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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ボルトの「オレ」とフェルペスの「僕」 言葉について

2013-06-26 02:30:38 | よしなしごと
 写真はわが家へ遊びに来たツマグロヒョウモンという蝶です。

 ある同人誌に言葉についての文章を書いたつながりというかフォローで、「応用言語学」という分野の入門書のようなものを読んでいるのですが、サラッとした入門書のようでなかなか興味深い事例が出てきて、目からウロコがポロポロリ状態なのです。
 
 そのひとつは、生まれたばかりの赤ちゃんは、母の言葉、つまり母語とそれ以外の言葉との差異を知るはずがない段階で、すでにして母語への近親感をもっているということです。言葉は後天的な文化や制度に根ざすものですから、遺伝子に書き込まれている情報ではありません。にもかかわらずそうした現象が起こるのはなぜでしょうか。
 その答は、いわれてみれば簡単で、赤ちゃんは母の胎内で、すでにその母が話す言葉を「音」として聴いていたということなのです。

 これを少し拡大解釈すると、胎教の可能性が立証されることになります。
 これについては別のところでエッセイを書くつもりですから、いまは示唆するに止めておきます。

        

 もう一つは翻訳の問題です。
 小説などの翻訳においてもそうでしょうが、身近なところでは、TVなどで外国人が話している言葉の字幕というかテロップでの表現があります。
 データとして出されているのは過ぐる北京オリンピックの折の著名選手のインタビューなどの翻訳で、陸上のボルト選手と水泳のフェルペス選手のそれの対比です。
 
 そのデータによれば、ボルト選手の自称には「オレ」がかなりの頻度で使われ、フェルペス選手のそれには「僕」が当てられていたというのです。ボルト選手が何語で話していたのかは知りませんが、英語でいえばともに「I=アイ」であったはずです。ところが一方は、「オレ」で一方は「僕」であるとしたら、その差異づけは「野性的vs理性的」ないしは「黒人vs白人」が生み出したものだといえます。

 これについては本当に目からウロコでした。ひょっとしたら、私もその折のインタビューを聞いたかもしれません。しかしその差異には気づかなかったでしょう。ということは、素直に字幕にしたがって、「なるほど、ボルト選手はそういう話し方をし、フェルペス選手はそういうふうに話すのだ」と思ってしまっていたということです。

 だとするとこの翻訳は二重に問題をはらんでいるといえます。それは、この翻訳自体が、黒人のスポーツ選手はそのように話すものだという先入観に依拠していると同時に、そうした先入観を拡散し、固定観念としてしまうということです。かくして、私のような素直な聞き手は、「なるほど、黒人のスポーツ選手は・・・・」と、与えられた固定観念をさらに強固にしてしまうのです。

        

 まだこの書の半分ぐらいしか読んではいないのですが、他にも面白い指摘があります。
 日本人は、これからのビジネスの社会では英語が必須だということで、それを学ぼうとする機会は増大しつつあるのですが、一方では単一民族の単一言語としての日本語(実際には、今や消滅危惧とされるアイヌ語をもっているのですが)への幻想を引きずっています。だから、日本ではバイリンガルは稀有なことで、基本的にはモノリンガルなのです。

 しかし、しかしですよ、これも目からウロコですが、世界の人口のうち70%はバイリンガル、ないしはマルチリンガルなのです。日本のような島国はともかく、世界各地の民は、歴史的な状況の変動の中で、モノリンガルでは生きてこられなかったのです。かつての植民地では、宗主国の言葉と現地の言葉は必須でしたし、また、国境がその折々の情勢で変わる地方でもそれらは必須でした。

 有名なところでは、アルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』に出てくる『最後の授業』の話もそうした一例としてよく引用されます。しかしこの話、ドイツの進出によってフランス語が奪われるという筋立てになってはいますが、実はこの地区は変動著しいものの、基本的にはドイツ語圏でその時代でも日常語はドイツ語であり、したがってドーデのようなフランス人からすれば悲劇的でも、この地区の住民にとってはほとんど痛痒はなかったといっていいのです。
 その証拠は、呑兵衛の私がいうのだから間違いありませんが、アルザスの白ワインはブドウ品種もリースリングやミュスカが主で完全にドイツワインなのです。
 
        

 あ、どんどん話が逸れてゆきますね。
 ようするに、言葉というものはまるで空気のように意識しない場合は自然に私たちをとりまいているのですが、ひとたび意識し始めると、そこには予め刷り込まれたもの、あるいはそれらの強度を補完するものなどがひしめいていて、なかなか一筋縄ではゆかないということです。
 それにしても、ボルトの「オレ」とフェルペスの「僕」の差異が与えた問題は私にとっては強烈でした。

コメント (2)
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