六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

初めての沖縄拾遺集 残された写真から

2019-11-28 02:13:50 | 旅行

 過日の初めての沖縄への旅、何回かにわたってレポートしてきましたが、その文章との関連などで載せきれなかった多くの写真があります。
 それらを以下に載せます。

 沖縄を車で案内していただいて、まず気づいたのが私が住まいする地方との植生の違いです。まずは、空港前の道路で見かけた並木が南国風で、ナンやらというヤシの一種だそうです。小さな実をつけていて、熟したものは赤く色づいていました。ヤシと聞くと食べられそうな気がするのですが、これがどうなのかはわかりません。
          

 以下は、那覇で見かけた花をつけた街路樹です。その花の拡大は下のようです。名前はわかりません。
              

          

 これはご存知ガジュマルで、あちこちで見かけました。無数の気根に取り巻かれた様相は、なんだか王者の貫禄すら感じました。
          

 下はどこかで見かけた、たぶん蘭の一種だと思います。  

          

 この幹が膨らんだバウワバブのような木もあちこちで見かけました。徳利木綿というきれいな花をつける木の幹もこんな感じでした。
              

 ブーゲンビリアンは至るところで見かけましたが、これはそれを生垣風にしつらえた家で、ひときわ目立ちました。
          

 下は辺野古漁港の近くで群生していた木の花でしょうか。潮風に強い植物なのでしょう。 

          

 平和祈念公園の庭園のリュウキュウマツの若木たちです。右からの浜風にやや傾斜しながら、どこか清々しく伸びていました。
          

 以下は街の風景です。
 那覇は、2日目の夜に泊まったのみで、あまり街を散策することもなかったのですが、想像以上に立派な街でした。ただしその郊外は、本土と同じ、大型のチェーン店やフランチャイズが並び、そこだけだと、沖縄らしさはあまり感じられませんでした。

 ただし、街なかの色彩感、街路樹、ハーレー(沖縄国時のボートレース)に使う船のオブジェ、などなどはまさに沖縄ならではのものでした。 

          

          

              

 下もやはり都市部で、沖縄市(かつてのゴザを中心とした都市)の商店街です。沖縄県第二の都市ですが、その中心部の繁華街は、やはりシャッター通り化してやや寂しいものがありました。
              

 これは初日に泊まった安田(あだ)の集落で、朝方の散歩の途中に、私たちを案内してくれたOさんの友人で、この集落に住む女性がわざわざ届けてくれた自家製のサーターアンダギーです。芭蕉の葉で作ったバッタ(巧いなぁ!)とメッセージが添えられていました。そのメッセージは以下です。
 「ありがとうございました。
  ウチナーヘマタン(?)
  イ(?)メンソーレ
  沖縄へまた次もいらっしゃいネ」
 何という粋なことをする人でしょう。

              

 そのサーターアンダギー、那覇での夜、全国歌謡コンクールで一位をとったというOさんの歌声をカラオケルームで聴きながら、泡盛やオリオンビールとともに頂きました。品の良い程よい甘さのそれは、私のような辛党の口にもピッタシ合って、美味しかったです。

          
 

 初めて食べた本場のソーキそば。スペアリブと三枚肉の両方が付き、手前は沖縄独特のやや硬めの豆腐。これが肉類と調和してとても美味しかったのです。

          
 

 空港へ向かう最後の食事もソーキそば。加えてジューシーという沖縄独自の混ぜご飯。私が作るような混ぜご飯とどこか違うのだが、それがなぜなのかはわからずじまいです。

 

           

 オリオンビールには終始お世話になりました。もちろん、こちらでも飲んだことがありますが、やはり彼の地で飲むのは味わいまで違うようです。土地と歴史が育んだアウラが加味されるからでしょう。

          
 

 最後にまた辛口の写真です。これは海の特攻隊、人間魚雷の残骸。爆弾付きのこれに乗って、相手の戦艦に体当たりですから、もちろん操縦者は生きて帰ることはできません。日本軍が、兵士を消耗品としてしか考えていなかった事実のひとつがここにあります。

          

 もう一度、辺野古の美ら海を。この向こうが埋め立てられようとしているのです。

              

 辺野古の漁港付近の岸壁に、祈るかのように並べられていた白い貝殻です。

          

 

 沖縄シリーズの私のレポートはこれで終わりです。
 長々としたものをお読みいただいた方々に感謝します。
 また改めてご案内頂いたOさん、ご同行の皿塩組に感謝いたします。
 Oさんの素敵な歌声、いまも耳に残っています。
 ニフェーデービタン!

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なんやかんやで初めての沖縄(8)沖縄戦終焉の地は美しい公園になっていた

2019-11-25 01:05:01 | 歴史を考える

 沖縄の旅も三日目、いよいよ最終行程である。
 当初からの私の希望であった沖縄平和祈念公園へと向かう。
 「記念」ではなく、「祈念」であることに注意されたい。凄惨な戦禍を経験してきて、今なお準戦場のような軍事基地が遍在する沖縄にとって、「記念」すべき「平和」などありはしない。ただただ、来たるべき平和の実現を「祈念」するのみなのだ。
 
           
            この地図の上は東であり、海岸に面した台地となっている
 

 この公園は糸満市米須霊域、ひめゆりの塔などと並んで沖縄戦跡国定公園を形成し、その中核となるものである。
 公園内の諸施設については写真を見ながら順次触れていきたい。

 なお、なぜここにこの公園があるかについては、Wikiによれば以下である。
 1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻するアメリカ軍、避難してきた一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥った。結果、狭隘な地形に敵味方が入り乱れる大混戦となり、日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了。

 ようするにこの地こそ、沖縄戦最大の激戦地であり、その終焉の地なのである。毎年、6月23日に、沖縄慰霊祭がこの地で行われるのはそうした歴史に基づく。

          
 

 ガジュマルの大木がその威容を誇る傍らの駐車場からスタートする。
 まずは、摩文仁(まぶに)の丘の沖縄戦没者墓苑に向かう。ここではその墓苑の石碑を取り巻くように、各県別の出身者のための慰霊施設が、それぞれの県の特徴をもった慰霊碑やモニュメントとして立ち並ぶ。

          

              
 

 各県のものを紹介していたらきりがないので、わが岐阜県のそれを紹介しておこう。わりとスッキリしたデザインのものである。

          
 

 ついで、毎年、慰霊祭が行われる平和の丘を中心とした式典広場へと向かう。ほとんど毎年、TVでその式典を見るのだが、近年は安倍首相の決まりきった形通りで無内容な式辞、とりわけ、従来の日本語の意味を逆転させた「沖縄県民に寄り添って」=「県民の民意を無視するばかりか、強権でもってそれを踏みにじる」に、参加の島民から激しいブーイングと「帰れ」コールが起こるに至っている。

          
 その慰霊碑の前で、持参したロウソクに火を点じ、祈りを捧げようとしたのだが、折からの浜からの風で、うまくゆかない。ここではロウソク抜きで鎮魂の祈りを捧げる。

          

          
 

 ついで向かったのは沖縄平和祈念堂。ここでは堂の前の手水鉢風のモニュメントにロウソクを立てることができた。

          
 なお、この祈念堂の傍らには、当時の朝鮮半島から動員された人や在日の人たちのための韓国人慰霊塔があり、韓国旗がはためいていた。

          
 

 祈念堂と韓国ゾーンを隔てる辺りには、色とりどりの花が咲き乱れ、アオスジアゲハが数頭、ヒレホロと舞い遊んでいた。

          

 次は、公園の東端、陽光にきらめく海を見渡せる場所にある平和の火を扇状に囲むように設置された「平和の礎」へと向かう。

          
 

 ここには、沖縄戦などで亡くなった人々、国籍や軍人、民間人の区別なく、すべての人々の氏名を刻印した黒い花崗岩の石版が、屏風のように立ち並んでいる。

          
 

 そこに刻まれた人の数は25万人弱で、今なお、新たに判明した分が追加刻印されているとのことである。

          
 

 沖縄県人の箇所には、当然のことながら、沖縄独自の姓がずらりと並び、ここがまさに戦場であったことが忍ばれる。

          

          

 米兵のそれ、朝鮮半島の人々のそれもある。
 案内してくださった沖縄在住のOさんが、検索をしたらご自分の親戚筋に当たる方の銘があったといってその箇所に案内してくれた。

          

 最後に向かったのが、沖縄県平和祈念資料館。
 弧を描くような建物なのだが、その屋根の部分が、沖縄風の赤瓦で葺かれているのが美しい。

              

              
 

 なかには、沖縄戦の模様などを遺留品や証言、映像などで紹介する常設展示場があり、戦中戦後の沖縄の歴史を具体的に知るための貴重な資料集といえる。
 なお、常設展の他に、折々の企画展もあり、写真に収めたのは、鉄の造形作家・武田美通氏の「戦死者たちからのメッセージ」という、まさにそれをズバリ表現した展示作品のうちの一部である。

          

              
 

 この資料館には展望塔があって、そこからは公園全体はむろん、この東岸を洗う美ら海が遠望できる。

          

          
 

 こんなに平和で美しすぎるようなまさにこの地が、血で血を洗う戦場であったこと、そして無数の屍が横たわった場所だとはにわかには信じがたいほどである。
 しかし、まさにそれが歴史の現実であったし、基地の島・沖縄は、いまなおその歴史をひきずり、軍事の要点であることから免れてはいない。

 沖縄の戦後は終わってはいない。そればかりか、新たな基地すら押し付けられようとしているのだ。

          

          

          
 

 公園内には、修学旅行と思われる学生たちのグループが散見できた。
 若者たちよ、ここで見たり体験したことを決して忘れることなく、この悲劇の再来に最大限敏感になってほしい。それは他でもない、君たち自身の未来を平和のうちに過ごせるようにすることなのだから。

 沖縄にとっての最大の悲劇が生じた折、私はすでにこの世に生を受けていて、沖縄陥落を知っていた。そして、いよいよ本土決戦だと言い聞かされていた。
 しかし、その手前で敗戦が決した。その意味では、この私の命は、沖縄を防御の盾として永らえられたのかもしれない。
 私の沖縄への旅が、贖罪と鎮魂を含むものであらねばならないと自身に言い聞かせていたのはそれがゆえである。

          
 

 今回、沖縄訪問に際しては、その思いを汲み取ってくれ、適切な案内をしてくれた沖縄在住のOさん、それに、私の勝手な要求に理解を示し、付き合ってくれたS夫妻に心から礼をいいたい。
 さらにいい添えるなら、沖縄の風景、風物も充分楽しんだし、何よりも日頃はネット上での付き合いしかないあなたたちと、濃厚で楽しいリアルな時間を過ごせたことは望外の幸せだった。多謝あるのみだ。
 

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なんやかんやで初めての沖縄(7) 嘉手納で基地を眺望 ああ、この広大さ!

2019-11-23 01:28:35 | 旅行

 沖縄を車でゆくと、当然ながらここは基地、そこは基地といった具合に米軍基地に行き当たる。日本全国の米軍基地の70%がここにあるからで、その面積比は、沖縄本島の15%に至るという。
 東京都全体を沖縄県とすると、その23区のうち13区が米軍基地という割合になる。 

          
 

 しかし、これら広大な基地も、長ったらしいフェンスで仕切られているのみで、その向こうの様子はなかなか窺えない。
 そこで、嘉手納(かでな)基地を一望に収める箇所があるというのでそこへ案内してもらう。

 嘉手納は野國總管という人が1605年に甘藷を中国から沖縄に持ち帰って広げたとのことで「おいものふるさと」と言われている。青木昆陽が日本にサツマイモを普及させたという史実を100年以上遡る。

              
 

 「道の駅かでな」で愛嬌のある看板の写真を撮ったが、この右上にかすかに見えるフェンスの向こうはもう米軍の基地である。そして、基地が一望できる箇所というのは、この道の駅の屋上テラスのことであった。

 そこへ登る。広い、とにかく広い。それはそうだろう、小さな市町村ならすっぽりと収まってしまう広さなのだから。
 Wikiによれば、以下のようである。

 「総面積は、約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、約100機の軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。また、在日空軍最大の基地である。滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになる。面積においても、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。」

          

          

 テラスから写真を撮ろうとして、2,3回シャッターを押したが、とてもその広さを実感できる映像は撮れない。そこで急遽、慣れない動画に切り替えて撮ってみる。その広さが伝わるだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=MgTUYb1Ofa0
 

 しかし、これはこの基地の飛行場の部分に過ぎない。この映像の下側の道路左手の両側には、諸管理部門、兵舎、居住エリア、学校、教会などなどがさらに広がり、ゆうに一つの街を形成している。

 道の駅を出て県道74号線を走ったが、両側がアメリカの基地であり、陸橋、地下道などが頻繁に両側を結び、その間の道路を走る私たちが、基地の中を肩をすぼめて通らせてもらっている情けない気分になる。

 これだけ見ても、沖縄が過重な基地負担を強いられていることがよくわかる。それを無視し、その上にさらに負担を強いるのが辺野古であることもよくわかる。

 沖縄は基地のおかげで成り立っているという俗説を信じている人たちに言いたい。それは事後的にそうさせられたのであって、先に見たように、東京都の15%が米軍基地であったとしたら、東京都民は誰一人それと関わりなく生きてゆくのだろうか。いや、ゆけるのだろうか。よく胸に手を当てて考えてほしい。

 

 

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なんやかんやで初めての沖縄(6) チビチリガマ 集団自決の悲劇

2019-11-22 15:57:05 | 歴史を考える

 勝手にそれは、海辺にあるとばかり思い込んでいたがそうではなかった。とはいえ、読谷村は波平集落、海からは数百mの箇所だから、まんざら間違いではない。駐車スペースの周りは、ザワワ、ザワワのサトウキビ畑であった。

          
 

 ついでながら、機械化不可能で労働集約性が高く、収益も少ないサトウキビ生産は減少しつつあると聞いていたが、本島の中部南部ではけっこう目にする風景であった。
 そこで車を降りて、少し急な階段を下ると、やや陰鬱な窪地の底へと至る。陰鬱な印象は、折からの好天にも関わらずここへはその陽光が届かず、私たち以外人影がなかったことにもよる。

          
 

 その窪地の一隅に穿たれた洞窟がチビチリガマであった。
 1944年末から始まったこの地区への空爆は45年の春先、つまり米軍による上陸を控え、一段と激しくなった。このチビチリガマは、波平集落の人たちの集団防空壕であった。
 
 確かに、爆弾から身を守るには適した場所ではあった。しかし、4月1日は空爆ではなかった。アメリカ軍が上陸したのだった。そして米軍はこのガマへやってきた。
 米軍は投降を勧めたが、「鬼畜米英」を叩き込まれ、「虜囚の辱めを受けるなかれ」(捕虜になるくらいなら死ね)と教えられていた島民たちはそれを拒否し、先鋭的な部分が竹槍をかざして「殺せ」「やっつけろ」「天皇陛下万歳」と口々に叫び米軍に襲いかかったが、たちまちにして銃撃された。

          
 

 米軍はその日の説得を諦め、食料品や投降をすすめるビラをガマの前において立ち去った。
 翌2日についてはWikiによればこんな具合だった。
 「午前8時頃に再びアメリカ兵が来て、ガマから出るよう呼びかけるが、元日本兵の『出て行けば殺される』という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。その後、娘から「殺して」と頼まれた一人の母親が、娘の首を包丁で刺した後、続いて息子を包丁で刺すと、自決する者が続出し、元日本兵が再び火を付けると、炎と煙がガマ内に充満した。煙で苦しむよりはアメリカ兵に撃たれて楽に死のうと考えた者はガマの外に出たことで助かり、都屋(読谷村の一つの字)の収容所に移送された」

              
 

 チビチリガマにいたのは139名だったが、自決者数は82名(85名説も)にのぼり、その過半数は子供だったという。

          
 

 一方、チビチリガマから数百メートル離れたシムクガマでも同様の展開があって、あわや竹槍をもっての玉砕戦法かあるいは集団自決かの寸前まで行ったが、かつてハワイへの移民経験がある住人が米軍と交渉し、抵抗しない限りその安全を保証するとの確認を取り付け、その結果、1,000名余の人命が救われたという。
 この事例は対象的である。チビチリガマでは、大日本帝国の偏見と人命軽視の命令をリセットする機会を得ないまま、無駄に命を捨てさせられたということになる。

          
 

 私たちは、チビチリガマの前で、持参したロウソクを灯し、しばし鎮魂の祈りを捧げた(下の写真の右下方がそのロウソク)。

          
 

 これについては思い出す類似のシーンがあった。
 ちょうど8年前の秋、現地で暮らし、すぐる日中戦争体験者の聞き取り調査を行っていた友人のOさんの案内で、中国は山西省、村人たちがヤオトンという横穴式の住居で暮らす賀家湾村を訪れたときのことである。
 ここは日本軍のいわゆる三光作戦(奪い尽くせ、焼き尽くせ、殺し尽くせ)が展開された地で、やはり大規模な集団虐殺が行われた箇所があるというので、そこへでかけたのであった。

          
 

 そこはけっこう大きめなヤオトンで、その奥には更に洞窟が続いていて、日本軍が来たというので273名の村人がこの場所に隠れたという。悲劇は1943年の12月19日から20日にかけて起きた。

 そこを嗅ぎつけた日本軍は、ヤオトンの入り口に石炭の塊を積んで(このあたりは石炭の産地でもある)、収穫後の綿の木を積み上げ、さらに大量の唐辛子(どこの家にもたくさん吊るしてある)を乗せて火を放ったというのだ。
 日本軍が去ったあと、他のところに隠れていた村人が駆けつけたのだが、結果として273名全員が燻し殺されていて、その遺体は見るも無残で、近親者すら恐れをなして近づけなかったほどだという。

          


 そのヤオトンの前でも私たち同行者は、ロウソクと線香を立てて鎮魂の祈りを捧げた。

 そして今回のチビチリガマ、戦争というものはかくも類似の悲劇を生み出すものであることがよく分かる。

 ガマを離れて駐車場に戻ると、その周辺のサトウキビ畑が、南国の日差しの中に輝き、「命どぅ宝」とささやきあっているようだった。

            

 

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なんやかんやで初めての沖縄(5) 戦争のために殺される美ら海・辺野古

2019-11-20 15:35:08 | 歴史を考える

 沖縄の海は、これまで私が見てきたものとは明らかに違っていた。
 海岸からしばらくは透明感のある水色が沖に向かって広がり、なにがしかの箇所でそれが深いマリンブルーに変わる。そして、その境界線には、白波が立つのが見える。
 この白波こそ、手前のサンゴ礁と外海とを隔つボーダーラインなのである。
 そのコントラストの鮮やかな美しさ、沖縄の人たちがこれを美ら海(ちゅらうみ)として誇りに思うのもむべなるかなである。

          
 訪れた辺野古の海は、そうした美ら海中の美ら海といっていいほど美しかった。
 それを目撃した途端、私には、この辺野古での基地闘争の本質がわかったと思った。それは、この美ら海が、人類が生み出したもっとも醜く悲惨な戦争という目的のために無きものにされようとしているということだ。
 政治、経済、軍事とさまざまな屁理屈が流通している。しかし、その本質は、この美ら海が戦争のためのあの無機的で醜悪な構造、V字型の二本の滑走路に置き換えられようとしているということだ。
 短縮していえばこうだ。美ら海vs戦争。
 この美しい海と戦争ないしは戦争への準備とどちらをとるのか・・・・。

          

          

          

              
 

 まずはキャンプ・シュワブのメインゲート前のテント村へ行く。その前の道路を挟んで向こう側は沖縄であって沖縄ではない米軍の統治区域、日米地位協定によって、日本の統治が及ばない治外法権地区である。
 この日は、ここで座り込みが始まってから1954日目。
 活動家の男性の話を聞く。内容についてはニュースや出発前の予習と重複するが、それでもこの地で改めて聞くと、その臨場感のようなものが胸に迫る。「そしてあそこが・・・・」と指差す先にまさにそれがあるのだから。
 話を聞いているさなかも、米軍の車両がわがもの顔に行き来する。

          

          

          

          
 

 午後三時、第三ゲートから埋め立て物資が搬出入されるというので、テント村の住人たちはそちらへ抗議に向かう。
 私たちは時間の関係もあって、1kmほど離れた辺野古川河口近くの辺野古漁港付近にある浜テント村へと向かう。ここは、辺野古でのの抗議活動のもう一つの拠点で、TVの報道などで知られた、小型ボートによる海上からの抗議活動の基地である。海上保安庁の船舶による暴力的な排除で、ずぶ濡れになりながら抗議を続ける人々の映像が目に浮かぶ。
 ここでは、年配の女性の方の説明を聞く。

          

          

          

          

 そしてこの地点からは、今まさに埋め立てが行われつつあるのを目視することができる。真新しいテトラポットが並ぶ向こう側に伸びる柿色の海上フェンス、その辺りで大型のクレーンがせわしなく動き回っている。
 珊瑚がきらめく美ら海を殺しつつある現場だ。

          

              

          
 

 それにしても、この辺野古漁港近辺の海は素晴らしい。珊瑚礁で一度せき止められた波は、サラサラと穏やかに浜に打ち寄せ、その砂地には、名も知らぬ小魚たちが群れ泳ぐ。

 港の防波堤の先には、こんもりとした小島があって、その頂上には海運や漁業の安全を祈る祠や鳥居が鎮座している。
 そのどこもがすばらしいロケーションである。

 しかし、まさにこの場所で、戦争という愚行のために、それらを殺す犯行が進行しつつあるのだ。
 まだ間に合う。この愚行は避けなければならない。

 

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なんやかんやで初めての沖縄(4) 南国の花園と伊江島の悲劇

2019-11-18 14:03:04 | 旅行

 この沖縄訪問記を記し始めた折、私のこだわりとして、贖罪と鎮魂を抜きにした訪問はありえないと書いた。
 しかし、過去三回、それらしい記述はなく、やはり単なる物見遊山ではないかとお叱りを被るかもしれない。もっともである。
 その理由は、今回、案内していただいたコースが、まず一旦北上し、それから南下するコースをたどったからである。つまり、沖縄戦で相対的により激戦地区であったし、いまなお米軍基地などが集中している中部や南部は後半の日程になったからである。

          

              

          

          

 北部で最後に訪れたのは、1975~76年にかけて行われた沖縄国際海洋博跡地に作られた海洋博公園の一角にある「熱帯ドリームセンター」、ようするに南国ならではの熱帯植物園である。
 入ってすぐの庭園には、色とりどりのブーゲンビリアンやハイビスカスが咲き乱れ、この島が年中、花の途切れることのないフラワー王国であることを示している。

          

          

          
 

 いくつかの温室には、これまで観たこともない植物群、パンの実やカカオの実なども観られ、ロータス・ポンドには大型の睡蓮や、子どもが乗れるというオオオニバスの葉がどっしりと鎮座している。
 水中には何やら黒っぽいしなやかな魚影が。瞬間、ナマズかなと思ったが、それにしてはいくぶんスマートだ。どうやらブラックアロワナの群れらしい。

          

          

          
 

 ところで、この植物園からは、ここへ至る道中、車窓から見え隠れしていた伊江島がとても良く見える。
 島の中央付近には、この島のランドマークともいえる、仏骨を収めた仏舎利塔のような岩山(城山=「ぐすやま」と読む 標高172m)がそびえ、それを中心に平坦な地形がみてとれる。実は、その平坦さが災いして、この島の第一の悲劇が訪れる。

          


 1945年の3月から始まった米軍の沖縄上陸戦は、まず沖縄全島の中央部を確保し、そこから南北へ進攻したのであったが、この伊江島は、北部に属しながら、米軍の激しい上陸作戦にさらされることとなる。それは、この島の平坦な地形を利用して、日本軍が飛行場を設置していたからであ理、米軍としてもそれを抑えたかったからである。
 米軍の進攻は熾烈を極めた。日本軍は女性をも含めた住民たちを戦力に加え、圧倒的に不利なうちにありながら投降を許さず、無謀な突撃を強いたり、自決を強要したりした。
 その結果、沖縄全島では、四人に一人が亡くなるというそれだけでも充分すぎる被害のなか、この島では二人に一人、つまり、半分の住民が犠牲になったという。北部ではもっとも悲惨をなめたところといっていい。

 その後、この島の半分は米軍による基地として接収されることになるが、現在でもなお、35%が米軍の支配下にある。

          
 私がこの島に関心をもったのは、実はこの島の悲劇はこれで終わらず、さらに過酷な追い撃ちに晒されたことにある。
 日本の敗戦から三年後の1948年8月6日、伊江島の波止場で、砲弾約5,000発を積載した米軍の弾薬輸送船が接岸時に大爆発事故を起こした。運悪く同時刻には、沖縄本島と結ぶ連絡船が入港したところで、その船がその爆発事故に巻き込まれ、死者107人、負傷者70人という大惨事をみるに至った。
 これがこの島を襲った第二の悲劇であった。

 私がいたたまれなく思うのは、三年前のあの凄惨な戦いで、やっと生き延びた人々が、この悲惨な事故に巻き込まれたという事実である。無念ではないか。
 戦争と基地、これは沖縄を読み解くキーワードでもある。まさにそれが示すところによって、この島の住人たちは度重なる悲惨に直面しなければならなかったのであった。
 
 出かける前からこの島の悲劇を知っていたせいもあって、どこかでゆっくりとこの島と対面し、鎮魂の思いを捧げたいと思っていたのだが、その思いが叶えられたのが、熱帯植物園内に設えられた展望台からであった。

          
              これは伊江島から逆方向、瀬底島へかかる瀬底大橋

 みはるかす海原は、折からの好天でどこまでも青く輝き、平和そのものであった。しかし、その水面下に、かつての悲劇は確実に横たわっていたし、そして今なお、悲劇の予兆から完全に逃れられないのが沖縄の今日の実情なのである。

 次回はいよいよ辺野古への訪問である。

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記念ガラ・コンサートは赤ワイン付きで・・・・@岐阜サラマンカホール

2019-11-17 15:25:30 | 音楽を聴く

 岐阜サラマンカホール会館25周年記念 ガラ・コンサートにいってきた。
 25年前というと、まだ居酒屋稼業に追われていて、コンサートもままならなかったが、リタイヤーして即、サラマンカメイトに入ってから20年近くになる。そして、私が最も多くのライブ・コンサートを聴いたホールでもある。

   
 

 そのお祝いのようなコンサート、これは是が非でも行かずばなるまいということで、この日、重複した名古屋での、やはりクラシック関連の例会を欠席して、でかけた。
 そうした祝祭気分もあってか、通常のコンサートよりも晴れ着姿の聴衆が多かった。私はいつものドブネズミスタイルのまま。

           
 

 岐阜に工房を構えていたパイプオルガンの世界的な製作者・辻宏氏が、スペイン最古の大学都市、サラマンカにある大聖堂の、もう何年も演奏不可能だったオルガン「天使の歌声」の修復に尽力したことから生まれたサラマンカと岐阜との関係、それがサラマンカホールの由来だ。
 このホールのホワイエを飾るレリーフは、そのサラマンカ大聖堂のもののレプリカである。

           

           
 

 だから、このホールも立派なパイプオルガンをもっている。このオルガン、表面からはそれとわからないが、2,997本の大小のパイプからなっている。ちょっと中途半端な数のようにも思えるが、オルガンの上部を飾る三人の天使が吹いてる笛を加えて3,000本のパイプになるという。

 出演者や演奏曲目は下に載せるが、長年ウィンフィルのコンマスを努めたライナー・キュッヒルを始め、フルートの工藤重典、ピアノの仲道郁代、ギターの荘村清志を含めたソリスト9名に加えて、この地で活躍する若い音楽家で構成された12名による「サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ(弦楽オケ)」による演奏は、どれも奏者の蓄積した技巧を最大限に発揮したもので、ただただ楽しい演奏会というほかはなかった。

 最後の「天国と地獄・序曲」は、上に挙げた全員の参加によるものだが、そのどこかで、それぞれのソリストをクローズアップするように編曲されたもので、ジャズのコンサートなら、リーダーが演奏者の名前を改めてコールするような雰囲気であった。
 曲の終盤には、「ラデツキー」のように、客席から手拍子が起き、演奏終了後はスタンディング・オベーションと歓声が起こっていた。

              

 祝祭気分に華を添えたのは、演奏前や休憩中に振る舞われたスペインはサラマンカ近くのワイナリーで醸された赤ワイン(飲めない人にはジュースなど)だった。
 何を隠そうこの私、それ目当てに、いつもは車で出かけるのを、公共交通機関にしたのだった。
 ワインは、サラマンカ近郷特有のぶどう種・ルフェテとスペイン赤ワインの普遍的な品種・テンプラニーリョのブレンドで、スッキリしたフルーティな味わいの後に、豊かな残響が口腔に残るといった感の美味しさだった。

 こうした振る舞いワインの他に、一本3,000円で販売していて、けっこう売れているようだった。ちょっと食指が動いたが、考えてみたら、酒量が落ちた今、月極めでとっているテーブルワイン(ボルドーが主)が、飲みきれないまま、ワインセラーの中に眠っているではないか。ということで諦めた。

               
 なお、サラマンカホールでは、この25周年を契機に名古屋の篤志家から寄贈された40挺の弦楽器(ヴァイオリン22、ヴィオラ10、チェロ8)の名器を、「清流コレクション」と名付け、音楽を学ぶ若者たちに無償で貸与する事業を始めたという。名付けてSTROAN(ぎふ弦楽器貸与プロジェクト)。
 これらの楽器の大半は、イタリアのパルマ、クレモナ、プレシア、マントヴァなどで製造されたもので、弦楽器の名器を世に送り出した地区のものである。

           

 これはとてこ良いプロジェクトだと思う。無名のうちに音楽を学び続ける若者にとって、然るべき楽器を手にすることはさらにそのリスクを高めるであろう。それを側面からこうした形で支援することは、次世代の音楽家を育てるためにとても有効だろうと思う。

 それやこれやで、コンサートの残響と、口腔に残るワインの残り香を反芻しながら心地よく家路についたのだった。終演時間を30分オーバーする熱のこもったコンサートであった。
 

【演奏曲目と演奏者は以下の通り】

*R.ジャゾット:アルビノーニのアダージョ
  フルート/工藤重典 オルガン/石丸由佳
*クララ.シューマン:3つのロマンス 作品22
  ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル ピアノ/仲道郁代
*ベートーヴェン:モーツァルト「魔笛」の主題による12の変奏曲 作品66
  チェロ/へーデンボルク直樹 ピアノ/仲道郁代
*L.ボッケリーニ/J.ブリーム:序奏とファンダンゴ
  ギター/荘村清志 チェンバロ/曽根麻矢子
*ヴィヴァルディ:チェロ・ソナタ 第5番 ホ短調
  チェロ/新倉瞳 チェンバロ/曽根麻矢子
*ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53 「英雄」
  ピアノ/仲道郁代
*ボルヌ:カルメン幻想曲
  フルート/工藤重典 ギター/荘村清志
*J.シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」
  ピアノ・トリオ形式 ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル チェロ/へーデンボルク直樹 ピアノ/へーデンボルク洋

  休憩
 
*J.ウィリアムズ:スター・ウォーズ・メドレー
  オルガン/石丸由佳
*A.ヴィヴァルディ:「四季」 作品8-3 ヘ長調 "秋" RV.293
  ヴァイオリン/ライナー・キュッヒル チェンバロ/曽根麻矢子
  弦楽合奏/サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*A.ヴィヴァルディ:2つのチェロのための協奏曲 ト短調 RV.531
  チェロ/へーデンボルク直樹 新倉瞳 チェンバロ/曽根麻矢子
  弦楽合奏/サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*F.ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 第2楽章「ロマンス」
  室内楽版 ピアノ/仲道郁代 サラマンカホール・フェスティバル・オーケストラ
*J.オッフェンバック/倉知竜也編曲:喜歌劇「天国と地獄」序曲
  全員合奏

  《アンコール》エルガー 威風堂々 全員合奏

 なお、岐阜つながりでいえば、荘村清志は岐阜出身 へーデンボルク兄弟は大垣藩10万石の城主、戸田家の末裔、その4代前の戸田家夫人は、ブラームスに所望されて、その眼前で琴を奏でたことがあるという。

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なんやかんやで初めての沖縄 ヤンバルクイナ・隔離の痕跡・沖縄の松並木

2019-11-16 01:12:28 | 旅行

 沖縄へ来て、まず最初にやってきたのがヤンバル(山原)地区、ここに来てこれを見逃して帰る手はない。
 ヤンバルクイナ(山原水鶏)のことである。
 たしかに昨夜、そして朝方も、民宿でそのさえずりを聞いた。自分の縄張りを宣言しているのだという。しかし、その容姿は想像する以外なかった。

          


 安田の集落を散歩している折も、気をつけていたのだが、それらしい姿は見えなかった。彼らの天敵はカラスで、カラスが活躍する時間帯にはあまり姿を見せないのだという。

          
 

 しからばということで、人工飼育し、一般にも公開しているヤンバルクイナ生態展示学習施設「安田くいなふれあい公園」へ案内してもらう。

          
 1981年に「初めて」発見されたというこの新種の鳥は、アメリカ大陸に初めて足を踏み入れた人間がコロンブスではなかったように、地元の人達には昔から知られていて、アガチー(「せかせか歩く」の意)、ヤマドゥイ(山鳥の意)などの名で呼ばれていた。そればかりか、貴重なタンパク源として食用にも供されていたという。ほとんど飛べない彼らは、捕獲しやすかったのだろう。

          
 もちろん今や、「ヤンバルクイナの焼鳥」などは質の悪い冗談で、誰もそんなことはしない。それどころか地域全体でその保護に努めている。
 この鳥は、「発見」当初から絶滅危惧種で、その後の環境の悪化、飛べないで地上を歩くための交通事故などで減少し続け、当初の推定、1,800羽から一時は700羽ほどまでになってしまったが、地域一帯の努力が実って、現在は1,500羽ぐらいに回復してきたといわれる。

          
 

 さて、その「ふれあい公園」でのご対面なのだが、入館料を払ってその部屋に至ると、ガラスで仕切られた向こうには、自然光を取り入れ、一見、ヤンバルの里山を模した起伏があり水たまりもある100平米ほどの空間が広がっている。
 ただし、どこにも動くものの気配はない。せっかく来たのに逢えないのではないかという不安がよぎる。しかし、解説の女性がいうには、「いや、きっと出てきます。それどころか、カメラ目線でポーズまでとりますよ」とのこと。

          
 

 しばらくすると、茂みの奥で何やら動くものが・・・・。そしてついにそれは姿を現した。彼、クー太(彼は2代目、初代はキョンキョン)は、鳥類独自のチョコマカした動きながら、私たちを恐れる様子はまったくなく、ガラスの向こう、私から数十センチの距離を通ったりする。
 水飲み場では、しばしポーズとも思える動きをする。

          
                 それでは皆さん さようなら
 
 私が想像していたよりは一回りほど大きい。そして、嘴と脚の朱色が鮮やかである。
 出ずっぱりでは飽きられると思ったのか、時折、茂みの中に姿を隠し、しばらく出てこない。なかなかの役者だ。
 かくして、数回のワンマン(ワンバード)ショウが終わった。一羽では可愛そうでツガイにと思うのだが、相性やら何やら、けっこう難しいということだった。

          

 次に立ち寄ったのは、沖縄でのハンセン病患者の隔離、というか棄民をあらわす記念碑で、彼らは一時は、水もない無人島に追いやられたのであった。その後、よりマシなところへ移動させられるのだが、そこは水が豊かで「地上の天国」だったという。
 しかし、ハンセン病に対するいわれなき偏見と差別が、彼らを隔離したという事実を知っている私たちからみると、その「地上の天国」がなおかつ「隔離」の場所であったことに感慨を覚えずにはいられない。
 この碑の建立は1976年、今なら、もっと違う文言になっていたかもしれない。

              

          
 

 最後は、一見、松並木にみえる「今帰仁村仲原馬場跡」。両脇に残る琉球松の樹齢は200年といわれる。なお、松と沖縄とはそぐわないのではという先入観があったが、リュウキュウマツというこの地に根付いた松は、けっこうあちこちで目にした。 

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なんやかんやで初めての沖縄 第二日 安田(あだ)集落の朝

2019-11-14 17:46:47 | 旅行

 

 11月11日は中国の影響で「独身の日」とかいうのだそうだ。どこで調べたのか連れ合いを亡くした私のもとに、「独身の日特別セール」と銘打った広告メールがやってきたりする。
 その日の朝、沖縄は安田の集落の民宿で目覚めた。6時!日頃不健康な生活をしているせいで、こんな時間に起きて動き回ることはめったにない。

 朝食前の散歩に出かける。昨日も書いたが、経度の関係で夜明けも遅い。まだ暗いままだ。それでも、昨夜漆黒の闇の中に到着した頃に比べると、かすかながら集落の全体像が浮かび上がってくる。

 民宿の前の川(安田川)に沿って下ると、河口まではものの数分で、その辺まで来るとまだ仄暗い橋の上に地元の人が何かを待っている。日の出だ。今日は6時45分だという。

          

          
 

 空が白み始める。河口に伸びた防波堤がくっきりしてきて、その向こうにある無人島(安田ヶ島)も次第にその姿を鮮明に見せ始める。

          

          

          
 

 その後、明るさがより強かった一角から、パッと赤い光が弾け、誰からともなく「出たっ!」という言葉が。
 急いでシャッターを押す。最初、一点だった光が次第にその領分を広げ、それが紛れもない球体の部分であることを示し始める。そしてやがて、それがテイクオフし、球体全体が空の住人となって浮かびあがる。

 昨夕の夕日といい、この日の出といい、我ら宇宙の子という体験をその光とともに全身に浴びる時間をもったのが、この沖縄の地であることをしばし思った。

          
 

 朝食のために宿へ戻る。昨夜は暗くて気づかなかったが、宿の前の川の向こう岸はマングローブの林であった。生で観る初めてのマングローブ体験。時折、川面に波紋を描いて小魚がジャンプしたりするのも風情がある。

 朝食は質素ながらもやはりこの地の味わいがあって美味しかった。写真を撮り忘れた。

 食後、今度は腹ごなしに集落内部を散策。
 白っぽいセメント瓦の家、それを守護するシーサー、南国特有の植物たち。気根をいっぱいぶら下げたガジュマル、根本が何本かに分かれるタコの木、そして南国らしい強い色彩の葉をもつもの、もちろん、ブーゲンビリアンやハイビスカスの仲間たちの花々もここぞと咲き誇っていて、自分の住んでいる地区との季節感のズレ、植生の違いに戸惑うほどだ。

          

          

              

          

              

              

              


 安田の集落はおよそ100世帯で人口は300人を切るという。かつては小・中学校があったが、いまは中学生はスクールバスで他の地へ通い、残された小学校も全校生徒数9人で、まったく生徒がいない学年もあると聞いた。

          

          

          

          

 その辺をそぞろ歩いていて、出会った集落の人に挨拶をすると、気持ちよく受け答えてくれて、いろいろ説明してくれ、おまけに自宅の庭を開放して見せてくれたりする。

 手造りのシーサーがあるお宅では、自分の庭を案内してくれたばかりか、ふと目を止めた柑橘類、シークヮーサーをいくらでもあるから持ってけと、帰りの荷物が重くなるのではと心配するぐらいどんどん詰め込んでくれた。

          

           

                

 この酸味のある果汁を刺し身や焼き魚に使用すると美味いとのことだが、それももちろん、焼酎の水割り、お湯割り用という手もある。見た目はゴワゴワした感じのこの果実、皮がきわめて薄く、そのぶん、果汁がたっぷり詰まっている。

 一通り観て宿へ帰る。そして精算。なんと一泊二食付きで5,000円ポッキリ。昨夜の差し入れのビール代も、もちろんサービス。
 礼に礼を重ねてこの地を後にする。

              
 

 さあ、いよいよ南下しながらの旅だ。
 スッキリと晴れ上がった日差しのなかで、マングローブの林が美しく水面に映り込んでいた。

【おまけ】この地区では「安田(あだ)のシヌグ」といって、国の重要無形民俗文化財に指定されているこんな面白そうなまつりがあるようだ。毎年、旧暦7月の最初の亥(い)の日から二日間とのこと。
   https://www.youtube.com/watch?v=EfXXjDCXaJw
  (冒頭にCMなどが付いていますからそれはスキップしてご覧ください)


 

 

 

 

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なんやかんやで初めての沖縄 第一日

2019-11-13 16:36:00 | 旅行

 

 なまじっか沖縄の凄惨な歴史を戦前から知っていただけに、一度は行きたいけれど、なかなか物見遊山気分で行けない屈折した私がいた。
 そんな私を理解した上で同行してくれる友人夫妻、それに、彼の地で案内をかって出てくれた友人に恵まれ、やっと実現した旅だった。

              
 初日は、空港からどんどん北上して、ヤンバル(山原)地区の国頭村にある民宿を目指す。

              
 沖縄で最初に撮った写真。戦後の占領期の雰囲気を今に留めるバーガー屋さん。バーガーというものを口にしたことがないので詳しくはわからないが、ここはドライブスルーともまた違い、駐車場に備え付けのボードに注文を打ち込むと、音声で確認が返ってきて、それが成立するとまもなく店員さんが注文した品を車まで運んでくれる。
 そこで食べるもよし、そのままテイクアウトもよしというスタイル。店内飲食ももちろんあるが、駐車場での購入方式は消費税が8%なのだろう。

                   

          

 ピンクの妖艶な花は、徳利木綿(とっくりきわた)といい、幹がバオバブのように徳利型で、花が落ちて実になると、なかが綿状であることからきた名前だという。以後、ところどころで目撃した。

          

              

          
 経度の違いで日没が遅いのだが、それでもそこそこ黄昏れてきて、海に落ちる夕日を目撃する。海面を染めてその赤色を強め、やがて、薄ぼんやりした闇へと誘うこんな夕日は、海無し県の岐阜では決してお目にかかれないものだ。

          

          
 やがて、日もとっぷり暮れた頃、峠を越えて目的の集落・安田(あだ)の民宿へ到着。
 民宿も今やホテル顔負けのものもあると聞くが、ここはいろいろな意味で由緒正しい「The 民宿」といった感が濃厚である。

          

          

          
 その一つが、酒類は客が勝手に持ち込むのがルールで、宿には置いていないということ。それを知らず、何も持ってゆかなかった私たちのために、宿の主人がオリオンビール二缶を差し入れてくれた。
 夕餉は写真通りで、みたとこ質素だが、刺身の鮮度は抜群で、煮魚の大きさも半端ではない。魚は二種類あって(その統一感のなさも面白い)、私が食べた赤い魚は通称オジサンというらしい。髭があるからということらしいが、それもホントかどうかわからない。
 もう一方の魚の名前も聞いたが、忘れてしまった。
 白身系だがどこかほんのり南国の魚といった味わいがあって、それが甘辛系の煮汁と調和していて美味かった。
 小鉢の煮物なども未経験の美味しさだった。

 食後のおしゃべりのうちに第一日は無事終了。酒類がやや足らなかったが、それもご愛嬌。
 さあ、明日から南下しながらの多彩な旅が始まるぞ!

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