がない。
 漠然とした不安が澱のように全身に残ったままだ。
 きっと、老人性のメランコリーだろう。


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【北からの連想】ミサイル? 演歌? そうではなくて・・・

2013-04-18 00:52:49 | 写真とおしゃべり
 私は地方都市の郊外に住んでいます。その都市の南のはずれに近く、車で5分も走ればほかの街へと至り、更に数分で愛知県へと至ります。そこから南へは濃尾平野が広がり、もう、山地は見られません。
 一方、この都市の北の郊外は、この県の90%を占めるという森林や山地へとつながっています。いわば、濃尾平野の突き当りなのです。

 
 
 こうして、同じ都市に住みながらも、仕事などで行き来をしない限り、かなり異なる環境や風情を相互に味わうことは稀なのだろうと思います。私もご多分に漏れず、北の方についてはあまり良く知らないのです。

 過日、そちらへ出かける用件ができました。
 地元の岐阜大学の医学部が、無作為抽出した何千人かの人間を検体として、「糖尿病の発症と関連する遺伝子の解析研究」とやらを行うということで、宝くじなどの抽選ではめったに当たったことのないこの私も選ばれたのです。

 
 
 私にとってのメリットは、無料の血液検査と、検査時間中の駐車料金がかからない(当然ですが)ということぐらいしかないのですが、私の提供する血液が糖尿病と遺伝子の関連を明らかにし、将来の新薬の開発、予防や治療に役立つとあって、任侠道に生きる私としては捨てては置けないのです。

 
 
 ここは強調しておきますが、この研究の成果が私のために役立つということは時間的にもまずありえなくて、あくまでも将来を生きるあなた方若い人のためなのですぞ。
 そのためにこそ私は一身をなげうって(といっても朝食を抜いただけですが)、馳せ参じたのです。

 
 
 で、なんでこれが郊外の話と結びつくかというと、岐阜大学はまさに北の郊外のはずれに位置するのです。検査そのものは説明も含め小一時間ほどで済み、おまけに人の目をしっかり見て話す女性の教授に、「お歳よりもお若く見えますね」などといわれて舞い上がったままそこを出たのですが、せっかくここまで来て、またまた南の端へ戻ることはありません。
 北の郊外の空気をいっぱい吸ってから帰ることにしました。

 
 
 幸いにも、名古屋など大都市に向かう南の方と違って、道路もすいていて、というかめったに車が通りかからない道もあって、道端に車を止めて風景を眺めたり、写真を撮ったりする余裕が十分にあるのです。
 
 写真の説明はいちいち行いませんが、川では白鷺が遊んでいたり、梨畑ではまさに満開の白い花が笑っていたり、柿畑の芽吹き、昨秋のままの枯れすすきの堤防道路を走るパトカー、山の端にぽっかり浮かんだ白い雲、などなど、やはり南の田んぼの息吹とはかなり違う山の香りが立ち込めています。

 
 
 美味しそうな空気を胸いっぱい吸い込んで帰途についたのですが、途中、「畜産センター」というところに差しかかりました。名前は聞いたことがあるのですが来たことはありません。
 駐車場に車を止めて場内を散策しました。
 動物たちのほとんどは畜舎のなかにいましたが、それでものどやかでいいところです。
 平日とあって、見かけたのは子供連れの若夫婦(奥さんのお腹には二人目が)と、こんなところでと思うようなとても感じが良い若いカップルのみでした。

 
 
 ちょっと小高いところに馬場があって、馬術の練習でもと期待したのですが、もやはそれらは終了したらしく、馬が一頭とその手入れしている人がいるのみでした。
 
 かくして私のプチ冒険旅行は終わり、人類の未来に貢献した(なんとまあ大げさな)ご褒美として、山が近く、もはや新緑の候ともいえるさわやかな北の郊外の空気を満喫することができたのでした。

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象徴を生きたひと 水村節子『高台にある家』を読む

2013-04-16 03:28:33 | 書評
 この本を手にした動機は二つある。
 
 ひとつは、『日本語が亡びるとき』という評論集を読んで以来、読み継いできた水村美苗さんの小説、『私小説』『本格小説』『母の遺産 新聞小説』などで示唆され、とりわけ最後のものではその死に至るまでの過程が記されているその母、水村節子さんというひとがいるのだが、まさにその節子さんが書いた小説だからである。
 ちなみに、節子さんのこの小説は2000年の作であり、それに対し、美苗さんの節子さん(小説中では紀子さん)に触れた最後の作品『母の遺産』は2012年のものである。

 美苗さんの『母の遺産』には、「新聞小説」というサブタイトルがついていて、水村さん(とその姉)、その母・節子さん、そして「お宮さん」と呼ばれた祖母との三代の女性たちが、日本の近代をどのように受容したのかという視点があり、「新聞小説」というのは、この小説が実際の新聞に連載されたことと、そして祖母の「お宮さん」が、尾崎紅葉の新聞小説、『金色夜叉』を読むなどして、恋愛と結婚との相関関係を近代風に受容してゆくこと、さらには、それがその後の女系に何らかの影響を与えてたことなどが描かれている。

             

 したがって、美苗さんからみた母(『母の遺産』では紀子さん)を読むのみでは不公平であろうと思われる。とりわけ、その死期に近い母の描写では、母自身がその若き日に何を夢見てどう生きたのかははっきり描かれてはいない。
 そこで、その母、節子さんが書いたものをもと触手をのばした次第である。

 この書を手にしたのには、もう一つの動機もある。
 この節子さんは本来文筆の人ではなかった。だから、母・節子さんと娘・美苗さんは、いわゆる世襲のようにして物書きになったわけではない。むしろ逆で、美苗さんの方がさまざまな意味で注目されるようになった後、母の方がこの書を上梓したのだった。しかも、70歳を越えてから文章教室へ通い、努力を重ねること数年にして78歳の折にやっと出版にこぎつけたという。 
 
 彼女の文筆活動の期間は、私自身が勉強しながらものを書き始めた年代とまさに一致し、それがゆえにシンパシーを感じるのである。
 78歳まで長らえることができたら、小説の一つも書いてみたいのだが、小説には小説の独自の文体があり、私には無理だろうと思う。

 さて、この書の内容であるが、主として、自分(=節子さん)とその母とを関連させながらの自伝的なものである。
 最初は、その母が芸者稼業の果てに三人の男と関わり、何人かの子をなし、最後の男である作者の父からも捨てられ、その父がまた新しい妻を迎えるとあって、人間関係はきわめて錯綜しており、容易には把握できない。私がさらっと書いたこれらの内容も、読み進むうちにやっとわかる事実である。
 しかし、その中での母の置かれた位置は、大正から昭和にかけての女性の立場、またそれを取り巻く富裕と貧困の格差などを通じて次第に明らかになる。

           

 そうしたなかで主人公・節子はというと、母の生きた世界からのテイクオフを夢見る女性である。そして、その上昇志向の象徴が、父の姉の嫁ぎ先、「高台にある家」なのである。そこには、俗を超越したようなまさに近代のロマンがあるかのようにみえる。したがってそれは、しばしば母の仕草などを嫌悪しながら育つた若い節子が目指すべき重要な参照項なのである。

 小説は、母の俗な世界から逃れた節子が、一応、「恋愛を経由した結婚」(これもまた近代の重要な要素なのである)を成就したことによって閉じられるかのようである。しかし、節子のその後を知る者にも、そして知らない者にも、これが「ジ・エンド」ではないことをたっぷり予感させる終章ではある。

 終り近くに出てくる「もう高台にある家は私の心の中にしかなかった。」という述懐は、決して、諦観ではなく、さらに心の中のイメージを追い続ける旅路の出発でもあったといえる。
 この続編があれば、さぞかしおもしろかろうと思うが、作者・水村節子は、2008年に永眠している。
 この小説後の節子さんについては、冒頭に述べた娘・美苗さんの小説『母の遺産』を参照するしかない。そして、そこでも「高台にある家」は節子さんにとっての象徴的な場所として出てくる。

 なお、この節子さんの小説については、娘である美苗さんの手も多少は入っているようだが、それについて美苗さんは、「私の注意に母はとても素直に従い、見違えるような文章を書いてきた」といった主旨のことをいったあと、「ただし、この小説のすばらしい部分はすべて母の手になるものです」といいきっている。
 

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かくして幽霊の足は切られた 圓山應擧展を観る

2013-04-14 01:48:54 | アート
            

 圓山應擧展を観た。最終日近くでかなり混んでいたが、作品が大きいせいでさほど観るに難渋することはなかった。
 應擧というと、「お宝鑑定団」などでも偽物がたくさん出る代表格である。
 今回の展示の中にも偽物があるかも知れないと思い、意地の悪い視線で見た。

 あった!明らかに一連の應擧のものとは線や色彩が違うものがある。しかもそれらが一点だけではなく、結構あるのだ。
 しかし、よく説明をみると、それらは應擧が参照し模写したりしたものや、あるいは逆に、應擧の弟子や彼に影響を受けた人たちの作品だった。
 
 最近の美術展では、そのアーティストが影響を受けた作品や、逆に影響を与えた作品とともに展示するケースが多い。
 それはその作品を通時的、あるいは共時的な諸関連のなかで位置づけながら見せるということである意味では評価できるが、あまり度が過ぎると、肝心のそのアーティストの作品がそれらに埋もれたり、あるいは数的に少なかったりして、結果として単に水増しに終わることもある。
 この應擧展がそうであったというわけではない。

 應擧の絵に戻ると、若いころの眼鏡絵(遠近感を誇張し、凸レンズを使って立体的に見せるもの)などをはじめ、様々な技法を駆使しているのだが、私としては、極彩色のものよりも単彩(モノクロ)や彩色されていても淡い色合いで色そのものが自己主張しないもののほうが好きである。彩色で見せるのは若冲に任せたほうが良いというのは私の勝手な解釈だ。

 なお、別名、應擧寺ともいわれる兵庫県の大乗寺の襖絵は、畳敷きの部屋に欄間もしつらえ、立体的に展示されていて臨場感があった。これとて、キッチュな感は否めないのだが、美術館での展示という行為そのものが、本来それらが置かれていた場所からそれらを引剥がし、そのアウラを捨象したところで展示されるのだから致し方あるまい。その意味からいったら、今回の展示にはそれなりの努力が添えられていたともいえよう。

      

 應擧といえば幽霊の絵を連想する人が多いが、今回は展示されていなかった(前期と後期でいくぶん展示内容が変わっているので、前期にはあったのかもしれない)。
 私も、高山の寺院で應擧の幽霊図というのを観たことがあり、全国にはかなりのそれらがあるようだが、現在、それらのうち真筆とされるのはわずかに二点だという。しかもそのうちの一点も確実とはいえないという。
 では確実な真筆はというと、アメリカはカリフォルニア大学のバークレー美術館の所蔵だという。

 なお、幽霊に足がないのは應擧に端を発するというのは事実らしい。ということは、250年前までは幽霊にも足があったということである。
 これも余談だが、初代圓朝に、應擧の幽霊図を題材にした落語があり、それを圓朝忌には演じるらしいが、それらの詳細についてはよくわからない(その落語のあらすじは知っている)。

 どうも私の美術鑑賞は寄り道が多すぎるようだ。
 應擧さん、ごめんなさい。
 

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ほんとに大雑把 中国と日本の150年史

2013-04-12 03:07:24 | 歴史を考える
    写真は日記の内容と関係ありません。

 「いつまでも調子にのっとったら、南京大虐殺やなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ! そうなる前に自国に戻ってください! ここは日本です! 朝鮮半島じゃありません! いい加減に帰れー!」

 この演説が流れたのは2月24日、大阪の鶴橋で行われた在特会の街頭デモでのこと。発言者は、在特会の幹部クラスの子女である女子中学生だという。
 在特会会長の桜井誠は、この演説を高く評価し、「大変評判はいい」と自慢げに語っている。

            

 日本では各メディアがほとんど無視しているため、日本国民はこうした事実すら知らないが、韓国では即刻、You Tubeなどで流れ、一部では激しい抗議が起こったりしているという。しかし、さいわい、大勢としてはそれらが日本人の総意ではないことは了解されていて、カウンター措置は取られていないようだが、日韓関係にとってマイナス要因であることには間違いない。

 在特会などが、もはや、ヘイト・スピーチを通り越したおぞましい殺人予告(「死ね!」「殺せ!」はもはや日常語)にまで平気でいいつのったり、そして自分の愚かさを棚に上げて、何やら高みに立って嫌韓・嫌中を叫んでやまない裏面には、彼らと、そして彼らのみにとどまらない日本人一般の偏狭な自意識が張り付いているように思う。

         

 それは、いってみれば、日本人(日本では民族も国家もごっちゃになって単一民族、単一言語の日本国に住む人間=日本人となっている)がここに至って当面している事態へのコンプレックスの裏返しともいえるものなのである。
 それらをざっと、中国と日本の150年史の概略を参照しながらみてみよう。

 150年前、中国は押しも押されぬ大国であった。「眠れる獅子」ともいわれたのだが、ついに目覚めることなく列強の支配に屈し、最初の50年間は主としてイギリス帝国主義の支配下に、そして、続く50年間は日本の侵略下に置かれていた。日本の敗戦後のいわゆる解放下の内戦で、毛沢東が勝利して以降の50年間は「共産主義」の支配下にあった。
 そしていま、それらの三つの支配から逃れた国家資本主義の道をまっしぐらに進み、今や国力としては日本をしのぎ、なおもその差を広げつつある。

         

 そうした中国が問題含みであることは当然であるが、それを指摘して日本の優位を主張するのはいささか筋違いであろう。1960年代の日本の高度成長期にも、都市部と農山村との格差は著しかったのであり、汚染物質の垂れ流しも日常茶飯事で、それによる甚大な健康被害はいまもその後遺症として多くの患者を苦しめている。
 ちなみに、今問題になっている中国でのPM2.5の濃度は、当時の川崎市や四日市市のそれとほぼ同じである。
 それらを克服したといわれる日本が、原発事故で人の住めない地域を生み出しているのだから中国を笑うことなどできまい。

 さて、上に見た中国の150年史に対し、日本はどうだったのか。
 150年前、日本はヨーロッパの庶民の間ではその存在すら知られていないような小国であった。
 しかし開国後、列強の注目がもっぱら大陸に向いている間に富国強兵策でアジア諸国を一歩抜きん出た日本は、落ち目の清やロシアとの戦争で勝利を収め、列強の一角に座を占めることに成功した。

        

 日清戦争後の50年、日本は東アジアの盟主として、「大東亜共栄圏」建設の名のもとひたすら拡張路線をひた走り、それに挫折したのが1945年の敗戦であった。
 日本はまたもや極東の小国になったのだが、アメリカの世界戦略の尻馬に乗って経済復興を果たし、敗戦の40年後には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を豪語するに至る。 
 しかし、そのバブルも弾け、それからの回復もままならぬうちにこんどはリーマン・ショックの余波を受けて現在に至っている。
 (現在のアベノミクスは、そうした低迷へのカウンター措置だが、貨幣の流通量を増やしてインフレをはかるという措置はある種のばらまきであり、そうした「財政出動」や「金融緩和」は一時的なカンフル剤に過ぎず、借金増による財政規律の崩壊も心配される。しかし、それらはここでの主題ではないので詳論しない)

 何がいいたいかというと、日本の150年は極端から極端への揺れで、日本国民自身がその現実を見失っているのではないかということである。
 その現実とは何かというと、もはや150年前の小国に戻ることもないが、かといってもはや大国であり続けることもないということなのである。グローバリゼーションのなかで、これまで日本が歯牙にもかけなかった国々で著しい成長が実現されつつある。
 ちなみに、2011年の世界の経済成長率のランキングでは調査対象の185カ国中、日本は174番目というのが実情であり、その間、他のアジア諸国は急速に成長しつつあるということである。

         

 ようするに日本は、小国でも大国でもない中間の国家として生きた経験をもっていないのであり、そうしたもはや大国ではないというコンプレックスが、それを了解し得ない愚かな連中をして、自分の下位に何処かの国々や民族を位置づけ、それらを罵倒し脅迫することによって溜飲を下げるという病的な「大国シンドローム」を生み出しているのではあるまいか。
 彼らの実態は徹頭徹尾、愚かであるから、現在、大メディアがそうしているように無視するのもひとつの手ではあろう。

 しかし、それらは先に述べたように他の国々ヘは確実に伝わっているいるのであり、経済はさておき、歴史認識や文化そのものにおいて、「野蛮国・日本」の印象を生産し続けているのは事実である。
 

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