六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

享受する快楽! 映画『グリーンブック』とピアノ三重奏

2019-03-31 00:37:10 | 写真とおしゃべり
 差別者と被差別者など差異をもつ者が行動をともにするうちに、その落差が解消されたり和らげられたりするという映画の嚆矢は1967年の『夜の大捜査線』ぐらいからだろうか。この折は、黒人刑事と白人署長の話であった。

 もちろんそのシチュエーションやディティールは変わるが、この種の差別・被差別(人種のみではなく、階級、階層、社会的地位などの格差も含む)の関係が呉越同舟の関係にありながら、ストーリの最後には著しく変化するというパターンは、特にアメリカ映画に多いようだ。
 そしてその両者が一定期間、行動をともにするということもあって、ロードムービーになる場合がほとんどだ。

       
 今回観た『グリーンブック』も、ある意味その典型であった。ただ、これまでのものとの違いとしては、黒人・白人の差異はあるものの、このケースでは黒人のほうが成功したミュージシャンとして教養人であり、白人のほうがイタリア系移民で屈強で直情型人間であるということだ。もちろん、白人の側からの差別意識は根底にある。
 ただし、このイタリア系の男性も、アメリカ社会全体の中では決してマジョリティではない。

       
 黒人ミュージシャン(ドン・シャーリー)が、南部への演奏旅行に出かけにる際し、その運転手として雇われたイタリア系の彼(トニー・“リップ”・バレロンガ)が同行するという物語である。教養ある黒人と粗野な白人という取り合わせのなか、ひとつ車のなかで過ごすうちに交わされる会話に妙味がある。

       
 しかも行く先は今なお差別意識が濃厚な1960年代はじめの南部、ホテル、トイレ、レストラン・・・・いたる所で黒人は「決まりと伝統」を強制され、差別、隔離を余儀なくされる。
 途中、ジュリアードを優秀な成績で卒業したにもかかわらず、黒人故にクラシックへの道が閉ざされ、ポピュラーな分野での演奏者になった事実も明かされる。

       
 ロードムービーお決まりの様々なエピソードを介しての二人の関係のありよう、相互理解への推移が見どころだ。
 映画終盤、あまりにも頑なな差別に、2人がエスケープし、場末の大衆酒場へしけ込み、そこでピアニストは叩きつけるようにショパンの練習曲作品25-11を弾くところは圧巻だ。
 それがきっかけになってその酒場のミュージシャンたちと顧客全員を巻き込んだノリノリのセッションが行われる場面は感動モノで、観ていた私もそれに乗せられる一方、どこかでジーンと来るものを覚えていた。

       
 もちろん、ここに書いた以上に、遥かに多彩で面白いエピソードが満載である。ラストシーンも見逃すことはできない。
 形式としてはありがちなロードムービーだと書いた。しかし、そのシチュエーションの中で何をどう見せるか、そこに監督の手腕が問われる。その意味では、これはとてもよくできていると思う。

         
 なお、原案は実話によるものとのこと。
 また、タイトルの「グリーンブック」は、人種差別の時代、黒人ドライバーが立ち寄ってもいいホテル、ガソリンスタンド、レストランなどを記載した本で、逆にいうと、それ以外のところへ立ち寄ると半殺しか場合によっては射殺されさえした。したがって、黒人が移動する際の必需品といわれた。

 映画の後はコンサートだ。
 ピアノ三重奏曲の夕べである。
 演奏者は、ピアノ小林五月さん、ヴァイオリン徳永二男さん、チェロ毛利伯郎さん。
 なお、ヴァイオリンは当初、原田幸一郎さんだったが、NY滞在中にお怪我をされたとかで、急遽、徳永二男さんに。
 徳永さんといえば、長年N響のコンマスを務められた方、間に合わせの代理とは格が違う。

 曲目は
 ・モーツァルト ピアノ三重奏曲ホ短調K.542
 ・シューマン 幻想小曲集Op.88
 ・ブラームス ピアノ三重奏曲第一番ロ短調Op.8

         
 シューマンには「幻想小曲集」という名称の曲が三曲あるが、このOp.88のそれは、楽器編成からして明らかにピアノ三重奏曲だ。

 年代順に並んだこの三曲は、それぞれの作曲家の特色がはっきりしていて楽しい。同時に、このピアノ三重奏曲という形式の中での表現の技巧や幅が次第に広がってきた、いわば進化の歴史をも表しているように思った。
 誤解をされるといけないので言い足すと、この進化というのは、ピアノ三重奏曲という楽器編成を駆使しての表現上の幅の変遷ということで、決して、音楽的にいって後のものほどいいというわけではない。

 ブラームスのものは最初のモーツァルトのそれに比べて、表現の幅が広がり、音色も遥かに多彩になっている。今回の演奏も、それをくっきりと明快に表現していてとても良かったと思う。
 モーツァルトやシューマンのファンである私だが、今回のコンサートでは、ブラームスのそれが圧巻であった。
 
 小林さんは縁あってこれまでも聴いているが、今回は先輩格のベテランとの組み合わせにもかかわらず、堂々と弾ききっていて、ソロなどのときよりかえって風格が出てきたように思った。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何たるドジ!何たる間抜け!哲学する亀に笑われる

2019-03-29 11:39:43 | よしなしごと
 

 写真は右往左往の道中で見かけた花々と光景など 

 車を持っていると車検という制度をクリヤーしなければならない。
 私のように10年を経過した軽のポンコツだと2年に一回が義務付けられている。
 来月はじめに期限切れということで、予め予約しておいた業者のところへ出かける。
 基本的な車検料金の他に、「追加作業項目」について見積りをとる。

       
 しばらく待つうちにその見積もりがやって来る。
 基本的な車検料の他に約70,000円がかかるという。
 こちらのコンセプトは、いつ免許返上をしてもおかしくないのだから、安全に関わる最低限の項目以外は拒否というもの。
 その観点でチェック。

       
 「これは?」
 「消耗品でいずれ必要になりますから」
 と、甘いマスクのおニイさんがにこやかに答える。
 「ではそれはなくなった時点で補充しますから結構です」
 と、にべない私。

       
 「この18,000円は?」
 「ヘッドライトが明るくなるコーティングです」
 「夜間はあまり運転しませんから」 
 と、即却下。

       
 といったことで約40,000円をカット。
 結局、1)基本料金 16,524 円(初回利用、代車不要で7,000円の割引)
    2)税金や自賠責保険などの法廷諸費用 32,770円
    3)値切り倒した追加作業分 30,672円
    締めて合計 79,966円(66円は切り捨て)

       
       
 まあまあ妥当なところだろうと帰途に。
 代車を断ったので、やや強めの春風のなか、できるだけ田園風景が残っているコースを選んで歩く。
 燕が飛び交い、五分咲きの桜を始め、様々な花が咲き誇っている。
 雀、椋鳥、鵯それに名も知らぬ水鳥も多いが、カラスだって絵になる。

       
 途中、加納藩の城址に立ち寄る。
 この近くに住んでいたことがあるので懐かしい。
 今は石垣のうちは公園になっているが、私の子供の頃は米軍が接収し、駐留していて、大手門と反対側の搦手門には憲兵が歩哨に立っていて近寄るのが怖かった。

       
 何組かのファミリーが、お花見をしていた。
 一輪車に乗っていた女の子と、それに伴走していた妹と思しき女の子が近づいてきて、「コンニチハ」と元気で挨拶をしてくれる。
 「コンニチハ」と返して「上手だね」と声を掛ける。
 伴走していた妹のほうが
 「これはね、*+@>?、&%$#<・・・・」
 と、一生懸命説明してくれるのだが、息せき切って走ったきたせいもあって、何をいっているのかよくわからない。
 でも、彼女に失礼にならないように、
 「そうなの。いろいろ教えてくれてありがとう」
 と、言ったら
 「サヨナラ。またね」
 と、いってくれた。本当にまた会いたいものだ。

       
 65年前の今頃、卒業した中学校の前を通りかかる。
 度々来るのだが、懐かしさはいっさいない。
 当時を偲ぶよすがになるようなものや面影がまったく残っていなからだ。
 周りの風景にしてからそうだ。

       
 川に沿った道を歩く。
 軽鴨、白鷺などに混じって哲学する亀を見かける。
 春風がいざなうさざなみを見ながら、彼は思考する。
 波は実在するものだろうか、それとも単なる現象か。
 移ろい現れるものが現象だとしたら、われらが生もまた振幅の大きな波であり、実在を装った無ではあるまいか。
 そこへ、そうした思考とは無縁の日常性を背負った軽鴨が通りかかる。
 どうやら対話はないようだ。

       
       
 遠回りも含めてゆっくり歩いたせいで、小一時間かかって帰宅。
 さて、ゆっくりお茶でもするかと玄関を開けようとするが、ん?鍵がない。
 ポケット、カバン、すべてを探したがないっ!

         
 はっと気づいた。
 車検の業者に車のキーを渡す折、家の鍵もついたまま渡してしまったのだ。
 もう一度歩くのもしんどい。
 ならば自転車でと思ったが、嗚呼、自転車の鍵も家の中だ。
 なんとか自宅に侵入できないかと試みる。
 玄関や窓など、侵入口は数箇所ある。
 しかし、どれもだめだった。
 わが家の防犯体制は意外としっかりしている。
 ったって、プロのピッキングにあったらひとたまりもないだろうが。

       
 諦めて、業者への道を歩き始める。
 もう花鳥風月を嗜む余裕はない。
 ひたすら歩く。そして帰途も。
 嗚呼、ナンタルチア!
 かくてまた、約2キロの往復。
 おかげで今日の歩行距離はその他も含めて約8キロ。
 歩行計の記録は約14,000歩余。
 思いがけない運動になったはやせ我慢。
 80歳の身にはけっこうしんどい。 

 
 

 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嗚呼! 春のメランコリー

2019-03-27 00:44:09 | 写真とおしゃべり
  『左翼のメランコリー』という本を読んだ
  左翼という概念が登場して以来 二百年弱
  負け続けてきた左翼の歴史 そして芸術

         
  わが畏友 小林敏明氏の通奏低音はメランコリーだ
  いや それを幾たびか 著書名にまでしているから
  メインテーマであろう 詩人になり損なった哲学者

  彼がいま 雑誌「文學界」に連載している評論には
  私のブログから 想を得たものがあるという
  まっこと「公園のイタチ」(オヤジギャグ)である

       
  薔薇はたぶん 己のゴージャスさを知っているに違いない
  さもなくば こんなに高慢な咲き方はしないはずだ

       
  桜は パッと咲いてパッと散るから美しいなどは
  人間のかってな言いぐさ
  咲き始めの桜に なんの屁理屈があろう
  ただその生が命じるままに 咲くのみ

       
       
  菫はゆかしいといわれ 可憐だといわれる
  しかし 至近距離では けっこう妖しい
  妖しさは花の宿命 花の定め
  次代を残すための 壮絶な闘いの旗印

       
  春風駘蕩 弥生の空はあくまでも明るい
  図書館への車中 フロントグラスに雨滴が点々
  どこかで 狐のお嫁入り
  きっと コン活に 成功したのだろう

  読むと暗~くなるような本を また借りた
  明るくなるような本は どこか嘘っぽいし
  明るくなってしまうことに 罪を感じるのだ

 
 

 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春みじかし何の不滅のいのちぞとちからある乳を手にたぐらせぬ

2019-03-22 16:32:45 | 映画評論
 人と逢うことになっていたが、それまでの時間つぶしに、いわゆる二番館で、1988年、深作欣二が撮った『華の乱』を観た(大河ドラマの『花の乱』の方ではない)。

 面白かった。絢爛豪華なキャストで、明治末期から大正末期の関東大震災までの、実在した人物たちのありようとその相関関係を描く。
 中心に据えられたのが吉永小百合演じる与謝野晶子。当初、その顔立ちのイメージから晶子にはどうかなという思いがあったが、映画が進むにつれてその不安は払拭される。演出と様式化された美しい画面のせいもある。
 そういえば冒頭の桜舞い散る人力車のシーンから、ちょっとステロタイプかと思うほどの叙情的な絵が続く。

         
 ただし、子沢山の与謝野家や震災の場面はいわば写実的で、その落差は大きいのだが、実際に晶子はそうした落差を生きてきたのだろう。それにしても、与謝野家の子沢山には驚いた。ちゃんと数えなかったが、何やかやで10人ほどもいるのだ。

 そうした晶子を中心に、与謝野鉄幹はむろん、有島武郎、大杉栄、伊藤野枝、沢田正二郎、松井須磨子、島村抱月、山川登美子、波多野明子などなど、同時代のそれぞれ特異な人物たちが相互に絡み合いながら登場する。

       
 それらを演じるのが、緒形拳、松田優作、風間杜夫、石田りえ、石橋蓮司、松坂慶子、蟹江敬三、中田喜子、池上季実子などなど錚々たるキャストだ。これら俳優たちの30年前のきらびやかな風貌が、様式化された画面のなかで輝き、その演じる物語は、あるいはエロスに満ち、あるいは死の希求、タナトスに囚われ、それらがない交ぜになったシンフォニーとして展開される。

 それぞれの人物が興味深く描かれているが、病死した抱月を偲ぶ会での松坂慶子演じる松井須磨子の演技、その狂乱の場のシーンが出色で凄まじい。今は死語となった「新劇」のオーバーなアクションに加えて、ギリシャ悲劇の色彩をももつて、その場に居合わせる他の登場人物たちを圧倒すると同時に、私たち観客にも激しく燃え上がる哀しみの暴発として迫ってくる。

        
 詩歌などの文学、当時としては新しかった演劇表現(だから「新劇」)、それに、ボルシェビズムに駆逐されない前の生き生きとしたアナーキズム、文字通り黒い旗に描かれた「無政府主義」、それらのないまぜが彩った大正がいささか様式化された絵柄として展開される。
 深作監督の演出は歯切れがよくて淀むところがない。

       
 思うにこの時代は、文明開化でもたらされた近代化の日本的な展開を受けて、それらを開けの方向に向かわせることができるのか、あるいは、ある種閉鎖的なものへと繋ぎ止められてしまうのかの、明暗を分ける過程であったような気がする。大正デモクラシーとは、そうしたせめぎあいの上に垣間見えた、もともとアンビバレンツな花でしかなかったのではないか。
 しかし、大杉栄の惨殺が明示するように、それは閉塞への道を余儀なくされて散るのであった。

       
 映画では描かれていないが、昭和の初期は、いわゆるブルジョア文化そのものが萎縮すると同時に、左翼の運動もソ連のボルシェビズムに呼応し、硬直した「正当左翼=スターリニズム」に一本化されてゆく過程であったように思う。
 それはもはや、1945年の大破局へと向かう不可避の過程でもあった。

       
 晶子とその周辺の愛を巡る生と死の葛藤は、上に見た時代そのものが内包するエロスとタナトスの絡み合いの突出した表層であったことをこの映画は示唆している。
 滅びを内包した愛のありようは、時として凄惨にも美しい。

【言わずもがな】ラストシーン、震災を超えて生きてゆくことを伺わせる与謝野一家の前向きのシーンは、上述したように、それに続く時代が希望とは無縁であったことを知っているだけにいくぶん違和感があるが、それは映画の外にいる私の感想なのであろう。

【おまけの一言】元号に関心はないが、この平成の終わりに、昭和の終わりに作られた大正の終わりの話を観たことになる。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の正体はネズミ男なのであろうか 自損する歯

2019-03-21 11:28:48 | 写真とおしゃべり

 写真は文章と関係なく、私のうちで咲いているユキヤナギとレンギョウなど。

 しばらく前のことだ。食事のたびに、上の前歯の歯茎の辺りが痛む。歯そのものというより歯茎に何やら外傷ができたような痛みだ。
 「口腔内の怪我は治りが早い」というのは、たぶん一般にも通用する私の経験知である。食に関わる支障は早く直してやろうというありがたい自然の摂理であろうか。
 実際のところ、食事のたびに痛みを感じていては山海の珍味も台無しである(というほどのものは食していないが)。

        
 さて、私の痛みの方であるが、経験知を裏切るかのように一向に痛みが弱まらないのである。一週間が経過した。私の唯一の楽しみである食は、口腔中に広がるはずの味と、その都度訪れる痛みとの葛藤の場に転じてしまった。
 さすがの私も、これはヤバイと思うようになった(この場合のヤバイは、今どきの若者言葉のもつ「すごい」とか「素晴らしい」とかの意味ではなく、本来の「危ない」「危険かもしれない」の意味である)。

        
 そこで、口腔内のことだからと行きつけの歯科医のところへ行った。
 「口腔内の傷はすぐ治るはずなのに・・・・」という私の持論を、「そうですね」と軽く受け流して歯科医は、「はい噛み合わせてみて」「もう少し強く」などと言いながら観察していたが、しばらくして、「こりゃ痛いはずだ。自分で傷つけているのだから」と言い放つ。

           
 「?、私ゃ、そんな自損や自傷志向はありませんが」という私に医師の説明。
 「あなたの下の前歯が伸びすぎたのです。それが噛み合わせた際、ほとんど前歯の内側の歯茎に当たっています。ですから、そこに食べたものが入り込むと、上の歯茎を圧迫して痛むのです。その歯茎の部分は炎症を起こして赤く腫れていますよ」

        
 え?え?歯が伸びすぎた?80歳を超えるまで、そんなことは聞いたことがない。身長などは縮んでるのに歯が伸び続けるなんて・・・・。
 「いえいえ、歯は伸び続けますよ」と医師。
 そういえば、土葬などの場合、死者の髪は伸び続けると聞いたことがある。

        
 「で、治療は?」
 「いや、簡単ですよ。伸びすぎた下の前歯を削るだけです」
 「そんなことで治るんですか?」とは言わなかった。なんか半信半疑だったが、医師に任せることにした。

        
 キュ~インという乾いた音とともに私の下の前歯は削られた。
 「ハイ、噛んでみて~」
 という指示が2、3度あって、
 「これでいいでしょう。あと上の前歯の歯茎が赤く腫れ上がっていますから、塗り薬を出しておきます。綿棒かなんかで、そこへ塗ってください」

        
 これで治療は終わり。
 夕食時、食べてみる。まだ少し痛むが、前ほどのことはない。思うに、歯で押し付けることはなくなったが、腫れ上がったところへ食い物があたる痛みだろう。
 食後、その薬を塗る。

        
 翌朝、舌で触っても前よりはうんと負担がない。昨夜のうちに、2、3回、薬を塗ったからだろう。

        
 そしてそれから3日ぐらい経った今日、痛みはすっかりなくなった。
 やはり「餅は餅屋」だ。
 ただし、舌で歯茎の傷んだ部分を触ると、まだ多少の違和感がある。もらった薬をあとしばらく塗ったら完治するだろう。

        
 ちなみに今日の午後は、薬を塗るのをすっかり忘れていた。
 ほとんど完治と言ってよい。

        
 ちなみに今回納得したのは、この歳になっても歯は伸び続けているということだ。
 ネズミの歯は急速に伸びるので、彼らはしょっちゅう何かをかじっていなければならないと聞いたことを思い出している。
 私もまた、そうなのであろうか。

        
 そのうちに犬歯が伸びて、ドラキュラのようになるかもしれない。
 その折の治療方法は、たぶん、あなたの血を吸うこと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Cocco「ジュゴンの見える丘」を聴きながら・・・・。

2019-03-19 14:58:54 | 日記
        
 沖縄の玉城知事が安倍首相と会談をした今日、以下のようなニュースが・・・・。
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190319/k10011853291000.html
 
 以下に報じられ、歌われたジュゴンでなければいいと思う。
  https://www.youtube.com/watch?v=JAYJgrLOcyg
 
 Coccoのスピーチがいい。最後の英文のそれも・・・・。
 もちろん、その歌も・・・・。
  
 玉城知事の要請は、工事を一時ストップして話し合うというものだったが、安倍首相の回答は、話し合ってもいいが工事は継続したままというもの。
 これは例の「真摯に受け止めて、寄り添う」というやり方。
 この「安倍語」を、一般的な日本語に翻訳すると、ようするに、「聞く耳などもたない、何を言おうがそんなものは無視し、しつこくいうようなら痛めつけるだけだ」ということ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春を呼ぶ至福のコンサート 辻彩奈&大阪フィル

2019-03-17 14:21:06 | 音楽を聴く
 変な話だが、私にとって岐阜の春は大阪フィルの岐阜公演から始まる。毎年この時期にやってくる定期演奏会は今年で42回を迎えるが、そのうち、おそらく20回ぐらいは聴いている。ここ10年以上は、欠かさず毎年出かけている。
 というわけで、春宵の一刻、岐阜はサラマンカホールでの公演に出かける。

           
 今年はソリストに地元出身の辻 彩奈さんを迎えてのオール・チャイコフスキーのプログラム。もちろんその中心はヴァイオリン協奏曲だ。指揮者は井上道義氏。

 前半最初は、歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ。小手調べであるが、チャイコフスキー独特のこってりした叙情のなかに、やはりロシアの調べが隠しようもなく漂う。

           
    辻さんが育ったホームグラウンドのような宗次ホールからの花が届いていた

 そしてお目当ての辻 彩奈さんが弾くヴァイオリン協奏曲。
 いや~、すばらしいっ! 
 実は昨年の4月20日、同じこのサラマンカホールでの彩奈さんのリサイタルを聴き、そのスケールの大きさに驚き、なおも伸びしろのある才能だと評価している。
   https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20180421

 その折の期待を裏切らないすごい演奏だった。一音一音に込められた音の密度が濃い。だから粘ばっこい音が紡ぎ出され、前後の音と言語的に言えばリエゾンして、音符を奏でるという効果以上の一連の有機的な音楽が表現される。
 音楽が音符という記号の連なりではなく、まさにマテリアルな現象としてそこにあるといっていいだろう。

 地元びいきを超えて、心底、才能があるひとだと思った。
 ソリストアンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第三番ガヴォット。
 これがまた、「おまけ」の域を超えてすごかった。感動モノだった。

         
 今春からは、スイスロマンド交響楽団との協演で、メンデルスゾーンの協奏曲で全国を回るようだ。

 後半は、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」から、指揮者の井上道義氏がセレクトしたコレクションを組曲として演奏。
 メロディメーカーとしてのチャイコフスキーの、これはどうだという曲たちだが次々と繰り広げられる。しかし、この叙情味溢れるメロディのなかに垣間見られる、ある種の不安のような要素は、19世紀末から20世紀初頭へのあのロシアにおける歴史的な大変換の予兆を含んでいるのではあるまいか。

         
 井上道義氏の指揮ぶりは、ビジュアル的にも面白い。下半身を含めて全身を柔軟に使ったその表現への姿勢は、それ自身でじゅうぶん絵になる。
 とりわけヴァイオリン協奏曲においては、指揮台を撤去し、指揮棒ももたず、ソリストの間近での指揮は、踊るように流麗で、オケを背景にソリストとダンスを共演しているかのようであった。

 後半の「白鳥」でも、著名曲になると聴衆を振り向いてみせるなど、その場に居合わせるすべてと、演奏という行為とその味わいの共有を図っているよう、マエストロの多様性を垣間見させてくれた。

 とにかく、素晴らしくかつ楽しいコンサートだった。

         
 オケのアンコールはチャイコフスキーの交響曲第4番の第3楽章。
 この楽章、弦はいっさい弓を弾かないピチカートのみで、始まった途端、あ、あれだと思った。

         
     サイン会での辻さん 本当は写真を撮ってはだめだとあとから知った

 大阪フィルの岐阜定期演奏会は、私にとって、岐阜の春を告げる必須のイベントといえる。いろいろあって、ちょっとメランコリーになっていたが、それが払拭できそうだ。
 春宵一刻値千金、わが春愁よ去れ!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世の中は三日(みっか)見ぬ間の桜かな で、安倍四選?

2019-03-14 01:49:49 | 写真とおしゃべり
 この時期、ジグザグしながらも季節の移り行きはけっこう早い。
 うちの桜が満開を迎えたのは9日ぐらいだと思う。ン十年前からあるサクランボの樹が枯れて、そのひこばえのようなところから甦った。これは数えて三代目の樹だ。

          
          
 若木だけど、これだけびっしり花がつくと。実の収穫が期待でき楽しみだ。

          
          
 しかし、花の命は短い。12日にはもうこんな有り様だ。しかし、それは花を愛でる人間の一方的な視線の言わしめるところで、樹にとっては、いやこの生物体そのものにとっては、花はその生命サイクルの一過性のものにすぎない。
 むしろその重点は、無事結実し、その生命が次代へと受け継がれることにある。

          
 ちなみにソメイヨシノはいささか事情が違う。これは今や日本の桜の代名詞で、日本各地の桜の名所のほとんどがこれによっているが、その品種開発は江戸末期と新しく、いわば掛け合わせのF1だから自然繁殖は不可能で、接木もしくは挿し木などによることが多い。ようするにクローン桜なのである。
 樹齢も数十年と短く、それぞれの桜の名所では、その樹々の更新に気を使わなければならない。

 うちの桜が開花すると同時に起こる現象がある。それを思い出せず、う~んと思っているうちに、昨年の今頃の日記を見てふと思い出した。
 そうだ、ツクシなのだ。
 毎年、うちの桜の開花とほぼ同時に彼らは顔を出す。今年は桜の開花も一週間ぐらい早かったので、それに気づかなかったのだ。

          
 慌てて私の穴場へと急ぐ。ここは私のうちから徒歩2、3分のところなのだが、まさかこんなところにと皆が思うせいか、採りに来る人はいないようだ。

 やはり遅かった。開ききっているものが多い。しかし、ツクシの美味しさは、その穂先のほろ苦さにもあるが、茎のシャキッとした食感にもある。だからめげずに採る。

          
 環境の変化で年々、減っているのか、採れた量は少ない。負け惜しみじゃないがそれでいいのだ。ツクシはそれを採るよりは、袴を取って掃除するのに遥かに時間を要する。
 袴を取っていると、そこに溜まった胞子のせいで爪が青黒くなる。これぞ自然が染める色だ。

 さっと湯がいて、フライパンで炒め、薄口醤油で味を調える。シャキッとした食感が残るように、湯がくのも炒めるのも手早くする。まあまあ、うまくいった。

          
 写真は、そのツクシ料理と、三つ葉と豆腐のあっさり煮である。こりゃ、やはり日本酒だな。
 一人は少しわびしい。誰かとともに盃を交わし、この料理を味わえたらと思う。できればじょ・・・・(以下自粛)。

 季節は移りゆくというのに、嫌な話を聞いた。もうすっかりうんざりしているのに、安倍自民党総裁の四選もありだというのだ。その理由が「余人をもって代えがたい」というのだから、オイオイ、勘弁してくれよと言いたくなる。
 これはもう、どっかへの亡命も真剣に考えるべき事態だ。
 それなりに一生懸命生きてきて、その晩年がこれでは堪らないではないか!
 まあ、これも自分の生き様がもたらした責任かもしれないが。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一寸の光陰 軽んずべからず 老いの春

2019-03-08 00:08:41 | 花便り&花をめぐって
 春が来ました。
 
 紅梅は満開を過ぎて散り始めました。
 水面に花びらが散った方は、手前に紅梅の樹も映っています。

 
           
 桜のつぼみが膨らみ開花し始めたのがお雛様の頃でした。

 
             
 若葉も燃え始めました。

          
 雪柳の花も遠慮がちに花を。
 やがてびっしり付くことを期待していいます。

         
 桜の方は咲き始めてから三日目、もう満開に近づきました。
 薄暮のなかで白く浮き出ています。

             
 そして四日目の今日、もう満開と言っていいのではないでしょうか。

 
                
          
 紅葉した南天とのコントラストが面白く思えます。

     
 春眠暁を覚えずで、目覚ましを止めてから、また寝てしまいました。
 図書館への返却日が迫っているのに、まだ読めていない本があります。

 春に浮かれている暇はありません。
 光陰矢の如しで、「老年」学成り難しなのです。
 「一寸光陰不可輕」で、もうあとがないのです。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弥生はじめの絵日記〈付〉開花宣言

2019-03-03 01:05:19 | 写真とおしゃべり
3月1日
 弥生の声を聞いていつまでもじじむさく厚ぼったいものを来ていてはとプチ衣替え。
 ちょっとスッキリして身も軽くなった。

            
 農協の野菜売り場他、食料品の買い物にあちこちへ。

            
            
 鉢植えの紅梅は文字通り満開。すべての蕾が開ききっている。
 これが昨年はひとつも花を付けなかったって信じられないほどだ。

 桜の方は、今にも開きそうな気配だ。明日あたりはたぶん・・・・。

         
         
 夕食時、咀嚼したものの嚥下に異常感が。痛みはないのだが、なんかつっかえる感じ。喉頭がん、食道がん、などの言葉がよぎる。
 でも経験的にいって一番可能性のあるのは風邪。私の風はいつも喉から来るからだ。
 結論は明朝の具合い次第だ。

3月2日
 起床。昨日は感じなかった喉の痛みが。やはり風邪だとの自己診断。
 ほっておいても2、3日で治る風邪だが、何年か前、こじらせて急性気管支炎で41.5度の熱を出し、救急車で強制入院させられたことを思い出し、一応、行きつけのクリニックへ行くことに。

 その前に洗濯物を干す。今日はよく乾くだろう。

 クリニックの女医さん、口腔を覗いて、いつもの風邪ですね、喉が赤く腫れ上がっています、と薬を処方してくれる。

 いい陽気でそのまま帰るのはもったいない。
 喉に幾分の違和感はあるものの、その他はいたって快調。
 近くの散策と洒落込む。

         
         
         
 調合薬局を出たところで、鳥を腕にした男性に出会う。
 「鷹ですか」と、私。
 「そうです」
 「なんていう鷹ですか」と、重ねて訊く。
 「〇〇ホークという在来種で日本の鷹ではありません」と彼。
 〇〇というのは私がよく聞き取れなかったから。聞き取れたとしても、私に鷹を差異化して理解する知識はない。
 「狩りをするのですか」
 「いいえ、飛ばせて楽しむのみです」
 「写真を撮らせていただいていいですか」
 「どうぞ」
 と、いうのでこれらの写真。
 猛禽類ではあるが、正面からのアングルは可愛い感じもある。
 珍しいものを見せてもらった。

 近くの川沿いに遡上する。2月16日に小さな魚の大量発生をみた場所だ。
 その折にいたあんちゃんは、やがて川鵜がやってきてきれいに一掃してゆくといっていたが果たしてどうか。

         
 まだ群れは健在だった。
 私より若いおじいさんが幼稚園児ぐらいの孫娘を連れて釣りをしていた。
 自分が釣って見せて、孫にも釣らせている。最初だめだった女の子もだんだん扱いに慣れてくる。

 釣果は入れ食い状態。水を張ったポリバケツにどんどん溜まってゆく。小さいのは3センチほどだが大きいものは5センチほどある。
 釣られた魚を見て、モロコであることがわかる。

         
 「釣れたのをどうしようかな」とおじいさん。
 「ガラスケースにでも飼われたら」
 「うまく飼えますかねぇ」
 「目ん玉に竹串刺して、さっと焼いてから甘露煮風というのもありますよ」と、私。
 「酒の肴に合いそうです」と余分な一言も。
 まあ、現実的にはそのままリリースだろうなとも思う。

 でもこの大群、この前のあんちゃんが言ってたように、川鵜がやってこなかったらどうなるのだろう。このままここで成長することは考えられないから、やがてこの河川のあちこちに旅立ってゆくのだろうか。

            
            
 しばらく見ていて、帰途に。
 田んぼののり面が残っているところで赤紫の小さな花の群落を見つける。この花、毎年見ていて可愛いなと思うのだが、名前を知らない。だいたいイヌフグリと同じような場所で群生する。

 帰宅して桜を見やる。白いところがちらっと見えるが開花とは言えない。

 午後3時過ぎ、洗濯物を取り入れる。
 予想どおりよく乾いていて、肌触りも心地いい。

         
 念の為、桜を見ると、オゝッ、開いているのがちらほら。
 これをもって、わが家の開花宣言とする。

 

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする